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2018/04/25

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 第一の選集『新俳句』

 

   明治三十一年

 

     第一の選集『新俳句』

 

 明治三十一年(三十二歳)[やぶちゃん注:一八九八年。]の初は、大体三十年の継続と見るべき状態であったが、この間においていささか単調を破った事柄が二つある。一つは一月十五日に『蕪村句集』輪講が企てられたことで、季節の関係上冬の部から著手された。輪講は月一回の割で続行され、「輪講摘録」の題下に『ホトトギス』に連載されることになった。己に「俳人蕪村」において総括的に蕪村の輪郭を描いた居士が、今度は蕪村の一句一句について子細に吟味してかかろうとしたのである。第一回は居士と碧、虚両氏のみであったが、第二回には鳴雪翁も加っている。居士がこの一月『日本』に掲げた「間人間話」は、劈頭に鳴雪翁が俗務多端のため俳壇を退く事を記し、「侃々(かんかん)も諤々(がくがく)も聞かず冬籠」の句を以てその一節を結んである。前年春俳事抛擲(ほうてき)の結果、『ホトトギス』の選句をすら止めるに至った翁が、三十一年に入って再び俳壇に近づくようになった最初の動機は、『蕪村句集』輪講に与(あずか)るあたりにあるのではないかと思われる。

 もう一つは『新俳句』が刊行の運びになったことである。居士一派の句を選んで一冊にしようということは、二十五年中に新海非風(にいみひふう)の手によって計画され、「案山子集」という名までついていたらしいが、遂に出版するに至らなかった。その後碧梧桐氏あたりに編纂の企があったのではないかと思われることは、二十八年八月須磨から同氏に与えた手紙に「諸氏句集の事家集となすと類題となすと全く其目的を異にせり。各それぞれの面白みあればいづれをよしとも定め難く候。小生はいづれにてもよろしく候。家集とても四季に區別するは勿論四季中にても可成[やぶちゃん注:「なるべく」。]類題にせざれば殆んど興味無之候。いづれにしても一月や二月の日子(につし)をそれきりに費し判紙の數十帖と筆の十本位を用意しなければ出來ぬ事と信じ候」という注意があり、追かけて「選集の事に付きては何か御考違(おかんがへちが)ひあらずやと存候。俳話と共に句集が出版せられたりとて此度の撰集に何らの影響もなかるべく候」と申送ってもいる。「俳話と共に句集が出版」というのは、『獺祭書屋俳話』の附録に収めた句を指すのではないかと思う。この時もまた形を成すに至らなかったのである。

[やぶちゃん注:「新海非風」(明治三(一八七〇)年~明治三四(一九〇一)年)は愛媛県出身の俳人。東京で正岡子規と知り合い、作句を始めた。後、結核のため、陸軍士官学校を退学、各種の職業を転々とした。高浜虚子の「俳諧師」の五十嵐十風は彼がモデルと言われる。既出既注であるが、時間が経っているので再掲した。

「日子」日数。]

 

 然るに三十年になって、句集編纂の事は居士の身辺でなしに、上原三川(さんせん)、直野碧玲瓏(なおの へきれいろう)その他の人々の間に起り、分類された句稿が居士の手許に届けられた。あたかも居士の病苦の最も甚しい際であったので、碧、虚両氏に選択せしめる考らしかったが、思うように進行せず、また居士のところへ逆戻りすることになった。秋来元気を回復した居士は、なるべく削る方針を以てこれに臨み、一度選に入れた自分の句なども、意に満たぬものは除去して他の句に換えたりした末、十月中には大体の業を卒(お)えた。この稿本を印刷に廻したのが、現在伝わっている『新俳句』なのである。

[やぶちゃん注:「上原三川」(慶応二(一八六六)年~明治四〇(一九〇七)年)は教師で俳人。信濃出身で、本姓は萩原、本名は良三郎。長野師範学校卒。結核で療養中、この前々年の明治二九(一八九六)年から正岡子規に師事し、明治三十一年にはここに出る直野碧玲瓏とともに『日本』派の最初の類題句集「新俳句」を編集(子規校閲)し、刊行した。

「直野碧玲瓏」(明治八(一八七五)年~明治三八(一九〇五)年)ジャーナリストで俳人。石川県出身で、旧姓は越野、本名は了之晋。北国(ほっこく)新聞社等を経て、東京の国民新聞社に勤め、子規に師事した。]

 

 『新俳句』が民友社から刊行されたのは、この年の三月であったが、居士がこの事のために序を草したのは一月中であった。この事は鳴雪翁の題句に「百年にして天明二百年にして明治の初日影」とある通り、元禄、天明に対し一新時期を劃する明治俳壇初頭の産物として、永く後昆(こうこん)[やぶちゃん注:後(のち)の世の人。後裔。「後」も「昆」も「後(のち)」の意。]に伝うべきものである。居士はこの編纂について最初から表面に立たず、その序中についても「三川、碧玲瀧諸子こゝに觀るあり」とのみいい、自ら取捨選択に任じたことには一言も触れていないが、明治の俳句なるものが世に出たのは明治二十五年以後であるとし、次のような見解を述べている。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。原典「子規居士」で校訂した。]

 

明治二十五年以後は漸く元祿の高古[やぶちゃん注:気高く古風なこと。]を模し文化の敏贍(びんせん)[やぶちゃん注:敏捷で知識が多いこと。]を學ぶ。之をすら世人は以て奇を好み新を衒(げん)す[やぶちゃん注:衒(てら)う。見せびらかす。ひけらかす。]と爲せり。其後蕉村を崇(たつと)み天明を宗(むね)とするに及んで、文人學者は始めて俳句の存在を認めしが如く、可否の聲諸處に起る。可否の聲忽ち消えて俳句は其価値の幾分を世に知られたる時、元祿にもあらず、天明にもあらず、文化にもあらず、固より天保の俗調にもあらざる明治の特色は次第に現れ來れるを見る。此特色たる天明に似て天明より精細に、蕪村に似て蕪村よりも變化多し。芭蕉、其角の夢にも見ざりし所、蒼虬(そうきう)、梅室(ばいしつ)輩の到底解する能はざる所に屬す。しかも此特色は或一部に起りて漸次に各地方に傳播せんとする者、此の種の句を「新俳句」に求むるも多く得難かるべし。「新俳句」は主として模倣時代の句を集めたるにはあらずやと思はる。然れども模倣は樣に依りて胡蘆(ころ)を描く[やぶちゃん注:「樣(やう)に依(よ)りて胡蘆(ころ)を描(ゑが)く」で故事成句。『旧来の様式に従って「胡蘆」=瓢簞(ひょうたん)の絵を描く』の意で、先例に従っているだけで創意工夫が全くないことを批判する譬え。宋の魏泰の随筆「東軒筆録」に拠るもの。]の謂(いひ)に非ず、模倣の中自ら其時代の發現しあるを疑はざるなり。但特色は日を逐ふて多きを加ふ。昨(きのふ)集むる所の「新俳句」は刊行に際する今、已に其幾何(いくばく)か幼稚なるを感ず。刊行し了(を)へたる明日は果して如何にか感ぜらるべき。

 

 『新俳句』は明治二十五年より三十年にわたる間の収獲である。「刊行に際する今、已に其幾何か幼稚なるを感ず」というのは、自ら俳壇変遷の中に立つ居士の率直な感想でなければならぬ。居士は更に語を転じて、「明治の俳句といふ、或は明治年間の俳句を盡く含むとなす者もあらん。されど余の所謂(いはゆる)明治の俳句は彼[やぶちゃん注:「かの

。]俗宗匠輩、月並者流の製作を含まず。蓋し彼等の製作の拙なるを以ての故に之を斥くるのみにあらず、彼等は不當の點を附して糊口の助となすの目的を以て之を作り、景物懸賞品を得るための器用として之を用ふる者、其目的已に文學以外に在り。文學以外に在る者固より俳句と稱すべくもあらざればなり。況んや其差霄壤月鼈(しやうじやうげつべつ)[やぶちゃん注:「天と地及び月と鼈(亀のスッポン)」で、存在自体だけでも「致命的な隔たり」があることを指す。]のみならざるをや」と述べ、自己の立脚地を明にした。旧派俳人の共に歯(し)するに足らざることは、従来居士によってしばしば論ぜられたところであるが、今『新俳句』の刊行に当り、改めてこれを繰返す必要を感じたのであろう。

 

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