御伽百物語卷之三 奈良饅頭
奈良饅頭
[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]
いにしへの都、奈良の京二條村に住みける林淨因(りんじやうゐん)は、もと、宋國(そうこく)の人なり。花洛(くわらく)建仁寺第二世龍山(りうさん)禪師入宋ありける比(ころ)、此(この)林淨因に逢ひたまひけるに、淨因も龍山に歸依して膠漆(かうしつ)の交り、淺からず。元朝にいたりて、順宗皇帝至正元年に及び、龍山禪師、歸朝したまへり。是れ、本朝の人王(にんわう)九十七代光明院の御宇(ぎよう)曆應四年なり。林淨因も此和尚の德をしたひ、同じく龍山の伴侶となりて日本に來たり、今の南都二條村に住居しけりとなん。
[やぶちゃん注:「奈良の京二條村」現在の奈良県奈良市二条町附近か。平城京の北西外郭附近に当たる。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「林淨因」実在した渡来僧。浙江省寧波市奉化区黄賢村生まれで、北宋の名詩人林逋(没後に仁宗にから「和靖先生」の謚を贈られたことから「林和靖」とも呼ばれる)の七代目の末裔に当たる。また、以下に記され得通り、日本に饅頭を伝えた祖とされる。奈良県奈良市漢国町にある漢國(かんごう)神社の境内社の一つに、林(りん)神社があるが、ここは日本唯一の饅頭の神社で、ウィキの「漢國神社」によれば、貞和五(一三四九)年に『中国から来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、饅頭の祖・林浄因が祀られている』『ことが名前の由来』で、昭和五三(一九七八)年には『菓祖神の田道間守』(たじまもり/たぢまもり:記紀に伝わる人物で、「非時香菓(ときじくのかくのみ)」(橘の実とされる)を求めに常世国に派遣されたとする。現在は菓子の神・菓祖としても信仰されている)『を合祀し、饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集める』。『林浄因の命日である』四月十九日には、『菓業界の繁栄を祈願する例祭「饅頭まつり」が行われ、全国各地の菓子業者が神前に自家製の銘菓を献上するほか、一般参拝者向けにも無料で饅頭と抹茶がふるまわれる』。『境内にはその他、巨石を伏せた饅頭塚もある』とある。
「建仁寺第二世龍山(りうさん)禪師」龍山徳見(りゅうさんとくけん 弘安七(一二八四)年~延文三/正平一三(一三五八)年)は下総国出身の臨済僧。俗姓は千葉氏。諱は初め、「利見」であったが、後に「徳見」と称した。龍山は道号。諡号は真源大照禅師。参照したウィキの「龍山徳見」によれば、十三歳で鎌倉の『寿福寺の寂庵上昭に師事して出家し、その後円覚寺の一山一寧に参禅した』。鎌倉末期の二十二歳(正安四・乾元元(一三〇五)年)の時、『中国(元)に渡って天童山の東岩浄日・古林清茂などに参禅している。また黄龍慧南から栄西にいたる臨済宗の法流を受けて兜率寺に住するなど、長期間元に滞在し』、正平四/貞和五(一三四九)年に帰国、『足利尊氏の弟足利直義の招きを受けて京都建仁寺の住持となり、その後は天竜寺・南禅寺にも住した』とある。
「入宋ありける比(ころ)」「元朝にいたりて」宋(南宋)は一二七九年に元に亡ぼされており、龍山が渡る中したのは正安四・乾元元(一三〇五)年であるから、これらの謂いはおかしい。但し、龍山が教えを受けた当時の渡来僧は宋からの亡命者が多かった事実はある。
「膠漆(かうしつ)の交り」「膠漆之交」。極めて親密で堅い交わりのこと。
膠は「にかわ」、漆は「うるし」で、塗り固められると離れないことから。
「順宗皇帝至正元年」至正は元の順帝(恵宗。この「順宗」は誤り。順宗は世祖クビライ時代の皇太子チンキムの次男ダルマバラ(一二六四年~一二九二年)の廟号で、彼は早世し実際の皇帝にはなっていない)トゴン・テムルの治世で用いられた元号(一三四一年~一三七〇年であるが、一三六八年に元が大都(現在の北京)を追われた後も「北元」の元号として使用された)。しかし、「至正元年」では一三四一年で、龍山の帰国は一三四九年であり、八年も開きがあり、おかしい。
「九十七代光明院の御宇(ぎよう)曆應四年」「光明院」は光明天皇(在位:一三三六年~一三四八年:彼の即位によって北朝が成立したので、北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇百二十五代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第二代とされている)。現行では「九十七代」天皇は南朝の第二代天皇後村上天皇と(在位:一三三九年~一三六八年)される。「暦應四年」暦応は南北朝時代に北朝方で使用された元号で、同四年は一三四一年だから、「至正元年」とは一致する。]
昔は此村を奈良の町としける故、ならの名産といふなる、晒(さらし)・法論味噌(ほらみそ)のたぐひも、猶、こゝにありけるとぞ。
[やぶちゃん注:「晒(さらし)」奈良晒(ならざらし)。奈良地方で産出した麻を用いた、良質の高級麻織物、晒し布。但し、これが奈良を代表する名産品となったのは、江戸初期の慶長年間(一五九六年~一六一五年)以来のことで、この話柄とは整合性がないように思われる。
「法論味噌(ほらみそ)」焼き味噌に胡麻・麻の実・胡桃・山椒などを切り混ぜて乾燥した舐め味噌。名称は南都元興寺の僧侶が法論の際に用いたからという。]
されば、淨因も、『此里に足を止めばや』とおもふ心より、『先づ、家業といふ物なくてはいかゞ』と思ひめぐらしけるに、古(いにしへ)、諸葛孔明が造りひろめしといふなる「まんぢう」を始めて造りひろめけるより、我が朝の人、あまねく、もてはやらかし、吉事(きちじ)にも是れを以てし、凶事にもまた、用ゆる事にぞ、ありける。然れども、此家(このいへ)、林の字をいはず、鹽瀨(しほせ)をもつて名乘る事は、そのかみ、淨因が遠祖は詩人にして林和靖(りんわせい)なりとかや。詩人の後裔たれども、『詩に鳴(な)るにあらず、食類に名を鳴るは、恥を先祖にあたふるなるべし』とおもふより、鹽瀨を以て氏(うぢ)とすとかや。
[やぶちゃん注:「鹽瀨(しほせ)をもつて名乘る」しかし、現在も続く菓子老舗「塩瀬総本家」公式サイトのこちらによれば(現在の本店は東京都中央区明石にある)、『奈良・林家と京都・林家に別れて営業』したが、応仁元(一四六七)年の応仁の乱で京都は焼け野原となり、『戦乱を避けて京都を離れた林家は、親戚関係であった豪族・塩瀬家を頼って三河国設楽郡塩瀬村(現・愛知県新城市)に住み、姓を「塩瀬」に改め』たとある。その後、再び、『京都に移った塩瀬は大繁盛、塩瀬があった烏丸三条通り下ルのあたりは当時、饅頭屋町と呼ばれ』、第八代『室町将軍の足利義政より「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を授かり、時の帝、後土御門天皇からは「五七の桐」の御紋を拝領し』たとあるから、「林」の名を隠していた事実はない。
「鳴る」名を知られる。評判となる。]
扨、この淨因、奈良にありて作業(なりはひ)を勤めし内、いつしか病身となりて、虛火(きよくわ)[やぶちゃん注:漢方で強い陰気や房事過多によって体が衰弱し、そこから生じた焦燥感や発熱の症状を指す。]を煩ひ、年ごろを經て、眩暈(げんうん)の心、はなはだ、おこりもてゆきつゝ、心地、死ぬべく覺えしかば、常に龍山師の惠(めぐみ)をおもひ、心にもつぱら觀じ、念願すらく、
「我、此たびの病を治(ぢ)し、命算を延べたまらはゞ、吾が本朝において儲(まふ)けたる子の内、一人(いちにん)を弟子に參らすべし。」
など、佛にむかひ、かきくどくやうに祈り歎く事、ひたすらなりしに、ある日、淨因が寢たる臥室(ねや)の北にあたる壁のうしろにあたりて、大勢、人のよりて、
「ひた。」
と掘切(ほりき)りつ、毀(こぼ)ちとる音、しける程に、看病のものどもに言ひて窺はしむるに、更に人ある事なし。
如此(きあくのごとく)する事、七日(なぬか)にいたりて、壁、たちまち、透きとをり、明(あきら)かなる事、星のごとく見ゆるに驚き、また、看病のものに指さして見するに、是れも人[やぶちゃん注:浄因以外の人々。]の目に見ゆる事、なし。
かくて一日を經て、大きさ盤(ばん)の如し。
淨因、みづから立ちて窺ひ見るに、壁の北は妻の化粧しける所にまふけたる一間なるに、思ひの外、廣き野となりて、草など、ゑもいはず、生ひ茂りたる中に、農民とおぼしきもの拾人ばかり、手々(てんで)に鋤鍬を取りて、穴のまへに立てり。
淨因、不思議さ、いふばかりなくて、此ものどもに問へば、みな跪づき、答へて、いふやう、
「是れは、花洛建仁寺の龍山禪師御所分の地として、我々に命じ、こゝをひらかせ給ふなり。鹽瀨淨因の重病を受け給ひつるを聞(きこ)し召して、我々に仰せて、此みちをひらかせ、追付(おつつ)け、この家に渡らせ給ふなり。」
と、いひもはてぬに、さき手の侍、五、六騎、馬鞍、さはやかに出でたち、列を備へて、こなたさまにあゆませ來たれり。
その次は、みな、一山(いつさん)の僧と見えし法師ども、數百人、兒(ちご)・喝食(かつしき)[やぶちゃん注:禅宗で食事をする際、食事の種別や進め方を僧らに告げながら給仕する役に当たる未得度の修業者。]、花をかざり、圍繞(ゐねう)しける中に、龍山和尚は上輿(あげこし)に座し給ふが、貴(たつと)く有り難く覺えけるほどに、少し、しりぞきて、首をかたぶけ、禮し居(ゐ)たるに、穴を去る事、二、三間[やぶちゃん注:三・七~五・四五メートル。]をへだてゝ、輿をかきすえさせ、龍山のたまひしは、
「公(きみ)が此たびの病、すでに定業(ぢやうごう)なり。殘れる命なしといへども、我れ、公がために、冥官にいたり、再三に歎き乞ひて、十二年の命を、申し請けたり。けふよりして、病を愁ひ給ひそ。」
と宣ふと思ふ内に、壁、なれあひて、もとの如くなりぬ。
[やぶちゃん注:「壁、なれあひて、もとの如くなりぬ」壁に開いていた大きな穴が、生き物のように左右前後から寄り添うようになって、元の壁のように戻った。]
さて、かくありけるより、日にそひて[やぶちゃん注:日を経るに従って。日々、みるみるうちによくなって。]、本復(ほんふく)しける程に、やがて三人ありける子の内、一人(にん)を具して都に登り、龍山の弟子となしぬ。
則ち、いまの建仁寺の内、兩足院といへるの開祖、無等以倫(むとういりん)なりとかや。
誠に、龍山の聖(せい)、はるかに幽冥に通じけん。ありがたき僧なりけり。
[やぶちゃん注:「兩足院」京都府京都市東山区小松に現存。ここ(グーグル・マップ・データ)。同院の公式サイトのこちらに、龍山から嗣法した無等以倫の名も見える。また、同じサイト内のこちらに、永徳二(一三八二)年に、無等以倫が『龍山徳見の法嗣知足院を守塔』し、『黄龍派の派祖・黄龍慧南から栄西を経て龍山徳見に至る十師』の『語録の集成である「黄龍十世録」二巻を版行』し、八十一で示寂とある。]
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