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2018/03/13

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 八カ月ぶりの帰京

 

     八カ月ぶりの帰京

 

 神戸病院に入院中、九月中には帰京するつもりだといっていた居士は、十月になってもまだ松山を去らなかった。松風会の人々との間には、運座の外に連俳なども試みられたらしく、「養痾雑記」の「俳諧連歌」の中に歌仙が一つ採録してある。居士の連句非文学説は「芭蕉雑談」の中にあり、後々までよく引合に出されるが、連句を否定する意味の説でないことは、居士自身にも連句の作品が遺っているのみならず、「俳諧大要」の中に特に「俳語連歌」の項目を設けている一事に見ても自(おのづか)ら明(あきらか)であろう。

 松山滞在中、居士は逆上のために鼻血を出して、一週間ばかり寝たことがある。これは毎日運座で夜を更すからだという話であったが、居士は連座ばかりでなく、時に郊外写生を試むべく石手寺(いしでじ)あたりへ行ったり、村上霽月(せいげつ)氏を訪(と)うて、共に今出の海岸を歩いたりもした。十月十日鳴雪翁宛の手紙には「當地俳士少しは眼あき候へども何分にも速成教授故不完全至極にて殘念に存候。しかし近日法華涅槃を説て出立のつもりに御座候(あるいは恐る今日の説法は華嚴となりて法華涅槃はなほ数年の後にある事を)」とあり、「每日つめかける熱心の連中は祿堂、愛松、三鼠、梅屋、叟柳(そうりゅう)の徒に有之候」ともいっている。禄堂というのが柳原極堂(きょくどう)氏のことである。居士が『日本』に連載した「俳諧大要」は、はじめ「養痾雑記」の一部であったのを、中途から独立の読物にしたのであるが、大体は松風会の人々に説いたところが基礎になっているのであろう。

[やぶちゃん注:「石手寺」愛媛県松山市石手にある真言宗熊野山(くまのさん)虚空蔵院石手寺と号す。(グーグル・マップ・データ)。

「村上霽月」(明治二(一八六九)年~昭和二一(一九四六)年:子規より二歳歳下)実業家で俳人。愛媛県松山生まれ。名は半太郎。一高に学び、後、郷里で銀行頭取・信用組合連合会長などを務めた。正岡子規・内藤鳴雪に師事し、子規の『日本』、柳原極堂の『ホトトギス』に投句、後に古今和漢の漢詩に唱和した「転和吟」を創始し、独自の俳句道を歩んだ(思文閣「美術人名辞典」に拠る)。

「華嚴」仏になるための修行を華に譬え、その華で仏の位を飾る意で、多くの修行・功徳(くどく)を積んで徳果が円満にそなわって行く過程の意、真の仏となる(「法華涅槃」)条件を備えるプレの意で持ちいているようだ。

「祿堂」「柳原極堂」(慶応三(一八六七)年~昭和三二(一九五七)年)は伊予国温泉郡北京町(現在の松山市二番町)生まれの俳人。ウィキの「柳原極堂によれば、本名は正之。明治七(一八七四)年に藩学明教館に入り、大学の素読を受けた。明治一四(一八八一)年に松山中学(現在の愛媛県立松山東高等学校)に入学したが、この時、在学していた同い年の正岡子規と親交を深め、後、明治一六(一八八三)年に正岡と謀って、松山中学を中退、上京、『共立学校(現在の開成中学校)を卒業し』、明治二二(一八八九)年に『松山へ戻り』、『海南新聞社に入社した。 新聞記者の傍ら』、明治二七(一八九四)年には『松風会を結成し、「碌堂」と号する』。翌年、『日清戦争から帰還療養中の正岡を夏目漱石の愚陀仏庵に訪ね』、『松風会員とともに俳句の指導を受けた』。明治二十九年には『正岡に勧められ』、『号を「極堂」に変え』、明治三〇(一八九七)年には、かの月刊俳誌『ほとゝぎす』を創刊した(二十一号以降は『高浜虚子に有償譲渡』)。後に『鶏頭』を創刊した。明治三二(一八九九)年)に『松山市議会議員に当選し、以後』、四『回市議を務め』た。明治三九(一九〇六)年には、『再創刊した伊予日々新聞の社長と』なり、昭和二(一九二七)年の『廃刊まで新聞の発行にも力を注いだ』。『晩年は子規研究およびその顕彰に捧げられ』た。句集に「草雲雀」がある。

「愛松」松山市立高等小学校校長中村一義の俳号。

「三鼠」岡村恒元の号。正岡子規の母八重の弟、子規の叔父に当たる。子規の母方は大原姓であるが、三鼠は親戚岡村家に養嗣子として入ったため、姓が違う。ブログ「伊予歴史文化探訪」の三鼠の句に拠った。

「梅屋」「ばいおく」と読む。大島嘉泰(明治二(一八六九)年~?)松山市生まれ。松山高等小学校教員。夏目漱石の下宿先であった愚陀仏庵の南隣りが彼の家であった。ネットの複数の記載を参照にした。

「叟柳」松山高等小学校教員野間門三郎(元治元(一八六四)年~昭和七(一九三二)年)。以下は愛媛句碑り」に拠った。松山藩士の家に生まれた。三歳年下の子規とは家も近く、末広学校・勝山学校と同窓で、竹馬の友であった。明治一四(一八八一)年、『愛媛師範学校入学』、明治十七年からは『教員生活に入』った。『父が奥平鶯居門の宗匠で「一雲」と号す人であったため、早くから発句に親しむ。やがて』、『下村為山に師事。松山高等小学校在職中の明治』二七(一八九四)『年、同校校長であった中村愛松・伴狸伴・叟柳の』三『人が発起・主唱者となって開いた句会が“松風会”の発端である。以来、同校教員を中心として、週』一『回の句会を重ね』た。翌年(本文の、この時)、『日清戦争従軍記者となった正岡子規の歓送会を機に、この松風会と子規の交流が始まる』。『子規が帰国後、夏目漱石の下宿愚蛇仏庵で療養生活を送った』五十二『日間は、松風会の無上の勉強の場となった。やがて帰郷する子規の送別会の席上、叟柳は』、「行く秋を君歸りけり歸けり」『と詠んだ』『松山第三小学校』『校長・第一小学校校長を経て、晩年は松山市の私学第一課長の職にあったこの人の、松風会への思いは並々ならぬものがあり、晩年に及んでもその重鎮として地方俳壇に尽くした功績は大きい』とある。]

 

 十月十九日、居士は魅山を出発して帰京の途についた。広嶋から須磨まで来たところ、左の腰骨が痛んで歩行困難に陥り、やや癒ゆるのを待って大阪、奈良などに遊んだ。有名な

 

   法隆寺の茶店に憩ひて

 柹くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 

の句はこの際のものである。居士は奈良に三日ほど滞在して多くの句を得、かつ奈良と柿という新しい配合を発見して非常に興味を感じた。奈良の宿屋では錦手(にしきで)の大丼に盛った御所柿を食いながら、寂しい月夜に鳴る東大寺の初夜の鐘を聞いた。

[やぶちゃん注:「錦手」赤・緑・黄・青・紫などで上絵(うわえ)をつけた陶磁器。「五彩」「色絵」「赤絵」などとほぼ同義で、古伊万里などで多く用いられる呼称である。]

 

 居士が東京へ帰ったのは十月三十日である。神戸病院を出て直ぐ購ったというヘルメット帽を被った居士は、新橋駅に鳴雪、碧梧桐、虚子の諸氏の出迎を受けたが、腰痛はなお去らず、顔色もよくないようであった。八カ月ぶりで根岸の草蘆(そうろ)に入った感懐は次の詩がほぼこれを尽している。

 

  從軍得病稍癒而歸京

 從軍期死別

 寧計得餘生

 收淚兒侍母

 擎杯妹慶兄

 夜山當牖黑

 白菊映燈明

 三徑就寥落

 猶能不世情

   從軍して病を得、稍(やや)癒えて京に歸る

  從軍して死別を期(き)し

  寧(あ)に計(はか)らんや 餘生を得

  淚を收め 兒(こ)は母に侍(じ)し

  杯を舉擎(ささ)げて 妹は兄を慶(いは)ふ

  夜の山は牖(まど)に當りて黑く

  白き菊は燈明に映(は)ゆ

  三徑 寥落(れうらく)に就いて

  猶ほ能く世情ならざるがごとし

[やぶちゃん注:「三徑」庭の小道。

「寥落」荒れ果てて凄まじいこと。荒廃すること。

「猶ほ能く世情ならざるがごとし」蜂屋邦夫氏の訓読は『猶ほ能く世情ならず』と訓じておられるが、私はこれでは意味が採れない。私はかく訓じて、「荒れ果てて、しかもなお、私の身の回りの自然は世情のように薄情ではないようだ」の意で採る。以下の後の「小園の記」の感懐でも述べている通り、これは陶淵明の「歸去來辭」のインスパイアだからである。]

 

 後に「小園の記」の中で「一年軍に從ひて金州に渡りしが、その歸途病を得て須磨に故郷に思はぬ日を費し、半年を經て家に歸り著きし時は秋まさに暮れんとする頃なり。庭の面(おもて)去年(こぞ)よりは遙にさびまさりて白菊の一もと二もとねぢくれて咲き亂れたる、この景に對して靜かにきのふを思へば萬感そゞろに胸に塞(ふさ)がり、からき命を助かりて歸りし身の衰へはたゞこのうれしさに勝たれて思はず三逕就荒(さんけいしゆうこう)と口ずさむも淚がちなり。ありふれたるこの花、狹くるしきこの庭がかくまで人を感ぜしめんとはかつて思ひよらざりき」と記したのも、この詩に詠じたところを更に委しく述べたものである。「三逕就荒。聽菊猶存。(三遷荒に就いて、松菊猶ほ存せり)」という「帰去来辞」の句を、この時ほど身にしみて感じたことはかつてなかったのであろう。

 帰京後の居士は臥褥(がじょく)がちではあったけれども、筆硯(ひっけん)を廃するほどではなかった。『日本』には依然「俳諧大要」を掲げ、帰京の挨拶を兼ねた手紙を各方面に送っている。その手紙は短いものが多く、須磨時代のような悠々たる趣を見出しがたいのは、健康の加減もあるに相違ないが、帰来匇忙(そうぼう)、気分が落着かなかったためであろうと思う。

[やぶちゃん注:「帰来匇忙」孵り来るや否や俄かに忙しくなることの漢文表現。]

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