原民喜 鶯
[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年四月号『文藝汎論』初出。
底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、今まで通り、戦前の作品であること、歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を概ね恣意的に正字化することが原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。傍点「ヽ」は太字に代えた。
本篇はネット上では電子化されていないと思われる。
明日は原民喜の命日である。【二〇一八年三月十二日 藪野直史】]
鶯
その友達は私の部屋に這入つて來るなり、机の上にドカンと腰を下した。ポケツトから煙草を出してマツチを擦つた。
ところが非常にあわてて擦つたものとみえて、マツチ箱に火が移つて、しゆつと燃え上つた。チエ! といまいましさうに舌打して、友達は燃えてゐる箱を窓から道路の方へ捨ててしまつた。
なほ、何だかいまいましさうな容子で、眉の邊をもずもずさせてゐる。むにやむにや! 今日は大變面白くなくて立腹だぞ! とその顏には書いてある。
それで、私は何だか濟まないやうな氣持になり、ぐつたり草臥れてしまふ。すると、友達はひよいと私に對つて憐むやうな視線を投げつけると、また何か腹が立つらしく、顏をそむける。それから、また一寸私の顏を睥み、顏をそむけては煙草を一服吸ふ。五六度そんな痙撃的な動作を續けてゐるうちに、自分でもをかしくなつたのか、破顏一笑して机から離れた。それから友達は五六囘部屋の中をぐるぐる𢌞つてゐたが、ひよいと私に對つて「表へ出ようぜ」と云ひ殘すと、どかどかと廊下へ步き出した。
私は友達が投げつけた鈎のやういな合圖に引懸つて、そのまま彼の後について行く。友達は玄關のところで、二三足の下駄を忌々しさうに蹴散らかすと、道路へ出た。
何時の間にか外は夜になつてゐて、露次にはさつき友達が投捨てたマツチの箱がまだ美しく燃えてゐた。すると、友達はその側を通りかかつて、非常に怒つて、私の方を振返つた。そして靴のさきをくるくる𢌞しながら、その火を消すと、なほぶつぶつ何か不平さうに呟いて步く。
その露次には貧相な侘しげな家ばかり並んでゐて、路が凸凹なので、友達はその惡口を云つてゐるらしい。かういふ貧相なところへ私が下宿して不景氣な顏して學問するなんて、以ての外であると云つてゐる。第一、お前なんか、ぐにやぐにやのべらべらの腦味噌しかない、と、その友達は肩でさう云ふことを私に暗示しながら步いてゐる。
私は次第に情なくなつたが、恰度左手に支那料理屋があるので、其處で一杯のそばでも食べたら、その、べらべらのぐにやぐにやの腦味噌が少しは肥えるかと思へたので友達の肩をそつと叩いた。すると友達は「何!」と振返つて物凄い眼つきで私を睥みつけたが、ふと合點して微笑むと、亂暴に支那料理屋の扉を蹴つて開けた。
そこには普通の女の三倍もありさうな大女が、ぺつたりと後の壁に凭掛つた儘腰掛けてゐた。大變あてやかな茫とした顏で、時々彼女は思ひ出したやうに小さなあくびをした。すると、透きとほつたあくびの輪がふわふわと浮いて友達の鼻さきに漾つて來る。そのふんわりしたあくびの輪のために友達の氣持も少しは鎭まつたのか、妙に子供らしい顏つきになつた。
ところが間もなく友達はすぐ隣りのテーブルに鳥籠が置いてあるのに眼をつけた。その烏籠のなかには玩具の鶯がゐて、五錢白銅貨を入れると囀り出す仕掛になつてゐた。友達はポケツトから大きな蟇口を出して、五錢白銅貨を投じたが、鶯は一向に啼かない。で、友達は籠を手許に引寄せて、さかさまに搖すぶつてみたり、橫にしてみたり、不器用な手つきで修繕しようとし出した。どうしてもうまく行かないので、チエ、チエ、と一度に二囘の舌打をしながら一生懸命工夫した。友達の頰は焦れて靑ざめ、眼球は乾いて光り出した。
そのうちに鶯はホーホと一聲啼いたが、それはまるで彼を調弄つてでもゐるのか、後はもう絶對に續けなかつた。到頭、友達は引込みのつかない程、憤然とした。そして、輪を吹く女と私を交互に睥んで、今にも兩方へ喰つてかからうとした。
その時、女は靜かに懶さうな顏をして、壁の隅の方を指差した。友達も私も何事かとその方角を眺めると、そこには鉢植ゑの酸漿があつた。奇妙なことに、その眞紅に熟してゐる酸漿の實は時々、枝が自然に土の方へ吸ひ寄せられ酸漿が土に接する度に、じゆつ、じゆつと鳴る。鳴つてはまた上の方へ釣上げられ、暫くするとまた土に近づいて來る。何だかその袋は女の眉のやうに思へて、私には段々氣味惡くなつた。酸漿の上には雨が降つて來て、あたりはまつ暗になり、ただ赤い塊りだけが、じゆつ、じゆつと緩い運動を續けてゐた。
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