御伽百物語卷之四 繪の婦人に契る
繪の婦人に契る
[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のもの。]
世に、名畫といはれて、神に通じ、妙を顯はす事、古今(ここん)、そのたぐひ、多くのせて、和漢の記錄にあり。是れらの妙を得たりといはるゝ人のかける物は、花鳥人物、ことごとく動きて、繪(ゑ)、絹(きぬ)をはなれ、おのがさまざまの態(わざ)をなす事、眞(しん)とおなじくして、かはる事なしとぞ。されば、いにしへより言ひ傳へたるはさらにもいはじ。今の代(よ)に名高く風流の繪を書きて、遠國波濤のすゑ、鯨(くじら)よる夷(えぞ)の千嶋(ちしま)のはて迄も、仇(あだ)なる丹靑(たんせい)の色に心をくるしめ、物いはず、笑はぬ姿に、魂をいたましむる事ありて、是れがために千金を費し、萬里の道を遠しとせず、誠の色を尋ね、風流たる方に心ばせを奪はれて、身を放埒(はうらつ)し、家をそこなふの大きなる愁(うれひ)をもとむる物あり。
[やぶちゃん注:「千嶋」江戸時代、日本の北方外の蛮地が「蝦夷」であり、そうして、漠然とその「蝦夷」及びそのさらに北方には、無数の島があるそうだ、といった大雑把なイメージで現在の北海道を含めた北方を「千島」「蝦夷ヶ千島」と呼称していたに過ぎず、筆者に現在の千島列島の現存在認識があったわけではない。
「丹靑」元は「赤い色と青い色」或いは「それらの色の絵の具の材料となる土である丹砂と青雘(せいわく)」(「丹砂」は水銀と硫黄とから成る鉱物。深紅色又は褐赤色で塊状・粒状で産出する。朱砂・辰砂とも呼ぶ。後者は青い色をした鉱物らしいが、よく判らぬ)を指したが、そこから「絵の具」「色彩」に転じ、「絵画」或いは「絵を描くこと」の意となった。ここは最後の意。]
其(その)おこる所を尋ねるに、武州江戸村松町(むらまつてう)二町めに住みて、菱河吉兵衞(ひしかはきちべうゑ)と名のる人ぞ、尤(もつとも)この風流の手には妙なりける。
「草木鳥獸(さうもくてうじう)の事は心を動かすにたらず。」
として、おほく、人物の情を心にこめ、さまざまと悟道の眼(まなこ)をひらき、先づ、さかい町(てう)・木挽町・ふき屋町などの四芝居に入りこみ、若女方(わかおんながた)・若衆方(わかしゆかた)それぞれの身ぶりを、燒(や)き筆(ふで)にうつし、暮(くれ)かゝるそらの月とともに、金龍山(きんりうさん)の晩鐘(いりあい)を耳の端(は)にかけぬ日もなく、いもせの山の中に落つるよしのゝ川のたぐひにはあらねど、ながれは同じよし原の大門口(おほもんぐち)ふしみ町のさしかゝり、蔦屋が軒より、石筆(せきひつ)にくろめて、江戸町(えどてう)二町め、さかい町・すみ町(てう)・京町(きやうまち)・新町(しんてう)・らしやう門、西かしのはしのすゑずゑ迄、それぞれの風俗をうつし初(そ)めけるより、繪本は心のむかふ所にうかみ、筆は人物のありのまゝを色どりしかば、その比(ころ)、むさし一國に生まれ、色を重んずる好事(かうず)の者、あるひは、たらちねの親(おや)しさくれば、心にもあらぬ直(ひた)家(や)ごもりに見し面影をしたひ、又は、みちのくに咲くといふなる金(こがね)のたねかれて、身ひとつさへ育つに所せき、人のせめてうちむかふ鏡の影よ、と泣きみ笑ひみありし夜の契り、かきくどき、物くるおしきむねをやすめんためとて、多く此家に來たりつゝ懇望(こんもう)の手をつかね、機嫌のひまを窺ひて、畫圖(ぐわと)の風流を好むもの、すくなからず。是れによりて、世に「菱河(ひしかは)が繪すがた」といふ、筆の名、殘りおほく、こゝかしこに充ち滿てり。
[やぶちゃん注:「村松町」東京都中央区の旧村松町、現在の東日本橋一〜三丁目の内。ここ(グーグル・マップ・データ)。この部分全体が江戸の「町尽くし」で飾ってある。
「菱河吉兵衞」これはもう、モデルどころか、江戸初期の知られた浮世絵師菱川師宣(ひしかわもろのぶ ?~元禄七(一六九四)年)その人である。彼の名も同じく吉兵衛。安房国の縫箔刺繡(刺繡と摺箔(すりはく:型紙を用いて裂地(きれじ)の上に糊または膠(にかわ)を置いて上から金箔を擦りつけて模様を作ること)を併用して布地に模様を表わすこと)を家業とする家に生れた。寛文年間(一六六一年~一六七三年)、画家を志して江戸に出てから死没(一説に数え七十七)するまで、菱川派の祖としてその配下の画工たちと、百五十種にも上ぼる絵本・挿絵本・一枚絵の組物といった版画作品(この中の多くは好色本であった)、及び主として遊楽の場面を描いた、多くの肉筆画を精力的に制作した。墨摺本と呼ばれる墨一色の世界に、明暦の大火(明暦三年一月十八日(一六五七年三月二日)以降に文化的欲求が高まり、活気を呈してきたところの、当時の江戸の庶民の生活や風俗を表現していった。殊に彼の描き出した美人のタイプは「菱川様の吾妻おもかげ」と呼ばれ、広く普及した。「浮世絵の元祖」と称される。最も知られるのは「見返り美人図」(最晩年の元禄六(一六九三)年頃の作)。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。
「さかい町(てう)・木挽町・ふき屋町などの四芝居」延宝初め頃(一六七〇年代)までに、江戸府内での歌舞伎興行は、幕府から中村座・市村座・森田座・山村座の四座に限って「櫓(やぐら)をあげる」ことが公認されるようになり、これを「江戸四座(よんざ)」と称した、それを指す(後、正徳四(一七一四)年に山村座が取り潰されて「江戸三座」となった。この辺りの変遷は複雑であるが、ウィキの「江戸三座」に詳しいので、そちらを参照されたい)。「さかい町」堺町は現在の日本橋人形町三丁目(ここ(グーグル・マップ・データ))で中村座が、「木挽町」(こびきちょう)は現在の中央区銀座四丁目の「昭和通り」の東側(ここ(グーグル・マップ・データ))で山村座が、「ふき屋町」は葺屋町で、現在の日本橋人形町三丁目に当り(ここ(グーグル・マップ・データ))、市村座が櫓を上げていた。
「燒(や)き筆(ふで)」柳などで作った棒の先端を、焼いて消し炭状にしたもので、日本画で下絵を描くのに用いた。土筆(どひつ)とも呼ぶ。
「金龍山(きんりうさん)」当時は天台宗であった金龍山浅草寺。
「晩鐘(いりあい)」日暮れ時に寺で打つ「入相(「いりあひ」が歴史的仮名遣としては正しい)の鐘」。
「いもせの山」川などを隔てて向かい合う二つの山を夫婦兄妹に擬えて呼ぶ語で、特に奈良県吉野川北岸の妹山と南岸の背山などが歌枕と知られ、ここは吉野川を引き出す序詞として用いられているだけで、その「よしのゝ川」も遊廓吉原を引き出すための迂遠な遊びである。
「ながれは同じ」とは前の「妹背」を掛けて、男女のそれから遊廓に縁付けている。
「よし原の大門口(おほもんぐち)ふしみ町」現在の台東区日本橋堤(ここ(グーグル・マップ・データ))にあった吉原遊廓内の旧町名。「大門」は遊廓の南西、現在の台東区千束仲之町通り四丁目にあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「蔦屋」この吉原大門口にあった地本問屋「耕書堂」の主人で、写楽を世に送り出したとも言われている蔦屋重三郎の屋号。後に日本橋通油町に移った。
「石筆(せきひつ)にくろめて」黒色又は赤色の粘土を乾かして固めた上で筆の穂の形に作ったもの。管に挟んで、書画をかくのに用いた。
「江戸町(えどてう)二町め」新吉原江戸町二丁目。現在の台東区千束四丁目の内。ここ(グーグル・マップ・データ。現在、先の吉原大門跡が同地区の中央にある)。
「すみ町(てう)」新吉原角町であろう。前注と同じく現在の台東区千束四丁目の内。
「京町(きやうまち)」新吉原京町。現在の現在の台東区千束三~四丁目附近。
「新町(しんてう)」不詳。但し、以上のルート(吉原からだんだん南西方向に動いている)からなら、千束二丁目辺りか。
「らしやう門」不詳。吉原の外地域の南の端を「羅城門」に擬えたものか? そうなると、浅草寺の雷門か? 識者の御教授を乞う。
「西かしのはし」「西河岸の橋」なら、「東京の橋クラブ」のこちらの地図によって、日本橋の上流にある「西河岸橋」となるが、一気に南西に下っているのが気にはなる。
「うかみ」「浮かみ」か。私は「イメージを自在に飛ばし」と読んだ。
「親(おや)しさくれば」意味不詳。「し」は強意の副助詞で、「さくれば」は「避くれば」と採ると、「親をさえも避けてしまって」の謂いか?
「直(ひた)家(や)ごもり」「ご」の濁音は私がつけたもの。意味が採れないので強引にかく読んだ。「直(ひた)」は「ひたすらに」の副詞で、「家(や)ごもり」を一単語の名詞として採り、「独り家の内に籠り続けをすること」の意とし、絵の中の女や少年に妄想の限りを尽くして、というニュアンスで読んだのだが、無理かしらん?
「みちのくに咲くといふなる金(こがね)のたねかれて」藤原黄金境は「金」(かね)を引き出す序詞で、描かれた美人を求めんがために、銭の種子も枯れ果てて(湯水のように金を使い果たしてしまって)の意だろうか? どうも本篇、妙にちっとも、すっきりと読めなくて困る。
「人のせめてうちむかふ鏡の影よ」これもよく判らぬ。描かれた美人を眺めて恋い焦がれているのであろうが、「鏡」は余計だと私は思う。或いは、好事家の自分がその描かれた美人に相応しいと錯覚して「鏡」として自分も美男子と錯覚しているのであろうか? わけわからんわ。
「手をつかね」手をついて懇請し。]
こゝに、洛陽室町の邊(ほとり)に篤敬(とくけい)といひける書生あり。講談にかよひける道にて、衝障(ついたて)の古きを見て買ひもとめ歸りぬ。
[やぶちゃん注:京都府京都市室町通附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
さて、何ごゝろなく此ついたてを見るに、片面(かたおもて)に美しき女(をんな)の姿繪(すがたゑ)あり。年の比(ころ)、十四、五ばかりに見えて、目もと・口もと・かみのかゝりより、衣紋つき・立ちすがた、詞もおよばず、しほらしく書きなし、彩色(いろどり)あざやかに、芙蓉(ふよう)のまなじり、戀をふくみ、丹花(たんくわ)の唇(くちびる)、さながら笑(えみ)を顯はし、懷(いだ)かば、消えぬべく、かたらはゞ、物をもいひつべきさま也けるに、篤敬、つくづくと見とれ、心ばせをまよはせて、しばらく詠(なが)め居たりけるが、
「さりとも、かゝる女も世にあらましかば、露(つゆ)の間(ま)の情(なさけ)に百(もゝ)とせの身はいたづらになすとも、逢ふに替るとならば、惜しからじもの。」
と、是れより、ひたすらに戀となり、おき臥し、面影を身にそへ、假(かり)なる姿にかきくどきつゝ病(や)みわたりけるを、是れにしたしかりける人、此よしをほの聞き、あはれにやさしき心ざしを感じて、おしへて、いふやう、
「君、このすがたをしれるか。是れは菱川が心を盡し、氣を詰めて、直(ぢき)に此人にむかひて、此すがたを寫せし也(なり)。されば、此繪には魂(たましひ)を移したりといひしとかや。此人の名をさして、他念なく、常に念じ呼びたまはゞ、かならず、答ゆべし。その時、百軒が家の酒を買ひとり、此すがたにそなへたまはゞ、此人、かならず、繪のすがたをはなれて、誠の人となるべし。」
と、ねんごろにおしへて、かへりぬ。
篤敬、世にうれしくおもひ、每日に念じ心をつくして呼びけるに、はたして應諾(こたへ)をなしたり。
急ぎ、酒を百軒に買ひて、此まへにそなへける時、ふしぎや、此すがた、地をはなれ、しとやかにあゆみ出でぬ。
繪に見つるはものかは、物ごし、爪(つま)はづれより、心ばへ、情(なさけ)のほど、また、たぐふべくものあらず。終に偕老(かいらう)のふすまの下(した)に、かはるな、かはらじ、とかね言のすゑ永く、本意(ほい)のごとくの緣をむすびしも、めずらしきためしにぞ、ありける。
御伽百物語卷之四終
[やぶちゃん注:「爪はづれ」「褄外れ」で着物の褄(つま)の捌き方。転じて、身のこなしの意。
私はこの話柄、正直、怪奇談としてはあまり上手いと思わない。前段のぐだぐだが、私には退屈で、後段のファンタジーのハッピー・エンドも、早回しで、却って、「だから何?」と感動が著しく減衰してしまっている。私なら、枕を半分以下に削ぎ落とし、絵の美女の出現のシークエンスを精緻に描写するな、と思う。
因みに、最後に種明かしであるが、本話は実は元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆「輟耕録」巻十一にある幻想譚「鬼室」の翻案である。白文原文を、以下に示しておく。幾つかの資料(邦文サイト及び中文サイト内のそれ)を勘案し、私が最も信頼出来ると判断したもので示す。
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溫州監郡某一女及笄未岀室貌美而性慧父母之所鍾愛者以疾卒命畫工寫其像歲序張設哭奠常時則庋置之任滿偶忘取去新監郡復居是屋其子未婚忽得此心竊念曰娶妻能若是平生願事足矣因以懸于臥室一夕見其下從軸中詣榻前敍殷勤遂與好合自此無夜不來踰半載形狀羸弱父母詰責以實告且云至必深夜去以五鼓或齎佳果啖我我荅與餠餌則堅郤不食父母敎其此畨須力勸之既而女不得辭爲咽少許天漸明竟不可去宛然人耳特不能言語而巳遂眞爲夫婦而病亦無恙矣此事余童子時聞之甚熟惜不能記兩監郡之名近讀杜荀鶴松窓雜記云唐進士趙顏於畫工處得一軟障圖一婦人甚麗顏謂畫工曰世無其人也如可令生余願納爲妻工曰余神畫也此亦有名曰眞眞呼其名百日晝夜不歇卽必應之應則以百家綵灰酒灌之必活顏如其言乃應曰諾急以百家綵灰酒灌之遂活下步言笑飮食如常終歲生一兒兒年兩歲友人曰此妖也必與君爲患余有神劒可斬之其夕遺顏劒劒纔及顏室眞眞乃曰妾南嶽地仙也無何爲人畫妾之形君又呼妾名既不奪君願今疑妾妾不可住言訖攜其子却上軟障覩其障惟添一孩子皆是畫焉讀竟轉懷舊聞巳三十餘年若杜公所書不虛則監郡子之異遇有之矣
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