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2018/03/21

御伽百物語卷之三 七尾の妖女

 

    七尾の妖女

 

Nanaonoyoujyo

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。以下、和歌は前後を一行空けた。和歌の上句と下句の一マス空けは底本による。原典では総て上句と下句が分かち書きとなっている。]

 

 能州七尾といふ所にちかき片在所に住みける、杉岡の團助とかやいひけるは、そのかみ、名ある武士の果(はて)なりしが、今ほどは農家に業(わざ)なれて瑣細(ささい)なる菜園に身をくるしめ、濱路(はまぢ)に魚を乞ひて渡世のたすけとなし、幽(かす)かなるくらしなりけれども、さすがに取り傳へし弓矢のかた氣(ぎ)は失はず。万(よろづ)に心を付け、仁義正しく、すなほなるものから、郷民(ごうみん)も心をき、情をかはしける程に、何事につけても、さのみ不自由なる事なくて暮しけりとぞ。

[やぶちゃん注:「能州」能登国。

「弓矢のかた氣(ぎ)」「武士氣質(ぶしかたぎ)」。如何にも武士らしい本来の気風。

「心をき」「心置(こころお)き」(歴史的仮名遣は誤り)。何くれとなく気遣いしてやり。]

 

 ある日、彼(かれ)が家に井を掘りかゆる事ありしに、底より一つの木の根を掘り出だせり。そのかたち、臂(ひぢ)のごとくにして、節の所などのあら皮を見るに、茯苓(ぶくれう)などの類(たぐひ)に見えて、香氣、また白朮(びやくじゆつ)に似たり。

[やぶちゃん注:「井を掘りかゆる」井戸を浚って、さらに底を掘り、井戸替えをする。

「茯苓(ぶくれう)」歴史的仮名遣「ぶくりやう」が正しい(現代仮名遣は「ぶくりょう」)。アカマツ・クロマツなどのマツ属の植物の根に寄生する菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド(松塊)Wolfiporia extensa の菌核の外層をほぼ取り除いた生薬名。利尿・鎮静作用がある。

「また白朮(びやくじゆつ)」キク目キク科オケラ属オケラ Atractylodes japonica の根茎。生薬。健胃・利尿効果がある。]

 

 團助夫婦、是れを見て、

「如何さま、故ある木にてこそあるらめ。」

とはおもひながら、何に遺ふべしとも辨(わきま)へ得ず、只うち捨てても置きがたくて、佛壇のうへなる棚にあげて、人にもかたらず、あやしとも思ひたらねば、また尋ね見る事もなかりけり。

 其家、殊更に佛法を信じけるほどに、ひとりありける娘に、持佛堂の世話を任せ、花を折り、香をもらせけるに、此むすめ、いまだ十六、七なりしが、親の心ざしをつぎて、是れも佛法に信(しん)ふかく、朝も疾く起きて香花(かうげ)をとり、暮るれば御灯(みあかし)をかゝげて、念誦、おこたらず。

 器量、人に超え、容顏、花をあざぶくほどの生れなるに、身をえうなきものにおもひとり、世をはかなきならひに見なしつゝ、ゆくゆくは尼にもと迄、つねづねにいひもし、心にもかけゝるほどに、父母も時おりふしはとかく教訓し、云ひなだめなどして、尼になさん事をぞ、悲しみあひけるほどまで、つよかりし心のむすめなりしが、ある日、佛壇に入りて香をとらんとせしに、佛壇の間(ま)に、人あり。

「こはいかに。」

と、さしのぞきて見れば、年のほど廿ばかりなる男の、器量、世にすぐれたるが、折(をり)えぼし・直垂(ひたゝれ)して、いとなれがほに、此むすめを見て、さしまねくなりけり。

 娘も見馴れざる姿に、

「はつ。」

と氣(き)をのぼらせ、むなさはぎしけれど、又、さありとて、此やんごとなきさましたる人を、つれなくあらゝかに恥かしめんも、かたはらいたくて、

『よしよし、何人にもあれ、かゝる方に忍び入りたらん人の、よもや、盜みなどいふ事する程には、あらじ。とかくすかしたてゝ歸しこそせめ。』

など、さまざまにおもひさだめて、やをら、さしよれば、此おのこ、彼のむすめの袖をひかへて、

 

 むさし野の草葉なりともしらすなよ かゝるしのぶのみだれありとは

                                                  

とかや、なれなれしげなり。

 娘は、いとおもはずなる事に顏うちあかめ、

「こはいつの程いかなる風(かぜ)の傳(つて)にか。花すゝき、ほの見えし色は思ひしみ給ひし。そも御身はたぐひなき御事と見まいらせしうへ人の、かくあまざかるひなの我しも、かくおぼしよりけるにか。いと心えずこそ。」

といへば、彼のおのこ、いふやう、

「いやとよ、かゝる戀路には高き賤しきのへだといなきを。さのみ、ないひおとしめ給ひそ。五條わたりのかいまみに何がしの院までさそひし人もあるものを。木の丸殿(まるどの)ならずとも、いさや、ゆくゆくは名乘りこそせめ。」

とて、

 

 あさからぬこゝろのほどをへだつなと かずならぬ身ぞおもひそめぬる

 

といひつゞくるに、むすめも、

 

 かねてより人のこゝろもしらぬ世に ちぎればとてもいかゞたのまん

 

と、やうやうにつらね出でて、いとはづかしげなり。

[やぶちゃん注:「へだとい」不詳。「隔て」の意ではあろう。或いは「隔てといふはなきを」か。

「五條わたりのかいまみに何がしの院までさそひし人」言わずもがな、光源氏。夕顔を見染めてなにがしの院へ誘ったことを指す。

「木の丸殿」「き(こ)のまる(まろ)どの」。丸太で造った粗末な殿舎の謂いであるが、特にここは歌枕として知られる、現在の福岡県朝倉市の山中に、天智天皇が亡くなった母斉明天皇の喪に服すため、伐り出したままの丸太(黒木)で建造した「黒木の御所」を指すものと思われる。「十訓抄」の「第一」の二番目にある「天智天皇の木の丸殿 朝倉やの御歌」に、

   *

 天智天皇、世につつみ給ふことありて、筑前國上座の上毛郡朝倉といふところに、山中に黑木の屋を造りておはしけるを、「きのまろどの」といふ。まろ木にてつくる故なり。

 今、大嘗會の時、黑木の屋とて小野の斎場所に造る、かの時の例(ためし)也。民を煩はさず、宮つくりも倹約を旨とせられけるなり。唐堯の宮に、土の階(はし)を用ゐ、茅(かや)の軒をきらざりける例なり。

 扨、かの「きのまろ」には、用心をし給ひければ、入り來る人、必ず、名のりをしけり。

 

 朝倉や木のまろどのにわがをれば名のりをしつつ行くは誰(た)が子ぞ

 

これ、天智天皇の御歌なり。これを民ども聞きて、うたひそめたりける也。

  *

という話の「名のり」を掛けたのであろう。]

 

 又、おとこ、

 

  をろかにはわれもちぎらじいときなき 心にたのむいろを見るより

 

などなぐさめて、持佛すへたるかたには屛風を物のけぢめにて、しどけなくそひぶしの夢をぞ見る。

 まだふみも見ぬ戀路なれば、娘も心あはたゞしく、はづかしうおもひて、ふしゐたり。

 おとこは、此ほど、心をつくし、神に祈りなどせしありさま、ゆくすゑ迄のあらまし事、何かといひつゞけつゝ、いとむつましう美しとおもへるさま也。

 かくて逢ふほどに、けふと暮れ、明日とかはりゆく日數(ひかず)の、半年ばかり、人しらぬ逢瀨、うれしく、たがひに心をかよはし、やさしきちなみ、あさからずありけるほどに、今は此むすめも人の目たつる迄、替りたる心いれとなり行きけるを、二人の親も、

「如何にぞや。」

とおもへど、終に人の通ひ來て、かゝるわりなき交りをすべき覺えもなければ、さのみ、心をつけて窺ふべき氣もつかざりしに、いつとなく、身もちにさへ、なりぬ。

 娘も今はしのびはつべき態(わざ)にもあらず思ひかねて、母の親に語りけるにぞ、始めて、忍び妻(つま)[やぶちゃん注:「夫(つま)」。]ありとは、しりける。

 されども、此男、つねに持佛の間にのみありて、行き返る躰(てい)もなし。まして、はかなきく菓物(くだもの)[やぶちゃん注:仏壇の供物のそれ。]をだにくふとも見えねば、母もあやしさの數のみ增さりながら、獨りあるむすめの名をいかにせんなど思ひ煩ひける内、いつも、秋のころは請(しやう)じいれて齋(いつ)き參らする寺より、例の祥月(しやうつき)とて僧の來たりけれども、持佛の間には、さきだちてやごとなき人の入り來たりて、深く隱れたるにや、と見えて、入るべき方の戸を堅くおさへけり、と覺えしかば、先づ、しりぞきて俳諧居(ためらひゐ)たりし隙(ひま)に、娘は母の親とつれて、寺まいりを仕(し)たりける。

 跡にて、父の親、この僧と心をあはせ、持佛の間に立ち入りける時、鴿(はと)壹羽(いちは)ありて、俄に、

「はたはた。」

と翥(はゞたき)して飛び去りぬ。

 其ゆふべより、又、この娘、ふたゝび彼のしのび妻を見ず。

 さびしき閨(ねや)にひとりねの枕ものうく、人しれず、

「戀し。」

と歎きおもひながらも、猶、人めつゝみの高ければ、それとだにゑいひもやらず、あづま路の佐野の船橋(ふなばし)とりはなし、親、さけにけん時、

『いかばかり、我を「うし」とや見たまふらん。』

と、おもへば、いとゞ手枕(たまくら)も、うくばかり、淚、こぼれて、

 

 けふはまたつらさをそへてなげくかな ねたくぞ人にもらしそめぬる

 

など、ひとりどちて、おきふしなやみがちなりしが、七月といふころ、けしからぬなやみおこりて、産のやうす、ありけるまゝに、親ども、あはたゞしく悲しみいたはりて生ませけるに、人にはあらで、彼の井戸よりあがりたる木に、すこしもたがはざるものを、三節まで、産みたり。

「さればよ。怪しかりける事を。」

とて、彼の持佛のうへの棚に上げたりし古木(ふるき)を取りおろして見けるに、はや、さんざん、蟲つゞりて、くだけたりしかば、持たせやりて[やぶちゃん注:下男辺りに、であろう。]捨てつ。

 今、この娘のうみたる木は、廣庭(ひろには)に出だし、芥(あくた)をつみて、燒きつくしけるが、其後(そのゝち)、何の事もなかりけるとかや。

[やぶちゃん注:しかし、この怪談、考えてみると、標題、ヘンくね? 「妖女」ではないべ?! 奇体な腕みたような木片を産んだからって、それじゃ、余りに、この娘が可哀想じゃ! 彼女に憑いた木霊か何だか(鳩に変じて出て行った得体の知れぬ物の怪は何だ? 神鳥の鳩と物の怪は親性がかなり良くないぜ)は何よ? それに信心深い彼女がかくも不幸になるのは杉岡団助の前世の因縁かなんかかい? その辺をまるで語らずに聴いたような尻のムズムズするような和歌を並べておいてカタストロフに持ち込むという構成は、儂は、嫌いだね!!!

「あづま路の佐野の船橋(ふなばし)とりはなし」「万葉集」の「卷第十四」「上野國相聞徃來歌廿二首」の中の一首(三四二〇番歌)、

 

 上野(かみつけ)の佐野の舟橋(ふなはし)とりはなし親は離(さ)くれど吾(あ)は離かるがへ

 

に基づく。「上野の佐野」は現在の群馬県高崎附近。「舟橋」舟を繫いでおいて、その上に板を置き渡して作った橋のことで、その結ばれた綱を「取り放す」から、下句の「離くる」(解き放させる・仲を裂く)を引き出すための序詞。「がへ」は「かは」の訛りで、強い否定を伴った疑問。私はどうしてあなたと離れましょうか、いえ、決して、離れませぬ。

「人めつゝみ」「人目包み」人の見る目を憚って殊更に隠れる、或いはあることを隠すこと。ここは男への激しい恋情。]

 

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