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2018/04/30

オウムガイ(松森胤保「両羽(りょうう)博物図譜」より)

 

[やぶちゃん注:画像は酒田市立図書館が「慶応義塾大学HUMIプロジェクト」の協力によって全五十九冊をデジタル化した同図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」のものを用いた(以下の理由から、トリミングや補正は一切、行っていない)。当該「両羽博物図譜の世界」には本画像の使用についての注意書きがどこにも書かれておらず、ネット検索を掛けると、個人ブログやSNSの投稿に多数使用されており、それらが同図書館から削除要請された形跡がないこと、文化庁のパブリック・ドメインの平面的作物をそのまま写した写真には著作権は発生しないという見解があること等から、画像を掲げて翻刻することにした。万一、同図書館から削除要請があれば、画像は削除する。翻刻は私が行った。因みに、上記「両羽博物図譜の世界」ではかなりの図について電子化翻刻がなされて付随してあるが、本図については行われていないので、私のオリジナルである。なお、私は一九八八年八坂書房刊の磯野直秀先生の解説になる「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」(抄録で約百四十図を載せる)を所持しており、その図版解説や巻末にある詳細な「松森胤保と『両羽博物図譜』」の解説を参考にさせて戴いた。

 松森胤保(たねやす 文政八(一八二五)年~明治二五(一八九二)年)は博物学者で、もとは庄内藩支藩の松山藩付家老であった。ウィキの「松森胤保」(二重鍵括弧部分はその引用)及び上述の磯野先生の解説、また、酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」の「松森胤保の人物像」によれば、庄内藩士長坂市右衛門治禮(読み不明。「はるゆき」「はるのり」「はるあき」などとは読める)の長男として鶴岡二百人町(現在の鶴岡市)に出生した。『幼少時より』、『自然観察に優れ、海岸で綺麗な石を採集したり』、『小鳥を飼育したほか、鉱物や昆虫、化石、石器、土器等に関心を寄せ』、十二歳頃からは、『鳥の絵を数多く描いた』、十三歳で『藩校致道館に入り、儒学の素養に励むとともに書道にも才能を発揮』した。十四歳頃に『描いた鳥の図が「大泉諸鳥写真画譜」に残』っている。十六歳で『藩士・旅河平次兵衛から大坪本流の馬術を習い、この年の夏元服して名前を「胤保」と改め』ている。十八歳で『宝蔵院の槍術を学び、加えて居合、砲術、水練も習得』、二十二歳で『結婚するもまもなく離婚』、三十二歳で『藩医・松山道任知剛の長女鉄井と再婚』し、五男六女に恵まれた。文久二(一八六二)年、三十八歳で『長坂家を相続、翌年』六月には『出羽松山藩付家老に任ぜられ』た。元治元(一八六四)年には『江戸詰めとなり、市中警備に当たる一方、小鳥屋や見世物小屋、書籍店などを回り、見聞を広め』た。『家老職だけに許された猟銃も使えた』。慶応元(一八六五)年五月に松山に戻ったが、その年から慶応三(一八六七)年初冬までの二年半余は銃猟に明け暮れて過ごした。同年十二月四日には命を受けて江戸へ上り、江戸市中の警護に当たったが、折しも大政奉還(慶応三年十月十四日(一八六七年十一月九日)直後で、江戸は騒然としており、それに乗じて薩摩藩が浪人等を使って、騒擾を起していた。その挑発に乗った幕府が十二月二十五日、幕府兵並びに庄内藩等に命じて三田の薩摩藩邸を焼き討ちさせた(戊辰戦争の端緒となった事件。ここの部分は概ね、磯野氏解説に拠った)。この時、胤保は『庄内藩先鋒として松山藩兵の指揮を執っ』ている。慶応四(一八六八)年)四月には『軍務総裁に任ぜられ』、五『月には奥羽越列藩同盟結成に当たり、七月に『庄内戦争が勃発すると、松山藩一番隊長兼庄内藩一番大隊参謀として出征、新庄』、中村、横手、花楯、角館、上淀川『を転戦、いずれも勝利を収めた。この間の軍功により松山藩主から「松守」姓を賜る』。その時は固辞したが、辞退は許されず、明治三(一八七〇)年になって、漸く「松森」に変えて名乗るようになったという(磯野氏解説)。『戊辰敗戦後の』明治二(一八六九)年、『松山改め松嶺藩の執政、公儀人に任ぜられる。東京で写真機や顕微鏡を入手したの』は、この頃であった。その後』、『同藩大参事、松嶺区長、旧松嶺藩校里仁館惣管兼大教授、松嶺開進中学校長等を歴任、多難な戦後処理と新体制移行業務全般を司』った。明治一二(一八七九)年に鶴岡に戻り、明治一四(一八八一)年には山形県会議員、次いで明治十七年四月に『酒田町戸長とな』ったが、翌明治十八年七月、病のため、六十一歳で総ての公職を辞した。『晩年は研究著述に専念』し、『奥羽人類学会会長として尽力』、その間、長年かけて綴ってきたこの「両羽博物図譜」や、「南郊開物径歴」(これは『洋式築城方式の設計、自転車理論、水陸両用車、飛行機、綿縫器(ミシン)等のアイデアを披瀝』したもので、『発明家としても面目躍如ぶりをみせ』たものである)の完成に尽力したが、明治二五(一八九二)年四月、鶴岡にて逝去した。享年六十九。『胤保は公職に精励する一方、動植物学、物理学、化学、工学、歴史学をはじめ』、『音響学、建築学、民族学、考古学、人類学等多面的な研究に没頭、生涯に三百冊を超える膨大な著述を成した。どんな物事についても』、『文章で表現するとともに、細密な自筆の絵を加えているのが』、特徴で、『酒田市立光丘文庫所蔵の松森文庫』百八十七『冊はその主なものだが、特に』この「両羽博物図譜」は『圧巻で、その分類法において』、『近代のそれに迫るものがある』とする。『慶應義塾大学名誉教授で理学博士の磯野直秀は「日本を飛び越えて大英博物館から目をつけられても不思議ではない」と言っており、また植物学の権威牧野富太郎理学博士も』昭和五(一九三〇)年八月、光丘文庫を訪れ、「両羽博物図譜」を見て、『感嘆の言葉を述べ』ている。胤保は、その著「求理私言」(明治八(一八七五)年四月著の地学・宇宙論)で、『「太古世上には微細な生物が化生によって出現し、これは子生によって代を継ぎ進化によって複雑化し、動物では偶生変、交接変が行われたと考え、植物では子生変、交接変、尾生変、枝生変によるものとする」と記して一種の進化論を説い』ているが、これは明治十年にエドワード・S・モースがお雇い外国人として来日し、東京大学で『チャールズ・ダーウィンの進化論を紹介する以前のことである』とある(因みに私はブログ・カテゴリ『「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳でモースの日本での体験記録の全電子化注を完成させている)。酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」の「松森胤保の人物像」の最後には、『松森胤保は、動物学、植物学、考古学、物理学、天文学、民俗学など多彩な調査と研究に取り組み、合わせて政治家としても活躍した。小さなものはミジンコから大宇宙にわたり、飛行機の発想までも考え残した人物胤保は、西洋のレオナルド・ダビンチにも匹敵する博物学者であった』とある。

「両羽博物図譜」(兩羽博物圖譜)は「酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」の松森胤保の「著作一覧」及び上記の「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」の磯野直秀先生の解説によれば、「両羽博物図譜」は天保一三(一八四二)年九月から逝去に至るまで、実に半世紀にも亙って書かれたもので、「両羽獣類図譜」二冊(動物分類・名称・発生・人類の起源等の上巻と、下巻の哺乳類図譜六十点)・「両羽禽類図譜」十四冊(鳥類。最初の二冊が総論、残りが図譜で六百五十六点)・「両羽爬虫図譜」一冊(爬虫類。三十五点)・「両羽魚類図譜」四冊(魚類ほか。哺乳類七種、魚類約百四十五種、円口類二種)・「両羽貝螺図譜」二冊(貝類他。洋書からの模写と思われるものを除いて四百十七点。海産動物は貝類二百四十八点、頭足類九点、甲殻類五十六点、腕足類三点、棘皮動物二十五点、腔腸動物六点、海鞘(ホヤ)類二点などで、淡水動物は貝類二十五点、甲殻類二十点。陸生貝類が十四点。陸生扁形動物一点のほかに化石十八点を所載する)・「両羽飛虫(とびむし)図譜」八冊(昆虫類ほか。第一冊から第三冊まではミツバチを、第五冊と第六冊に蝶蛾を当て、残りの三冊で多足類や蜘蛛を含む虫類四百二十一点)・「両羽植類図譜」二十八冊(植物類(十七点の珊瑚等の腔腸動物とコケムシを含む)。総論一冊、キノコ類一冊、海藻類を含む「水植物」一冊。全二千九百点弱)の全五十九冊(八帙に分納)に及ぶ、膨大な図譜群の総称である。]

 

019

 

□翻刻1(原典そのまま)

〈右頁〉

裁断圖

 

〈左頁〉

真物臨寫

 明治二十二年

  四月一日

 

一小物ノ

上頭ヲ切去テ少シク其内

部ヲ見ル青色ノ所ハ青

白光

 

□翻刻2(カタカナをひらがなにし、諸記号を加え、一部に読み易さを考えて( )で歴史的仮名遣で読みと送り仮名や、語を添えた整序版)

〈右頁〉

裁断圖

 

〈左頁〉

真物(しんぶつ)の臨寫。

 明治二十二年四月一日

 

一(ひと)つの小さき物の、上の頭を切り去りて、少しく、其の内部を見る。青色の所は、青白く光れり。

 

[やぶちゃん注:底本とした酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」では「魚類図譜 貝螺変部」の中の一図(冒頭注で示した「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」では「兩羽貝螺圖譜」の中の一図とする)。右頁最下段の図はイカで本図とは無関係。何故、松森がこれをここに描いたかは不明。にしても、この巻貝のようなものが、頭足類のであることを、どこからか聞き伝えしていて想像でこんなものが、この貝の中にいたかも、という想像図を描いたのではないかと思われてならない(従って私はこのイカの種同定をする気になれないのである。悪しからず。


 ここに描かれた四つの図は、言わずもがな、「生きた化石」とも称される、

頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属オウムガイ
 Nautilus pompilius

である。「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」でも磯野先生は同種に確定同定されておられ(但し、同書の掲載図は左頁の二図のみ)、その解説で『生息地はフィリピンや南太平洋だが、死後もガスの浮力で殻は海面を漂い、黒潮に乗って北上、対馬海流に入ったものが時折酒田辺までたどりつく』と言い添えておられる。但し、右上の二つの図は別種の可能性を否定出来ない左の松森が実際に観察して描いた個体と、右の図のそれは同一物でないことは、殻口部の形状の違いからはっきりしており、そもそも左の下図では殻の巻いた奥の箇所を水平にカットしているのだから、右のような断面図は描けないことから考えても(複数個体を入手したとなれば可能ではある。「一(ひと)つの小さき物」と言っているところはその可能性を高めてはいる)、別個体であることは明白で、私は右の二図は他の博物画(洋書である必然性はない。私の毛利梅園の「梅園介譜」の「鸚鵡螺」を見よ。但し、裁断図があるのは洋書の方が可能性は高いかも知れぬ)から転写したものではないかと思っており、或いはその書にとんでもない噓の軟体部として最下部のイカの図が添えられていたのではないか? とも疑っているのである。何故なら、そう考えたときに初めて、この唐突なイカの絵の意味が私には腑に落ちるからである

 ウィキの「オウムガイ」によれば、『殻に入った頭足類で、南太平洋〜オーストラリア近海に生息し、水深およそ』百メートルから六百メートル『に棲む。深海を好むというイメージもあるが、水深が』八百メートル『を超えた所では』、『殻が水圧に耐えきれず』、『壊れてしまう。その祖先(チョッカクガイ』(頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱直角石(オルトセラス)目† Orthocerida。古生代のオルドビス紀中期(本種はその示準化石)に繁栄した)『に近い)は』四億五千万年前~五億年前に誕生しており、本種はその時の『原始的性質を色濃く残した生物とされる』。『餌を捕食するために』九十『本ほどの触手を使い、触手にあるたくさんの皺で』、『ものに付着する。触手のうち、上面にある二つの触手の基部が分厚くなって融合し、帽子のような形状を作り殻の口に蓋をする働きを持つ。何かに付着する以外には、触手を運動に使わない』。『眼は短い柄の先に付いて、外側が平らになった独特の形を持つものであるが、これはピンホールカメラ方式である。すなわち、タコやイカのカメラ眼とは異なり、レンズの構造がないため、視力はよくない』が、『水の中に落ちた化学物質には素早い動きを見せる』。『イカやタコと同じく漏斗(ろうと)と呼ばれる器官から噴き出す水を推進力にして、体を軽く揺すりながらゆっくりと運動する。主な餌は死んだ魚介類や脱皮した殻などである。俊敏に移動できないので、イカやタコのように生きた魚介類を捕まえて食べることができない。イカやタコとは異なり、墨汁の袋は持っていない』。『また、タコやイカが一年、もしくは数年で死んでしまうほど寿命が短いのに対し、オウムガイの寿命は長く、十数年~二十年近くも生きるといわれるが、それは殻の生成による時間がかかることによる成長の遅さが起因しており、それは殻を完全に退化させ、成長速度を速めたタコやイカと対照的である』。『オウムガイの殻は、巻き貝のそれによく似て見えるが、内部の構造は大きく異なる。巻き貝の殻は、奥までが一続きでほとんど奥まで肉が入っているのに対し、オウムガイの殻の内部には規則正しく仕切りが作られ、細かく部屋に分けられている。もっとも出口に近い部屋が広く、ここに体が収まり、それより奥は空洞である』。『この空洞の部分にはガスと液体が入っており、浮力をそこから得ている。このガスと液体の容積の比率を調節することによって』、『自分自身の全体としての比重を変化させて浮力の調整をしている。ガスと液体の容積の調整は弁のような機構的な構造によるものではなく』、『液体の塩分濃度を変化させることによる浸透圧の変化によって水分を隔壁内外へ移動させる事で行う。そのために海水中での深度調整の速度は他の海洋生物に比べると遅い』。『死んで肉が無くなると』、『殻が持つ浮力のために浮かびやすく、海流に乗って長距離を流される事もあり、日本沿岸にもよくその殻が漂着する』。『頭足類であるから、タコやイカに近いことになるのだが、イカとタコには多くの類似点が認められるのに対してオウムガイは異なるところが多い。そのため独立した亜綱に分類されている』。『殻の形態や構造は中生代のアンモナイト』(頭足綱アンモナイト亜綱†Ammonoidea)『にも似ているが、むしろそれより古く、古生代のチョッカクガイなどと共通の祖先を持つ(アンモナイトはイカやタコに近縁とされる)。チョッカクガイ』は『現生のオウムガイと違い、殻は槍の先のように真っ直ぐに伸びていた。因みに、オウムガイがチョッカクガイの直系の子孫にあたるという説もあったが、現在では否定されている』。『現在オウムガイの仲間として確認されている種はオウムガイ』の他、パラオオウムガイ(Nautilus belauensis)・ヒロベソオウムガイ(Nautilus crobiculatus)・コベソオウムガイ(Nautilus stenomphalus)・オオベソオウムガイ(Nautilus macromphalus)『等である。基本的に、名前の呼び方はオウムガイだが、たまに、「オオムガイ」と呼ぶこともある』。『日本語のオウムガイは、殻を正位置に立てた場合、黒い部分(生息時は、ここに「ずきん」が被っている)がオウムの嘴に似ている為にこの名がついたものである。英名はノーチラス(Nautilus)で、ギリシャ語』の“nautilos”、「水夫・船舶」の意である。

「真物」本物。

「明治二十二年」一八八九年。]


 

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(35) 死者の支配(Ⅲ)



 人間の生活が法律に依つてその極微の點まで定められて居た場合――履物、帽子の性質、妻の髮の留針の價、子供の人形の代價に至るまでも――言論の自由がゆるされて居たとは到底考へられ得まい。それは素より存在しなかつた、そしてどれほど迄言語が規定されて居たかは、口語を研究した人々に依つてのみ想像され得るのである。社會の族長的組織は、言語の慣習的組織の内に――代名詞、名詞、動詞の規定の内に――前接辭、後接辭[やぶちゃん注:接頭語と接尾語。]に依つて形容詞に加へられる差等の内に、よく反映されて居た。衣裳、食事、生活の風を定めたと同じく、用捨なく正確に、すべての言葉の言ひあらはし方は消極的にも積極的にも規定されて居た――併し消極的よりも多く積極的にさうであつた。言つてはならない事についての例は少く、言ふべき事を定めた規則は無數にあつた――選擇すべき言葉、用ふべき語法の如きは澤山にあつた。若い時からの訓練はこの點に就いての注意を強くした。各人は、上長に對してものを言ふ時には、或る種の動詞、名詞、代名詞のみを用ふべき事、また同等のもの或は目下のものに向つて語る時にのみ、或る言葉が許されると云つたやうな事を學ばなければならなかつた。無教育のものと雖も、この事に就いては多少學ぶべき義務があつた。然るに教育はこの言語上の複雜した作法の仕組みをよく教へたもので、數年間練習すれば、何人たりともそれを自由に用ひ得たのであつた。上流の階級にあつては、この作法が殆ど考へ及ばない位に複雜になつて居た。言語に文法上から一寸變化を加へると、それに依つて言ひかけられた人を非常にあがめ、言ひかけた人の謙退の意を表する事になるのであるが、さういふ事は極古くから一般に行はれて居たに相違ない、併しその後支那勢力の下にあつて、恁ういふ互に都介よく釣ち合ひをとる語法は極度に增加した。御門その人から――御門も他の人には用ふる事を許されて居ない人代名詞を用ふる。若しくは少くとも代名詞的表白を用ふる――下つて社會のあらゆる階級を通じ、その各階級は、みなその階級獨得の『吾』といふ言葉を別々にもつて居る。『汝』若しくは『あなた』といふ言葉に相當する用語で、今日ちなほ用ひられていゐるのが十六種ある、併し以前はもつと澤山にあつた、單數【註】の二人稱で子供や、學生や、使用人に言ひかけるのみに用ひられて居るのが八種もある。親族關係を示す名詞の敬稱竝びに卑下した形も、同樣に數多く且ついろいろの階級がある、『父』といふ事を示すに用ひられで居る文字が九種、母といふことを示すのも九種、『妻』には十一種、『子息』にも十一種、『娘』に九種、『夫』に九種ある。就中動詞の規則は、作法の必要から、始ど簡單な記述では、その考へを云ひがたい程に複雜になつて居た……。十九歳或は二十歳にもなれば、子供の時から注意されて訓練されて居たものは、上流社會に必要な動詞の用法をすべて知り得たであらう。併しそれよりも進んだ上洸の對話の作法に精通するには、研究と經驗とのさらに幾年かが要せられたのである。位階と階級とのたえず增加するに伴なつて、それに應ずるいろいろな言語の形式が生じで來た。男なり、女なり、孰れにしてもその話しを聞けば、そのものの如何なる階級に屬して居るかを斷定する事が出來た。口語と同樣に、文語も嚴密な慣例に依つて定められて居た。女の用ひた言語の樣式は、男の用ひたのとは異つて居た。男女兩性の異つたる修養から生ずる言語上の作法に於ける相違は、その結果として、書翰の特別な文體を作り出した――則ちそれは『婦人の用語』で今日なほ用ひられて居るのである。この用語の男女に依つての相違は、書翰の上にのみ限られて居るのではない。階級に依つて相違するのであるが、對話の上にも婦人の用語といふものがある。今日でも普通の對話に於て、教育ある婦人は、男の用ひない言語や語句を使ふ。侍の女子は封建時代にあつては、特別な表白の樣式をもつて居た。今日でも古い家庭の修養に從つて育てられた婦人の言葉を聞いて、その婦人が侍の家庭のものであるか、どぅかを判斷する事が出來る位である。

 

註 社會學者は、勿論かくの如き事實が、パアシヴアル・ロヱルの『東洋の精神』“The Soul of the Far East”の内に面白く論じてある代名詞の用法の節約といふ事と決して矛盾するものでない事を了解するであらう。極度の服從のある社會に於ては『人代名詞の用を避けるといふ事がある。』もつともハアバアト・スペンサアがこの法を説明する爲めに指摘して居るやうに、かくの如き社會(極度の服從のある社會)に於てこそ、ものを言ひかけるに用ふる代名詞の樣式に、尤も精細な區別が見られるのでありはするが、如上の事もあるのである。

[やぶちゃん注:「パアシヴアル・ロヱル」既出既注

「『東洋の精神』“The Soul of the Far East”」日本や朝鮮を旅したローウェルが一八八八 年に刊行した日本の紀行・紹介書。現行では一般に「極東の魂」と訳される。本書はラフカディオ・ハーンを感激させ、彼が日本を訪れる契機を作ったともされている。

「ハアバアト・スペンサア」既出既注。]

2018/04/29

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(34) 死者の支配(Ⅱ)

 

 これ等神道の大文士[やぶちゃん注:大学者。]等の時代まで、國民が服從せしめられて居たこの規律なるものは、それ自身獨得の不思議な進化論的な歷史をもつて居るといふ事を、ここに言つて置く必要がある。原始時代にあつても、この規律は同樣嚴格なものではあつたが、それは遙かに統一のないものであり、單純なものであり、また細かい組織を缺いたものであつた。そして社會の發達と、その強國になつたとにつれて、益〻發達し精しいものとなり、終に德川將軍の時代に至つてそれは規則の絶頂に達した。換言すればその支配力は、國家の力の發達に比例して益〻重くなつて行つたのである――人民の力が、それに堪へるに應じて……。吾々はこの文化の當初から、市民の全生活が、規定されて居たのである事を見た、その職業も、その結婚も、その父なる權利も、財産を保持し、またそれを處分する權利も、――すべてそれ等は、宗教的慣習に依つて定められて居たのである。吾々はまた一市民の行爲は、家の内に於けると、外に於けるとを問はず、監視の下にあり、一つの重大なる慣例を破る事は、そのものの社會上に於ける破滅となつたかも知れないのである――その場合そのものは單に社會上の違犯者たるのみならず、また宗教上の違犯者であつた、――竝びに組合の神[やぶちゃん注:氏神を指す。]はそのものに對して怒りを抱き、その過[やぶちゃん注:「あやまち」。]を許すといふ事は、仲間全體に對し神の報復を招くかも知れないのである事はすでに述べた處である。併しその地方を治めて居る中央政府に依つて、如何なる權利がそのものの爲めに殘されてあつたか、それはなほ此後語らなければならない處である――蓋しその政府なるものは、普通の場合、控訴をゆるさない宗教的專制の第三の形式(宗教上慣習上の次なる意)を代表するものである。

 古い法律竝びに慣習の研究に對する材料がまだ十分に集まらないので、明治以前のあらゆる階級の狀態に關する十分な知識は吾々には得られない。併しこの方面に就いての澤山の有益なる著作は、アメリカの學者に依つて成されて居る。たとへばヰグモア教授及びシモンズ博士の著作は、德川時代に於ける民衆の法律狀態に關して多くの知識を與へる文書上の證據を提供して居る。德川時代は私の言つた通り、尤も規約に念を入れた時代であつた。人民が如何なる程度まで干渉を受けて居たかは、彼等の遵奉した奢侈禁制法の性質とその數とからよく推斷され得る。舊日本に於ける奢侈禁制法は恐らく西洋の法律の歷史にもある記錄のいづれよりも、その數とその細かさに於て勝さつて居る。一家の祭祀が家庭に於ける人の行爲を嚴格に定めた通りに、また組合が其義務の標準を固く勵行したやうに――丁度同樣に嚴格にまた固く、國家の統治者は、個人が――男も、女も、子供も――どんな服裝をなすべきか、どんな工合に坐るべきか、步くべきか、語るべきか、働くべきか、食ふべきか、また飮むべきかを規定した。娯樂も勞役と同樣に用捨なく規定されて居た。

[やぶちゃん注:「ヰグモア教授」アメリカの法学者で証拠法の専門家であったジョン・ヘンリー・ウィグモア(John Henry Wigmore 一八六三年~一九四三年)。既に「組合の祭祀」のこちらで注した。

「シモンズ博士」デュアン・シモンズ(Duane B. Simmons 一八三四年(天保五年相当)~明治二二(一八八九)年)はニューヨーク州に生まれで、アメリカ・オランダ改革派教会が日本に初めて派遣した元宣教師の一人で、医師。ウィキの「デュアン・シモンズ」(ミドル・ネームの綴りは英文サイトでも不明)によれば、『横浜で医療活動を展開し』、ヘボン式ローマ字の考案者として知られる、宣教師ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn 一八一五年~一九一一年:ペンシルベニア州ミルトン出身)『と共に、横浜の近代医学の基礎を築いたといわれる。横浜市立大学附属市民総合医療センター内にはシモンズ博士記念碑がある』。一八五八(安政五年相当)年に『日本派遣宣教師として選ばれて、翌年五月に』『ニューヨークを出帆して、上海に寄港した後』、安政六(一八五九)年十一月に』『横浜に上陸した』。『シモンズ夫妻はヘボンが住んだ成仏寺の近くの宗興寺に居住した。しかし』翌万延元(一八六〇)年、彼は『ミッションを辞任して、宣教師の活動を停止し、ミッションより預かった伝道費用を全額返還し』てしまう。『シモンズ夫人のことが原因とも言われるが、宣教師辞任の理由の詳細は不明である。そして、辞任後も医師として日本に留まり、医療と医学教育に力を注いだ』。その後、明治三(一八七〇)年には、『発疹チフスで苦しんでいた福澤諭吉を治療したことがきっかけで、シモンズと福澤は生涯親交を厚くした』。明治四(一八七一)年に』『横浜元弁天(中区北仲通り)に早矢仕有的らが建設した十全醫院(現:横浜市立大学附属市民総合医療センター)に勤務し、後進の指導にもあたった』。明治一三(一八八〇年)に同医院を退職、二年後の明治十五年には、一度、帰国し、『ニューヨーク州モントゴメリー郡フォンダで休養を取』ったが、明治一九(一八八六)年二月二十一日に再来日した。しかし、明治二十一年の『夏頃から病気がちになり、福澤に慶應義塾内の住居を与えられて静養』したが、明治二十二年二月十九日に『三田の慶應義塾内にあった自宅で母親に看取られて死去した。墓碑銘は福澤が執筆し』、『青山に葬られた』とある。アカデミックな記載でないと嫌な方は、横浜市大医学部内の「横浜市立大学医学部医学科同窓会倶進会」公式サイトの「横浜医史跡めぐり 3 シモンズ(D.B.Simmons)」を参照されたいが、そこでは『辞任の理由は夫人が極端なユニテリアン』(キリスト教の伝統的な核心的真理とされてきている「三位一体」(父と子と聖霊)の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称。イエス・キリストを宗教指導者として認めるが、その神としての超越性を否定する立場に立つ一派)で、『生活も派手であったことによるといわれる』とあり、また、『開業医としてのシモンズは好評であったが、翻然、欧州に渡り、英独仏の』「大家碩學ト醫術ノ討論研究シ」(引用元不詳)、『再び来日した』と、ウィキにはない、医学研究にための一時渡欧があったことが記されてあり、再び日本に戻って、明治三(一八七〇)年三月には、官立医学教育機関「大学東校」(とうこう:後の東京医学校で、東京大学医学部の直接の前身)『に奉職し、約』一『年間勤務した』という事蹟や死因が腎炎であったことも記されてある。

「奢侈禁制法」奢侈禁止令(しゃしきんしれい)。贅沢を禁止し、倹約を推奨・強制するための法令。次の段落で語られるのでフライングになるが、ウィキの「奢侈禁止令によれば、『日本では、身分制度の維持を図る観点から』、『身分相応以上の服装を着用する行為が道徳風俗違反であるとして「過差(かさ)」であると非難された。聖徳太子の冠位十二階でも朝廷に出仕する者の服装規定が定められ、以後も度々奢侈禁止令が出されたが、当初はその対象は主に貴族・官人層であった』。養老五(七二一年)に『「節を制し度を謹しみ、奢侈を禁防するは、政を為すに先とする所にして百王不易の道なり」と唱えて位階に応じて蓄馬を規制し』長徳元(九九九)年には、『藤原道長を一上』(いちのかみ:筆頭公卿を意味する「一ノ上卿(いちのしょうけい)」の略語)『とする太政官が、「美服過差、一切禁断」とする太政官符を出すなど、度々』、『奢侈禁止令が出されている。建武の新政の際には後醍醐天皇が政治刷新の一環として「過差停止」の宣旨を出しているものの、当時の婆娑羅・風流の風潮を止めることはできなかった』。しかし、『近世に入って江戸幕府が士農工商を問わずに発令した贅沢を禁じる法令および命令の一群は』中でも特に『群を抜いていた』とし、寛永五(一六二八)年には』、『農民に対しては布・木綿に制限(ただし、名主および農民の妻に対しては紬の使用を許された)され、下級武士に対しても紬・絹までとされ』、『贅沢な装飾は禁じられた。また』、『同年には旗本に対しては供回りの人数を制限させるなど、以後家族の生活や食生活、交際時の土産の内容までが規制を受けた。これは旗本に江戸常駐を原則として義務付けたことによって』、『旗本が生産地である知行地から切り離されて消費者に転化し』てしまい、『その生活が苦しくなったという事情が大きく働いていた』。『農民の服装に対しては続いて』寛永一九(一六四二)年には、『襟や帯に絹を用いることを禁じられ、更に脇百姓の男女ともに布・木綿に制限され、更に紬が許された層でもその長さが制限された。更に翌年の「土民仕置覚」では紫や紅梅色を用いる事が禁じられている。その後も』寛文七(一六六七)年)・天明八(一七八八)年・天保一三(一八四二)年)にも、繰り返し、『同様の命令が出されている』。『一方、武士や町人に対しても』、『農民ほどの厳格さはなくても』、『同様の規制が行われ』ており、寛文三(一六六三)年には「女中衣類直段(ねだん)之定」が『定められ、当時の明正上皇(女帝、銀』五百目(一目は銀一匁)『)や御台所(将軍正室、銀』四百『目)の衣装代にまで制約をかける徹底的なものであった』。天和三(一六八三)年には、『呉服屋に対しては小袖の表は銀』二百『目を上限とし、金紗・縫(刺繍)・惣鹿子(絞り)の販売は禁じられ、町人に対しては一般町人は絹以下、下女・端女は布か木綿の着用を命じた』。貞享三(一六八六)年には『縫に限り銀』二百五十『目までの販売を許したが』、元禄二(一六八九)年には銀二百五十目『以上の衣服を一切売ってはならないこと、絹地に蝋などを塗って光沢を帯びさせる事を禁じることが命じられた』。正徳三(一七一三)年には先の「女中衣類直段之定」の制限(朝廷』五百『目・幕府および大名』四百『目・それ以下』三百『目)の再確認と贅沢な品物の生産と新商品・技術の開発の厳禁が生産・染色業者に命じられ』ており、享保三(一七一八)年の『「町触」の公布にあわせて奉行所に町人の下着まで』、『贅沢な振る舞いがないか監視するように』、『という指示が出されている』延享二(一七四五)年にも『「町人が絹・紬・木綿・麻布以外の物を着てはならず、熨斗目などの衣装を着ているものがいれば、同心は捕えてその場で衣装を没収すべきである」と言う指示が出されている。こうした奢侈禁止令の極致が天保の改革の際の一連の禁令であり、「商工等は、武士・農民の事欠け申さざる程に渡世致し候はば然るべく候」として商工を非生産的な身分であり、都市が繁栄する事そのものが無駄以外の何者でもないと断じて』、『厳しい奢侈禁止令を実施した』。但し、『このような指示がたびたび出されたにも関わらず、命令が遵守されたのは直後のみで時間が経つにつれて』、『都市でも農村でも違反するものが相次いだ。更に、上の身分の者が奉公などの褒賞として下の者に下賜された衣装を実際に着用した場合には、儒教の忠の観念との兼ね合いから黙認せざるを得なかったために、規制を形骸化する根拠を幕府自身が作る事になってしまった例もあったのである』とある。]

 

 日本社會のあらゆる階級は奢侈禁制の規約の下にあつた――規定の程度は時代の異るにつれて異つて居るが、而もこの種の(奢侈禁制の)法律は極古い時代から出來て居たらしい。紀元六八一年に天武天皇がすべての階級の衣服を定めたといふ記事がある――『親王より下民に至るまで、階級に從つて、頭飾り及び帶の着用竝にあらゆる色ある紋物の着用を』定めたといふ事である【註一】。僧尼の着用すべき衣服及びその色は、すでに紀元六七九年に出された勅令に依つて定められて居た。後になつてこの種の規定は、非常にその數を增し、また細目に亙つた。併しそれから一千年の後則ち德川の治世になつて、この奢侈禁制法は著しい發達をなした、その性質は百姓に適用されたその規定に依つで最もよく現はされてゐる。百姓の生活は細目に至るまで法律に依つて定められて居た――その住居の大いさ、形、價格から、下つて食事の際に於ける料理の數や種類の如き微細な事に至るまで定められて居た。たとへば百石の收入ある百姓は(百石の收入とは一年九十磅[やぶちゃん注:ポンド。]から百磅の收入である)六丈[やぶちゃん注:十八メートル。ここは奥行。平井呈一氏の訳に拠る。]の長さの家を建てる事を得べく、それ以上は許されなかつた、なほ家に床の間のある室をつくる事を禁じられて居た。また特別の許可あるにあらざれば、屋垠に瓦を用ふる事をゆるされて居なかつた。その家族のものは何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]も絹服を着る事を許されず、その娘が、絹を着用する資格のある人と結婚をする場合、その花婿は結婚式の際絹を着用してはならぬといふのであつた。如上の百姓の娘又は息の結婚には僅に三種の料理が許されたのみで、婚禮の客に出す汁、魚、口取りの質竝びに量も、法律で極められて居た。同樣に婚禮の贈物の數も極まつて居り、酒、干物等の贈物の價も定められ、花嫁に呈する事をゆるされて居た一本の扇子の質さへ極まつて居た。如何なる時にも、百姓はその友に高價な贈物をする事をゆるされない。葬式の際には百姓も客に或る種の粗末な食事を呈する事をゆるされた。併し酒が出される場合、それは盃をもつてされず、汁椀でのみすべき事になつて居た――(この規定は多分特に神道の葬式に關しての事であらう)子供の誕生の場合、祖父母は(慣習に從つて)只だ四つの贈物をする事をゆるされて居た――『木綿の赤兒の衣服一着』もその内に入つて、而も贈物の價は定められて居た。男子の祝の折には(五月の節句か)祖父母を交へての全家族からの子供への贈物は、法律に依つて「紙の旗一旒[やぶちゃん注:「りう(りゅう)」接尾語で助数詞。旗や幟(のぼり)などを数えるのに用いる。]及び「玩具の槍二本」に限られて居た……。財産五十石と算定された百姓は、長さ四丈五尺[やぶちゃん注:これも無論、奥行で、約十三メートル六十三センチメートル。]以上の家を建てる事を禁じられて居た。その娘の結婚に於ける贈物の帶の代價は五十錢を超えてはならなかつた、そして結婚の宴には一種以上の汁を出してはならなかつた……。財産二十石と算定されて居た百姓は、長さ三丈六尺[やぶちゃん注:約十メートル九十一センチメートル。]以上の家を建てる事をゆるされず、またそれを建てるに欅[やぶちゃん注:「けやき」。]、檜の如き上等な木材を用ふる事もゆるされなかつた。その屋根はまた竹葺(竹の皮か或は笹の葉か)若しくは藁に限り、床上に疊を用ふるという慰安を嚴禁されて居た。その娘の結婚の折の宴には、魚その他の燒物を出す事を禁じられて居た。その家族の女達は皮の草鞋をはく事を許されず、藁で造つた草鞋若しくは下駄をはくのみで、その鼻緒も木綿で拵へたものに限られて居た。女達はなほ絹製の髮紐竝びに鼈甲の髮飾りをつける事を禁じられて、木の櫛若しくは骨の櫛――象牙のではない――を許されて居た。男は足袋をはく事を禁じられ、その草鞋【註二】は竹でつくられたものであつた。それ等のものは又日傘則ち紙の傘を用ふる事を禁じられて居た――。十石と算定された百姓は長さ三丈[やぶちゃん注:九メートル九センチメートル。]以上の家を建てる事を禁じられて居た。その家の女達は笹の葉の鼻緒のついた草鞋を用ひなければならなかつた。その子息若しくは娘の結婚には只だ一個の贈物が許された――夜具則ち蒲團を入れる長持のみである。その子の誕生にも只だ一個の贈物だけがゆるされた、則ち男の子ならば玩具の槍一本、女の子ならば紙の人形若しくは土の人形一個を……。自分のの土地をもつて居ないこれよりも一段身分の低い百姓、所謂水吞百姓なるものに關しては、食物、服裝等に就いて、一段嚴重に制限されて居たことは、言ふまでもないことである、たとへばそれ等のものは結婚の贈物として、夜具蒲團を入れる長持をもつことさへも許されなかつた。併し恁ういふ屈辱的複雜な制限に關しての適當な考へを得んと欲するならば、ヰグモア教授の公刊した文書を讀むのが一番良い、それは主として次のやうな條項から成つて居るのである。――

 

註一 アストン氏の『日本紀』の飜譯第二卷三四三、三四八、三五〇頁參照

註二 草鞋若しくは下駄には竹をもつて造つたのもある、併しここに言ふのは竹の草の意である。

譯者註 第一草鞋の意が不可解である。ここに言ふサンダルは或は草履であらうか、それが竹則ちバンブウで出來て居るとはどういふ事か、更にバンブウ・グラスとあるのは笹の葉か竹の皮ででもあらうか。

[やぶちゃん注:「アストン氏の『日本紀』」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年:十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者。詳しくは、ウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい)が一八九六年に刊行した「日本書紀」の英訳NIHONGI。これは「日本書紀」天武天皇一三(六八四)年の閏四月丙戌(ひのえいぬ)・天武天皇一四(六八五)年七月庚午(かのえうま)の条々の中の以下の記載他であることを、平井呈一氏は恒文社版で訳注されておられる。「日本書紀」の当該原文を引き、平井氏の訓読文を参考にして訓読しておく。

   *

①又詔曰。男女、並衣服者。有襴無襴、及結紐長紐、任意服之。其會集之日、著襴衣而著長紐。唯男子者有圭冠、冠而著括緒褌。

(又、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、男女(をとこをみな)、並(とも)に衣服(ころも)は、襴(すそつき)有るも、襴無きも、及び、結ひ紐、長紐(ながひも)、意(こころ)の任(まま)に之れを服(き)よ。其の會-集(まゐうごならむ)の日には、襴(すそつき)の衣を著て、長紐を著けよ。唯し、男子(をのこ)は圭-冠(はしはかうぶり)有らば、冠(かうぶ)りて、括(くく)り緒(を)の褌(はかま)を著けよ。)

   *

②勅、定明位已下進位已上之朝服色。淨位已上並著朱華。正位深紫、直位淺紫、勤位深綠、務位淺綠、追位深蒲萄、進位淺蒲萄。

(勅(みことのり)して、明位(みやうゐ)は已-下(しも)、進位より已-上(かみ)の朝-服(みかどころ)の色を定む。淨位より已上は、並(みな)、朱華(はねず)を著る。正位は深紫、直位(ぢきゐ)は淺紫、勤位(ごんゐ)は深綠、務位(むゐ)は淺綠、追位(ついゐ)は深蒲萄(ふかえびぞめ)、進位は淺蒲萄(ああえびぞめ)。)

   *

 なお、以下の三条の引用(江戸時代の丹後田辺藩(明治維新後に舞鶴藩に改称)の奢侈禁止の御触れ書きらしきもの)は前後が一行空き。]

 

 『衣裳の襟及び袖口には絹を用ふるもよし、また絹或は縮緬の帶を用ふるもよし――但し公儀に於ては許されず……』

 『二十石以下の列にある家族は、武田椀及び日光膳を用ふべし』……〔この二品は漆製品の一番廉價なものである〕

 『大百姓或は組頭は傘を用ふる事を得、但し小百姓、小作人等は簑と藁傘(饅頭笠)のみを用ふべし……』

[やぶちゃん注:「武田椀」旧山陰道但馬国竹田藩(現在の兵庫県北部の朝来(あさご)市)にあったとされる竹田塗の椀のことか。「竹田塗」については、個人ブログのこちらを参照されたい。それによれば、ここは古くは『兵庫県では唯一の漆塗り産地として』記されてあったとし、県内に多く植生する栗材を用いた『朴訥とした民芸調の椀』とある(下線太字やぶちゃん)。

「日光膳」日光塗りの膳椀。日光で産する塗り物で淡色の春慶塗の一種。粗製であるが、地質は堅牢である。]

 

 ヰグモア數授に依つて公刊されたこの文書は、ただ舞鶴の大名の出した規定のみであるが、これと同樣細かくまた面倒な規定は全國を通じて勵行されたらしい。出雲に於ては、明治以前、各種の階級のものに、着用すべき衣服の原料を規定したのみならず、その色竝びにその型の意匠まで規定した奢侈禁制法のあつた事を私は知つて居た。出雲では家の大いさと共に室の廣さまで法律に依つて定められて居た、――建物及び籬[やぶちゃん注:「まがき」。垣根。]の高さ、窓の數、建築の材料も同樣で……ただに住居の廣さ、家具の價のみならず、また衣服の地質に至るまでも――ただに結婚の支度の費用のみならず、また結婚の宴の性質、食物を入れる器の質までを、ただに婦人の髮につける飾りの種類のみならず、また履物の鼻緒の材料に至るまで――ただに友人に贈る贈物の價のみならず、子供に與へる極低價の玩具の性質や價格までを、規定するやうな法律に、どうして人間が忍んで服し得たのであるか、西洋の人にはとても了解が出來ない。而して社會の特殊な構造は、組合の意志に依つて、かくの如き奢侈禁制法の勵行を可能ならしめたのである、則ち人民自らがそれを強制するのやむなきに至らしめられたのである。すでに言つた通り各組合(村邑[やぶちゃん注:「そんいふ(そんゆう)」。村落。]は、組みと稱して五軒、或はそれ以上の家の一團を作つて居た。そして組を構成する家々の主人は、その内から組頭なる菟のを選び、上の官憲に對して直接に責任を負はした。組はその内の人々の孰れの行跡に對しても責任をもつて居た。そしてその一人は、結局他のものに對して責任をもつて居たのである。前にのべた文書の一に恁う書いてある『組の各員はその仲間の人々の行爲をよく監視して居なくてはならぬ。相當な理由なくしてこれ等の規定を破るものがあれば、そのものは罰せらるべく、またそのものの組は責任を負はせらるべし』と。子供に紙の人形一個以上を與へたといふ、大變な犯罪に對しても[やぶちゃん注:皮肉としてならばそれでよいが、前の「大變な」はここにある方が腑に落ちる。]責任を負はせられたのである……。併し吾々は昔のギリシヤ及びロオマの社會にあつても、これと同種の法律が、澤山にあつたといふ事を、記憶しなければならない。スパルタの法律は、女が髮の毛を結ぶその結ひ方を規定した。アゼンス[やぶちゃん注:既出。「アテナイ」「アテネ」のこと。]の法律は女の衣裳の數をきめた。昔、ロオマでは、女が酒を飮む事を禁じた。ギリシヤのミレタス[やぶちゃん注:ミレトス。エーゲ海を挟んだギリシア本土の対岸、アナトリア半島西海岸(現在のトルコのアイドゥン県バラト近郊。(グーグル・マップ・データ))のメンデレス川河口付近にあったギリシア人植民地。]及びマツシリア[やぶちゃん注:ギリシア名「マッサリア」。現在のフランスのマルセイユの古代名。]の都にも、同樣な法律があつた。ロオヅ[やぶちゃん注:ギリシャのロードス島のことか。]及びビザンテイウム[やぶちゃん注:ビザンチウム。東ローマ帝国の首都。前七世紀にメカラ人の植民都市として建設されたが、後の三三〇年にコンスタンティヌスⅠ世がここに遷都したことから「コンスタンティノポリス」ともよばれた。現在のイスタンブール。]では、市民は髯を剃る事を禁じられ、スパルタではまた市民が口髯を生やす事を禁じられて居た(私は結婚の宴の價竝びにその饗宴に招かれる客人の數を規定したやや後代のロオマの法律の事を言ふ必要はあるまいと思ふ、何となればこの法律は主として奢侈を禁ずるためであつたから)日本の奢侈禁制法、特にその百姓の上に被らされたものに依つて、起される驚異の感は、その性質の如何に依つてといふよりも、その如何にも無遠慮に微細に亙つて居る事、――細目に亙つて兇猛であるといふ事に依つて、頷かれる次第である。

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 「歌よみに与ふる書」

 

     「歌よみに与ふる書」

 

 二月十一日は『日本』の創刊記念日である。居士はこの日の紙上に「国都」一篇を掲げ、その翌日から、竹の里人の名を以て「歌よみに与ふる書」を載せはじめた。爾後三月四日の「十たび歌よみに与ふる書」に至るまで、次々に現れた十篇の歌論は、居士が歌壇に足を踏入れる最初の蜂火であった。居士が歌を論ずるのはこれがはじめてではない。「文界八つあたり」以来、折に触れてその所見を述べているわけであるが、正面から攻撃の陣を進めたのはこの「歌よみに与ふる書」である。俳句方面における事業は大体その緒に就き、『新俳句』の刊行をも見る運びになったから、新なる天地を開拓すべく、歌の革新に著手したものかと思われる。

[やぶちゃん注:「歌よみに与ふる書」(歌よみに與ふる書)は「青空文庫」のこちらで正統な正字正仮名で読める。]

 

 「歌よみに与ふる書」十篇の内容は相当多岐にわたっているが、劈頭先ず「仰(おほせ)の如く近來和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば『万葉』以來實朝以來高に振ひ不申候」という一大鉄槌を下して歌壇千年の眠(ねむり)を覚そうとした。『万葉』を崇拝し実朝を尊重した真淵の説でさえ、居士の眼から見ればその実価を顕揚したものではない。居士はこの辺から論を進め、次いで「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」と喝破した。これは正に第二の鉄槌である。居士は「實は斯く申す生も數年前までは『古今集』崇拜の一人にて候ひしかば今日世人が『古今集』を崇拜する氣味合(きみあひ)は能く存申候」といっている。一度月並の世界を窺って後これを脱却し、『古今集』崇拝の過程を経て後これを抛擲する。居士の強味はむしろこの点にある。漫罵(まんば)自らよろこぶの境にとどまらず、一々その弊所に触れるのは偶然でない。

[やぶちゃん注:『居士は「實は斯く申す生も數年前までは『古今集』崇拜の一人にて候ひしかば今日世人が『古今集』を崇拜する氣味合(きみあひ)は能く存申候」といっている』やや書き方が粗雑で、前者の引用は、確かに「歌よみに與ふる書」の冒頭だが、こちらは同回文章中の記載ではなく、連載第二回の「再び歌よみに與ふる書」(『日本附録週報(明治三一(一九〇八)年二月十四日。新聞『日本』の付録として一週間ごとに、月曜日に発行されたもの)の頭の部分である。

「氣味合」趣き。気分。気持ち。

「漫罵」無暗に相手を罵(ののし)ること。]

 

 居士は総論的に眼目を定めた上、各論として実例の吟味にかかった。世間に伝誦(でんしょう)される歌が如何に下らぬものであるかということにつき、『古今集』その他の歌数首を挙げて、その下らぬ所以を細説している。この筆法はかつて「芭蕉雑談」において試みたのと同じ行き方であるが、前人の批判を顧慮せず、直(じか)に自己の眼孔を以て臨むところに居士の歌論の大きな特色がある。在来の学者が拘泥するような点も、構わず飛越えて進み得るのはそのためである。自分は古今東西に通ずる文学の標準――自らかく信じている標準――によって文学を論評する、昔は風帆船(ふうはんせん)が早かった時代があるにしろ、蒸汽船を知っている眼から見れば、風帆船は遅いというのが至当である。仮に貫之が貫之時代の歌の上手であるにしたところで、前後の歌よみを比較して、貫之より上手な者が沢山あると思ったら、貫之を下手と評することもまた至当でなければならぬ。――居士はこの態度を以て古来の歌を評し去ったのであった。

 宗匠的俳句が直(ただち)が俗気(ぞくけ)を連想せしむる如く、和歌というと直に陳腐を連想する、和歌の腐敗は趣向の変化せぬことが原因であり、趣向の変化せぬのは用語の少いのが原因である。だから趣向の変化を望む以上は、是非とも用語の区域を広くしなければならぬ、という観点から、居士は次のように論じた。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。これは「七たび歌よみに與ふる書」(『日本』二月二十八日)の第三段落の部分。以下、「歌よみに與ふる書」の引用は総て先に示した正字正仮名青空文庫」で校合した。但し、一部の漢字は私が正字化している。]

 

外國の語も用ゐよ、外國に行はるゝ文學思想も取れよと申す事に就きて、日本文學を破壞 する者と思惟する人も有之(これある)げに候へども、それは既に根本に於て誤り居候。たとひ漢語の詩を作るとも、洋語の詩を作るとも、將(は)たサンスクリツトの詩を作るとも、日本人が作りたる上は日本の文學に相違無之候。唐制に模して位階も定め服色も定め、年號も定め置き、唐ぶりたる冠衣を著け候とも、日本人が組織したる政府は日本政府と可申候。英國の軍艦を買ひ、獨國の大砲を買ひ、それで戰に勝ちたりとも、運用したる人にして日本人ならば日本の勝と可申候。

 

 こういう言葉を読むと、直に汪洋(おうよう)たる[やぶちゃん注:ゆったりとして広大なさま。]居士の胸懐に触れるような気がする。居士の頭の中には本末の別が明に立っている。「如何なる詞(ことば)にても美の意を運ぶに足るべき者は皆歌の詞と可申(まうすべく)、之を外にして歌の詞といふ者は無之候」[やぶちゃん注:同じ「七たび歌よみに與ふる書」のコーダの一節。]という一語によってもわかるように、古来の歌よみのめぐらした柵の如きは、頓著なしに破壊して通るけれども、「如何に區域を廣くするとも非文學的思想は容(い)れ不申、非文學的思想とは理窟の事に有之候」[やぶちゃん注:これも「七たび歌よみに與ふる書」の第二段落の一節。]という一点に至ると、断々乎(だんだんこ)として毫も仮借せぬ。居士の眼から見れば、世間の歌よみは些々たる小問題にのみ拘泥して、根本の大問題を閑却するものとしか思われなかった。当時は居士の所論を読んでもそこがわからず、「いづれの世にいづれの人が理窟を詠みては歌にあらずと定め候哉」という暢気な質問を提出して、「理窟が文學に非ずとは古今の人東西の人盡(ことごと)く一致したる定義にて、若し理窟をも文學なりと申す人あらば、それは大方日本の歌よみならんと存候」と居士から一蹴される人もあったのである。

[やぶちゃん注:最後のとぼけた読者との応答は、これ等より前の「六たび歌よみに與ふる書」(『日本』二月二十四日)の冒頭の一節。]

 

 有名な歌の下らぬ所以を指摘した居士は、いい歌の例として実朝の歌数首を挙げ、次いで『新古今』に及んだ。居士は『俳諧大要』において和歌と俳句との関係を論じた時、「『新古今集』には間々佳篇あり」といい、「なこの海霞(かすみ)のまよりながむれば入日を洗ふ沖つ白浪」とか、「閨(ねや)の上にかたえさしおほひ外面(とのも)なる葉廣柏(はびろがしは)に霰(あられ)ふるなり」とかいう歌は、俳句にもなり得べき意匠であるとした。居士が『新古今』から引いた歌は、大体客観的なものが多いようであるが、最後に伝教大師の「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の佛たちわが立つ杣(そま)に冥加(みやうが)あらせたまへ」の一首を挙げ、「いとめでたき歌にて候。長句の用ゐ方など古今未曾有にて、これを詠みたる人もさすがなれど、此歌を勅撰集に加へたる勇氣も稱するに足るべくと存候」と賞揚した。居士を以て客観歌にのみ偏するという人に対しては、実朝の歌を挙げて必ずしも然らざる旨を説き、強い調子の歌に偏するという人に対しては『新古今』の数首を挙げて、また然らざる所以を弁じたもののように見える。「阿耨多羅」の一首を挙げたのは、『新古今』の中においても客観歌に偏するものでないことを明(あきらか)にすると同時に、字余りの趣味を説こうとしたらしい。字余りの趣味などということは、恐らく在来の歌人のあまり関心を持たぬところであったろう。

[やぶちゃん注:「なこの海霞(かすみ)のまよりながむれば入日を洗ふ沖つ白浪」「新古今和歌集」の「卷第一 春歌上」の後徳大寺左大臣藤原実定の歌(三十五番)、

 

  晩霞といふことをよめる

なごの海の霞のまよりながむれば入る日を洗ふ沖つ白浪

 

「なごの海」は摂津国(現在の大阪市の住吉大社の西方)にあった海岸で、当時は歌枕であったようである。多くは「名兒の海」と書く。

「閨(ねや)の上にかたえさしおほひ外面(とのも)なる葉廣柏(はびろがしは)に霰(あられ)ふるなり」「卷第六 冬歌」の能因法師の一首(六五五番)であるが、「外面」は現行では「そとも」である

 

ねやのうへに片枝(かたえ)さしおほひそともなる葉びろ柏(がしは)に霰ふる也

 

「そとも」は家の後背にある庭。

「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の佛たちわが立つ杣(そま)に冥加(みやうが)あらせたまへ」「卷第二十 釋教歌」の伝教大師最澄の一首(一九二〇番)、

 

  比叡山中堂建立の時

阿耨多羅三藐三菩提の佛たちわがたつ杣に冥加あらせたまへ

 

「阿耨多羅三藐三菩提」サンスクリット語の漢音写。「最高の理想的な悟り」の意で「無上正等覺」などとも訳され、「阿耨菩提」などと略号もされる。「一切の真理を遍(あまね)く知った最上の智慧」或いは「絶対不変の永遠の真理を悟った境地」のこと、或いはそれを言祝ぐもの。「杣」杣山。古代から中世にかけて本邦で国家・権門や寺社が所有していた山林のこと。ここは比叡山を指す。「冥加」知らず知らずのうちに仏・菩薩や神から加護を被ること。仏は潜在的に衆生それぞれの能力に応じてこれを与えるとされた。]

 

 居士は「歌よみに与ふる書」十篇を通じて、唯一の標準を文学的価値に置き、第二義的な附属的条件は一切これを排除した。当時の既成歌人の如きは最初から居士の問題とするところでなかった。「歌よまんとする少年あらば老人抔にかまはず勝手に歌を詠むが善かるべしと御傳言可被下(くださるべく)候。明治の漢詩壇が振ひたるは老人そちのけにして靑年の詩人が出たる故に候。俳句の觀を改めたるも月並連に構はず思ふ通りを述べたる結果に外ならず候」という数語は居士の目的の那辺に存するかを窺うべきもので、居士は歌よみならぬ歌よみが出て、和歌の革新に協力すべきことを期待していたのであった。

[やぶちゃん注:以上の引用は最終回「十たび歌よみに與ふる書」(『日本』三月四日)の一節。]

 

2018/04/28

御伽百物語卷之五  花形の鏡

 

 御伽召物語卷之五

 

      花形の鏡

 

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[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のもの。なお、本話は底本の太刀川清氏の解題によれば、明の李禎 (りてい) の撰になる一四二〇年頃成立の文語怪異小説集「剪燈餘話」の中の「何思明游酆都錄」の翻案である。当該書は先行する名品「剪燈新話」の模倣作中では最も優れたものとされる。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで原文が読める。ありがちな、地獄巡り傍観譚である。

 

  攝州難波(なには)の津、白髮町(しらがまち)といふ所に、阿積桐石(あつみたうせき)とかや聞えし人は、昔往儒醫の譽(ほまr)ありて一度は仕官をも勤め、富貴(ふうき)の榮耀(えいよう)をも究めつるが、さる子細ありて、此所に引きこみ、逼塞(ひつそく)の身となりけるまゝに、今は世わたるたつきなくては、けふの命を育(はごく)むべき術(みち)をしらず。

「さらば、身命(しんめう)を繼ぐべくば、學び得つる儒の道をひろむるにあらずしては。」

と思ふより、

「今の俗、多く鬼神の説になづみ、淫祀(ゐんし)にまみれ、儒學の名をいたづらにかうぶるのみにて、誠は釋氏の旨を是(ぜ)とする者、數しらずあるなれば、先づ、此ともがらを驚覺(きやうかく)して、正しき道にすゝめんにはしかじ。」

と、自(みづか)ら工夫し出だし、「無鬼論」といふものを作る事、あり。

[やぶちゃん注:「攝州難波の津、白髮町(しらがまち)」不詳。或いは、現在の大阪府大阪市西区新町三丁目のここ(グーグル・マップ・データ。「白髪橋」交差点として名のみ残る)に、かつて存在していた西長堀川(今は埋め立てられて現存しない)に架かっていた白髪橋付近の旧町名か異名か。ウィキの「白髪橋」によれば、「摂津名所圖會」の「長堀材木濱」の図によれば、かつてここには材木市場があった。元和八(一六二二)年の長堀川開削から明暦元(一六五五)年までの間に架橋されたもので、『下白髪橋とも言った』。『橋名の由来は、下記のように』、『土佐藩が白髪山から木材を当地へ運んだ説と、新羅船が当地に着岸し、後世にそれが訛って白髪町・白髪橋となった説がある』。前者は『土佐の白髪山から切り出した木材を得るため、ここに木材市場を設けたことによりこの名がつけられた』という事実に基づくもので、『白髪山は高知県長岡郡本山町にある標高』千四百七十『メートルの山であり、スギやヒノキの良材を産出する。白髪山の由来について、郷土史家の細川敏水は「白い光る岩からなっているため』、『白峨の文字を使っていたが』、『後に今も奥白髪に猿田彦神(白髪の老翁)という白峨山霊を祭ったから、白峨を白髪と改めた」とする説を主張している』という、とある。今でこそ、内陸であるが、難波(なんば)や現在の浪速区の直近でもあり、木津川左岸で当時は大坂湾湾奧の海浜地区の直ぐ北であったと考えられるから、「難波の津」と称しても私はおかしくないと思う。

「阿積桐石」不詳。

「無鬼論」死霊(「鬼」は中国語ではフラットな「死者」の意)や鬼神の存在を否定する思想。中国でも古くから存在した。これは結局、人間の魂魄という存在を否定することになり、狐狸妖怪などの怪奇も否定されることになるだけでなく、仏教のような因果応報も事地獄も極楽も当然の如く全否定されることとなる(本怪談のキモはそこになる)。但し、こちらの記載によれば、『伝統的儒家思想においては、死後の霊魂の存在が肯定され、人間は死後鬼神(きしん)になるとされる。また』、『仏教や神道なども、鬼神の存在を認める。こうした鬼神の存在を肯定する思想に対し、鬼神の存在を否定する立場の主張を無鬼論という』とある。私の好きな干宝の「搜神記」の第十六巻に出る阮瞻(げんせん:竹林の七賢の一人であった阮咸の子)の話は、授業でもよくやったな!

   *

阮瞻、素秉無鬼論、世莫能難。每自謂、「理足可以辨正幽明。」。忽有客、通姓名作客詣阮。寒溫畢、聊談名理。客甚有才辨、末及鬼神之事、反覆甚苦。客遂屈。乃作色曰、「鬼神古今聖賢所共傳、君何獨言無耶。僕便是鬼。」。於是忽變爲異形、須臾消滅。瞻默然、意色大惡。後年餘、病死。

   *

阮瞻、素より「無鬼論」を秉るに、世に、能く難ずる莫(な)し。每(つね)自(みづか)ら謂ふ、「理(り)、足りて、以つて幽明を辨正すべし。」と。忽ち、客、有りて、姓名を通じて客と作(な)りて、阮に詣(いた)る。寒溫(かんをん)[やぶちゃん注:時候の挨拶。]畢(をは)りて、卽ち、名理(めいり[やぶちゃん注:対象事物の名称とその存在の論理的道理を分析すること。清談で好まれた。])を談ず。客、甚だ才辨有るも、末に鬼神の事に及びて、反覆[やぶちゃん注:議論を応酬すること。]、甚だ苦にして、客、遂に屈す。乃(すなは)ち、色を作(な)して曰く、「鬼神は古今の聖賢の共(とも)に傳ふる所、君、何ぞ得獨り、「無(む)」と言ふや。僕、便(すなは)ち、是れ、鬼なり。」と。是(ここ)に於いて、忽ち變じて異形(いけい)と爲り、須臾(しゆゆ)にして消滅す。瞻、默然として、意色(いしよく)、大いに惡(あ)し。後(のち)、年餘にして、病みて死せり。

   *

 

 草稿なかばに至りて、氣、つかれ、心、うみけるまゝに、しばらく卓(つくへ[やぶちゃん注:ママ。])に凭(よりかゝ)りて眠りけるに、夢ともなく現(うつゝ)にもあらず、忽然として、桐石が前に、人、あり。

 手を指し延べて、桐石が臂(ひぢ)を、

「しか。」

と、とらへ、引き立てんとする程に、振りあふぎて見るに、其さま、おそろしく、長(たけ)は天井につかゆる程もあるべし。二つの眼(まなこ)は姿見の鏡に紅(くれなゐ)の網を懸けたる如く、血ばしり、角(つの)は銅(あかゞね)の榾(ほた)[やぶちゃん注:ここは太い材木の意。]をならべしやうに生(お)ひ出で、髮とおぼしき物は銀(しろがね)の針を振りかけて見え、牙、左右に生ひたる口、耳のほとり迄裂けたるが、

「吃(きつ)。」

と、目見あわせけるに、身の毛、彌(いよ)立ち、手足、戰慄(わなゝ)きて、人心(ひとゝ)ちもなくて、うち臥しぬ、とおもふに、此鬼のいふやう、

「汝、なまじゐの儒に迷ひ、道にそむきて、鬼は曾て無(なき)物なりと僻案(へきあん)[やぶちゃん注:間違った考え方。]に定め、猥(みだ)りに後輩を欺き、世を惑すの説をまふけ、己(おの)が口吻をやすくせんとするや[やぶちゃん注:自分の意見を(正当なものとして)明確に示し得たなどと思ったりしちゃあ、いまいな?!]。『鬼神をば敬して遠ざく』といはずや。今、汝、智ありとも、孔・孟に及ぶ事、あたはじ。さるによりて、吾こゝに顯れ、汝をつれて、黃泉(くわうせん)の庭に至り、善惡應報の道、あるやうをしらせんとするぞ。」

と、終に桐石が腕(かいな)を取りて、提げつゝ、飛びあがる、とぞ見えしが、雲に乘り、風に隨ひ、四、五里が程も行くと思ふに、一つの大きなる門に着きぬ。

 其かまへ、たとへば、難波にて見馴れたる城の如し。

 白き赤き鬼ども、鐵杖(てちぢやう)を取り、劔戟(けんげき)を構へ、大庭(おほには)に居並(ゐな)みたるありさま、恐しなんども、いふばかりなし。

 かくて、桐石を階(きざはし)のもとに引きすゑ、雷(いかづち)のやうなる聲を出(だ)し、

「南瞻部州(なんせんぶしう)大日本難波津(なにはつ)の書生桐石を召し捕り參りたり。」とのゝしる。

[やぶちゃん注:「南瞻部州」(なんせんぶしゅう)は閻浮提(えんぶだい)に同じで、仏教に於ける宇宙観を構成する巨大世界の一つである「四洲(ししゅう)」の中の一つ。須弥山(しゅみせん)の南方の海上にあるとする島の名で、島の中央には閻浮樹(えんぶじゅ)の広大な森林があり、諸仏が出現する島とされた。元来はインド全体を指したが、その他の国をも含めて指示されるようになり、さらに拡張して、人間世界、現世を指すようになった。]

 

 しばらくありて、奧より、玉の冠(かんふり)をいたゞき、牙(け)の笏(しやく)を取り、袞龍(こんりう)[やぶちゃん注:諸本は「兗」とするが、どうもおかしい。そもそも「兗」の字の音は「エン」であって「こん」とは読めない。龍の一種の名かと思って探して見たら、皇帝の衣服にこの龍の模様がある御衣があると「南總里見八犬傳」の頭の方に馬琴が書いているのを見つけたが、そこでは「袞龍」となっている。おう! これなら「こんりう」でいいじゃないか! それに、これなら「袞龍の御衣」(こんりょうのぎょい)で、元、中国で天子の礼服につける竜の縫い取りやその縫い取りのある衣服を指し、本邦に入って、昔、天皇が着用した中国風の礼服で、上衣と裳とからなり、上衣は赤地に、日・月・星・龍・山・火・雉子などの縫い取りをした綾織物のことを指し、即位式や大嘗会・朝賀などの儀式に用いたから、いける。原典を見たが、崩し方が「袞」と読めぬこともないので、特異的にそれで表示した。]の服、威儀を正したる人、しづかに歩み出で給ひ、玉扆(ぎよくい)[やぶちゃん注:本来は高位の方の玉座の背後に立てた屏風。後に天皇の御座所の意ともなった。ここは玉座でよい。]に座し、左右の侍衞(じゑい)百官の列、おごそかに座して後、此王、桐石に詔(みことのり)してのたまはく、

「汝、愚迷の才に誇り、みだりに無鬼の邪説をなす。このゆへに、今、汝を召しよせ、暗昧(あんまい)[やぶちゃん注:道理に暗く愚かなこと。暗愚。]の機(き)[やぶちゃん注:ここは誤った認識・立脚点を指す。]を破(は)せしめんとす。速かに歸りて有鬼論を作るべし。急ぎ彼(かれ)を率(ひき)ゐて、地獄ある事を見せしむべし。」

と、宣ひもあへぬに、獄卒、桐石をひきて、一所(ひとつところ)に至れり。

 たとへば、仁德(にんとく)の社(しや)[やぶちゃん注:仁徳天皇陵墓のことか。]の如き構(かまへ)にして、金銀を鏤(ちりば)めたるが、その宮中に五葉の花形したる鏡ありて、玻璃(はり)の臺にすえられたり。走りて此かゞみにむかはんとする時、鬼のいはく、

「生(しやう)あるもの、謹(つゝしん)で、此かゞみに、向ふべからず。是れはこれ、淨披璃(じやうはり)なり。人間、一生の内、犯せる所の罪惡、ことごとく映るが故に、もし、汝、これに對(むか)ひ、罪惡の相(さう)を現(げん)する時は、二たび、生(しやう)を得て娑婆に歸る事、あたはじ。」

と教へしかば、桐石も身ぶるひしてひかへたる所に、手足は疲れ瘦せて絲のごとく、腹は茶磨山(ちやうすやま)[やぶちゃん注:形状が茶の湯の葉の状態で乾燥させた甜(てん)茶を抹茶に挽く「茶臼」に似ている富士山のような末広がりの形の山のことで、ここは特に特定の山を考えず、その形にぽっこりと出ている、飢餓のために腹水が溜まった状態の腹の一般的形容と採る。]を抱へたらんやうになりたるもの、五人、男女(なんによ)の差別(しやべつ)はしらず、よろぼひ來たるを、情(なさけ)もしらぬ獄卒ども、鐵杖を以てさんざんに打ち立て打ち立て、此かゞみのまへに追ひすゝましむ。

「いかにぞや。」

とおもふに、不思議や、此かゞみの葉每(えうごと)に、五人の罪、おのおの、別れあらはれたるにて、知りぬ。

『近き比(ころ)、難波の津に男だてと聞えし五人のあばれものゝ亡魂なり。』

とおもふに付きて不便(ふびん)さ、いや、まして、詠(なが)めけるに、先づ、此男だての張本庄九郎といひしものゝ出生(しゆつしやう)は、三番村[やぶちゃん注:旧茨田(まった)郡大庭三番村か(現在の守口市の北の淀川左岸附近。この辺り(グーグル・マップ・データ))。]なりしが、此親、ある時、田畠(でんはた)の事につきて所の者と爭ひをなし、庄屋を相手に取り、公事(くじ)を仕けるにつき、訴狀を懷にして大坂の方へ趣きける道にて、何とかしたりけん、腹の痛む事、頻なりしかば、曾根崎の天神に參り、しばらく、拜殿にやすみ居たりけるが、いつとなく、少しまどろみける夢心に、騎馬の人、あまた此やしろに入り來たり、案内していふやう、

「三番村の地神(ぢじん)、しばらくの間、雷車(らいしや)を借り申したき由の御使ひに參りたり。」

といふを、内より衣冠の人、四、五人して、ちいさき車を押し出して、使者に貸しけると見て、夢、覺めたり。

 急ぎ歸りて、近邊の村にも言ひ聞かせ、我も麥(むぎ)の比(ころ)なりしかば、さしいそぎて、悉く刈り込みけるに、程なく、二、三日過ぎて、大雨雷電(たいうらいでん)、おびたゞしく、洪水、さかまきて、中津川なども溢(あふる)るまで、その邊(ほとり)の逆水(さかみづ)、はせ流れしかば、庄九郎が親の詞(ことば)を信じて、麥を早く刈り入れしものは、奇特の思ひをなし、此詞を誠しからず思ひて、其まゝ置きし者は、却(かへつ)て、此事を惡しくいひなし、

「庄屋に仇あるをもつて山伏を賴み、祈らせたり。」

などゝいひふれしかば、兼て怨敵となりける庄屋、是れにちからを得、惡しきさまに取りなし、訴(うつたへ)のたねとなせしより、庄九郎親子は所を追ひ立てられ、此難波の町に住みけるより、此事を病(やまひ)として、終に親は世を早(はや)う去りしかば、庄九郎、いよいよ惡念に長(ちやう)じ、此報(むきひ)をなすべく思ひたちける所存に、先づおなじ心なる友を勸め、男伊達(おとこだて)と號し、臂(ひぢ)に黥(いれほくろ)してその黨(とう)をむすびける詞(ことば)にいはく、

[やぶちゃん注:以下はブラウザの不具合を考えて三行に改行し、前後を一行空けた。]

 

   生きて父母の勘當を恐れず。

   死して獄卒の責めを怕(おそ)れず。

   千人を殺して千の命(いのち)を得たり。

 

 とほりて、朝暮れ、ちからわざ・小太刀・やはらに身を任かせ、いづくにもあれ、我が仇(あだ)せんとおもふ三番村のものとあらば、

「出あひ次第に。」

と心を盡し、常に大脇指(おほわきざし)をはなさず、夜な夜な、新町(しんてう)[やぶちゃん注:大坂で唯一江戸幕府公認だった遊廓新町花街のことか。現在の大阪府大阪市西区新町。(グーグル・マップ・データ)。]・しゞ見川[やぶちゃん注:蜆川。旧曽根崎川(現在は埋立てにより消滅)の別名。]・道頓堀のあたりを浮岩(うか)れありき[やぶちゃん注:「浮岩」で「うか」と読ませている。江戸文庫版は「岩」がないが、原典を見ると、確かにある。こういう用例を知らぬが、ママとした。]、ある時は、かよはき上氣男(うはきおとこ)、または北濱(きたはま)[やぶちゃん注:現在の大阪府大阪市中央区北浜か。(グーグル・マップ・データ)。]の中衆(なかしゆ)[やぶちゃん注:船に荷を積んだり降ろしたりする労働者。荷揚げ人足ら。]、阿波座堀(あはざほり)[やぶちゃん注:現在の大阪府大阪市西区阿波座(あわざ)附近か。(グーグル・マップ・データ)。古くは海上交易における拠点とされて四国・中国地方から特産物が多く流れこんだという。]・長濱町(ながはまてう)[やぶちゃん注:不詳。或いは前の阿波座附近の旧町名か。]邊(へん)の舟子(ふなこ)など、少しも天窓(あたま)をあぐるけしきなる者あれば、

『自然の時の稽古に。』

とおもひて、手ひどくあたりて見るに、十人に八、九は、今の世の靜謐(せいひつ)にならひ、久し干戈(かんくわ)の光を見ず、只あけくれたしなむ道は、髮かたちを物數寄(ものずき)し、衣類・腰の物まで、表むきの派手風流を盡くして、兎角、女に思ひつかれん事を願ふ浮世(うきよ)なれば、人の見ぬ所にては少々踏(ふま)れたりとも、仇すべき心なき者のみ多ければ、庄九郎、いよいよ勝(かつ)に乘じ、

「さては、我(われ)、つよみの人にあたりて、敵對すべき者なし。」

と獨笑(ひとりえ)みせられ、いよいよ無法に募り、友をかたらひ、人の怕るゝをおもしろがり、

「ひた。」

と、こゝかしこにのさばりしより、今は、いつしか、仇を報ぜんとおもひたちし心ざしをも忘れ、惡にはすゝみやすく、こゝの橋にたゝずみ、彼(かしこ)の廓(くるわ)に邪魔をなし、あばれありきける始めより、刑罰にあひたりし、夕べまでの罪業、すべて三千七百ケ條の科(とが)、ことごとく、此鏡にあらはれ、假にも念佛の後生(ごしやう)を助かるべき善事、いさゝかもなかりけるが、せめて死期(しご)におよびて、前非を悔ひ、多念なく一稱せし念佛の功德(くどく)あり。

 されば、經文の心によらば、「利劍卽是彌陀號一稱稱念血罪皆除(りけんそくぜみだがういつせうせうねんざいかいぢよ)」といひ、「極重惡人無他方便三世利益同一體(ごくぢうあくにんむたはうべんさんぜりやくどういつたい)」などありといへども、今、此五人のものども、眞實の倍をおこし、彌陀の名號を唱ふるとならば、一念十念の功力(くりき)、あやまたず、右、此無量の罪(ざい)を消滅すべきに、死期にいたり、命薄(めいぼ)きわまりて、

「念佛し、加護をたのみても惡心をひるがへすべし。」

と願(ぐわん)をおこし、

「今、しばらく、命を御たすけたまはれ。」

と、婆婆に欲ある心ざしにて唱へたる念佛ゆへ、尤(もつとも)、その功德、うすし。

 薄しといへども、大悲の誓願むなしからねば、此一遍の念佛によりて、千七百ケ條の罪をのがれ、阿鼻大城(あびたいじやう)[やぶちゃん注:阿鼻地獄。八大地獄の一つで無間(むけん)地獄・阿鼻叫喚地獄・阿鼻焦熱地獄などとも称する最悪の地獄。父殺しなどの五逆罪や正法を誹謗すなど、救い難い大罪を犯した人間の墜ちる地獄とされ、絶え間なく苦痛を受け、それを逃れることが出来ないとされる。]に落つべき罪人なれども、閻魔の廳の沙汰に免(ゆる)され、

「畜生道の内におゐて、梟(ふくろう)の身に生(しやう)を請けさせ、二萬劫(ごう)を經て、人間にかへすべし。」

との勅あるにまかせ、おのおの、獄卒ども、彼の五人を引きたて、また、雲に乘りて行くとぞ見えしが、庭鳥(にはとり)の時を告(つぐ)る聲、大福院[やぶちゃん注:現在の大阪府大阪市中央区心斎橋筋にある真言宗七宝山大福院三津寺(みつでら)。(グーグル・マップ・データ)。現在の白髪橋交差点から一キロメートル強の直近であるから、やはり白神町の位置は白神橋付近で間違いないと思われる。]の鈴のひゞきに夢さめて見れば、白髮町(しらがまち)の明(あけ)ぼの、ほがらに、桐石は机にもたれながら、うつぶしに臥せり。

 妻は、かたはらに丸(まる)ねしたるばかりにてぞぞありける。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十四章 生態學上の事實(7) 六 氣候の變化に對する準備 / 第十四章 生態學上の事實~了

 

     六 氣候の變化に對する準備

 

Kumamusi

 

[熊蟲(廓大)

イ 生きたもの  ロ 乾燥したもの]

[やぶちゃん注:図内キャプションがあるため、以下の一枚とともに底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正して用いた。脱皮動物上門 Ecdysozoa緩歩動物門Tardigrada に属する異クマムシ綱 Heterotardigrada・中クマムシ綱 Mesotardigrada・真クマムシ綱 Eutardigrada。真空の宇宙空間でも乾眠して生きていけるのではないかされる、驚異の生物である。ウィキの「緩歩動物より引く。極小の動物で、四対八脚の『ずんぐりとした脚でゆっくり歩く姿から緩歩動物、また形がクマに似ていることからクマムシ(熊虫)と呼ばれている。また、以下に述べるように』、『非常に強い耐久性を持つことからチョウメイムシ(長命虫)と言われたこともある』。体長は五十マイクロメートル(一マイクロメートルは〇・〇〇一ミリメートル)から一・七ミリメートルしかなく、『熱帯から極地方、超深海底から高山、温泉の中まで、海洋・陸水・陸上のほとんどありとあらゆる環境に生息する。堆積物中の有機物に富む液体や、動物や植物の体液(細胞液)を吸入して食物としている』。『およそ』一千『種以上(うち海産のものは』百七十『種あまり)が知られている』。『体節制は不明確』で、『基本的には頭部』一『環節と胴体』四『環節からなり、キチン質の厚いクチクラで覆われている。真クマムシ目のものは外面がほぼなめらかだが、異クマムシ目のものは装甲板や棘、毛などを持ち、変化に富んだ外見をしている』。『胴体部の各節から出る』四『対の脚を持つ。歩脚は丸く突き出て関節がなく、先端には基本的に』四~十『本の爪、または粘着性の円盤状組織が備わっている』。『頭部に眼点を持つものがあるが、持たないものもある。口の近くに口縁乳頭などの小突起を持つ例もあるが、外部に出た触角や口器などはない』。『体腔は生殖腺のまわりに限られる。口から胃、直腸からなる消化器系を持つ。排出物は顆粒状に蓄積され、脱皮の際にクチクラと一緒に捨てられる』。『呼吸器系、循環器系はない。酸素、二酸化炭素の交換は、透過性のクチクラを通じて体表から直接行う。神経系は』梯『状。通常』、一『対の眼点と、脳』二『本の縦走神経によって結合された』五基の『腹側神経節を持つ』。『多くの種では雌雄異体だが、圧倒的に雌が多い。雌雄同体や単為発生も知られる。腸の背側に不対の卵巣又は精巣がある。産卵は単に産み落とす例もあるが、脱皮の際に脱皮殻の中に産み落とす例が知られ、脱皮殻内受精と呼ばれる』。『幼生期はなく、直接発生して脱皮を繰り返して成長する。その際、体細胞の数が増加せず、個々の細胞の大きさが増すことで成長することが知られる』。『陸上性の種の多くは蘚苔類などの隙間におり、半ば水中的な環境で生活している。樹上や枝先のコケなどにも棲んでいる。これらの乾燥しやすい環境のものは、乾燥時には後述のクリプトビオシス』(cryptobiosis:「隠された生命活動」の意)『の状態で耐え、水分が得られたときのみ生活していると考えられる』。『水中では水草や藻類の表面を這い回って生活するものがおり、海産の種では間隙性の種も知られる。遊泳力はない』。『一部の緩歩動物は、乾眠(かんみん)によって環境に対する絶大な抵抗力を持つ。乾眠(anhydrobiosis)はクリプトビオシスの一例で、無代謝の休眠状態である。この現象が「一旦死んだものが蘇生している」のか、それとも「死んでいるように見える」だけなのかについて、長い論争があった。現在ではこのような状態を、クリプトビオシス』『と呼ぶようになり、「死んでいるように見える」だけであることが分かっている。他にも線虫、ワムシ、アルテミア(シーモンキー)、ネムリユスリカなどがクリプトビオシスを示すことが知られている』。『緩歩動物は周囲が乾燥してくると体を縮める。これを「樽(tun)」と呼び、代謝をほぼ止めて乾眠の状態に入る。乾眠個体は、後述する過酷な条件にさらされた後も、水を与えれば再び動き回ることができる。ただし』、『これは乾眠できる種が乾眠している時に限ることであって、全てのクマムシ類が常にこうした能力を持つわけではない。さらに動き回ることができるというだけであって、その後』、『通常の生活に戻れるかどうかは考慮されていないことに注意が必要である』。『乾眠状態には瞬間的になれるわけではなく、ゆっくりと乾燥させなければあっけなく死んでしまう。乾眠状態になるために必要な時間はクマムシの種類によって異なる。乾燥状態になると、体内のグルコースをトレハロースに作り変えて極限状態に備える。水分がトレハロースに置き換わっていくと、体液のマクロな粘度は大きくなるがミクロな流動性は失われず、生物の体組織を構成する炭水化合物が構造を破壊されること無く組織の縮退を行い、細胞内の結合水だけを残して水和水や遊離水が全て取り除かれると酸素の代謝も止まり、完全な休眠状態になる。ただし、クマムシではトレハロースの蓄積があまり見られないため、この物質の乾眠への寄与はあまり大きくないと考えられている』。『クマムシは非常に大きな耐性強度を持つことで知られている。ただし』、『それは他の多細胞生物と比較した場合の話であり、単細胞生物では芽胞を作ることにより、さらに過酷な環境に耐えることができるものもいる』。乾燥に対する耐性は、『通常は体重の』八十五%『をしめる水分を』三%『以下まで減らし、極度の乾燥状態にも耐え』、温度耐性も『百五十一の高温から、ほぼ絶対零度』(〇・〇〇七五ケルビン)『の極低温まで耐える』。圧力に対しては実に、『真空から』七万五千『気圧の高圧まで耐え』られ、『高線量の紫外線、X線、ガンマ線等の放射線に』対しても耐性を持ち、『X線の半致死線量は』三千~五千Gy(グレイ:ヒトの半致死線量は四Gy)である。二〇〇七年、『クマムシの耐性を実証するため、ロシアの科学衛星フォトンM3でクマムシを宇宙空間に』十『日間直接さらすという実験が行われた。回収されたクマムシを調べたところ、太陽光を遮り宇宙線と真空にさらした場合、クマムシは蘇生し、生殖能力も失われないことが確認された。太陽光を直接受けたクマムシも一部は蘇生したが、遮った場合と比べ生存率は低かった』。『耐性は乾眠によって強化されている可能性がある』ともされる。]

 

 以上述べた所の攻擊の器官、防禦の裝置、保護色、警戒色等の如きは、孰れも皆生きた敵に對して有功なものであるが、動物には尚その外に寒暑・乾濕等の如き氣候上の變化と戰つて、之に堪へるだけの性質が具はつてある。而して如何なる動物に如何なる性質が具はつてあるかと詳しく調べて見ると、孰れもその住處・習性に應じて、種屬の維持に必要な性質のみが發達して居る。例へば水の決して涸れることのない河や池に住む魚類には、水が涸れても死なぬといふ性質は具はつてないが、いつ水が無くなるか解らぬやうな小さな水溜(みづたまり)の中に住んで居る水蟲の類には、身體が全く乾燥してしまつても尚死なぬものが澤山にある。こゝに掲げたのは熊蟲と稱して、常に水溜の中に住み、八本の短い足を以て水藻の間を這うて居る顯微鏡的の小蟲であるが、乾かせば縮小して、(ロ)の如くになり、動物であるか砂粒であるか解らぬやうなものとなる。之をこのまゝに捨てて置けば、いつまでも全くこの通りで、少しも生活の徴候を現さぬが、水で濡らせば、いつでも舊(もと)の姿に復(かへ)つて、直に平氣で這ひ始める。この他にも輪蟲というて、之と同樣な性質を有する小蟲の類が數百種もある。またかやうな水溜には、水の涸れるときには乾燥に堪へる卵だけを殘して自身は死んでしまふ蟲類が甚だ多い。これらは皆種屬維持の上に最も必要な性質で、之が無ければ、その種屬は忽ち斷絶すべきものであるが、斯かる性質は、常に之を利用する機會を持たぬ動物には、決して發達して居ない。沙漠に住む駱駝が胃の外面に水を貯へるための小囊を數多持つて居るのも、この類の一例で、水に不白由をせぬ場所に住んで居る獸類には、かやうな裝置の具はつてあるものは一種もない。つまる所、そこに生存し續けられるだけの性質の具はつた動物でなければ、今日まで生存して居るわけはないから、今日生きて居る動物を取つて檢すれば、孰れも實に感服すべき程にその住處の有樣に適した構造・性質等を有して居る。たゞ之だけを見ると、如何にも全智・全能の神とでもいふものがあつて、態々そこに適するやうに造つたかとの考が起り易いが、かやうな自然以外のことを假想せずとも、自然淘汰といふことを認めさへすれば、總べてこれらの事實の起源を明に理解することが出來る。

[やぶちゃん注:「輪蟲」扁形動物上門輪形動物門 Rotifera に属するワムシ類と総称される凡そ三〇〇〇種を数える動物群。参照したウィキの「輪形動物」によれば、『水中の微小動物からなる動物群で』、『主として淡水に生息し、若干の海産種や陸生種がある。多くは』一ミリメートル『に満たず、たいていは』百~五百マイクロメートル『程度の大きさである。浮遊生活か、藻類や沈殿物の表面を匍匐して暮らしている。一部に固着性の種がある。世界で約』三千『種が知られる』。『単為生殖をする種が多く、雄が常時出現する例は少ない。雄が全く見られない群もある。なお、雄は雌よりはるかに小さく、形態も単純で消化管等も持たない。以下の構造等の記述は主として雌に関するものである』。『壷型の胴体と、後方に伸びる尾部を持ち、頭にある繊毛を使って運動する。全体としては左右相称で、腹背の区別はあるが、さほどはっきりしない例もある』。『体の先端部は幅広く、ここには繊毛が円をなして配置し、繊毛冠(Corona)を形成する。この繊毛は摂食にも運動にも使われる。この部分は形態的にははっきりしない場合もあるが、頭部と言われる。眼点や特殊な感覚器を備える例もある』。『頭部に続く部分は胴部で、円筒形から壷型、内臓の大部分がここに収まる。体表はキチン質の表皮に覆われる。がっしりとした被甲に覆われる例も多い』。『それに続く尾部は、いくつかの節に分かれて、よく伸縮する。先端に二本の指と爪があり、また』、『粘液腺などを持って体を支えるのに使われる。匍匐性の種では胴と同じくらいの幅と長さを持ち、節があるものもあるが、体節とは認められていない。また、この付近に卵をぶら下げて活動するものがよくある』。『多くのものは付属肢を持たないが、ミジンコワムシ』(遊泳(ワムシ)目ミジンコワムシ科 Hexarthridae 或いは、ヘクサアルトラ属Hexarthraの総称)『は二対の付属肢があり、それを使って泳ぐ。また、可動の棘を持つものもある。ミツウデワムシ』(遊泳(ワムシ)目ミツウデワムシ科 Filiniidae或いは、ミツウデワムシ属 Fillinia の総称)『は胴部前方に一対、後方に一本の棘があり、この前方の一対を大きく動かして撥ねるように泳ぐ』。『消化系は直線的。繊毛冠の中央に口が開き、胴部の前端付近に咽頭部がある。この部分は厚い筋肉に覆われ、石灰質の咀嚼板が組合わさって咀嚼器を構成している。 それに続いて胃と腸があり、肛門は胴部の後端にある。フクロワムシ』(フクロワムシ科 Asplanchnidae 或いは、フクロワムシ属 Asplanchna の総称)『は腸と肛門を欠く』。『胴部の内部を広く占める体腔内は、消化系の表面に上皮層を欠くので偽体腔である。また、縦に走る筋肉がよく発達し、これによって体を伸び縮みさせ、よく運動する』。『神経系としては咀嚼嚢の背面に脳神経節があり、ここから全身に末梢神経が走る』。『排出系は原腎管を左右一対持ち、その末端は肛門につながる膀胱に開く。生殖巣は消化器の腹側にあり、やはり肛門に口を開く。なお、雄ではこの位置に陰茎がある』。『基本的には水中動物であり、陸で見られるものも、特に湿った状態の時に出現する。繊毛を動かしてデトリタスなどを集めて食べているものが多いが、植物の汁を吸うもの、捕食性で原生動物や他のワムシ類などを捕らえるものも知られる。寄生性のものも知られている』。『多くは自由生活で、浮遊性のものもあれば、基質上をはい回ることの多いものもある。繊毛を動かして泳ぐか、尾部で基質表面に付着し、尾を動かして運動する。ヒルガタワムシ』(ヒルガタワムシ綱 Bdelloidea(二生殖巣綱 Digonontaとも。体は細長く、節があり、ヒルのように運動する。は知られていない)ヒルガタワムシ目 Bdelloidea ヒルガタワムシ科 Philodidae 或いは、ヒルガタワムシ属 Rotaria)『は頭部と尾部を使い、ヒルやシャクトリムシのように這う。ヒルガタワムシは乾燥にさらされると脱水して乾眠とよばれる無代謝状態になる』(下線太字やぶちゃん。以下、同じ)。『固着性の種もあり、それらは基質表面に棲管を作り、そこに体をいれ、伸び出して管の口から繊毛冠を広げる。その仲間で変わっているのはテマリワムシ』(単生殖巣綱 Monogononta(卵巣は一つで、は退化的)マルサヤワムシ科テマリワムシ属 Conochilus)『で、多数個体が互いに尾の先端でくっつき合い、それが寒天質に包まれてくす玉のような群体となり、水中を回転しながらただよう』。『多くの種が単為生殖をする。それらは』、『条件のいい間は夏卵と言われる殻の薄い卵を産み、この卵はすぐに孵化して雌となり、これを繰り返す。条件が悪化するなどの場合には減数分裂が行われて雄が生まれ、受精によって生じた卵は休眠卵となる。休眠卵は乾燥にも耐え、条件がよくなれば孵化する。なお、ヒルガタワムシ類では雄は全く知られていない。他方、ウミヒルガタワムシ』(ウミヒルガタワムシ綱 Seisonidea(首を有し、寄生性)ウミヒルガタワムシ目 Seisonalesウミヒルガタワムシ科 Seisonidae 或いは、Seison 属)『では雄が常時存在することが知られる』。『なお、単為生殖を繰り返す期間に、殻の角が伸びるなど形態が世代を繰り返す間に変化する例があり、周期的体型輪廻(Cyclomorphosis)と言われる』とある。なお、綱名の「Rotator」はラテン語で「回転させる者」という意味で、その「rota」とは「車輪」の意である。]

 

Rakudanoi

 

[駱駝の胃]

[やぶちゃん注:図内キャプションは「小囊」。]

 

 本章に述べたことを約言すれば、略々次の如くである。凡そ動物の構造・習性・彩色等は孰れも皆生存競爭に當つてその動物自身の利益となるやうな方向だけに發達し、その動物の種屬維持に必要な度までに進んで居て、その他には何の目的もないらしい。生存上必要のない所には、攻擊・防禦の器官は決してない。また必要のある場合でも、種屬維持の上に必要な程度までより決して發達して居ないが、これらの現象は全く自然淘汰説の豫期する所と一致するもので、自然淘汰によらなければ、到底説明は出來ぬ。一動物の有する攻擊・防禦の器官は、その敵である動物より見れば、甚だ迷惑なものであるが、他に對して如何に不利益なるかは少しも頓著なく、たゞ生存競爭上、各々自己の利益になるやうな點のみが發達し、各動物の攻擊・防禦の裝置の相匹敵することにより、自然界の平均が暫時保たれてある有樣は、自然淘汰の説から見れば素より必然のことであるが、自然の淘汰をないものと考へては、如何にしても説明のしやうはない。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十四章 生態學上の事實(6) 五 警戒色と擬態

 

     五 警戒色と擬態

 

 多くの動物はその住處と同じ色を有するものであるが、或る種類の動物は全く之と反對で、その住處と色とが甚だしく異なり、そのため著しく目に立つて、遠方からも明に識別が出來る。蜂の如きはその一例であるが、かやうな動物を集めて見ると、孰れも小形のもので、刺を有するか、毒液を分泌するか、惡臭を放つか、或は非常に味の惡いものであるか、何か必ず之を攻擊した敵は一度で甚だしく懲りるやうな性質の具はつて居る類ばかりである。之は保護色に比べると、遙に少數で、その明に知れてある例は、多くは昆蟲類であるが、蜂の如く刺を有するものの外に、蝶の中には味の極めて惡いものがあり、臭龜蟲(くさかめむし)の中には烈しい臭氣を放つものがあり、甲蟲の中には關節の間から毒液を分泌するものなどがあつて、孰れも著しい彩色を呈し、一見して之を識別することが出來る。これらの昆蟲類を捕へて、試に鳥類に與へて實驗して見るに、或る鳥は初から全く之を顧みず、また或る鳥は一度之を口に入れ、忽ち吐き出して、後に嘴を方々へ摩り附けたりして、不快の感じを消そうと種々に盡力するが、この事から考へて見ると、以上の如き動物が特に識別し易い著しい彩色を具へて居るのは、敵である鳥類等の記憶力に訴へ、初め若干の個體を犧牲に供して、その食ふべからざることを鳥類に覺えしめ、然る後に殘餘のものが、白晝安全に橫行し得るがための方便と見倣すより外に仕方がない。

[やぶちゃん注:「臭龜蟲(くさかめむし)」昆虫綱半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目 Heteroptera のこと。臭いの強烈な種。代表格は室内に侵入することも多い、異翅亜目カメムシ科 Halyomorpha 属クサギカメムシ(臭木椿象)Halyomorpha halys であろう(その強烈さとしつこさは、ウィキの「クサギカメムシ」を参照されたい)が、多かれ少なかれ、多くのカメムシ類は、主に危険を感じた場合、自己防衛のために臭気を出すものが多い。ウィキの「カメムシ」によれば、『カメムシは、胸部第三節である後胸の、腹面にある臭腺から悪臭を伴う分泌液を飛散させる。この液にはアルデヒド・エステル・酢酸・炭化水素が含まれ、臭いの主成分はヘキサナール』(Hexanal:大豆や草本類などの持つ青臭さの主成分)『やトランス-2-ヘキセナール』(trans-2-Hexenal:同じく草や葉や野菜の臭いの主成分)『である。敵の攻撃など、外部からの刺激を受けると』、『分泌され、捕食者に対しての防御であると考えられている』。『群れでいるカメムシの場合』、一『匹が臭いを発すると、たちまちのうちに周辺一帯のカメムシが逃げ出す現象が見られる。高濃度のカメムシの臭いは、仲間に対しては警報の役割を果たしている。一方で、群れを作るカメムシの場合は、低濃度の臭いを集合フェロモンとして利用することが知られている』。『カメムシの分泌液は、彼ら自身にとっても化学的に有害である。このため、カメムシの体表は、飛散させた液が自分の体にしみこまないように厚いセメント層で保護されてい』。『また、瓶の中にカメムシを入れ、つついて臭いを出させたあと、蓋を閉めておくと、死んでしまうことがある』が、これは実験で『人為的に狭い空間に密閉したために死亡に至ったもので、自然状態で死亡することはない』。『カメムシの分泌液は求愛にも利用される』。『オオクモヘリカメムシ』(異翅(カメムシ)亜目ヘリカメムシ上科ヘリカメムシ科 Anacanthocoris 属オオクモヘリカメムシ Anacanthocoris striicornis)『は、青りんごのようなにおいを放つ』とある。但し、そんなら嗅いで見ようととは、多分、思わない方がいい。ウィキの「オオクモヘリカメムシ」によれば、『細身の大柄なカメムシ』で、本邦では『本州、四国、九州』で普通に見られるが、『刺激を受けると悪臭を発するのはカメムシ一般に同じであるが、この種の臭いは非常に強い。日本で普通に見ることのできるカメムシでは最も臭いカメムシである。たとえば』、研究者でさえも『「その臭気は特にはげしい」』『「臭気特に猛烈」と記述』するほど』である。『しかし、積極的に人家に入るなどはしないので、人間と接することは多くない』ともあるので、君子危きに、である。ヘリカメムシ科 Coreidae の種群は和名に違わず、概ね、かなり臭いようである。なお、こちらのカメムシの臭いの記述によれば、キュウリの青臭さを濃厚にしたものに近いとし、特に似ているものとしてコリアンダー(coriander(英名)・香菜・パクチー・シャンサイ/セリ目セリ科コエンドロ属コエンドロ Coriandrum sativum)の生葉の臭いを挙げている。されば、パクチー好きの日本人は或いはカメムシの臭いを「いい匂い」と感じるのかも知れない、てなことも書いてある。なお、そこの記載は自身の臭気で死ぬこともあるとか、コリアンダーの語源はカメムシを意味するとか、誤った記載も多いので注意が必要である。ウィキの「コリアンダー」によれば、『英名 coriander は属名にもなっているラテン語 coriandrum に由来し、さらに古代ギリシア語 κορίαννον (koriannon) へ遡る。後者の原語を指して「ギリシア語でカメムシを意味する』『」などと紹介されることが非常に多いが、これは誤りで、κορίαννον もまた「コリアンダー」を指す言葉である』とする。但し、『κορίαννον 自体の語源については、キャラウェイまたはクミン』『を意味する καρώ/κάρον (karō/karon) の関連語だとする』『考察がある一方、「匂いがカメムシに似ている』『」として、近縁で類似の臭気をもつトコジラミ(南京虫)を意味する κόρις (koris) に関連づけられることも多い』とはあるから、語源説を辿ると、遠回りで関係する一説があるとは言えるかも知れない。

「甲蟲の中には關節の間から毒液を分泌するものなどがあつて」甲虫類(昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目 Coleoptera)の一部には、ヒトに有害な体液を噴射して皮膚疾患を生ぜしめるものがオサムシ類(鞘翅目食肉(オサムシ)亜目オサムシ上科オサムシ科オサムシ亜科 Carabinae)やゴミムシ類(オサムシ上科 Caraboidea)に見られるが、彼らは殆んどのそれは、「屁っぴり虫」の俗称で知られるオサムシ上科ホソクビゴミムシ科 Pheropsophus 属ミイデラゴミムシ(三井寺歩行虫)Pheropsophus jessoensis のように、腹部末端から噴出であって、丘先生の言う「關節の間から」という記述とは齟齬する体液が有毒な種も鞘翅(コウチュウ)目カミキリモドキ科ナガカミキリモドキ亜科アオカミキリモドキNacerdes waterhousei(本種は古くは媚薬などとして誤って使用された発泡性有毒物質であるエーテル・テルペノイドの有機化合物カンタリジン(cantharidin)を体液に含む)や、小学生の時、失明すると脅された鞘翅目カブトムシ亜目ハネカクシ下目ハネカクシ上科ハネカクシ科アリガタハネカクシ亜科 Paederus 属アオバアリガタハネカクシ(青翅蟻形翅隠)Paederus fuscipes(発泡性毒性を持つアミドの一つであるペデリン(pederin)を体液に持つ。なお、これは彼らPaederus属の昆虫の体内共生生物である細菌(真正細菌プロテオバクテリア門ガンマプロテオバクテリア綱シュードモナス目シュードモナス科シュードモナス属 Pseudomonas)が主に同属のの体内で生産したものである)など何種かいるが、これも虫体を潰すことで被害に遇うのであって、彼らが積極的に関節から滲ませたりするものではないので、これも違う。所持する伊藤哲朗編「学研の大図鑑 危険・有毒生物」(二〇〇三年刊)の記載では、関節から体液を出すことがはっきりと明記されている種は、

鞘翅(コウチュウ)目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ(土斑猫)科ツチハンミョウ亜科マメハンミョウEpicauta gorhami

で、ヒトが『触れると体を丸め関節から黄色い液を出すが、この体液に』は先に挙げたアオカミキリモドキと同じ劇薬『カンタリジンが含まれていて、皮膚に付着すると水疱(すいほう)性皮膚炎を起こす』とある(但し、続けて『しかし個体数が少なく被害もわずかである』とはある)。そこでウィキの「ツチハンミョウ」を見ると、触ると死んだ振り(擬死)をして、この時に脚の関節から黄色い液体を分泌する。この体液には毒成分カンタリジンが含まれ、弱い皮膚につけば水膨れを生じる』(太字下線やぶちゃん)とあることから、このツチハンミョウ科 Meloidae の他の種、

ヒメツチハンミョウMeloe coarctatus

マルクビツチハンミョウ Meloe corvinus

も同じと考えられる(複数の昆虫サイトで上記二種も体節からカンタリジンを分泌することを確認済み)。また、

ツチハンミョウ科ゲンセイ亜科ゲンセイ族キイロゲンセイ属キイロゲンセイ Zonitis japonica

先の「学研の大図鑑 危険・有毒生物」の毒液を出す画像をよくみると、腹部下側の体節の間から滲み出していることが判るから、これも挙げておく。さすれば、同属の、

キイロゲンセイ属オキナワキゲンセイ Zonitis okinawensis

も同じく、体節からカンタリジンを分泌する可能性が大であるように思われる。これだけ挙げておけば、インセクタでない私としては上出来の部類と思うので、ここまでで終りとしたい。]

 

 小形の動物が大形の敵に對する場合には、自身に如何に敵を懲らしめるだけの仕掛があつても、之を表に現す看板が無ければ何の役にも立たぬ。例へば昆蟲が一度鳥に啄かれてしまへば、その後で敵である鳥が毒液・惡臭等のために如何に苦んでも、殺された方の蟲は、最早活き返る氣遣なく、結局防禦の裝置も何の功も無いことになるから、最初から敵が自分を捨てて顧みぬやうにさせる趣向が肝心である。こゝに述べた如き動物の著しい色は、卽ちこの意味のものであるが、敵を警戒するためのもの故、之を警戒色と名づける。

 こゝに尚一つ奇なことは、昆蟲類の中には剌をも有せず、毒をも分泌せず、全く防禦の器官を具へぬもので、往々警戒色を呈するものがある。尤も、その數は眞の警戒色を有する類に比べると遙に少數で、且各々必ず或る有力な防禦の武器を具へた昆蟲に極めて類似して居る。例へば蜂は剌を有するから、之を攻擊する動物は比較的に少いが、蛾の類に屬する「すかしば蝶」、甲蟲の中なる「虎かみきり」の如きは、分類上の位置の全く異なるに拘らず、形狀・彩色ともに頗る蜂に似て居るので、飛んで居る所を見ると、往々蜂とは區別が附かぬ。之は全く多くの鳥が蜂の形と色とを記億し、蜂を避けて攻擊せぬことを利用し、自分も鳥類に蜂と見誤られて身を全うするための手段と思はれるが、斯かる性質が如何にして生じたかと考へるに、生物が皆自然淘汰により、漸々進化して今日の姿になつたものとすれば、その生じた原因なども一通りは推察することが出來る。若し之に反して生物種屬を萬世不變のものと見倣さば、斯かる事實は單に不思議といふだけで、到底少しもその意味を知ることは出來ぬ。特に「すかしば蝶」の如きは、蛹より出た際には、翅は全面に粉狀の鱗片を披り、不透明なこと少しも他の蝶類に異ならぬが、出るや否や、粉は落ち去りて、そのために翅は蜂の翅の如き透明なものとなる。この事などは「すかしば蝶」を、終生、翅一面に粉の附いて居た蝶類から進化し降つたものと見倣さなければ、全く理窟の解らぬ現象である。假にここに一種の昆蟲があると想像し、その若干の個體が鳥類に蜂と見誤られて安全に生存し、生殖したとすれば、その鳥類をして蜂と見誤らしめた性質は遺傳によつて子に傳はり、次の代にはまた多數の子の中で、最もこの性質の發達したものが、最も多く鳥によつて蜂と見誤られさうなわけであるから、これらだけが生存して子を遺し、代々知らず識らず鳥によつて淘汰せられ、その結果終に今日見る如きものまでに進化する筈である。斯くの如く生物の進化するのは、主として自然淘汰によるものとすれば、「すかしば蝶」の如き、「虎かみきり」の如き、或はこゝに圖を掲げた蝶の如き、防禦の武器なくしてたゞ警戒色のみを有する昆蟲の生ずることも、最も有り得べきことと考へられるが、若し自然淘汰といふことを全く度外視したならばこの所謂擬態といふ現象は、如何にして生じたものか到底その理由を察することは出來ぬ。

[やぶちゃん注:ここで語られているのは、のキャプションに私が注した「ベイツ(Bates)(型)擬態」である。再掲しておくと、ベイツ擬態とは、自身は有毒でも不味くもないが、他の有毒であったり、不味いの種と形態・色彩・行動などを似せて捕食を免れる擬態を指し、発見者のイギリスの探検家ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五年~一八九二年)に因む。

「すかしば蝶」これはどう考えても、「すかしば蛾」の誤りとしか思えない。これものキャプションに私が注した、鱗翅目Glossata 亜目Heteroneura下目スカシバガ(透羽蛾)上科スカシバガ科 Sesiidae に属する蛾の一種群である。再掲すると、触角が棍棒状を呈し、体を覆っている鱗粉によって、体部に黒と黄の蜂に似た斑紋を有する種が多く,また、昼飛性でもあるため、人間でも蜂と誤認し易い(私も実は奥日光沢の誰もいない露天風呂で、これをスズメバチと見間違え、さんざんっぱら、怖がらさせられた苦い記憶がある)。世界中に分布しているが、熱帯には同一地域に棲息する大形で美麗なハチとよく似た種が分布している。日本産では二十五種おり、ハチ類とスカシバガ科のガ類とが擬態関係にあって、同一地域に、外見上、よく似たハチとスカシバガが棲息していれば、毒針を持つ、生物ピラミッドの相対的に上層に位置するハチがモデルとなり、スカシバガがこれに擬態することによって、生命の安全が、ある程度まで保証されることになる点では、「ベイツ(Bates)型擬態」であるとは言える。但し、現行、このベイツ擬態は生物学者の間では異論も多く、その割にフィールド検証が進んではいないことは言い添えておく。なお、万一、「スカシバチョウ」(透かし翅蝶)なる和名や異名を持つ別種が存在する場合は、御教授願えれば幸いである。

「虎かみきり」鞘翅目カミキリムシ科トラカミキリ属トラカミキリXylotrechus chinensis 或いは同属の総称であるが、ここはベイツ擬態に見える前者で示す。「トラフカミキリ」の異名もある。体長は十五~二十五ミリメートル。体は赤褐色を呈し、頭部・前胸背前縁・小楯板・上翅・腹部などには黄色の短毛が密生する。前胸背中央部の横帯と後部は黒色で、上翅には黒色横帯を有し、基半部のものは斜走する。頭部は前胸に深く陥入して一体となってほぼ円形となっており、触角は短い。上翅は肩部で前胸と、ほぼ同幅で、後方に向って細くなっている。成虫は七~八月に出現し、スズメバチ類に擬態する。北海道・本州・四国・九州・台湾・朝鮮・中国に分布する。なお、トラカミキリ類は全般にハチ類に似たものが多い(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

Tyoudousinobeitzgitai

 

[ (上)ヘリコニデー科の蝶

(味が極めて惡いから鳥に食はれぬ)

  (下)ピエリデー科の蝶

   (上の蝶に似た擬態)]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正して用いた。

「ヘリコニデー科」は不詳。但し、サイト朝日新聞」進化論、今なお続く謎 「種の起源」発表から150年という記事に載る図(大崎美貴子氏描画。)が、本図の上下の種を逆転させたものと判断され、そのキャプションに『進化論を初めて実証したとされるベイツ型擬態のチョウ。下がモデル種でマダラチョウ亜科、上がその擬態種のシロチョウ科』とあるから、これはマダラチョウ亜科 Danainae のことと判る(かつては「マダラチョウ科」とされていたが、現行ではタテハチョウ科 Nymphalidae の亜科として扱われる)蝶図鑑サイト「ぷてろんワールドトラフトンボマダラ亜族(Subtribe Mechanitinaページのページに載る、

マダラチョウ亜科トンボマダラ族トラフトンボマダラ亜族フチグロトンボマダラ属トンボマダラ亜種Methona confusa confusa(そこに載る画像はボリビアでの採集個体)

と、同じく、

トンボマダラ亜種Methona confuse psamathe(そこに載る画像はペルーでの採集個体)

が本図のそれに酷似しているように私には思われる

「ピエリデー科」は鱗翅目アゲハチョウ上科シロチョウ科 Pieridae(コバネシロチョウ亜科 Dismorphiinae・マルバネシロチョウ亜科 Pseudopontiinae・シロチョウ亜科 Pierinae・モンキチョウ亜科 Coliadinae)を指す。これも同じく、「ぷてろんワールド」を見てみると、シロチョウ科コバネシロチョウ亜科(Dismorphiinae)のトラフトンボマダラ亜族(Subtribe Mechanitinaのページに載る、

コバネシロチョウ亜科トラフトンボマダラ亜族トンボシロチョウ属トンボシロチョウ Patia orise orise(そこに載る画像はペルー・ボリビアでの採集個体)

ではなかろうか?

このトンボシロチョウ! 上のトンボマダラと、私にはちょっと見、区別がつかぬほど、激似でだぞ!

 

 斯く論じ來れば、或は讀者の心中に次の如き疑が起るかも知れぬ。卽ち生存競爭に於て、適者の勝つことは素より當然であるが、保護色・警戒色・擬態の如きは、或る程度まで發達した上でなければ、全く功のないものである。例へば蜂と誤られて鳥の攻擊を免れるには、既に餘程蜂に似て居なければならず、木の葉に紛れて鳥の目を忍ぶには、既に餘程木の葉に似たものでなければならぬが、さてこの程度までは如何にして進んで來るか、この程度に達する前は孰れの個體も同樣に鳥類に攻められるから、この方向へ向うては、何の淘汰もない理窟であるとの考は、誰の胸にも浮ばざるを得ぬ。之は實際、自然淘汰の現狀を胸中に畫くに當つて最も困難を感ずる點で、今日生物進化論に對して異議を唱へる生物學者は、最早一人もないに拘らず、自然淘汰説に就いては尚種々の議論の絶えぬのは、一はこの點に基づくことである。倂しなら、善く考へて見るに、この點は決して自然淘汰説に反對する程のものではない。なぜといふに、攻める方の鳥も決して初めから今の通り目の鋭いものではなく、漸々進化して今日の有樣までに發達して來たもの故、その昔に溯れば、蜂と他の昆蟲とを識別し、枝にとまつて居る蝶と木の葉とを識別する力も隨分不完全で、餘程違つたものでなければ、判然區別の出來ぬ時代もあつたに相違ない。また生存競爭に如何なるものが勝つかと考へて見るに、各個體が皆勝たなければその種屬は勝たぬといふ理窟はない。例へば甲乙の二團體が競爭するに當つても、個體間の勝敗が區區である[やぶちゃん注:「くくである」。ばらばらで定則性が殆んど認められず、まちまちである。]ため、孰れが勝つか、孰れが負けるか、解らぬやうな場合にも、若し全體の統計を取つて見て、甲の方が僅ながらも常に多く勝つて居る形跡があつたならば、長い間には終に甲が勝を占めるに定まつて居る。人間社會の競爭に於ても、理窟は全くこの通りであるから、凡そ時の大勢に通ずるには、先づ統計によらなければならぬ。斯かる次第故、鳥類の目も今日程に發達せぬ頃に一種の蝶があつたと假定し、その蝶の個體總數を聊[やぶちゃん注:「いささか」。]でも木の葉に多く似た方と、少し似た方との二組に分ち、同一時間内に各組の鳥に攻められる數を統計に取つて見て、聊でも似たものの方が鳥に攻められることが少かつたならば、之が既に一種の淘汰である。而して如何に不完全な淘汰でも、代々同一の方向へ進めば、その結果は漸々積り重なつて、終には著しいものになるべき筈であるから、この方法で木の葉に似た蝶が出來るのも、素より有り得べきことといはなければならぬ。かやうに論じて見れば、保護色の始でも、警戒色の始でも、自然淘汰説によつては到底説明が出來ぬといふ性質のものでは決してない。今日生物學を修めながら、尚自然淘汰の働に就いて疑を挾む人等は、恰も戰爭を見に行つて一人一人の兵卒の勝敗のみに注意し、兩軍の全部の形勢を察せぬのと同樣な誤に陷つて居るのである。

 

2018/04/27

栗本丹洲(「栗氏千蟲譜」巻六より) 文化十二年乙亥 冬十月 豊前國小倉中津口村と荻﨑村の際小流に生ぜる奇蟲「豐年蟲」』 サイト版公開


画面はみ出しの大画像と翻刻注を、お楽しみあれ!
 

今日は他のテクストを総て休止して以下の一本にかけることする

私は既に「栗氏千蟲譜」の海産動物のパートを原文・訓読・原画画像・オリジナル注附で、自己サイト「鬼火」「心朽窩旧館」の「栗本丹洲」に於いて、

巻七及び巻八より――蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ ホタルムシ 丸薬ムシ 水蚤

巻八より――海鼠 附録 雨虎(海鹿)

巻九 全

巻十 全

を公開している。私は以上で「千蟲譜」に載る海産動物は総てを電子化注したと思っていた。ところが、たまたま所持する丹洲の「栗氏千蟲譜」(国立国会図書館蔵の曲直瀬愛旧蔵写本「栗氏千蟲譜」を底本とした、昭和五七(一九八二)年恒和出版刊『江戸科学古典叢書』第四十一巻)を久し振りに眺めていたところ、奇妙なものを見つけた。

それは、第六巻で、図版はクモ類から始まり、かなりの量のクモの図が終わると、ゲジゲジ一図とムカデの三図が続いた、次の頁であった。

ムカデに似た生物(にその時は見えた)二頁に亙って全部で五個体描かれていた。

しかし、その図を見るに脚の描き方が明らかにムカデではないことに気づいた。初めは、脚の体幹部からの出方(でかた)が複数本のように見えたことから、

「ヤスデかな?」

と思ったが、どうも、これまた、全体のフォルムがヤスデらしからぬのだ

次の瞬間、私の冥い脳内に、白熱電球が

「パッ!」

と灯った!

急いでキャプションを読む。

案の上、小川の中で見つかった奇虫とあるじゃあないか!

場所も書いてあるので、確認する(後で翻刻し、注で示す)。

「うん! 海に近いぞッツ!!」

と思わず、膝を叩いたんだ!

次いで、急いで、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。同国立国会図書館は五種の「千蟲譜」写本を蔵するが(「千蟲譜」の丹洲の自筆本は残念ながら存在しない)、その内の三種を見た。これとこれ(こちらはコマが分かれ、ここと、ここになる)とこれ(所持する恒和出版本はこれ)である(後でそれぞれの書誌は示し、また画像も改めて掲げる)。これら(所持する先の本は高い本だったが、全ページ、モノクローム画像)は孰れもカラー画像なのが嬉しい!

そうして――そうして――いやはや、赤、黒、黄色、緑に白、五色(ごしき)だぞッツ!

そうして――そうして――その鮮やかな色彩を見て、私の思いは確信犯となったのである!

「これはバチだ! イトメだよ!」

と、独り、暗い書斎で叫んだ!

これは、図の流れのムカデ(節足動物門 Arthropoda 多足亜門 Myriapoda ムカデ上綱 Opisthogoneata 唇脚(ムカデ)綱 Chilopoda なんぞとは全く無縁な、河川の河口附近や、その近くの汽水域及びそこに繋がっている淡水域(河川下流域)や田圃等にまで広く分布し、大潮の夜になると、生殖体勢体に変形して淡水域に遡上し、そこで生殖群泳を展開する、かの、

環形動物門 Annelida毛綱 Polychaetaサシバゴカイ目 Phyllodocidaゴカイ科 Nereididae Tylorrhynchus 属イトメ Tylorrhynchus heterochaetus

に間違いないのであった!

知らない? 釣りをする方ならよく知っていよう。餌にする、あれ、である。

釣もしない、元国語教師のお前が、そんなもんに詳しいのか? ってテカ?

おう! 豈にはからんや、詳しいんだよな、これがさ!

何ってたって、以前には、新田清三郎先生の『「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて――(全十回。リンク先は第一回。最終回はこちら)を電子化注したり、同じ生殖群泳で知られ、食用にする(というか、イトメも食べられるよ! 生ガキっぽくて結構、美味い! ウィキの「イトメ」にも、『中国語の標準名は「疣吻沙蚕」』『というが、中国広東省の順徳料理や広州料理では「禾虫」(広東語 ウォーチョン)の名で、生殖体を陳皮風味の卵蒸し』『や炒め物などの料理にして食用にする。シャリシャリした食感があり、タンパク質と脂肪が多く、アミノ酸バランスもよい』『とされる。珠江デルタにある水田には多く生息しており』五月から六月と、八月から九月の彼らの『繁殖期に水田に水を入れると』、『流れに乗って集める事ができるため、採り集めて出荷する』とあるからね。お前はどこで食ったかって? 釣りの餌だよ、あれを生食してみたんだっつーの!)、多毛綱イソメ目 Eunicida イソメ科 Eunicidae Palola属タイヘイヨウ(太平洋)パロロ Palola siciliensis(英名:Pacific paloloについて書かれた『博物学古記録翻刻訳注 10 鈴木経勲「南洋探検実記」に現われたるパロロ Palola siciliensis の記載』なんてものも手掛けてる、謂わば俺は〈イトメ・フリーク〉なのさ。

 閑話休題。

 そこで以上の「千蟲譜」のそのパートだけを電子化注することとした。

 図は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で三種(同図書館は他に「千蟲譜」二種を蔵する)を掲げ(書誌はそれぞれの画像で述べる)、キャプションはほぼ同文であるが、読み易い曲直瀬愛(まなせめぐむ 嘉永四(一八五一)年~?:詳しくは「栗本丹洲自筆「翻車考」藪野直史電子化注 始動」の私の注を参照)旧蔵本のそれを底本とし、適宜、他の二種と校合した。

2018/04/26

ラーマのつぶやき~この社会の片隅で~

NHKの特集ドキュメント「ラーマのつぶやき~この社会の片隅で~」を見た。

シリア難民の日本在住の少女ラーマの一家を描いた、とても、いい、とても考えさせる番組であった。

ディレクターの松原翔は、私の「横浜緑が丘」時代の教え子で、面白い男だったが、彼のメールで録画しておいたのを、先ほど、見た。

それにしても彼は、何と、素晴らしいポリシーを持ったクリエーターになったことか! 主題の真摯にして愛の籠った扱い方は勿論のこと、撮影も構成も全く以って申し分なく、絶品であった。

こんな優れた作品を深夜の零時に放映するのは勿体ない、というより、ラーマの思いを、多くの日本人は知るべきであり、それを誰もが見るべきであると痛感した。

誰もが視聴出来る時間帯での再放送を、切に、望むものである。

御伽百物語卷之四 繪の婦人に契る

 

   繪の婦人に契る

 

Enoonnatotigiru

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のもの。]

 世に、名畫といはれて、神に通じ、妙を顯はす事、古今(ここん)、そのたぐひ、多くのせて、和漢の記錄にあり。是れらの妙を得たりといはるゝ人のかける物は、花鳥人物、ことごとく動きて、繪(ゑ)、絹(きぬ)をはなれ、おのがさまざまの態(わざ)をなす事、眞(しん)とおなじくして、かはる事なしとぞ。されば、いにしへより言ひ傳へたるはさらにもいはじ。今の代(よ)に名高く風流の繪を書きて、遠國波濤のすゑ、鯨(くじら)よる夷(えぞ)の千嶋(ちしま)のはて迄も、仇(あだ)なる丹靑(たんせい)の色に心をくるしめ、物いはず、笑はぬ姿に、魂をいたましむる事ありて、是れがために千金を費し、萬里の道を遠しとせず、誠の色を尋ね、風流たる方に心ばせを奪はれて、身を放埒(はうらつ)し、家をそこなふの大きなる愁(うれひ)をもとむる物あり。

[やぶちゃん注:「千嶋」江戸時代、日本の北方外の蛮地が「蝦夷」であり、そうして、漠然とその「蝦夷」及びそのさらに北方には、無数の島があるそうだ、といった大雑把なイメージで現在の北海道を含めた北方を「千島」「蝦夷ヶ千島」と呼称していたに過ぎず、筆者に現在の千島列島の現存在認識があったわけではない。

「丹靑」元は「赤い色と青い色」或いは「それらの色の絵の具の材料となる土である丹砂と青雘(せいわく)」(「丹砂」は水銀と硫黄とから成る鉱物。深紅色又は褐赤色で塊状・粒状で産出する。朱砂・辰砂とも呼ぶ。後者は青い色をした鉱物らしいが、よく判らぬ)を指したが、そこから「絵の具」「色彩」に転じ、「絵画」或いは「絵を描くこと」の意となった。ここは最後の意。] 

 其(その)おこる所を尋ねるに、武州江戸村松町(むらまつてう)二町めに住みて、菱河吉兵衞(ひしかはきちべうゑ)と名のる人ぞ、尤(もつとも)この風流の手には妙なりける。

「草木鳥獸(さうもくてうじう)の事は心を動かすにたらず。」

として、おほく、人物の情を心にこめ、さまざまと悟道の眼(まなこ)をひらき、先づ、さかい町(てう)・木挽町・ふき屋町などの四芝居に入りこみ、若女方(わかおんながた)・若衆方(わかしゆかた)それぞれの身ぶりを、燒(や)き筆(ふで)にうつし、暮(くれ)かゝるそらの月とともに、金龍山(きんりうさん)の晩鐘(いりあい)を耳の端(は)にかけぬ日もなく、いもせの山の中に落つるよしのゝ川のたぐひにはあらねど、ながれは同じよし原の大門口(おほもんぐち)ふしみ町のさしかゝり、蔦屋が軒より、石筆(せきひつ)にくろめて、江戸町(えどてう)二町め、さかい町・すみ町(てう)・京町(きやうまち)・新町(しんてう)・らしやう門、西かしのはしのすゑずゑ迄、それぞれの風俗をうつし初(そ)めけるより、繪本は心のむかふ所にうかみ、筆は人物のありのまゝを色どりしかば、その比(ころ)、むさし一國に生まれ、色を重んずる好事(かうず)の者、あるひは、たらちねの親(おや)しさくれば、心にもあらぬ直(ひた)家(や)ごもりに見し面影をしたひ、又は、みちのくに咲くといふなる金(こがね)のたねかれて、身ひとつさへ育つに所せき、人のせめてうちむかふ鏡の影よ、と泣きみ笑ひみありし夜の契り、かきくどき、物くるおしきむねをやすめんためとて、多く此家に來たりつゝ懇望(こんもう)の手をつかね、機嫌のひまを窺ひて、畫圖(ぐわと)の風流を好むもの、すくなからず。是れによりて、世に「菱河(ひしかは)が繪すがた」といふ、筆の名、殘りおほく、こゝかしこに充ち滿てり。

[やぶちゃん注:「村松町」東京都中央区の旧村松町、現在の東日本橋〜三丁目の内。ここ(グーグル・マップ・データ)。この部分全体が江戸の「町尽くし」で飾ってある。

「菱河吉兵衞」これはもう、モデルどころか、江戸初期の知られた浮世絵師菱川師宣(ひしかわもろのぶ ?~元禄七(一六九四)年)その人である。彼の名も同じく吉兵衛。安房国の縫箔刺繡(刺繡と摺箔(すりはく:型紙を用いて裂地(きれじ)の上に糊または膠(にかわ)を置いて上から金箔を擦りつけて模様を作ること)を併用して布地に模様を表わすこと)を家業とする家に生れた。寛文年間(一六六一年~一六七三年)、画家を志して江戸に出てから死没(一説に数え七十七)するまで、菱川派の祖としてその配下の画工たちと、百五十種にも上ぼる絵本・挿絵本・一枚絵の組物といった版画作品(この中の多くは好色本であった)、及び主として遊楽の場面を描いた、多くの肉筆画を精力的に制作した。墨摺本と呼ばれる墨一色の世界に、明暦の大火(明暦三年一月十八日(一六五七年三月二日)以降に文化的欲求が高まり、活気を呈してきたところの、当時の江戸の庶民の生活や風俗を表現していった。殊に彼の描き出した美人のタイプは「菱川様の吾妻おもかげ」と呼ばれ、広く普及した。「浮世絵の元祖」と称される。最も知られるのは「見返り美人図」(最晩年の元禄六(一六九三)年頃の作)。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。

「さかい町(てう)・木挽町・ふき屋町などの四芝居」延宝初め頃(一六七〇年代)までに、江戸府内での歌舞伎興行は、幕府から中村座・市村座・森田座・山村座の四座に限って「櫓(やぐら)をあげる」ことが公認されるようになり、これを「江戸四座(よんざ)」と称した、それを指す(後、正徳四(一七一四)年に山村座が取り潰されて「江戸三座」となった。この辺りの変遷は複雑であるが、ウィキの「江戸三座に詳しいので、そちらを参照されたい)。「さかい町」堺町は現在の日本橋人形町三丁目(ここ(グーグル・マップ・データ))で中村座が、「木挽町」(こびきちょう)は現在の中央区銀座四丁目の「昭和通り」の東側(ここ(グーグル・マップ・データ))で山村座が、「ふき屋町」は葺屋町で、現在の日本橋人形町三丁目に当り(ここ(グーグル・マップ・データ))、市村座が櫓を上げていた。

「燒(や)き筆(ふで)」柳などで作った棒の先端を、焼いて消し炭状にしたもので、日本画で下絵を描くのに用いた。土筆(どひつ)とも呼ぶ。

「金龍山(きんりうさん)」当時は天台宗であった金龍山浅草寺。

「晩鐘(いりあい)」日暮れ時に寺で打つ「入相(「いりあひ」が歴史的仮名遣としては正しい)の鐘」。

「いもせの山」川などを隔てて向かい合う二つの山を夫婦兄妹に擬えて呼ぶ語で、特に奈良県吉野川北岸の妹山と南岸の背山などが歌枕と知られ、ここは吉野川を引き出す序詞として用いられているだけで、その「よしのゝ川」も遊廓吉原を引き出すための迂遠な遊びである。

「ながれは同じ」とは前の「妹背」を掛けて、男女のそれから遊廓に縁付けている。

「よし原の大門口(おほもんぐち)ふしみ町」現在の台東区日本橋堤(ここ(グーグル・マップ・データ))にあった吉原遊廓内の旧町名。「大門」は遊廓の南西、現在の台東区千束仲之町通り四丁目にあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「蔦屋」この吉原大門口にあった地本問屋「耕書堂」の主人で、写楽を世に送り出したとも言われている蔦屋重三郎の屋号。後に日本橋通油町に移った。

「石筆(せきひつ)にくろめて」黒色又は赤色の粘土を乾かして固めた上で筆の穂の形に作ったもの。管に挟んで、書画をかくのに用いた。

「江戸町(えどてう)二町め」新吉原江戸町二丁目。現在の台東区千束四丁目の内。(グーグル・マップ・データ。現在、先の吉原大門跡が同地区の中央にある)。

「すみ町(てう)」新吉原角町であろう。前注と同じく現在の台東区千束四丁目の内。

「京町(きやうまち)」新吉原京町。現在の現在の台東区千束三~四丁目附近。

「新町(しんてう)」不詳。但し、以上のルート(吉原からだんだん南西方向に動いている)からなら、千束二丁目辺りか。

「らしやう門」不詳。吉原の外地域の南の端を「羅城門」に擬えたものか? そうなると、浅草寺の雷門か? 識者の御教授を乞う。

「西かしのはし」「西河岸の橋」なら、「東京の橋クラブ」の地図によって、日本橋の上流にある「西河岸橋」となるが、一気に南西に下っているのが気にはなる。

「うかみ」「浮かみ」か。私は「イメージを自在に飛ばし」と読んだ。

「親(おや)しさくれば」意味不詳。「し」は強意の副助詞で、「さくれば」は「避くれば」と採ると、「親をさえも避けてしまって」の謂いか?

「直(ひた)家(や)ごもり」「ご」の濁音は私がつけたもの。意味が採れないので強引にかく読んだ。「直(ひた)」は「ひたすらに」の副詞で、「家(や)ごもり」を一単語の名詞として採り、「独り家の内に籠り続けをすること」の意とし、絵の中の女や少年に妄想の限りを尽くして、というニュアンスで読んだのだが、無理かしらん?

「みちのくに咲くといふなる金(こがね)のたねかれて」藤原黄金境は「金」(かね)を引き出す序詞で、描かれた美人を求めんがために、銭の種子も枯れ果てて(湯水のように金を使い果たしてしまって)の意だろうか? どうも本篇、妙にちっとも、すっきりと読めなくて困る。

「人のせめてうちむかふ鏡の影よ」これもよく判らぬ。描かれた美人を眺めて恋い焦がれているのであろうが、「鏡」は余計だと私は思う。或いは、好事家の自分がその描かれた美人に相応しいと錯覚して「鏡」として自分も美男子と錯覚しているのであろうか? わけわからんわ。

「手をつかね」手をついて懇請し。] 

 

 こゝに、洛陽室町の邊(ほとり)に篤敬(とくけい)といひける書生あり。講談にかよひける道にて、衝障(ついたて)の古きを見て買ひもとめ歸りぬ。

[やぶちゃん注:京都府京都市室町通附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。] 

 

 さて、何ごゝろなく此ついたてを見るに、片面(かたおもて)に美しき女(をんな)の姿繪(すがたゑ)あり。年の比(ころ)、十四、五ばかりに見えて、目もと・口もと・かみのかゝりより、衣紋つき・立ちすがた、詞もおよばず、しほらしく書きなし、彩色(いろどり)あざやかに、芙蓉(ふよう)のまなじり、戀をふくみ、丹花(たんくわ)の唇(くちびる)、さながら笑(えみ)を顯はし、懷(いだ)かば、消えぬべく、かたらはゞ、物をもいひつべきさま也けるに、篤敬、つくづくと見とれ、心ばせをまよはせて、しばらく詠(なが)め居たりけるが、

「さりとも、かゝる女も世にあらましかば、露(つゆ)の間(ま)の情(なさけ)に百(もゝ)とせの身はいたづらになすとも、逢ふに替るとならば、惜しからじもの。」

と、是れより、ひたすらに戀となり、おき臥し、面影を身にそへ、假(かり)なる姿にかきくどきつゝ病(や)みわたりけるを、是れにしたしかりける人、此よしをほの聞き、あはれにやさしき心ざしを感じて、おしへて、いふやう、

「君、このすがたをしれるか。是れは菱川が心を盡し、氣を詰めて、直(ぢき)に此人にむかひて、此すがたを寫せし也(なり)。されば、此繪には魂(たましひ)を移したりといひしとかや。此人の名をさして、他念なく、常に念じ呼びたまはゞ、かならず、答ゆべし。その時、百軒が家の酒を買ひとり、此すがたにそなへたまはゞ、此人、かならず、繪のすがたをはなれて、誠の人となるべし。」

と、ねんごろにおしへて、かへりぬ。

 篤敬、世にうれしくおもひ、每日に念じ心をつくして呼びけるに、はたして應諾(こたへ)をなしたり。

 急ぎ、酒を百軒に買ひて、此まへにそなへける時、ふしぎや、此すがた、地をはなれ、しとやかにあゆみ出でぬ。

 繪に見つるはものかは、物ごし、爪(つま)はづれより、心ばへ、情(なさけ)のほど、また、たぐふべくものあらず。終に偕老(かいらう)のふすまの下(した)に、かはるな、かはらじ、とかね言のすゑ永く、本意(ほい)のごとくの緣をむすびしも、めずらしきためしにぞ、ありける。 

 

御伽百物語卷之四終

[やぶちゃん注:「爪はづれ」「褄外れ」で着物の褄(つま)の捌き方。転じて、身のこなしの意。

 私はこの話柄、正直、怪奇談としてはあまり上手いと思わない。前段のぐだぐだが、私には退屈で、後段のファンタジーのハッピー・エンドも、早回しで、却って、「だから何?」と感動が著しく減衰してしまっている。私なら、枕を半分以下に削ぎ落とし、絵の美女の出現のシークエンスを精緻に描写するな、と思う。

 因みに、最後に種明かしであるが、本話は実は元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆「輟耕録」巻十一にある幻想譚「鬼室」の翻案である。白文原文を、以下に示しておく。幾つかの資料(邦文サイト及び中文サイト内のそれ)を勘案し、私が最も信頼出来ると判断したもので示す。

   *

溫州監郡某一女及笄未岀室貌美而性慧父母之所鍾愛者以疾卒命畫工寫其像歲序張設哭奠常時則庋置之任滿偶忘取去新監郡復居是屋其子未婚忽得此心竊念曰娶妻能若是平生願事足矣因以懸于臥室一夕見其下從軸中詣榻前敍殷勤遂與好合自此無夜不來踰半載形狀羸弱父母詰責以實告且云至必深夜去以五鼓或齎佳果啖我我荅與餠餌則堅郤不食父母敎其此畨須力勸之既而女不得辭爲咽少許天漸明竟不可去宛然人耳特不能言語而巳遂眞爲夫婦而病亦無恙矣此事余童子時聞之甚熟惜不能記兩監郡之名近讀杜荀鶴松窓雜記云唐進士趙顏於畫工處得一軟障圖一婦人甚麗顏謂畫工曰世無其人也如可令生余願納爲妻工曰余神畫也此亦有名曰眞眞呼其名百日晝夜不歇卽必應之應則以百家綵灰酒灌之必活顏如其言乃應曰諾急以百家綵灰酒灌之遂活下步言笑飮食如常終歲生一兒兒年兩歲友人曰此妖也必與君爲患余有神劒可斬之其夕遺顏劒劒纔及顏室眞眞乃曰妾南嶽地仙也無何爲人畫妾之形君又呼妾名既不奪君願今疑妾妾不可住言訖攜其子却上軟障覩其障惟添一孩子皆是畫焉讀竟轉懷舊聞巳三十餘年若杜公所書不虛則監郡子之異遇有之矣

   *]

譚海 卷之二 江戸小石川無量院小野小町墓の事

○江戸小石川無量院に小野小町が墓あり。本堂の脇に有(あり)、是は此寺の檀那牧野家大坂御城番のとき、大和の國に小町の墓有、その石(いし)殊の外ふるきものゆへ、牧野殿茶の湯數奇(すき)の餘りその五輪の内をもらひ受(うけ)、墓所にはあらたに石塔建立ありて、件(くだん)の石をば江戸の邸に取(とり)よせ、燈籠にこしらへ庭に置(おか)れけるに、折々怪異の事あり、剩(あまつさ)へ三世まで早世なりしゆへ、不祥のものなりとてその靈をおそれ、菩提所なれば無量院へ寄附ありしに、又此寺にてもとかくあやしき事ありしまゝ、かゝるものは庭中の觀(くわん)に備ふるもいかゞとて、本堂のわきへうつし、小町が墓所となし、その移したる日七月八日を忌日として、每年法事行ふ事なり、それより寺に怪異もなかりしとぞ。今年安永八年小町の九百年忌にあたり、七月は盆中故八月八日にその法會(はふゑ)別に行ふ事なりし、その時參詣して親しく見たり。燈籠の火ふくろにせし所には梵字あり、但し小町の正忌日は三月某の日なりとぞ。

[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の注に『小野小町の墓は各所にあ』り、『彼女は秋田の生まれともいい』(出羽国の郡司小野良真の娘とする出自説によるのであろう)、『その生涯についてはいろいろの伝奇的物語が生じた。おそらく歌占』(うたうら:巫女や男巫(かんなぎ)が神慮を和歌で告げ、その歌によって吉凶を判断するものや、小弓に和歌を書いた短冊をいくつも結びつけて客に一枚引かせて出てきた和歌で判じる占い、或いは、百人一首の草子などを任意に開いて、そこに出た歌で吉凶を占うこと等を言う。御神籤の原型ともされる)『その他の芸で遊行すうる巫女的存在が』、『後世』、『ひろく各地をまわり、その伝承が小町に付会されつつ、小町伝説は成長し、各所にその墓もできたのではないかといわれている』とある。ある記載によれば、小野小町の墓は、現在でも、全国に三十数箇所あるという。

「江戸小石川無量院」浄土宗(京都知恩院末)薬王山能覚寺無量院。明治になって廃絶したらしい。この当時は現在の文京区小石川三町目内の、伝通院(でんづういん)の東北方直近にあったと思われる(この中央附近と推定(グーグル・マップ・データ))。サイト「形原松平家について」のこちらのデータに拠った。そこには確かに、同寺に小野小町石塔或いは供養塔があったとする記事が見える

「牧野家」不詳。譜代大名で知られたところでは、越後長岡藩藩主牧野氏ではある。

「今年安永八年」一七七九年。

「小町の九百年忌」小野小町の生没年は未詳であるが、交渉した貴族らとの関係から、承和から貞観の中頃(八三四年から八六八年頃)が活動期と考えられるので、この回忌だと、没年は元慶二(八七八)年となり、不自然ではない

「小町の正忌日は三月某の日」歳時記を見ると、陰暦三月十八日を小町忌としている。これは恐らく根拠はなく、「春」に彼女を合わせたい願望によるものであろう。]

進化論講話 丘淺次郎 第十四章 生態學上の事實(5) 四 保護色(Ⅱ) (図中の昆虫や蜘蛛類の同定に非常に手古摺ったので分割して示す)

 

Konohaninitaga

 

[木の葉に似た蛾]

[やぶちゃん注:前記事で述べた通り、ここで用いた画像は二枚とも国立国会図書館デジタルコレクションの画像である。本文では「アッサム地方産の蛾」とする。鱗翅目キバガ上科マルハキバガ科 Oecophoridae の一種か? 私は昆虫は総体、守備範囲外なので、よく判らない。より適切な科・属・種がある場合は、御教授戴ければ、この注を修正する。]

 

Hogosyokutogitai

 

[保護色と擬態

1 木の葉蝶

2 えだしゃくとり

3 蛾の一種

4 あまがへる

5 蝶の一種とその幼蟲(以上保護色)

6 (右)すかしば(左)蜂(擬態)]

[やぶちゃん注:図がフライングになるが、今まで、底本のような文中への図の挿入はしてこなかったこと、以下の文章が長いこと等から、ここに以上の二図を配することとした。以下、種同定候補を示す。

1 鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科タテハチョウ亜科コノハチョウ族コノハチョウ属コノハチョウ Kallima inachusウィキの「コノハチョウ」によれば、『成虫の前翅長は』四・五~五センチメートルで、『翅の裏面は枯葉に非常によく似た模様を持つ。模様は個体変異が多く』、一『匹ずつ模様が異なると言ってもよい。さらに前翅の先端は広葉樹の葉先のように尖り、後翅の後端は葉柄のように細く突出する。一方、翅の表側は藍色で、前翅に太い橙色の帯が入り、裏側とは対照的な鮮やかな配色である』。『翅の裏側が枯葉に似るため、擬態の典型例としてよく知られている昆虫である』とある。但し、表面がド派手なコノハチョウの生存戦略は、ただ枯葉に化けるだけではなく、もっと複雑で巧妙あるようだ。高桑正敏氏の「コノハチョウは木の葉に擬態しているのか?タテハチョウ類の生存戦略を考える(PDF)を是非、読まれたい

2 鱗翅目シャクガ科ダシャク(枝尺)亜科 Ennominae に属するエダシャク(ガ)類の、多くの幼虫の総称。

3 鱗翅目カレハガ科カレハガ亜科マツカレハカレハガ亜科 Dendrolimus 属マツカレハ Dendrolimus spectabilis 或いは上位のカレハガ科 Lasiocampidae の類か

4 本邦産種ならば、両生綱無尾目カエル亜目アマガエル科アマガエル亜科アマガエル属ニホンアマガエル Hyla japonicaウィキの「ニホンアマガエル」によれば、『体色は腹側が白色で、背中側が黄緑色だが、背中側は黒っぽいまだら模様の灰褐色にも変えることができ、保護色の一例としてよく知られる。この色の変化は、周りの環境、温度、湿度、明るさなどに応じてホルモンを分泌し、皮膚の色素細胞を拡張・伸縮させることによる。また、たまに色素細胞の変異が起こり、体色が青や黄色の個体がみられることもある。たまに話題となる空色の蛙は、本種の黄色色素が先天的に欠乏したものである』。『なお、夜間では土の上でも緑色を呈する』とある。

5 ここは成体の蝶ではなく、幼虫の保護色を指しているものと思われるが、成蝶は見るからに鱗翅目アゲハチョウ上科シロチョウ科シロチョウ亜科シロチョウ族モンシロチョウ属モンシロチョウ Pieris rapae であり、同種の幼虫は食草であるキャベツなどと同じ緑色をして保護色を用いている。しかし、モンシロチョウなら、丘先生はモンシロチョウとするように思うのだが? 或いは単にキャプションの字数制限からこうしただけなのかも知れぬ

6 「すかしば」とは鱗翅目Glossata 亜目Heteroneura下目スカシバガ(透羽蛾)上科スカシバガ科 Sesiidae に属する蛾の一種群であるが、触角が棍棒状を呈し、体を覆っている鱗粉によって、体部に黒と黄の蜂に似た斑紋を有する種が多く,また、昼飛性でもあるため、人間でも蜂と誤認し易い。世界中に分布しているが、熱帯には同一地域に棲息する大形で美麗なハチとよく似た種が分布している日本産では二十五種おり、ハチ類とスカシバガ科のガ類とが擬態関係にあって、同一地域に、外見上、よく似たハチとスカシバガが棲息していれば、毒針を持つ、生物ピラミッドの相対的に上層に位置するハチがモデルとなり、スカシバガがこれに擬態することによって、生命の安全が、ある程度まで保証されることになる点では、「ベイツ(Bates)型擬態」であるとは言えるベイツ(型)擬態とは、自身は有毒でも不味くもないが、他の有毒であったり、不味いの種と形態・色彩・行動などを似せて捕食を免れる擬態を指し、発見者のイギリスの探検家ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五年~一八九二年)に因む。これに対し、有毒・不味のもの同士が、共通の目立つ形態や色彩を有することで捕食者に警告しているとする擬態を「ミューラー(Muller)(型)擬態」(発見者のドイツの博物学者フリッツ・ミューラー(Fritz Muller 一八二二年~一八九七年)に因む)と呼ぶ但し、この擬態概念(特にベイツ擬態)については、その効果や形成に種々の疑問があり、未だ定説とは言えないというのが、昨今の認識のようである。]

 

 斯くの如く、多くの動物は各々その住む處に應じた色を有し、そのため之を見出すことがなかなか困難であるが、この事は攻めるにも、攻められるにも、その動物自身から見れば、極めて利益の多いことで、敵である動物から見れば甚だ迷惑なことである。攻める上からいへば、餌となるべき動物が知らずして近づいて來るから、容易に之を捕へることが出來る。また攻られる上からいへば、自分がそこに居ても、敵が知らずして通り過ぎるから、その攻擊を免れて身を全うすることが出來るが、兩方ともに敵となる側から考へれば、之と利害が全く相反するのであるから、極めて不利益なことに相違ない。されば、動物の色がその住處の色と同じであることは、攻擊の方便としてもまた防禦の方便としても、その動物自身だけには、頗る利益のある性質といはねばならぬが、或る動物になると、たゞ色や模樣が似るのみならず、身體の全形までが、或る物に似て、到底識別が出來ぬ程である。その最も有名な例は、琉球邊に産する木葉蝶(このはてふ[やぶちゃん注:原典では「ふ」は「う」のようにも見えるが、正しい歴史的仮名遣で示した。])、内地到る處に産する桑の枝尺蠖(えだしやくとり)、南洋諸島に産する木葉蟲(このはむし)などであるが、詳しく調べれば、内地にも尚その他に種々の例がある。次に插入した三色版圖のは木の葉蝶であるが[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像は残念ながら総てがモノクロームである。ここで言っているのは後に示す大きな図版「保護色と擬態」の「」の「木の葉蝶」の図のことである。]、この蝶は翅の表面は美麗な色を有するに拘らず、裏面は全く枯葉の通りの色で、翅の全形も木の葉と少しも違はず、葉脈の通りの模やうまで具はつてあるから、翅を閉ぢて木の枝にとまると、なかなか見出されるものではない。この蝶の産する地方を旅行した博物學者の紀行には、この蝶の飛んで居るのを見附け、或る枝にとまつたまでは確に見屆けたが、そこを搜しても容易に解らず、一時間餘も掛かつて搜し出したのに、全く自分の目の前に居たなどといふことが屢々載せてある。先年或る人がこの蝶の翅を閉じたまゝの標本を林檎の枯葉の附いた枝に添へて、硝子箱に入れて、大勢の人に見せた所が、誰も之に氣が附かず、餘程過ぎてから僅に一人が蝶の頭と觸角とを見附けて、この枯葉の下に蝶が隱れて居ると叫んだ。倂しその枯葉と思ふたものが蝶自身の翅であることは、尚考へ及ばなかつた位であるから、廣い處でこの蝶のとまつて居るのを見附けるのは、餘程困難に違ない[やぶちゃん注:「違ひない」の脱字。]。またこゝに掲げたのは、印度のアッサム地方産の蛾の圖であるが、之もやはり翅に木の葉の模やうがあるから、とまつて居るときには、なかなか容易には見附からぬ。特に面白いことは木にとまるときに、翼を縱に疊む蝶類では、翼の裏面が木の葉の通りであるに反し、翅を水平に疊む蛾の方ではこの通りに翅の表面に木の葉の模樣がある。また三色圖版のに示したのは桑の害蟲である尺蠖であるが、この蟲は色も形も眞に桑の小枝の通りで、人間も常に之には瞞される[やぶちゃん注:「だまされる」。]。總べてかやうな蟲類には、自分の身體の色と形とが他物に似て居ることを、十分に利用する本能が具はつて居るもので、この蟲なども、體の後端にある二對の足で桑の枝に附著[やぶちゃん注:「ふちやく(ふちゃく)」。]し、身體を一直線に延ばし、恰も小枝と同じ位な角度をなして立つて居て、容易に動かぬ。尚口からは細い絲を吐き、之を以て頭と枝との間を繋ぎ、成るべく疲勞せぬやうな仕掛けにするから、長い間少しも動かずに居ることが出來る。それ故、農夫なども往々之を眞の小枝と誤り、持つて來た土瓶などを之に掛けて割ることがあるといふが、この位に小枝に似て居るから、鳥類がこれを見附けて食ふことはなかなか容易でない。夜になつて、鳥類が皆巢に歸つてしまふと、この蟲はそろそろ這ひ出して桑の葉を盛に食ふ。實に桑に取つては餘程の害蟲である。また南洋諸島に産する木葉蟲は、全身綠色で木の葉の通りの形狀を呈し、葉脈に相當する線まで總べてそのまゝであるが、之も木にとまつて居るときは、近邊にある無數の眞の木の葉との識別がなかなか出來ぬから、たとひ目の前に居ても容易には見附けられぬ。

[やぶちゃん注:「木葉蟲(このはむし)」昆虫綱ナナフシ目コノハムシ科 Phyllidae のコノハムシ類。ウィキの「コノハムシ科」によれば、『熱帯アジアのジャングルに広く分布しており』、二十『種程が確認されている。草食性で、メスは前翅が木の葉のようになっており、翅脈も葉脈にそっくりで、腹部や足も平たく、飾りのための平たい鰭もあり、木の葉に擬態する。一方、オスは細長い体型で、腹部のほとんどが露出しているため』、『木の葉に似てないが、後翅が発達していて飛ぶことが出来る。周囲の色によっては、黄色や茶色の個体も見られる』とある。代表的な種はコノハムシ Phyllium pulchrifolium(体長約六十八~八十ミリメートルで、東南アジア・スリランカ・インドに棲息し、グアバやマンゴーの葉を摂餌する)や、オオコノハムシ Phyllium giganteum(体長は約十センチメートルと、コノハムシ類では最大種で、マレー半島に棲息する)等がいる。擬態例として、お馴染みではあろうが、グーグル画像検索「Phyllidaeをリンクしておく。]

 

 以上は、孰れも身を護るために他物に似て居る例であるが、容易に餌を捕へ得るために、他物に似て居る動物もある。例へば蜘蛛の類には鳥の糞と全く同樣な彩色・形狀のものがあり、木の葉の表面に靜止して、蝶などの來るのを待つて居る。蝶の類には好んで鳥糞の處へ飛び來る種類があるから、蜘蛛はたゞ待つてさへ居れば、相應に餌を捕へることが出來る。また蜘蛛の中には、蟻と寸分も違はぬ形のものがある。蟻には足が六本と觸角が二本とあるが、蜘蛛には觸角がなくて足が八本あるから、普通には蟻と蜘蛛とは大に形狀が違ふが、この蜘蛛は前の二本の足を蟻の觸角の如くに動かし、他の六本の足で走るから、愈々蟻の通りに見える。常に木の葉の上に居て、蟻を捕へて食ふが、蟻は蜘蛛と知らずに近くまで寄つて來るから、之を捕へることは甚だ易い。アフリカの沙漠で、駝鳥を取るときに、土人が駝鳥の皮を被つて、之に近づくのと理窟は少しも違はぬ。

[やぶちゃん注:「蜘蛛の類には鳥の糞と全く同樣な彩色・形狀のものがあり、木の葉の表面に靜止して、蝶などの來るのを待つて居る」これは例えば、和名通り、鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ目コガネグモ科トリノフンダマシ属 Cyrtarachne の種群が代表格であろう。但し、丘先生の、摂餌のために糞に擬態しているというのは、現行では、少なくとも、本属では否定されており、隠蔽のためのそれであるウィキの「トリノフンダマシ属」によれば(下線やぶちゃん)、『トリノフンダマシ属のクモは、いずれも丸っこくてつやのある腹部に美しい斑紋を持ち、普段は目につかず』、『探すのがやや難しい』とあり、『このような体色の美しさは、擬態に繋がっていると考えられた。このクモは長く網を張ることを知られておらず、擬態によって虫が近づいてきたのを捕らえると考えられたが、後に網を張ることが判明した。しかし』、『その網は少々特殊なもので』ある(後述)。『体長は雌で』一センチメートル『程度の中型のクモ』で、『性的二形は著しく、雄はせいぜい』三分の一、『種によっては』、体長一~二ミリメートルと、雌の十分の一程度『しかない。雄の形態は』、『ほぼ雌のそれに準じるが、斑紋等ははっきりしたものはなく、大抵は一様な褐色で、種の判別は肉眼では難しい。以下、雌について述べる』。『頭胸部は中央が盛り上がるが、なめらかで大きな凹凸や突起はない。腹部は大きく、横幅が広い。また前の方は頭胸部に被さって半ば以上を覆う。腹部背面はなだらかに盛り上がり、特に突起などはないが、前後に数個ずつの筋点が見られる』。『歩脚は特に長くはなく、縮めると頭胸部にぴたりと寄り添い、目立たなくなる』。『体色は種によって異なり、また個体変異もあるが、いずれも珍奇な外見を示し、擬態に関わるもの』、『と考えられてきた』。『日本産の』四『種のうち、トリノフンダマシ』(Cyrtarachne bufo)『とオオトリノフンダマシ』(Cyrtarachne inaequalis)は、『いずれもハート形に近い腹部は白から黄色の地色で、両肩(腹部前方の左右に張り出した部分)に白と褐色系による曖昧な渦巻きのような模様がある。シロオビトリノフンダマシ』(Cyrtarachne nagasakiensis)『では横長の腹部の真ん中を横切るように白い帯があり、その前後は黒く、腹部後端近くは淡い褐色になっている。これらの種では表面がなめらかでつやつやしい事が、まるで濡れているような見かけを与えることもあって、その姿を新鮮な鳥の糞のように見せる。「鳥の糞騙し」の名はこれに基づく。実際に野外で静止している際には、歩脚をしっかりと頭胸部に引き寄せ、ほとんど腹部しか見えないため、知っていなければ蜘蛛とは思えない』。『これに対して、アカイロトリノフンダマシ』(Cyrtarachne yunoharuensis)『では、地色が鮮やかな赤で、そこに白い斑紋が水玉模様のように入る。その表面はやはり強いつやがあり、これはテントウムシ類に擬態しているとされる』(クモ嫌いの方のために画像リンクはしないが、相当に派手である)。『特に前者の擬態については、このクモの造網習性が知られる以前には攻撃のための擬態ではないかと考えられていた。鳥の糞から水分や栄養を摂取する昆虫は少なくないので、そのようなものが鳥の糞と間違えて接近してきたところを捕らえる、との判断である。しかし』、『これは否定されたため、擬態であるにせよ、隠蔽のためのそれと考えられている』。『なお、トリノフンダマシとオオトリノフンダマシではその斑紋から』、『カマキリの頭に擬態しているとの説をネット上などで見かけるが、これはクモ学の分野では特に取り上げられていない』。『この属の蜘蛛は、昼間はほぼ完全に静止したままである。普通は植物の葉裏に静止している。その際には歩脚をしっかり体に引きつけるため、頭胸部と歩脚は腹部の前縁からわずかに覗くだけとなる。特にススキでよく見つけられるとされる』。『夜間に網を張る。網は水平円網であるが、非常に目が粗く、縦糸も横糸も数が少ない。クモは暗くなってから網を張り、明るくなる前には網を畳み、葉裏に潜む。その際、網に虫が残っていた場合には、糸で丸めて持ち去り、葉裏で食べるという』。『卵嚢はほぼ球形から楕円形の袋状で、細長い釣り手のような柄があってぶら下がる。クモは枝先の葉陰などに不規則網のような形に糸を張り巡らしてそこに卵嚢をぶら下げ、親はそのそばに止まる。往々に複数をまとめてつける』。『孵化した幼生は成体になるまで網を張らず、葉先などで前二対の歩脚を大きく広げて構え、通りかかった小さな虫を直接に捕らえる』。『このクモの網については興味深い点が多』く、『一つには、コガネグモ科』(Araneidae)『のものは円網を張るのが普通だが、そのほとんどは垂直円網であり、水平円網を張るものはごく少ないことである。水平円網を張ることが多いのは、アシナガグモ科』(Tetragnathidae)『などである』。『ところが、アシナガグモ科の水平円網と』、『このクモの網も大変に異なっている。上記のように、このクモの網は糸がごく少なく、非常に編み目が粗いが、特殊な点はそれだけに止まらない。普通の円網では放射状に張られた縦糸に対して粘液を持つ横糸は渦巻き状になっているのだが、このクモではほとんど同心円状になっていて、ひと繋がりの渦巻きにはなっていない』。『さらに張り方も異なる点がある。普通は先ず放射状の縦糸を張り、次に内側から外側にあらく粘性のない糸を張る。これは足場糸と呼ばれ、クモはそれを付けた後に、今度は外側から粘性のある横糸を張ってゆく。その時に足場糸を伝って次の縦糸に移動することで横糸の位置を定めるようにし、足場糸が邪魔になると切り捨てる。ところが、このクモの場合、足場糸をつけず、縦糸のあとに直接横糸を張る。そのために、クモは縦糸から次の縦糸に写る際に必ず中心を経由して移動する。それに、横糸は渦巻きではなく、往復移動を繰り返すことで張る』。『また、このクモの網には機能的にも独特な点がある。先ず、横糸が弛んで張られていること、また横糸にある粘球が大きく、しかも縦糸との接触部にはないことである。そのために夜間に明かりで照らすと、横糸の両端が見えなくて、途中だけが白く光って見える。そしてこの糸に虫がかかると、縦糸との接点で切れるようになっている。これは、獲物としてガを捕らえるのには都合のいい性質である。ガの体には鱗粉があるため、普通のクモの網ではガが引っかかった時にもがくと鱗粉だけを網に残して逃れることが出来るが、このクモの網では糸が片方で切れてガの体に巻き付き、縦糸からぶら下がった状態で』捕『まってしまう。クモはこの糸を吊り上げてガを捕らえることが出来る』『このクモの近縁群に』、北アメリカに棲息する『ナゲナワグモ』(コガネグモ科ナゲナワグモ属 Mastophora)『の習性を持つ』、オーストラリアに棲息する『イセキグモ属』(Ordgarius)『などがいる。この特殊な獲物の捕まえ方がどのように発達したかについて、このクモの網がその発端になったと考えられるようになった。つまり、上記のようにこのクモがガを捕まえる場合、ガを吊り上げる形になり、その状態はナゲナワグモが獲物を捕らえた形と同じになる。さらに、これらに近縁な属であるサカグチトリノフンダマシ属』(Paraplectana)『やツキジグモ属』(Pasilobus)『の網がトリノフンダマシ属のそれの』、『片側が退化したような三角網であることが判明した。ここから、トリノフンダマシの作る円網を始まりとして、ガを捕まえる特性が発達した代わりに』、『網そのものを退化縮小させていったと考えると、その頂点にナゲナワグモがいると見ることが出来る。その視点からナゲナワグモの捕虫時の行動を調べると、トリノフンダマシが円網を張る行動との類似性が確認できるという』。『なお、トリノフンダマシ属の獲物はガが多いことから、ナゲナワグモ類と同様にフェロモン類似物質を出している可能性が示唆されているが、はっきりしていない』とある。なお、本邦産の近縁種(但し、採取個体例は非常に少ない)にコガネグモ科サカグチトリノフンダマシ属サカグチトリノフンダマシ Paraplectana sakaguchii とツシマトリノフンダマシ Paraplectana tsushimensis がいる。

「蜘蛛の中には、蟻と寸分も違はぬ形のものがある」クモ亜目ハエトリグモ科アリグモ属 Myrmarachne が代表格。これは私もよく見かける。但し、こちらも現行では、丘先生の謂うような「常に木の葉の上に居て、蟻を捕へて食ふが、蟻は蜘蛛と知らずに近くまで寄つて來るから、之を捕へることは甚だ易い」という蟻を捕食するための擬態というのは甚だ疑問視されているウィキの「アリグモ」より引く(下線やぶちゃん)。『分布する地域は、北海道南部・本州・四国・九州・沖縄。照葉樹林帯に多い』。『アリに非常によく似た姿と大きさをしている。全身ほぼ黒で、若干の模様が腹部にある場合がある』。『頭胸部はハエトリグモ類』(ハエトリグモ科 Salticidae)『としては細長く、頭部は丸く盛り上がり、胸部との間にわずかにくびれがある。腹部は円筒形で、後方に狭まるが、前方は丸く、少し後方が多少くびれる。歩脚はハエトリグモとしては細く、長さもそこそこ。第一脚はいつも持ち上げて構える』。『頭部と胸部が分かれて見えること、腹部にも節があるように見えることから、その姿は非常にアリに似ていて、生きて歩いている場合にはよく見なければ区別できない。また、場合によっては腹部に矢筈状の斑紋があるが、これも腹部の節を強調するように見え、違和感がない』。『アリに似ていることから、擬態しているものと考えられる。擬態の目的として、「アリを捕食するため」の攻撃的擬態という説と「アリに似せることで外敵から身を守るため」という隠蔽的擬態(ベイツ型擬態)であるとの説があった』。『当初は「アリを捕食するため」という説が主流であった。つまり、アリの姿をしていると、アリが仲間と間違えて寄ってくるので、これを捕食するのだというのである。これはかなり広く普及していた考えのようで、日本のごく初期のクモ類の文献の一つである湯原清次の「蜘蛛の研究」』(昭和六(一九三一)年刊・欄山会第一叢書)『にも、このことが記されており、さらに、「あるものは巣穴に入り込んで幼虫や蛹を担ぎ出す」というとも聞いている旨が記されている』。『しかし、その後次第にこの見解は揺らぐこととな』り、一九七〇年『代頃の関連書籍では、上記のような観察について、その確実な実例がほとんどないこと、また、実際に観察すると、アリの群れのそばでアリグモを見ることは多いものの、アリグモがアリを捕食することは観察されず、むしろ避けるような行動が見られることなどが述べられて』おり、一九九〇年代に入ると、『攻撃的なアリ(アリはハチの仲間であり、基本的には肉食の強い昆虫であり、外敵に対し噛み付いたり、蟻酸を掛けたりする攻撃をする)に似せて外敵を避けるための擬態であるといわれるようになった。なお、アリグモがアリを捕食した観察結果は皆無であるとの記述も見られるが、これはまた』、『あらためて確認の必要があるであろう』とある。『アリを捕食するクモとして、同じハエトリグモ科のアオオビハエトリ』(オビハエトリグモ属アオオビハエトリ Siler vittatus)『がいる。こちらも第』一『肢を持ち上げ、触角のように見える』ともある。因みに、小型の家内性のハエトリグモ(蠅捕蜘蛛)類は、「虫嫌い」の私が、唯一、偏愛する生き物で、よく一緒に遊ぶほどに、私の書斎にはかなり多く同居している。]

 

 動物が攻擊或は防禦のために、その住する處と同一な色を有することを保護色と名づけるが、既に前にも述べた如く、この事は、攻擊にも、防禦にも、その動物自身に取つては頗る都合の好いもので、特に形狀まで他物に似て居る場合には、尚一層有功である。さて保護色といふものはどうして出來たものかと考へるに、天地開闢の時に神が、かやうに造つたのであるといふてしまへば、それまでであるが、之では證據もなければ、また理窟も少しも解らぬから、我々は滿足は出來ぬ。然るに生物各種は、皆進化によつて漸々今日の有樣に達したもので、進化の原因はおもに自然淘汰であると考へれば、保護色は必然の結果と認めなければならぬ。試に、その大體を述べて見れば、例へば昆蟲類は常に鳥類に攻められるもの故、代々鳥類に見逃されたもののみが生存して、後へ子孫を遺すわけとなる。而して如何なるものが最も鳥類に見逃される望を有するかといへば、無論その住處の色に成るべく似た色を有するものであるから、代々斯かる個體のみが生存し、生殖し、その性質が遺傳によつて子孫に傳はり、代の重なるに隨ひ、その性質も積つて、漸々進步し、終には殆ど見分けが附かぬ位までにその住處に似るやうになる筈である。斯くの如く今日實際の有樣は、總べて自然淘汰の豫期する所と全く一致して居るが、之は確にこの説の正しい證據と見倣さねばならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十四章 生態學上の事實(4) 四 保護色(Ⅰ) (図中のプランクトン同定に非常に手古摺ったので分割して示す)

 

     四 保護色

 

Jyuhininitaga

 

[樹皮に似た蛾]

[やぶちゃん注:本章の挿絵は総て底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正(一部はブラック・バックで図が極めて見難いことから、ハイライトを限界近くまで上げたため、キャプションが飛んでいる)して使用した。なお、内二枚の大判の図(「浮游動物の保護色」と「保護色と擬態」)は講談社学術文庫ではカットされている。さて、丘先生の仰る通り、「木の幹にとまる蛾の類には、斑紋まで木の皮と全く同樣で、近づいて見ても、容易に見分けられぬ程のものが幾らもある」から、この図の蛾はとても種同定は出来ないが、一つの典型的な木の皮に擬態する種(但し、形状から見て、本図のそれでは残念ながら、ない)として、文字通り、鱗翅目コブガ科キノカワガ(木の皮蛾)亜科キノカワガ Blenina senex を挙げることに文句を言う人はおるまい。個人ブログ「NATURE DIARY」の「庭の擬態名人:アケビコノハ」(スクロール・ダウンすると登場する)及び、「みんなで作る日本産蛾類図鑑V2」の「キノカワガ Blenina senex (Butler, 1878)を参照されたい。解説も画像も豊富である。但し、画像は視認出来るようにかなりの接写でしかも大きいから、昆虫が苦手な方は要注意である。]

 

Phycodurus_eques

 

[海草魚]

[やぶちゃん注:本種は条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科ヨウジウオ亜科 Phycodurus 属リーフィーシードラゴン Phycodurus eques と見てよいように思う。本種はオーストラリア南西部沿岸の浅海に分布し、周囲の海藻に強い擬態をしており、まさに「海藻魚」に相応しく、海藻そのもののような外見で非常によく知られている。これは本文で「南洋の海に居る」とあるのにも合致する。なお、本邦産タイプ種であるタツノオトシゴ Hippocampus coronatus やハナタツ(花竜)Hippocampus sindonis でも海藻様の突起の見られる個体がしばしばいるが(特に後者は有意に附属する)、ここまで激しくはない。グーグル画像検索「Phycodurus equesをリンクさせておく。形状だけではなく、色も実に華やかで美しい。]

 

 動物にはその住する場處と圓じ色を有するものが頗る多い。綠色の若芽に附く蚜蟲[やぶちゃん注:「あぶらむし」と読む。複数回既出既注の「アリマキ」のことである。]は必ず綠色で、黑い枝に附くものは黑く、楓の赤い芽に附くものは紅色である。單に色ばかりでなく、木の幹にとまる蛾の類には、斑紋まで木の皮と全く同樣で、近づいて見ても、容易に見分けられぬ程のものが幾らもある。種々の動物に就いて廣く調べて見ると、このやうなことは極めて普通であるから、動物がその住處の色に似るのは、殆ど規則であつて似ないのは例外かと思はれる位であるが、その例を少し擧げて見れば、綠葉の上にとまる動物は、雨蛙でも、芋蟲でも、蝗でも、蜘蛛でも皆綠色で、枯草の中に居る蝗などは枯草色である。沙漠地方に住む動物は、獅子・駱駝・羚羊[やぶちゃん注::「れいやう(れいよう)」。複数回既出既注のアンテロープのこと。]の類を始めとして、獸でも、鳥でも、蟲類でも一樣の黃砂色を有するものが甚だ多い。それ故、樹木・岩石等の如き隱れ場處がないのに、これらの鳥獸を見分けることがなかなか困難であると、旅行者が往々紀行中に書いて居る。また北極地方へ行くと、概して白色の動物が多く、始終雪の絶えぬ邊には、常に白色を呈する白熊・白梟等の類が住み、夏になれば雪が消える位の處には、冬の間だけ白色に變ずる雷鳥(らいてう)・白狐・白鼬(いたち)の類が居るが、雪の中に白色の動物が居ては、容易に見分けられぬのは無論である。また蝶(かれひ)・比目魚(ひらめ)・鯒(こち)・「がざみ」などは、淺い海底の砂に半分埋もれて居るが、背面の色も模樣も、全く砂の通りであるから、足もとに居ても少しも解らぬ。水族館などに飼うてあるのでも、餌を與へると泳ぎ出すので、そこに居たのが僅に知れる位である。南洋の海に居る海草魚の如きは、色が海草と同じであるのみならず、身體の周邊から、びらびらした附屬物が生じて居るから、海草の間に靜止して居るときには、到底これを識別することは出來ぬ。また海面には、透明であるために容易に目に觸れぬ動物が頗る多い。風のない靜な日に、小舟に乘つて沖へ出て見ると、海の表面には水母の類、蝦の類などで全く透明なものが無數に居て、一二寸位から大きなものは一尺以上のものまでもあるが、餘り透明であるから、初めて採集に行く者は、之が目の前にあつても、なかなか氣が附かぬ。採集者が態々搜しに行つてさへ、往々見落す程であるから、普通の人等が之を知らぬのも無理ではない。

[やぶちゃん注:「白熊」哺乳綱食肉(ネコ)目クマ科クマ亜科クマ属ホッキョクグマ Ursus maritimus

「白梟」鳥綱フクロウ目フクロウ科ワシミミズク亜科ワシミミズク属シロフクロウ Bubo scandiacusウィキの「シロフクロウ」によれば、『繁殖期には北極圏に広く分布する。冬は多くの個体がユーラシア大陸や北アメリカ大陸などの亜寒帯まで南下し、日本でも北海道でまれに見られる。鳥取県や広島県など、さらに南で記録されたこともある。日本での記録はほとんど冬だが、北海道の大雪山系では夏に記録されたこともある』とある。恐るべし。

「雷鳥」キジ目キジ科ライチョウ属ライチョウ Lagopus muta

「白狐」食肉(ネコ)目イヌ科イヌ亜科キツネ属ホッキョクギツネ Vulpes lagopus をまず掲げる。ウィキの「ホッキョクギツネ」によれば、『北極地域、つまりグリーンランドやロシア、カナダ、アラスカ、スヴァールバル諸島の辺境を含む北極圏全体、更に亜北極圏やアイスランド、スカンディナヴィア本土の山脈などの高山地域で見られる』とある。但し、ここでは冬に白毛になる狐とする(ホッキョクギツネも夏毛はグレーや褐色に生え変わる)から、北方系の多の種も含まれるであろうが、そこまで調べる気は、ない。

「白鼬」食肉(ネコ)目イタチ科イタチ亜科イタチ属オコジョ Mustela erminea 或いは同亜種で本邦に棲息するホンドオコジョ Mustela erminea nippon、又は同亜種で北海道・ロシア極東に棲息するエゾオコジョ Mustela erminea orientalis(但し、同亜種は東シベリアの Mustela erminea kaneii のシノニムとする説もある)であろう。因みに、現行で「白鼬」「シロイタチ」と称するのはイタチ属ヨーロッパケナガイタチ亜種フェレット Mustela putorius furo であるが、これは家畜化された飼養動物であり、同じイタチ属ではあるが、こことは全く関係ない。

「鯒(こち)」カサゴ目 Scorpaeniformesコチ亜目Platycephaloideiの魚類の総称である(この場合は私は、スズキ目Perciformesネズッポ亜目Callionymoideiの「コチ」呼称群を考慮する必要はないと思う)。特にここでは、本邦の典型的な大型種であり、寿司種にする「鯒」、コチ亜目Platycephaloideiのマゴチや近縁種のヨシノゴチ(どちらもPlatycephalus sp.(以前はPlatycephalus indicusと同一種とされていたが、研究の進展により現在は別種とされる。学名は未認定である)を丘先生は想定していると思う。

「がざみ」甲殻綱十脚(エビ)目エビ亜目カニ下目ワタリガニ科ガザミ属ガザミ Portunus trituberculatus。]

 

Ourankuton

 

[浮游動物の保護色

1 「くらげ」

2 「くだくらげ」

3 「くしくらげ」

4 「さるぱ」

5 「えび」の幼蟲

6 「いか」

7 軟體動物の一種

8 「うなぎ」の幼魚]

[やぶちゃん注:ブラック・バックで百%までハイライトを上げた結果、左右にあるキャプションが飛んでしまった。なお、原画(リンク先の左頁)はキャプションが左右位置で順列にはなっていないので注意が必要である。以下、画像が不鮮明でちょっと難しいものもあるのだが、最も可能の高いと私が判断した種を同定候補として以下に挙げておくので、参考にされたい。

1 刺胞動物門ヒドロ虫綱ヒドロ虫目硬水母亜目オオカラカサクラゲ科カラカサクラゲ属カラカサクラゲ Liriope tetraphylla 。半球状の傘の底部中心から長い柄が伸びているようにも見えるから(それで唐笠と名付ける)であるが、これはハイライトにした結果、辺縁の手前の触手がそう見えるだけのようにも見えなくもないから、多種の幼体の可能性もある。ヒドロ虫綱 Hydrozoa のクラゲの中では刺胞は強い部類に属するので要注意である。

2 ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目ボウズニラ科ボウズニラ属ボウズニラ Rhizophysa eysenhardtii ではないかと思われる。体は高さ一・五センチメートル、幅約一センチメートルの気胞体と、それに下垂する細長い幹とから成る群体性の浮遊性ヒドロ虫。暖海性で春に見られる。幹は極めて伸縮性に富み、収縮すると三十センチメートルほどであるが、伸長すると数メートルにもなる。幹には栄養体・触手・生殖体がところどころに固まって附いている。諸図鑑では刺胞毒はあまり強くないとする。全体が淡紅色であるが、時に、わずかに紫色或いは黄色を帯びる個体もある。和名の「ボウズ」は気泡体が坊主頭に似ていることに由来し、「ニラ」は魚の背鰭や植物にある「棘(とげ)」を意味する「イラ」が転訛したもの。但し、近縁種のコボウズニラ Rhizophysa filiformis(複雑に発達した三タイプの側枝を持ち、気泡体が小さい)の刺胞毒は、かの悪名高い同亜目のカツオノエボシ(クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis)のそれに匹敵するとされ、激烈であるから、こちらも君子危きにの部類である。私の尊敬していた高校時代の生物の教師は「ボウズニラは強烈だ」と常々言っておられたが、或いは、この「コボウズニラ」の方を指していたのかも知れない。

3 下部に触手様のものがかすかに認められること、体部が有意に丸いことから、私は有櫛動物(ゆうしつどうぶつ)Ctenophora 有触手綱Tentaculata フウセンクラゲ目Cydippida テマリクラゲ科 Pleurobrachiidae のテマリクラゲの仲間ではないかと見た。彼ら有櫛動物は見た目がクラゲに似ているが、クラゲとは全く無縁な生物群で、刺胞を持たず、代わりに粘着性の膠胞(こうほう)というものを一般的には触手に持ち(体表に非常に短い触手や膠胞を有するものもいる)、多くは、それに触れた微小な生物を餌にしている。

4 プランクトン性(基本的には殆んどが非固着性)の尾索動物(オタマジャクシ型の幼生期を持ち、プランクトンとして自由遊泳生活をすること、その幼生期に於いて長い尾の部分に脊索・背側神経索を有する点で、恐らくは誰もが意外に思う、脊椎動物のすぐ下に分類される高等動物である。一般によく知られた種ではマボヤ(マボヤ科マボヤ Halocynthia roretz)がいる。他には、やはりクラゲっぽく見えるタリア綱ウミタル目Doliolida のウミタル(海樽)類が含まれる)で、見た目はクラゲじみているが、クラゲとは全く縁がなく、分類学上は高等な生物で魚類に近いところの、尾索動物亜門 Urochordata タリア綱 Thaliacea サルパ目 Salpida サルパ科 Salpidae のサルパ類、の仲間で、これは形状と透けて見える体内の様子からは、サルパ亜科 Salpinaeトガリサルパ属 Salpa トガリサルパ Salpa fusiformis 、その近縁種、或いは超大型になるオオサルパ属Thetys オオサルパ Thetys vagina 。前者の可能性が強いか。

5 キャプションと形状から見て、節足動物門軟甲綱十脚(エビ)目 Decapoda の広義のエビ類の、恐らくはフィロソーマ(Phyllosoma)幼生と見た。形状の特異性を海外サイトの画像で比較検討して見ると、「Scripps Institution of Oceanography」内のM. W. Johnson Lobster Phyllosoma Slide Collectionに出る幼生の模式図と非常によく似ているように思われた。この図には当該種を「panulius inflatus」としており、この種は、調べてはみたが、シノニムなのか、今一つ、よく判らなかったものの、属名から、十脚目イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科 Palinuridae のイセエビ属 Panulirus で、お馴染みのイセエビ属イセエビ Panulirus japonicus の同属種であることが判る。エビ・カニなどを含む十脚目の幼生は広い総称ではゾエア zoea と呼ばれるが、実は十脚目抱卵亜目 Pleocyemata のイセエビ下目 Achelata に属する所謂、「伊勢海老」の類は他の十脚目類のそれとは有意に異なる幼生形態を持つ。ウィキの「ゾエア」によれば、『背甲は頭部のみを包んで胸部を覆わず、腹部はごく小さい。胸部から伸びる』三『対の付属肢は非常に長く、全体に腹背方向に』、『強く扁平になっており、まるでクモのような姿をしている。これをフィロソマ幼生と呼ぶが、これもゾエアに相当するものである』とある。

6 私には流石にこれでは(全体及び細部の形状や色が示されればある程度は範囲を絞り得るかも知れぬが)、軟体動物門頭足綱鞘形亜綱十腕形上目 Decapodiformes のイカ類の幼体(稚イカ)とするしかない。もし、お判りになる方がいれば、御教授願いたい。

7 これはキャプションにある軟体動物の一種という説明が強い味方となる。恐らくは非常に高い確率で(則ち、私としてはかなり自信をもって)軟体動物門腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目ゾウクラゲ上科ハダカゾウクラゲ科ハダカゾウクラゲ属ハダカゾウクラゲPterotrachea coronata と同定してよいと思われる。ご覧の通り、クラゲ様ではあるが、全く無関係な種で、殻を持たない巻貝の仲間である。本邦では黒潮流域に分布し、堅田は細長い円筒形を成し、象の鼻のように長く伸びた吻(図の右側)と尾鰭状(図の左側。かすかに絵から確認出来る)の後部を有する(後者のこの部分がないと、シリキレヒメゾウクラゲ属シリキレヒメゾウクラゲ Firoloida desmaresti となる)。体長は大きくて十五センチメートル程度である。

8 これは勿論、本邦での採取であれば、条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギ Anguilla japonica の仔魚(しぎょ)である葉形幼生「レプトケファルス(Leptocephalus)」である。]

 

2018/04/25

御伽百物語卷之四 恨はれて緣をむすぶ

 

   恨(うらみ)はれて緣をむすぶ

 

Uramihareteenwomusubu

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のもの。]

 あふみの國守山(もりやま)邊に喜内(きない)とかやいひし農民あり。生れつき正直ものにて假にも人のため、あしかるべき事をなさず。身をすてゝも、他(ひと)のためよき事となれば、世話をかきつゝ取りあつかふ程の心ばへなる者也けれども、前生(ぜんしやう)の果(くわ)のよる所とて、兎角かせぎけるにも貧苦やむ時なく、日を追(おつ)て手まへ不如意なりしかば、

「今は少しある田地をも、人に宛(あて)て作らせ、今日のたすけにもせばや。」

と思ひたちけるより、彼方此方(かなたこなた)と人を賴みて肝(きも)いらせけるに、其あたり近く住みける藤太夫(とうたゆふ)といひし者、是れも同じ農人(のうにん)なりしが、心、あくまで欲ふかく、少利(せうり)といへども貪り、一錢の事にも氣を付け、人の手まへ外聞にも恥ぢず。常に、只、きたなきまで世知辨(せちべん)なるものなりしが、此喜内が田地の事を聞くより、早、心に欲をおこし、

「何(なに)とぞして心やすく價(あたひ)をこきり、我がものにせばや。」

と分別(ふんべつ)をめぐらし、其所(そのところ)の庄屋に召しつかはれて年久しき男に十太郎といひけるものを、かたらひすかし寄(よせ)て、かたりけるやう、

「今、この喜内が田地につきて、我ふかく賴むべき事あり。そのゆへは彼かれ)が年貢の未進(みしん)、年年(としどし)に積りて、七、八百匁(め)もあるよしを聞きけり。それにつき、このたび、喜内が手まへ、貧なる事、日々に彌(いや)增(まさ)り行くまゝに、『今は彼(か)の田地をも人に宛てて身命(しんめう)をたすくるの便(よすが)にもせばや』といふなるよし。我、また、幸ひに、彼(かれ)が田地の我が田に並ぶゆへに、望みおもふ事、久し。然れども、人の田を借りて耕さん事も口おしくおもふ也。とても貧に生まれたる喜内なれば、たとひ、人にあてたりとも、質(しち)に入れたりとも、富貴(ふうき)になる事あるまじければ、こゝは君がはからひにて、何とぞ、此たびを序(ついで)に喜内が田地を賣りはらはする術(たて[やぶちゃん注:原典もママ。「てだて」であろう。])をめぐらし、若(も)し賣るべき心になり侍らば、旦那にきかせては、慈悲ふかき人なれば、賣るほどの事に及ぶをいたはりて、未進の事はよもいひ出し給はじと思へば、旦那には聞かせずして價(あたひ)何程(なにほど)と極(きはま)りたる上にて、彼(か)の未進程(ほど)の銀(かね)を抑(おさ)へて我に歸し給はらば、我、また其御世話の代(かはり)には、彼(か)の未進に引かれたる銀(かね)の十分(ぶ)一をもつて、定(さだま)りたる禮の外に御れいを申すべし。」

と、酒をすゝめ、口に任せ、念比(ねんごろ)に賴みけるに、此おのこも利欲に迷ひ、いとやすくうけ給ひて歸りぬ。

[やぶちゃん注:「あふみの國守山」現在の滋賀県守山市。琵琶湖南東岸。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「七、八百匁(め)」「匁」(正式には「もんめ」であるが、略してかく呼んだ)は金銭単位では、小判一両の六十分の一を表わす(当時流通した金・銀・銭の三貨の交換基準は「銀一匁=金六十分の一両=銭十五分の一貫文」と定められていたことによる)から、「七、八百匁」は十一両から十三両弱に当たるか。なお、一両は江戸後期で三~五万円相当として、三十五万円から六十七万円弱ほどには相当するであろう。]

 

 扨も喜内は心よきものゆへ、ちかき邊(ほとり)の農人ども、彼が貧を笑止(せうし)がり、ともどもに取り持(とりもち)よろしき方へ田地をも預けさせ、何とぞ志なく渡世をもさせたくおもひ、さまざまとかけめぐり、よき口ども、おほく聞きたて、莵角(とかく)いひわたりけれども、庄屋の方にひかへたる男(おのこ)、有無(うむ)に何かと物好(ものこのみ)して請けがはねば、今は喜内もせんかたなく、是非につまりて、

「此田地を賣りてなりとも、身のさしあはせにせばや。」

とおもひたち、人にもいひけるを、

「得たりやかしこし。」

と庄屋の男、彼の藤太夫に肝煎かけ、しかも下直(げぢき)にねぎらせける程に、喜内が心にも飽きたらぬ事におもひしかども、手前の貧にくるしめられ、纔か廿兩の價に賣るべきに約束せし時、彼のおのこ、兼てたくみつる事なれば、内々の末進をいひ出だし、銀を渡さんとする場にすゝみ出(で)て、八百目を引きおとしけるにぞ。

 喜内も今さら後悔といひ無得心(むとくしん)なる仕かたとはおもひしかども、すべきやうもなく、身をのみ悔ひて聞き居たるに、藤太夫は喜内を先づ歸へさんとおもひけるゆへ、手づから、酒、すこし携へ來たり、喜内ばかりに、一、二獻すゝめて、盃をあいそなく治めとりぬ。

 奧には、なを酒飯をとゝのへ、膳部を拵(こしら)ゆる氣色(けしき)見えて、賑ひあへども、かつて喜内には、誰(たれ)とりあふものなきまゝに、素氣(すげ)なくさうざうしくおもひて、やがて、其座をたち、歸へりけるが、さるにても此藤太夫が仕かたといひ、價ををおさへられつる無念さも、ひとしほの恨(うらみ)となり初め、一すぢに健(すくよ)かなる心から、やるせなきまゝに、

「所詮、こよひの内に此藤太夫が家に火をかけ、彼が財寶を燒きはらひ、せめての慰にせばや。」

など、おもひつきて、此事を妻にかたりけるに、妻、又、ねんごろに諫めていひけるは、

「扨も。いかなる天魔のいりかはりてかく筋なき心ばへは出で來(き)しぞや。たまさか、法談の庭にたゝずみ、一句半偈(はんげ)のかたはしを聞くにさへ、『仇(あだ)は報ずるに恩をもつてすべし』と侍るものを、常不輕菩薩(じやうふきやうぼさつ)のいにしへをしたひ、空也上人の心ばへまでこそなくとも、せめて、かゝる惡業を、な作りたまひそ。貧は天命也、貧よりおこる怨(うらみ)なれども天命をわきまへ、前生(ぜんしやう)の因果を觀(くわん)じたまはゞ、うらむべき人もなく、悲しむべき身もなきものを。かならずかならず、さやうの惡(あし)き心おこして、後生(ごしやう)の罪をつくり給ふな。」

と、泣きみ笑ひみ、かきくどきけるを、しばし聞き入れたるふりにもてなし、さあらぬ體(てい)にて居たりしが、夜ふけ、人しづまりける比(ころ)、ひそかに燒きぐさをしたゝめ、燧火(すりび)・打鹽硝(うちえんせう)など懷にして、藤太夫が方へと急ぎける所に、彼の藤太夫が方には、女房、このごろ胎孕(はらみ)たりけるが、今宵(こよひ)しも産の氣(け)づきて穩婆(とりあげばゝ)など、はしり入り、ものさうざうしかりつるを見て、喜内、また心に思ひかへしけるは、

『そも、此心におもひたちて、仇せんとするものは誰(たれ)や。纔かに藤太夫、獨(ひとり)にあり。我、今、藤太夫ひとりに恨(うらみ)を報ぜんが爲に、火をかけ、何ぞ此産婦といひ、其外、近邊の人まで、同じ禍(わざはひ)にかけなん事、天道の冥慮も恐し。恨は一人にあるものを、却(かへつ)て後生(ごしやう)の罪をもとめんは本意(ほんい)たるべからず。』

と、思ひかへして、貯へ來たりつる火の具を、溝の中へ捨てて、歸りぬ。

[やぶちゃん注:「法談」僧が仏道を説くこと。説法。

「一句半偈」仏の功徳を表わす一句や一偈(それを褒め讃える詩。四句から成る。頌(じゅ)の前半の半分。

「常不輕菩薩」「法華経」の「常不軽菩薩品(ぼん)」に説かれた菩薩で、釈尊の前世の姿であったとされる。ウィキの「常不軽菩薩」によれば、『釈尊の前世、むかし』、『威音王如来という同じ名前をもつ』二『万億の仏が次々と出世された。その最初の威音王仏が入滅した後の像法の世で、増上慢の比丘など四衆(僧俗男女)が多い中に』、『この常不軽菩薩が出現したとされる。常不軽菩薩は出家・在家を問わず』、『「我深く汝等(なんだち)を敬う、敢(あえ)て軽慢(きょうまん)せず。所以(ゆえん)は何(いか)ん、汝等皆菩薩の道(どう)を行じて、当(まさ)に作仏することを得べしと」と礼拝したが、四衆は悪口罵詈(あっくめり)し、杖や枝、瓦石をもって彼を迫害した』。『常不軽菩薩は臨終が迫った時、虚空の中において、威音王仏が先に説いた法華経の』二十『千万億の偈を聞き、六根の清浄を得て』、二『万億那由他』(なゆた)『という永い寿命を得て、広く人のために法華経を説いた。これを聞いた増上慢の四衆たちは、その所説を聞き、みな信じ伏し』、『随従した。常不軽菩薩は命終して、同名である』二『千億の日月燈明如来という仏に値遇し、また同名である』二『千億の雲自在燈王如来という仏にも値遇し、法華経を説き続け、諸々の善根を植え、さらにまた千万億の仏に遇い法華経を説いて功徳を成就して、最終的に彼も仏と作(な)ることができたという』。『常不軽菩薩は自身が誹謗され』、『迫害されても、他人を迫害するどころか、仏法に対する怨敵などと』は『誹謗し返さなかった。この精神や言動は、宗派を問わず教理を越えて、仏教徒としての原理的な行動・言動の規範としてよく紹介引用される』とある。]

 

 さても、あるべき事ならねば、彼の纔かなる銀(かね)を元債(もとで)とし、酢・醬油のたぐひ、請酒(うけさけ)[やぶちゃん注:酒のごく少量の小売りを言う。]やうのものを家業とし、夜を日に繼ぎてかせぎける程に、終に、正直のゆへに、富貴、日を追(おつ)て、いや、まさりける程に、田宅・牛馬にも事かけず、家門(かもん)ひろく、眷屬なども廣く、いにしへの貧にかへたる樂しみにほこりけるに、彼(か)の藤太夫は、それは引きかへ、近年、うち續き、不作して、水旱(すいかん)の二損、かはるがはるおこり、あるひは、病者、絶ゆる事なく、または、纔かの利欲にくれて、金銀をいれしも、損になりなどして、今は世の作業(なりはひ)をすべきにも元債(もとで)なく、今日をだに暮し難く覺えけるまゝに、

「よしや、『寶は身のさしあはせ』[やぶちゃん注:なまじっか、財宝を持っていると、それが原因で自分の身を滅ぼすことがあるという古い諺。]とかやいふ習(ならひ)もあるぞかし。田地を賣はらひても、助成となさばや。」

の心つきて、近邊の人にも語り、あるひは賴みなどして、かけめぐりけれども、常々の心ざしよからぬ者に思ひしりたれば、是れにさへ、取りあふ人なくて、心にもあらぬ月日をおくりけるに、折しもあれ、喜内が方に此よしを告ぐるものあり。

 喜内は、これを聞くより、ねがふ所のさいわいとよろこび、

「彼が、此まへ、吾にせし如く、このたび、又、我もはからひてん。」

と思案をめぐらし、例の庄屋につとめて事を噴く男をすかしかたらひよせ、藤太夫が未進を問ひけるに、八百匁ほどありといふにつきて、

「已前(いぜん)、我が賣りたる分の田地を買ひもどさせて給へ。」

と、我にあたられたる通りに方便をいひきかせけるまゝ、庄屋の男もまた、眼前の利にまよひて、いとやすく、請合(うけあ)ひぬ。

 さて、彼の田地を買ふ時も、藤太夫、心には、猶、あかぬ事におもひしかども、漸(やうやう)買はんといふ人のあるをさいわいの事にして、金二拾兩に定め、

「證文せん。」

とて、呼びよせける時、喜内を買主(かひぬし)なる事を知りて驚嘆しけり。

 既に銀を渡さんとするにおよびて、例の未進を乞はれ、終に八百匁を引きて請取(うけと)りける無念さ。

 喜内、また、酒を持ち來たり、藤太夫ばかりに、一、二盃、しゐて、さきへ返へしけるにぞ。

 つくづくと、おもひ合はせて、

「我がせし仇を、むくはるゝ也(なり)。」

とは思ひしりながら、身にしみて、恨めしく、憎くて、

「是非に、今宵は喜内が家を燒き、せめて、財産を失はせてなりとも、我がむねをはらすべし。」

と、一筋におもひこみ、是れも火をつゝみ、燒きぐさをこしらへ、喜内が軒にたゝずみて、時分をうかゞひ、内のやうすを聞きゐたるに、彼が家、また、

「産の氣(け)、つきたり。」

とて、人、音しげく行きかよひけるを見て、藤太夫も、かへつて、慈悲の心おこり、怨(うらみ)を隱して、火の具を溝になげ入(いれ)て歸りぬ。

 夜あけて後(のち)、喜内、おもてに出づる事ありて、是れを見つけ大きに驚き、彼の火の器をとりあげ、いろいろと引きさばきける中(なか)に、藤太夫が、昨日、書きたる銀(かね)の請取(うけと)りの反故(ほうご)を見出し、喜内、心におもひけるは、

『因果といふもの、生々(しやうじやう)のみにあらず。我、彼(か)の田を彼(かれ)に買はれし時のうらみを報ぜんとて、火をたくはへし事、人こそしらね、心にありて、すゝみ行きぬ。今、また、彼(かれ)、この田を我に買はれて憤りけるも斷(ことわり)なり。我、その夜(よ)、彼(かれ)が家を燒きたらましかば、我が家、また、彼に燒かるべし。かしこくぞ、其時、惡念はひるがへしける。此隱德、今にありて、陽報(ようほう)のよろこびとは、なりけるぞ。』

と、おもひめぐらしけるに、猶、あきたらずやありけん、終に銀拾枚を包みて藤太夫が方に行き、そのかみ、我が田を賣りけるいにしへより、きのふ、彼がたくみけるありさま、つぶつぶとかたり、

「今はたがひに恨を晴(はら)し、此因果におそれて、人にも善をすゝめんにはしかじ。あなかしこ。今日よりして、我をつらしと、なおぼしそ。我も、ふた心なきしるしには、そのころ、生まれつる君が子は男子なり、手を折りてかぞふるに、ことしは十才ならんとおぼゆ。我が子は今宵、むまれて、然も女子(じよし)なり。年のほども似氣(にげ)なからじ。是れをいひなづけて、一族のよしみをむすび侍らんとて參りし。」

とかたるにぞ、藤太夫も、心ざしを感じ、前非を悔ひて、たがひに、盃、くみかはし、一門のちなみをなしけるより、たがひに富貴の身となりて、今に榮花も盡せずぞありける。

[やぶちゃん注:「因果といふもの、生々(しやうじやう)のみにあらず」「生々」(しょうじょう)は「生まれては死に、死んでまた生まれることを、永遠に繰り返すこと」の意や、副詞的に用いて「いつまでも・長い間」の意であるから、ここは――これこそ「因果の悪循環を絶て」との仏の有り難い思し召しなのだ、だから恨み恨まれるという私(喜内)や彼(藤太夫)の因果のそれは永遠に続くものでもなければ、繰り返されるものでもないのだ、そのために私と彼は手を取り合って敢然とそれを絶って生きねばならぬ!――という喜内の決意(ある意味での悟達)を謂っていると私は読む。なお、本話は、やはり、陶宗儀の随筆「輟耕録」の巻十三の「釋怨結姻」の翻案である。

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 第一の選集『新俳句』

 

   明治三十一年

 

     第一の選集『新俳句』

 

 明治三十一年(三十二歳)[やぶちゃん注:一八九八年。]の初は、大体三十年の継続と見るべき状態であったが、この間においていささか単調を破った事柄が二つある。一つは一月十五日に『蕪村句集』輪講が企てられたことで、季節の関係上冬の部から著手された。輪講は月一回の割で続行され、「輪講摘録」の題下に『ホトトギス』に連載されることになった。己に「俳人蕪村」において総括的に蕪村の輪郭を描いた居士が、今度は蕪村の一句一句について子細に吟味してかかろうとしたのである。第一回は居士と碧、虚両氏のみであったが、第二回には鳴雪翁も加っている。居士がこの一月『日本』に掲げた「間人間話」は、劈頭に鳴雪翁が俗務多端のため俳壇を退く事を記し、「侃々(かんかん)も諤々(がくがく)も聞かず冬籠」の句を以てその一節を結んである。前年春俳事抛擲(ほうてき)の結果、『ホトトギス』の選句をすら止めるに至った翁が、三十一年に入って再び俳壇に近づくようになった最初の動機は、『蕪村句集』輪講に与(あずか)るあたりにあるのではないかと思われる。

 もう一つは『新俳句』が刊行の運びになったことである。居士一派の句を選んで一冊にしようということは、二十五年中に新海非風(にいみひふう)の手によって計画され、「案山子集」という名までついていたらしいが、遂に出版するに至らなかった。その後碧梧桐氏あたりに編纂の企があったのではないかと思われることは、二十八年八月須磨から同氏に与えた手紙に「諸氏句集の事家集となすと類題となすと全く其目的を異にせり。各それぞれの面白みあればいづれをよしとも定め難く候。小生はいづれにてもよろしく候。家集とても四季に區別するは勿論四季中にても可成[やぶちゃん注:「なるべく」。]類題にせざれば殆んど興味無之候。いづれにしても一月や二月の日子(につし)をそれきりに費し判紙の數十帖と筆の十本位を用意しなければ出來ぬ事と信じ候」という注意があり、追かけて「選集の事に付きては何か御考違(おかんがへちが)ひあらずやと存候。俳話と共に句集が出版せられたりとて此度の撰集に何らの影響もなかるべく候」と申送ってもいる。「俳話と共に句集が出版」というのは、『獺祭書屋俳話』の附録に収めた句を指すのではないかと思う。この時もまた形を成すに至らなかったのである。

[やぶちゃん注:「新海非風」(明治三(一八七〇)年~明治三四(一九〇一)年)は愛媛県出身の俳人。東京で正岡子規と知り合い、作句を始めた。後、結核のため、陸軍士官学校を退学、各種の職業を転々とした。高浜虚子の「俳諧師」の五十嵐十風は彼がモデルと言われる。既出既注であるが、時間が経っているので再掲した。

「日子」日数。]

 

 然るに三十年になって、句集編纂の事は居士の身辺でなしに、上原三川(さんせん)、直野碧玲瓏(なおの へきれいろう)その他の人々の間に起り、分類された句稿が居士の手許に届けられた。あたかも居士の病苦の最も甚しい際であったので、碧、虚両氏に選択せしめる考らしかったが、思うように進行せず、また居士のところへ逆戻りすることになった。秋来元気を回復した居士は、なるべく削る方針を以てこれに臨み、一度選に入れた自分の句なども、意に満たぬものは除去して他の句に換えたりした末、十月中には大体の業を卒(お)えた。この稿本を印刷に廻したのが、現在伝わっている『新俳句』なのである。

[やぶちゃん注:「上原三川」(慶応二(一八六六)年~明治四〇(一九〇七)年)は教師で俳人。信濃出身で、本姓は萩原、本名は良三郎。長野師範学校卒。結核で療養中、この前々年の明治二九(一八九六)年から正岡子規に師事し、明治三十一年にはここに出る直野碧玲瓏とともに『日本』派の最初の類題句集「新俳句」を編集(子規校閲)し、刊行した。

「直野碧玲瓏」(明治八(一八七五)年~明治三八(一九〇五)年)ジャーナリストで俳人。石川県出身で、旧姓は越野、本名は了之晋。北国(ほっこく)新聞社等を経て、東京の国民新聞社に勤め、子規に師事した。]

 

 『新俳句』が民友社から刊行されたのは、この年の三月であったが、居士がこの事のために序を草したのは一月中であった。この事は鳴雪翁の題句に「百年にして天明二百年にして明治の初日影」とある通り、元禄、天明に対し一新時期を劃する明治俳壇初頭の産物として、永く後昆(こうこん)[やぶちゃん注:後(のち)の世の人。後裔。「後」も「昆」も「後(のち)」の意。]に伝うべきものである。居士はこの編纂について最初から表面に立たず、その序中についても「三川、碧玲瀧諸子こゝに觀るあり」とのみいい、自ら取捨選択に任じたことには一言も触れていないが、明治の俳句なるものが世に出たのは明治二十五年以後であるとし、次のような見解を述べている。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。原典「子規居士」で校訂した。]

 

明治二十五年以後は漸く元祿の高古[やぶちゃん注:気高く古風なこと。]を模し文化の敏贍(びんせん)[やぶちゃん注:敏捷で知識が多いこと。]を學ぶ。之をすら世人は以て奇を好み新を衒(げん)す[やぶちゃん注:衒(てら)う。見せびらかす。ひけらかす。]と爲せり。其後蕉村を崇(たつと)み天明を宗(むね)とするに及んで、文人學者は始めて俳句の存在を認めしが如く、可否の聲諸處に起る。可否の聲忽ち消えて俳句は其価値の幾分を世に知られたる時、元祿にもあらず、天明にもあらず、文化にもあらず、固より天保の俗調にもあらざる明治の特色は次第に現れ來れるを見る。此特色たる天明に似て天明より精細に、蕪村に似て蕪村よりも變化多し。芭蕉、其角の夢にも見ざりし所、蒼虬(そうきう)、梅室(ばいしつ)輩の到底解する能はざる所に屬す。しかも此特色は或一部に起りて漸次に各地方に傳播せんとする者、此の種の句を「新俳句」に求むるも多く得難かるべし。「新俳句」は主として模倣時代の句を集めたるにはあらずやと思はる。然れども模倣は樣に依りて胡蘆(ころ)を描く[やぶちゃん注:「樣(やう)に依(よ)りて胡蘆(ころ)を描(ゑが)く」で故事成句。『旧来の様式に従って「胡蘆」=瓢簞(ひょうたん)の絵を描く』の意で、先例に従っているだけで創意工夫が全くないことを批判する譬え。宋の魏泰の随筆「東軒筆録」に拠るもの。]の謂(いひ)に非ず、模倣の中自ら其時代の發現しあるを疑はざるなり。但特色は日を逐ふて多きを加ふ。昨(きのふ)集むる所の「新俳句」は刊行に際する今、已に其幾何(いくばく)か幼稚なるを感ず。刊行し了(を)へたる明日は果して如何にか感ぜらるべき。

 

 『新俳句』は明治二十五年より三十年にわたる間の収獲である。「刊行に際する今、已に其幾何か幼稚なるを感ず」というのは、自ら俳壇変遷の中に立つ居士の率直な感想でなければならぬ。居士は更に語を転じて、「明治の俳句といふ、或は明治年間の俳句を盡く含むとなす者もあらん。されど余の所謂(いはゆる)明治の俳句は彼[やぶちゃん注:「かの

。]俗宗匠輩、月並者流の製作を含まず。蓋し彼等の製作の拙なるを以ての故に之を斥くるのみにあらず、彼等は不當の點を附して糊口の助となすの目的を以て之を作り、景物懸賞品を得るための器用として之を用ふる者、其目的已に文學以外に在り。文學以外に在る者固より俳句と稱すべくもあらざればなり。況んや其差霄壤月鼈(しやうじやうげつべつ)[やぶちゃん注:「天と地及び月と鼈(亀のスッポン)」で、存在自体だけでも「致命的な隔たり」があることを指す。]のみならざるをや」と述べ、自己の立脚地を明にした。旧派俳人の共に歯(し)するに足らざることは、従来居士によってしばしば論ぜられたところであるが、今『新俳句』の刊行に当り、改めてこれを繰返す必要を感じたのであろう。

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十年 「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」と柿の歌 / 明治三十年~了

 

 

     「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」と柿の歌

 

 

 

 秋になってからの居士は、「俳人蕪村」の稿を継いで、遂にこれを完成したのをはじめ、あるいは大野洒竹(しゃちく)氏の「与謝蕪村」を評し、あるいは「若菜集の詩と画」を論ずるなど、筆硯頗る多忙であった。

 

[やぶちゃん注:「俳人蕪村」は既に本文でも少し語られた通り、『日本』明治三〇(一八九七)年四月十三日から連載を始めたが、五月中は病気のために中絶し、その後も「諮問」などの連載で滞っていたものが、再度、書き継がれ始めて、十一月二十九日に完結した。「青空文庫」で新字新仮名版(昭和四二(一九六七)年中央公論社刊「日本の文学 15 石川啄木・正岡子規・高浜虚子」底本)と新字旧仮名版(昭和五八(一九八三)年(改版二刷)岩波文庫岩波書店刊「俳諧大要」底本)が読めるが、底本の相違から後者には「緣語及び譬喩」の項にある、

 

 つかみ取て心の闇の螢哉(かな)

 

 半日の閑を榎(えのき)蟬の聲

 

 又噓(うそ)を月夜に釜(かま)の時雨(しぐれ)哉(かな)

 

の三句が載らない、と後者の「図書カード」にはある。

 

『大野洒竹(しゃちく)氏の「与謝蕪村」』大野洒竹(明治五(一八七二)年~大正二(一九一三)年)は医師(開業医)で俳人。熊本県出身、本名は豊太。東京帝国大学医学部卒。明治二七(一八九四)年に佐々醒雪・笹川臨風らと筑波会を結成、明治二八(一八九五)年には尾崎紅葉・巌谷小波・森無黄・角田竹冷らとともに、正岡子規と並ぶ新派の「秋声会」の創設に関わった。明治三〇(一八九七)年には森鷗外に先駆けて「ファウスト」の部分訳を公表してもいる。参照したウィキの「大野洒竹」によれば、『古俳諧を研究し、古俳書の収集にも熱心であり、「天下の俳書の七分は我が手に帰せり」と誇ったという』。約四千冊に及んだ『蔵書は』現在、『東京大学総合図書館の所蔵となって』おり、『洒竹のコレクションは同図書館の竹冷の蔵書とあわせ』、『「洒竹・竹冷文庫」として、「柿衞文庫」、天理大学附属天理図書館「綿屋文庫」とともに三大俳諧コレクションと評価されている』。『妻は岸田吟香の娘(劉生の姉)』、『従兄に戸川秋骨がいる』とある。「与謝蕪村」(「與謝蕪村」)は明治二九(一九〇二)年発表で、翌明治三十年九月に春陽堂から刊行された、与謝蕪村の評伝。国立国会図書館デジタルコレクションので全文が読める。]

 

 

 

 『日本人』にも八カ月ぶりで新体詩「微笑」を掲げた。日記を見ると頻に俳句分類にも従事はしているようだから、そういう方面においては全く発病以前に復したものと思われるが、更に特筆すべきはこの間において小説に著(ちゃくしゅ)手していることである。

 

[やぶちゃん注:「微笑」国立国会図書館デジタルコレクションのアルス子規全集で読める。]

 

 

 

 九月十五日漱石氏宛の手紙に「近來たのまれて小説とやらをものし居候」とあり、日記を見ると九月十日から「小説を草す」ということが頻に出て来る。これは誰に頼まれたのか明でない。小説は十月十七日に至り脱稿したらしく、同二十日から浄書にかかっており、十月三十日に及んで

 

  碧梧桐虛子來る

 

  晩餐、小説會を開く

 

という記事が見える。この小説が「曼珠沙華」であるが、小説会のために草したのか、誰かの依頼で書いたのを、小説会で読んだものか、その辺はよくわからない。

 

[やぶちゃん注:「曼珠沙華」驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で、正岡子規自筆原稿(書名「る」)視認出来全コマのダウン・ロードを強くお薦めする。]

 

 

 

 「曼珠沙華」の大きな特色は第一に言文一致を用いた点にある。この以前の居士は学生時代に興味半分で書いたものの外、殆ど言文一致の文章を書いていない。この時思いきって言文一致を採用したについては、何か理由があったのかも知れぬが、地の文章に言文一致を用い、篇中の会話に松山言葉を用いたのは、居士としては最初の試であった。従来居士の小説に用いられた舞台は、「花枕」一篇を除き、何らかの意味で居士に交渉を持った土地でないこともなかったが、松山の地が取入れられたのは「曼珠沙華」を以て囁矢とする。全体は空想趣味に属するものだけれども、三並(みなみ)良氏の書かれたものによると、「曼珠沙華」の主人公になっている人物も、その大邸宅も実際にあったらしいし、こまかい写生的な場面も随所にある。「曼珠沙華」がこれまでの居士の小説と異るのは、大体以上の諸点であるが、当時は遂にどこにも発表されずにしまった。『ホトトギス』にその一節を抜萃して載せたのは、居士の歿後大分たってからのように記憶する。

 

[やぶちゃん注:「花枕」は既出既注。「青空文庫」のこちらで読める(但し、新字)。

 

「三並(みなみ)良」(はじめ 慶応元(一八六五)年~昭和一五(一九四〇)年)は牧師で、明治二十二年以前 最初の詩「聞子規」に既出既注。子規と同じ松山出身で、子規の母の従弟でもあったことから、松山中学時代の子規が「五友」の一人に数えるなど、交流があった。]

 

 

 

 十月十日、京都から帰って来た桂湖村(かつらこそん)氏が、愚庵の庭になった「つりがね」という柿と松蕈(まつたけ)とを居士の病淋に齎(もたら)した。その日の日記には「愚庵の柿つりがねといへるをもらひて」と前書して柿の句が記されているが、居士はこの柿について愚庵和尚に何もいってやらなかった。毎日小説執筆中であったため、取紛れて手紙を書く暇がなかったのかも知れぬ。居士が愚庵和尚へ礼状をしたためたのは十月二十八日の夜で、その翌朝湖村氏の来訪を受けた。湖村民のもとに愚庵和尚の寄せ来った端書には歌が六首記されており、その最後の一首に「正岡はまさきくてあるか柹の實のあまきともいはずしぶきともいはず」とあったのは、和尚が湖村氏に柿を託して以来、杳然として消息なきを訝(いぶか)ったのである。居士はこの歌を読んで、直に追かけて次の手紙を和尚に贈った。

 

[やぶちゃん注:「桂湖村」(明治元(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は後の中国文学者。ウィキの「桂湖村によれば、『現在の新潟県新潟市新津の出身』で、『湖村は故郷近くの福島潟に由来する号で』あり、『本名は五十郎』。『生家は国学や漢学を修めた学者の家系で、自身も幼少から漢籍等に触れて育った』。『東京専門学校専修英語科(現・早稲田大学)に進学し』、明治二五(一八九二)年に卒業』、『日本新聞に客員社友として属したのち、中国に渡航して陶芸や書画について学』んだ。『帰国後は東洋大学・國學院大學で教壇に立ち、その後』、『母校の早稲田大学教授に就任した』明治三八(一九〇五)年に「漢籍解題」を『明治書院から刊行し』ている。

 

「愚庵」京都清水坂の僧天田愚庵(あまだぐあん)。既出既注

 

 以下は底本では書簡本文が二字下げで、追記の短歌と追伸は四字下げであるが、ブラウザの不具合を考えて総て上げた。前後を一行空けた。表記は「子規居士」原本で校訂した。太字部分は底本では傍点「○」。]

 

 

 

昨夜手紙認(したた)めをはり候處今朝湖村氏來訪、御端書拜誦(はいしやう)歌いづれもおもしろく拜誦仕候。失禮ながら此頃の御和歌春頃のにくらべて一きは目たちて覺え申候。おのれもうらやましくて何をかなと思ひ候へど言葉知らねばすべもなし。さればとて此まゝ默止(もくし)て過んも中々に心なきわざなめり。俳諧歌とでも狂歌とでもいふべきもの二つ三つ出放題にうなり出(いだ)し候。御笑ひ草ともなりなんにはうれしかるべく           あなかしこ

 

  十月二十九日      つねのり

 

 愚庵禪師 御もと

 

みほとけにそなへし柹のあまりつらん我にぞたびし十あまり五つ

 

柹の實のあまきもありぬかきのみの澁きもありぬしぶきぞうまき

 

籠にもりて柿おくり來ぬふるさとの高尾の山は紅葉そめけん

 

世の人はさかしらをすと酒のみぬあれは柹くひて猿にかも似る

 

おろかちふ庵(いほ)のあるじかあれにたびし柹のうまさのわすらえなくに

 

あまりうまさに文書くことぞわすれつる心あるごとな思ひ吾(わが)師

 

 發句よみの狂歌いかゞ見給ふらむ

 

 

 

これらの歌は全体の調子からいって、むしろ居士晩年の歌に接近している観がある。日記には第一首の「あまりつらん」を「のこれるを」に改め、第三首の「高尾の山は紅葉そめけん」を「高尾の紅葉色づきにけん」と改めてあるが、これは一度愚庵和尚に贈った後、更に改刪(かいさん)を加えたものであろう。「柹の實のあまきもありぬかきのみの澁きもありぬ」というのが、「柹の實のあまきともいはずしぶきともいはず」に酬(むく)いたものであることは贅(ぜい)するまでもあるまい。この柿の歌は十月十日の日記にある「つりがねの蔕(へた)のところが澁かりき」「澁柹や高尾の紅葉猶早し」「柹熟す愚庵に猿も弟子もなし」「御佛に供へあまりの柹十五」などの句を参照すべきものであるが、俳句を歌に移した――居士自身謙抑(けんよく)の辞を用いている「發句よみの狂歌」という程度でなしに、渾然と出来上っているのは注目に催する。二十九年から三十年へかけて、居士は一首の歌も『日本』に掲げておらぬにかかわらず、突としてここに一連の歌が現れるのは、単に愚庵和尚の歌から刺激を受けたばかりではない。やがて歌に向うべきことを、予告しているもののように思われる。

 

[やぶちゃん注:「改刪」詩句や文章の字句を削ったり、直したりすること。改削(かいさく)に同じい。

 

「謙抑」遜(へりくだ)って控えめにすること。]

 

 

 

 十二月二十四日、はじめて蕪村忌を子規庵に催した。旧派の俳人によって営まれる芭蕉忌に対し、新に蕪村忌を修することをはじめたのは、その旗幟(きし)を明(あきらか)にしたもので、水落露石(みぞおちろせき)氏が遠く大阪から天王寺蕪(かぶら)を寄せ、庭前に写真撮影を試みるというようなことも、蕪村忌の行事として、その後も年々繰返されることになった。この日会する者二十人、当日の記事は居士によって翌年一月の『ホトトギス』に発表された。『ホトトギス』が南海に生れ、「俳人蕉村」が『日本』に連載される年に当って、蕪村忌が新に行事となるのは極めて当然の成行であった。

 

[やぶちゃん注:与謝蕪村は享保元(一七一六)年生まれで、旧暦天明三年十二月二十五日(グレゴリオ暦一七八四年一月十七日)に亡くなっている(享年六十九)。年忌法事は命日より前倒しするのは問題ない。よく、命日より後にそれするのを忌むとするが、これには仏教的な根拠はないと私は思う(恐らくは世間体が悪いという現世的な遺族の方の理由によると思われる)。

 

「水落露石」示した通り、底本は「みぞおち」とルビするが、諸事典類でもこれは「みずおち」が正しい。水落露石(みずおちろせき 明治五(一八七二)年~大正八(一九一九)年)は大阪府出身の俳人。ウィキの「水落露石によれば、『本名は義一、のちに庄兵衛』。『大阪府安土町(現在の大阪市中央区、いわゆる船場にあたる)の裕福な商家に生まれる。府立大阪商業学校(のちの大阪商科大学、現在の大阪市立大学)を経て、泊園書院で藤沢南岳に漢学を学ぶ。その頃から俳句を始め、日本派の正岡子規に師事』し、『東京の子規庵句会、松山の松風会に継いで』三『番目となる日本派の拠点、京阪満月会を興す。京阪満月会は寒川鼠骨、中川四明ら京都や大阪の日本派俳人を中心に拠った。しかし』、『わずか』一『年で露石は』、『地元の大阪で京阪満月会とは別に大阪満月会を興し、それに大阪の俳人たち、松瀬青々、野田別天楼、青木月斗らも続いた。以降は大阪俳壇の重鎮として子規を助け、与謝蕪村の研究家としても、蒐集した膨大な蕪村の原稿を』「蕪村遺稿」『(表紙は富岡鉄斎)として出版した。豊富な資金力から、子規亡き後を引き継いだ高浜虚子の『ホトトギス(雑誌)』発行に金銭的援助をし続けた。また』、『新傾向俳句にも傾倒し、同じ子規門の河東碧梧桐が主宰した『海紅』の同人と』もなっている。

 

「天王寺蕪」双子葉植物綱フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種カブ(アジア系)品種テンノウジカブラ Brassica rapa var. glabraウィキの「天王寺蕪によれば、『なにわの伝統野菜(根菜)の一つ』で、『大阪府大阪市天王寺付近が発祥地だといわれている』。『「和漢三才図会」や「摂津名所図会大成」などにも収録されており、徳川時代から明治末期までが栽培の全盛だったが、耐病性の問題から大正末にはほとんど尖りカブに置き換わったとされる』。『多肉根(主根と胚軸部が肥大した根。カブの場合は胚軸部である)は扁平で、甘味が強』く、『肉質は緻密である』。『また、多肉根が地面から浮き上がったように成長することから』「浮き蕪」とも『呼称される。また、葉には、丸葉と切葉の二系統があり、系京いずれも上記の特徴をしている。本来は細身の切れ葉であったとされ、葉の肉質も柔らかい』。二『月中旬から』九『月中旬にかけて』、『ハウスやトンネル被覆で栽培され、播種後』三十『日程度で小カブとして収穫される』。『成株としての収穫期は』十『月下旬から』一『月半ば』までである、とある。]

 

 

森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「かう」

 

かう

 

Kaunotori

 

□翻刻1(読み仮名を省略、一行字数を一致させた。【 】は割注)

かう 【一名かうのとり】

 鸛

 味甘酸小毒あり味佳腫病を發

 す

 

□翻刻2(読みを丸括弧で添え(〈 〉は私が推定で歴史的仮名遣で添えた部分)、句読点や記号を附して読み易く整序したもの)

「かう」 【一名、「かうのとり」。】

 「鸛(くわん)」。

 味(あぢは)ひ、甘(あま)く、酸(さく)、小毒あり。味、佳(よ)からず。腫病(はれやまひ)を發(はつ)す。

 

[やぶちゃん注:底本及び画像(上下トリミング)は国立国会図書館デジタルコレクションの「華鳥譜」を用いた。解説の名は問題なく、また、図は後肢が赤くない点に不審は残るものの、拡大して観察してみると、嘴の基部及び眼の周囲(コウノトリでは前者は特徴の一つで、眼周も皮膚が赤く露出している)に微かに朱が点(う)たれているのが確認出来るところから、

コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana

と同定してよい。詳しくは私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸛(こう)〔コウノトリ〕の私の注を読まれたいが、ウィキの「コウノトリによれば、『明治時代以前は樹上にとまったり営巣しないタンチョウ』(ツル目ツル科ツル属タンチョウ Grus japonensis)『と混同され、「松上の鶴」など絵画のモチーフになっていたとされる』。『日本国内では鶴とつく地名があるが、実際は冬鳥として飛来するタンチョウなどのツル科』(Gruidae)『の構成種ではなく』、『本種と混同されていたと考えられている。松の樹上に巣を作る本種(ツル科はアフリカに分布するカンムリヅル』(ツル科カンムリヅル亜科カンムリヅル属カンムリヅル Balearica pavonina)『を除き』、『樹上にとまらない)は瑞鳥としてツル類と混同され、絵画や装飾のモチーフとして昭和初期まで用いられていた』。『日本では元々は広域に分布して』おり、十九『世紀には江戸市中でも繁殖していた記録がある』。『古文書から葛西の樹上・青山や蔵前の寺院の屋根で営巣していたとする記録があ』り、野生動物を扱うドイツ人商人で、ヨーロッパ各地の動物園やサーカスなどに動物を提供していたカール・ハーゲンベック(Carl Hagenbeck 一八四四年~一九一三年:柵の無い放養式展示の近代的動物園を作ったことで知られる)も『駿府城の樹上や、横浜市で飛来していたのを目撃したと記録している』これは小宮輝之「ニホンコウノトリ 衰退と飼育の歴史」『世界の動物 分類と飼育8(コウノトリ目・フラミンゴ目)』(黒田長久・森岡弘之監修/東京動物園協会/一九八五年・五十九~六十四頁からの引用と注があるのだが、気になって調べた限りでは、ハーゲンベック本人が明治初期に来日した記録を確認出来なかった。識者の御教授を乞う)。しかし、『明治時代に乱獲により激減し』、『日本での繁殖個体群は兵庫県但馬地区と福井県若狭地区の個体群を除いて絶滅した』。『但馬地区(豊岡市周辺)では出石藩であった頃に藩主により本種が霊鳥として保護されていたことから、保護意識があり絶滅をまぬがれたとされている』。明治四一(一九〇八)年に『禁猟とされ』、大正一〇(一九二一)年には『生息地が天然記念物に指定された』。昭和五(一九三〇)年の『但馬地区での生息数は最大で』約』百『羽と推定されている』が、『第二次世界大戦中に営巣地であった松林が松根油を採取するために伐採されたことや、食糧増産のための水田を荒らす害鳥として駆除されたことにより豊岡市周辺でも生息数が激減し』、『太平洋戦争前後の食料不足の中で食用にされたこと』などもあった。戦後も高度経済成長期の水質・土壌汚染によって個体数減少に歯止めがかからず、昭和四六(一九七一)年、『豊岡市で野生個体を捕獲したことで、日本産の個体群は野生絶滅した』。その後、中国やロシアから譲り受けた個体群の人工繁殖に成功、二〇一二年現在では『再導入された個体数は』約六十羽『に達し』、『大陸から飛来し』、『周年生息するようになった個体と繁殖させる試みも進められている』とある(下線太字やぶちゃん)。

「酸(さく)」以前にぎ」で注した漢方の「五味」の一つ。「五臓」の「肝」に対応し、筋肉等を引き締める収斂効果を持つ。

「小毒あり」といっても、後述される、恐らくはアレルギー性の「腫病(はれやまひ)」(蕁麻疹)、或いは、浮腫(むくみ)を発症させることがあることを指している。]

2018/04/24

森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「へらさぎ」

 

へらさき

 

Herasagi

 

□翻刻1(読み仮名を省略、一行字数を一致させた。【 】は割注)

へらさぎ

 漫畫【范淶典籍便覧】

 味鷺同じうして稍劣れり

 

□翻刻2(読みを丸括弧で添え(〈 〉は私が推定で歴史的仮名遣で添えた部分)、句読点や記号を附して読み易く整序したもの)

「へらさぎ」

 「漫畫(まんぐわ)」【范淶〈はんらい〉「典籍便覧(てんせきべんらん)」。】

 味(あぢは)ひ、鷺(さぎ)に同(おな)じうして、稍(やゝ)劣(おと)れり。

 

[やぶちゃん注:底本及び画像(上下トリミング)は国立国会図書館デジタルコレクションの「華鳥譜」を用いた。

ペリカン目トキ科ヘラサギ属ヘラサギ Platalea leucorodia

 

である。詳しくは私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 箆鷺(ヘラサギ)の私の注を見て戴きたいが、さても、「和漢三才圖會」の良安センセー! ほんまの箆鷺ちゃ、こうでなけんな、あきまへんで!

『范淶〈はんらい〉「典籍便覧(てんせきべんらん)」』明の范泓(はんおう)の纂輯にして范淶の補注になる類書(百科事典)と思われる。]

森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「あをさぎ」

 

あをさき

 

Awosagi

 

□翻刻1(読み仮名を省略、一行字数を一致させた。【 】は割注)

あをさぎ

 蒼鷺【崔禹錫食經】

 性味功能鷺同し但味最甘美汗を止め小便

 を利するの効あり

 

□翻刻2(読みを丸括弧で添え(〈 〉は私が推定で歴史的仮名遣で添えた部分)、句読点や記号を附して読み易く整序したもの)

「あをさぎ」

 「蒼鷺(さうろ)」【崔禹錫〈さいうしやく〉「食經〈(しよくけい)〉」。】

 性(せい)・味(み)・功能(こうのう)鷺(さぎ)に同(おな)じ。但(たゞ)、味(あぢは)ひ、最(もつと)も甘(あま)く美(うま)し。汗(あせ)を止(とゞ)め、小便(せうべん)を利(り)するの効(こう)あり。

 

[やぶちゃん注:底本及び画像(上下トリミング)は、ときと同じく、国立国会図書館デジタルコレクションの「華鳥譜」を用いた。

 私の好きな鳥綱ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi。分布・生態・習性等については、私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)を参照されたい。

『崔禹錫「食經」』唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食經」。「崔禹錫食経」は平安中期に源順(したごう)によって編せられた辞書「倭名類聚鈔」に多く引用されるが、現在は散佚して原本は存在しない。従って、無論、これもそうしたものの孫引きである。しかし、後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。

「鷺(さぎ)」先行する直前の「華鳥譜」「さぎ」を参照されたいが、されば、これは「鷺」というよりも「白鷺」を指すと読むべきであろう。]

森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「さぎ」

 

さき

 

Sagi

 

□翻刻1(読み仮名を省略、一行字数を一致させた。【 】は割注)

さぎ【一名しらさぎ】

 鷺

 味鹹平毒なし脾胃を補ひ痩をいやし氣を

 益す夏月は味最甘美

 

□翻刻2(読みを丸括弧で添え、句読点や記号を附して読み易く整序したもの)

「さぎ」【一名、「しらさぎ」。】

 「鷺(う)」

 味(あぢは)ひ、鹹(しほから)く平(たひら)に、毒(どく)なし。脾胃(ひゐ)を補(おぎな)ひ、痩(やせ)をいやし、氣(き)を益(ま)す。夏-月(なつ)は、味(あぢは)ひ、最(もつと)も甘-美(うまし)。

 

[やぶちゃん注:底本及び画像(上下左右をトリミング)は、ときに引き続き、国立国会図書館デジタルコレクションの「華鳥譜」を用いた。

 「さぎ」「鷺」は鳥綱新顎上目ペリカン目サギ科 Ardeidae の多様なサギ類の総称であるが、『一名、「しらさぎ」』とも記しているから、その場合は、サギ科 Ardeidae の中で、ほぼ全身が白いサギ類の総称通称、ということになって限定される。事実、絵もそうであるから、後者で採るのがよいと思われる。但し、「シラサギ」という和名の種がいるわけではないので注意が必要ではある。限定される種群は和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷺(総称としての「白鷺」)の私の注を見られたい。

「鹹(しほから)く平(たひら)に」「鹹」は漢方の「五味(ごみ)」(「酸」・「苦」・「甘」・「辛」・「鹹」)の一つで、通常は「カン」と音読みする。五味は単なる味覚だけに終わらず、例えば五臓では「腎」に対応し、また、物を和らげる属性を持つとされる。「平」は通常、音「ヘイ」で漢方の「五性」(温性・熱性・寒性・涼性・平性)の一つである。体を温めたり冷やしたりする属性を持たないものを指す。故にどんな状態や体質であっても、広く摂取可能な食物とも言えるものに当たる。

「脾胃(ひゐ)」漢方では広く胃腸、消化器系を指す語である。

「氣(き)」漢方で言う陽気。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 河鴉 (カワガラス)

Kawagarasu

かはからす 正字未詳

河鴉

 

△按河鴉大似鸜鵒而全體嘴脚共黑深山谷川有之飛

 不甚高而捷速難捕丹波及和州吉野山中多有之又

 以大鷭爲河鴉【河鴉黑燒有入小兒藥方用者宜選之】

 

 

かはがらす 正字、未だ詳かならず。

河鴉

 

△按ずるに、河鴉、大いさ、鸜鵒(ひよどり)に似て、全體・嘴・脚、共に黑く、深山・谷川、之れ、有り。飛ぶに、甚だは高からず、而〔れども〕、捷速〔(しようそく)にして〕捕へ難し。丹波及び和州の吉野の山中に多く、之れ有り。又、大鷭を以つて「河鴉」と〔も〕爲す【河鴉の黑燒、小兒の藥方に入るる〔こと〕有り。用ふる者は、宜しく之れを選ぶべし。】

 

[やぶちゃん注:鳥綱 Avesスズメ目Passeriformesカワガラス科 Cinclidaeカワガラス属カワガラス亜種カワガラス Cinclus pallasiii pallasiiウィキの「カワガラスによれば、『ヒマラヤ北部からインドシナ半島北部、中国、台湾、サハリン、日本、カムチャツカ半島に分布する』。『生息地では、基本的には留鳥である』。『日本では、北海道、本州、四国、九州、屋久島にかけて広く分布する』。『留鳥として、河川の上流から中流域にかけてと山地の渓流に生息する』。全長は二十一~二十三センチメートル、翼開長は約三十二センチメートル、体重六十五~九十グラム。『ヒヨドリやツグミより』、『少し小さい。全身が濃い茶色(チョコレート色』を呈するが、『光の具合により』、『赤茶色に見えることもある』『)の羽毛におおわれているのが名前の由来だが、カラスの仲間ではない』(下線やぶちゃん)。『尾羽は短めで黒味の強い焦茶色』。『目は茶色で、目を閉じると』、『白いまぶたが目立つ』。『雌雄同色』。『くちばしは黒く』、『足は灰色でがっちりしている。ミソサザイを大きくしたような体形で、短めの尾羽を立てた独特の姿勢をとる』。『幼鳥は喉から腹にかけて』、『白くて細かいうろこ模様がある』。『平地から亜高山帯の川の上流から中流の岩石の多い沢に生息する。冬期(積雪期)には下流側に生息場所を移動することもある。一年中、単独(非繁殖期は単独で行動している』『)もしくは番いで行動し群れを形成することはない。つがい形成期には、一夫二妻行動をとることがある』。『ピッピッと鳴きながら、速い羽ばたきで川面の上を一直線に飛翔する』。『頑丈な脚で岩をつかみ、水流の圧力を利用して川底を歩きながら水中で捕食を行う』。『尾羽を上下に動かしたり、風切羽を半開きにしたり、まばたきし白いまぶたを見せながら、石や流木の上で休息する』。『食性は動物食。水に潜ってカゲロウ、カワゲラなどの幼虫などの水生昆虫やカニなどの甲殻類、小魚を捕食する』。『水面上を泳ぎながら首を水中に入れて覗き込み、頻繁に潜水する』。『水中では水底を這うように歩き回って川底の餌を探し、『渓流の素潜り名人』と称されることがある』。『水にもぐっているときは羽毛の間に空気がふくまれるため、全身が銀色にみえる』。『ほかの鳥にくらべて繁殖を始めるのが早く』、十二『月頃からオスがさえずり』、『縄張り宣言を行う。暖地では』一『月頃から繁殖を始める』。『滝の裏の岩の隙間にコケや植物の根で半球状のドーム形の巣をつくる』。『岩の陰やコンクリート護岸の排水口、橋桁』『などの人工物にも巣を作ることもある』。『造巣の際の雌雄の貢献度は』、『ほぼ等しく分業は行われない』。『日本では』二~六月に、一腹で四、五個『の卵を産む。抱卵日数は』十五~十六日で、『雌が抱卵する育雛は雌雄共同で行う』。『雛は』二十一~二十三『日で巣立つ。雛は飛べない内から、水中を泳いだり歩くことができる』。『オスは』十二『月頃の繁殖期から「ピピピ チュシュ ピッピッ ピュュ」と鳴き始める』。『セグロセキレイ似た濁った声で「チーチージュピチリリ」と複雑に鳴く』。『地鳴きは「ピッ ピッ」』とある。鳴き声はで。

 

「鸜鵒(ひよどり)」鳥綱スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis。但し、中文名の「鸜鵒」はスズメ目ムクドリ科ハッカチョウ(八哥鳥)属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus で、しかもこのハッカチョウの方が真っ黒で、より「河鴉」的には見えるウィキの「ハッカチョウを参照されたい。現在、本邦にもいるが、人工移入の外来種である)のは、偶然か。なお、ハッカチョウはよく人語を真似ることで知られ、江戸時代にはこれを飼うことが流行り、「小九官鳥」とも呼ばれる。

「捷速」非常に素早いさま。

「和州」大和国。

『大鷭を以つて「河鴉」と〔も〕爲す』項「鷭」を参照。]

 

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷭 (バン) 附 志賀直哉「鷭」梗概

Ban

ばん  正字未詳

鷭【音煩】

 

△按鷭大如鳩黑色短尾尖嘴本紅末黄脚長而正青常

 鳴于田澤人養之亦能馴而伏卵其雛可愛夏月以鷭

 爲上饌味美

大鷭 形似鷭而大其嘴白而額下鼻上有白肉瘤脚色

 黑短於鷭脚而似鸊鷉掌其雌者小而無鼻瘤俗以大

 鷭爲河鴉【河鴉別有一種】

 

 

ばん  正字、未だ詳かならず。

鷭【音、「煩」。】

 

△按ずるに、鷭、大いさ、鳩のごとく、黑色。短き尾。尖りたる嘴の本〔(もと)〕は、紅〔にして〕、末は黄。脚、長くして正青。常に田澤に鳴く。人、之れを養ひても、亦、能く馴れ、卵を伏す。其の雛、愛すべし。夏月、鷭を以つて上饌と爲し、味、美なり。

大鷭〔(おほばん)〕 形、鷭に似て、大なり。其の嘴、白くして、額の下・鼻の上に白き肉の瘤(こぶ)有り。脚の色、黑く、鷭の脚より短くして、鸊鷉(にほどり)の掌に似たり。其の雌は小さく、鼻の瘤、無し。俗に「大鷭」を以つて「河鴉(かはがらす)」と爲す【「河鴉」は別に一種有り。】。

 

[やぶちゃん注:鳥綱 Avesツル目 Gruiformesクイナ科 Rallidae Gallinula属バン Gallinula chloropusウィキの「バン」より引く。体長は三十五センチメートルほどで、『ハトくらいの大きさ。翼開長は』五十二センチメートルほど。『成鳥のからだは黒い羽毛におおわれるが、背中の羽毛はいくらか』、『緑色をおびる。額にはくちばしが延長したような「額板」があり、繁殖期には額板とくちばしの根もとが赤くなる。足と足指は黄色くて長く、幼鳥はからだの羽毛がうすい褐色で、額板も小さい』。『オセアニアを除く全世界の熱帯、温帯に広く分布し、中央アジアや沿海州、アメリカ東部などで繁殖したものは冬には暖地へ移動する。日本では東日本では夏鳥で、西日本では留鳥となる』。『分布域が広く、地域ごとにいくつもの亜種に分かれている』。『湖沼、川、水田、湿地などに生息するが、公園の池などにも生息することがある。長い足を高く上げながら』、『水際や浮いた水草の上を歩き回る。泳ぐことも水にもぐることもできるが、足に水かきはなく、尾が高く上がった前のめりの姿勢で』、『ぎこちなく泳ぐ。食性は雑食性で、昆虫、甲殻類、植物の種などいろいろなものを食べる』。『「クルルッ」と大きな声で鳴き、この声から水田を外敵から守る「番」をしている鳥として名前の由来になったとされる』。『水辺に巣を作るが、ヒナは生まれてすぐに歩くことができ、巣立ちも早い。成鳥はひと夏に』二『回繁殖することもあるが』、二『度目の繁殖では』一『度目のヒナがヘルパーとして両親の手助けをすることもある』。『江戸時代の頃には「三鳥二魚」と呼ばれる』五『大珍味の』一『つに数えられていた。水戸藩から皇室に献上されていた郷土料理である。三鳥二魚とは、鳥=鶴(ツル)、雲雀(ヒバリ)、鷭(バン)、魚=鯛(タイ)、鮟鱇(アンコウ)のことである』とある。バンの鳴き声はこちらで聴ける。

 私は鷭というと、志賀直哉(明治一六(一八八三)年~昭和四六(一九七一)年十月二十一日)の小説「鷭」(大正一五(一九二六)年一月号『新潮』初出)を思い出す。志賀は無駄に長生きしたせいで(晩年は創作意欲が枯渇し、旧作を改悪するなど散々であった)、恐らく、私の生きているうちにはパブリック・ドメインにはならないから、少し要約して示そう。自身をモデルとした画家矢島柳堂(やじまりゅうどう)を主人公とした四篇の内の一つである。

 ある秋の日、柳堂が縁先から見える沼の景を眺めながら、猟犬を連れて猟師が行くのを見、鉄砲の音が二発続けて響いた後、「俺は鷭(ばん)が飼ひたいよ」と突然、妹のお種(たね)に言い出すシーンから始まる。彼は「中庭に綺麗な水を流し込んで、葭を植ゑ、其處へ一羽でも二羽でもいいが、鷭を放し飼ひにするのだ」と言う。

 彼が鷭を愛するのは、『前髮に赤い手絡(てがら)を結び、萌えだしの草の茎のやうな足で葭の間を馳け步く姿を見ると、その羞む[やぶちゃん注:「はにかむ」。]やうな樣子が彼には十四五の美しい小娘を見る気が』するからなのであるが、それはお種には言えない。それは柳堂が十数年前、京都に住んでいる頃、町家(ちょうか)の小娘に或るしくじりをしたことがあり、その当時の小娘と鷭の姿が重なるから、なのである。

 一週間後、彼の話をお種から聴いた隣りの婆さんが田に仕掛けた鰻の流し針で捕まえた鷭が、彼の元に齎される。

 しかし、鷭は少しも彼に馴れないのであった。『馴れないばかりでなく、餌(ゑ)を全く食はない。そして柳堂がゐないと逃げようとし、騷いでゐるが、彼の姿を見ると直ぐ』、鷭のために拵えた『箱の隅の方へ行つて、彼方(あつち)向きに凝つとしてしまふ』のであった。最初は隣りから貰った鮠(はや)や小鮒をやってみたが、食わない。気を揉んだ彼は、泥鰌を買って与えてみたり、目の前の沼から、蜻蛉の幼虫(ヤゴ)をわざわざ捕ってこさせてやってみたりするが、やはり一向に食わない。『柳堂はその鷭の』、いろいろな場面で柳堂のやることに対し、『驚く樣子や、隅へ行つて拗ねた[やぶちゃん注:「すねた」。]やうに凝つとしてゐる樣子が、猶且、十四五の小娘のそれのやうに思はれて仕方なかつた。彼は憶ひ出したくない事を憶ひ出し、不愉快にな』るのであった。

 ある朝、鷭を見に行くと、『鷭は箱の中で、橫倒しに長い足を延ばし、死んでゐた。そのまはりには鰌や蜻蛉の幼蟲が這ひ𢌞つてゐた。柳堂はいやな顏をして、暫くそれを見てゐた』。その日の晩のことである。茶の間で、弟子の今西が、彼に「鷭は非常にうまい鳥ださうですな。埋(うづ)めた話をしたら隣で大變惜しがつてゐましたよ」と言う。柳堂が応える。

   *

「いくらうまくたつて、飼ふ氣で飼つたものは食べないよ。俺は一朝、志を得ても、もう鷭を飼ふ事はやめだ」さう云つて柳堂はにが笑ひをしてゐた。

   *

と終わる。

 自分の日記帳に妻とセックスをした日には『肉』と御丁寧に記した異常な志賀直哉、小僧に寿司を奢って神様にされて喜ぶお目出度い彼の、それほど不快ではく、さほど厭味も感じない一篇として、私の記憶に残っている一篇なのである(引用は所持する岩波書店新書版全集の第三巻(昭和三〇(一九五五)年刊)を用いた)。

 

「卵を伏す」卵の上に伏して抱だく。

「其の雛、愛すべし」神奈川県大和市上草柳にある「泉の森」のこちらの写真を参照されたい。

「大鷭〔(おほばん)〕」鳥綱ツル目クイナ科オオバン属オオバン Fulica atra。詳しくはウィキの「オオバン」を参照されたいが、その写真を見て分かる通り、面相(嘴が白く、上嘴から額にかけても白い肉質(額板)で覆われている)がバンとは、全然、異なる

「鸊鷉(にほどり)」鳥綱カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ Tachybaptus ruficollis。但し、似ているのはオオバンの夏季(夏羽期)の後肢の黄緑色或いは緑青色の時であって、冬季(冬羽)では有意に白い灰緑色に変じてしまい、カイツブリの脚掌とは明らかに異なる

『「河鴉」は別に一種有り』オオバンの成鳥は個体差があるが、見た目、かなり黒いから、そう呼ばれるのも腑に落ちる。ここで別種とするのは、真正のスズメ目カワガラス科カワガラス属カワガラス Cinclus pallasii で、これは次項で挙がっているので詳述しない。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 蚊母鳥 (ヨタカ)

Bunnmotyou

ぶんもちやう 吐蚊鳥

       鷆【音田】

蚊母鳥

ウエン モウ ニヤ◦ウ

本綱蚊母鳥江東多之生池澤茄蘆中大如鷄黑色其聲

如人嘔吐毎吐出蚊一二升夫蚊乃惡水中蟲羽化所生

而江東有蚊母鳥塞北有蚊母樹嶺南有母草此三物

異類而同功也

蚊母鳥【郭璞曰似烏𪇰而大黃白襍文鳴如鴿聲異物志云吐蚊鳥大如青鷁大觜食魚物】時珍曰

有數説也豈各地之差異耶

△按二説所比𪇰鷁並鸕鷀之種類而與雞不甚遠者也

 此圖據三才圖會

ぶんもちやう 吐蚊鳥〔(とぶんてう)〕

       鷆〔(てん)〕【音、田。】

蚊母鳥

ウエン モウ ニヤ◦ウ

「本綱」、蚊母鳥、江東に多し。之れ、池澤の茄蘆〔(かろ)〕中に生ず。大いさ、鷄のごとく、黑色。其の聲、人の嘔吐するがごとし。毎〔(つね)〕に、蚊、一、二升ばかりを吐き出だす。夫〔(そ)〕れ、蚊は、惡水の中にある蟲、羽化して生〔ずる〕所にして、而〔(しか)〕も江東には「蚊母鳥」有り、塞北には「蚊母樹」有り、嶺南には「母草〔(ばうもさう)〕」有り。此の三物、異類〔にして〕而〔(しか)〕も功(わざ)を同じくすと。

蚊母鳥【郭璞〔(かくはく)〕曰く、『烏𪇰〔(うぼく)〕に似て、而も大きく、黃白〔の〕襍文〔(しふもん)ありて〕、鳴けば、鴿〔(いへばと)〕の聲のごとし』〔と〕。「異物志」に云はく、『吐蚊鳥〔(とぶんちやう)〕、大〔いさ〕、青鷁〔(せいげき)〕のごとく、大〔なる〕觜〔(くちばし)ありて〕、魚物〔(ぎよぶつ)〕を食ふ』〔と〕。】時珍、曰く、『數説有〔るも〕、豈に、各地の差〔(さんさ)〕、異〔(こと)〕なるや。』〔と〕。

△按ずるに、二説に比する所の、𪇰〔ぼく〕・鷁〔げき〕並〔びに〕鸕鷀(う)の種類にして、而も、雞〔(にはとり)〕と甚だ遠からざる者なり。此の圖、「三才圖會」に據る。

 

[やぶちゃん注:「蚊母鳥(ぶんもちやう)」(「ちやう」は原典のママ。歴史的仮名遣は「てう」が正しい)は、意外なことに、ヨタカ目ヨタカ科ヨーロッパヨタカ(夜鷹)亜科ヨタカ属ヨタカ Caprimulgus indicus の異名として今も生きている。これは、本種が夜行性の動物食で、昆虫などを、口を大きく開けながら飛翔して捕食することに由来するが、好んで蚊ばかりを食うわけではない。実は本項は既に和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚊(か) 附 蚊母鳥(ヨタカ?)で電子化注しているが、今回、再度、一から翻刻し直し、注も手を加えた。世界的分布はインドを中心に広域に及び、詳しくはウィキの「ヨタカを参照されたいが、それによれば、『種小名 indicusは「インドの」の意。夏季に中華人民共和国東部、ロシア南東部、朝鮮半島で繁殖し、冬季になるとインドネシアやフィリピン、インドシナ半島へ南下し越冬する。南アジアやマレー半島では周年生息する。日本では夏季に九州以北に繁殖のため飛来する(夏鳥)。伊豆諸島や南西諸島では渡りの途中に飛来する(旅鳥)。ヨタカ目では本種のみが日本に飛来する』。全長は二十九センチメートル、『全身の羽衣は暗褐色や褐色で、黒褐色や褐色、赤褐色、薄灰色などの複雑な斑紋が入る。この体色は樹上や落ち葉の上では保護色になると考えられている。翼は大型で先端は尖る』。『頭部は大型で扁平。虹彩は暗褐色。口は大型だが、嘴は小型で幅広い』。『オスの成鳥は頸部側面や初列風切、尾羽に白い斑紋が入る。メスの成鳥は頸部側面や初列風切に淡褐色の斑紋が入り、尾羽に明色の斑紋が入らない』。『平地から山地にかけての森林や草原などに生息する。渡りのときには日本海の離島でもよく観察され、海岸の岩場に止まっていることもある。夜行性で、昼間は樹上で枝に対して平行に止まり休む。抱卵中に危険を感じると』、『翼を広げて威嚇する。鳴き声は大きく単調な「キョキョキョキョ、キョキョキョキョ」。鳴き声からキュウリキザミやナマスタタキ、ナマスキザミなどの別名もある』。『繁殖形態は卵生。落ち葉の上などに』一回に一、二個の『卵を産む。主にメスが抱卵し、抱卵期間は』十七~十九日。『抱卵中や子育て中は敵に見つからないように、あまり動か』ず、『雛も目立たないように』、『あまり鳴かず』、『嘴を引っ張って餌をねだる』。『夜は雄が抱卵したり』、『子育てする』。『伐採跡に巣を作る』傾向があるらしい。『喉の袋に虫を溜めて雛にやる』。『雛は黄色だが』、『すぐに親鳥に似て』、『地面のような色になる』。『暑い時は口を開け喉の袋を膨らませる』。『開発による生息地の破壊などにより生息数は減少して』おり、「環境省レッドリスト」では準絶滅危惧(NT)に指定されている。『江戸時代、街頭で商売する私娼を夜鷹といった。宮沢賢治の童話』「よだかの星」(大正一〇(一九二一)年頃の執筆と推定され、賢治没年の翌年、昭和九(一九三四)年に発表された)では、『主人公のヨタカが』、『他の鳥たちから地味で醜い鳥と揶揄されている』。優れた宮澤賢治のサイト「森羅情報サービス」の星」をリンクさせておく。

 

「江東」長江の下流域の、特に南岸を指す。

「茄蘆」不詳。取り敢えず音読みしただけ。東洋文庫訳は『あかねぐさ』とルビするが、どうも従えない。これはキク亜綱アカネ目アカネ科アカネ属アカネ Rubia argyi の別称であろうが、池や沢の近くに生えるとする本文とはどうも相性が悪いように感しられるからである。識者の御教授を乞う。

「其の聲、人、嘔吐するがごとし」先に引用したウィキの「ヨタカ」によれば、『鳴き声は大きく単調な「キョキョキョキョ、キョキョキョキョ」。鳴き声からキュウリキザミやナマスタタキ、ナマスキザミなどの別名もある』とあるが、私の家の裏山ではよく鳴くが、人の嘔吐の音になどには似ていない。で聴ける。寧ろ、可愛い声であると私は感じる。

「塞北には蚊母樹有り、嶺南には母草〔ばうもさう)〕有り。此の三物、異類〔にして〕而〔(しか)〕も功(わざ)を同じくすと」「功(わざ)を同じくす」というのは、生きた蚊を多量に吐き出し、この世に送り込んでくるという習性・性質を指している。ここに東洋文庫では注を附して、「本草綱目」(虫部・化生類・蜚蝱)に『「嶺南には蚊子木がある。葉は冬青(もちのき)のようで實は枇杷に似ている。熟すと蚊が出てくる。塞北には蚊母草がある。葉中に血があり、虫が化して蚊となる」また、木は木葉の中から出てくる。飛んでよく物を囓(かじ)る。塞北にもいるが、嶺南には極めて多い、ともある』とする(原文は以下(後も引く)。「藏器曰嶺南有蚊子木葉如冬靑實如枇杷熟則蚊出塞北有蚊母草葉中有血蟲化而爲為蚊江東有蚊母鳥一名鷏每吐蚊一二升也」。やや訳と異なる)。しかし、『とはあぶのことである。良安の文はこれらを混同したものであろうか』としている。確かに、ここの部分はおかしい。なお、「冬青」の「もちのき」は本邦ではバラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属ソヨゴ Ilex pedunculosa を指す。但し、同属の中文名は冬青属 Ilex であるからよいか。

「烏𪇰〔(うぼく)〕」東洋文庫の注に、『水鳥で』(サギ類か)『に似ていて短頭。腹と翅は紫白。背は緑色、という』あるが、中文サイト「百度百科」の「を見ると、郭璞は(東洋文庫の注はそれを不完全に引いたものである)水鳥の一種でに似ているが、頸が短く、腹と翅は紫白、背の上が緑色であり、江東では「烏𪇰」と呼ぶ、とあって、これは「𪇰」と同じであることになっている。しかもそこには、古くは「鷺」と同じ、とあるのである。

「襍文」「(しふもん)」「襍」は「入り混じる」の意。東洋文庫訳では『雑文(いりまじったもよう)』と裏ワザのようなルビが振られてある。

「鴿〔(いへばと)〕」東洋文庫のルビに従った。普通に我々が「ハト」と呼んでいるハト目ハト科カワラバト属カワラバト Columba livia のこと。カワラバトとヨタカなら鳴き声は似ていないこともない

「異物志」「嶺南異物志」。東洋文庫書名注に、『一巻。漢の楊孚(ようふ)撰。清の伍元薇編輯『嶺南遺書』の中に収められている。嶺南地方の珍奇な生物などについて書いたもの』とある。

「青鷁〔(せいげき)〕」不詳。「鷁」は想像上の水鳥で、白い大形の鳥。風によく耐えて大空を飛ぶとされ、船首にその形を置いて飾りとしたことで知られるから、実在する鳥に比定すること自体が無理である。鷁の羽色の青みを帯びたもの、としか言いようがない。

「數説有〔るも〕、豈に、各地の差〔(さんさ)〕、異〔(こと〕な)るや」時珍が「本草綱目」で珍しく不満をぶつけている部分。東洋文庫訳では『数説あるが、どうして各地でこのような差異があり得ようか、と李時珍』『は言っている』となっている。

「鸕鷀〔(ろじ)〕」これは実在する海鳥、カツオドリ目ウ科 Phalacrocoracidae の鵜(ウ)類を指す。]

 

和漢三才圖會第四十一 水禽類 善知鳥 (うとふ) (ウトー)


Utoo

うとふ  正字未詳

善知鳥

     【俗云宇止布】

 

△按善知鳥鷗之屬形色似鷗而觜黃色末勾脚淡赤色奧

 州率土濱有之特津輕安潟浦邊多

信鳧 本綱鷗之屬隨潮而往來謂之信鳧

△按隨潮來徃形小於鷗脚赤觜末亦微赤者俗呼曰由

 利鷗恐是信鳧矣善知鳥亦近于此

 

 

 

うとふ  正字は未だ詳らかならず。

善知鳥

     【俗に「宇止布〔(うとふ)〕」と云ふ。】

 

△按ずるに、善知鳥(うとう[やぶちゃん注:誤り。あくまで「うとふ」が正しい。後注参照。])鷗の屬。形・色、鷗に似て、觜、黃色、末は勾(まが)り、脚は淡赤色。奧州率土(そと)の濱に之れ有り。特に津輕安潟(やすかた)の浦邊に多し。

信鳧〔(しんふ)〕 「本綱」、鷗の屬、潮に隨ひて往來す。之れを「信鳧」と謂ふ。

△按ずるに、潮に隨ひて來徃す〔るてふそれは〕、形、鷗より小さく、脚、赤く、觜の末、亦、微かに赤き者、俗に呼んで「由利鷗〔(ゆりかもめ)〕」と曰ふ。恐らくは是れ、「信鳧」か。善知鳥も亦〔(ま)〕た、此〔(これ)〕に近し。

 

[やぶちゃん注:確かに標準和名表記は鳥綱 Avesチドリ目 Charadriiformesウミスズメ科 Alcidaeウトウ属ウトウ Cerorhinca monocerata(一属一種)、即ち、「ウトウ」で「うとう」と読むのであるが、実は本種は見かけは勿論、種としても鵜(カツオドリ目 Suliformes ウ科 Phalacrocoracidae)の「鵜(う)」類とは全く縁のない鳥であり、ウィキの「ウトウ」によれば、『「ウト・ウ」ではなく「ウトー」と発音する』のが正しい、とある(下線太字やぶちゃん)。仰天した。

 以下、主に同記載(一部は辞書に代えた)から引く。『体長は』三十八センチメートル『ほどで、ハトよりも大きい』。『頭から胸、背にかけて灰黒色の羽毛に覆われるが、腹は白い。くちばしはやや大きく橙色である。夏羽では上のくちばしのつけ根に突起ができ、目とくちばしの後ろにも眉毛とひげのような白い飾り羽が現れて独特の風貌となるが、冬羽ではくちばしの突起と飾り羽がなくなる』。背面・咽喉・胸は黒く、腹は白い。嘴は橙色を呈し、繁殖期には上部に突起が生じる。『北日本沿岸からカリフォルニア州までの北太平洋沿岸に広く分布する。日本でも北海道の天売島、大黒島、渡島小島、岩手県の椿島、宮城県の足島などで繁殖する。天売島は約』百『万羽が繁殖するといわれ、世界最大の繁殖地となっている。足島は日本での繁殖地の南限とされ』(ここ(グーグル・マップ・データ))、『「陸前江ノ島のウミネコおよびウトウ繁殖地」として、「天売島海鳥繁殖地」とともに国の天然記念物に指定されている』。『非繁殖期は沿岸の海上で小さな群れを作って過ごすが、南下する個体もおり、本州沿岸などでも観察される。他のウミスズメ科同様、潜水してイカナゴなど小魚やオキアミ、イカなどを捕食する』。『潜水能力は高く、翼を使用して水中を泳ぎまわることができる。個体に深度計を装着した研究によると、水深』六十メートル『まで潜り、また』、二『分間の潜水時間が観察されている』。『繁殖地では断崖の上の地面にコロニーを作り、深さ』一~五メートル『ほどの穴を斜めに掘って巣とする。メスは』一『個だけ産卵し、両親が交代で』四十五『日抱卵し、ヒナが孵化すると巣立ちまでの約』五十日の間、『餌を運ぶ。この時期は毎日夜明け前に巣穴から一斉に親鳥が飛び立ち、夕方暗くなった頃にイワシやイカナゴをくちばしに大量にぶらさげ、鳴き声をあげながら帰ってくる。暗い時間帯に巣を出入りするのは、餌を横取りするカモメ類や捕食者への対応策と考えられている』。古い伝承で『子を奪われると鳴くという』。これは、ウィキの「善知鳥峠」(長野県塩尻市にある峠。ここ(グーグル・マップ・データ))によれば、以下の『地元に伝わる善知鳥(ウトウ)と猟師の民話』があるとする。『猟師が北国の浜辺で珍しい鳥の雛を捕らえ、息子を伴い、都に売りに行った』が、『親鳥はわが子を取り戻そうと「ウトウ、ウトウ」と鳴き、猟師の後を追い続けた』。『やがて猟師親子は険しい峠道に差し掛かり、さらに激しい吹雪に見舞われた』。『吹雪のなか無理に峠を越えようとする猟師に、親鳥もなお追い続ける。地元の村人たちには吹雪の中ずっと「ウトウ、ウトウ」と鳴き続ける鳥の声が響いたという』。『やがて猟師は激しい吹雪のなか力尽き、峠を越えること叶わず、その地に果てた』。『吹雪の収まったあと村人たちが峠に出ると、泣きじゃくる息子とわが子をかばように覆って死んだ猟師の姿があった』。『またすぐ脇には、同じように鳴き続ける雛鳥と子をかばうように覆って死んだ親鳥の姿もあった』。『どちらも、命を賭してわが子を吹雪から守ったのであった』。『村人たちはその鳥が善知鳥(ウトウ)であると知って猟師とともに手厚く弔い、その地を「善知鳥峠」と呼ぶようになったという』とある。『また、能の大家世阿弥が作ったとされる謡曲「善知鳥」ではその後とされる話が描かれている。概要は以下のとおり』。『立山(富山県立山町)を訪れた僧が、陸奥の外の浜(津軽半島東部地域)』(現在の青森県東津軽郡外ヶ浜町附近。ここ一帯(グーグル・マップ・データ))『の出身だという猟師の霊と出会う』。『この猟師、生前に善知鳥を捕まえた報いで地獄に堕ち、苦しんでいるのだという』。『猟師は僧に、自分の形見だと言って簑笠と麻衣を渡し、妻子に届けてくれと頼んだ』。『僧は猟師の妻子を訪ね、猟師の形見を渡した』。『妻子が僧に頼んで形見を供養すると、猟師の霊が現れ、地獄で善知鳥に責め苦しめられる様子を見せた』。『青森県青森市の中心部に善知鳥神社という神社があるが(青森市=旧善知鳥村の発祥の地とされる)、これと関連する伝説が残る』とある。しかし、興を削ぐようだが、前者の長野県塩尻市の善知鳥峠の「善知鳥」は沿岸域に棲息する本種ではあり得ないから、何か「ウトー」と鳴く別の鳥の名であり、それが後の(或いは共時的に)謡曲の「善知鳥」(こちらは確かに間違いなく本種である)と共鳴連鎖されて、本種にずらされて定型化したもののように思われる

 

なお、しばしば人名のようにまことしやかに語られる、以上の応報譚の元になった「善知鳥安方(うとうやすかた)」は、「ウトウ」とされる鳥の鳴き声に纏わる和歌説話で(この原説話自体が或いは種としての「ウトウ」ではなかったのではないか)、母鳥が空中で「ウトー」と鳴くと、地上に隠れている子が「ヤスカタ」と応じたという話に由来する。西行作ともされる一首に、

   * 

 子を思ふ淚の雨の笠の上にかかるもわびしやすかたの鳥

   *

があり、また、藤原定家作とする一首に、

   *

 陸奥の外の濱なる呼子鳥鳴くなる聲は善知鳥安方(うとふやすかた)

   *

がある。平凡社の「世界大百科事典」によれば、その習性を利用して猟師が子鳥を捕らえると、母鳥は血の涙を流して嘆くため、血の涙を避けるため、猟師は簑笠を被らなければならなかったとする。架空の「善知鳥文治安方」なる人物は、近松半二らの合作になる浄瑠璃「奥州安達原」(宝暦一二(一七六二)年初演)や山東京伝の読本「善知鳥安方忠義伝」(文化三(一八〇六)年刊)などによって、罪ある亡き主人の、世に秘すべき遺児を匿う役所を負って活躍している、とある。なお、このそれらしい名は、実在したとされる、外ヶ浜に流罪にされた烏頭(うとう)大納言藤原安方或いは烏頭中納言藤原安方朝臣という貴族が流罪となり、辿り着いた外ヶ浜で亡くなり、その霊がこの鳥となって海に群がり沢山鳴いていたのを、その名を採って「うとう」と名付けたという流離譚が濫觴であるらしい(但し、同姓同名はいるが、流罪になった事実はなく、それに該当する「藤原安方」は調べた限りではいない)。ともかくも、どうもこれらの伝承や和歌(「呼子鳥」は「万葉集」に既に出る)を見ると、明らかに「ウトウ」でない鳥も含まれて、混同されているとしか思われない。奥州行脚した西行はいいとして、定家までくると、単なる想像歌では迫力に乏しい。そこでさらに調べてみると、北海道野鳥百五十六号・平成二〇(二〇〇八六月発行)(PDF)に札幌市の武沢和義氏の「ウトウという名の鳥」という優れた考証があるのを見出した。そこではまず、藤原定家の「呼子鳥」について、『呼子鳥は万葉集にも詠まれている鳥であるが、どの鳥を指すのか諸説があって不明である。中西悟堂は『「万葉集」中難解の鳥』で、古くはツツドリとカッコウは混同されていたとした上で、呼子鳥はツツドリかカッコウであることを示唆している』とされており、これはツツドリやカッコウの鳴き声からも私にはすこぶる腑に落ちる(しかもそれなら定家がも聴ける)。さらに、『善知鳥と書いて「うとう」と読み、それが何故ウトウを意味することになるのか、ということは江戸時代から多くの人が、鳥名と地名の両方の立場から議論している。滝沢馬琴は善知鳥の地名の由来については、突き出た岬、つまり出崎の意としている。これはウトウの噂に付いている突起に喩えたと理解されている。浅虫温泉の近くに善知鳥崎がある。江戸時代の歌人・菅江真澄は、ここを訪れ有多宇末井と表記している。真澄は、鳥名、地名あわせて、「うとう」とは何かということを、とりわけ熱心に追及した人である』。『「うとうまい」という地名はアイヌ語を連想させる。アイヌ語では、ウトウは突起という意味である。また、ウは場所を表す接頭語であり、トは湖沼である。従って沼のある所とする解釈もある。湖沼であれば、安潟のことと見ることができる』とある。以下、古典や菅江真澄の文献での、「善知鳥」の千鳥(チドリ類)やコガモやトモエガモとの混同や誤認について記され、最後に、時代的には近くても『室町時代に』は、『群れる鳥を共通因子として、葦千鳥と「うとう」が混同して後世に伝えられた可能性は強いと思う。つまり葦千鳥=善知鳥と鴇=ウトウは、元は別の鳥であったが、それらが「群れる鳥」と「善知鳥という漢字」の解釈が原因になって生まれたのが善知鳥=ウトウであったかと思う』と結論づけらえておられ、私はすこぶる納得がいった(下線太字やぶちゃん)。

 

「津輕安潟(やすかた)」青森県青森市安方か。ここ(グーグル・マップ・データ)。表記が異なるが、近年ここで開かれる青森商工会議所青年部主催のフェスティバルは「青森安潟みなとまつり」という。文脈上は外ヶ浜地区にあるように読めるが、江戸時代、「津輕」とは現在の青森県西部を指し(津軽藩領)、外ヶ浜のある下北半島は南部藩(盛岡藩)の領地で「南部」と別称したから、それはあり得ない。この安方にはまさに「善知鳥神社」がある((グーグル・マップ・データ))。ウィキの「善知鳥神社によれば、『海の神、航海安全の神として知られる市杵島姫命・多岐津姫命・多紀理姫命の宗像三女神を主祭神として祀る。他に祭神として倉稲魂命、宮比命、猿田彦命、海津見大神が祀られている』が、『允恭天皇の時代』(五世紀前半)『に善知鳥中納言安方という者が勅勘を受けて外ヶ浜に蟄居していた時に高倉明神の霊夢に感じて干潟に小さな祠を建設し、宗像三神を祀ったのが神社の起こりと伝わる。安方が亡くなると、見慣れない一番の鳥が小祠のほとりに飛んできて雄はウトウと鳴き、雌はヤスカタと鳴くので、人々はこの鳥を安方の化身として恐れ敬ったが、ある日猟師が誤ってこの雄鳥を狙撃してしまい、以後雄鳥によって田畑が荒らされた。狙撃した猟師も変死したため、祟りを恐れた同郷の人々は雄鳥を丁重に弔った』という伝承を記す。

「信鳧〔(しんふ)〕」「本草綱目」の記載なので音で読んだ。但し、「鷗」の項のごく一部で、『海中一種隨潮往來謂之信鳬』としか載らないので、とても種同定など出来ない。

 「本綱」、鷗の屬、潮に隨ひて往來す。之れを「信鳧」と謂ふ。

「由利鷗〔(ゆりかもめ)〕」鳥綱 Avesチドリ目 Charadriiformesカモメ科 Laridaeカモメ属ユリカモメ Larus ridibundus

「善知鳥も亦〔(ま)〕た、此〔(これ)〕に近し」残念ながら、良安先生、同じチドリ目で沿岸性の海鳥ではありますが、見た目も全然違い、科で異なっていて、近縁ではありません。]

2018/04/23

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷗

Kamome

かもめ   水鴞 鷖

      海鷗【有海者】

      江鷗【有江者】

      【和名加毛米】

ヱ◦ウ

 

本綱鷗形色如小白鷄及白鴿長脚長喙群飛曜日三月

生卵常浮水上輕漾如漚故從區

△按鷗頭背身脚觜皆灰白色而腹正白項短如鳩其脚

 不長【本艸謂長脚者不當】其大者羽端有白圓文造矢羽賞之

  新古今かもめゐる藤江の浦の沖津洲は夜舟いさよふ月のさやけさ顯仲

 

 

かもめ   水鴞〔(すいきよう)〕

      鷖〔(えい)〕

      海鷗【海に有る者。】

      江鷗【江〔(かは)〕に有る者。】

      【和名、「加毛米〔(かもめ)〕」。】

 

「本綱」、鷗、形・色、小さき白き鷄、及び、白き鴿〔(はと)〕のごとく、長き脚、長き喙。群飛して、日に曜〔(かがよ)〕ふ。三月〔(みつき)にして〕卵を生む。常に水上に浮きて、輕く漾ひて、漚(あは)のごとし。故に「區」に從ふ。

△按ずるに、鷗、頭・背・身・脚・觜、皆、灰白色にして、腹、正白。項〔(うなじ)〕、短く〔して〕鳩のごとし。其の脚、長からず。【「本艸」に『長き脚』と謂ふは當たらず。】其の大なる者は、羽の端に白き圓文有り、〔これを〕矢の羽に造りて、之れを賞す。

 「新古今」

   かもめゐる藤江の浦の沖津洲は夜舟いざよふ月のさやけさ

                     顯仲

 

[やぶちゃん注:本邦の種はシベリア北東部で繁殖してアジア南東部で越冬する、鳥綱 Avesチドリ目 Charadriiformesカモメ科 Laridaeカモメ属カモメ亜種カモメ Larus canus kamtschatschensisウィキの「カモメ」によれば、全長は四十~四十六46センチメートル、翼開長は百十~百二十五センチメートルで、頭部や体下面の羽衣は白い』。『背中や翼上面は青灰色の羽毛で被われ』、『尾羽の色彩も白い』。『初列風切の色彩は黒く、先端に白い斑紋が入る』。『嘴は小型で細い』。『後肢は細い』。『嘴や後肢の色彩は灰黄緑色や黄色で』、『嘴先端に不明瞭な黒い斑紋が入る個体もいる』。『幼鳥は全身が灰褐色の羽毛で被われ、肩を被う羽毛や翼上面の外縁(羽縁)が淡褐色』を呈する。『和名は』、『幼鳥の斑紋が籠の目(かごめ→カモメ)のように見える事が由来とされる』。『尾羽の先端が黒い』。『嘴は黒い』。『後肢の色彩は淡ピンク色』。『夏季は頭部から頸部にかけて斑紋が無く(夏羽)、冬季は頭部から頸部にかけて淡褐色の斑点が入る(冬羽)』とある。

 

「漚(あは)」泡。

のごとし。故に「區」に從ふ。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸀鳿(同定不能・カモの一種)

Syugyoku

しよくきよく  鸑鷟

鸀鳿燭玉

        三才圖會謂

        屬玉鳥者是

チョッ ヨッ  乎

本綱鸀鳿狀似鳧而大長項赤目斑嘴毛紫紺色如鵁鶄

色也此鳥有文彩如鳳毛

 

 

しよくきよく  鸑鷟〔(がくさく)〕

鸀鳿【「燭玉」。】

        「三才圖會」に

        「屬玉鳥」と謂ふは是れか。

チョッ ヨッ

「本綱」、鸀鳿は、狀、鳧〔(かも)〕に似て、大きく、長き項〔(うなじ)〕、赤き目、斑〔(まだら)〕の嘴〔(くちばし)〕、毛は紫紺、色は鵁鶄〔(ごゐさぎ)〕の色なり。此の鳥、文彩〔(もんさい)〕有りて、鳳の毛のごとし。

[やぶちゃん注:これは同定が非常に難しい「鸑鷟」は中文サイトで調べると、第一義で古代の伝説上の瑞鳥である「鳳凰」のこととし、次に「鸀鳿」の異名とするのであるが、この鸀鳿は、中文サイトで検索を掛け、その生きた個体の画像を見る限り、紫紺色を呈し、如何にもキジ然とした、即ち、水鳥ではない、鳥綱キジ目キジ科ニジキジ属カラニジキジ Lophophorus lhuysii にしか見えないのである(カラニジキジは中華人民共和国(甘粛省南部、四川省中部、青海省南部)固有種で、ウィキの「カラニジキジによれば、『オスは頭頂の羽毛が後方へ房状に伸長(冠羽)する。体上面は赤褐色の羽毛、体側面は羽毛の外縁(羽縁)が緑色の黒い羽毛で被われる。額は青紫色、耳孔を被う羽毛(耳羽)は緑色、喉や後頭は青みがかった黒の羽毛で被われる。冠羽は基部から先端にかけて緑から濃青色、赤紫色。さらに肉垂れ状の皮膚がより大型。嘴の色彩は灰色。後肢の色彩は暗灰色。メスは全身が白や黒の斑紋が入った褐色の羽毛で被われる。喉は淡褐色で被われる。冠羽がない。また肉垂が小型で、嘴や後肢の色彩は黄色みを帯びた灰色』で、標高三千~四千九百メートルにも達する怖ろしく高い高山地帯の、『下生えにシャクナゲが密生した針葉樹林、高山ツンドラなどに生息する。冬季になると』、『標高の低い場所へ移動する』とある種で、とてものことに、この水禽に入るべき種ではないのである(一応、グーグル画像検索「Lophophorus lhuysiiをリンクさせておく)。挿絵もこれはもう、水に浮いている鴨である。取り敢えずは、

鳥綱 Avesカモ目 Anseriformesカモ亜目 Anseresカモ科 Anatidae に属する、雁(カモ科ガン亜科 Anserinae に属する、カモより大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae亜科Cygnus属の六種及びCoscoroba 属の一種の全七種)より小さい一群の総称)に比べて体が小さく、首があまり長くなく、また、冬羽(繁殖羽)では雄と雌で色彩が異なる一般的な「かも」類

の一群の中で

羽の色彩が紫紺色を呈し、全体の色はゴイサギ(鳥綱ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax)の色に似た(しかしこれは「本草綱目」の謂いであることに注意しなくてはならぬ)、長い項(うなじ)を有し、目が赤く、嘴に斑模様が見られ、しかもその羽を良く観察すると、複雑で高貴な伝説の鳥「鳳凰」のような彩模様を有している種

ということになり、鳥に詳しくない私には一向に判らぬ鳥ということになる(というか、「そんなもん、日本にマジ、おるんやったら、流石のボケの儂でも、知っとるはずやろ!」と叫びたくなるのだが)。「屬玉鳥」もよく判らぬ。ただただ、識者の御教授を乞うばかりである。]

 

和漢三才圖會第四十一 水禽類 箆鷺(ヘラサギ)

Herasagi

へらさぎ

     【俗云 倍

      良佐木】

箆鷺

 

△按箆鷺狀似白鷺而無冠毛不純白帶微灰色長喙其

 本黃末黑而圓如匙如箆故名性能成群以觜淘泥求

 魚無一息之停巢林杪其未長者小而羽莖黑

 

 

へらさぎ

     【俗に「倍良佐木〔(へらさぎ)〕」

      と云ふ。】

箆鷺

 

△按ずるに、箆鷺、狀〔(かたち)〕、白鷺に似て、冠毛〔(さかげ)〕無く、純白ならず。微〔かに〕灰色を帶び、長き喙〔(くちばし)〕、其の本〔(もと)は〕黃。末は黑くして圓〔(まろ)〕く、匙(さじ)のごとく、箆(へら)のごとし。故に名づく。性〔しやう)〕、能く群れを成し、觜〔(くちばし)〕を以つて泥を淘〔(よな)ぎて〕、魚を求め、一息〔さへ〕も停〔(とど)〕まること無し。林の杪〔(こづゑ)〕に巢〔づくる〕。其の未だ長ぜざる者、小にして羽の莖〔(くき)〕、黑し。

 

[やぶちゃん注:鳥綱 Aves ペリカン目 Ciconiiformes トキ科 Threskiornithidae ヘラサギ属ヘラサギ Platalea leucorodiaウィキの「ヘラサギによれば、『ユーラシア大陸中部とインドで繁殖する。ヨーロッパ東部にも繁殖地が点在している。冬季はアフリカ、ペルシャ湾沿岸からインドにかけての地域や中国南部に渡りをおこない越冬する。インドやでは留鳥として周年見られる』。『日本では数少ない冬鳥として、北海道から南西諸島まで各地で記録がある。九州では数は少ないが、毎年飛来する。以前は、鹿児島県出水市に毎冬小規模の群れが飛来していた』。『体長は約』八十五センチメートルで、翼開長は約百二十五センチメートル。白鷺の類に『似ているが、ダイサギ』(サギ科 Ardeidae サギ亜科 Ardeinaeアオサギ属亜種ダイサギ Ardea alba alba)『よりも首が短く』、『胴が太いため頑丈に見える。全身の羽毛が白い。夏羽では喉や胸が黄色みを帯び、後頭部に黄色の冠羽があらわれる。冬羽では冠羽が短くなる』。『本種の特徴であるくちばしは』、『黒くて長く、先端がへら型をしている。これが名前の由来にもなっている。嘴の先端部は黄色。足は黒い』。『雌雄同色だが、雄の方がやや大きい』。『非繁殖期には、湖沼、河川、湿地、水田、干潟などに生息する。越冬地では小規模な群れで行動していることが多い。繁殖期は、内陸の湖沼や河川とその周辺の林に生息』し、『しばしばコロニーを形成する』。『食性は動物食』で『干潟や水田、湿地などでくちばしを水につけて左右に振り、くちばしに触れた魚、カエル、カニなどを捕食する』。『繁殖形態は卵生。地上や樹上に主に枯れ枝を用いて皿型の巣を作り』、三、四卵を『産む。雌雄で抱卵、育雛する。抱卵期間は』二十二~二十四日。『鳴き声はフー フー、ウフーなど。鳴き声が聞かれるのは主に繁殖期で』あるから、『日本で鳴き声が聞かれることはまずない』。『サギの仲間によく似ている。サギの仲間は立つときに胸を反らせ、飛ぶときに首をS字型に縮めるが、ヘラサギは立つとき』、『やや前のめりで、飛ぶときには首をのばして飛ぶことで区別できる』。『近縁種としてクロツラヘラサギ』(ヘラサギ属クロツラヘラサギ Platalea minor)『がいるが、本種の方がやや大型で、眼先が白く、嘴の先端部が黄色であることで区別できる』とある。正直、この挿絵は嘴が全然、箆状になっていないので、アウトだ!

 

「淘〔(よな)ぎて〕」音は「タウ(トウ)」。「よなぐ」とは「水洗いをして不純物を取り除く、より分ける」の意。]

 

譚海 卷之二 奧州岩城專稱寺大蛇の事

 

奧州岩城專稱寺大蛇の事

○奧州岩城に專稱寺と云(いふ)有(あり)、淨家西山派の檀林の中(うち)也。その寺は山上に有、その山門の二階に年來(としごろ)住(すめ)る大蛇有、人を害する事なし、長さ五間ばかりの蛇也。近來(ちかごろ)今一つ三間ばかりのものと二帶(おび)相(あひ)すむといふ、寺の人は小僧蛇と稱す。その來歷は昔此寺に惡行の小僧ありて偸盜姦惡にもてあまし、その時の住持領所の百姓憑(たのみ)て竊(ひそか)に殺害に及(および)たり、その厲(れい)此蛇と成(なり)て今にありといひ傳ふ。因て領所の百姓の子孫に時々祟(たたり)をなすといへり。山門の萱(かや)ふきかへ片々(かたがた)づつ屋根をふく也、一時にふきかへをする時は、蛇現じて人おそるゝゆゑ然(しか)す。ふきかへの時に見れば天井に蛇のくそ雀のふんの如くおびたゞしくありといへり。

[やぶちゃん注:「奧州岩城專稱寺」現在の福島県いわき市平山崎(たいらやまざき)にある浄土宗梅福山専称寺。昭和になってからは梅の名所として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。確かに小高い山の山頂にある。応永二(一三九五)年に良就十聲(りょうしゅうじゅっしょう)によって創建された。

「西山派」法然上人の高弟である西山上人証空が自らが唱えた西山義の教えを広めたことに始まる浄土宗西山禅林寺派。現在の京都市左京区の禅林寺(永観堂)を総本山とする浄土宗の一派であるが、ちょっとおかしいウィキの「専称寺」によれば、本寺の開山である『良就は浄土宗名越派の祖・良弁(尊観)の流れを汲む僧であ』り、『江戸時代には名越派』(浄土宗第二祖弁長の弟子で第三祖となる良忠が開いた鎮西派の中の一派であったが、江戸時代には鎮西派から分離していた)『の奥州総本山、檀林寺として多くの僧を養成し、東北地方の浄土宗信仰の中心寺院として栄えた』とあり、同寺の公式サイトでも名越派総本山と明記するからである。

「五間」九メートル九センチ。

「三間」五メートル四十五センチ。

「二帶」二匹。

「厲(れい)」「厲」は本来は「禍い」「祟り」の意であるが、ここは音の「レイ」を「靈」の通音として用い、災いを齎す悪霊の謂いで用いているものと思われる。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 鱟 附「大和本草諸品圖」の「鱟」の図 参考「本草綱目」及び「三才圖會」の「鱟」の図 一挙掲載!

 

[やぶちゃん注:『栗本丹洲自筆「鱟」(カブトガニ)の図』を電子化注した関係上、ここで、七項目飛ばし、先に「鱟」(カブトガニ)の条を電子化することにした。また、今回は本「大和本草」の附録にある「諸品圖」のブットンだ(まるでご当地ユルキャラ「かぶとがにくん」!)の図も合わせて電子化する。但し、「諸品圖」の方は、底本としている「学校法人中村学園図書館」公式サイト内の宝永六(一七〇九)年版のそれではなく、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像(「大和本草
」十六巻附録二巻「諸品図」二巻」とするもの)を底本とし、画像をトリミングして示した。裏の透けがひどいので補正を加えて清拭してあるので、原画よりも明るいものの、線は薄くなっている
。]
 

 

○「大和本草」「鱟魚」本文

鱟(〈右ルビ〉カウ)魚(〈以上の二字に左ルビ〉カブトガニ) 海邊ニアリ西州ニテウンキウト云又カブトガニト云

其形カフトニ似タリ只甲ノ下ニアリ目ハ背中ニアリ左

右隔レリ蟹ノ目ヨリヒキク其形ニハ目小ナリ足ハ腹下ノ

左右ニ各五アリ合十アリ足ノサキニ皆ハサミアリ蟹ノ足

ニ似タリ腹ニ廣キ薄片六アリテカサナリツヾケリ蝦(エビ)ノ腹ノ

薄片ノ如ニ乄大ナリ腰ニツギメアリテテフツガヒノ如ク折(ヲ)レ

カガミ自由ナリ尻ノ方ノメクリニ長キ刺(ハリ)多シ形大ナレトモ

肉少ナシ人食セス海邊往々有之其甲ハ鱉ノ如ク圓

シ又蟹ノ甲ニ似タリ魚ノ類ニハアラス鼈蟹ノ類ナリ本

草ノ圖ニ魚ノ形ニエカケリ非ナリ三才圖繪ニモ同シ但

二書共ニ形狀ヲ説(トケ)ルハカブトカニ也無ㇾ疑只其所ㇾ圖(エカク)ハカ

フトガニヽアラス其形ヲ不見シテ繪カケルニヤ殻ハ用テ

舟ノ中ノ水ヲクム尾長シ尾ノ末用テ燈心ノ枝トス其口

足尾トモニ人ヲ傷ラス雌(メ)ハ雄(オ)ヲ負(ヲ)テ海ニ入ル本草及

三才圖繪等ノ書ニ載ル處ノ鱟魚カブトガニト能合ヘリ

異物ナリ其大七八寸一尺アマリ竪橫同頭ナシ

 

○「大和本草」「鱟魚」本文のやぶちゃんの書き下し整序文(送り仮名ではなく、一部に訓読の便宜のために推定で歴史的仮名遣で語句や読みを補ったところは〔 〕で示した)

 カウ〔ギヨ〕

「鱟魚」

 カブトガニ

海邊にあり。西州にて「ウンキウ」と云ふ。又、「カブトガニ」と云ふ。其の形、「かぶと」に似たり。只、甲〔(かふ)〕の下に〔蟹本體は〕あり。目は背中にあり、左右、隔〔(へだ)た〕れり。蟹の目より、ひきく、其の形〔の割〕には、目、小なり。足は腹の下の左右に各〔(おのおの)〕五つあり、合はせて十あり。足のさきに、皆、「はさみ」あり、蟹の足に似たり。腹に廣き薄片〔(はくへん)〕、六つありて、かさなりつゞけり。蝦(えび)の腹の薄片のごとくにして、大なり。腰につぎめありて、「てふつがひ」のごとく折(を)れ、かがみ〔すること〕、自由なり。尻の方のめぐりに、長き刺(はり)多し。

形、大なれども、肉、少なし。〔故に〕人、食せず。

海邊、往々に之れ有り。

其の甲は鱉〔(すつぽん)〕のごとく圓〔(まろ)〕くし〔て〕、又、蟹の甲〔(かふ)〕に似たり。魚の類ひには、あらず。鼈〔(すつぽん)〕・蟹〔(かに)〕の類ひなり。

「本草」の圖に、魚の形にえがけり。〔然れども、これ、〕非なり。「三才圖繪」にも同じ。但し、二書共に形狀を説(とけ)る〔それ〕は「カブトガニ」なり。〔そは、〕疑ひ無し。只、其の圖(えが)く所は「カブトガニ」にあらず。其の形を見ずして、繪がけるにや。

殻は、用ゐて、舟の中の水を、くむ。

尾、長し。尾の末、用ゐて燈心の枝〔(ささへ)〕とす。

其の口・足・尾、ともに人を傷〔(きづつけ)〕らす。

雌(め)は雄(お)を負(を)ひて海に入る。

「本草」及び「三才圖繪」等の書に載る處の「鱟魚」、「カブトガニ」と能〔(よ)〕く合(あ)へり。

異物なり。其の大いさ、七、八寸〔から〕一尺あまり。竪・橫、同じ。頭、なし。

 

□大和本草」附録「諸品圖」の「鱟魚」のパート画像(国立国会図書館デジタルコレクションより。ちょっと補正をし過ぎた) 

 

Yamatohonzouhuzukabutogani

 

□「大和本草」附録「諸品圖」の「鱟魚」本文(読み以外の訓点は省略)

ウンキウ

鱟魚カブトガニ

 其形狀載在本書

 葢諸州所

 稀有爲異

 物

 

図アシヽ

[やぶちゃん注:以上の一行は板行されたものではなく、誰かが手書きで加えたものである。その証拠に、「学校法人中村学園図書館」公式サイト内の宝永六(一七〇九)年版のそれには、これはない。 

 

□「大和本草」附録「諸品圖」の「鱟魚」のやぶちゃんの書き下し整序文

ウンキウ

鱟魚「カブトガニ」

其の形狀、載せて、本書に在り。葢〔(けだ)〕し、諸州、稀〔(ま)〕れに有る所〔にして〕、異物と爲〔(な)〕す。

 

図、あしゝ。

[やぶちゃん注:節足動物門鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus

『栗本丹洲自筆「鱟」(カブトガニ)の図』の注でも既に述べているが、再掲しておくと、通常の我々が知っている「蟹」(カニ)類は節足動物門甲殻亜門 Crustacea であるが、本カブトガニ類は鋏角亜門 Chelicerata であって、「カニ」と名附くものの、カニ類とは極めて縁遠く、同じ鋏角亜門 Chelicerata である鋏角亜門クモ上綱蛛形(しゅけい/くもがた/クモ)綱クモ亜綱クモ目 Araneae のクモ類や、その近縁の蛛形綱サソリ目 Scorpiones のサソリ類に遙かに近い種である(鋏角亜門には皆脚(ウミグモ)綱 Pycnogonida も含まれる。なお、現生カブトガニは全四種である)。従って、現代の生物学的知見では「大和本草」がここ(一連の蟹類)に入れているのは致命的な誤りであることにはなる。

 なお、最初の述べておくと、後に示した「大和本草」附録「諸品圖」であるが、これ、少なくとも魚類パートは全体に絵が粗く、博物図としては今一である。しかし、中でも、この「カブトガニ」の図は一際、目立って驚愕的で、パロディかシュールかと言いたくなる破格のスゴさを持つ。解説文があるから、益軒が描いて附けたようにも読めるのだが、私はどうもこの「諸品圖」の魚譜パートは、誰か後代の弟子辺りが大方を附したもののように思われてならない(図はどう見ても専門の絵師によるものとは思われないし、益軒の描いたと思われる簡略ではあるが、それなりに特徴を押さえた草木や鳥類パートとは描き方がやや異なるようにも見える)。因みに、「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年平凡社刊)の「貝原益軒」でも、山下欣二氏が、『『大和本草諸品図』の魚類図には、大雑把なものが多い。水棲動物を空気中で描くのだから作画自体が困難ではあるが、これらの絵図は、益軒本人の作なのか、彼の死後余人が描いたものか不明だが、私は後説を採りたい』と述べておられる。以下、本文注をするが、未見の方は、『栗本丹洲自筆「鱟」(カブトガニ)の図』の注を先に読まれたい。そこで考証したことは以下では、原則、繰り返さないつもりだからである。

 なお、益軒はここでかなり詳しいカブトガニの形態や一部の生態(交尾)を述べており、その点では非常に優れた記載となっている。されば、先にウィキの「カブトガニ」にから、形態的特徴と生態を引用しておく(下線は益軒の本文と対応させるために私が引いた)。カブトガニ Tachypleus tridentatus は『カブトガニ類の仲間では日本に産する唯一の種であり、また』、『この類の現生種のうちでもっとも大型になるものである。全長(甲羅の先端から剣状の尾の先端まで)は雄で』七十センチメートル、雌では八十五センチメートルに『達するが、普通はもう少し小さく、それぞれ』雄で五十センチメートル、雌で六十センチメートルほどである。蛛形(クモ)類同様、『体は頭胸部と腹部、それに尾節からなる』。『頭胸部は甲状になっており、両側後方にやや伸びる。背面はなめらかなドーム状で、前方背面の両側と中心にそれぞれ一対の複眼と単眼がある腹面には附属肢などが並ぶ。最前列には腹眼と鋏状の鋏角、その後ろには五対の歩脚状附属肢があり、それぞれの基節には「顎基」(gnathobase)という咀嚼用の突起がある。口はその中心に開口する。最初のものは触肢であるが、特に分化した形ではない。第』一から第四『対の先端が鋏になっているが、雄では第一・第二脚の先端が雌を把持する構造に特化している』(この二対の鉤状爪で雌の甲辺縁の棘のない部分をつかまえて交尾をする)。『干潟で前進する為、後脚の先端はヘラ状となる。後脚の付け根付近には櫂状器があり、書鰓に流れる水流を作り出す』。『腹部は後ろが狭まった台形で、その縁に沿って』六『対の棘がある。雌ではこのうちの後方』三『対が小さくなっている。腹面には蓋板と』五『対の鰓脚が畳んでいる。蓋板の内側基部には生殖孔がある。鰓脚の内側には呼吸用の書鰓があり、鰭状の鰓脚で遊泳を行うこともある。頭胸部との接続部には』一『対の唇様肢(chilaria)という小さな付属肢が口側に向かっている』。以上の『多くの特徴は種としてのカブトガニに限らず、現生カブトガニ類』(他の三種は、カブトガニ属ミナミカブトガニ Tachypleus gigas・カブトガニ科マルオカブトガニ属マルオカブトガニCarcinoscorpius rotundicauda、及びカブトガニ科アメリカカブトガニ属アメリカカブトガニ Limulus polyphemus)『全般の共通性質である。本種の種小名tridentatusは「3つの棘」を意味し、これは本種のみにある腹部の剣尾との接続部に3つの小さな棘が並んでいる特徴に由来する(他種のこの部分は中心1本のみ)。他に腹部背側の黒い突起は他種よりも多く、オス成体の頭胸部前縁に窪みがあるのも本種特有の性質である』とある。以下、「生態」の項。『干潟の泥の溜まった海底に生息する。カブトガニはその体形から』、『泥に沈むことはない。ゴカイなどを餌にする。夏に産卵期を迎え、産卵された卵は数ヶ月で孵化し』、『十数回の脱皮を経て』、『成体になる。カブトガニの幼生は、孵化する以前に卵の中で数回の脱皮を行いながら成長し、それに合わせて卵自体も大きくなっていく特徴がある』。『メスの第一脚と第二脚は鋏状となっているのに対し』、『オスの第一脚と第二脚は鈎状になっていて、繁殖期にはこの脚でメスを捕縛し雌雄繋がって行動する姿が見られる』。『繁殖期以外にもオスはメスやメスと錯覚したカブトガニのオスや大型魚類、ウミガメなどに掴まる習性を持ち、その捕縛力も極めて強い。なお、メスの背甲部の形状全体が円を描くような形なのに対し、オスの背甲部は中央先端部が突き出ていることで区別できる。腹部の棘(縁ぎょく)の付き方も』、『メスが後の方の棘の発達が悪くなるというのも特徴である。これはオスがメスの背中につかまる際に邪魔にならないように適応した結果と思われる』。『瀬戸内海の干潟に生息するカブトガニは、夜間の満潮時に最も活発に活動する。カブトガニの行動は、「休息」、「背を下に向ける反転」、「餌探し・探索」、「砂掘り」の』四『タイプに分類でき』、一『日のうち』、九『割の時間は休息し、断続的な活動の大半はゴカイなどの餌探しに費やす』とある。

 なお、古い仕儀であるが、寺島良安和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類にある「鱟(かぶとがに)」の項と私の注も是非、参照されたい。そのカブトガニはの図は、ちゃんとカブトガニだからね!

「西州」西海。西日本。ウィキの「カブトガニ」によれば、『日本国内の生息分布は』過去に於いては『瀬戸内海と九州北部の沿岸部に広く生息したが、現在では生息地の環境破壊が進み生息数・生息地域ともに激減した』(私の調べた限りでは、大阪湾(瀬戸内海の内ではある)でも見られた)とあり、『現在の繁殖地は岡山県笠岡市の神島水道、山口県平生町の平生湾、山口市の山口湾、下関市の千鳥浜、愛媛県西条市の河原津海岸、福岡県福岡市西区の今津干潟、北九州市の曽根干潟、大分県中津市の中津干潟、杵築市の守江湾干潟、佐賀県伊万里市伊万里湾奥の多々良海岸、長崎県壱岐市芦辺町が確認されているが、いずれの地域も沿岸の開発が進み』、『最近では生息できる海岸が減少し』、『ほとんど見ることができない』。『日本以外ではインドネシアからフィリピン、それに揚子江河口以南の中国沿岸から知られている。東シナ海にも生息している。インドネシアには』別の『二種も生息している』とある。より詳しい専門家の解説では、清野聡子氏の論文「カブトガニの形態・生態と流れの関係」(PDF)が非常に分かり易く、必読。

「ウンキウ」「カブトガニ」の筑前方言とも。語源は不詳。但し、『栗本丹洲自筆「鱟」(カブトガニ)の図』の「ウジキガニ」の私の注を参照。

「ひきく」低く。

「かがみ〔すること〕」屈むこと。強く折れ曲がる運動をすること。先の清野氏の論文「カブトガニの形態・生態と流れの関係」の『(1)前体と歩脚』を参照。前体部と後体部のジョイント部分で体を屈むように曲げた写真が載る。

「人、食せず」現在も食用にされるが、死に至る危険個体もあるので、例外的に再掲する。中国でカブトガニを食用とするという記事は「本草綱目啓蒙」などの本邦の諸本草書に記載があり、「本朝食鑑」の島田勇雄氏の訳注の第五巻(一九八一年平凡社東洋文庫刊)の「鱟」の最終訳注にも『中国では、小野蘭山の言うように食用に供したものであろう』とある。事実、カブトガニ類は現在も中国(南部)や東南アジアで食用にされている。但し、毒化個体が存在し、死亡例もあるようなので非常に危険である。ウィキの「カブトガニ」によれば、『日本においては』、概ね『田畑の肥料や釣りの餌、家畜の飼料として使われてい』ただけであるが、『中国やタイ等の東南アジアの一部地域ではカブトガニ類が普通に食用にされている。中国福建省では「鱟」(ハウ)と呼び卵、肉などを鶏卵と共に炒めて食べることが行われている。日本でも』、『山口県下関など一部の地域では食用に用いていたこともあったが、美味しくはないと言われている』。『大和本草は「形大ナレトモ肉少ナシ人食セス」、和漢三才図会は「肉 辛鹹平微毒 南人以其肉作鮓醬」としている』。『ただし、外観が似ているマルオカブトガニ』(カブトガニ科マルオカブトガニ属Carcinoscorpius rotundicauda)『など一部の近縁種には、フグの毒として知られるテトロドトキシンを持っており、食用には適さない。上記地域では食中毒事件がしばしば発生している』(下線太字やぶちゃん)。]

「海邊、往々に之れ有り」貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)は筑前福岡藩主黒田光之に仕えた儒者で本草家であり、京に遊学したことはあるものの、その生涯の殆んどを福岡で過ごした当地はカブトガニの棲息地であり、益軒も親しく生体を観察出来る環境にあったのであり、ここでの生態上の記載の正確さも、実見ならではの感があるのである。それだけに、反して、「諸品圖」のあの図は、これ、頗るつきで不審と言わざるを得ないのである。

「鱉〔(すつぽん)〕」爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis。現代中国語でもスッポンを指す。「鼈〔(すつぽん)〕」も同じ。

「本草の圖に、魚の形にえがけり」明の本草学者李時珍(一五一八年~一五九三年)の本草学のバイブルとも言うべき「本草綱目」(一五九六年刊・全五十二巻)に載る「鱟」(カブトガニ)の図。国立国会図書館デジタルコレクションの「本草綱目圖三卷」から画像を示す。キャプションは、

   *

十二足雌負雄行

   *

である(「十二足あり。雌、雄を負ひて行く」)。いやはや! これまた勝るとも劣らぬブッ飛びぶりだ! こりゃ何だ? タガメかいッツ!?! 上の(雄か?)の目がやっぱ、ユルキャラしとるがね! 

 

Onzoukoumokukabutoganizu

 

「本草綱目」の「鱟魚」本文(巻四十五)は以下。漢籍リポジトリものを、一部、漢字等を推定で操作して示した。

   *

鱟魚【音后祐。宋嘉。】

釋名時珍曰按羅願爾雅翼云鱟者候也鱟善候風故謂之鱟

集解藏器曰鱟生南海大小皆牝牡相隨牝無目得牡始行牡去則牝死時珍曰鱟狀如惠文冠及熨斗之形廣尺餘其甲瑩滑靑黑色𨫼背骨眼眼在背上口在腹下頭如蜣蜋十二足似蟹在腹兩旁長五六尺尾長一二尺有三稜如莖背上有骨如角髙七八寸如石珊瑚狀毎過海相負示背乗風而遊俗呼鱟㠶亦曰鱟其血碧色腹有子如黍粟米可爲醯醬尾有珠如粟其行也雌常負雄失其雌則雄卽不動漁人取之必得其雙雄小雌大置之水中雄浮雌沉故閩人婚禮用之其藏伏沙上亦自飛躍皮殻甚堅可爲冠亦屈為杓入香中能發香氣尾可爲小如意脂燒之可集鼠其性畏蚊螫之卽死又畏隙光射之亦死而日中暴之徃徃無恙也南人以其肉作鮓醬小者名鬼鱟食之害人

肉氣味辛鹹平毒藏器曰無毒瘡詵曰多食發𠻳及癬

主治治痔殺蟲【孟詵】尾主治燒焦治腸風血崩中帶下及産後痢【日華】

發眀藏器曰骨及尾燒灰米飮服大主産後痢但須先服生地黃蜜煎等訖然後服此無不斷膽主治大風癩疾殺蟲時珍

附方新一鱟膽散治大風癩疾用鱟魚膽生白礬生綠礬膩粉水銀麝香各半兩研不見星每服一錢幷華水下取下五色涎爲妙【聖濟總録】

殻 主治積年呷𠻳時珍

附方新一積年咳𠻳呀呷作聲用鱟魚殻半兩貝母煨一兩桔梗一分牙皂一分去皮酥炙爲末煉蜜丸彈子大每含一丸嚥汁服三丸卽吐出惡涎而瘥【聖惠】

   *

「三才圖繪」通常は「三才圖會」。明の王圻(おうき)とその次男王思義によって編纂された、絵を主体とした中国の類書(百科事典)。一六〇九年出版。全百六巻。「鱟」は巻九十三の「鳥獸五」に載る。Internet Archive当該の画像を縮小して掲げておく。こりゃまた、魚の二枚重ね! タマリマセンわ!

Sansaizuekabutogani

一応、キャプションを全部繫げて電子化しておく。「※」は(たけかんむり)の下の左に(さんずい)、右に(「果」の下の左右の「はらい」を除去した字)で意味不明であるが、削下の「栰」は「筏」(いかだ)の異体字である。「■」は私には判読不能であるが、どこか「※」の字と似ている気がするので「鱟■」で「鱟」の異名と読める。

   *

 鱟

鱟色青黑十二足足長五六寸悉在腹下舊説過海輒相負於背高尺餘如㠶俗呼爲鱟㠶又其衆如※栰名鱟■其相負則雌常負雄雖波濤終不鮮故號魚媚大率鱟善候風故其音如似

   *

「二書共に形狀を説(とけ)る〔それ〕は「カブトガニ」なり」『「本草」及び「三才圖繪」等の書に載る處の「鱟魚」、「カブトガニ」と能〔(よ)〕く合(あ)へり』上記を見るに(私は中国語は判らぬのだが)、それとなく確かに両書ともに、概ね、カブトガニらしい記述であることぐらいは判る

「其の形を見ずして、繪がけるにや」って益軒先生! 自分の本の図を棚上げしてもらっては困りますッツ!!!

「枝〔(ささへ)〕」推定訓。漢字が違う知れぬが、カブトガニの尾は尖っていて、確かに大きな蠟燭を突き立てるに、これ、もってこいだとは思うのである。

「傷〔(きづつけ)〕らす」「らす」では繋ぎが悪いが、仕方なく、かく訓じた。

「七、八寸〔から〕一尺あまり」二十二~二十四センチメートルから三十センチメートルほど。現在の標準個体よりかなり小振りであるが、尾までの全長ではなく、甲羅長(「竪・橫、同じ」という謂いはそれを強く指示しているように思う)を言っているとすれば、腑に落ちる。

「頭、なし」ヒ、ヒドい! あんまりだわ!]

2018/04/22

中目黒

昼つ方、不図、四十年前、僕が下宿していた中目黒の下宿をストリートビューで見てみた……既に僕の居た旧家はなかった……しかし、僕が一ヶ月に一度だけの贅沢として行っていた豚カツ屋の「山和」が……今もあった……そうして、あの日の早朝、僕を待っていた彼女が――隠れるように立っていた――あの電信柱も……あった……それだけが僕の見つけた、僕だけのセピア色の「懐かしさ」だった…………

飯田幸治郎 看板風景 昭和7(1932)年

写真家飯田幸治郎の「看板風景」(昭和7(1932)年)が、つげ義春の「ねじ式」の一コマのように衝撃的!

Dbtjulfv0aamwan

 

【一時間後に追記】

さらにさらにオロロイタことに、つげのあのアリエナイと思っていたかの「ねじ式」のワン・シーンは――なんと! 実際の台湾の街の写真が元である可能性が強い、という

「坂井直樹のデザインの深読み」のこちらの記事

(つげのコマと「げげげっつ!」って感じの当該実景写真掲載! 王双全の作品で、1962年に台南市内の「明元堂」又は「珠明堂」を撮影したもの、とリンク先にはある)を読んで、アラマッチャンデベソが宙返りしてしまった!!!
 
つーか、さらにツイッターで検索掛けたら、「つげ義春漫画術」で、つげ自身が『これは台湾の町筋を見て描いたのです』と直話で述べているのを発見。とある投稿者は、これは眼科ではなく(つーか、コンな目医者にはワシは絶対入らんぞ!)、古本屋で、その主人が趣味で、古い眼科の看板を集めて吊るしていたのではないか、とあった。いやいや! こりゃ、ムチャ、スゴかとでしょう!
 

御伽百物語卷之四 雲濱の妖怪

 

   雲濱(くものはま)の妖怪

 

Kumonohamanoyoukai

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のもの。]

 

 能登の國の一宮氣多(けた)の神社は能登の大國玉(おほくにたま)にして、羽咋郡(はくひのこほり)に鎭座の神なり。祭祀おほくある中に、每年十一月中(なか)の午の日は、鵜(う)まつりと號して、丑の刻にいたりて是れをつとむるに、十一里を隔てて鵜の浦といふ所より、いつも此神事のため鵜をとらへ、籠にして捧げ來たる役人あり。彼が名を鵜取兵衞(うとりへうゑ)と號して代々(よゝ)おなじ名を呼びつたえて故實とせり。

[やぶちゃん注:「能登の國の一宮氣多(けた)の神社」現在の石川県羽咋(はくい)市寺家町(じけまち)気多大社。大己貴命(おおむなちのみこと)を主祭神とする北陸の古社。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「気多大社」によれば、気多大社では現在も古式の祭りである「鵜祭(うまつり)」が十二月八日から十六日に行われており、これは『大己貴命が高志の北島から鹿島郡の新門島に着いた時、この地の御門主比古神が鵜を献上したのが始まりとされる。祭で鵜を献上する人々は』「鵜捕部(うっとりべ)」と呼ばれ、鹿島(かしま)郡の鹿渡島(かどしま)という所に先祖代々、『住み、その役に仕えていた』(「七尾市観光協会公式サイト」の「鵜祭り」によれば、『七尾市鵜浦町の観音岬』((グーグル・マップ・データ))、『通称「鵜捕崖」で小西家に代々受け継がれた一子相伝の技法で捕えられた「鵜」を』二十一『人の鵜捕部に渡し、その年の当番である』三人が三日がかりで四十キロメートルもの道のりを運んで、『羽咋市の気多大社へ奉納する』とある)。十二月八日に『鵜崖という場所に神酒・米・花などを供えた後、麻糸を付けた竹竿で鵜を捕らえるが』、『手法には一子相伝の秘訣があるという。献上された鵜は社殿の階上に放され、宮司がそれを内陣に行くよう図るが』、『その時の鵜の進み具合によって翌年の作物の豊凶を占う。進み方が芳しくない時は神楽や御祓いを行う。鵜が内陣の机の上にとまったら』、『神官はそれを捕まえて、浜で放す』とある。標題の「雲濱」は実は標題にのみ出現する地名であり、現在のどこに当たるかは不詳である。しかし、主人公は最後に自宅に戻っているのであるから、この浜も「鵜の浦」地区にあるのでなくてはおかしい。七尾市鵜浦町は(グーグル・マップ・データ)である。

「能登の大國玉」ここは所謂、古来からの産土神を指す。

「鵜」カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus。因みに、本邦の河川で行われる鵜飼の鵜は総てカワウ(ウ属カワウ Phalacrocorax carbo)ではなく、より大型のこのウミウである。

「故實」代々の嫡流の習慣・作法。]

 

 去(い)ぬる元祿のころかとよ、この鵜取兵衞いつものごとく神事のためとて、鵜の浦にたち出でまねきけるに、餘多(あまた)ある鵜の中に神事を勤むべき鵜はたゞ一羽のみ。鵜取兵衞が前に來たる事なるを、今宵は珍しく二羽寄り來たりしを、何こゝろなく只一同とらんとしけるに、二羽ながら手にいりければ、不思議の事に思ひて、放ちかへせども、猶(なを)立ちかへりける程に、

『やうこそあらめ。』

とおもひて、籠におさめ、一宮のかたへと急ぎける所に、年の程廿ばかりとも見えたる男の、惣髮(さうはつ)にて、何(なに)さま、學問などに通ひける人にやと見えて、書物をふところに入れたるが、此鵜取兵衞に行きあひて、道づれとなりしばらく物がたりなど仕(し)かけ、打ちつれたるに、何とかしたりけん、俄に腰をひき出(い)でたる程に、

「いかにしけるや。」

と問ひければ、彼(か)の人いふやう、

「殊の外、疝氣(せんき)の發(おこ)りたれば、今は、足も引きがたし。あはれ、その鵜籠に、しばし、乘せて給ひてんや。」

といひけるを、鵜とり兵衞、

『たはぶれぞ。』

とおもひ、

「安き事、乘せ申さん。」

といふに、かの人、立ちあがり、

「さらば乘り申さん。ゆるし給へ。」

と、いふかとおもへば、たちまち鵜籠の中にあり。

[やぶちゃん注:「元祿」一六八八年~一七〇四年。またしても直近の怪奇譚(本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版)。

「何こゝろなく只一同とらんとしけるに」この「一同」は「二羽一緒に」の意ではなく(それでは叙述がおかしくなる)、心に神事に用いる一羽の鵜を獲ることだけを念じて、という副詞「一同に」の意である。

「やうこそあらめ」「何か、儂には判らぬ、鵜同士の縁でもあるのであろう」。

「腰をひき出(い)でたる」ぐっと腰を背後に折り曲げて、蹲るようになったのである。

「疝氣」下腹部の痛む病気。]

 

 されど、さのみ重しともおぼえず。然(しか)も鵜と双(なら)び居たりければ、

『いとあやし。』

とおもへど、さのみとがむる迄にもおよばず。なを、道すがら、はなしうちして行くほどに、一宮までは今二里ばかりもやあるらんとおもふ折ふし、彼の書生、鵜籠より出でていふやう、

「さてさて、今宵はよき御つれをまふけ侍るゆへ、足をさへやすめ給はりぬるうれしさよ。いでや、此御はうしに振舞ふべき物あり、しばらくやすみ給へ。」

と、ありけるほどに、鵜取兵衞も不敵ものにて、

「さらば休み申すべし。」

と、荷をおろしける時、書生、口をあきて、何やらん、物をはき出だすよ、と見えしが、大きなる銅(あかゞね)の茶辨當(ちやべんたう)壹ツ、高蒔繪(たかまきゑ)したる大提重(おほさげぢう)壹組を、はき出しぬ。此中にはさまざまの珍しく奇(あや)しき食物(くひもの)をしたゝめ、魚類、野菜、あらゆる肴(さかな)、みちみちて、鵜取兵衞にくはせ、酒も數盃(すはい)におよびける時、彼(か)の書生、かたりけるは、

「我、もとより、一人の女をつれ來たりぬれども、君が心を如何(いかゞ)と議(はか)りがたくて、今に及べり。くるしかるまじくば、呼び出だして、酒をもらんと思ふなり。」

と語りけるを、

「何のくるしき事か候はん。」

と、鵜取兵衞がいひければ、又、口より女を吐き出だしけるに、年のころ十五、六ばかりと見えたるが、容顏美麗にして愛しつべし。書生もいよいよ興をもよほし、酒をのみける程に、事の外、醉ひてしばらく臥したるに、また女、鵜取兵衞にむかひていふやう、

「我は、もと、此おのこと夫婦のかたらひをなしける折ふし、兄弟もなきものなりといつはりて身を任せ侍るゆへ、心やすくおもひとりて、我ひとりは何方(いづかた)迄も召(めし)ぐして、いたはり、やしなふべきちかひを立て、こゝまでもいつくしみ惠み給ふ也。しかれども、誠(まこと)は我に一人の弟(おとゝ)ありて、我、また、此夫に隱して養ひ侍る也。今、此(この)妻(つま)[やぶちゃん注:「夫」のこと。]の醉ひふしたる隙(ひま)に呼び出だして、物くはせ、酒なんどもてなさんとおもふ也。かまへてかまへて我が夫の眠さめたりとも、此事もらし給ふな。」

と、口かためして、此女もまた、一人の男と、金屛風壹双(いつさう)とを吐きいだし、夫のかたに此屛風をはしらかして隔(へだて)とし、彼のおのこと、うち物かたらひて、酒をのみける内、はや夜も七つ[やぶちゃん注:言い方がちょっとおかしいが、午前四時頃か。]に過ぎぬらんとおもふころ、彼の醉ひふしたるおのこ呵欠(あくび)して起きんとする氣色(けしき)ありければ、是れにおどろきて、女は、最前(さいぜん)、吐き出だしつる男と屛風とを吞みて、何の氣もなきさまにて、かたはらにあり。書生は、やうやうとおきあがり、鵜取兵衞にむかひて、

「扨(さて)も、宵より、さまざまと御世話に預り、道を同じくしてこゝまで來たり。ゆるやかに興を催し侍る事、身にあまりて忝(かたじけ)なし。」

などゝ一禮し、さて、彼(か)の女をはじめ辨當、敷物、悉く、のみつくして、たゞ一つの銀(しろかね)の足打(あしうち)一具をのこして、鵜取兵衞にあたへて、是れより、わかれぬ。

[やぶちゃん注:「足打」足付き折敷(おしき)。膳の代わりともなる縁つきの盆である折敷に足を取り付けたもので、銀製のもの。通常は檜のへぎ(杉や檜などを薄く削った板)で作るから、とんでもない高級品である。]

 

 鵜取兵衞、此足打を得て、宿にかへり、先づ此あやしき咄(はなし)を妻にもかたり、終(つい)に人にも見せて什物(じうもつ)となしけるが、はじめ慥(たしか)に二羽とりたりし鵜の、たゞ一羽ありて籠に入りてありけるも、又、あやしかりける事とぞ。

[やぶちゃん注:さて、本話は実は種本があり、大元は南朝梁の官僚で文人呉均(四六九年~五二〇年)が、六朝時代の宋の東陽无疑 (むぎ)の書いた志怪小説集「斉諧記」(せいかいき)に擬えて書いた志怪小説集「続斉諧記」であり、但し、これは本書に先行する井原西鶴の「西鶴諸国はなし」(貞享二(一六八五)年刊)の「殘るものとて金の鍋」で既に翻案されている(但し、舞台は畿内とし、怪異に逢う主人公は木綿商の問屋業の男にしてある)。而して実は、原話類も、この話も、西鶴のそれも、総て、私は既に柴田宵曲 續妖異博物館 「吐き出された美女」の注で電子化しているのであった。但し、今回は底本を変えて新たに起しており、読みや注も新たに添えてある。しかし、柴田のそれと私の注は、如何に本話が変容されて、それこそ何度も吐き出されて蘇生してきたかというドライヴのさまをよく伝える。未読の方は、一読をお薦めするものである。]

 

森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「とき」


とき

 

Sessaitokizu

 

□翻刻1(読み仮名を省略、一行字数を一致させた。【 】は割注)

とき

 朱鷺【禽經】 紅鶴【汪頴食物本草】

 味甘微温毒なし婦人血證を治し肉性良からず

 能小瘡を發す

 

□翻刻2(読みを丸括弧で添え(〈 〉は私が推定で歴史的仮名遣で添えた部分)、句読点や記号を附して読み易く整序したもの)

「とき」

 「朱鷺(しゆろ)」【「禽經〈きんけい〉」。】 「紅鶴(こうかく)」【汪頴〈わうえい〉「食物本草」。】

 味(あぢ)、甘(あま)く、微(すこ)し温(あたゝ)か。毒なし。婦人血證(ふじんけつしやう)を治(ぢ)し、肉(にく)、性(せい)、良(よ)からず、能(よ)く小瘡(せうさう)を發(はつ)す。

 

[やぶちゃん注:底本及び画像(上下左右をトリミング)は国立国会図書館デジタルコレクションの「華鳥譜」を用いた。

 立案者である森立之(たつゆき/りっし 文化四(一八〇七)年~明治一八(一八八五)年)は元、備後(広島)福山藩医で、伊沢蘭軒に師事し、渋江抽斎とも交流があった。芝居好きが災いして一時、免職となったが、後に帰藩を赦され、幕府医学館講師として「医心方」の校訂に当たったりした。維新後は文部省等に勤務。通称は養竹。号は枳園(きえん)。

 私がことさらに偏愛するこの絵を描いたのは、服部雪斎(文化四(一八〇七年)~没年不詳(明治中期。推定は後述))は、ウィキの「服部雪斎によれば、『生い立ちはよく分かっていないが、谷文晁門下で田安家の家臣遠坂文雍』(とおさかぶんよう 天明三(一七八三)年~嘉永五(一八五二)年:南画家)『の弟子であることから、雪斎も田安家と関係の深い武家出身である可能性が高い。没年は不明であるが、作品に記された年代から』明治二〇(一八八七)年までは存命していたことが『確認されている』。彼の代表作は武蔵石壽編の「目八譜」(私は(遅々として進まぬが)カテゴリで電子化中)であるが、他に本図譜と同じ森(枳園)立之編の「半魚譜」や、栗本丹州編「千蟲譜」の模写、及び、維新後の田中芳男・小野職愨編「有用植物圖説」等がある、稀有の達筆の博物画家である。「華鳥譜」は食用鳥類の図説で、底本とした国立国会図書館デジタルコレクション「華鳥譜」の磯野直秀氏の解題によれば、その『図は正確。立之自筆の解説には、薬効・能毒・味を記す。「華」の字を分解すれば』、六『個の「十」と一個の「一」となるので』、六十一『種の鳥を描いたと立之は序でいう。実際には』六十五『図あるが、チドリ・ニワトリ・ナンキンチャボ・カラスの』四『種がそれぞれ』二『図ずつだから、計算すれば 』六十五から四を引き、確かに六十一『種となる。トキもコウノトリも描かれており、当時は食用にもされていたらしいが、トキは「肉性良からず、能(よく)小瘡を発す」、コウノトリは「味、佳からず」とある。雪斎は維新後も活躍し、明治初期の作らしい』雪斎の写生になる「草木鳥獣図」や最晩年の「服部雪斎自筆写生帖」が国立国会図書館に『残る。後者に所収されている「三河島菜花」は』明治二一(一八八八)年三月三十日の写生であるが、『これ以後の雪斎の写生図は知られていない』とある(下線やぶちゃん)。

 本図は、

鳥綱 Avesペリカン目Pelecaniformesトキ科 Threskiornithidaeトキ亜科Threskiornithinaeトキ属トキ Nipponia nippon

である。詳細はウィキの「トキ」、及び、先ほど私が公開した「和漢三才圖會第四十一 水禽類 朱鷺(トキ)」の本文及び私の注を見られたい。そこでも述べたが、再度、言う。私は昨年の三月、佐渡で、待望の自然の空を飛んでいるつがいのトキを見た。この「ニッポニア・ニッポン」という名の美しい鳥を殺した日本は――万死に値する――

「禽經〈きんけい〉」春秋時代の師曠(しこ)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

『汪頴〈わうえい〉「食物本草」』各種食品の薬効と料理方法などが記載された中国の本草書であるが、成立に不審な点があり、一つは、古く、元の李杲(りこう:号は東垣(とうえん))著とされるものの、名借りた別人である、この汪頴なる人物が明の一六二〇年に刊行したものともされる。全七巻。

「温(あたゝ)か」漢方で適度に体温を高める効果を有することを指す。

「婦人血證(ふじんけつしやう)」ここは広義の漢方で言う「血の道症」(月経・妊娠・出産・産後及び更年期などの女性ホルモンの変動に伴って現れる精神不安や苛立ちなどの精神神経症状及び身体症状)というよりも、もっと狭義の女性生殖器関連の出血性の不具合やおりもの等の不快感(特に産後のそれ)を指していると読むべきであろう。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 朱鷺(トキ)」の私の注を参照されたい。

「能(よ)く小瘡(せうさう)を發(はつ)す」食すと、決まって小さな発疹が肌に生ずる。アレルギー性の蕁麻疹のようである。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 朱鷺(トキ)

Toki

つき   紅鶴 【音嘲】

とき   鵇【所出未詳】

唐からす 唐烏

朱鷺

     桃華鳥【日本紀私

     記和名

     豆木】

 

本綱朱鷺似鷺而頭無絲色紅

△按朱鷺【俗云止木一云唐烏】東北海邊多有之似鷺而無冠毛帶

 紅翎莖最紅其觜黑長而末勾頰亦有紅色脚赤翅白

 皂色能高飛巢樹宿水肉有臊氣

 

 

つき   紅鶴 〔(てう)〕【音、「嘲」。】

とき   鵇〔(とき)〕【出づる所、未詳。】

唐〔(とう)〕からす 唐烏(〔とう〕からす)

朱鷺

     桃華鳥【『「日本紀」私記』に、

     『和名、「豆木〔(つき)〕」』〔と〕。】

 

「本綱」、朱鷺、鷺に似て、頭、絲、無く、色、紅〔(くれなゐ)〕なり。

△按ずるに、朱鷺【俗に「止木〔(とき)〕」と云ひ、一つに「唐烏」とも云ふ。】は東北海邊に多く之れ有り。鷺に似て、冠毛〔(さかげ)〕無く、紅を帶ぶ。翎莖〔(はねくき)〕は最も紅なり。其の觜〔(くちばし)〕、黑く長くして、末、勾(かゞ)まり、頰〔(ほほ)〕にも亦、紅の色、有り。脚、赤く、翅、白皂〔(しろくろ)〕の色〔たり〕。能く高く飛び、樹に巢〔(すく)ひ〕て水に〔(やど)〕す。肉、臊氣〔(なまぐさきかざ)〕有り。

 

[やぶちゃん注:鳥綱 Avesペリカン目 Pelecaniformesトキ科 Threskiornithidaeトキ亜科 Threskiornithinaeトキ属Nipponia Reichenbach, 1853種トキ Nipponia nippon (Temminck, 1835)。詳細はウィキの「トキ」を見られたい。私は昨年の三月、佐渡で、待望の自然の空を飛んでいるつがいのトキを見た。この「ニッポニア・ニッポン」という名の美しい鳥を殺した日本は――万死に値する――

「つき」鴇(とき)の古名。荒俣宏氏の「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「トキ」の項によれば、『現和名はその音が転じたもの』とあり、『意味は不明であるが』、「日本書紀」がこれに『唐花鳥』(本条の「桃華鳥」と同じい)の『漢字をあてたのは体色との連想によるとされる』とある。

「唐〔(とう)〕からす」東洋文庫では『とうがらす』と濁音を附すが、どうも私はつけたくない。この「唐」は私は思うに当て字ではないかと睨んでいる(「からす」はその特有の鳴き声がカラスに似ているからと思われる)。それは、トキの古名には今一つ、「とう」或いは「どう」があるからである。ウィキの「トキ」によれば、『トキは日本では古くから知られていた。奈良時代の文献には「ツキ」「ツク」などの名で現れており』、「日本書紀」「万葉集」では『漢字で「桃花鳥」と記されている平安時代に入ると』、『「鴾」や「鵇」の字が当てられるようになり、この頃は「タウ」「ツキ」と呼ばれていた。「トキ」という名前が出てくるのは江戸時代だが、「ツキ」「タウノトリ」などとも呼ばれていたようである』とある(下線太字やぶちゃん。以下、同じ)。また、同ウィキの「伝承や作品の中のトキ」の項には、『秋田県大館市には以下のような話が伝わっている』として、『諸国を回っていた左甚五郎』(江戸初期に活躍したとされる伝説的彫刻職人)『という男がおり、大館の地に神社を建てることになった。その途中、腹が減ったので地元の農民に握り飯を乞うたものの、「お前のような下手糞な大工にはやれねぇ」と断られてしまったため、怒って杉のくず材で鳥をかたどり、それに田畑を荒らさせた。その鳥がトキであるが、彼は怒りのために鼻を開けるのを忘れてしまい、そのため鳴き声が鼻声になってしまった』という話が記されてあり、事実、『秋田県では他にもダオ(トキのこと)を用いる慣用句が多数伝えられている。また新潟県に伝わる鳥追歌では、スズメやサギと並んでトキが「一番憎き鳥」として挙げられている』とある。荒俣氏の「世界博物大図鑑」にも、『古くトキを〈ドウ〉とよんだのは』、『鼻にかかったその鳴き声にちなんでいる』。『鼻をつまんで〈ダオーン〉と叫べばトキそっくりそっくりの声になる』(荒俣氏らしい粋な記載。思わず、今、私もやってしまった)と記された後、上記の甚五郎を記され、『だからトキは今でも鼻声でドウドウと鳴いている』のだ(この箇所は『野鳥』昭和一六(一九四一)年十一月号所収の熊谷三郎の「どうしてドウ烏といふたか」に拠るとある)とある。佐渡の「トキの森の資料館」の「トキの鳴き声」がここで聴ける。残念ながら、お世辞にもよき声ではない。失望されぬように。

『「日本紀」私記』「日本書紀私記」とも。平安時代の「日本書紀」の講書の内容を纏めた書物郡。である。「日本書紀」については、平安時代、養老五(七二一)年・弘仁三(八一二)年・承和一〇(八四三)年・元慶二(八七八)年・延喜四(九〇四)年・承平六(九三六)年・康保二(九六五)年の七回の講書「日本紀講筵」が行われたとされ、本書はこれらの講書の記録である、ということになる。参照したウィキの「日本書紀私記」によれば、『種々のものが作成されたと考えられているが、現存するものとしては甲乙丙丁の四種が知られている』。『鎌倉時代に成立した』「釈日本紀」『にも、元慶や承平の』本私記類からの引用がなされているとある。

「白皂〔(しろくろ)〕」「皂」は「皁」の異体字で黒色の意である。しかし、どうもこの色はトキの色としてはおかしな謂いであり、東洋文庫訳もここの割注で、『淡』い『朱鷺色を帶びた白色のことをいうか』と疑問を呈している。同感。

「肉、臊氣〔(なまぐさきかざ)〕有り」捕獲して食用にしたことが、本邦でのトキ絶滅の大きな原因の一つであった。ウィキの「トキ」によれば、『トキの肉は古くから食用とされ』「本朝食鑑」(医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書)『にも美味と記されている。しかし』、良安がここで言っているように、『「味はうまいのだが』、『腥(なまぐさ)い」とあり、決して日常的に食されていたのではなく、冷え症の薬や、産後の滋養として』の「薬食い」『であったとされる。「トキ汁」として、豆腐あるいはネギ・ゴボウ・サトイモと一緒に鍋で煮るなどされていたようである』が、『生臭い上に、肉に含まれる色素が汁に溶出して赤くなり、また赤い脂が表面に浮くため、灯りのもとでは気味が悪くてとても食べられなかったため』、『「闇夜汁」と呼ばれた。また、羽は須賀利御太刀(伊勢神宮の神宮式年遷宮のたびに調整する神宝の一つ。柄の装飾としてトキの羽を』二『枚使用)などの工芸品や、羽箒、楊弓の矢羽根、布団、カツオ漁の疑似餌などに用いられていた』(下線やぶちゃん)。また、当時、『トキは田畑を踏み荒らす害鳥』として認識されており、『穢れ意識の影響で肉食が禁じられ』、『鳥獣類が保護されていた江戸時代においても、あまりにトキが多く困っていたため、お上にトキ駆除の申請を出した地域もあったほどである』ともある。『江戸時代まで』、『トキは日本国内に広く分布したが、明治に入り、日本で肉食の習慣が広まり、また経済活動の活発化により』、『軍民問わず』、『羽毛の需要が急増したため、肉や羽根を取る目的で乱獲されるようになった』のが、絶滅の最後の引き金となったのであった。]

 

和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)

Aosagi

あをさぎ

蒼鷺

     【和名美止鷺言綠之下畧】

みどさぎ

和名抄蒼鷺似鷺而小色蒼黑【美止佐木】今稱蒼鷺者似鷺而

大頭背翅皆蒼黑項冠毛亦同色頭上至胸黑毛斑斑翅

端正黑觜外黑内黃腹白脚綠每步水邊食魚飛則能高

擧遠翔其肉最美夏月賞之勝於白鷺

あをさぎ

蒼鷺

     【和名、「美止鷺〔(みどさぎ)〕」。
      言ふこころは「綠(みどり)」の
      下畧なり。】

みどさぎ

「和名抄」に、「蒼鷺」は鷺に似て小さく、色、蒼黑【「美止佐木〔(みどさぎ)〕」】〔と〕。今、「蒼鷺」と稱する者、鷺に似て大なり。頭・背・翅、皆、蒼黑。項〔(うなじ)〕・冠毛(さかげ)も亦、同色なり。頭の上〔より〕胸に至まで、黑毛、斑斑〔(はんはん)〕たり。翅の端(はし)、正黑。觜の外、黑く、内は黃なり。腹、白く、脚、綠なり。每〔(つね)に〕水邊を步〔(ほ)〕して魚を食ふ。飛ぶときは、則ち、能く高く擧〔(あが)〕り、遠く翔〔(かけ)〕る。其の肉、最も美なり。夏月、之を賞す。白鷺より勝れり。

[やぶちゃん注:鳥綱 Avesペリカン目 Pelecaniformesサギ科 Ardeidaeサギ亜科 Ardeinaeアオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi。寺島良安は珍しく「本草綱目」から引いていないが、事実、「本草綱目」の「鷺」類が記されている「禽之一 水禽類」には不思議なことに「蒼鷺」「靑鷺」に相当する記載が全く見られない。アオサギArdea cinerea には四亜種が確認されているが、上記のArdea cinerea jouyi は中華人民共和国北部・朝鮮半島・日本・スマトラ島・ジャワ島等に分布するとあるが、同じく亜種の Ardea cinerea cinerea は東アジア(則ち、中国を含む)に分布しているから、これは甚だ不審である(以下のウィキの分布図を見られたいが、アオサギ類全亜種の繁殖地・越冬地・終年棲息地が示されており、それら区分に中国は全土が含まれてあるからである。また、中文ウィキでも中国を分布域とし(恐らくは Ardea cinerea cinerea の)、ユーラシア大陸の湿地帯に普通に見られるとし、漢名も「蒼鷺」とあるのである。湖北省出身の本草家李時珍がアオサギを知らなかったはずもない。不審である。或いは、全く別の名でどこかに登場しているのかも知れぬが、見かけ上の形態から言って、鷺類の記載の周辺に出ないのはおかしい。或いは私が気づかぬ(そうして良安も)だけか?

 ウィキの「アオサギによれば、『アフリカ大陸、ユーラシア大陸、イギリス、インドネシア西部、日本、フィリピン北部、マダガスカル』に広汎に分布する。『夏季にユーラシア大陸中緯度地方で繁殖し、冬季になるとアフリカ大陸中部、東南アジアなどへ南下し』、『越冬する。アフリカ大陸南部やユーラシア大陸南部などでは周年生息する。日本では亜種アオサギが夏季に北海道で繁殖のため飛来し(夏鳥)、冬季に九州以南に越冬のため飛来し(冬鳥)、本州・四国では周年生息する(留鳥)』。全長は八十八~九十八センチメートル、翼開長で百五十~百七十センチメートル、体重一・二~一・八キログラムとサギ類では大きい部類に属する。『メスよりもオスの方がやや大型になる』。『頭部は白く、後頭に黒い羽毛が伸長(冠羽)する』。『眼上部から後頭の冠羽に繋がるように眉状の黒い筋模様(眉斑)が入』り、『上面は青灰色』。『和名の由来(漢字表記の蒼はくすんだ青色のことも指し、中国語名と同一)になっている。種小名cinereaは「灰色の」の意で、英名(grey)と同義。背の飾羽は灰色』、『下面は白い羽毛で被われ、胸部の羽毛は伸長(飾羽)する。前頸から胸部にかけて破線状の黒い縦縞が入る』。『側胸や腹部は黒い』。『雨覆の色彩は灰色で、初列雨覆や風切羽上面の色彩は黒い。人間でいう手首(翼角)の周辺には』、二『つの白い斑紋が入る』。『嘴は黄色』。『虹彩は黄色』。『後肢は暗褐色』である。『若鳥は上面が灰褐色、頭部が灰色の羽毛で被われる。若鳥や冬羽は上嘴が黒ずむ。眉斑は不明瞭で、後頭に冠羽が伸長しない。繁殖期は眼先がピンク色で、嘴や後肢の色彩もピンク色。非繁殖期は眼先が黄緑色で、嘴や後肢の色彩が黄色。メスはオスと比較すると冠羽や飾羽があまり発達しない』。『河川、湖沼、湿原、干潟、水田などに生息する』。『非繁殖期には単独で生活するが』、『本種のみで数羽が同じねぐらに集まったり』、『コサギなどのねぐらに混ざることもある』。『魚類、両生類、昆虫などを食べるが、鳥類の雛、小型哺乳類を食べることもある』。『水辺で待ち伏せたり、水辺や浅瀬を徘徊しながら獲物を探す』。『小型の魚類は嘴で挟んで捕えるが、コイなどの大型の魚類は側面から嘴で突き刺して捕えることもある』。『獲物を発見すると、素早く頸部を伸ばし』、『捕食する』。『繁殖形態は卵生。松林などに集団繁殖地(コロニー)を形成する』。『主に本種のみのコロニーを形成するが、同科他種のコロニーに混ざることもある』。『主にオスが巣材を集め、メスが樹上に木の枝を組み合わせた皿状の巣を作る』。『日本では』四~五月に一回に三~五個の『卵を産む』。『同じ巣を修理して何年にもわたり』、『使用しつづけ』、『雌雄で抱卵・育雛を行い、抱卵期間は』二十三~二十八日で、『雛は孵化してから』五十~五十五日で『巣立つ』。『生後』二『年で成熟する』。『アシの生えた地上での営巣記録もある』。『養殖魚を食べるため、害鳥とみなされることがある』。本邦『では集団繁殖地は限定的で、日本海側に多い傾向がある』が、『消滅した繁殖地もある』『一方』、『関東地方では近年繁殖数が増加傾向にあり、例として神奈川県では』一九九五『年に初めて繁殖が確認された』とある。はいはい、先週の金曜日、戸塚から大船まで柏尾川川畔を歩きましたが、仰山、蒼鷺、おりましたで。

『「綠(みどり)」の下畧なり』「みどり」の最後の「り」を省略したものである、の意。……思い出すことがある。中学時代、富山県高岡市伏木の勝興寺の近くに住んでいた。その近くに知的障害を持った老女がいた。同級生らは彼女のことを「めどっちゃん」或いは「みどっちゃん」と呼んで馬鹿にしていた。怒ると石を投げてきた(私はそれを離れて見ていた)。意味が判らなかった私が訊ねると「あの婆さんはあれで何と『みどり』って名前なんや」と返ってきた。彼女は私の家のすぐ近くの銭湯に来ては、営業時間が過ぎても湯につかっていて、仕方なしに番台の主人が十円を渡すと、にこにこして帰っていったそうだ。私の亡き母はよく彼女の背を洗ってやったが、それはそれは垢だらけだったそうだ……]

寧日 山口芳光 (思惟的変更テクスト)

 
母、吾が爲に
  
鼠の子蟲籠に入れて與へぬ
 
病間の徒然なる
 
吾指もて小づき戲れ
 
心明るう時を經にけり。
 
あはれ鼠の子まこと子なれば
 
耳朶桃色に 血管(ちすぢ)の脈打つも生物(いきもの)らしく
 
今は前肢を捧げ餌食みゐるも﨟たけし。
 
やがて夕べの風出でぬ――時を經ぬ間に
 
何時か牛乳(ちち)の時間となりぬれば
 
吾鼠の事も忘れ
 
靑葉繁れる窓に
 
牛乳(ちち)を飮みゐたり。
  
 
 
[やぶちゃん注:本日、「青空文庫」公開分の一篇である同詩篇を恣意的に漢字を正字化し、原文の「耳孕」を「耳朶」に訂して示した。]

2018/04/21

甲子夜話卷之四 30 宇和嶋侯、御料理頂戴のとき豪飮の事

 

4-30 宇和嶋侯、御料理頂戴のとき豪飮の事

宇和嶋少將【伊達村侯】壯年の頃か、殿中饗應御料理頂戴ありしとき、御酒の酌に出たる御番衆に向ひ、御祝儀の御饗禮なり、これにて頂戴すべし迚、椀を出されけるに、御給仕の衆つぎかねて扣たるを、恩賜のものなり、是非と申ゆゑ、酌をせしに、滿椀を一息に飮ほし、今一つ迚二椀まで傾たり。その御番衆もあきれて御酌を引しと云。

■やぶちゃんの呟き

「宇和嶋侯」「甲子夜話卷之三 32 伊達村侯【遠江守】、人品の事」と同じく、伊予国宇和島藩第五代藩主伊達村候(だてむらとき 享保一〇(一七二五)年(或いは享保八年とも)生~寛政六(一七九四)年)のことであろう。そこにも『常に酒を好めり』と出る。

「椀を出されけるに、御給仕の衆つぎかねて扣たる」「扣たる」は「ひかへたる」。持参した大振りの茶椀(将軍家より拝領した恩賜の茶椀ではある)で、殿中饗応(将軍家がホスト)の席上では例のない、ある意味でホストへの失礼な仕儀であったことから、相手をした御番方が吃驚し、躊躇もしたのであろう。

「傾たり」「かたむけたり」。

「御番衆もあきれて御酌を引し」「引(ひき)し」。そのマイ椀が相当な量が入るものであったから、それを二杯まで一気飲みされては、万一、酔って粗相があっては酌をした御番方も咎められると考えて、三杯目を所望される前に、そそくさと退いたのだろう。

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十年 思う事あり蚊帳に泣く

 

      思う事あり蚊帳に泣く

 

 はじめ佐藤三吉氏の診察を受けるに先って、居士は漱石氏宛の手紙に「いよいよ外科的の刅物三昧に及ばなければならぬといつたら、僕も男だから直樣(すぐさま)入院して切るなら切つて見ろと尻をまくるつもりに候。尤も切り開いたら血も出ることと存候。膿汁も出ることと存候。痛いことも痛いことと存候。切つたために足の病氣が直つたらしめこのうさうさだけれど少くもびつこになる位のことはあろと覺悟してゐる」と書いた。この手術によって疾患を除去し得ると信ぜぬまでも、うまく行ったらという点に万一の希望を懐いていたことは想像に難くない。然るに手術の結果は居士の苦痛を軽減せず、五月の大半は病牀に呻吟して、筆硯を廃せざるを得なくなった。前年「此病(やまひ)は僂麻質斯(ロイマチス)[やぶちゃん注:既出既注。]にあらず」という宣告を受けた時と、今年佐藤氏の手術を受ける時とでは、その病勢は固(もと)より同日の談でないが、手術後の居士は「小生の病氣には快復といふことなく、やられる度に步を進めるばかり故、此度も一層衰弱し復前日の小生にあらず」と歎じている。この時の病を境として、回復に関する希望は擲(なげう)つより外なくなったのである。

[やぶちゃん注:「しめこのうさうさ」は「占(し)め子(こ)の兎(うさぎ)」の略した言い方。「上手(うま)くいった」の意の「しめた」を、「兎」を「絞める」に掛けた洒落で、物事が思い通りに上手く運んだ際の言葉。]

 

 六月二十八日虚子氏宛の手紙には「秋山米國へ行く由聞きし處、昨夜小生も亦渡行に決したることを夢に見たり。元気いまだ消磨せず、身體老いたり。一噱(いつきやく)」ということが書いてある。秋山というのは後に日本海海戦の参謀として知られた秋山真之(あきやまさねゆき)氏のことで、居士とは松山以来の親友であった。健康な友人の活動を想いやるにつけ、病魔に捉われた自己の姿を憐まざるを得なかったであろう。秋山氏渡米と聞いて、自分もまた渡行の夢を見る。「元氣未だ消磨せず、身體老いたり」という所以はここにある

 

  送秋山眞之米国行(あきやまさねゆきべいこくゆきをおくる)

 君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く

 

の一句は、居士の心境を知る上から看過すべからざるものである。

[やぶちゃん注:「一噱」(いつきゃく)は「一笑」に同じい。「噱」は「大笑(たいしょう)」の意。

「秋山真之」(慶応四(一八六八)年~大正七(一九一八)年)はここにある通り、海軍軍人。最終階級は海軍中将。ウィキの「秋山真之によれば、『松山城下の中徒町(現在の愛媛県松山市)に松山藩の下級武士・秋山久敬の』五『男として生まれ』、『地元の漢学塾に学び、和歌なども習う。親友の正岡子規の上京に刺激され、愛媛県松山中学校(現在の松山東高校)を中学』五『年にて中退』、明治一六(一八八三)年には、『将来の太政大臣を目指すために東京へ行き』、『受験準備のために共立学校(現在の開成高校)などで受験英語を学び、大学予備門(のちの一高、現在の東京大学教養学部)に入学』、『大学予備門では帝国大学進学を目指すが、秋山家の経済的苦境から真之は兄の好古』(陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。「日本騎兵の父」と称された。この当時は陸軍騎兵中尉)『に学費を頼っていたため、卒業後は文学を志して帝国大学文学部に進む子規らとは道を異にし』、明治一九(一八八六)年に海軍兵学校に第十七期生として入校、明治二三(一八九〇)年に『海軍兵学校を首席で卒業し、海軍軍人となる。卒業後は少尉候補生として海防艦「比叡」に乗艦して実地演習を重ね』、明治二五(一八九二)年には海軍少尉となった。『日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦し、偵察など後援活動に参加。戦後には巡洋艦「和泉」分隊士』となり、明治二十九年には『横須賀に転属し、日清戦争での水雷の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所(海軍水雷学校)の学生』となって『水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団第』二『水雷隊付になる。のちに報知艦「八重山」に乗艦し、海軍大尉となる。同年』十一月『には軍令部諜報課員として中国東北部で活動』している。明治三一(一八九八)年に『海軍の留学生派遣が再開されると』、『派遣留学生に選ばれるが、公費留学の枠に入れず』、『はじめは私費留学』として、前年の、この明治三十年に『アメリカへ留学した』。渡米後は『ワシントンに滞在』、『海軍大学校校長、軍事思想家であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、主に大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に務める。このとき』、『米西戦争を観戦武官として視察し』、『報告書「サンチャゴ・デ・クーバの役」(後に「極秘諜報第百十八号」と銘うたれる)を提出する。サンチャゴ・デ・キューバ海戦の一環としてアメリカ海軍が実施したキューバのサンチャゴ港閉塞作戦を見学しており、このときの経験と報告』『が日露戦争における旅順港閉塞作戦の礎となったとも指摘されている』。翌明治三二(一八九九)年『末にイギリス駐在を命じられ、視察を行い』、翌年の八月に帰国した。この年には『海軍省軍務局第』一『課員、常備艦隊参謀になり』、明治三十四年に海軍少佐となり、翌年『には海軍大学校の教官となる』。明治三六(一九〇三)年六月、『宮内省御用掛・稲生真履の三女である季子と築地の水交社で結婚。対露開戦論者として湖月会のメンバーとなって日露開戦を積極的に推進した。翌』明治三七(一九〇四)年には海軍中佐に昇進し、『第一艦隊参謀(後に先任参謀)』となった。この頃、『朝鮮半島を巡り』、『日本とロシアとの関係が険悪化し、同年からの日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、第』一『艦隊旗艦「三笠」に乗艦する。ロシア海軍旅順艦隊(太平洋艦隊)撃滅と封鎖のための旅順口攻撃と旅順港閉塞作戦においては先任参謀を務め、機雷敷設などを行う。ロシアのバルチック艦隊が回航すると迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献、日露戦争における日本の政略上の勝利を決定付けた』。明治三八(一九〇五)年十二月の『連合艦隊解散後は巡洋艦の艦長を歴任し、第』一『艦隊の参謀長を経て』(明治四十一年には海軍大佐となっている)、大正元(一九一二)年十二月一日からは『軍令部第』一『班長(後の軍令部第』一『部長)に任ぜられる』。となり、大正二(一九一三)年には『海軍少将に昇進』した。翌大正三(一九一四)年に発生した『軍艦建造を巡る疑獄事件であるシーメンス事件』では、調査委員会の『委員の一人に指名され』ている。『軍務局長時代には、上海へも寄港する巡洋艦「音羽」に乗艦して中国を実地見聞し、留学生の受け入れなどを提言している。また、孫文とも交流があったと言われ、非公式に革命運動を援助。小池張造らと同志を集め、革命運動を支援する“小池部屋”を結成。久原房之助など実業家に働きかけ』などをしているが、『その後、軍令部転出となったため、対中政策からは離れ』た、などとある。]

 

 七月に入って居士は徐に元気を取戻した。三日、十八日の両度に俳句会を催しているのをはじめ、『日本』に「病牀苦吟」を掲げ、『ホトトギス』には「試問」を寄せて答を募ることになった。「病んで雨ふる。筆をとらんとすれば詩想既に消えて復尋ぬべからず。生きて諸君に負(そむ)くこと多し。いさゝか問題を掲げて一考を煩す。蓋し余が消閑の惡戲のみ」とあるけれども、実は前年の「俳句問答」と反対に、居士の方から問題を出して、後進の指導誘掖(ゆうえき)を図ろうとしたものである。この「試問」は『ホトトギス』が松山で出ている間、あとから次々に課され、前号の答と併せて誌上に掲げられた。『ホトトギス』にはこの外になお『日本』に出た「俳人蕪村」が転載されるようになった。

[やぶちゃん注:「誘掖」力を貸して導いてやること。]

 

 八月二日、山本木外氏から台湾の筆と帳面とを贈られたのを機会に、居士は珍しく日記をつけはじめた。居士はあれだけ筆まめであったにかかわらず、二十五年秋から翌二十六年秋までの分の外、あまり伝わっているものがない。木外氏所贈(おくることろ)の帳面は、上欄にその日の事を記し、下の罫のところに俳句を書きつけているが、その第一日の条に病状その他が詳記してあるから、ここに挙げて置く。

[やぶちゃん注:「山本木外」不詳。なお、この病床日記の一部の画像が「虚子記念文学館報」(二〇一七年十月第三十四号)に載り、説明文にこの名があり、そこには筆と帳面は『台湾土産』とある。

 以下、底本では二字下げ。前後を一行空けた。]

 

頃日(けいじつ)用フル所ノ藥餌

一炭酸クレオソート二粒宛三度(食後)

一散藥(興奮剤)一日四包

一水藥三度

一ブランデー十グラム位宛三度(食時)

一朝飯 雞卵半熟一個、牛乳一合半位、多ク珈琲ヲ加ヘテ飮ム

一午餐 隔日牛肉(淡路町中川ノロース二十錢)牛肉ナラヌ日ハ魚肉三椀位、野菜一皿

一晩餐 魚肉、粥、野菜             ゆ烹

一牛乳三合、其内半ハ朝飮ミ殘リヲ二分シテ午後三時頃ト八九時頃トニ飮ム(湯煎)

一牛肉スープ隔日(一斤十八錢位ナルヲ湯煎ニス)

此外間食スルヿ多シ、医師ハ隔日位ニ來リ背ノ繃帶ヲ更ヘ膿ヲ絞ル。近日體ヲ動カスヿ多キヲ以テ膿ハ自ラ押シ出サレ、故(ことさ)ラニ絞ルモ出ヌ事多シ。体温ハ朝六度位、夕七度四五分位ナルヲ例トス。左足引キツケテ立ツコト能ハズ、左ノ腰ナホ痛ム。仰向(あほむけ)ニ臥シ又ハ左ヲ下ニシテ寐(い)ヌルトキハ咳嗽(ガイソウ)[やぶちゃん注:咳(せき)。]ヲ發ス。每日浣腸ス。

 

 三十年大患後の状態について、これほど委しく記されたものは他に見当らない。食事の分量に関する記載が少いけれども、已に健啖(けんたん)[やぶちゃん注:盛んに食べるさま。]人を驚かすものがあったのではないかと思われる。

 

譚海 卷之二 遠州大井河の川下溺死死亡靈施餓鬼の事


遠州大井河の川下溺死死亡靈施餓鬼の事

○相知(あひしり)たる上人、遠州大井河の川下に草庵を結びて居(ゐ)たりし此の物語せしは、年々洪水に逢(あひ)て溺死の人五人か十人、川こすものを始め行旅(かうりよ)の人たゆる事なし、其死骸ながれくる度ごとに、この草庵にて引揚(ひきあげ)葬收(そうしう)する事也。何國(いづく)いかなる者といふ事もしらねば、塔婆などまうくる事もなし、只河原に埋(うづ)めてその身にそへる杖(つゑ)笠(かさ)などをしるしになし收め置(おく)事也、哀(あはれ)なる事いふばかりなし。每年秋に至れば、月夜或は雨陰の夜など鬼哭(きこく)を聞(きく)事あり、此溺死のものの幽靈也、甚(はなはだ)凄然として聞(きく)にたへず。川上川下と聞(きき)定めず、但(ただ)よもすがら哀々としてたえずとぞ。かゝる事連夜に及ぶ時は、川の邊(あたり)の民(たみ)いひ合せ集錢(しふせん)して施餓鬼會(せがきゑ)を執行(しゆぎやう)する、さすればその夜より鬼哭きこゆる事なしと。打拾(うちすて)法事等なさゞれば、秋の末必ず大水(おほみづ)有(あり)、田畑を損じ迷惑に及ぶ事とぞ。

[やぶちゃん注:「執行」(しゅぎょう)は、ここでは仏事をとり行うこと。]

譚海 卷之二 信州戶隱明神奧院の事

 

信州戶隱明神奧院の事

 

○信州戶隱明神の奧の院は、大蛇にてましますよし。齒を煩ふ者三年梨をくふ事を斷(たち)て立願すれば、はのいたみ立處に治する也。三年の後なしの實ををしきにのせ、川中へ流し賽禮(さいれい)をなす事也。又立願の人戶隱へ參詣すれば、梨を獻ずるなり。神主を賴て奉納するに、神主梨を折敷(をしき)にのせ、うしろ手に捧げ跡しざりの樣にして奧の院の岩窟の前にさし置歸(おきかへ)る。うしろをかへりみず、神主岩窟を十間もさらざるに、まさしくなしの實を喫する音きこゆと云(いふ)、恐しき事也。

[やぶちゃん注:現在の戸隠神社は、長野県長野市北西部の戸隠山周辺に宝光社(ほうこうしゃ)・火之御子社(ひのみこしゃ:「日之御子社」とも書く)・中社(ちゅうしゃ)・九頭龍社(くずりゅうしゃ)及びここで問題とされている奥社(おくしゃ)の五つの社からなる総体を総称するものである。参照したウィキの「戸隠神社」によれば、この奥社の『祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、天照大神が隠れた天岩戸をこじ開けた大力の神。神話では天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が現在の戸隠山であるとされる。中社から車で』二・五キロメートルほどの『車道を登った後』、さらに真っ直ぐに続く約二キロメートルの『参道(車両進入禁止)を登りきった場所にある。途中に赤い「随神門(山門)」があり、その奥は』十七『世紀に植えられたとされる杉並木になっている。神仏分離以前は随神門より』、『奥の参道左右に子坊が立ち並んでいた。旧奥院。廃仏毀釈までは聖観音菩薩(現在は千曲市の長泉寺本尊、仁王尊像は長野市の寛慶寺)を祀っていた』。「戸隠三十三窟」(実態不明)と呼ばれる一帯があって、「本窟」・「宝窟」と称される中心となる窟が奥社本殿内部にあるとされるが、『非公開』であるため、その『内部に何があるのかは秘密とされている』とある。グーグル・マップ・データでは、ここ。但し、底本の竹内利美氏の注では奥社の『社殿の上の岩窟に』は『九頭竜権現を祭っている』と記してある(下線太字やぶちゃん)。なお、奥社の背後は戸隠山の絶壁となっているそうである(ここはウィキの奥社の写真のキャプションに拠る)。なお、戸隠神社の濫觴は『一説には』、この『現在の奥社の創建が』孝元天皇五(紀元前二一〇)年とも『言われる』ものの、『縁起によれば』、『飯縄山に登った「学問」という僧が発見した奥社の地で最初に修験を始めたのが』嘉祥二(八四九)年『とされている』という。また、「日本書紀」の「天武紀」には天武天皇一三(六八四)年、『三野王(美努王)を信濃に派遣し』、『地図を作らせ、翌』年、朝臣三人を『派遣して仮の宮を造らせ』たとし、また、持統天皇五(六九一)年には、『持統天皇が使者を遣わし、信濃の国の須波、水内などの神を祭らせたとされていて、この水内の神が戸隠神社』である『とする説もある』とある。

 また、ここで何故、「歯」であり「梨」であるのか? なのであるが、これに就いては、「信州戸隠の宿坊 宮澤旅館」の「三 九頭竜神と歯の神様と梨」で、驚くほど詳しい考察がなされてある。詳細はリンク先をご覧頂きたいのであるが、要は「九頭竜神」は「白山信仰」との結び付きが多く、本邦の多くの白山神社が「歯の神様」とされており、昔の歯の病気は歯周病(歯槽膿漏)が主であって、それよって生じた口腔内疾患を「歯臭(はくさ)」と称したことから、類似音の「はくさん」と結びついた(類感呪術的連合である)と考えられているらしい。また、梨と九頭竜神との結び付きも全国各地で確認されているとし、九頭竜神は本来は水神であったこと、中国の幻想地誌「山海経」の「西山経」に、天帝の都に通ずるとされる伝説の山崑崙山の周囲には、羽毛をも浮かばせることが出来ない弱水という不思議な川が流れており、その川は誰も渡れぬ「溺れ川」と考えられていたものの、鉄壁の神仙の防衛濠である弱水を例外的に渡渉出来るアイテムが二つ記されていて、その一つは「龍」であり、今一つは「沙棠」と称する木の実であると記す。この「棠」は西晋の郭璞(かくはく)の注では「梨」とされる梨は中国原産で、『古代中国における梨の認識は、水を司る仙薬としての木の実であった』。『すなわち、龍はすべての水を司る神、つまり、最高の水神であり、また、梨を食べることは、龍と同じく最高の水神に同化するというわけである。このように、龍と梨は神仙思想において一致する。最高の水神である竜神に捧げる品として、梨は最高の神供なのである。してみれば、梨を捧げられる戸隠の九頭龍神は、竜神中の竜神であり、まさに竜王の最高神であるといえるのではなかろうか』とあり(下線太字やぶちゃん)、これは痛快に目から鱗であった。

「をしき」「折敷」。檜の折(へ)ぎ(薄く削った板)で作った縁(ふち)附きの盆。通常は方形で、供物や食器などを載せる。

「賽禮」御礼参り。「賽」自体が「神から受けた福に感謝して祭る」の意。

「十間」十八・一八メートル。]

譚海 卷之二 佐渡國風俗の事

 

佐渡國風俗の事

○佐渡國は方二十里餘に及べり。相川といふ所に陣屋あり、則(すなはち)奉行所也、其國の人は城下といひならへり。城下の遊女町を山里町と云(いふ)。海舶の往來する所ゆゑ華美なる事なり。金山は古來より掘來(ほりきた)る所壹箇所也、銀山は數箇所にあり。安永元年三月五日霖雨洪水によりて、此金山靑判しきといふへ水押し入(いり)、種々(いろいろ)工夫を加へ修理しけれども、しきの水かへほす事なりがたくして、此年より金山終(つひ)に廢したり。金山にかゝりて生活せし者、業を止め產を破(やぶり)たる事甚(はなはだ)多し。當國第一の高山をきんほくさんと云。則(すなはち)金北山大權現にて墓地なり。本地は地藏ぼさつにて絕頂におはします。每年六月より八月まで登山する也。絕頂まで三里あり、登山してのぞめば能登のはな奧州の方なる山など見ゆ。北東にあたりて島二つ見ゆ、靑島・飛島(とびしま)といふ。夫より山ごえにくだりて檀特山(だんとくせん)といふ所へ參詣す、尤(もつとも)女人參詣をゆるさず。山上よりだんとくせんまで七里、その際(きは)峻岨言語同斷なり。往々古木の朽(くち)てたふれたる道に橫(よこたは)りたるをこえゆく。喬木の朽たる甚多し。檀特山は弘法大師開基にして瀑布數箇所有(あり)、四十八瀧と云(いへ)り、高山にはあらず。又老の湊と云(いふ)所に順德院のみさゝぎ有、土俗順德王といへり、御陵(みささぎ)の松樹ことごとく都の方へなびきたり。其所の苔をとりて瘧(おこり)ふるひたるものにのましむるに立(たち)どころに平愈す。ほとゝぎす鳴けば都の戀しきとありし御製より、此邊(このあたり)すべて郭公(ほととぎす)なく事なしと云り。又蓮花淵といふ眞言寺あり、佐渡一國の諸宗の惣管領なり、權威甚し。奉行所へ年禮つとむる事も六月まで延引するは怠慢とせざる例なり。日蓮宗の寺は諸所にあり、いづれも伽藍にして壯麗也。又妙法蓮華經の文字波上に浮ぶ所はまうらと云(いふ)所也、渡海の路にして時々にみる事なり。又二つ岩といふ所に住(すむ)むじなあり、佐渡國のむじなの惣大將にして則(すなはち)二つ岩團三郞と稱す。山の奧に住居(すまひ)するといひならはして、人おそれて其邊(あたり)へは容易に往來せず、往昔(そのかみ)此二つ岩の金山繁昌せし時、此むじな日雇に化(ばけ)て金山のかせぎせしゆへ金もうけして、此むじな甚(はなはだ)豪富なり、時ありて夜中病人の爲に醫者まねかれて行(ゆく)事あり。むじなの子孫療治して謝禮にもらひたる錢、所持のもの九十九錢まで用ひなくしても、壹錢をとゞめ置けば、自然ともとの百錢にふへる事と云傳(いひつた)へたり。すべて佐渡はむじなの多き所にして、諺にも江戶の狐に佐渡のむじなといひならはしたり。金山のふいごに用るむじなの皮壹年數百枚也。皮を御買上に被ㇾ成(なられ)、竃元(かまもと)御吟味御渡しある事也。佐渡の國瀕海(ひんかい)の地ゆゑ、風ははげし、雪も深し。大竹まれにあり。うなぎは八つめなるもの斗(ばか)りなり。鮭は越後より持來(もちきた)る斗り也、鱒は多し、鰹・しゞみはあり、蛤はなし。

[やぶちゃん注:私の好きな佐渡島譚。私は既に友人らと四度も佐渡に旅している。私には自明の部分も多いが、幾つかの注は附した。

「佐渡國は方二十里餘に及べり」「二十里」は七十八・五四五キロメートル。現在の新潟県佐渡市の佐渡島は、ウィキの「佐渡島」のデータでは周囲が二百六十二・七キロメートル、面積八百五十四・七六平方キロメートルで、これは、島嶼部を除いた東京都(東京二十三区と多摩地域)の面積千七百九十一・四七平方キロメートルの約四十八%に当たり、本邦を形成する本州などの主要四島と北方領土を除いた日本の島の中で、沖縄本島に次ぐ面積を持っている。

「相川」現在の佐渡市相川(佐渡島は全島で佐渡市)地区。旧新潟県佐渡郡相川町(あいかわまち)。佐渡島の北西の日本海に面した海岸にそって細長く位置している。内陸は大佐渡山地で海岸線近くまで山が迫っているが、南端部分が比較的なだらかな地形となっており、当時は佐渡金山(相川金山)と佐渡奉行所が置かれた佐渡国の中心地であった。の中央一帯(グーグル・マップ・データ)。

「陣屋」「奉行所」佐渡奉行所。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「山里町」これは恐らく「山咲町」の津村の聴き取りの誤りである。ブログ「佐渡の翼」の佐渡の翼氏の佐渡相川の遊郭の遊女の記載と、同じブログ内の平井れおな氏の山咲遊郭跡の記載を参照されたい。そこは現在の相川会津町附近である(グーグル・マップ・データ)。

「安永元年三月五日」正確に言うと明和九年。同年はこの八ヶ月後の十一月十六日(グレゴリオ暦一七七二年十二月十日)
に安永に改元している
からである。なお、これは同年中、まさに各地で引き続いて起こった火事や風水害が「明和九年(めいわくねん)」すなわち「迷惑年」によるものとされたことが大きな改元理由であった。明和九年三月五日は一七七二年四月七日である。

「霖雨」何日も降り続く雨。長雨。季節的に梅雨時でさえないから、天候異変であったことが判る。

「靑判しき」不詳。直後に「しきの水かへほす事なりがたくして」と出るから、「しき」(「敷」か?)が地名であることは間違いないが、現存する相川地区の地名にそれらしいものは見当たらない。識者の御教授を乞う。

「此年より金山終(つひ)に廢したり」信頼出来る諸データを見ても、金山は元禄期(一六八八年から一七〇四年)をピークとして江戸中期以降は産出量が減衰したものの、金発掘自体は決して廃止されていないので、この津村の謂いは誤りである。ウィキの「佐渡金山」にも、江戸後期には江戸から約千八百人の無宿人(浮浪者)や罪人がこの金山に強制連行され、過酷な労働を強いられたとある(但し、『これは見せしめの意味合いが強かったと言われ』、『無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたという金山側の事情もある』とある)。

「業」「なりはひ」と読みたい。

「きんほくさん」標高千百七十一・九メートルの島内最高峰金北山(きんぽくさん)。大佐渡山地のほぼ中央に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。江戸初期に佐渡金山が発見される以前は単に「北山(ほくさん)」と呼ばれていた。佐渡では古来より信仰の山とされ、山頂には勝軍地蔵(地蔵菩薩の一つで、「これに祈れば必ず戦さに勝つ」とされた地蔵。鎌倉以後、武家の間で信仰された。地蔵菩薩が身に甲冑を着け、右手に錫杖を持ち、左の掌に如意宝珠を載せ、軍馬に跨った姿などで造形された)を祭る金北山神社があり、中世から近世にかけては峰続きの金剛山・檀特山へと修験の「三山駆け」が行われたという。昭和の初めまで、島の男子は七歳になると、「御山参り」と称して金北山に登り、シャクナゲを持ち帰って祝う風習があったという、とヤマケイオンライン」のこちらの記事にあった。

「靑島」粟島(あわしま)の誤り。現在の新潟県北部の日本海に浮かぶ島で、全島が新潟県岩船郡粟島浦村に属する(ここ(グーグル・マップ・データ))有人島。

「飛島」現在の山形県酒田市に属する小島。酒田港から北西三十九キロメートル沖合に浮かぶ、山形県唯一の有人島。本土からの距離は秋田県の方が近く、山形県で最も北に位置している。新潟県の佐渡島及び粟島とは一直線に結ばれた「海の道」であり、古来より交流があったと、参照したウィキの「飛島」にある。この中央にある島(グーグル・マップ・データ)。

「檀特山」標高九百六メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは装備なしの登山で滑落死亡例があり、装備のない入山は規制されている(ブログ「佐渡市地域おこし協力隊」の「【石名・和木】檀特山と奥の院・おこもり堂」の記事に拠った)。

「老の湊と云(いふ)所に順德院のみさゝぎ有」順徳天皇(建久八(一一九七)年~仁治三(一二四二)年)は父後鳥羽上皇とともに承久の乱を引き起こすも失敗し、佐渡に配流され、そこで崩御した。ウィキの「順徳天皇」によれば、『新潟県佐渡市真野にある真野御陵(まののみささぎ)は正式には火葬塚であるが、古来地元から御陵として崇敬されてきたもので』、延宝七(一六七九)年に『佐渡奉行曽根吉正が修補を加え』、明治七(一八七四)年以降、『政府の管理下にある』とある。真野湾の小佐渡の西の根の部分にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「瘧(おこり)」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。戦中まで本邦ではしばしば三日熱マラリアの流行があった。太平洋戦争終結後、一九五〇年代には完全に撲滅された。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカAnopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。さて、ここに、この順徳天皇の御陵「の苔をとりて」「のましむるに立(たち)どころに平愈す」というのは、何か謂れがありそうだが(順徳天皇がひどく瘧を患ったか、その死因が何であったか)、調べ得なかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの「越後佐渡に於ける順徳天皇聖蹟誌」の中の「第四章 御崩御と其後」の「御不豫と崩御」にある「平戸記」の詳しい記載を見るに、死の前にひどい食欲不振を見せているのはマラリアの潜熱によるものである可能性は十分に考えられる。

「ほとゝぎす鳴けば都の戀しき」これは、

 鳴けば聞く聞けば都の戀しさにこの里過ぎよ山ほととぎす

であろうか。これ、諸記事で順徳天皇御製とするが(個人ブログ「けんぱの日記vol.2」の「和田八幡 時鳥啼かずの里」によれば、佐渡には同歌の碑もあるようだ)、しかし、それよりずっと以前、保元の乱で讃岐に配流された崇徳上皇の御製としても載っている(個人ブログ「平家物語・義経伝説の史跡を巡る」の「崇徳院ゆかりの地(鼓岡神社・木の丸殿)」を参照されたい)から、私は孰れの御製とも信じ難いし、和歌として駄作としか思えぬ

「此邊(このあたり)すべて郭公(ほととぎす)なく事なしと云り」前注のそれぞれのリンク先にこれまた同じことが書かれてある。

「蓮花淵といふ眞言寺あり」フェイスブックの「ようこそ、旅の人!佐渡を千倍愉しむっちゃ」(フェイスブックのアカウントを持たない方はリンク出来ない)の二〇一三年五月二十九日の記事「蓮華峰寺考」によれば、佐渡には夥しい数の寺院が存立し、二〇一〇年現在に於いて二百八十一ヶ寺『という数字があるが、明治初期には』五百三十九ヶ寺と、『ほぼ集落ごとに』一つ或いは二つの『寺院があったという』とある(この数字の激減は私には非常に腑に落ちる。一言言っておくと、余り知られていないが、かの悪名高い神仏分離令による廃仏毀釈は実は島嶼部(私は隠岐の惨状を調べたことがある)に於いて最も苛烈に行われ、寺院への放火・住僧の追放及び僧への傷害・殺人未遂行為にまで及んだのである)『それらの開基のいわれは』七百年代から八百年代初期にまで『遡るなど、とてつもない古刹が多』く、『現在、その』四十%は『真言宗寺である』あるとある。そして以下で、『佐渡を代表する名刹の寺院』で、『空海により開基された、という伝承がある』、『小木に近い蓮華峰寺(れんげぶじ)』の伝承・歴史について書かれているのであるが、この蓮華峰寺(れんげぶじ)という寺名は「蓮華淵(れんげぶち)」と発音が酷似するから、私はこれも津村の聴き取りの誤りであると思う。蓮華峰寺は新潟県佐渡市小比叡(こびえ:地名からして既に空海!)で、ここ(グーグル・マップ・データ)。まさについこの間(二〇一八年三月)、私はここを訪れた。詳しくはウィキの「蓮華峰寺」を参照されたいが、空海開山伝承は無論、信じられない。

「奉行所へ年禮つとむる事も六月まで延引するは怠慢とせざる例なり」奉行所への年始の挨拶は、この寺に限って、半年後の六月まで延期しても、それを怠慢とはしないという例さえあるほどである。

「日蓮宗の寺は諸所にあり」共有ブログ・サイト「佐渡広場」の本間氏の非常に詳しい「佐渡の寺院40:寺院データ分析」によれば、一九九五年現在の数値で、佐渡の日蓮宗寺院二十八ヶ寺で佐渡全体の寺院の十%しかない。日蓮は佐渡に三年流罪となっている割には、「日蓮宗の寺は少ない」と、先月の佐渡行で案内して呉れたタクシーの運転手さんは言っていたことが、ここでまさに確認出来た。因みに、ここにも無論、真言宗寺院の圧倒的なことや、蓮華峰寺のデータも載る。必見。

「妙法蓮華經の文字波上に浮ぶ所はまうらと云(いふ)所也」佐渡市真浦。現在、「波題目」記念石碑が建つ(先月、車窓からは見た)。「さど観光ナビ」の解説によれば、『鎌倉幕府から赦免された日蓮聖人が船出した「真浦の津」に建ち』、『この地の言い伝えによれば、聖人が沖に向かう船の上から朝日に向かって合掌すると、波間から「南無妙法蓮華経」の』七『文字が浮かび上がったとされ』、『真浦地区は日蓮聖人ゆかりの地として、多くの伝説が残り、「日蓮堂」「日蓮洞窟」などの霊蹟が点在してい』るとある。写真も地図もある。

「二つ岩といふ所に住(すむ)むじなあり、佐渡國のむじなの惣大將にして則(すなはち)二つ岩團三郞と稱す。……」団三郎狸を祀ったとされる本拠地二ツ岩神社(大明神)には、一年前、昨年の三月の佐渡行で私の希望で皆で参った(火災で哀しく酷いことになっていた)。ここである(グーグル・マップ・データ)。私は団三郎狸の親衛隊で、古くは、

「耳囊 卷之三 佐州團三郞狸の事」

に始まり、佐渡に特化した怪談集の、

「佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郞兵衞狸の行列を見し事」

「佐渡怪談藻鹽草 窪田松慶療治に行事」

「佐渡怪談藻鹽草 寺田何某怪異に逢ふ事」

の外、

柴田宵曲 續妖異博物館 「診療綺譚」

に出る。他にも柳田國男の「一目小僧その他」の「隱れ里」の、

『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 八』

等で、言及しているこれらを見て戴ければ、ここで津村が簡単にしか記していない奇談が詳細に分かるので、未見の方は是非、読まれたい

「すべて佐渡はむじなの多き所にして、諺にも江戶の狐に佐渡のむじなといひならはしたり」実際、佐渡にはキツネは棲息しない。狸はここに書かれた通り、鞴(ふいご)を作るための皮革を得るために本土から人為的に移入したものが繁殖したのである。因みに、先月の佐渡行では野生の貂(てん)を小佐渡で目撃した(恐らくはこれも人為移入)。

「竃元(かまもと)」この場合は奉行所台所、則ち、勝手方(財務会計担当)のことを指していよう。

「瀕海(ひんかい)」臨海に同じい。

「うなぎは八つめなるもの」無顎上綱頭甲綱ヤツメウナギ目カワヤツメLethenteron japonicum。外見の形状が鰻に似ていることから「八ツ目鰻」と呼ばれるが、一般的な「ウナギ」(条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属 Anguilla)とは全く関係のない生物であり、ぼうコンニャクの市場魚貝類図鑑」カワヤツメによれば、『分類学的に魚類ではないとされることのある無顎類で』、『実際に鱗もなく』、『ウナギのように粘液も出さない』。『川で生まれて、川に産卵のために上る。この川に上るヤツメウナギを取り食べている。古く東北・北海道などでは普通に見られ食べられていたが、近年激減、珍しくて高価なものとなっている』。『海で』二~三『年過ごし』た後、『産卵するために川に上る』。稚魚は概ね三~四年で『成熟し、湖の浅い湧水のある場所で産卵』し、『産卵後』は『死んでしまう』とある。なお、佐渡市の「生物多様性佐渡戦略」の第2章 佐渡における生物多様性の現状と課題(PDF)によれば、『佐渡は純淡水魚がほとんど生息していなかったと考えられて』いて、『コイやドジョウなども島外から入ってきたと考えられており、最近ではカワムツ、タモロコ、ゲンゴロウブナ、タイリクバラタナゴ、オオクチバス、ブルーギルが移入されてい』るとする(但し、ヤツメウナギはライフ・サイクルの中で海と川を回遊するので、純淡水魚ではないから、移入種ではないと考えてよい。新潟の本土では多数の漁獲が認められている)。『「レッドデータブックにいがた」ではイトヨが絶滅危惧類、カワヤツメ、ウナギ、メダカ、シロウオ、カマキリ、ウツセミカジカが準絶滅危惧種、クロヨシノボリ、チチブ、ビリンゴ、カンキョウカジカが地域個体群に指定されてい』るとあるので、津村の言う真正のウナギがいないという聴き取りも嘘と考えてよい。対馬海流の強い影響下にある佐渡島にウナギがいないはずがないと私は思う

「蛤はなし」これも嘘。さどかけす氏のブログ「佐渡カケス通信」の佐渡4000年の歴史!に、佐渡にある四千年も前の繩文遺跡である「藤塚貝塚」からハマグリの殻が出土しているとある。また、サイト「司馬遼太郎の風景」佐渡のみちの記載では、現在、加茂湖でハマグリが獲れるとあり、これは移植した可能性もあるが、縄文より後に佐渡からハマグリが消滅した可能性を考える方が私は、遙かに不自然だと思う。]

オースン・スコット・カード 無伴奏ソナタ

昨日、髪結いに行き、夕刻の妻のリハビリの帰りまでの時間潰しに、戸塚から大船まで歩いた。柏尾川には鴨や白鷺や青鷺や川鵜がいて、調整池では牛蛙が鳴いていた。皐月がすっかり満開だった。

歩きながら、アメリカのSF作家オースン・スコット・カードの「無伴奏ソナタ」Orson Scott CardUnaccompanied Sonata 1980)を読んだ(ハヤカワ文庫・冬川亘訳)。

……私は教師を辞めて以来、この6年の間、各種テクストの電子化作業以外の目的で、純粋に読書を楽しむために読んだ本は、十数冊しかない。教員時代は二日に一度は本屋に向かい、一ヶ月の本の購入総額も数万円を下らなかったが、今や、本屋には滅多に行くこともなく(今から以前に行ったのは実に一ヶ月半ほども前だ)、野人になって、ただ読むために買った本も、ただ、四、五冊しかない。書斎には、昔、買い溜めてしまった本が、あたら、紙魚の餌食となっているばかり。私は私の所持している書籍・雑誌の半分も読んでいないだろう。今日は不図、二十四年も前に買っていながら、ろくに読みもしなかったそれ(当該の原書及び訳書は十一篇の短編集)をポケットに入れて家を出たのであった……
 
この短篇、何か、ひどくしみじみしてしまった。

SFで、かく、しみじみしてしまったのことは、実に二十代の始めに読んだ、諸星大二郎の漫画で手塚賞入選した「生物都市」と、同じ彼の「感情のある風景」(これは漢文で「杜子春」をやった時に授業でも扱ったので覚えている教え子諸君も多かろう。私の小攷『立ち尽くす少年――諸星大二郎「感情のある風景」小論』もサイトにある。私は実を言うと、この「感情のある風景」を読み終わった時、図らずも落涙したことを告白しておく)ぐらいなものだのに……。しかし、まあ、ネタバレになるから、「無伴奏ソナタ」の梗概はここには書かない。一寸書いても、私の感じた「しみじみ」感は損なわれると思うからだ。

同文庫本の他の作品は、SFでも、かなり偏頗なグループに属するものであり、一冊まるごと買うのは、そうしたフリーキーでない方以外には、お薦め出来ないが、たった三十ページだし、立ち読み出来る。なされんことをお薦めする。

2018/04/20

進化論講話 丘淺次郎 第十四章 生態學上の事實(3) 三 防禦の器官

 

     三 防禦の器官

 

 若し攻める方の動物に攻擊の器官が發達して、攻められる方の動物に防禦の裝置がなかつたならば、攻められる動物は忽ち攻め亡されて、種屬が斷絶してしまふ筈である。今日雙方ともに相對して生存して居るのは、全く一方に防禦の仕掛けが發達して、容易には攻め盡されぬからであるが、動物界を見渡すと、その手段の種々樣々なことは、到底枚擧することは出來ぬ。

 總べて攻擊の器械はまた防禦のためにも用ゐ得られるもので、同じ劍、同じ銃を以て攻擊も出來、防禦も出來る如く、牙や爪は孰れの役にも立つ。眼・鼻・耳の如き感覺器官も、足・翼・鰭の如き運動器官も、全くその通りで、臨機應變に兩樣に用ゐられるが、人間日々の行爲から考へて見ると、人間の智力の如きも、たゞ敵を攻め、己れを護るための道具に過ぎぬ。

 鹿・兎等の如き草食獸の足の速いのは、全く防禦のためばかりである。山に獵に行つても、海に漁に行つても、一且見付けた動物が我々の手に入らぬのは、何時でも必ず逃げられるからである所を見れば、敵に優つた速力を有することは、防禦の手段中實に第一等に位し、三十六計これに如くものは到底ない。而して速に運動するには、眼が餘程發達せなければならず、敵の近づくのを未然に知るには、鼻も耳も鋭くなければならぬ。盲人は如何に足が達者でも、目明(めあき)の如く走ることが出來ぬ通り、幾ら運動の器官ばかりが完全に出來ても、感覺の器官がこれに伴うて發達せなければ、速な運動は出來るものでない。動物中で最も運動の速な鳥類は、また服の鋭いことに於ても一番であるのは、その證據である。されば、鹿・兎等の感覺器官は逃走に必要なもの故、やはり防禦の器官と見倣さねばならぬが、その頗る發達して容易に敵を近くへ寄せ附けぬことは、銃獵者の常に熟知する所である。これらの動物を捕へて食ふ動物は、尚一層迅速な運動の力を有し、尚一層鋭敏な感覺器官を具へなければ、容易に之を獲ることが出來ぬ。

 

Ikanotousouhou

[烏賊の逃走法]

[やぶちゃん注:このパートのここから六枚は、総て講談社学術文庫版のものを用いた。]

[やぶちゃん注:サメ(種は不明。先端部の尖りの形状は軟骨魚綱メジロザメ目メジロザメ科ヨシキリザメ属ヨシキリザメ Prionace glauca に似ているようには見えるが、全体に寸詰っているので違うか)に襲われるイカであるが、このイカは背面の紋様や外套膜辺縁部の「エンペラ」の有意な広がりなどから見て、頭足綱二鰓亜綱コウイカ目コウイカ科コウイカ属コウイカ Sepia (Platysepia) esculenta 或いはその近縁種と思われる。]

 

 隱れるのも敵の攻擊の範圍外に出ること故、逃走の一種と見倣しても宜しい。鳥賊の類は、敵の攻擊に遇へば、先づ墨汁を吐いて、海水の中に黑雲を造り、自分の身體が敵に見えぬ折を利用して、遠く意外の方向へ逃げてしまふが、之などは隱遁法の最も人に知られた例である。

 

Igagurigani

 

[いばらがに]

[やぶちゃん注:丘先生、カニ類は苦手だったものか、甲殻上綱軟甲(エビ)綱真軟綱(エビ)亜綱エビ上目十脚目異尾下目タラバガニ科イバラガニ属イバラガニ Lithodes turritus はこの図のように栗のイガ状には棘は全く出ないから、完全に誤りである。これは見た目文字通りの、タラバガニ科エゾイバラガニ属イガグリガニ Paralomis hystrix である。]

 

 逃亡によらず、敵の攻擊に對して身を護る手段の中で、最も普通なのは、堅牢な甲冑を被むることである。蝦・蟹の甲、龜の甲などもこの例であるが、最も堅固なのは恐らく貝類の殼であらう。蛤・「あさり」等でも、殼が相應に厚いが、熱帶地方の海に産する「しやこ」といふ大きな貝の如きは、殼だけの重さが四五十貫目[やぶちゃん注:百五十~百八十七・五キログラム]もある。かやうな殼を有する動物は危險の恐れのあるときは、單に殼を閉ぢさへすれば、最早少しも心配はない。蛤位の貝でも殼を閉ぢて居れば、之を攻擊し得る動物は比較的に少い。倂し重い甲冑と速い運動とは到底兩立せぬ性質のもの故、堅固に身を裝うた動物は運動の方は勢ひ甚だ遲からざるを得ぬ。龜は何時も運動の遲い例に引き出されるが、貝類に至つては、その遲いこと龜の數倍で、中には牡蠣の如く全く移動の力のない種類もある。それ故、殼を破る裝置を具へて貝類を專門に攻擊する動物に遇うては、到底叶わぬ。例へば猫鮫の類は、臼の如き齒が丈夫に發達して、如何なる貝でも、殼のまゝ嚙み碎いて食つてしまふ。一名之を「榮螺割り」と名づけるのは、斯かる性質から起つたことであらう。また「つめた貝」は口の直後に、他の介殼の石灰質を溶かして孔を穿つための特別の器官があり、之を用ゐて巧に蛤の殼などに孔をあけ、中の肉を食ふ。海岸に落ちて居る介殼を拾つて見ると、尖つた處に近く小さな圓い孔のあるのを、澤山見出すが、之は「つめた貝」の造つた孔である。一方の動物に如何に防禦の裝置が發達しても、また之を破るべき器官が他の動物の身體に存する具合は、恰も錠前が如何に改良せられ進步しても、之と同時に、盜賊の方では、また之を開くべき合鍵を工夫して造るのと同樣である。

[やぶちゃん注:「しやこ」斧足綱異歯亜綱 マルスダレガイ目ザルガイ上科ザルガイ科シャコガイ(硨磲貝)亜科 Tridacnidaeのシャゴウガイ(車螯貝)属 Hippopus・シャコガイ属 Tridacna に属するシャコガイ類。言わずもがなであるが、最も大型とされるシャコガイ属オオシャコガイ(Tridacna (Tridacna) gigas)は、殻長二メートル近くに及び、重量も二百キログラムを超えるから、丘先生の謂いは大袈裟ではない。

「猫鮫」「榮螺割り」軟骨魚綱板鰓亜綱ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus。同種は底生性で、岩場や海藻類の群生地帯に棲み、硬い殻を持つサザエなどの貝類やウニ・甲殻類などを好んで食べる。臼歯状の強力な後歯で、殻を噛み砕いて食べることから「サザエワリ(栄螺割)」の異名を持つ。

「つめた貝」腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ属 Glossaulax ツメタガイGlossaulax didyma 及びその近縁種。以下、吉良図鑑(保育社昭和三四(一九五九)年刊)とウィキの「ツメタガイ」によれば、ツメタガイGlossaulax didyma は『インド以東、西太平洋の浅海に分布する。日本では北海道以南から沖縄にかけて広く分布』し、潮間帯から水深十~五十センチメートル程度の砂地のごく浅海に多く、殻幅五センチメートルほどの中型の巻き貝(とあるが、吉良図鑑は大きな個体では殻長(殻高)八センチメートル、殼幅九センチメートル以上に達するとあり、私もかつてしばしばその大きさの生貝や死貝を拾った)。『殻の色は紫褐色から黄褐色を呈する。底部は白色で滑らか。蓋は半円形となる。夜行性で、砂の中を活発に動き回る。また軟体部は殻から大きく露出し、殻を完全に覆いつくす。 肉食性であり、アサリなどの二枚貝を捕食する。アサリなどの二枚貝を捕まえると、やすりのような歯舌を用いて獲物の殻の最も尖ったところである殻頂部を平らに削っていき』、二ミリメートルほどの『穴をあけて軟体部を食べる』。なお、ウィキの記載者は挙げていないが、この捕食行動の際には、削る前に、足の一部から酸性の液を分泌し、相手の殻に塗りつけて炭酸カルシウムを分解させ、柔らかくしてから、穿孔するという説がある。繁殖期は春で、五月頃、『茶碗をかぶせたような形に卵塊を作る。その形から通称「砂茶碗」と呼ばれる。 生息環境により形が変化し、内海のものは臍索中央の溝が殻軸と直角方面に伸び、臍穴がふさがらないが、外洋に分布するものは臍索の中央の溝が曲がっていて、臍穴が密閉する形となり、ホソヤツメタ(Glossaulax didyma hosoyai KIRA)と呼ばれる』とあり、他に本邦には、

ヒメツメタ(ガイ) Glossaulax vesicalis

(本州の能登半島及び房総半島以南から九州に棲息。殻高四センチメートル程度でツメタガイよりやや小型。殻は薄く灰褐色で、胎殻は赤褐色。)

ソメワケツメタ(ガイ) Glossaulax bicolor

(本州の駿河湾以南から南西諸島・東南アジアに広く棲息。殻高三センチメートル程度。殻口内が濃褐色と淡褐色の二色に分かれる。殻底が丸みを帯び、臍穴溝は二重の螺状溝を成すのを特徴とする。)

ハナツメタ(ガイ) Glossaulax reiniana

(本州の男鹿半島及び房総半島以南から南西諸島に棲息。殻高四センチメートル程度。ツメタガイと比較してやや小型で、螺塔もやや高い。)

がいる。ウィキには『本種は無毒であるが食用にされることは少ない。これは加熱した際に身が固く締まり、歯ざわりが悪いためである』が、『愛知県知多半島では本種を「うんね」と呼び、塩揉みして生食するほか、煮付けやおでんの具として食している』。『また、三重県南部では「ばんちょう」と呼ばれ甘辛く煮付けて食している』。私は小学校二年の時、由比ヶ浜に前日までの台風で打ち上げられた多量の生貝をバケツ二杯ほども採取したが、その中の大半はこのツメタガイであった。煮付けにして食ったが、あまりの美味さに食い過ぎ、翌日、美事に腹をこわした。その時、小二乍ら、堅いから消化が悪いんだ、それから穴を空ける分泌物が含まれているからよくないんだ、と考えたのを不思議によく覚えているのである。なお、「ツベタガイ」「ツメタガイ」「津免多貝」の語源は不詳であるが、牛や馬の爪に似ていることから「爪貝(ツメガイ)」の転じたものかとするのを見かけた。しかし私は、この光沢のある貝殻が「光螺」「砑螺」(「砑」は音「ガ」で、「艶出しをする」の意がある)と呼ばれていることからも、見た目「冷(つべ)た」い涼しい感じを与えるからであると考えている。これは実に、かの小二の七歳の頃からずっと続く思い込みなのであって、そうそう引き下げる訳には、これ、行かないのである……。]

 

Tumetagai

 

[(右)「つめた貝」に孔を穿けられた介殼 (左)つめた貝]

 

Yamaarasi

 

[やまあらし]

[やぶちゃん注:脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ上科ヤマアラシ科 Hystricidae(旧世界ヤマアラシ)及びそっくりであるが、収斂進化の結果である別系統のアメリカヤマアラシ科 Erethizontidae のヤマアラシ類。詳しくは、たまたま最近電子化した『栗本丹洲自筆(軸装)「鳥獣魚写生図」から「豪猪」(ジャワヤマアラシ)』の私の注を参照されたい。]

 

 蝟(はりねづみ)・豪猪(やまあらし)・海膽(うに)等には、全身の表面から棘が生えてあるが、之も有力な防禦の器官である。これらの動物が棘を立てれば、殆どどこからも觸れることが出來ぬ故、之を犯す敵は容易にない。「はりせんぼん」・「いばらがに」なども之と同樣である。また鼬の如きは危險に遇へば極めて惡しき臭氣を發して敵を避易せしめるが、この類で最も劇しいのは、北アメリカ産の「スカンク」といふ獸である。やはり鼬の一種であるが、この動物の發した臭氣に觸れると、犬などは殆ど氣絶してしまふ。その他或る類の昆蟲は味の甚だ惡いために、如何なる鳥類も之を避けて食はぬ。また蟇(ひきがへる)は運動の遲い代りに、皮膚に毒液を分泌する腺がある故、犬も之に食ひ付くことが出來ぬ。またその卵は多量の粘液の如きものに包まれて居るから、鳥も之を啄むことが出來ぬ。蟇の皮を剝ぎ取つて肉だけを與へれば、犬は悦んで食ふ。また粘液を除いて卵粒だけを與へれば、鷄は直に之を食つてしまふ所などを見れば、兩方ともに防禦の器官として有功なことは少しも疑がない。また海綿の如きは、角質または珪質の骨片が全身に充滿して居るから、海岸到る處に無數に生活して居るが、之を攻擊する動物は殆ど一種もない。

[やぶちゃん注:「蝟(はりねづみ)」背部に針(体毛が変化した棘)を持つ、哺乳綱 Eulipotyphla 目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae のハリネズミ類。現生のものとしては五属十六種がいる。

「はりせんぼん」条鰭綱フグ目ハリセンボン科 Diodontidae(六属二十種)のハリセンボン類の総称であるが、狭義には標準和名ハリセンボン Diodon holocanthus を指す。本種は卵を除いて無毒である。

「いばらがに」先の「いばらがに」の図の誤りの指摘注を参照。但し、真正のイバラガニも数は極度に少ないが、鋭利で長い棘を持つから、ここは結果して叙述上は誤りではなくなる

「スカンク」食肉(ネコ)目スカンク科 Mephitidae 四属十五種の哺乳類の総称。北アメリカから中央アメリカ、南アメリカにかけて生息する(但し、スカンクアナグマ属はインドネシア・フィリピンなどマレー諸島の西側の島々に生息)。多くは白黒の斑模様の体色をなすが、これは外敵に対する警戒色である。体長は四十〜六十八センチメートル、体重は〇・五〜三キログラムで、ふさふさとした長い尾をもつ。雑食性でネズミなどの小型哺乳類・鳥卵・昆虫・果実などを餌とし、地中に巣穴を作る。肛門の両脇にある肛門傍洞腺(肛門嚢)から、強烈な悪臭のする分泌液を噴出して外敵を撃退することで知られる。分泌液の主成分はブチルメルカプタン(C4H9SH)で、その臭いの形容は硫化水素臭やにんにく臭など、文献によって異なる。なお、スカンクは狂犬病の媒介動物でもあり、テキサス州やカリフォルニア州などでは、人間が狂犬病にかかる感染源のトップとして挙げられている。但し、分泌液を介して狂犬病に感染した例は知られていない(以上は主にウィキの「スカンク」に拠った)。

「蟇(ひきがへる)は運動の遲い代りに、皮膚に毒液を分泌する腺がある」一応、本邦種の両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicas を挙げておく。彼らの持つ主要毒成分は強心配糖体ラクトンのブファジエノライド(六員環:化合物中、ベンゼン環などのように環状に結合している原子が六つあるものをいう。)型のステロイド配糖体で、薬剤名からお分かりの通り、ヒキガエルの毒腺から単離された毒素である。]

 

Syokubutunohogosouti

 

[植物の護身裝置]

 

 また植物にも草食獸類や昆蟲・蝸牛などの害を防ぐために、種々の裝置を具へたものが少くない。栗のいが、「からたち」の棘、「ひいらぎ」、「さぼてん」の刺などの如くに、非常に鋭く尖つて、とても觸れられぬもの、「いらくさ」などの如くに針は細く柔くても、毒液を含んで居るために劇しき痛みを起すもの等はその最も著しい例である。

[やぶちゃん注:「からたち」双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Poncirus trifoliata。ご承知の通り、枝に稜角があって、三センチメートルにも及ぶ非常に鋭い刺が互生する(この刺は葉の変形したものとも、枝の変形したものともいう)。

「ひいらぎ」目シソ目モクセイ科 Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus。同種の葉は対生し、革質で、光沢を持ち、形は楕円形或いは卵状の長楕円形を成す。葉の縁には先が鋭い刺となった鋭鋸歯があるが、老樹になると、この葉の刺は次第に少なくなってゆき、終には縁が丸くなってしまう。本種の種小名「heterophyllus」は「異なる葉」の意で、この生態変化に由来する。

「いらくさ」マンサク亜綱イラクサ目イラクサ科イラクサ属イラクサ Urtica thunbergiana。茎や葉の表面に毛のような棘があり棘、の基部にはアセチルコリン(Acetylcholine:我々の体内にも存在する、副交感神経や運動神経の末端から放出されて神経刺激を伝える神経伝達物質)とヒスタミン(histamine:活性アミンの一種。血圧降下・血管透過性亢進・平滑筋収縮・血管拡張・腺分泌促進などの薬理作用を有し、アレルギー反応や炎症の発現に介在物質として働く)を含んだ液体の入った嚢があり、棘に触れることによってその嚢が破れ、その液が皮膚に附着すると強い痛みや激しい痒みを生ずる。]

 

 斯くの如く動物は種々の方法によつて身を護るやうに出來て居るが、尚或る動物には危險に遇うたときは、身體の一部を捨てて逃げる力が發達してある。例へば蜥蜴の尾を抑へれば、蜥蜴は尾だけを捨てて逃げる。また蟹の足を一本捕へれば、蟹はその足だけを捨てて逃げて行くが、斯かる動物には敵に最も多く捕へられさうな體部を隨意に截斷し得るだけの構造が出來て居て、敵が之を強く引かずとも、動物自身で之を内部から切つて捨てる。その代りにまた容易に之を再び生ずる力が具はつてゐて、忽ち舊の姿に復する。蟹を多く捕へると一本或は二本の足だけが著しく小いものを幾つも見出すが、之は皆斯くして生じたものである。蟹の鋏の一方だけが甚だ小いのも、蜥蜴の尾に往々明に節の見えるのも之と同樣である。特に海産動物の中では、かやうな性質を具へたものが敢へて珍しくはないが、この性質を有する動物からいへば、一小部分を捨てて全身を救うこと故、最も有益に違ひない。倂し之を捕へる動物の側から見れば、そのため常に餌に逃げられてしまふから、極めて不利益なものである。

[やぶちゃん注:所謂、「自切」である。一部の昆虫類やカニ類では自切する箇所が概ね決まっており、その部分には始めから名称な条痕が入っていて、特に「自切線」と呼ばれる。]

 

 多くの動物の中には、全く防禦の器官がない如くに思はれるものもある。倂しさやうな場合には、特別の防禦の裝置がなくても、種屬の維持に差支がないだけの事情が、必ず他に存するもので、例へば人間の腹の内に住む寄生蟲の如きは、之を攻擊する敵がないから、防禦の器官も全く不用である。また蚯蚓の如きも常に地中に住んで居るから、之を攻擊するものはたゞ鼴鼠(もぐら)の類だけで、その他に之を害するものは餘りない。地面の上に如何なる猛獸・猛禽が居ても、蚯蚓は少しも心配するに及ばぬ。それ故、これらに對して身を護る裝置を具へる必要は全くない。但鼴鼠に遇うては、忽ち食はれるが、鼴鼠に食はれる數よりも生れる子の數の方が多くありさへすれば、種屬の維持には一向差支はないから、種屬全體からいへば、防禦の器官がなくても濟むわけである。また菊・薔薇などの若芽に附く蚜蟲(あぶらむし)の類は、全く防禦の器官がないやうであるが、繁殖力が極めて烈しいから、幾ら敵に食はれても、之を補つて尚その上に增加することが出來る。普通の昆蟲類は皆卵を生み、その卵から幼蟲が孵化して出るまでには多少の時目がかゝるものであるが、蚜蟲は春から夏を經て秋の漸く凉しくなる頃まで、植物の勢の好い間は絶えず胎生して、日々澤山の蚜蟲を生じ、幾何級數の剖合で增加するから、その繁殖の速なこと到底他にその比を見ぬ程である。また餌が澤山に殖えれば、之を食ふ動物も忽ち增加して、之を食ひ盡しさうなものであるが、普通の動物は生殖の時期にも略々制限があり、また生殖するには幾らかの時を要するから、蚜蟲が今日急に增加しても、之を食ふ小鳥が明目その割合に增加するといふ譯には行かぬ。それ故、別に防禦の器官が無くても、種屬の維持には少しも差支はない。

[やぶちゃん注:「蚜蟲(あぶらむし)」アリマキ(蟻牧)とも呼ぶ(私はこの「ありまき」の呼び名の方が好きだ)、昆虫綱有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea のアブラムシ科 Aphididae・カサアブラムシ科 Adelgidae・ネアブラムシ科 Phylloxeridae に属するアブラムシ類。アリとの共生関係の観察から、古くより「蟻牧」と呼称された。子どもらと話していると、彼らを何かの昆虫の幼虫と勘違いしている者が多いので注することとする。また、ウィキの「アブラムシによれば、体内(細胞内)に真正細菌プロテオバクテリア門γプロテオバクテリア綱エンテロバクター目腸内細菌科ブフネラ属Buchneraの大腸菌近縁の細菌を共生させていることが知られ、ブフネラはアブラムシにとって必要な栄養分を合成する代わりに、『アブラムシはブフネラの生育のために特化した細胞を提供しており、ブフネラは親から子へと受け継がれる。ブフネラはアブラムシの体外では生存できず、アブラムシもブフネラ無しでは生存不可能である』とあり、更に二〇〇九年には『理化学研究所の研究によりブフネラとは別の細菌から遺伝子を獲得し、その遺伝子を利用しブフネラを制御している』という恐るべきメカニズムが判明している。是非、以下の理化学研究所の「アブラムシは別の細菌から獲得した遺伝子で共生細菌を制御」という「理研ニュース 二〇〇九年五月号」の記事をお読みになられることをお奨めする。]

Arimaki

[あぶらむし]

[これのみキャプション(上のアブラムシ個体に『雌』、下の有翅の個体に『雄』があるので底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正して用いた。]

 

 

 以上述べた如く、防禦の裝置のない動物は、實際この裝置がなくとも、種屬の斷絶する虞のない類ばかりで、その他に至つては防禦の器官・攻擊の器官ともに各々一定の度まで發達して居なければ、競爭場裡に立つて生存して行くことは出來ぬが、元來動物の身體を成せる各器官は、一として滋養分を要せぬものはないから、一の器官が發達すれば、それだけ、その所有主である動物の負擔が重くなり、勢ひ他の器官の方を節減せざるを得ぬ。その有樣は共通の資本を數多の方面に流用して居るのと、全く同じであるから、如何なる動物に攻められても、之を防ぎ遂げるだけの完全な防禦の裝置と、如何なる動物を攻めても必ず之を攻め落すだけの完全な攻擊の器官とを、一疋の動物が兼ね具へることなどは、到底出來ぬ。特に攻擊の器官は相手の異なるに隨ひ各々違つたものを用ゐねば功がない。虎は如何に強くても蚯蚓を取ること鼴鼠に及ばず、蚊を取ること夜鷹に及ばぬのを見ても、また「しらす」でも鰯(いわし)でも鮪(まぐろ)でも、一緒に取るやうな網のないのを見ても解る通り、到底同一の器官で、如何なるものでも攻擊することは出來ぬが、總べての種類の攻擊の器官を皆一身に具へることは素より望まれぬ所である。それ故、如何なる動物でも、皆その生存上捕へて食はなければならぬ相手に對する攻擊器官だけが發達し、その他のものを攻めるための器官を有せぬのが常である。自然淘汰の説から見れば、是非とも斯くなければならぬ理窟で、實際斯くあるのは全くこの説の正しい證據と見倣して宜しからう。

[やぶちゃん注:「蚊を取ること夜鷹に及ばぬ」ヨタカ目ヨタカ科ヨーロッパヨタカ亜科ヨタカ属 Caprimulgus は、古くから「蚊母鳥(ぶんもちょう)」の異名を持つが、夜行性であるため、蚊を含む昆虫類をよく捕食するものの、蚊ばかりを摂餌する訳ではない。

「しらす」カタクチイワシ(条鰭綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonicus)・マイワシ(ニシン亜目ニシン科ニシン亜科マイワシ属マイワシ Sardinops melanostictus)・イカナゴ(条鰭綱スズキ目イカナゴ亜目イカナゴ科イカナゴ属イカナゴ Ammodytes personatus)・ウナギ(条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属 Anguilla)・アユ(条鰭綱キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis)・ニシン(条鰭綱ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii)などの、体に色素がなく、白い稚魚の総称であって、「シラス」という種がいるわけではない。丘先生が括弧書きにしているのは、それに由る。]<