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2018/03/14

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(5) 長慶天皇の伝承

 

 吾妻昔物語は江戸時代の初期に、僧徒などの手に成つたかと思ふ南部領の舊傳集である。其一節に次のやうな話がある。昔いつの頃か、流され王と申す御方、稗貫郡鳥谷ケ崎の瑞興寺に入らせられ、佛壇の上に登つて本尊と竝んでおいでなされた。朕は元四海の主なり凡夫と居を同じうすべからざる故に爰に坐すと仰せられた。寺の住持之を制止すると更に御言葉は無くて、此寺を出て寺林村の光林寺へ向はせたまふ。北野の君ケ澤と云ふ邊で南の方を指したまへば、見る見る其瑞興寺は燒けた。寺林から不來方(こじかた)の福士が館に入らせられ、津輕一見の御望みあり、急ぎ送り申せと仰せられたのを、福士は物六つかしく思つたか、道をたがへて比爪(ひつめ)の方へ送り參らすと、道祖神(さへのかみ)の傍の大槻木のあるを御覽じて、是は朕が不來方の道である。福士朕を誑かしてあらぬ方へ送る。必ず末よかるまじと仰せられたが、果して子孫に至つて福士の家は衰え且つ亡びた。流された王は恐らくは吉野のみかど、長慶院の御事であらうとある。此書の中には天和年間の事までは書いてある。當時既に津輕浪岡城の舊史は完成して居たか否か、是れ未だ自分の究めざる所であるが、とにかく一方は西海の果にも、御遺跡の參考地が有ると云ふ此大君の御德が、東北邊土の人々の仰ぎ慕ふ所となつたのも相應に古くからであつたことを知るのである。併し單に此類の御通過の物語のみならば、如何樣にも折合の道はある。之に反して確信を切望する地方人士に取つては、第三第四の御墓の發見を傳へ聞いては、さぞ驚きもすれば嘲りもするであらうが、靜かに物を考へると、日本海に面して三韓國王の漂著談があると同じく、中世以後の天子樣で、行方無き旅に御出ましになつたのは、長慶院御一方のみであつたことが、或は終に右の如き紛糾を解くべきものではなかろうか。

[やぶちゃん注:「吾妻昔物語」京都の医師松井道圓著になる、南部藩領内の古民譚・逸事を蒐集したもの。「吾妻むかし物語」と「東昔物語」と題する構成の有意に異なる二系統の本が存在する。松井は画もよくし、元禄(一六八八年~一七〇四年)の初めに南部藩に漫遊、当時の藩主南部重信の一門であった南部直政の命を受けて花巻城内の襖絵を写して名声を挙げたとされる。歴史や地方の伝承を聴き取ることが好きで、文筆にも長じていたことから、南部の異聞をも蒐集、それに兼ねてより諸国を旅した際の他国のそれらも併書、一種、「今昔物語集」の体(てい)を模したものと言われる。但し、一方では、本書は「古咄傳記」(一名「東奥古傳記」)の異名であって、筆者は南部藩士藤根吉品、筆録は元禄一一(一六九八)年九月であるという全くの異説もあるという。(以上は国立国会図書館デジタルコレクションの「南部叢書 第九冊」(昭和三(一九二八)年刊)中の「吾妻むかし物語」の「解題」を画像で視認して纏めた)。孰れにせよ、「江戸時代の初期」の成立であるとか、「僧徒などの手に成つたかと思ふ」という柳田國男の謂いは、全く外れていると言わざるを得ない。ここに示された「流され王」の伝承は同書の巻頭、「上之巻」の「第一 ながされ王の事」で、同コレクションのここから全文二ページに亙って視認出来る

「昔いつの頃か」「南部叢書」版ではここに割注があり『昔永德年中の事にや』とある。永徳は南北朝期に北朝方で使用された年号で、一三八一年から一三八三年まで。

「稗貫郡鳥谷ケ崎」「稗貫郡」(ひえぬきぐん)は現在の岩手県花巻市の一部に当たる旧郡名。「鳥谷ケ崎」は現在の地名にはないが、ここ(グーグル・マップ・データ)に鳥谷ケ崎(とやがさき)神社を現認出来る。現地名は岩手県花巻市城内であるが、次の瑞興寺とは七百五十メートルほどしか離れていないから、この花巻城南西部一帯を古くは「鳥谷ケ崎」と呼んでいたものかも知れない。

「瑞興寺」現在の岩手県花巻市坂本町に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。曹洞宗。

「元四海の主なり」「もと、四海(しかい)の主(あるじ)なり」もとは天下の王(天皇)である。

「坐す」「います」。自敬語。

「寺林村」稗貫郡に明治初年に存在した村名に中寺林村・北寺林村・南寺林村を認める。次の光林寺の現存位置から中寺林村、後の旧八幡村(はちまんむら)に相当する。

「光林寺」岩手県花巻市石鳥谷町(いしどりやちょう)中寺林に現存する時宗の林長山光林寺。瑞興寺の北九キロメートル強

「北野の君ケ澤」「北野」は原本に一般名詞の北の野原の意である旨の割注がある。「君ケ澤」は不詳であるが、瑞興寺と光林寺の間の何処かである。或いは「」(君子=天皇)はこの伝承から出た異名かも知れない。そういう目で見ると「宮野目」というこの区間にある地名などもそれらしく見えてくる。

「不來方(こじかた)」ウィキの「不来方」(こずかた)によれば、現在の岩手県盛岡市(花巻の北方に位置する)を指す言葉で、『「盛岡」が都市名として使われ始めた時期については諸説あるが、「不来方」は、少なくとも』五百七十年もの間、『存在する由緒ある名であることから、現在、盛岡の雅称として使われることがある』とあり、『南部氏による開府当時、居城名も「不来方城」であり、この時、都市名として「盛岡」という地名は存在しなかった』とある。『伝承によれば、かつてこの地には「羅刹」と呼ばれる鬼がいて、人里を荒らしまわっていた。このことに困っていた里人たちが、三ツ石(盛岡市に現存する「三ツ石神社」)の神に祈願したところ、鬼は神によって捕らえられた。この時、鬼が二度とこの地に来ない証として、岩に手形を残した。これが「岩手郡」、のちに岩手へと連なる地名の由来である。また、「二度と来ない方向」の意味で、一帯に「不来方」の名が付されたと伝えられている』とする。

「福士」福士氏。ウィキの「福士氏」によれば、『鎌倉時代から戦国時代に活動していた氏族。南部氏の家臣であり、三上、安芸、桜庭の三氏と並んで譜代の家柄で、「南部四天王」と称された』。河内源氏二代目棟梁源頼義の三男で、兄に源八幡太郎義家がいる、『新羅三郎義光の四男・実光を祖とする。 室町時代には南部氏に命じられて不来方城(慶善館・淡路館)を置いた』。明徳二(一三九一)年八月、『福士政長は将軍足利義満に不来方を賜り下向し、不来方城初代城主となった。政長は隠居後慶善に改名、これが現在の盛岡城跡の慶善舘の由来になっている。また、東顕寺は福士氏が開基の寺院であると伝えられる』。『南部氏は福士氏を目代として不来方の支配を図った』。『福士氏は九戸』(くのへ)『氏と親戚関係にあり、このため九戸政実の乱』(天正一九(一五九一)年に南部氏一族の有力者であった九戸政実が南部家当主の南部信直及び奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱)『の後は不来方城主の地位を失っている。不来方城は』、『その後』、『改築され』、『盛岡城になっていった。 その後、福士氏は八戸藩士となり』、『八戸の大慈寺の建設に携わっている』とある(下線やぶちゃん)。福士氏は滅亡したわけではないが、「流され王」「必ず末よかるまじ」という予言は的中しているとは言える。

「物六つかしく」「ものむつかしく」。何となく嫌、鬱陶(うっとう)しく。

「比爪(ひつめ)」岩手県紫波郡紫波町には旧城として樋爪館(比爪館)(ひづめだて/ひづめのたち)があったから、その方面であろう。比爪館跡は岩手県紫波郡紫波町南日詰箱清水でここ(グーグル・マップ・データ)。

「大槻木」欅(けやき)の古名。

「是は朕が不來方の道である」これは思うに「二度とは通らぬはずの道」、一度、通った道、則ち、津軽方面ではなく、逆戻りしていることを既に見た大欅で見破り、「誑」(たぶら)「かしてあらぬ方へ送」ろうとしていることを批難した言葉のように見受けられる。

「吉野のみかど、長慶院」南北朝時代の第九十八代天皇で南朝第三代天皇長慶天皇(興国/康永二(一三四三)年~応永元(一三九四)年/在位:正平二三年/応安元(一三六八)年~弘和三/永徳三(一三八三)年)。諱は寛成(ゆたなり)。ウィキの「長慶天皇によれば、『生い立ちは不明な点が多く、親王宣下の後に陸奥太守に任じられたらしいが』、『立太子に関しては確証を得ない』。二十六歳で『摂津の住吉行宮(大阪市住吉区)で践祚し』、『間もなく』、『弟の熙成親王を東宮とし』ている。『南朝は北畠親房らの重鎮を失って弱体化が著しく、天皇の事績に関しても明らかでないことが多い。また、天皇は北朝に対して強硬派の人物であったと考えられ、先代まで何度となく持ち上がった和睦交渉がこの代に入ってから全く途絶したことも、史料の少なさと無関係ではなかろう』とする。『践祚後間もなく』、『和平派の楠木正儀』(まさのり:南朝の有力武将であった楠木正成の三男)『が北朝へ降ったため』、同年(一三六八年)十二月、『吉野(奈良県吉野町)に後退し』、翌年四月には『河内天野の金剛寺(大阪府河内長野市)に移った』が、文中二/応安六(一三七三)年八月、『正儀らの先導で細川氏春・赤松光範の軍から総攻撃を受けて、四条隆俊ら』七十『人余りが討ち取られたため、再び吉野へ還幸することとなった』。翌年の『冬、伯父の宗良親王が信濃から吉野入りし、以後は歌合が盛んに催されている』。天授五/康暦元(一三七九)年九月までには『大和栄山寺(奈良県五條市)に移り、弘和元/永徳元(一三八一)年)十月には『宗良親王の私撰和歌集を准勅撰集』「新葉和歌集」とした。また、同年には「源氏物語」の注釈書「仙源抄」をも『著している』。『譲位の時期は判然としないが、朝要分の免除に関して利生護国寺に下した』弘和三(一三八三)年十月二十七日付の『綸旨が在位を確認できる最後の史料と目され』、『この後』、『程なく弟の東宮(後亀山天皇)に譲位したと考えられている。譲位に至った背景には、弘和二/永徳二(一三八二)年)閏一月に『正儀が南朝に帰参したことを受けて』、『和平派が台頭し、その勢力によって穏健な後亀山を擁立する動きがあったとみられる』。『譲位後』二『年程は院政を敷いていた証拠があり』、元中二/至徳二(一三八五)年九月に『「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に宸筆願文を納め』ているが、翌年四月、『二見越後守宛に下した院宣を最後に史料の上から姿を消している。その後は落飾して金剛理(覚理とも)と号し、禅宗に帰依した模様である』。元中九/明徳三(一三九二)年閏十月に『南北朝合一が成った際にも』、『後亀山天皇に同行して京都に入った形跡は見られない』。「大乗院日記目録」では、応永元(一三九四)年八月一日崩御で享年五十二であった、としている。『晩年の地については、吉野に留まったとする説の他、紀伊玉川里(和歌山県九度山町)とする説、和泉大雄寺塔頭の長慶院(大阪府高石市)とする説』、『あるいは京都に還幸したとみて、天竜寺塔頭の慶寿院(京都市右京区)とする説など諸説がある』。『若年から和歌に優れ、天授元(一三七五)年の「五百番歌合」、同二年の「千首和歌」(三百二十二首が現存)があり、「新葉和歌集」には「御製」として五十三首が『入集している。その歌風は平明で、大覚寺統伝統の二条派に属する』。他に「孟子集註」「雲州往来」「台記」などの研究も行っている。『なお、天皇は譲位後に南朝勢の協力を求めて、各地を潜幸したという伝説があり、全国に御陵伝説地が点在する。南部煎餅の祖とする伝承もある』(下線やぶちゃん。以下同じ)とある。御陵は『京都府京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町にある嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)に治定されている』が、『天皇の晩年の動向を伝える史料がないため、宮内省(当時)が近畿各地の寺社旧家や有力な伝説地などの調査を行った』ものの、『陵墓関係の資料は発見に至らなかった。しかし、皇子などの近親者が晩年は地方を引き上げて入洛していることから、天皇も晩年は入洛したことが推定される。また、別称の慶寿院は皇子の海門承朝(相国寺』三十『世)が止住した天竜寺の塔頭慶寿院に因むものであるから、天皇は晩年を当院で過ごし(当時天皇はその在所によって呼ばれた)、崩後はその供養所であったと思われる。したがって、慶寿院の跡地が天皇にとって最も由緒深い所と考えられ』て『治定された』。『一方、慶寿院は海門承朝が父天皇の崩後にその菩提を弔うために創建したもので、生前の居所ではないとする見解もある』。『その他、長慶天皇の御陵と称する墳墓は全国各地に点在しており、青森県青森市・弘前市、岩手県二戸市、群馬県太田市、山梨県富士吉田市、富山県砺波市、富山県南砺市、奈良県川上村、和歌山県九度山町、鳥取県鳥取市、愛媛県東温市など』、二十『箇所以上に及ぶとも言われている』(このバラエティに富んだ墳墓伝承は、まさに「流され王」に相応しい)。

「天和年間」一六八一年~一六八四年。

「津輕浪岡城」青森県青森市浪岡にあった城。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「によれば、文中二(一三七三)年に『平安京を模して』、『敷地の四隅に祇園(現・北中野広峰神社)、八幡(現・浪岡八幡宮)、加茂(現・五本松加茂神社)、春日(現在は廃社)の各神社が配置されていた。その後、北畠家の支族である浪岡北畠氏の居城として長禄年間、応仁年間、または文明年間のいずれかに北畠氏』第四『代北畠顕義によって建造された。中で応仁期が有力とされる』。天正六(一五七八)年、『浪岡北畠氏』第九『代北畠顕村の代に』、『大浦為信(後の津軽為信)によって攻められ』、『落城した』とある。]

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