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2018/03/07

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 喀血遼東海

 

     喀血遼東海(りょうとうかい)

 

 五月十四日、大連湾から佐渡国丸という御用船で帰国の途に上った。霧の深く立罩(ちこ)めた中を、船は遅々として進む。「陣中日記」は十七日の条に「朝大なる鱶(ふか)の幾尾となく船に沿ふて飛ぶを見る。この時病起れり」と簡単に記したのみであるが、後年の「病」という文章を読むと、この間の事がよほど委しく叙されている。

[やぶちゃん注:「遼東海(りょうとうかい)」とは狭義には遼東半島の西北の渤海の北の奧の遼東湾を指すが、大連は渤海の入口の北の東側であり、大連から帰国の途にあった彼が孝行するのは、せめても黄海の奥の渤海の入口である東部分、いやさ、実際には黄海海上である。ただ、この標題は後に出る子規の漢詩の一句であるから、作詩上からこう表現したものでもあろう。

「佐渡国丸」田坂汽船の所有であったが、この日清戦争で徴用され、後の日露戦争まで海軍省の御用船として運用された。

「病」明治三二(一八九九)年十二月十日発行の『ホトトギス』に掲載。「青空文庫」のこちらで読めるが、新字新仮名。以下の引用は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来るそれを用いて校訂した。但し、句読点は底本のママとした。前後を一行空けた。]

 

明治廿八年五月大連灣より歸りの船の中で、何だか勞れたやうであつたから下等室で寢て居たらば、鱶が居る、早く來いと我名を呼ぶ者があるので、はね起きて急ぎ甲板へ上つた。甲板に上り著くと同時に痰が出たから、船端の水の流れて居る處へ何心なく吐くと痰ではなかつた、血であつた。それに驚いて、鱶を一目見るや否や楷子を下りて來て、自分の行李から用意の藥を取り出し、それを袋のまゝで着て居る外套のカクシへ押し込んで、さうして自分の座に歸つて靜かに寢て居た。

 

 これが大患のはじまりであった。船には医者が一人いるけれども、コレラの薬以外には何も持っていないということで、病人の手当などはしてくれず、喀血は依然とまらない。上が仮の桟敷になっている、天井の低い自分の座に静臥(せいが)していると、退屈の余り凱旋の七絶が出来た。それを桟敷の板裏ヘ書きつけて見たが、胸は苦しいし、手はだるいし、終に結句だけは書かずじまいであった。

 船が馬関に入ったのは十八日の午後である。五、六十人もいる船室に残っているのは居士一人で、皆甲板へ出てしまった。居士もそろそろ甲板へ出て見ると、甲板の上は人だらけで、九州の青い山が直ぐ前にある。「今迄兀山(はげ)ばつかり見て居た目には、日本の山は綠靑(ろくしやう)で塗つたのかと思はれ」るほどであった。その夜は馬関に碇泊、翌日は彦嶋に上陸して風呂に入ったり、著物(きもの)を消毒してもらったりしたが、船中の軍夫がコレラで死ぬという事件が起ったため、一週間停船の命令が下った。下痢症の者は上陸させるということで、居士のために周旋してくれた人もあったが、下痢症でないという理由の下に許可されぬ。この夜から喀血の度が烈しくなり、「船中の事で血を吐き出す器も無いから、出るだけの血は盡く呑み込んでしまはねばならぬ。これもいやな思ひの一つであつた」と居士はいっている。

[やぶちゃん注:以上の引用も前の「病」からなので、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して校訂した。

「軍夫」従軍した下働きの雑役をした軍属か。但し、兵卒のことを「軍夫」と言うこともあるにはある。

「彦嶋」現在の山口県下関市の南端にある彦島(ひこしま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在、下関の本土とは「関彦橋(かんげんきょう)」・「下関漁港閘門(こうもん/小瀬戸水門/運河であるが、人道・車道があるが、後者は水門が上る時間帯は通行出来ない)」・「彦島大橋」の三ルートで繋がっている。面積九・八平方キロメートルで、最高標高は百十一・八メートル。平家が滅亡した「壇ノ浦の戦い」の際には平家が本陣を置いている(ここはウィキの「彦島」に拠った)。

「船中の事で血を吐き出す器も無いから、出るだけの血は盡く呑み込んでしまはねばならぬ。これもいやな思ひの一つであつた」この直前の部分も引く。

   *

自分の病氣の輕くない事は認めて居るが下痢症で無い者を上陸させろといふ命令が無いから仕方がないといふ事であつた。如何にも不親切な、臨機の處置を知らぬ檢疫官だと思ふて少しは恨んで見た。併し今は平和の時で無いのだから餘り卑怯な事はいふまい位の覺悟は初めからして居る。さう思ふて自分はあきらめた。けれどもつくづくと考へて見ると又思ひ亂れてくる。平生の志の百分の一も仕遂げる事が出來ずに空しく壇の浦のほとりに水葬せられて平家蟹の餌食となるのだと思ふと如何にも殘念でたまらぬ。此夜から咯血の度は一層烈しくなつた。

   *

「平家蟹の餌食」の一語は、終生、失われなかった正岡子規独特の諧謔性を伝える、いい文章である。]

 二十一日の夕方、とにかく和田岬の検疫所まで行くことになって、船は徐(おもむろ)に動き出した。和田岬へは翌日午後著いたけれども、その日は上陸出来ない。二十三日の午後に至って、漸く放免された。居士は直に人力車で神戸病院へ行くつもりであったが、肩に鞄をかけた上、かなり重い行李を右手に提げなければならぬ。左の手に刀をついて、喘ぎ喘ぎ行こうとすると、歩くたびに血を喀(は)く。もう声を揚げて人を呼ぶ気力もない。折よく同行者が来たのに頼んで、釣台(つりだい)を周旋してもらうことにした。二時間ばかり待った後、漸く釣台に載せられて検疫所を出た。油単(ゆたん)をかけた釣台は、土地の祭礼らしい混雑の中を通ったりしながら、灯(ひ)ともしごろ神戸病院に辿り著いたのである。

[やぶちゃん注:「和田岬」現在の兵庫県神戸市兵庫区和田崎町にある岬。神戸港の西の入口に突き出ている。岬の先端近くの三菱重工業敷地内には、今も江戸幕府が幕末に海防のために建造した和田岬砲台跡が残る(勝海舟の設計によって文久三(一八六三)年に着工、元治元(一八六四)年(年)完成したが、実戦には使用されることなく終わった)。

「神戸病院」旧県立神戸病院で、現在の国立神戸大学医学部付属病院の前身。現在の神戸市下山手八丁目三から五の附近に当時はあった。この地図の中央付近に相当する(グーグル・マップ・データ)。

「釣台」台になる板の両端を吊(つ)り上げて、二人で担いでゆく運搬具。

「油単(ゆたん)」単衣(ひとえ)の布、又は、紙に雨を避けるために油をひいた覆い。

「土地の祭礼」これは思うに、「楠公さん」と親しみを込めて呼ばれる、楠木正成を祭る兵庫県神戸市中央区多聞通湊川神社の祭りの前夜祭ではなかろうか? 彼は延元元/建武三(一三三六)年五月二十五日に亡くなっているが、同神社では現在も五月二十四日から二十六日に「楠公祭」が行われているからで、子規が釣台で神戸病院に向かったのは五月二十三日の夕刻である。]

 この年居士の賦した「喀血歌」なるものに

[やぶちゃん注:以下は「子規居士」原本に拠るも、原本では鍵括弧・句点で本文に入っている。これを一句ごとに並べ直した(底本は二句を一字空けて一行に並べる)。]

 

 咯血本鄕臺

 杜鵑花發時

 纈紅染雲牋

 文章燦陸離

 咯血遼東海

 怒濤成五彩

 歸來試賦詩

 悲壯鬼神駭

 咯血又咯血

 咯血竟不輟

 漸覺肺氣衰

 吟腸益皎潔

 只應灑盡萬斛血玄黃

 筆端虹霓覆天長

  本郷臺に咯血す

  杜鵑花(とけんか)の發(ひら)く時

  纈紅(けつこう)は雲牋(うんせん)を染め

  文章は陸離(りくり)として燦(かがや)く

  遼東海に咯血す

  怒濤は五彩を成す

  歸り來て 試みに詩を賦せば

  悲壯 鬼神(きしん)を駭(おどろ)かす

  咯血 又た 咯血

  咯血して 竟(つひ)に輟(や)まず

  漸(やうや)く肺氣の衰ふるを覺ゆるも

  吟腸(ぎんちやう)は益々(ますます)皎潔(かうけつ)なり

  只だ應(まさ)に滿斛(まんごく)の血を玄黃(あめつち)に灑ぎ盡くすべく

  筆端の虹霓(こうげい)は天を覆ひて長し

 

とある。居士のこの時の喀血は、二十二年子規と号する時以来のもので、その量は更に多かったろうと思う。本郷台及遼東海における大喀血がいずれも五月であったのは、後来五月を厄月とする因をなすものと見るべく、この二度の喀血が居士の生涯に太い線を引いていることは、固より贅言(ぜいげん)を俟たぬであろう。

[やぶちゃん注:「杜鵑花(とけんか)」双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属サツキ Rhododendron indicum。皐月躑躅(サツキツツジ)とも呼ぶ。

「纈紅(けつこう)」「纐」は「纐纈(こうけつ/こうけち)」の意で、奈良時代に盛行した絞り染めの法。布帛(ふはく)を浸染する際に糸で括って文様を染め出したもの。ここは特にその中でも鮮やかな赤い紅色に染め出すことを指し、喀血したその鮮紅色を指している。

「雲牋(うんせん)」他者から送られて来た真っ白な綺麗な手紙の意か。或いは、次の句との絡みを考えるなら、単に詩歌文章を書くための料紙の意味かも知れぬ。

「陸離(りくり)」美しく煌(きら)めくさま。文筆の意気は軒昂なことを指している。この修羅場にあって、正岡子規の強力な意志力と自負が窺える。

「輟(や)まず」「輟」は「止める・中止する」の意。

「吟腸(ぎんちやう)」詩歌を詠む、読まねばならぬという自律的な欲求から作ることを謂う語であろう。詩心(しごころ)・歌心(うたごころ)といった感じか。

「皎潔(かうけつ)」「こうけつ(「きょうけつ」とも読む)」は、白く清らかで汚れのないさまを指す。

「斛」一斛は十斗。約百八十リットル。

「玄黃(あめつち)」ここは底本の蜂屋邦夫氏の読みを採用させて戴いた。音は「ゲンクワウ(ゲンコウ)」で、天の黒い色と大地の黄色とを指し、天と地とを孰れも包括する語である。

「虹霓(こうげい)」「虹蜺」とも書く。古代中国より、自然現象の「虹(にじ)」を竜の一種と考えて雄を「虹」、雌を「霓・蜺」とした。ここはただ鮮やかな色ではなく、目くるめく文彩に富んだ私の詩文文章は長い長い龍となって自由自在に天地へと渡って行くというのである。この詩、ともかくも「凄い」の一言に尽きる!

 

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