子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 生きて相見る汝と我
生きて相見る汝と我
七月半(なかば)あたりから八月へかけて、居士は実に頻繁に手紙を書いた。それも長文のものが多く、鳴雪、飄亭、碧梧桐、虚子の諸氏に宛てたものが大部分を占めている。健康が漸く回復に向ったのと、東京を離れて談敵がないため、居士をして如上(じょじょう)の人々に多く書を寄せしめることになったのであろう。居士の「陣中日記」を見ると、神戸から広嶋へ向う途中のところに「月明須磨を過ぎて春夢婆娑(ばさ)たり」とあって、
兩三漁戸渺春波
山下斷碑涕淚多
一去芳魂招不返
靑松烟月古須磨
兩三の漁戸 春波 渺(びやう)たり
山下(さんか)の斷碑 涕淚 多し
一たび去らば 芳魂(はうこん) 招けども返らず
靑松 烟月 古への須磨
の詩及(および)
立ち出でて蕎麥屋の門の朧月
の句を録し、「たゞ思ひやるばかりになん」と附加えている。陣中の無理が遼東海の喀血となり、神戸病院に九死に一生を得て、思いやったばかりの須磨に保養生活を送るということは、往路の居士の全く予期しなかったところに相違ない。今や須磨は居士の朝夕散歩する舞台になった。小説「月見草」及「叙事文(じょじぶん)」の中の引例に出て来る須磨の描写は、この時の見聞によるものである。七月二十七日鳴雪翁宛の手紙には「當地景色はよろしけれど何處へ行ても變化なき處なれば發句にも成不申候」と書いてあるが、
曉や白帆過ぎ行く蚊帳の外
入口に麥ほす家や古簾
すゞしさや須磨の夕波橫うねり
夏山の病院高し松の中
人もなし木蔭の椅子の散松葉(ちりまつば)
鹽谷
夏館(なつやかた)異人住むかや赤い花
など、須磨滞在中の作は決して少くなかった。
[やぶちゃん注:「婆娑(ばさ)」「婆娑」は当て字で、一種のオノマトペイア。元来は「舞人の衣の袖の翻るさま」で、そこから「影などの対象物が乱れ動くさま」となり、聴覚的にも「物に風や雨などが当たって、がさがさと音を立てるさま」となった。ここは歌枕としての須磨、そして月明に仄かに見える侘しい漁村の景が、厭がおうにも、心を刺激して穏やかでなくさせるさまを言っているのであろう。
「兩三の漁戸」二つ、三つ、僅かに寄り添うように侘しく建っている貧しい漁師の家々。
「渺(びやう)たり」月明のうち乍らも遠く遙かで果てしない。底本の蜂屋邦夫氏の訓読は『渺(はるか)なり』。
「山下の斷碑」従軍へ向かう筆者という事実、ロケーションの史実、及び「山下の」崩折れた碑となると、私は須磨の手前の一の谷から西一帯の海岸、源平の戦いに於いて「一の谷の戦い」の舞台となった「戦(いくさ)の濱」(知られた「鵯越えの坂落とし」はこの裏手の断崖)にでもあった旧蹟を示した毀ちた碑の謂いか。敦盛の死など、「涕淚多し」は腑に落ちる。
「月見草」明治三〇(一八九七)年作か。未完と思われる。前に出した国立国会図書館デジタルコレクションの「子規小説集」の画像でここから視認出来る。
「叙事文」『日本』の明治三三(一九〇〇)年一月二十九日・二月五日・三月十二日発行分に分載。
「鹽谷」現在の兵庫県神戸市垂水区塩屋町(しおやちょう)。須磨地区の西に接する。ここ(グーグル・マップ・データ)。明治末から大正期の垂水地区は須磨の一部として別荘地・避暑地として人気となり、後には外国人住宅街も出来た。]
居士が須磨の地を去ったのは八月二十日であったが、八月二十五日の『日本』に「養痾雑記(ようあざっき)」を掲げた。第一回は「疾病」及「須磨」の二篇である。居士は外人の住宅と旅館、下宿屋の多くなった須磨の変化を叙し、「髮は風に吹かせ袂にもしほたれ桶(をけ)荷(にな)ひ來て汐汲(しほく)みしくはし少女はいつしかかき消えて、束髮に薔薇の插頭(かざし)をさし天然の曲線を現して海水浴するは見馴れぬ令孃なり。文明の利器は後添(のちぞへ)の妻にして、さきの少女のためには繼母にやなりぬらん。あはれまゝ母はやさしき少女を無殘に打ち殺したることよ」という譬喩的筆法を用いている。「異人住むかや赤い花」の句もまたその文中にある。
[やぶちゃん注:「養痾雑記」「国文学研究資料館所」の山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵「子規随筆 続編」(子規没後直後の出版)の画像で読める(それで校訂した)。該当箇所は「須磨」の末尾、原書の百六十六頁である。「痾」は「こじれて長引く病気」の意。この警喩文、私はすこぶる好きだ。
「くはし」「細し」「美し」で形容詞シク活用。麗(うるわ)しい。細やかで美しい。]
須磨を去った居士は途中岡山に一泊、広嶋に飄亭氏を訪れた。飄亭氏の帰国は七月未だったらしいが、予備病院付として引続き広場にあったのである。この会見の顛末を「夢か」と題して『日本』に送ったのは、居士でなしに飄亭氏であった。相見ざること一年余に過ぎぬが、居士はこの間に危く一命を失わんとし、飄亭氏は硝煙弾雨を潜って各地に転戦した。居士が先ず筆を執って「秋風や生きてあひ見る汝と我」と書し、飄亭氏が「計らざりき君この秋を生きんとは」と和したのも決して誇張の言ではない。
広嶋滞在二日の後、八月二十五日居士は松山に入った。二番町の漱石氏の寓居に同宿するようになったのは、著松(ちゃくしょう)後(ご)幾日かたってからであろう。従軍前松山に立寄った時にも、松風会なるものが已に存在しており、送別の句などがあったことは「陣中日記」にも見えているが、再度の居士の来松を得て、故山の俳句熱は俄に盛になった。九月七日碧梧桐氏に宛てた手紙に「夏目も近來連座連中の一人に相成候。訪問者多きと多少の体溫の昇降あるとの二原因にてまだ道後へも三津へも高濱へも參らず」とある。この訪問者の大多数は松風会の連中だったのであろう。同じ手紙に「歸郷後手紙を書くことうるさく相成」とあるのも、訪問者が多いため、須磨時代のような閑暇を見出しにくくなったに相違ない。
[やぶちゃん注:「松風会」(しょうふうかい)は子規直系の『日本』派の俳句結社で、全国に先駆けて、明治二七(一八九四)年三月二十七日に発足していた。参照した現在も続く同会の公式サイト「愚陀佛庵」の解説によれば、当初の『会員は、松山市立高等小学校校長・中村一義(号 愛松)、教員・野間門三郎(号 叟柳)ら、同校の教員だけで構成されて』いたが、翌、明治』二十八『年夏から秋にかけて、病身の正岡子規が夏目漱石の下宿・愚陀佛庵に』五十二日も『の間、同居し』『たが、松風会の面々は連日、愚陀佛庵で子規の熱心な指導を受け』、『いつの間にか』、『夏目漱石も句会に加わり、夏目漱石も多くの秀句を残す俳人とな』った。『松風会は大正初期まで続』いた。『「松風会」の「松」は「松山」の「松」。「芭蕉」の「蕉」にも通じるもの』である、とある。]
漱石氏の俳句はこの時にはじまったわけではない。二十二年の最初の喀血当時、居士に宛てた手紙の中に已に時鳥の句が二句記されているから、年代からいうと鳴雪、諷亭、碧梧桐、虚子の諸子よりもかえって古いことになるかも知れぬ。その後も居士宛の手紙には時折俳句が記してあり、『小日本』には何句か掲げられてもいる。居士が「明治二十九年の俳句界」の中で、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る」といったのは、従来よりも力を用いるようになったことを指すのである。前に引いた神戸病院宛の手紙に「小子近頃俳門に入らんと存候、御閑暇の節は御高示を仰ぎ度候」とあるのを見れば、居士の来松以前から作句の心は動いていたので、松風会の人々によってそれが促進されたに外ならぬのであった。
[やぶちゃん注:「二十二年の最初の喀血当時、居士に宛てた手紙の中に已に時鳥の句が二句記されている」岩波旧全集の書簡の書簡番号一。明治二二(一八八九)年五月十三日附正岡常規(本郷区真砂町常盤会寄宿舎)宛書簡(牛込区喜久井町発信・署名「金之助」)の末尾に載る二句。大喀血直後の見舞い状である。因みに、この折りの医師の診断によって肺結核と極まった。
歸ろふと泣かずに笑へ時鳥
聞かふとて誰も待たぬに時鳥
後の追伸文に『僕の家兄も今日吐血して病床にあり斯く時鳥が多くてはさすが風流の某も閉口の外なし呵々』とある。]
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