和漢三才圖會第四十一 水禽類 朱鷺(トキ)
つき 紅鶴 鳭【音嘲】
とき 鵇【所出未詳】
唐からす 唐烏
朱鷺
桃華鳥【日本紀私
記和名
豆木】
本綱朱鷺似鷺而頭無絲色紅
△按朱鷺【俗云止木一云唐烏】東北海邊多有之似鷺而無冠毛帶
紅翎莖最紅其觜黑長而末勾頰亦有紅色脚赤翅白
皂色能高飛巢樹宿水肉有臊氣
*
つき 紅鶴 鳭〔(てう)〕【音、「嘲」。】
とき 鵇〔(とき)〕【出づる所、未詳。】
唐〔(とう)〕からす 唐烏(〔とう〕からす)
朱鷺
桃華鳥【『「日本紀」私記』に、
『和名、「豆木〔(つき)〕」』〔と〕。】
「本綱」、朱鷺、鷺に似て、頭、絲、無く、色、紅〔(くれなゐ)〕なり。
△按ずるに、朱鷺【俗に「止木〔(とき)〕」と云ひ、一つに「唐烏」とも云ふ。】は東北海邊に多く之れ有り。鷺に似て、冠毛〔(さかげ)〕無く、紅を帶ぶ。翎莖〔(はねくき)〕は最も紅なり。其の觜〔(くちばし)〕、黑く長くして、末、勾(かゞ)まり、頰〔(ほほ)〕にも亦、紅の色、有り。脚、赤く、翅、白皂〔(しろくろ)〕の色〔たり〕。能く高く飛び、樹に巢〔(すく)ひ〕て水に〔(やど)〕す。肉、臊氣〔(なまぐさきかざ)〕有り。
[やぶちゃん注:鳥綱 Avesペリカン目
Pelecaniformesトキ科
Threskiornithidaeトキ亜科
Threskiornithinaeトキ属Nipponia
Reichenbach, 1853種トキ Nipponia nippon (Temminck,
1835)。詳細はウィキの「トキ」を見られたい。私は昨年の三月、佐渡で、待望の自然の空を飛んでいるつがいのトキを見た。この「ニッポニア・ニッポン」という名の美しい鳥を殺した日本は――万死に値する――。
「つき」鴇(とき)の古名。荒俣宏氏の「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「トキ」の項によれば、『現和名はその音が転じたもの』とあり、『意味は不明であるが』、「日本書紀」がこれに『唐花鳥』(本条の「桃華鳥」と同じい)の『漢字をあてたのは体色との連想によるとされる』とある。
「唐〔(とう)〕からす」東洋文庫では『とうがらす』と濁音を附すが、どうも私はつけたくない。この「唐」は私は思うに当て字ではないかと睨んでいる(「からす」はその特有の鳴き声がカラスに似ているからと思われる)。それは、トキの古名には今一つ、「とう」或いは「どう」があるからである。ウィキの「トキ」によれば、『トキは日本では古くから知られていた。奈良時代の文献には「ツキ」「ツク」などの名で現れており』、「日本書紀」「万葉集」では『漢字で「桃花鳥」と記されている。平安時代に入ると』、『「鴾」や「鵇」の字が当てられるようになり、この頃は「タウ」「ツキ」と呼ばれていた。「トキ」という名前が出てくるのは江戸時代だが、「ツキ」「タウノトリ」などとも呼ばれていたようである』とある(下線太字やぶちゃん。以下、同じ)。また、同ウィキの「伝承や作品の中のトキ」の項には、『秋田県大館市には以下のような話が伝わっている』として、『諸国を回っていた左甚五郎』(江戸初期に活躍したとされる伝説的彫刻職人)『という男がおり、大館の地に神社を建てることになった。その途中、腹が減ったので地元の農民に握り飯を乞うたものの、「お前のような下手糞な大工にはやれねぇ」と断られてしまったため、怒って杉のくず材で鳥をかたどり、それに田畑を荒らさせた。その鳥がトキであるが、彼は怒りのために鼻を開けるのを忘れてしまい、そのため鳴き声が鼻声になってしまった』という話が記されてあり、事実、『秋田県では他にもダオ(トキのこと)を用いる慣用句が多数伝えられている。また新潟県に伝わる鳥追歌では、スズメやサギと並んでトキが「一番憎き鳥」として挙げられている』とある。荒俣氏の「世界博物大図鑑」にも、『古くトキを〈ドウ〉とよんだのは』、『鼻にかかったその鳴き声にちなんでいる』。『鼻をつまんで〈ダオーン〉と叫べばトキそっくりそっくりの声になる』(荒俣氏らしい粋な記載。思わず、今、私もやってしまった)と記された後、上記の甚五郎を記され、『だからトキは今でも鼻声でドウドウと鳴いている』のだ(この箇所は『野鳥』昭和一六(一九四一)年十一月号所収の熊谷三郎の「どうしてドウ烏といふたか」に拠るとある)とある。佐渡の「トキの森の資料館」の「トキの鳴き声」がここで聴ける。残念ながら、お世辞にもよき声ではない。失望されぬように。
『「日本紀」私記』「日本書紀私記」とも。平安時代の「日本書紀」の講書の内容を纏めた書物郡。である。「日本書紀」については、平安時代、養老五(七二一)年・弘仁三(八一二)年・承和一〇(八四三)年・元慶二(八七八)年・延喜四(九〇四)年・承平六(九三六)年・康保二(九六五)年の七回の講書「日本紀講筵」が行われたとされ、本書はこれらの講書の記録である、ということになる。参照したウィキの「日本書紀私記」によれば、『種々のものが作成されたと考えられているが、現存するものとしては甲乙丙丁の四種が知られている』。『鎌倉時代に成立した』「釈日本紀」『にも、元慶や承平の』本私記類からの引用がなされているとある。
「白皂〔(しろくろ)〕」「皂」は「皁」の異体字で黒色の意である。しかし、どうもこの色はトキの色としてはおかしな謂いであり、東洋文庫訳もここの割注で、『淡』い『朱鷺色を帶びた白色のことをいうか』と疑問を呈している。同感。
「肉、臊氣〔(なまぐさきかざ)〕有り」捕獲して食用にしたことが、本邦でのトキ絶滅の大きな原因の一つであった。ウィキの「トキ」によれば、『トキの肉は古くから食用とされ』「本朝食鑑」(医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書)『にも美味と記されている。しかし』、良安がここで言っているように、『「味はうまいのだが』、『腥(なまぐさ)い」とあり、決して日常的に食されていたのではなく、冷え症の薬や、産後の滋養として』の「薬食い」『であったとされる。「トキ汁」として、豆腐あるいはネギ・ゴボウ・サトイモと一緒に鍋で煮るなどされていたようである』が、『生臭い上に、肉に含まれる色素が汁に溶出して赤くなり、また赤い脂が表面に浮くため、灯りのもとでは気味が悪くてとても食べられなかったため』、『「闇夜汁」と呼ばれた。また、羽は須賀利御太刀(伊勢神宮の神宮式年遷宮のたびに調整する神宝の一つ。柄の装飾としてトキの羽を』二『枚使用)などの工芸品や、羽箒、楊弓の矢羽根、布団、カツオ漁の疑似餌などに用いられていた』(下線やぶちゃん)。また、当時、『トキは田畑を踏み荒らす害鳥』として認識されており、『穢れ意識の影響で肉食が禁じられ』、『鳥獣類が保護されていた江戸時代においても、あまりにトキが多く困っていたため、お上にトキ駆除の申請を出した地域もあったほどである』ともある。『江戸時代まで』、『トキは日本国内に広く分布したが、明治に入り、日本で肉食の習慣が広まり、また経済活動の活発化により』、『軍民問わず』、『羽毛の需要が急増したため、肉や羽根を取る目的で乱獲されるようになった』のが、絶滅の最後の引き金となったのであった。]
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