子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 書かんと欲すれば紙尽く / 明治二十八年~了
書かんと欲すれば紙尽く
「須磨に故郷に思はぬ日を費し」て帰京した居士は、自己の健康の旧の如くならざるを知った。そうでなくても生命の長からざることは夙(つと)に覚悟していたから、折角やりかけた文学的事業の中途に挫折することを憂慮し、後継者によってこれを大成せしめようという気持があった。而してその後継者として当時の居士の胸中にあったのは、已に日本新聞社に入り、『日本』の俳句の選などに当っていた碧梧桐氏でなくて、虚子氏の方だったのである。
居士は須磨において虚子氏に別れるに先ち、胸中を披瀝してひそかに委嘱するところがあった。虚子氏も寄託に負(そむ)かざらんとして、帰京後早稲田専門学校に入ったりしたが、その結果は八ヵ月ぶりで帰った居士を満足せしむるものでなかった。居士が虚子氏を道灌山の茶店に伴ってその意志を問い、帰来広嶋の飄亭氏宛に長文の一書をしたためたのは、十二月の幾日であるかわからない。要するに居士は文学者たらんとするために学問すべきことを切言し、虚子氏は文学者になりたいとは思うけれども、厭で堪らぬ学問までしてなろうとは思わぬという、ここに大きな分岐点があるのである。冷静に考えれば、この分岐点は両者の立場なり、性格なりからいってむしろ無理のないところであろうと思われるが、病余の居士はために多大の失望と興奮とを感ぜずにはいられなかった。飄亭氏宛の手紙は非常な長文で、ここに引用するに堪えぬけれども、
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]
非風去り碧梧去り虛子亦去る。小生の共に心を談ずべき者唯貴兄あるのみ。前途は多望なり、文學界は混亂せり。『源語』は讀了せしや如何、俳句は出來しや如何、小説は如何、過去は如何、現在は如何、未來は如何。一滴の酒も咽(のど)を下らず、一點の靨(よう)もこれを惜(おし)む、今迄でも必死なり、されども小生は孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり。死はますます近(ちかづ)きぬ、文學はやうやく佳境に入りぬ。書かんと欲すれば紙盡く、喝ツ。
[やぶちゃん注:「源語」源氏物語。
「靨」えくぼ。愛想笑いのことか。]
という最後の一節を読んだだけでも、居士の興奮の異常であり、胸中に火の如きものの渦巻いているのが感ぜられる。如何なる事柄に達者しても平静を失わぬのは達人の事であろう。しかしそれは二十九歳の居士の到底能くするところではない。この興奮と熱情とは、居士が無数の文学を産む要素でなければならぬ。
十二月に入って居士は地風升(ちふうのぼる)の名の下に「棒三昧」なるものを『日本』に掲げた。随筆の形による文芸時評である。その『国文』という雑誌の歌を評した一節には、後の歌論の先駆と認むべきものがある。
[やぶちゃん注:「棒三昧」「その『国文』という雑誌の歌を評した一節」「棒三昧」は抄録であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの「竹里歌話 正岡子規歌論集」(大正一一(一九二二)年アルス刊)の画像で、ここから視認出来、そこにある「○歌人」が宵曲の言うそれらしい。]
二十八年は居士に取って徹頭徹尾多事であった。帰京後の居士の一面は道灌山に現れているが、固よりそれは居士の面目を尽すものではない。他の一面は次のような詩によって窺うことが出来る。
[やぶちゃん注:「道灌山に現れている」「道灌山」での虚子への懇請と失望「に現れている」の意。
以下の漢詩群は総て原典「子規居士」で校訂した。原典は全句が句点で繋がり、底本は二句ずつで改行されているが、全部を分かち斯きに直した。]
訪種竹君聽講詩而還
訪君古寺北
山暗雨肅肅
辭君三更近
天寒星淸寥
竹籬吠野犬
林樹響怪梟
唔咿誰氏子
一燈細不消
丁丁圍碁客
暗窗明光搖
細路幾屈曲
極處枯木喬
柴門吾廬是
小妹點燭邀
病心睡不得
思量長夜遙
擁爐腮平膝
俳句點芭蕉
種竹君を訪ね、話詩を聽きて還る
君を訪(たづ)ぬ 古寺の北
山暗く 雨 肅肅たり
君を辭す 三更近く
天 寒く 星 淸寥たり
竹の籬(まがき)に 野犬 吠え
林の樹(き)に 怪梟(くわいけう) 響く
唔咿(ごい)するは誰氏(すいし)の子
一燈細くして消えず
丁丁(たうたう)するは 圍碁の客
暗窗(あんさう)に 明光(めいくわう) 搖るゝ
細き路の 幾たびか 屈曲し
極まる處 枯木(こぼく) 喬(たか)し
柴門(さいもん)は 吾が廬(いほり) 是(これ)なり
小妹 燭(しよく)を點(とも)し邀(むか)ふ
病みし心の睡(ねむ)り得ず
思量して 長夜 遙(はるか)なり
爐を擁(かこ)みて 腮(あご) 膝(ひざ)に平らかに
俳句し 芭蕉を點ず
[やぶちゃん注:「種竹」本田種竹(文久二(一八六二)年~明治四〇(一九〇七)年:子規より五歳年上)阿波徳島生まれ。名は秀。初め、徳島藩儒の岡本午橋から漢籍を教わり、後に京に出て谷太湖・江馬天江・頼支峰について、詩を学んだ。明治一七(一八八四)年、東京に出て、駅逓局御用掛となり、以来、東京府御用掛・東京府属・農商務省属を経て、明治二五(一八九二)年東京美校教授、同二十九年、文部大臣官房秘書となった。明治三十二年には中国を漫遊し、明治三十七年に退官、後は詩文に没頭した。明治三九(一九〇六)年、「自然吟社」を創立して主宰した。晩年は清代の詩の研究に力を入れた。著書に「戊戍遊草」懐古田舎詩存」がある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。「茗橋老隠(国分青厓)」の私の引用注にも既に出た。
「三更」現在の午後十一時又は午前零時からの二時間。
「唔咿(ごい)」音読して書を読んでいる、その声。
「丁丁(たうたう)」物を続けて強く打つ音を表わすオノマトペイア。
「邀(むか)ふ」迎える。
「芭蕉を點ず」芭蕉の句を調べる。]
寒園
寒園日不渉
任他風雨荒
椎櫟薄簷角
後門接林間
汲水常自是
屐跡廻圊房
襁衣亦於此
桁竿倒影長
秋草已枯盡
空地微低昂
稚稔與嫩竹
晴㬢映翠光
薔薇瘦含蕾
一花帶霜黃
水仙三寸短
殘菊無餘香
孤蜂從何到
低飛退南陽
翩翩褐色蝶
不肯向花狂
僅是十弓地
爲吾足徜徉
身似凍蠅動
負暄得小康
醫藥固無效
病根入膏肓
今日偸餘命
明朝且茫茫
寒園
寒園に 日 渉(わた)らず
任他(さもあらばあ)れ 風雨 荒し
椎櫟(すいれき) 蔭簷(いんえん)の角(かど)
後門は林間に接す
水を汲むは常に是(ここ)よりし
屐跡(げきせき)は圊房(せいばう)を廻(めぐ)る
襁衣(きようい)も亦た此(ここ)に於てし
桁竿(かうかん) 影を倒(さかしま)にして 長し
秋草 已に枯れ盡き
空地(くうち) 微(わづ)かに低昂(ていかう)たり
稚松(ちしやう)と嫩竹(どんちく)と
晴㬢(せいぎ) 翠光(すいくわう)を映(うつ)す
薔薇(しやうび)は瘦せて蕾を含み
一花は霜を帶びて黃(き)なり
水仙 三寸の短(たん)
殘菊 餘香 無し
孤蜂の何(いづ)れよりか到り
低く飛びて南の陽(ひ)を追ふ
翩翩(へんぺん)たる褐色の蝶(てふ)
花に向ひて狂ふを肯(うべな)はず
僅かに是れ 十弓(じつきゆう)の地
吾が爲に徜徉(しやうやう)するに足る
身は凍蠅(とうよう)の動くに似て
暄(くゑん)を負(お)ひて小康を得たり
醫藥は固より效(かう)無く
病根は膏肓(かうくわう)に入る
今日 餘命を偸(ぬす)み
明朝(みやうてう) 且(まさ)に 茫茫
[やぶちゃん注:「椎櫟(すいれき)」椎(しい)と櫟(くぬぎ)。
「蔭簷(いんえん)」深くさした簷(ひさし)。
「屐跡(げきせき)」下駄の歯の跡。
「圊房」便所。
「襁衣(きようい)」洗濯したものを干すことらしい。
「桁竿(かうかん)」物干しの柱と棹。
「低昂(ていかう)」低くなったり、高くなったりすること。
「嫩竹(どんちく)」なよたけ。細くしなやかな若竹。
「晴㬢(せいぎ)」太陽の(キラキラと光る)光。
「翩翩(へんぺん)」軽快に、ひらひらと舞うこと。
「花に向ひて狂ふを肯(うべな)はず」蝶が主語。
「十弓(じつきゆう)の地」中国古代の単位で、一つは的までの距離を測るのに用いたもので、一弓は六尺。今一つは田地を測るのに用いたもので、これは一弓が八尺。ここは子規庵の広さであるが、前者なら約十八メートル四方、後者なら約二十四四方。現在の史跡に指定されている子規庵の土地面積は四百五・六平方メートルであるから、両方の中間点で腑に落ちる。
「徜徉(しやうやう)」名]「逍遙」に同じい。気儘に歩き回ること。
「暄(くゑん)」温もり。暖かさ。
「茫茫」ぼんやりと霞んではっきりしないさまから転じて、将来の見通しが立たないの意。]
「種竹君」とあるのは本田種竹氏である。根岸に住する故を以て、来往して詩を談ずる機会が多かった。これらの詩が表現の奇を求めず、自然の趣に富んでいるのは、俳句において悟入(ごにゅう)したところを詩に及ぼしたものであろう。淡々たる措辞の裡に自ら居士の境涯がにじみ出ているように思われる。
十二月三十一日夏目漱石來
忙裏年光速
冬來病勢增
窮陰天欲雪
寒日見居t生水
廬與山相接
吾將世互憎
柴門聞剝啄
倒屐迓良朋
十二月三十一日、夏目漱石、來たる
忙裏(ばうり) 年光(ねんくわう) 速く
冬來(とうらい) 病勢 增す
窮陰(きゆういん) 天 雪ふらんと欲し
寒日 道 氷を生ず
廬と山と 相ひ接し
吾と世と 互ひに憎む
柴門に剝啄(はくたく)を聞き
屐(げき)を倒(さかしま)にして良朋を迓(むか)ふ
[やぶちゃん注:「忙裏(ばうり)」忙しくしていること。多忙を極めているうちに。
「窮陰」冬の末であるが、ここは標題の通り、大晦日で十二月の異称である。
「剝啄(はくたく)」来訪者が門戸を叩く音。一種のオノマトペイアであろう。
「屐(げき)を倒(さかしま)にして良朋を迓(むか)ふ」朋友の来訪を喜ぶ余りの慌てたさまを指すか。]
漱石氏が松山から出て来て、大晦日に居士を訪ねているのは、この年最後の出来事であった。「寒山落木」にも「梅活(い)けて君待つ菴(あん)の大三十日(おほみそか)」「何はなくとこたつ一つを參らせん」その他数句が散見する。
『獺祭書屋俳話』の増補再版が刊行されたのは、この年の九月五日であった。初版の六十九頁に対して二百十三頁を増補したのだから、三倍以上の増加を見たわけである。はじめは『獺祭書屋俳話』第二編として出すつもりだったらしく、序文や目次まで前年中に出来上っていながら、戦争のために出版延期になっていた。それを別冊とせず、第一版と合せて刊行されたのであった。この再版には「芭蕉雑談」以下の俳話と「かけはしの記」以下の紀行の末に、類題別にした俳句が添えてある。居士を中心としたいわゆる『日本』派の俳句が、ともかくも句集の形に編まれたのは、『獺祭書屋俳話』の附録を以て最初とするのである。