栗本丹洲 魚譜 ガンギ (コモンカスベの♂一個体の背部と腹部)
[やぶちゃん注:「ガンギ」と称する同一個体の背部と腹部の左右対称図。図版は国立国会図書館デジタルコレクションの「魚譜」からトリミングした。頭部の突出した尖端が切れているのが実に惜しいが、同一個体をこうした正対称形で並べたのは画期的である背部。]
□翻刻1(一行字数を一致させたそのまま。【伸】は「見せケチ」と思われるものをかく示した。この「剛」の左部分には濁点のような記号も附されている(再現し難いので、再現していない)。これを私は「見せケチ」の符号と見た)
ガンギ
癸未四月十一日に一魚肆ヨリ出ス肉至テ薄ク下品ノモノナリ尾ニ傍テ
別ニ長キ棒ノ如キモノ二 本出直ニ尾ヲ挾ミテアリコヽニ尾ヲ屈テ図タル
ヨリ傍ノ兩尾モ開キ テ図シヌ全ク生物ハ剛【伸】直ナルモノナリ
同右 腹一靣ニ白シ但鼠色ニ乄白点アリ漁人云
雄ナルモノ三尾雌ナルモノ一尾アリトコヽニ図スルモノハ其雄
ナルモノナリ此モノ肉ナリ 味至テ美ナラズ
賤民コレヲ食トス
[やぶちゃん注:以下の右体盤下方に書かれた二行は、墨色が有意に薄いところから見て、後から加筆・添書きされたものと私は推定する。但し、意味は「賤民コレヲ食トス」に追加したものとして捉えておく。]
前圖ニ比スレハ
至テ下品ナリ
魚肆云ガンギヱイ相州
二タ町家邉ヨリ多ク來ル
マガンギ背灰イロ
又鼠色ナリ
黒ガンギアリ
背ノ色
黒シ
□翻刻2(字を同ポイントとし、約物を正字化し、一部のカタカナをひらがなに代え、句読点・記号を打ち、推定で送り仮名等を送って、一部を連続させた。一部に推定で読みを( )で附した。「1」で「見せケチ」と判断した箇所は「剛」の代わりに「伸」とした)
「ガンギ」 癸未(みづのとひつじ)四月十一日に、一魚肆(うをみせ)より出だす。肉、至つて薄く、下品のものなり。尾に傍(そ)ふて別に長き棒の如きもの、二本、出で、直(ただち)に尾を挾みて、あり。ここに尾を屈(かが)めて図(ず)したりより、傍(かたがら)の兩尾も開きて図しぬ。全く、生物(いきもの)は伸直(しんちよく)なるものなり。
同右 腹、一靣(いちめん)に白し。但し、鼠色にして白点あり。漁人、云(いは)く、「雄なるもの、三尾、雌なるもの、一尾あり。」と。ここに図するものは、其の雄なるものなり。此のもの、肉なり、味、至つて美ならず。賤民、これを食とす。前圖に比すれば、至つて下品なり。
魚肆(うをみせ)云(いは)く、「『ガンギヱイ』は相州二タ町家(ふたまちや)邉りより、多く來たる。『マガンギ』は、背、灰いろ、又、鼠色なり。『黒ガンギ』あり、背ノ色、黒し。」と。
[やぶちゃん注:切れているが、吻の軟骨が有意に突出していること、背面全体に細かい茶褐色の斑が服の「小紋」のように描かれていること、背面体盤の後部の左右に特徴的な白い円紋があること、そして極めつけは、尾部に三列の肥大した棘が描かれていることから、
軟骨魚綱板鰓亜綱ガンギエイ目ガンギエイ科Rajinae
亜科コモンカスベ属コモンカスベ Okamejei kenojei の♂
としてよい(肥大棘は♀では五列もある「岩手県水産技術センターWeb」のこちらを参照されたい。これは本種の大きな特徴なのである)。「デジタルお魚図鑑」の「コモンカスベ」によれば、体は黒褐色で、左右に一対の眼よりも大きい白色の斑紋がある。頭部の先端部は半透明で、♀は孵化してから三年二ヶ月から五ヶ月ほどで性成熟する。一年に産卵する数は成熟してから三年までが六十個ほど、四年以降は二倍の百二十個ほどとされる。水深三十から百メートルの砂泥底に棲息する。主に魚類(ネズッポ・マハゼ・イカナゴなど)や甲殻類を食べるが、稀にイカ類を食べることもあるとある。
しかし、ここまでくると、丹洲は恐らく独自の驚くべき精緻な種識別能力を持っていたのではないかという感じがしてくる。背面模様や形状からは、ガンギエイ・カスベの類いは全体に似通ったところが多い一方で、同種内でも模様や細部形態に個体差が激しかったりするのに、本巻子本では先行している諸エイ類で、同じような名前をタイトルに附しながらも、私のショボい同定力を以って成したしょうもない同定でも、同一種がダブることが殆んどないからである。
・「ガンギ」くどいが、ガンギエイ目 Rajiformes なのだから、この名は全く問題ない。いや、何より、和名「雁木鱏」は既に述べた通り、これらの類の尾にある短い棘の列が「雁木」(渡り鳥の雁(ガン)の飛ぶその列のようにギザギザの形をしたもの)をしていることに因むことから言うなら、その列を♂で三列、♀で五列も持っているコモンカスベは、まさに名にし負う「雁木鱏」とこそ言えるのである。
・「癸未(みづのとひつじ)四月十一日」文政六年四月十一日で、グレゴリオ暦一八二三年五月二十一日。
・「魚肆(うをみせ)」魚屋。「肆」は現在も本屋を書肆と称するように、物を並べて売る「店」を指す。
・「尾に傍(そ)ふて別に長き棒の如きもの」腹鰭。
・「伸直(しんちよく)なるものなり」「思う以上によく伸び縮みし、思い通りに曲げることが出来るものである」の意。でもね、丹洲先生、切れてる頭部尖端の軟骨、これはね、手ではとてものことに曲げることも折ることも出来ないほど硬いんですぜ!
・「靣」「面」の異体字。
・「雄なるもの、三尾、雌なるもの、一尾あり」大噓。
・「其の雄なるものなり」瓢箪から駒、噓から出た誠で♂というのは正解です!
・「肉なり」漢字表記では「肉形」「肉態」で、肉の性質・味わいの意で採る。
・「前圖に比すれば、至つて下品なり」老婆心乍ら、この「前圖」とは背部を指すのでは当然ない(だって同一個体だもの)。これはこの一つ前で紹介した、同じ「ガンギ」の類の、私が「真正のガンギエイ一個体の背部と腹部」と同定した図を指しているのである。そこで丹洲はキャプションでこのエイは『「ヨコサ」より、よろし』(板鰓亜綱トビエイ目ツバクロエイ科ツバクロエイ属ツバクロエイGymnura
japonica より美味い)と述べている。それに比して、遙かに下級品で、不味いというのである。哀れ、コモンカスベちゃん!
「ガンギヱイ」これは広義のガンギエイ目 Rajiformes に属するエイの仲間を指していると考えてよい。狭義には、一つ前で紹介した同じ「ガンギ」の類の、私が「真正のガンギエイ一個体の背部と腹部」と同定したもの、軟骨魚綱エイ目ガンギエイ科Rajinae
亜科ガンギエイ属ガンギエイDipturus kwangtungensis となる。分布的にも問題ない。但し、直後に出る「マガンギ」というのは「眞雁木」で、しかし「背、灰」色、或いは「鼠色」とするところを見ると、或いは広義の「カスベ」類を包含してしまっている可能性があり、「眞雁木」を「マカスベ」と読み換えるならば、近海性でよく獲れ、古くから食用に供されてきた、ガンギエイ科メガネカスベ属メガネカスベRaja
pulchra を限定的に指す可能性も考える必要が出てはくる。但し、同種は現在、太平洋沿岸の東日本では銚子附近までしか分布していないから、当時の三崎の漁師が知っているというのはやや微妙ではある。
・「相州二タ町家」これは「二町谷」で、狭義には現在の神奈川県三浦市白石町の、この附近(グーグル・マップ・データ。バス停名に「二町谷」が残る)の地区名である。しかもこの図を見て戴ければ判る通り、ここは則ち、現在の三崎港なのである。されば、ここから揚がるという謂いも腑に落ちるのである。
・「黒ガンギ」不詳。背部がより暗い色を呈するというところは、ガンギエイ科ソコガンギエイ属ドブカスベ
Bathyraja smirnovi が浮かぶが、彼らは北方種であるから、三崎の漁師は知らない。さすれば、ガンギエイDipturus
kwangtungensis 或いはガンギエイ目 Rajiformes に属するものの中で背部の色が黒い個体の通称総称ということになる。]
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