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2018/04/21

譚海 卷之二 佐渡國風俗の事

 

佐渡國風俗の事

○佐渡國は方二十里餘に及べり。相川といふ所に陣屋あり、則(すなはち)奉行所也、其國の人は城下といひならへり。城下の遊女町を山里町と云(いふ)。海舶の往來する所ゆゑ華美なる事なり。金山は古來より掘來(ほりきた)る所壹箇所也、銀山は數箇所にあり。安永元年三月五日霖雨洪水によりて、此金山靑判しきといふへ水押し入(いり)、種々(いろいろ)工夫を加へ修理しけれども、しきの水かへほす事なりがたくして、此年より金山終(つひ)に廢したり。金山にかゝりて生活せし者、業を止め産を破(やぶり)たる事甚(はなはだ)多し。當國第一の高山をきんほくさんと云。則(すなはち)金北山大權現にて墓地なり。本地は地藏ぼさつにて絶頂におはします。每年六月より八月まで登山する也。絶頂まで三里あり、登山してのぞめば能登のはな奧州の方なる山など見ゆ。北東にあたりて島二つ見ゆ、靑島・飛島(とびしま)といふ。夫より山ごえにくだりて檀特山(だんとくせん)といふ所へ參詣す、尤(もつとも)女人參詣をゆるさず。山上よりだんとくせんまで七里、その際(きは)峻岨言語同斷なり。往々古木の朽(くち)てたふれたる道に橫(よこたは)りたるをこえゆく。喬木の朽たる甚多し。檀特山は弘法大師開基にして瀑布數箇所有(あり)、四十八瀧と云(いへ)り、高山にはあらず。又老の湊と云(いふ)所に順德院のみさゝぎ有、土俗順德王といへり、御陵(みささぎ)の松樹ことごとく都の方へなびきたり。其所の苔をとりて瘧(おこり)ふるひたるものにのましむるに立(たち)どころに平愈す。ほとゝぎす鳴けば都の戀しきとありし御製より、此邊(このあたり)すべて郭公(ほととぎす)なく事なしと云り。又蓮花淵といふ眞言寺あり、佐渡一國の諸宗の惣管領なり、權威甚し。奉行所へ年禮つとむる事も六月まで延引するは怠慢とせざる例なり。日蓮宗の寺は諸所にあり、いづれも伽藍にして壯麗也。又妙法蓮華經の文字波上に浮ぶ所はまうらと云(いふ)所也、渡海の路にして時々にみる事なり。又二つ岩といふ所に住(すむ)むじなあり、佐渡國のむじなの惣大將にして則(すなはち)二つ岩團三郎と稱す。山の奧に住居(すまゐ)するといひならはして、人おそれて其邊(あたり)へは容易に往來せず、往昔(そのかみ)此二つ岩の金山繁昌せし時、此むじな日雇に化(ばけ)て金山のかせぎせしゆへ金もうけして、此むじな甚(はなはだ)豪富なり、時ありて夜中病人の爲に醫者まねかれて行(ゆく)事あり。むじなの子孫療治して謝禮にもらひたる錢、所持のもの九十九錢まで用ひなくしても、壹錢をとゞめ置けば、自然ともとの百錢にふへる事と云傳(いひつた)へたり。すべて佐渡はむじなの多き所にして、諺にも江戸の狐に佐渡のむじなといひならはしたり。金山のふいごに用るむじなの皮壹年數百枚也。皮を御買上に被ㇾ成(なられ)、竃元(かまもと)御吟味御渡しある事也。佐渡の國瀕海(ひんかい)の地ゆゑ、風ははげし、雪も深し。大竹まれにあり。うなぎは八つめなるもの斗(ばか)りなり。鮭は越後より持來(もちきた)る斗り也、鱒は多し、鰹・しゞみはあり、蛤はなし。

[やぶちゃん注:私の好きな佐渡島譚。私は既に友人らと四度も佐渡に旅している。私には自明の部分も多いが、幾つかの注は附した。

「佐渡國は方二十里餘に及べり」「二十里」は七十八・五四五キロメートル。現在の新潟県佐渡市の佐渡島は、ウィキの「佐渡島」のデータでは周囲が二百六十二・七キロメートル、面積八百五十四・七六平方キロメートルで、これは、島嶼部を除いた東京都(東京二十三区と多摩地域)の面積千七百九十一・四七平方キロメートルの約四十八%に当たり、本邦を形成する本州などの主要四島と北方領土を除いた日本の島の中で、沖縄本島に次ぐ面積を持っている。

「相川」現在の佐渡市相川(佐渡島は全島で佐渡市)地区。旧新潟県佐渡郡相川町(あいかわまち)。佐渡島の北西の日本海に面した海岸にそって細長く位置している。内陸は大佐渡山地で海岸線近くまで山が迫っているが、南端部分が比較的なだらかな地形となっており、当時は佐渡金山(相川金山)と佐渡奉行所が置かれた佐渡国の中心地であった。の中央一帯(グーグル・マップ・データ)。

「陣屋」「奉行所」佐渡奉行所。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「山里町」これは恐らく「山咲町」の津村の聴き取りの誤りである。ブログ「佐渡の翼」の佐渡の翼氏の佐渡相川の遊郭の遊女の記載と、同じブログ内の平井れおな氏の山咲遊郭跡の記載を参照されたい。そこは現在の相川会津町附近である(グーグル・マップ・データ)。

「安永元年三月五日」正確に言うと明和九年。同年はこの八ヶ月後の十一月十六日(グレゴリオ暦一七七二年十二月十日) に安永に改元しているからである。なお、これは同年中、まさに各地で引き続いて起こった火事や風水害が「明和九年(めいわくねん)」すなわち「迷惑年」によるものとされたことが大きな改元理由であった。明和九年三月五日は一七七二年四月七日である。

「霖雨」何日も降り続く雨。長雨。季節的に梅雨時でさえないから、天候異変であったことが判る。

「靑判しき」不詳。直後に「しきの水かへほす事なりがたくして」と出るから、「しき」(「敷」か?)が地名であることは間違いないが、現存する相川地区の地名にそれらしいものは見当たらない。識者の御教授を乞う。

「此年より金山終(つひ)に廢したり」信頼出来る諸データを見ても、金山は元禄期(一六八八年から一七〇四年)をピークとして江戸中期以降は産出量が減衰したものの、金発掘自体は決して廃止されていないので、この津村の謂いは誤りである。ウィキの「佐渡金山」にも、江戸後期には江戸から約千八百人の無宿人(浮浪者)や罪人がこの金山に強制連行され、過酷な労働を強いられたとある(但し、『これは見せしめの意味合いが強かったと言われ』、『無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたという金山側の事情もある』とある)。

「業」「なりはひ」と読みたい。

「きんほくさん」標高千百七十一・九メートルの島内最高峰金北山(きんぽくさん)。大佐渡山地のほぼ中央に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。江戸初期に佐渡金山が発見される以前は単に「北山(ほくさん)」と呼ばれていた。佐渡では古来より信仰の山とされ、山頂には勝軍地蔵(地蔵菩薩の一つで、「これに祈れば必ず戦さに勝つ」とされた地蔵。鎌倉以後、武家の間で信仰された。地蔵菩薩が身に甲冑を着け、右手に錫杖を持ち、左の掌に如意宝珠を載せ、軍馬に跨った姿などで造形された)を祭る金北山神社があり、中世から近世にかけては峰続きの金剛山・檀特山へと修験の「三山駆け」が行われたという。昭和の初めまで、島の男子は七歳になると、「御山参り」と称して金北山に登り、シャクナゲを持ち帰って祝う風習があったという、とヤマケイオンライン」のこちらの記事にあった。

「靑島」粟島(あわしま)の誤り。現在の新潟県北部の日本海に浮かぶ島で、全島が新潟県岩船郡粟島浦村に属する(ここ(グーグル・マップ・データ))有人島。

「飛島」現在の山形県酒田市に属する小島。酒田港から北西三十九キロメートル沖合に浮かぶ、山形県唯一の有人島。本土からの距離は秋田県の方が近く、山形県で最も北に位置している。新潟県の佐渡島及び粟島とは一直線に結ばれた「海の道」であり、古来より交流があったと、参照したウィキの「飛島」にある。この中央にある島(グーグル・マップ・データ)。

「檀特山」標高九百六メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは装備なしの登山で滑落死亡例があり、装備のない入山は規制されている(ブログ「佐渡市地域おこし協力隊」の「【石名・和木】檀特山と奥の院・おこもり堂」の記事に拠った)。

「老の湊と云(いふ)所に順德院のみさゝぎ有」順徳天皇(建久八(一一九七)年~仁治三(一二四二)年)は父後鳥羽上皇とともに承久の乱を引き起こすも失敗し、佐渡に配流され、そこで崩御した。ウィキの「順徳天皇」によれば、『新潟県佐渡市真野にある真野御陵(まののみささぎ)は正式には火葬塚であるが、古来地元から御陵として崇敬されてきたもので』、延宝七(一六七九)年に『佐渡奉行曽根吉正が修補を加え』、明治七(一八七四)年以降、『政府の管理下にある』とある。真野湾の小佐渡の西の根の部分にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「瘧(おこり)」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。戦中まで本邦ではしばしば三日熱マラリアの流行があった。太平洋戦争終結後、一九五〇年代には完全に撲滅された。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカAnopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。さて、ここに、この順徳天皇の御陵「の苔をとりて」「のましむるに立(たち)どころに平愈す」というのは、何か謂れがありそうだが(順徳天皇がひどく瘧を患ったか、その死因が何であったか)、調べ得なかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの「越後佐渡に於ける順徳天皇聖蹟誌」の中の「第四章 御崩御と其後」の「御不豫と崩御」にある「平戸記」の詳しい記載を見るに、死の前にひどい食欲不振を見せているのはマラリアの潜熱によるものである可能性は十分に考えられる。

「ほとゝぎす鳴けば都の戀しき」これは、

 鳴けば聞く聞けば都の戀しさにこの里過ぎよ山ほととぎす

であろうか。これ、諸記事で順徳天皇御製とするが(個人ブログ「けんぱの日記vol.2」の「和田八幡 時鳥啼かずの里」によれば、佐渡には同歌の碑もあるようだ)、しかし、それよりずっと以前、保元の乱で讃岐に配流された崇徳上皇の御製としても載っている(個人ブログ「平家物語・義経伝説の史跡を巡る」の「崇徳院ゆかりの地(鼓岡神社・木の丸殿)」を参照されたい)から、私は孰れの御製とも信じ難いし、和歌として駄作としか思えぬ

「此邊(このあたり)すべて郭公(ほととぎす)なく事なしと云り」前注のそれぞれのリンク先にこれまた同じことが書かれてある。

「蓮花淵といふ眞言寺あり」フェイスブックの「ようこそ、旅の人!佐渡を千倍愉しむっちゃ」(フェイスブックのアカウントを持たない方はリンク出来ない)の二〇一三年五月二十九日の記事「蓮華峰寺考」によれば、佐渡には夥しい数の寺院が存立し、二〇一〇年現在に於いて二百八十一ヶ寺『という数字があるが、明治初期には』五百三十九ヶ寺と、『ほぼ集落ごとに』一つ或いは二つの『寺院があったという』とある(この数字の激減は私には非常に腑に落ちる。一言言っておくと、余り知られていないが、かの悪名高い神仏分離令による廃仏毀釈は実は島嶼部(私は隠岐の惨状を調べたことがある)に於いて最も苛烈に行われ、寺院への放火・住僧の追放及び僧への傷害・殺人未遂行為にまで及んだのである)『それらの開基のいわれは』七百年代から八百年代初期にまで『遡るなど、とてつもない古刹が多』く、『現在、その』四十%は『真言宗寺である』あるとある。そして以下で、『佐渡を代表する名刹の寺院』で、『空海により開基された、という伝承がある』、『小木に近い蓮華峰寺(れんげぶじ)』の伝承・歴史について書かれているのであるが、この蓮華峰寺(れんげぶじ)という寺名は「蓮華淵(れんげぶち)」と発音が酷似するから、私はこれも津村の聴き取りの誤りであると思う。蓮華峰寺は新潟県佐渡市小比叡(こびえ:地名からして既に空海!)で、ここ(グーグル・マップ・データ)。まさについこの間(二〇一八年三月)、私はここを訪れた。詳しくはウィキの「蓮華峰寺」を参照されたいが、空海開山伝承は無論、信じられない。

「奉行所へ年禮つとむる事も六月まで延引するは怠慢とせざる例なり」奉行所への年始の挨拶は、この寺に限って、半年後の六月まで延期しても、それを怠慢とはしないという例さえあるほどである。

「日蓮宗の寺は諸所にあり」共有ブログ・サイト「佐渡広場」の本間氏の非常に詳しい「佐渡の寺院40:寺院データ分析」によれば、一九九五年現在の数値で、佐渡の日蓮宗寺院二十八ヶ寺で佐渡全体の寺院の十%しかない。日蓮は佐渡に三年流罪となっている割には、「日蓮宗の寺は少ない」と、先月の佐渡行で案内して呉れたタクシーの運転手さんは言っていたことが、ここでまさに確認出来た。因みに、ここにも無論、真言宗寺院の圧倒的なことや、蓮華峰寺のデータも載る。必見。

「妙法蓮華經の文字波上に浮ぶ所はまうらと云(いふ)所也」佐渡市真浦。現在、「波題目」記念石碑が建つ(先月、車窓からは見た)。「さど観光ナビ」の解説によれば、『鎌倉幕府から赦免された日蓮聖人が船出した「真浦の津」に建ち』、『この地の言い伝えによれば、聖人が沖に向かう船の上から朝日に向かって合掌すると、波間から「南無妙法蓮華経」の』七『文字が浮かび上がったとされ』、『真浦地区は日蓮聖人ゆかりの地として、多くの伝説が残り、「日蓮堂」「日蓮洞窟」などの霊蹟が点在してい』るとある。写真も地図もある。

「二つ岩といふ所に住(すむ)むじなあり、佐渡國のむじなの惣大將にして則(すなはち)二つ岩團三郎と稱す。……」団三郎狸を祀ったとされる本拠地二ツ岩神社(大明神)には、一年前、昨年の三月の佐渡行で私の希望で皆で参った(火災で哀しく酷いことになっていた)。ここである(グーグル・マップ・データ)。私は団三郎狸の親衛隊で、古くは、

「耳囊 卷之三 佐州團三郎狸の事」

に始まり、佐渡に特化した怪談集の、

「佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」

「佐渡怪談藻鹽草 窪田松慶療治に行事」

「佐渡怪談藻鹽草 寺田何某怪異に逢ふ事」

の外、

柴田宵曲 續妖異博物館 「診療綺譚」

に出る。他にも柳田國男の「一目小僧その他」の「隱れ里」の、

『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 八』

等で、言及しているこれらを見て戴ければ、ここで津村が簡単にしか記していない奇談が詳細に分かるので、未見の方は是非、読まれたい

「すべて佐渡はむじなの多き所にして、諺にも江戸の狐に佐渡のむじなといひならはしたり」実際、佐渡にはキツネは棲息しない。狸はここに書かれた通り、鞴(ふいご)を作るための皮革を得るために本土から人為的に移入したものが繁殖したのである。因みに、先月の佐渡行では野生の貂(てん)を小佐渡で目撃した(恐らくはこれも人為移入)。

「竃元(かまもと)」この場合は奉行所台所、則ち、勝手方(財務会計担当)のことを指していよう。

「瀕海(ひんかい)」臨海に同じい。

「うなぎは八つめなるもの」無顎上綱頭甲綱ヤツメウナギ目カワヤツメLethenteron japonicum。外見の形状が鰻に似ていることから「八ツ目鰻」と呼ばれるが、一般的な「ウナギ」(条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属 Anguilla)とは全く関係のない生物であり、ぼうコンニャクの市場魚貝類図鑑」カワヤツメによれば、『分類学的に魚類ではないとされることのある無顎類で』、『実際に鱗もなく』、『ウナギのように粘液も出さない』。『川で生まれて、川に産卵のために上る。この川に上るヤツメウナギを取り食べている。古く東北・北海道などでは普通に見られ食べられていたが、近年激減、珍しくて高価なものとなっている』。『海で』二~三『年過ごし』た後、『産卵するために川に上る』。稚魚は概ね三~四年で『成熟し、湖の浅い湧水のある場所で産卵』し、『産卵後』は『死んでしまう』とある。なお、佐渡市の「生物多様性佐渡戦略」の第2章 佐渡における生物多様性の現状と課題(PDF)によれば、『佐渡は純淡水魚がほとんど生息していなかったと考えられて』いて、『コイやドジョウなども島外から入ってきたと考えられており、最近ではカワムツ、タモロコ、ゲンゴロウブナ、タイリクバラタナゴ、オオクチバス、ブルーギルが移入されてい』るとする(但し、ヤツメウナギはライフ・サイクルの中で海と川を回遊するので、純淡水魚ではないから、移入種ではないと考えてよい。新潟の本土では多数の漁獲が認められている)。『「レッドデータブックにいがた」ではイトヨが絶滅危惧類、カワヤツメ、ウナギ、メダカ、シロウオ、カマキリ、ウツセミカジカが準絶滅危惧種、クロヨシノボリ、チチブ、ビリンゴ、カンキョウカジカが地域個体群に指定されてい』るとあるので、津村の言う真正のウナギがいないという聴き取りも嘘と考えてよい。対馬海流の強い影響下にある佐渡島にウナギがいないはずがないと私は思う

「蛤はなし」これも嘘。さどかけす氏のブログ「佐渡カケス通信」の佐渡4000年の歴史!に、佐渡にある四千年も前の繩文遺跡である「藤塚貝塚」からハマグリの殻が出土しているとある。また、サイト「司馬遼太郎の風景」佐渡のみちの記載では、現在、加茂湖でハマグリが獲れるとあり、これは移植した可能性もあるが、縄文より後に佐渡からハマグリが消滅した可能性を考える方が私は、遙かに不自然だと思う。]

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