柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 一 巨人來往の衢
ダイダラ坊の足跡
一 巨人來往の衢
東京市はわが日本の巨人傳説の、一箇の中心地と云ふことが出來る。我々の前任者は、大昔かつてこの都の靑空を、南北東西に一跨ぎに跨いで、步み去つた巨人のあることを想像して居たのである。而うして何人が記憶して居たのかは知らぬが、其巨人の名はダイダラ坊であつた。
二百五十年前の著書「紫の一本」[やぶちゃん注:「むらさきのひともと」。]によれば、甲州街道は四谷新町のさき、笹塚の手前にダイタ橋がある。大多(だいだ)ぼつちが架けたる橋のよし言ひ傳ふ云々とある。卽ち現在の京王電車線、代田橋の停留所と正に一致するのだが、あのあたりには後世の玉川上水以上に、大きな川はないのだから、巨人の偉績としては甚だ振はぬものである。併し村の名の代田(だいた)は偶然でないと思ふ上に、現に大きな足跡が殘つて居るのだから爭はれぬ。
私は到底其舊跡に對して冷淡であり得なかつた。七年前に役人を罷めて氣樂になつたとき、早速日を卜して之を尋ねて見たのである。ダイタの橋から東南へ五六町[やぶちゃん注:五百四十六~六百五十四メートル。]、其頃はまだ畠中であつた道路の左手に接して、長さ約百間[やぶちゃん注:約百八十二メートル]もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏み付けてある、と言つてもよいやうな窪地があつた。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が藥研(やげん)になつており、踵(かゝと)の處まで下るとわずかな平地に、小さな堂が建つてその傍に涌き水の池があつた。卽ちもう人は忘れたかも知れぬが、村の名のダイダは確かにこの足跡に基いたものである。
あの頃發行せられた武藏野會の雜誌には、更に此隣村の駒澤村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることを書いてあつた。それを讀んで居た自分は此日更に地圖を辿りつゝ、其方に向つて巡禮を續けたのである。足跡の一つは玉川電車から一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ほど東の、たしか小學校と村社との中程にあつた。是も道路のすぐ左に接して、略同じ位の窪みであつたが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であつた。併し踵のあたりに淸水が出て居り、其末は小流をなして一町步ばかりの水田に漑がれて[やぶちゃん注:「そそがれて」。]居る。それから第三のものはもう小字の名も道も忘れたが、何でも是から東南へ尚七八町も隔てた雜木林の間であつた。附近に所謂文化住宅が建たうとして、盛んに土工をして居たから、或は既に湮滅したかも知れぬ。是は周圍の林地より僅か低い沼地であつて、自分が見た時に最早足跡に似た點はちつとも無く、住民は新地主で、尋ねても言ひ傳へを知らなかつた。さうして物ずきな所謂史蹟保存も、流石に手をつけては居なかつたようである。
代田と駒澤とは足の向いた方が一致せず、おまけに皆東京を後にして居るが、之に由つて巨人の通つた路筋を考へてみることは出來ぬ。地下水の露頭の爲に土を流した場處が、通例斯ういふ足形窪を作るものならば、武藏野は水源が西北に在る故に、ダイダラ坊はいつでも海の方又は大川の方から、奧地に向いて闊步したことになるわけである。江戸には諸國より色々の人が來て住んで、近世始めて開けた原野が多からうと思ふのに、何時の間に處々の郊外に、斯うして大昔の物語を傳へたものか。自分たちは之を單なる不思議と驚いてしまはずに、今すこししんみりと考へて見たいと思つて居る。
たゞ不幸なことには多くの農民の傳説が、江戸の筆豆にも採錄せられぬうちに消えてしまつた。百年餘り前のことである。小石川小日向臺の本法寺といふ門徒寺の隱居に、十方菴敬順といふ煎茶のすきな老僧があつた。たゝみ焜爐[やぶちゃん注:「こんろ」。]といふ物を茶道具と一しよに携帶して、日返りに田舍へ出かけて、方々の林の陰に行つて茶を飮み、野らに働く人たちを捉へて話を聽いた。遊歷雜記と題する此坊さんの見聞錄が、江戸叢書の一部として出版せられて居る。それを搜して見るとほんの一つだけ、王子の豐島の渡しの少し手前の畑の中に、ダイダボツチの塚といふものがあつたことを誌してある。こゝでも土地の字は代田と謂ひ、巨人が此邊を步いた時、其草鞋にくつゝいて居た砂が落ちこぼれて、此塚になつたと村の人たちが彼に話したとある。其塚は今どこに在り、其口碑を談つた農夫の家は、どうなつてしまつたかも尋ねやうは無いが、兎に角に生眞面目にこんな昔話を聽いたり語つたりした者が、つい近年迄はこの地にさへ居たのである。
[やぶちゃん注:「衢」は「ちまた」。太字は底本では傍点「ヽ」。
「ダイダラ坊」私の好きな、日本の各地で伝承される巨人の名。多くの異名がある。詳しくはウィキの「ダイダラボッチ」を参照されたいが、私は昔から真面目にこれはギリシア神話の大工神「ダイダロス」や巨神族「タイタン」との発音上の連関からも、汎世界的なもののように感じている。
「代田橋」現在の東京都世田谷区大原附近に存在した。ウィキの「代田橋駅」によれば、『玉川上水が暗渠化される以前は、駅の北西』百メートル『ほどのところで甲州街道が上水を越えており、そこに「代田橋」が架かっていた』とあるから、この中央附近(グーグル・マップ・データ)と推定される。
「紫の一本」は戸田茂睡による江戸前期の仮名草子。江戸の地誌の体裁を取りながら、文学的な要素も強い。成立は天和年間(一六八一年~一六八四年)前後と推定されている。
「ダイタの橋から東南へ五六町」「窪地」埼玉大学教育学部谷謙二(人文地理学研究室)氏の提供になる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」の、ここの左の古地図の「大原」と書かれた附近(現在の「大原さんかく公園」)ではないかと思われる。
「玉川電車から一町ほど東の、たしか小學校と村社との中程」古地図を見たが、この条件に合う場所を特定出来なかった。
「遊歷雜記」小石川の隠居僧十方庵(じっぽうあん)敬順が文化年間(一八〇四年~一八一八年)に著わした江戸市中見聞録。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸叢書」にあるが、当該条を探し得なかった。]
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