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2018/04/15

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十年 再度の手術、再度の疲労

 

    再度の手術、再度の疲労

 

 『日本』における居士は「明治二十九年の俳諧」を掲げる傍(かたわら)、「俳句と漢詩」を論じ、「服制と美術」を論じ、「『詩董狐(しとうこ)』を読む」を載せたりした。『詩董狐』は国分青厓(こくぶせいがい)氏の評林を集めたもので、この批評に限り越智処之助(ところのすけ)の名を用いている。

[やぶちゃん注:「国分青厓」(安政四(一八五七)年~昭和一九(一九四四)年:正岡子規より十歳年上)は漢詩人。既出既注であるが再掲する。本名は高胤(たかたね)、青厓は号で「青崖」とも書いた。仙台生まれで、父は仙台藩士。後年の号であったこの号は青葉城に由来する。ウィキの「国分青崖によれば、『藩学の養賢堂で、国分松嶼(しょうしょ)に漢学を、落合直亮に国学を、岡鹿門(千仞)に漢詩を学んだ』。明治一一(一八七八)年、『上京して司法省法学校に入った。その夏の関西旅行中、弊衣破帽のゆえに拘束される珍事があった。翌年、賄征伐(調理場荒らし)のいたずらがこじれ、原敬・陸羯南・福本日南・加藤恒忠らと』ともに『退校した。退校仲間とは長く親しくした』。『朝野新聞』や第一次『高知新聞』の『記者を勤めて後』、明治二二(一八八九)年創刊の『日本新聞』に、『陸羯南に招かれて参加した。日清戦争には、遼東半島に派遣された。日本新聞には、漢詩による時事評論』である「評林」を『連載したが、痛烈な批判が当局を刺激し、日露戦争前』の明治三六(一九〇三)年十一月に書いた「檜可斬(檜斬るべし)」や翌月の「植物類」は『発禁の処分を受け、その後も当局の処分を受けることがたび重なったことから、青崖は自ら、「会社の被った罰金を弁償する」と『申し出たと言う』。明治二三(一八九〇)年に『森槐南・本田種竹らと詩社『星』社を興し』、『三詩人と呼ばれた』。明治三九(一九〇六)年に『陸羯南が社長を辞した時』、十一『人の社員と共に政教社へ移り、その『日本及日本人』誌で』「評林」を続けている。大正一二(一九二三)年、『大東文化学院の創立と共に教授となった。『雅文会』・『詠社』・『興社』・『蘭社』・『樸社』・『竜社』などの詩社にかかわり、『昭和詩文』誌を主宰した』。昭和一二(一九三七)年には『帝国芸術院会員に選ばれた』昭和五(一九三〇)年に『政教社社長として『日本及日本人』誌を率いた五百木良三が』没すると、青崖がこれを受け継ぎ、』『入江種矩主幹、雑賀博愛主筆と共に雑誌を続けた。戦時下の体制に迎合せざるを得なかった』。『太平洋戦争』『の敗色が深まる中で没した』。『青崖の詩作は三万首に及んだと想像されているが』、彼の詩集はここに出る「評林」第一集の「詩董狐」しか出版していない。『恬淡無欲な人柄だったと言われる』とある。]

 

 居士の容体はこの年もあまり面白くなかった。腰痛が更に加わり、筋肉が腫(は)れたので、佐藤三吉氏の来診を乞うたのが二月十九日で、三月二十七日に至り同氏の手術を受けた。手術前に大きくなった腰の腫(はれ)を、大原恒徳氏宛の手紙に図で示したこともある。手術した時の佐藤氏の話では、一ヵ月半もたつとまた腫れて来るから、その時再び手術する、ということであったが、その晩のうちにもう腫れて来た。「少くも寐返(ねがへ)りだけは自由ならんとたしかめ居候ひしが右の次第にてそれも叶はず失望致候。小生のこそ誠に病膏肓に入りしもの、どんな事したとて直る筈はなけれどそこは凡夫のこと故若しやよくはなりはしまいかと思ふことまことに淺ましき限りに候」という感慨を虚子氏宛に洩している。五月三日の漱石氏宛の手紙に「再度ノ手術再度ノ疲勞一寸先ハ黑闇々」とあるから、二度手術を受けたことは明であるが、二度目の日は何時頃かわからない。

[やぶちゃん注:「佐藤三吉」(安政四(一八五七)年~昭和一八(一九四三)年)は外科医(医学博士)で貴族院議員。美濃国大垣藩藩士の三男。東京帝国大学教授・東京帝国大学医科大付属医院長・東京帝国大学医科大学長として本邦の近代医学の創生期に活躍した。この年にベルリン大学留学から帰国、東京帝国大学教授に任ぜられていた。]

 

 しかしそういう状態の中にあって、居士は存外元気であった。小説「花枕」を草したのは、最初に佐藤氏の診察を受けた直後である。二月十七日の漱石氏宛の書簡に「此頃ハ僕が小説を書くといふことが新聞に出たさうだ、すると本屋が來てどうか一つ御願ひ申(まうし)たいのでといふ、そこは僕ノヿナレバ小説は出来ません抔とことわるのもいやで、アイアイ宜しうございますと受けあつた。ソレデハ今度のが出來ましたらそのお後でも最一(もひと)つ御願ひ申度といつた。アイアイ宜しうございますと受(うけ)あつた。受あつたが自ら驚いたネ、小説とハどんなに書いたらいゝのであらう」とあるのを、間もなく実行に移したものと見える。「花枕」は四月になって『新小説』に発表された。居士の小説で一般の文芸雑誌に載ったのは、前後を通じてこの一篇だけである。

[やぶちゃん注:以上の漱石氏宛書簡は引用であるのに、底本では表記が完全に現代仮名遣になっていて不審であったことから、「子規居士」原本を用いて再現した。但し、読みと訓点は底本のものを採用した。なお、「ヿ」は「こと(事)」の約物である。]

 

 「花枕」がどういう小説であるかということは、『めさまし草』の「雲中語」に「繼母に窘(くるし)めらるゝ少女、夢に天つ神に誘はれて、ひかりと云ひ、にほひと云ふ神の子と共に雲を蹈みて登るべかりしを、妹の上を忘れかねて地に墜つと見て醍むる物語を、抒情詩の如く、又抒情詩を挿みて、正岡のぼるの書けるなり」とあるのがよく尽している。居士の今まで書いた小説とは全然世界が違う。「拝情詩の如く、また抒情詩を挿みて」とあるが、あるいは新体詩になるべき構想を、そのまま小説にしたのかも知れない。「人間よりも花鳥風月がすき也」という居士の立場からいえば、この風変りな小説もまた存在の理由が十分にある。

[やぶちゃん注:「花枕」は「青空文庫」ので読める(但し、新字)。宵曲の言うように初期構想は長篇抒情詩であったように思われる。]

 

 但(ただし)居士はこの時最初から「花枕」を書こうとしたものではなかった。「小説は須磨を書きかけ候處迚も間にあはず、中途でやめて「花枕」といふ極短篇(原稿二十枚)を一日にものし候。なかなかの勇氣に有之候」という虚子氏宛の手紙(二月二十六日)がその消息を伝えている。中途でやめた須磨の小説は即ち「月見草」で、この時筆を招いたなり、永久に未完で残されることになった。居士が小説を書くということが新聞に出たというのは、「月見草」の方だったのであろう。

 「花枕」の執筆に次いで、「古白遺稿」の編纂を了えたのもこの病中であった。「古白遺稿」は一周忌までに作るつもりであったのが、前年は遂に着手せず、三周忌を前にして稿成ったのである。遺稿に添えた「藤野潔の伝」を草するために、居士は一日半余を費した。伝を書上げた晩は八度六分も熱があったが、「責任をはたさんとする心熱は體熱に打勝ちて重荷の下りたやうに覺え候」といっている。

 「古白遺稿」は遂に四月の命日までには出来上らなかった。「藤野潔の伝」は後に「藤野古白」と題を改めて『日本人』にも掲げられた。

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