子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 須磨保養院
須磨保養院
居士が須磨に移った七月二十三日の『日本』に「陣中日記」の四が出た。「陣中日記」は四月末に一回、五月中に二回出たまま、中絶の形になっていたのを、この時稿を継いで五月一日以後の経過を略叙し、全体のつづまりをつけたのである。日記は五月二十三日、和田岬検疫所を放免されるところまでで了っているが、最後に附記した文章の中で、居士は門出の装い勇しかりしに引替え、帰路はほうほうの体で船を上ったといい、左の数行を以て結んでいる。
[やぶちゃん注:「須磨保養院」現在の兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町及び須磨区西須磨に渡ってある須磨浦公園(ここ。グーグル・マップ・データ)の一部にあった。本邦の結核療養所の草分け的存在であった。
以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」原本で校訂した。]
まして廻り合せの惡きを思うへばわれのみにもあらざりけり。一年間の連勝と四千萬人の尻押(しりおし)とありてだに談判は終に金州半嶋を失ひしと。さるためしに比ぶれば旅順見物を冥途の土産にして蜉蝣(かげろう)に似たる命一匹こゝに棄てたりとも悼むに足ることかは。その惜しからぬ命幸に助かりて何がうれしきと疑ふものあらば去つて遼東の豕(ゐのこ)に問へ。
[やぶちゃん注:「金州半嶋を失ひし」「金州半嶋」は遼東半島のこと。日本と清の間で一八九五年四月十七日(発効は五月八日)に結ばれた日清講和条約(下関条約)で遼東半島は日本に割譲されたが、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国による三国干渉によって僅か六日後の四月二三日に清に返還することを求める勧告があり、清に返還された。
「豕(ゐのこ)」豚であるが、どうも差別語の臭いがする。]
「陣中日記」の結末は発病後における最初の原稿であったが、居士はこれに次いで「五大画家盲評」を八月一日の『日本』に掲げた。当時京都には内国博覧会が開催されており、閉会期日も迫ったけれども、居士の健康はいまだ京都に赴いてこれを見るほどになっていない。博覧会に出品された六大画家の六枚屏風を、写真によって評したので、実物を見ない批評だから、自ら盲評と称した。雅邦(がほう)、玉章(ぎょくしょう)、小蘋(しょうひん)、楓湖(ふうこ)、和亭(かてい)、幽谷(ゆうこく)の六人のうち、幽谷氏の分は写真が手に入らぬので、一人省いて五大画家にしたのである。朋友なく書物なき僻地にぼんやり暮すことは困難だという居士は、先ず自己の手に合う範囲において『日本』の原稿を草しはじめた。満洲の美術、建築、演劇などについて記憶に存するところを記した「思出(おもいいず)るまゝ」という文章も次いで『日本』に現れた。
[やぶちゃん注:「雅邦」日本画家で東京美術学校絵画科主任橋本雅邦(天保六(一八三五)年~明治四一(一九〇八)年)。本名は長郷。
「玉章」日本画家で東京美術学校教授であった川端玉章(天保一三(一八四二)年~大正二(一九一三)年)。本名は滝之助。東京美術学校の同僚であった橋本雅邦とは並び称された。
「小蘋」女流南画家野口小蘋(弘化四(一八四七)年~大正六(一九一七)年)。本名は親子(ちかこ)。次の奥原晴湖(おくはらせいこ)とともに明治の女流南画家の双璧と称された。
「楓湖」女流南画家奥原晴湖(天保八(一八三七)年~大正二(一九一三年)。本名は池田節(せつ)。通称を「せい子」と称した。
「和亭」南画家滝和亭(文政一三(一八三〇)年~明治三四(一九〇一)年)。本姓は田中、名は邦之助、後に謙。
「幽谷」南画家野口幽谷(文政八(一八二五)年~明治三一(一八九八)年)。名は續(ぞく)。]
居士が意を決して従軍を断行した時、『日本』の俳句の選は、鳴雪、碧梧桐、虚子の三氏の手に託されたらしい。出発以前広嶋に滞在していた間も、『日本』の選句について鳴雪翁、碧、虚両氏宛にしばしば注意の手紙をよこしていたが、神戸、須磨時代にも同じような手紙が何通もある。居士は如何なる場合にも、こういう注意を怠らぬ人であった。
『日本』の俳句ばかりではない。居士の手紙は諸種の問題にわたって、後進誘掖(ゆうえき)のために費されている。森鷗外氏訳の『埋木(うもれぎ)』を居士が読了したのは七月十三日であったが、八月九日虚子氏宛の手紙にはこの小説に対する批評がある。『埋木』の主人公たるゲザが後年ステルニーの胡弓弾(こきゅうひき)にまぎれ込むことを以て、居士は大欠点としている。ゲザのような急性の人ならば、ステルニーに対して堂々と決闘を申込むか、あるいはステルニーの名を聴いて避けるのが普通の人情である、然るにこの両途に出でずして、胡弓弾となって動静を窺うというのは、後のステルニーに打ってかかるところと両立せぬ性格のように思う、もしゲザが失望の極)きわみ)、こういう妙な性格に変じたのだというならば、その変化についての弁解なり、順序なりがなければならぬ、というのである。これなどは居士の小説に対する批評眼を見るべきものであろう。
[やぶちゃん注:「誘掖(ゆうえき)」力を貸して導いてやること。強い動機づけをして駆り立てさせること。
「森鷗外氏訳の『埋木(うもれぎ)』」ボヘミア系ドイツ人女性作家オシップ・シュービン(Ossip Schubin:本名アロイジア・キルシュナー:Aloisia Kirschner 一八五四年~一九三四年)が一八八四年に発表した小説“Die Geschichte eines Genies”(「或る天才の物語」)。国立国会図書館デジタルコレクションの「水沫集」の画像でここから読める。これは明治二一(一八八八)年九月にドイツから帰国した鷗外がすぐに翻訳に取り掛かった作品の一つ。明治二三(一八九〇)年四月から明治二五(一八九二)年四月までに十回に分けて『しがらみ草紙』に断続的に発表した。以上はベアーテ・ヴォンデ氏の津市立三重短期大学における公演原稿「『舞姫』120年を記念して 森鷗外と忘れられた女性作家 : ボヘミア系ドイツ人女性作家 Ossip Schubin オシップ・シュービン 本名 Aloisia Kirschner アロイジナ・キルシュナー(1854.6.17~1934.2.10)」(『三重大学日本語学文学』所収。「JAIRO」のこちらからPDFでダウン・ロード出来る)を一部、参照させて戴いた。
「胡弓弾(こきゅうひき)」ヴァイオリニストのこと。]
居士は須磨に移ってから、「俳家全集」を手許に取寄せた。「俳家全集」は「俳句分類」と共に進められた居士の編纂事業の一で、「俳句分類」が季題により、また一句の内容によって分類を続けて行ったのに対し、これは作者別に句を輯録したものである。居士が虚子氏に依頼して東京から送らせたのは、手許に俳句の参考書が乏しかったためであろうが、居士はこれによって古人の作品を点検し、自己の標準に照して好句を算えて見た。その結果を鳴雪翁に報告したところによると、百以上あるのが蕪村、六十以上が白雄、四十以上が几董、三十以上が去来というような順序で、一句も採り得ぬ者も十人以上に及んでいる。居士はこの研究を別に何にも発表しなかったけれども、古人の作品を改めて点検し、現在の標準を以て価値批判を試みるということは、決して徒爾(とじ)には了らなかったに相違ない。
[やぶちゃん注:「徒爾(とじ)」無益であること。無駄。「爾」は限定・断定の助字であろう。]
『埋木』を評した虚子氏宛の手紙には、また次のようなことが記されている。
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」原本で校訂した。]
根岸草庵御叩(おたた)き被下(くだされ)菜畑の短册御目にとまり候よしの御消息に接し小生も異樣の快感起り申候。類題全集數十卷は如何(いかが)致し居候ひしか、定めて無恙(ぶやう)蟄居して病主人を相待ち居候事と存候。机上の塵埃深さ幾寸許りつもり居候ひしかこれも伺度候。
異郷にあって家を憶うの情は、この数行の文字から十分に窺うことが出来る。「類題全集數十卷」とあるのは「俳句分類」のことである。寂然と留守に置かれた「俳句分類」を念頭に浮べた時、居士は従軍以来半歳、全くこの事業から離れていることに想到(おもいいた)し、「俳家全集」を手許に取寄せたことによって、せめてもの慰安としたのではないかと思われる。
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