子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十八年 筆の花散る処まで
筆の花散る処まで
広嶋滞在が長引いたのは、李鴻章が馬関で狙撃され、講和説が一変して休戦になったためであろう。居士が海城丸に乗込んだ四月十日も無論休戦中であった。福本日南、桜田大我、浅水南八の諸氏が宇品(うじな)までこれを送った。
[やぶちゃん注:「李鴻章が馬関で狙撃され、講和説が一変して休戦になった」前章の私の注参照。
「福本日南」既出既注。
「桜田大我」既出既注。
「浅水南八」浅水又次郎(明治三(一八七〇)年~明治四一(一九〇八)年)。『日本』の記者で青森八戸出身。]
行かば我れ筆の花散る處まで
出陣や櫻見ながら宇品まで
の二句が出発に臨んでの感懐である。中村不折氏も従軍が許可されて広嶋へ来ていたが、居士は近衛師団附(つき)、不折氏は第四師団附だったから、出発したのは別の船であった。
従軍記者としての居士が最初に筆を執ったのは「羽林一枝」一篇で、四月二十一日の『日本』に掲げられた。正岡台南(たいなん)という前後に例のない署名が用いられている。
[やぶちゃん注:「羽林一枝」国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話」のここから視認出来る。「羽林」(うりん)というのは前漢に設立された皇帝直属精鋭部隊の名で、明代まで置かれていた。]
十三日大連湾に入り、十四日はなお船にあったが、十五日柳樹屯に上り、金州に向った。
[やぶちゃん注:「柳樹屯」個人ブログ『BIN★の「この記なんの記」』の「柳樹屯の位置」によって、ほぼこの中央辺りであろうと思われる(グーグル・マップ・データ)。
「金州」現在の遼寧省大連市金州区。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
大國の山皆低き霞かな
戦後の風物、異郷の山河は居士に取って珍しからぬものはなかったが、「軍に從ふて未だ戰を見ず、空しく昨日の戰況を聞く。雄心勃々禁ずる能はず、却て今後の事を思へば仲々として樂まざる者あり」という心境を如何ともすることが出来なかった。
十六日海城丸に帰り、十九日再び柳樹屯に上った。この時は錦川丸に乗じて旅順に赴いている。船を上ると日南、南八両氏があたかも上陸するところだったので、共に大総督府附新聞記者の宿所に到り、船中の話などをした。旅順には都合三泊、港湾、砲台、魚雷営などを一見、集仙茶園という劇場に支那芝居を見たりしている。二十二日加古川丸に乗って大連へ帰ろうとしたが、風が強くて船が出ぬため、一夜を船に明した。日南、南八両氏も前日から別の船に乗込んでいると聞いて、船から船へ訪ねなどしている。
[やぶちゃん注:各船の注を附してもよいが、労多く益少なければ、やらない。]
二十三日金州に帰り、翌日四師団附舎営に中村不折、河東可全両氏を訪ねた。古白の訃を伝えた碧梧桐氏の手紙が届いたのはこの日であった。居士が古白に関して記した「陣中日記」の一節にはこうある。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」原本で校訂した。]
四歳の兄なる吾が讀書文章の上に一步を進めし時は、彼は且つ羨み且つ妬み怒りつ笑ひつ嘲りつ、終には吾より一步を進めぬ。吾一步彼一步共に浮世の海原に分け入らんとする瞬間、古白は怒濤の舟を覆すを待たずして自ら舟を覆し了んぬ。我の未だ古白に負かざるに早く己に古白のわれに負くを見る。とは言へ古白或は白雲に乘じて我の艱難(かんなん)を嘲罵せんとの意なるかも知るべからず。見よ見よ我未だ斃れざる間は古白の靈豈四大に歸し去らんや。
春や昔古白と云へる男あり
居士の金州における生活はそれから五月十日まで続いた。講和成るとの報を聞いて、近衛師団附の新聞記者七、八人は一斉に金州を去った。この間の事は居士が『日本』に寄せた「陣中日記」二十九年になって改めて筆を執った「従軍紀事」及小説「我が病」の中に記されている。風雨に閉じこめられて
旌旗十萬捲天來
一戰國亡枯骨堆
犬吠空垣人不住
滿城風雨杏花開
旌旗(せいき)十万 天を捲(ま)きて來たり
一戰して 國亡び 枯骨 堆(うづたか)し
犬は空垣(くうゑん)に吠え 人 住まず
滿城の風雨 杏花(きやうくわ) 開く
と口吟したこともあった。宝興園という金州第一の割烹店に、久松伯の宴に列したこともあった。この金州における見聞は直に
古城や菫(すみれ)花咲く石の間
城門を出て遠近の柳かな
梨老いて花まばらなり韮畑(にらばたけ)
戰のあとにすくなき燕かな
など、多くの俳句となったのみならず、後に至っても漢詩、和歌、新体詩などにいろいろ用いられている。剣を按じて軍に従いながら、一発の砲声も聞かずに立帰ったのは、居士としては不本意千万であったに相違ないが、文学的な立場からいえば、必ずしも無意義な業ではなかった。出発に臨んで「いづれかその一を得んことは僕これを期す」と述べた抱負は、酬いられるところがなかったわけではない。
[やぶちゃん注:何故だかよく判らぬが、この金州滞在中に子規は森林太郎(鷗外)と始めて会っている。当時、鷗外は第二軍兵站部軍医部長であったが、彼の「徂征日記」によれば、五月四日のこと、この金州の軍医部に子規は初めて鷗外を訪ねている。『東洋大学大学院紀要』(二〇一六年刊)の根本文子氏の論文「明治三十年前後に於ける鷗外の俳句作風――子規との交流のなかで――」の「三 子規と鷗外・戦場の出会い」にあるものを、恣意的に正字化して示す。明治二八(一八九五)年五月の条。
*
五月四日、正岡子規來り訪ふ、俳諧の事を談ず。夜、神保と歌仙一卷を物す。
五月十日、和親成れりと云ふ報に接す、子規、來り、別る。几董等の歌仙一卷を手寫して我に贈る。
*
以下、同箇所に正岡子規の「病牀日誌」(明治二十八年六月五日の一ヶ月前の追懐記事)が載るが、これは高浜虚子等が記した、その彼らの直筆原本が国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来るので(但し、かなり読み辛い)、それで校訂して示す。記号を恣意的に変更・追加し、読みも補った。「余」が看護していた同日誌記者(虚子か)、「患者」が子規である。
*
………「森に金州にて會ひし話をせしや」。余曰、「未也(いまだしなり)」。患者曰、「金州の兵站部長は森なりと聞き訪問せしに、兵站部長には非ず、軍医部長なりし。これより毎日訪問せり」
*
これ以後、詩談を交わしたとする。「每日訪問せり」とあるのを正直に受け取るなら、鷗外と子規は一週間に亙って面会・談話を重ねたことになり、先の鷗外の日記にあるように、五月十日に帰国の別れのために挨拶に来訪した際には、餞別として子規が高井几董(たかいきとう)らの巻いた歌仙一巻を自写したものを鷗外に贈っている。また、先の根本氏の論文には以上の二資料に加えて、座談会「俳諧と日本文學」(『俳句研究』第七巻第十二号・昭和十五(一九四〇)年十二月発行に所収)での柳田國男の発言が載る。そのまま引かさせて戴く。
*
……鷗外さんが支那から帰って来て、非常に褒めてゐましたね。今度の戦争へ行って、非常に仕合せなのは正岡君と懇意になったことだ、と言ってゐました。
…恐らく、あの時分の日記とか手紙をみたら、正岡氏を褒めて居られる物が沢山残ってゐるだらうと思ふんです。野営の中で頻りに文学を論じたらしいね。…鷗外のあの時代までの修養の中で、一番欠けてをつたのは発句でせうね。それを正岡氏がきっと教えてくれたんでしょう…
*
柴田宵曲が、何故に、この後の三大文豪(鷗外と漱石との接点にも子規はいることになり、子規と鷗外の交流も実際、子規が没するまで続いている)の内の二人の最初の重大な接点をリアル・タイムに描かなかったのか、すこぶる不審である。
「宝興園という金州第一の割烹店に、久松伯の宴に列したこともあった」何と、現在の「金州副都統衛址」には正岡子規の句碑がある。こちらの旅行記事ブログに写真がある。句は、
金州城にて
行く春の酒をたまわる陣屋哉
で、その説明に『子規』が『大連滞在中』、『帰国の一週間前に、金州一の料亭『宝興園』で松山の殿様、久松伯爵から一席設けられた時の句』らしい、とある。正直、こんなつまらん子規も青くなるような句が、中国の地にデンとかくも墓石のように立っていること自体が、私は何か、恥ずかしい気さえしてくるのである。
「久松伯」以前に注で記した伯爵久松定謨(さだこと 慶応三(一八六七)年~昭和一八(一九四三)年)静岡県の元旗本松平勝実三男で旧松山藩主久松家当主。最後の藩主であった松平定昭の養子。]
« 栗本丹洲 魚譜 麻木(シビレ)ヱイ (図はメガネカスベで誤り) | トップページ | 御伽百物語卷之二 宿世の緣 »