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2018/03/10

芥川龍之介メモランダ――軍艦「金剛」乗艦時のノート――

 

[やぶちゃん注:本資料は岩波新全集第二十三巻(一九九八年一月刊)で初めて翻刻されたもので、原資料(メモ四枚)は山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」(一九九三年同館刊)の画像から起したもので、同全集では「ノート」パートに入れ、『「軍艦金剛航海記」ノート』という仮題がつけられてある。確かに内容から海軍機関学校の英語科教授嘱託であった折りの大正六(一九一七)年六月二十日(本文に従えば午後一時半前後)、当時の日本帝国海軍の誇る超弩級新鋭巡洋艦「金剛」(排水量二万六千三百三十トンで全長は二百十四メートル。イギリスに発注された最後の戦艦であった。大正二(一九一三)年八月十六日に竣工、回航は日本海軍の乗員によって行なわれたが、大艦であったためにスエズ運河を通れず、喜望峰回りで同年十一月五日に横須賀に到着している)に同校生徒の航海見学実習に付添として乗艦、横須賀を発して翌々日の六月二十二日の午後に山口県由宇(ゆう)に到着するまで、稀有の軍艦乗船体験をした。これは後、「軍艦金剛航海記」(「青空文庫」で正字正仮名の正統な形で全文が読める。以下リンクは同じ)として同年七月二十五日から二十九日までの『時事新報』に連載されることとなる。本メモはその時のことを記したものである。但し、後に記すように、別に手帳にも詳細なメモがあることから、これは或いは後日、時系列で記憶をメモランダしたものかも知れないし、或いは別に共時的に記した日記風のものなのかも知れないが、記載内容とその順序が一ヶ月後に発表された「軍艦金剛航海記」との構成一致が顕著であるから、新全集が仮題するように、「軍艦金剛航海記」を書くための構想メモの可能性が大ではある。

 しかも、その新全集の「後記」によれば、これら四枚とは別に、『他に艦の部所の名称を記した五枚もあ』る、とあるのである。私はそれが何故、ここで一緒に電子化されていないのか、大いに不審であり、不満である。ただの名前の羅列だから外したというのであれば、芥川龍之介の手帳類の個人住所も同等であり、寧ろ、個人情報保護の観点から見れば、それをだらだらと住所と名前まで活字化しているのは、遙かに問題の大きい翻刻であるとさえ言い得るからである。

 そうして底本が翻刻しなかった部署の羅列や艦内の図を想起して以下のメモと合わせて考えると、それはもう、私が既にブログ・カテゴリ「芥川龍之介 手帳」で電子化注した芥川龍之介 手帳 1―15から芥川龍之介 手帳 1-18の内容を髣髴させるものと考えてよかろう(「1-16」等では、まさに以下に出てくる司令塔や砲塔の手書きの模式図・構造図も添えてある)。とすれば、本メモは私の完結したブログ・カテゴリ「芥川龍之介 手帳」に添えるに、これほど相応しいものはないと考えた。

 底本は無論、岩波新全集第二十三巻に基づいたが、今までの仕儀通り、漢字は概ね、正字化した。用紙の仕様が「後記」には書かれていないのでよく判らないが、罫線(或いは原稿用紙かも知れぬ。その場合は、四百字詰)の引かれたもので、欄外への書き込みが認められる。【欄外】としたものがそれである。用紙ごとに翻刻し、それぞれでオリジナルに注した。なお、本文内のアラビア数字は総て縦書正立(二桁は二桁そのままで)である。【2018年3月10日 藪野直史】]

 

 

□1枚目

【欄外】ブイ赤し 山靑し 空高し

 

午後一時三十分あまり ランチにて金剛に至る 途上 岩邊大佐を榛名におくる

金剛へつく途中 艦長のランチ(はるな)の爲に 舷梯につくをまてり ランチ大にゆる

上れば 右舷砲塔下に四五人の士官 副長と共にあり 白衣 日に光る 帽をとらんとしてとれず 副長の顏 趨雲に似たり[やぶちゃん注:上の「副長の顏 趨雲に似たり」の箇所は改行の可能性もあるが、私はそのようには判断しなかった。]

田中先任部長に導かれ ウアドルームに至る 飛行機を見 艦長をとひ 小憩後 艦内旅行をなす

14吋砲口に 人あるを見る 八田氏にあふ

 

【欄外】ウアドルームは白し 丸窓 バア臺に鏡 銀の花瓶 黑きゴム布をかけし卓 電氣扇 電燈(二つ(1)は 砲の發射の爲やぶると云ふ)

 

部屋定まる 中甲板の一室 机 寢臺 輪旋椅子 白き周圍に眞鍮の金具 赤毛布

機關少尉三人と共に語る 艦は二隻の小蒸氣によりて 方向を轉ぜんとしつつあり 出航準備のラツパなる 少尉一人來る 航海準備のラツパと共に直去る 颯爽たり ドラなる 夕食なり 鮭とさつま汁

 

【欄外】蝶(蛇の目蝶)とぶ さびし

 

[やぶちゃん注:「ランチ」launch。小型の蒸気船。汽艇。

「岩邊大佐」後に海軍中将となる岩辺季貴(いわべすえたか 明治五(一八七二)年~昭和三〇(一九五五)年)であろう。熊本県下益城郡小川町(現在の宇城市)生まれ。明治二七(一八九四)年に海軍機関学校卒業後、機関士候補生として防護巡洋艦「高千穂」に乗組み、日清戦争に従軍する。装甲巡洋艦「八雲」回航委員となり、明治三七(一九〇四)年二月には戦艦「八島」分隊長として日露戦争に出征、翌年一月、海軍機関少監に進み、通報艦「八重山」機関長に転じた。明治三九(一九〇六)年、海軍機関少佐に進級、翌年、元小川町長岩辺知言の養子となった。本記載の二年後の大正八(一九一九)年六月(この年の二月に芥川龍之介は既に機関学校を退職している)、海軍機関少将に昇進し、聯合艦隊機関長と第一艦隊機関長を兼任、同年十二月、横須賀鎮守府機関長に就任している。大正一二(一九二三)年十二月、海軍機関中将に進み、大正一三(一九二四)年、予備役。二年後に退役した。以上はウィキの「岩辺季貴」に拠った。本時制は、この下線太字の間となり、当時は大佐になっているわけで、既に当時の横須賀鎮守府の機関長の上層部の一人であったことが判る。この時は伴走した「榛名」に乗船臨検したものか

「榛名」「金剛」型戦艦の三番艦。排水量二万六千三百三十トン・全長二百十四メートル。太平洋戦争では、ガダルカナル島の戦い・レイテ沖海戦を経て、呉に帰港したが、昭和二〇(一九四五)年七月二十四日と二十八日の呉軍港空襲の爆撃によって、大破浸水し、着底してしまった。敗戦後の翌年、解体された。参照したウィキの「榛名(戦艦)」によれば、『榛名は』太平洋戦争『開戦時』で既に艦齢二十六年の『老朽艦で』あった『にも拘らず』、『最前線にあって主要海戦の多くに参加しており、しばしば損害を受けた。その姿は開戦直前に完成して最前線での主要海戦でもほとんど損害を負うことがなく「幸運の空母」とも賞される空母』「瑞鶴」『と対照的であるが、この』二『艦は駆逐艦』「雪風」『などとともに「日本海軍の武勲艦」と評されることが多い。また』、『日本戦艦で最も多くの海戦を生き延び、その終末を解体という形で迎えたことから、諸書には「戦艦榛名は戦後復興のための資材となった」旨の記述が多くみられる』とある。この当時の「榛名」艦長は上田吉次大佐(?~昭和三八(一九六三)年:山形出身海軍兵学校を明治三一(一八九八)年第二十六期卒)である。

「艦長のランチ(はるな)の爲に」伴走する「榛名」艦長の上田吉次大佐の乗ったランチが「榛名」の舷梯に到着するのを洋上で待ったというのである。

「趨雲」(?~二二九年)後漢末から三国時代の蜀漢にかけての将軍で、劉備に仕えたことで知られる名雄。「三国志演義」で「五虎大将軍」(彼と関羽・張飛・馬超・黄忠)の一人として、『非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」(身長八尺の恵まれた体格、眉が濃く目が大きく、広々とした顔であごが重なっている、威風堂々)と体躯堂々たる偉丈夫として描写されている』とウィキの「趙雲」にある。

「田中先任部長」不詳。「先任部長」は「ハンモック・ナンバー」と呼ばれる、兵学校同期生間での当該職への先任順位を指す(本来の海事用語の「ハンモック・ナンバー(釣床番号)」は兵員が使用するハンモック(釣床)に記された番号を指す。例えば、兵員に割り当てられたそれに「三一八四」と記入されている場合、その兵員が「第三分隊第十八班第四部員」であることを意味し、その番号によって艦内での戦闘配置などが自動的に決まった)。海軍ではその差がはっきりしており、同時に同階級に任ぜられて、しかも同じ軍艦等で勤務する同期生の間にあっても「先任」か「後任」の区別は厳然としてあり、軍令承行令による指揮系統の序列は勿論、式典での整列の際などでも、このハンモック・ナンバー(序列)の順に並んだ。以上はウィキの「ハンモックナンバー」に拠った。

「ウアドルーム」wardroom。軍艦内の士官室。

「艦長」当時の「金剛」艦長吉岡範策(はんさく 明治二(一八六九)年~昭和五(一九三〇)年:当時は大佐かと思われる)。肥後国(現在の熊本県宇城市小川地区)に肥後藩士の長男として生まれた。済々黌高等学校を経て、明治二四(一八九一)年に海軍兵学校第十八期として卒業、海軍少尉となった。日清戦争では防護巡洋艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍、日露戦争では第二艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦している。防護巡洋艦「橋立」艦長から、装甲巡洋艦「浅間」艦長に補せられ、まさにその日に始まった第一次世界大戦に於いて、ドイツ艦隊の捜索や南洋群島の占領作戦に従事、大正四(一九一五)年、巡洋戦艦「筑波」艦長、本巡洋戦艦「金剛」の艦長を経て、大正六年、海軍少将に昇進して教育本部第二部長となった。その後、第一艦隊参謀長・連合艦隊参謀長を歴任、大正十年に海軍中将・海軍砲術学校長となり、大正十三年、五十五歳で予備役となった。「砲術の神様」と称された。以上はウィキの「吉岡範策」に拠った。

14吋砲口」三十五・五六センチメートルであるから、「金剛」が四基装備していた四十五口径三十五・五センチ連装砲のこと。他に五十口径十五・二センチ単装砲が十六基、五十三センチメートル魚雷の発射管が八門、装備されていた。ここはウィキの「金剛(戦艦)」に拠る。砲塔内の掃除をしていた兵が砲塔から頭を出していたのであろう。

「八田氏」「軍艦金剛航海記」の「一」と「三」に「八田機關長」という名が出る。

「夕食」海軍の夕食は早い。午後四時半には食べる

「蛇の目蝶」「じやのめてふ」。鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科ジャノメチョウ亜科ジャノメチョウ属 Minois に属するジャノメチョウ、或いは、狭義の和名ジャノメチョウ Minois dryas。翅は表裏ともに一様に茶褐色で、前翅に二つ、後翅に一つの眼状紋を有するが、他のジャノメチョウ亜科亜科 Satyrinaeに多く見られる金色の輪郭がないために、あまり目立たない。「軍艦金剛航海記」では登場しない代わりに、エンデイング(「五」)に『やがて、何氣なく眼を上げると、眼の前にある十四吋砲の砲身に、黃いろい褄黑蝶が一つとまつてゐる。僕は文字通りはつと思つた。驚いたやうな、嬉しいやうな妙な心もちではつと思つた。が、それが人に通じる筈はない。機關長は相變らずしきりにむづかしい經義の話をした。僕は――唯だ、蝶を見てゐたと云つたのでは、云ひ足りない。陸を、畠を、人間を、町を、さうして又それらの上にある初夏を蝶と共に懷しく、思ひやつてゐたのである』と出る。『褄黑蝶』とは狭義には鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科ドクチョウ亜科ヒョウモンチョウ族ツマグロヒョウモン属ツマグロヒョウモン Argyreus hyperbius であるが、本土では現認されることは非常に珍しい。芥川龍之介がジャノメチョウをかく呼んだのかも知れる。「蛇の目蝶」では如何にも暗い。或いは、龍之介の小説としての俳諧的諧謔季節表示の手法であったのかも知れぬ。しかし、いいコーダではある。]

 

 

□2枚目

前部艦橋に至る speed mark, revolution mark 等の説明をきく(あみ笠狀のもの) 黑の洋傘の連なるもの二つあるは標的をひける所なりと云ふ 一兵あり サウンディングプラットフォームにて 測鉛をふる 古のくさり鎌つかひの如し 十五 十七とさけぶ 尋の義なり 海靑く 夕日滿艦なり 榛名遠し

司令塔 海圖室 無線電信室等を見 艦尾に至る 艦の行く 飛ぶが如きを知る

ウァードルームにかへり 少時にして又 八田機關長と共に前部艦橋に至る 航海長以下 皆海圖を檢して 針路を定めつつあり 天水共に蒼茫 一點 觀音崎の燈臺を右舷に見る 更に一點 慧星に水にある如きは榛名のサアチライトならむ 風涼し

[やぶちゃん注:「艦橋」「かんけう(かんきょう)」は軍艦中央部の高い構築物で、展望が利き、将校が常駐して艦の指揮を執る中枢。所謂、「ブリッジ」である。

speed mark」速力標。マストのヤード(左右に張り出した支柱)から下がっている信号旗を掲げるためのロープの内、マストから見て一番外側にある赤い網状のもの出来た速力標。編隊航行中や洋上給油に於いて、相手に自艦の速力を知らせたり、諸条件下での所定のスクリュー回転数の増減を知らせるための「赤黒マーク」と言われる信号旗。Old Sailor 氏のブログ「Old Sailors never die; they just」の「護衛艦マストの両端に掲げられる速力標と赤黒マークの意味」を参考にさせて戴いた。

revolution mark」不詳。当初、戦闘態勢にあることを示す戦旗標かと思ったが、英語でこのようには言わない。寧ろ、芥川龍之介が直後に『(あみ笠狀のもの)』と言っているのは、前の速力標のことであるから、ここはスクリューの「回転数・旋回のレベル・回転運動・運動周期」のことを言っているのではないかと推理した。

「サウンディングプラットフォーム」sounding platform。測深台(そくしんだい)。主に対象との距離の測定(測程)と水深の測定(測深)に用いるためのもので、古い艦船では上甲板艦尾に突き出すした板状の台であったらしい。個人ブログ「軍艦三笠 考証の記録」の「測深台:Sounding platformを参照されたい。写真有り。但し、ここは艦橋からの眺めなので、測深台は少なくとも船尾ではない。スクリューへの巻きこみの虞れを考えるなら、艦首附近か。

「測鉛」繩の先に錘(おもり)の紡錘型の鉛を附けた測深索条。「古」(いにしへ(いにしえ))の武具である「鎖鎌(くさりがま)使い」のそれのように扱う、という表現が戯作好みの芥川龍之介らしくて楽しい。

「尋」水深の一尋(ひろ)は六尺で、百八十一・六メートル。

の義なり 海靑く 夕日滿艦なり 榛名遠し

「ウァードルーム」前の「ウアドルーム」wardroomのこと。士官室。

「天水」大空と海原。

「蒼茫」見渡す限り、青々として広いさま。

「觀音崎の燈臺を右舷に見る 更に一點 慧星に水にある如きは榛名のサアチライトならむ」大正六(一九一七)年六月二十日当日の神奈川県横浜日没は午後六時五十九分。ここは浦賀水道を抜けて、三浦岬の沖を相模湾に入った辺りである。]

 

□3枚目[やぶちゃん注:「※」の箇所に最初に掲げた手書き図が入る。「□□」は原資料自体の二字分の芥川龍之介自身による欠字。メモであり、内容的に伏字にする必要のあるものとも思かれないから、本メモが後になってから纏めて記されたとすれば、ただ姓を忘れただけかも知れぬ。]

Hammock

かへりて ハムモックの※の如くつれる下をくぐり くぐり 機關長室に至り 雜談す 黃笠の電氣 妻子の寫眞 造花の菊 日蓮上人 法華經等あり 籐倚子及輪轉倚子 丸窓は蓋ありと思ふ程くらし 手を出して 外の空しきを知る

バスに入りて(齋藤君の褌)後 夜食す

 

【欄外】さうめん 酒 ビール

 

醉ひて面白し いつまでもねると云ふ好男兒は 航空隊の□□大尉なり 十二時近く 就寢す

廿一日

砲塔

 

【欄外】下部發令所 彈庫 火藥庫

 

水電室

無線電信室

主機關部

汽罐部 ミルトン

夕方 軍歌をうたふ(勇敢なる水兵) ケープス

[やぶちゃん注:「ハムモック」hammock。ハンモック(麻布製の吊り床)のこと。

「外の空しきを知る」余りに暗黒なので、外にカバーする別な遮蔽蓋があると思って手を突き出して調べてみたが、空しく外気に触れたばかりであった、というのである。

「齋藤君」不詳。付添に同行した海軍機関学校の同僚であろう。

「夜食す」士官室で出た夜食。「軍艦金剛航海記」の「四」の後半の段落に出る。

「さうめん」「素麺(そうめん)」。

「下部發令所」私の「芥川龍之介手帳 1―16」の図を参照されたい。

水電室」不詳。当時、イオン交換法によって有意な電力供給が行われたとは思われない。これは「水雷室」(魚雷室)の誤りではなかろうか?

「ミルトン」不詳。

「軍歌をうたふ」ここは
「軍艦金剛航海記」の「四」の終りのシークエンスに完全に生かされている。

「勇敢なる水兵」日清戦争の逸話に基づく軍歌。佐佐木信綱作詞・奥好義(よしいさ)作曲。明治二八(一八九五)年発表。ウィキの「勇敢なる水兵」によれば、明治二七(一八九四)年九月十七日、『日本海軍の連合艦隊は黄海の鴨緑江河口付近で清国の北洋艦隊を捕捉、激戦の末にこれを破った。この海戦が黄海海戦であり、この「勇敢なる水兵」はその時の逸話に基づくものである』。『日本艦隊の旗艦「松島」は清国艦隊の戦艦「鎮遠」の巨弾により大きな被害を受けたが、その激戦の中、重傷を負った三浦虎次郎三等水兵は副長の向山慎吉少佐に「まだ定遠は沈みませんか」と訊ね、敵戦艦の「定遠』(ていえん)『」が戦闘不能に陥ったという副長の答えを聞いて微笑んで死んだ』。『この逸話は新聞で報道されるや』、『国民的な感動を呼び起こし』、『佐佐木信綱も感動して』全十『節からなるこの詞を一夜で作り上げたという。この曲は翌』『年の「大捷軍歌」(第三編)に発表された』(後、昭和四(一九二九)年に全八節に改詞されている)とある。You Tube こちらでダーク・ダックスの歌で聴ける。そこには歌詞(全八節版)も載る。

「ケープス」4枚目に続いている語で「ケープスタン」。後注する。

 

 

□4枚目

タンの上にて甲板士官 軍艦旗 落日光

夜 機關長の話

廿二日

朝 主計長の話 干物倉庫及俵倉庫に入る 十呎あまり?

 

【欄外】檣樓へ上る 室戸崎

 

軍醫部 治療室 病室及隔離室 戰時治療所

午 ひるね 句をつくる 柔道 相撲 機關長の氣合 i)腰 ii)喉 iii)背 iv)金丸

探照燈の光(本艦) 標的をてらす

ガンルーム 大導寺中尉

 

【欄外】寫眞 佐多崎 波石崎

[やぶちゃん注:「ケープスタン」capstan。キャプスタン。船舶に於いて碇(いかり)の鎖やロープを巻き上げるための、水平に回転するキノコ型の装置。車地(しゃち)・絞盤などとも呼ぶ。

「十呎」十フィート。約三メートル。四方ということであろう。そこにぎっしりと干物と米俵が詰まっているのである。

「檣樓」艦船のマストの上部にある物見台。「軍艦金剛航海記」の「五」でも、この快挙を語っている。芥川龍之介は木登りが特異で、泳ぎも達者であった。

「金丸」金玉のことか。「氣合」いの名の下に行われた、「精神棒」的な軍隊内の「シゴキ」が窺われる。「精神棒」とは日本海軍及び陸軍に於いて、古参兵・下士官が新兵を「教育」するという名目の「しごき」、体罰に用いられた硬い樫の木で出来た太い棒のこと。鞭や、その場にあった竹刀・木刀・バット・箒の柄・杓文字等で代用することもあった。孰れも兵士の尻目がけてフルスィングで叩きつけた。元は日本海軍に於いて、入隊者から人間性を奪いとり、命令には絶対服従する兵隊に仕立てることを目的で行われた虐待行為の際に使用する木の棒で、起源は英国海軍にあり、日本海軍でも通常英語で「バッター」と呼ばれ、敵性語を廃した当時は「軍人精神注入棒」と書かれていたらしい。私の梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注(4)を参照されたい。

「ガンルーム」gunroom。元来は大邸宅の狩猟用銃器室を指すが、海軍では、軍艦の下級将校室、士官次室を指す。

「大導寺中尉」不詳。私ならずとも、後の大正一四(一九二五)年一月に『中央公論』にて発表された自伝的小説「大導寺信輔の半生」を思い出されるかも知れぬ。或いはその名の秘かなモデルなのかも、知れない。

「佐多崎」不詳。表記誤認が疑われる。

「波石崎」不詳。同前。]
 

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