子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 従軍志願
明治二十八年
従軍志願
明治二十八年(二十九歳)は日清戦争の二年目である。居士は時局に因(ちな)んで元日から『日本』に「俳諧と武事」を掲げた。第一に蕪村の句に武事を詠じたもの多きを挙げ、第二に延宝天和(てんな)以後における蕉門の連句に武事を含みたるを説き、第三に宝永版の『南無俳諧』にある以呂波武者(いろはむしゃ)四十七句の中から十数句を抄出したものである。
[やぶちゃん注:「明治二十八年」一八九五年。
「日清戦争の二年目」相互の正式な開戦は一八九四(明治二十七)年七月二十五日。
「俳諧と武事」国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話」のこちらで全文が読める。
「延宝天和」一六七三年~一六八四年。
「宝永版の『南無俳諧』」正岡子規によれば、選者は合爪(ごうそう)なる人物とするが、調べたところ、宝永四(一七〇七)年刊行で、東花坊(各務支考の別号)と共選のようである。]
日本新聞社は従軍者相次いだため、居士は議会掛(がかり)て衆議院に出入し、傍聴記事を紙上に掲げた。露月氏が代りに行ったこともあるそうである。『日本』の議会記事は多くの紙面をこれがために割き、記者が相競(あいきそ)って筆を揮うので有名であったが、この時は華々しい従軍記事に圧(お)され気味であった。飄亭氏が犬骨坊(けんこつぼう)の名を以て寄せた「従軍記」もあとからあとから紙上に現れ、『日本』の名物の一となっていた。『小日本』廃刊以来の不平は次第に鬱勃したものであろう。遂に居士従軍志願の意を表明するに至った。
一月九日大原恒徳氏宛の手紙を見ると、「扨私今度或は新聞記者として從軍いたし候樣に相成可申(あひなりまうすべし)と樂み居候。方面は未だ何れとも決定致さず候へども大概大阪師團に附隨致すべしと存居候」とあり、また「昨年來雄心勃々として難禁(きんじがたく)候ひしかども第一は寒氣を恐れ第二は他にも望手(のぞみて)有之候ひし故差扣居(さしひかへをり)候。今日になりては最早寒氣も知れたものに相成り且つ從軍着拂底(ふつてい)に相成候故志願致候」と書いてある。同日佐藤肋骨氏に寄せた手紙にも「小生も遊志難禁いよいよ從軍と決心致し候、多分は望ミ相叶(あひかなひ)候事と存居候」とあるから、この時已に大体の方向は定っていたものと思われる。
[やぶちゃん注:「佐藤肋骨」既出既注。]
居士の従軍志願については羯南翁は固より、豪傑揃の日本新聞社中でも賛成者はなかった。二十七年中は比較的故障がなかったようなものの、居士の健康を以て従軍を決行しようというのを聞いては、何人も危惧の眉を顰(しか)めざるを得まい。大概な事には驚かぬ飄亭氏の如きも、居士が従軍希望の旨を書信中に洩して来た時は、戦地の衛生は到底その渡来を許さぬこと、戦地の恐るべきは砲煙弾雨にあらずして病魔の襲来にあること、一度戦地に病めば所詮十分の療養なりがたきことなどをつぶさに述べた返簡を送り、断じてその企(くわだて)を抛(なげう)たんことを説いたが、居士はこれにも耳を藉(か)さず、一切の反対を押切って一意従軍に邁進しようとした。
居士が従軍のため、いよいよ東京を出発したのは三月三日であった。これに先(さきだ)ち碧、虚両氏を伴って某所に別離を叙し、別るるに臨んで一封の書を渡した。この事の日附は二月二十五日になっているが、居士の従軍に対する抱負はほぼこの中に尽きている。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」原本で校訂したが、句読点(原典は文中総て読点)及び読み(一部は平仮名本文に変更されている)は底本の方を採用した。]
征淸の事起りて天下震駭し、旅順威海衞(いかいゑい)の戰捷は神州をして世界の最強國たらしめたり。兵士克(よ)く勇に民庶(みんしよ)克く順に以てこゝに國光を發揚す。而して戰捷の及ぶ所徒(たゞ)に兵勢振ひ愛國心愈固きのみならず、殖産富み工業起き學問進み美術新ならんとす。吾人文學に志す者亦之に適應し之を發達するの準備なかるべけんや。僕適(たまたま)觚(こ)を新聞に操(と)る。或は以て新聞記者として軍に從ふを得べし。而して若しこの機を徒過するあらんか。懶(らん)に非(あらざ)れば卽ち愚のみ、傲(がう)に非れば則ち怯(けふ)のみ。是に於て意を決し軍に從ふ。
軍に從ふの一事以て雅事に助くるあるか、僕之を知らず、以て俗事に助くるあるか、僕之を知らず。雅事に俗事に共に助くるあるか、僕之を知らず。然りと雖も孰れか其一を得んことは僕之を期す。縷々の理、些々の事、解説を要せず。之を志す所に照し計畫する所に考へば則ち明なるべし。足下之を察せよ。
文は長いけれども、最大眼目ともいうべきものはここにある。居士は恃(たの)みがたき病軀(びょうく)を抱いて千載一遇の好機に際会し、徒に内地にあって光陰を消費するに堪えず、前年来の不平と雄心のはけ場を従軍に求めたのであった。
[やぶちゃん注:「旅順」「の戰捷」一八九四(明治二十七)年十一月二十一日に行われた、日本軍が清の旅順要塞を攻略した陸戦。清国軍の士気は極めて低く、僅か一日で要塞は陥落した。
「威海衞(いかいゑい)の戰捷」日本軍が制海権の完全掌握を目的として、威海衛湾(思うに、現在の山東省最東部の威海市の市街地の東北に展開する楊家湾ではないかと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ))に立て籠もる北洋艦隊の残存艦艇の撃滅と海軍基地制圧に成功した戦闘で、一八九五(明治二十八)年一月二十日から二月十二日まで行われた。]
三月三日の出発に当り、鳴雪翁は「君行かば山海關(さんかいかん)の梅開く」の一句を餞(せん)した。『日本』社中が置酒(ちしゅ)して行を壮にした時、居士は
かへらじとかけてぞちかふ梓弓(あづさゆみ)矢立(やたて)たばさみ首途(かどで)すわれは
と詠み、福本日南氏は筆を執って「えびらにも弓にもかへてとる失立賴む心をわれはたのまん」と和した。斯(かく)して四時十分、新橋を発して壮途に上ったのである。
[やぶちゃん注:「山海關(さんかいかん)」は、当時、万里の長城の一番東方とされていた同城の旧拠点の要塞の固有名。ウィキの「山海関」によれば、『河北省秦皇島市山海関区に所在。華北と東北の境界である、河北・遼寧省境が渤海に会する位置にある』。二〇〇九年に『中国政府が遼寧省虎山の虎山長城が長城の東端と訂正するまで、山海関から延びた城壁』の、『海岸から突き出た「老龍頭」が長城の東端とされていた。「天下第一関」と称されるが、これは山海関の著名性を表したものではなく、東から数えて最初の関所であったことを示す』。『明代は山海関より西側を「関内」と称し、東側の満洲を「関東」もしくは「関外」といった。かつて日本の租借地であった関東州や、そこに駐留した関東軍の名称もこれに由来する』とある。鳴雪は子規の従軍を、永い戦闘の中国史を象徴する防壁の「東」端拠点の「山海關」の梅花さえも綻ばせる、と戦勝も含めた言祝ぎとして餞別句をものしたのである。
「福本日南」(安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)は筑前(福岡県)出身のジャーナリスト。本名は誠。司法省法学校中退。「政教社」同人をへて明治二二(一八八九)年に新聞『日本』を陸羯南らと起した(子規が同紙の記者となるのは、その三年後の明治二十五年)。アジア問題に関心を持ち。明治二四(一八九一)年七月には白井新太郎とともに発起人となり、アジア諸国及び南洋群島との通商・移民のための研究団体「東邦協会」を設立、その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いだ。後、『九州日報』社長兼主筆や衆議院議員(国民党)となった。著作に「元禄快挙録」などがある。]
居士が学生時代に草した『筆まかせ』の中に「半生の喜悲」という一条があり、嬉しかった事として、在京の叔父のもとより余に東京に来(きた)れという手紙来りし時、常盤会の給費生になりし時、予備門へ入学せし時の三を挙げているが、二月二十八日瓢亭氏に送った手紙にはこうある。
[やぶちゃん注:「筆まかせ」「半生の喜悲」は「筆まかせ」の第一編の明治二一(一八八八)年の中の一条(上京(明治一六(一八八三)年六月)から五年後)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。
以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」原本で校訂した。仕儀は前に同じ。]
皆にとめられ侯へども雄飛の心難抑(おさへがたく)終に出發と定まり候。生來希有の快事に候。
小生今までにて最も嬉しきもの
初めて東京へ出發と定まりし時
初めて從軍と定まりし時
の二度に候。この上になほ望むべき二事あり候。
洋行と定まりし時
意中の人を得し時
の喜びいかならむ、前者あるいは望むべし、後者は全く望みなし。遺憾々々、非風をして聞かしめばこれを何とか云はん呵々。
半生のよろこびは今や二つになった。更に将来の希望を附加して、綽々(しゃくしゃく)たる胸中の余裕を示しているのも、この時よろこびに満ちていたためであろう。居士が従軍の時のような気持の下に新橋を出発したことは、前後を通じて一度もなかったろうと思う。
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