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« 青木鷺水 御伽百物語 始動 / 序・目録 | トップページ | 御伽百物語卷之一 貉のたゝり »

2018/03/01

御伽百物語卷之一 剪刀師 龍宮に入る

 

御伽百物語卷之一

 

   剪刀師(はさみし)龍宮に入る

 

Ryugukunisige
 

[やぶちゃん注:当初、底本の昭和五(一九三〇)年博文刊「帝国文庫 珍本全集後編」から挿絵(一枚合成がされてある)を採る予定であったが、高画素でスキャンして拡大してみると、手におえないほどに白地部分の汚損が多いことが判った。そこで、画質のよい昭和六二(一九八七)年国書刊行会刊「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」の左右に分離した(但し、これが原典の実際である。「早稲田大学古典総合データベース」の同書の原典画像を見られたい)ものをソフトを使用して合成し、さらに、そこにある汚損もある程度まで除去したものを作製した。それは上記画像である。但し、特に左葉下部の枠近くの汚損が激しいので、作画の枠のやや内側からトリミング(上下左右とも)してある。中央の合成部は結果的には「帝国文庫 珍本全集後編」の合成図像よりも自然に仕上がったとは思っている。]

 

 今上の御代の春、堯舜(げうしゆん)のむかしにも超えて、四つの海しづかに、樂しみの聲、ちまたにみち、所々の神社佛閣のいらか迄、絶えたるをおこし廢れたるをつがせ給ひしかば、賀茂のあふひの御祭(おまつり)より、多田(たゞ)六の宮、紫野の御靈(ごれう)、殘るくまなく玉をみがき、金(くがね)を鏤(ちりば)め、つくり出だされける。

[やぶちゃん注:「多田(たゞ)六の宮」不詳。清和源氏発祥の地とされる兵庫県川西市多田院多田所町の多田神社は六所宮とも呼ばれるが、前に「賀茂」神社、後に「紫野の御靈」(現在の京都市北区紫野にある今宮神社であろう)と京の神社に挟むには無理がある。]

 中にも過ぎし元祿の春は、北野の御修理事、ゆへなく功おはり、けふは遷宮の神輿(みこし)ふりとて、法華堂より筵道(ゑんだう)を敷きわたし、別當社僧のめんめん、種々のおこなひあり。

[やぶちゃん注:「剪刀師」職人や日常の家庭で用いる鋏職人。

「元祿」一六八八年~一七〇四年。本怪談集の特徴の一つが早速に現われる本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年の開版で、まさに直近に起こった噂話、京の都で起こったアーバン・レジェンド(都市伝説)として語られるのである。因みに、当代の幕府将軍は徳川綱吉、天皇は東山天皇。綱吉は皇室を重んじ、両者の関係は概ね良好であった。

「北野の御修理」北野天満宮は元禄一三(一七〇〇)年から翌年にかけて大修理・絵馬所等の増築が行われている。従って、本話のロケーションは元禄一四(一七〇一)年の春ではないかと推定される。とすれば、本書刊行から僅かに五年前の直近の出来事ということになるのである。]

 是れをおがみ奉らんと、洛中の貴賤、袖をつらね、踵をつきて、我も我もと參詣しけるに、一條堀河なる所に國重(くにしげ)云ひしは、隱れもなき糸剪刀(いとはさみ)の鍛冶(かぢ)なりしが、是れも此御せんぐうを心がけ、晝より宿を出でて、眞盛(しんせい)の筋(すぢ)を東の鳥居前にいたりて見わたせば、はや、總門のあたりより、柵(しゝかき)ゆひわたし、神寶の長櫃(ながひつ)、やりつゞけ、御木丁(みきてう)、幌幕(まんまく)、こゝかしこに白張(しらはり)の神人(しんにん)、居ならびたり。いまだ時の鐘もつかぬ程、あまりの群集に心づきて、彼方此方(かなたこなた)と拜みめぐりける所に、年たけたる祝部(はふり)壹人(いちにん)、國重が袖をひかへ、

「其方(そなた)は常々に當社信仰の人と見えて、いつも、會日(ゑにち)にはづるゝ事なく、步みを運ばるゝにより、我も見知りたるぞ。御遷宮の次第、拜ませ申さん。さりながら、猶いまだ待ち遠なるべければ、其あいだ、少時(しばらく)やすみ給へ。」

と、南の鳥居より中門の前にいたりけるに、むかふより、社僧壹人、あはたゞしく走り來たり、此祝部にむかひていひけるは、

「上(かみ)よりの御使(おつかひ)ありて、只今、人を召さるれども、折ふし、誰(たれ)も參り逢はずとて、御氣色(みけしき)あしき也。如何すべき。」

といふを、此祝部、國重を見やりて、

「此人を召されよかし。」

といふ程に、やがて社僧、國重を引きつれて社の方(かた)へ行くに、國重も何事と辨へたる方はなけれど、そゞろに步みつれて、𢌞廊の西の御階(みはし)のもとに跪(ひざまづ)けば、外陣(げぢん)の御簾(みす)、やをら、おしあけ、束帶の上﨟(じやうらう)、しつかに步み出で給ひ、

「やゝ。」

と召されて、みづから、たて文(ふみ)を國重に給はり、

「是れを持ちて、廣澤の池に行き、龍王にわたして參れ。」

と也。

[やぶちゃん注:「國重(くにしげ)」南北朝期の刀工にこの名があり、その流れを汲むと称した鍛屋師なのであろう。

「眞盛(しんせい)の筋(すぢ)」遷宮参詣のための人で、まこと(「眞」)にごった返して「盛」ん賑やかになっている北野天満宮へ向かう道筋の意と採っておく。

「柵(しゝかき)」鹿垣・猪垣。無論、ここは白木の角材や割竹を疎らに建てて、横木で連結した人の流れや神域への立ち入りを制御するための普通の柵である。

「長櫃(ながひつ)、やりつゞけ」で「遣り續け」で「長櫃」の述語であろう。長櫃を押し並べて、それを修理成った宮へ向けて押し並べて向かっているさまを指していよう。

「御木丁(みきてう)」「御几帳」(みきちょう)。但し、その場合は正しい歴史的仮名遣は「みきちやう」である。形状から「木丁」を当てたのであろう。

「白張(しらはり)」糊を強(こわ)く張った白い布の狩衣(かりぎぬ)。ここは神事の際に物品の運搬や雑用に従事する者たちが着たそれを指す。「はくちやう(はくちょう)」とも読み、原文・原典でもそれが混在している

「神人(しんにん)」通常は濁って、「じにん・じんにん」と読むことが多い。平安時代から室町時代にかけて発生した、神社に仕えて神事・社務の周縁的補助やレベルの低い雑事を担当した、ほぼ最下級の神職従事者を指す。

「祝部(はふり)」「はふりべ(ほうりべ)」とも読む。一般には神主・禰宜に従って祭祀を掌る上位神職に従属する副神職的存在であるが、神事の介添えや奉納舞なども手掛けるので、先の神人(じにん)よりは遙かに上位と、ここでは捉えてよい。

「會日(ゑにち)」縁日(えんにち)に同じ。神仏の降誕日・示現日或いは社堂創建の関連日など、神仏のこの世との有縁(うえん)の日。神仏習合に於いては「縁日」は「会日」(えにち)の訛ったもので、恒例的に催される仏会(ぶつえ)の日が元とする説もある。

「はづるゝ事なく」「外るる事なく」。欠礼することなく。

「外陣(げぢん)」神社の本殿や寺院の本堂の内陣の外側にある、それなりに高位の人物の参拝用に設けられた場所。

「たて文(ふみ)」「立文」「竪文」。書状を礼紙で包んだ上を、また別の紙で細長く包み、上下の余った部分を筋交いに折った後、さらに裏側へ折ったもの。]

 國重、謹みて承り、

「おそれがましき申し事ながら、某(それがし)はもと赤丁(せきてい)の、いやしき凡夫の身、いかでか水府の龍神に逢ひたてまつるべき。娑婆と水底(すいてい)と、道、はるかにて、たやすく至るべき道なし。此御使は御ゆるしを蒙(かうむ)らばや。」

と申せば、彼の上﨟、また仰せけるは、

「汝、愁ふる事なかれ、彼の池の邊(ほとり)にいたりなば、大きに茂りたる榊(さかき)あるべし。先づ此木のもとへ寄りて、石を以(もつ)て此木を敲(たゝ)くべし。急ぎて參れ。」

と、仰せ事あれば、心もとなきながら廣澤の方へあゆみけるに、聞きしに違はず、榊の茂りたる大木(たいぼく)、池の表に枝さし覆ひたるあり。

[やぶちゃん注:「赤丁(せきてい)」「丁」は「人に使われて働く男・成人男子」であろうから、これは「赤子(せきし)」と同じで、「何の教養もない民草の一人の男」の意であろう。

「榊(さかき)」ツツジ目モッコク(木斛)科サカキ属サカキ Cleyera japoni。文字通り、本邦で古くから神事に用いられ、「榊」という国字もそこから生まれた(中国語では「紅淡比」と呼ぶ)。先端がとがった枝先は神が降りる依代(よりしろ)とされ、現在では最も身近な本種の枝葉が普通に祭祀用に用いられている。依代となるということは、結界或いは異界との通路のシンボルでもある。まさにここではそうした装置として榊が登場している。]

 心(こゝろ)みに石を拾ひて、此木を、

「ほとほと。」

と敲きしかば、池の内より白張(しらはり)を着したる男(おのこ)壹人、あらはれ出で、

「天滿宮よりの御使(おんつかひ)、こなたへ。」

といはれて、國重は水を恐るゝの色あり。

 彼の男、をしへていふやう、

「只、目をふさぎ給へ。水をおそれ給ふな。」

といふに、國重、やがて目をふさげば、木の葉の風にひるがへる心して、

「ふはふは。」

と上ると覺へしが、只、雨風のおとのみ、さはがしく聞えて、しばし虛空を行くと思ふに、警蹕(けいひつ)の聲するに驚きて目をひらけば、此世にては終に見たる事もなき宮殿樓閣あり。玉の階(きざはし)、瑠璃の軒(のき)ありて、見るに目をくらめかすほど也。

[やぶちゃん注:この龍宮へ向かうシークエンスの聴覚的描写が素晴らしい。青木露鷺水は俳人であり、そうした感性の鋭敏さが、表現として実に冴えて出るところを是非、味わいたい

「警蹕(けいひつ)」貴人などの高貴神聖な存在が通行・移動する際、先立って行く者が立てる、先払いの声のこと。これは戸外だけでなく、室内での着座・起座・出入、及び食膳や供物奉納の場合などにも行われる。元は古代中国の皇帝が外出する際に道行く人を止めて道を清めさせた習俗が本邦に移入されたものである。]

 漸(やゝ)ありて、奧より、

「御返事。」

とて持ち出で、國重に渡し、さて、懷より白銀(しろかね)の弄(かうがい)を壹本、金(こがね)の匙子(さじ)壹本とを出だして、國重に給はりて、仰せけるは、

「汝は、心ざし、すなほにして、よく神明(しんめい)の内證(ないせう)にかなひける故、此御(お)つかひをも承りし也。今、此(この)二色(〔ふた〕いろ)を汝にあたふる事は、汝が家に水難あるべし。其時、この笄を水に投げ、匙子(さじ)は身をはなさず、首にかけよ。命(いのち)を全(まつたく)し、家も恙(つゝが)なかるべし。」

と、こまごまと教へ給ひて、又、目をふさがせ、此度(このたび)は黑糸の鎧(よろひ)着たる武者に仰せありて送らるゝとぞ見えしが、程なく有りし榊の陰に歸りぬ。

[やぶちゃん注:「神明(しんめい)」神が存在という真理。

「内證(ないせう)」当該対象(ここは信仰者としての国重)が、その心の内で真理を悟ること。本来は仏教用語であるが、神仏習合であるから問題はない。

「二色(〔ふた〕いろ)」二種類の物品。]

 ふりかへりて、池を見るに、送り來たりし武者と見へしは、甲(かう)の面(おもて)一丈ばかりの龜となりて失せぬ。

[やぶちゃん注:ここは、前段終りから、視覚上のメタモルフォーゼ(変容)の描写がやはり上手い

 

「黑糸の鎧」黒糸縅(くろいとおどし)の鎧。黒糸で綴り合わせたもの。]

 國重、あまりの不思議さ、感淚をながし、水の面を拜し、いそぎ、北野に歸りければ、はや、先だちて白張(はくてう)の人、出(で)むかひ、御返事を請け取りけるが、

「御遷宮も今ぞ。」

と、人々も立ちさはげば、國重も出でんとするに、道なくて外陣(げぢん)の緣(えん)に這かくれ、儀式、つぶさに拜みおはりて、吾が家に歸りぬ。

[やぶちゃん注:「這かくれ」「這ひ隱れ」。底本・原典ではルビが「はい」なので振らなかった。]

 さるにても、彼(か)の龍宮にて給はりし二色(いろ)の寶(たから)と仰せられし詞(ことば)のすゑ、心がゝりにて、いよいよ信心怠りなく過しけるが、同じ年六月にいたりて、洛中、おびたゞしき雷(かみなり)の災(わざはひ)あり。九十八ケ所に落ちける比(ころ)、賀茂川、かつら河はいふに及ばず、一條堀河の水は、小川の流れ、東より衝(つ)きかけ、白波、岸を穿ち、洪水、民家を漂はすにいたりて、國重が家も押し流されんとする時、彼の白銀(しろがね)の笄(かうがい)を、さかまく波に投げ入れしかば、たちまち笄は大綱(おほつな)と變じ、水に浮き沈みて、引きはゆるとぞ見えしが、其(その)邊(ほとり)四、五町[やぶちゃん注:約四百三十七~五百四十五メートル半。]が程は終に水難の愁(うれへ)なかりけるとぞ。

[やぶちゃん注:わざわざ二品あるんだから、「匙子」もちゃんと首に掛けていて、それが巨大になってその空ろ船のような匙の中で国重は無事だったとかやらかして欲しいというのは、私の贅沢か。しかし、笄(こうがい)が大綱に変じたんだったら、「匙子」も何かに変ずるはずなんだかなぁ。

「引きはゆる」歴史的仮名遣が正しいとすると、意味不詳である。「引き榮(は)ゆ」で、「引き回した上に目に見えて盛んに(水を堰き止めるまでに)太くなった」という訳は、あまりに苦しい。これが「ひきはへる」だと、「引き掽(は)へる」で、ハ行下一段活用の近世の動詞(ワ下二段動詞「延(は)う」の下一段化したものから生じたものか)で「俵や木材などをきれいに形よく積み上げる」の意があるから、「引き回した大綱が積み上がって堰(せき)を成し」となって、このシークエンスにはぴったりな気はするんだがなぁ。

 なお、底本の太刀川清氏の解題によれば、本話は「柳毅伝」の翻案とある。「柳毅伝」は中唐の伝奇小説で、作者は隴西の李朝威(生没年・経歴不詳)。官吏登用試験に落第した柳毅が湘江の畔(ほと)りの故郷に帰る途中、不貞な夫と邪険な姑に追い出された竜女に会う。彼女の伝言を携え、洞庭湖の竜宮に竜女の父洞庭君を訪ね、話を聴いた洞庭君の弟銭塘(せんとう)君が激怒し、竜女のために復讐する。毅は多くの財宝を貰って帰り、楊州で大商人となり、金陵(現在の南京)で范陽の盧氏と結婚するが、実は彼女は竜女の化身であって、後に二人とも、洞庭湖へ行き、神仙となるという筋である。元の尚仲賢の「柳毅伝書」、明の許自昌の「橘浦記(きっぽき)」といった戯曲の題材となって、大いに流行った伝承であった。現在も洞庭の君山(くんざん)には遺跡とされる柳毅井がある(以上は小学館の「日本大百科全書」に拠った。]

 

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