子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十年 『ホトトギス』生る
明治三十年
『ホトトギス』生る
明治三十年(三十一歳)は居士に取って極めて多事な年であった。この年頭の出来事としては、何よりも先ず雑誌『ホトトギス』の創刊を挙げなければならぬ。
[やぶちゃん注:「明治三十年」一八九七年。
「ホトトギス」同年一月十五日、正岡子規の友人で海南新聞社員柳原極堂が松山で創刊した。雑誌名は子規という俳号に因んだもので、正確には創刊時はひらがなで『ほとゝぎす』である。カタカナ書きの『ホトヽギス』への雑誌改名は、四年後の明治三四(一九〇一)年十月からである。]
『ホトトギス』の発刊を提議したのは、居士の中学以来の友人であり、松風会の一人でもあった柳原極堂氏である。この議は松山から手紙で申越(もうしこ)されていたのが、二十九年末の極堂氏の上京によって本ぎまりになったらしい。雑誌の編輯並に経営方面は松山においてこれに当るが、その原稿は主として中央に仰ぎたいという案で、この事は直(ただち)に実行に移された。極堂氏は当時『海南新聞』を主宰していたから、印刷の方はその活字と職工中の有志とを使う計画だったのである。
三十年一月に松山から生れた『ホトトギス』は、表紙に「ほとゝぎす」の五字を木版で刷っただけで、装飾も何もない簡素な雑誌であった。巻首に不折氏の「ほとゝぎす平安城をすぢかひに」の画があったのは、季節でなしに名前に因んだものであろう。居士は第一号には「ほとゝぎすの発刊を祝す」の一文及「俳譜反故籠(はいかいほごかご)」なるものを寄せ、募集句を選んだのみであったが、別に「河東碧梧桐」なるものが越智処之助(おちところのすけ)の名で載っている。前年の『日本人』に掲げた「文学」の中から、その条だけを転載したのである。この転載はその後「高浜虚子」「内藤鳴雪」「五百木飄亭」の順序に、号を逐うて続けられた。
居士を中心とし、『日本』を本拠とする新派俳句の陣容は、二十九年に至って漸く振わんとする勢を示した。新聞雄誌の俳句を掲げるもの相次ぎ、文芸批評家はしばしば俳句の流行を問題にした。従来は東京及居士の郷里松山以外、他にその歩を伸さなかったのが、京阪の地において満月会なるものの生れるに至ったのもまた二十九年後半における出来事である。三十年一月に松山から『ホトトギス』の創刊を見たということは、それだけ切離して見れば突然のような感もあるけれども、居士従軍後における松風会との関係と、二十九年後半における俳句界の空気から考えれば、必ずしも不思議な現象ではない。
[やぶちゃん注:「満月会」大阪南久太郎町(芭蕉終焉の町である)生まれで、子規に認められ青木月斗(明治一二(一八七九)年~昭和二四(一九四九)年)が結成した、ホトトギス派の結社。彼は後の明治三一(一八九八)年秋に友人らと「三日月会」を発足させ、翌年に創刊した『車百合』は関西俳誌の嚆矢となった。]
この間の消息について、主として内容の点から縦横に筆を揮ったのが居士の「明治二十九年の俳諧」――後に「明治二十九年の俳句界」と改められた――である。この文章は一月二日から『日本』に掲げられ、三月二十日に至って完結した。前後二十四回、先ず碧、虚両氏の作晶を挙げて、二十九年の句の特色を論じ、次いで露月、紅緑以下の注目すべき作家に及んだ。当時一部の流行であった変調の句に対しても、居士一流の偏せざる見解が下してある。居士が自家陣営の穿にこれだけの長文を草したのは、二十九年の俳諧が或程度部に到達したことを語るもので、その立脚地を明にし、その特色を天下に知らしむるの必要を感じたために外ならぬ。
居士は碧梧桐氏の特色を論じて印象明瞭といい、虚子氏の特色を以て時間的なる点と、複雑なる人事を取入れた点とにあるとしている。印象と余韻との関係を論ずるに当って古句を例に取り、時間的俳句についても多くの古句を挙げたのは、空理を談ずるを好まぬせいもあるが、居士の古俳句を観る眼が一般の俳書よみと異り、常に文学研究の材料として取扱われているため、論を進めるに際して自在にこれを繰出し得るのである。変調を懌(よろこ)ばぬ鳴雪翁は、碧、虚両氏の句を評して「甚だ『虛栗(みなしぐり)』に似たり」といった。居士がこれに対して『虚粟』その他の古句を例に挙げ、五六七、五九五、六七五、七七五、六八五、六七六、八七五、五九六、九七五等の破調について、一々比較の上異同を弁じたのは驚くべきものであるが、「俳句分類」丙(へい)号に十五音句以上二十五音句に至る変調の句を輯録している居士にあっては、この種の実例を示すのは囊中の物を探るが如き感があったのであろう。「俳句分類」は庸人(ようじん)の企(くわだ)つるを許さぬ大事業で、その労苦概ね人の知らぬところに埋没していたわけだけれども、その水面に現れたものは往々にして居士の俳論俳話の中にある。決して変調の実例だけではない。
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