柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 八 古風土記の巨人
八 古風土記の巨人
さう考へるとダイダラ信仰の發祥地で無ければならぬ九州の島に、却つて其口碑のやゝ破碎して傳はつた理由もわかる。卽ち九州東岸の宇佐と其周圍は、巨人神話の古くからの一大中心であつた故に、同じ古傳を守るときは地方の神々は其勢力に捲き込まれる懸念があつたのみならず、一方本社に在つては次々の託言を以て、山作り以上の重要なる神德を宣揚した結果、自然に他の神々が比較上小さくなつてしまふので、寧ろ之を語らぬのを有利とする者が多くなつたのである。是は決して私の空漠たる想像説では無い。日本の八幡信仰の興隆の歷史は、殆ど一つ一つの過程を以て、之を裏書きして居ると言つてよいのだ。
之を要するに巨人が國を開いたといふ説話は、本來此民族共有の財産であつて、神を恭敬する最初の動機、神威神力の承認も是から出て居た。それが東方に移住して童幼の語と化し去る以前、久しく大多良の名は仰ぎ尊まれて居たので、其證跡は足跡よりも尚鮮明である。諾册[やぶちゃん注:「だくさつ」。「諾」は伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、「册」は伊奘冊尊(いざなみのみこと)。]二尊の大八洲生は説くも畏こいが、今殘つて居る幾つかの古風土記には、地方の狀況に應じて若干の變化はあつても、一として水土の大事業を神に委ねなかつたものは無いと言つてよろしい。其中にあつて常陸の大櫛岡の由來の如きは寧ろ零落である。それよりも昔なつかしきは出雲の國引きの物語、さては播磨の託賀郡の地名説話の如き、目を閉じて之を暗んず[やぶちゃん注:「そらんず」。]れば、親しく古へ人の手を打ち笑ひ歌ふを聽くが如き感がある。まだ知らぬ諸君の爲に、一度だけ之を誦して見る。曰く、右託加(たか)と名づくる所以は、昔大人ありて常に勾(まが)りて行きたりき。南の海より北の海に到り、東より(西に)巡る時に此ところに來到りて云へらく、他のところは卑くして常に勾り伏して行きたれども、此ところは高くあれば伸びて行く。高きかもといへり。かれ[やぶちゃん注:故に。]託賀(たか)の郡とは曰ふなり。その踰(ふ)める迹處[やぶちゃん注:「あとどころ」。]、しばしばに沼と成せり(以上)。私の家郷もまた播磨である。さうして實際斯う語つた人の後裔であることを誇りとする者である。
[やぶちゃん注:「常陸の大櫛岡の由來」既出既注。
「播磨の託賀郡の地名説話」以下の引用は「播磨風土記」の「託賀(たか)の郡(こほり)」。岩波文庫版の武田祐吉氏の訓読を示す。太字下線は柳田國男の読みや表記と異なる箇所。但し、ちくま文庫版全集では幾つかの補正がなされていて、以下にごく近い。
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託賀(たか)の郡(こほり)、右、託加(たか)と名づくる所以(ゆゑ)は、昔大人(おほびと)ありて常に勾(かゞ)まりて行けり。南の海より北の海に到り、東より巡り行きし時、この土(くに)に來到(きた)りて云ひしく、「他(あだ)し土(くに)は卑(ひく)ければ、常に勾まり伏して行きしに、この土(くに)は高ければ申(の)びて行く。高きかも」と云ひき。故(かれ)、託賀(たか)の郡(こほり)といふ。その踰(こ)えし迹處(あとどころ)、數々沼と成れり。
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ちくま文庫版全集では「卑くして」を「いやしくして」と読んでいるが、この訓読はおかしい気がする。同全集では「しばしばに」を「數々」直しているが、そこには『あまた』とルビする。武田先生は直接体験過去で訓読されておられ、風土記の性質としては、その方が遙かによいと感ずる。]
證據は斷じて是ばかりでは無かつた。南は沖繩の島に過去數千年の間、口づから耳へ傳へて今も尚保存する物語にも、大昔天地が近く接して居た時代に、人は悉く蛙の如く這つてあるいた。アマンチユウ[やぶちゃん注:現代仮名遣では「アマンチュウ」。]は之を不便と考へて、或日堅い岩の上に踏張り、兩手を以て天を高々と押上げた。それから空は遠く人は立つて步み、其岩の上には大なる足跡を留めることになつた。或は又日と月とを天秤棒に擔いで、そちこちを步き𢌞つたこともある。其時棒が折れて日月は遠くへ落ちた。之を悲しんで大いに泣いた淚が、國頭本部(もとぶ)の淚川となつて、末の世までも流れて絶えせずと傳へて居る(故佐喜眞興英君の南島説話に依る)。アマンチユウは琉球の方言に於て、天の人卽ち大始祖神を意味して居り、正しく此群島の盤古であつた。さうして是が赤道以南のポリネシヤの島々の、ランギパパの昔語と近似することは、私はもう之を架説するの必要を認めない。
[やぶちゃん注:「國頭本部(もとぶ)の淚川」現在の沖縄県国頭(くにがみ)郡本部町(もとぶちょう)はここ(グーグル・マップ・データ)。同地区貫流する最も川幅の広いそれは満名川(まんながー)であるが、「涙」は沖縄方言で「なだ」であり、不詳。
「佐喜眞興英」(さきま こうえい 明治二六(一八九三)年~大正一四(一九二五)年)は沖縄県宜野湾市出身の民俗学者。既出既注であるが、再掲する。大正元(一九一二)年に沖縄県立第一中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)を首席で卒業、その後、上京して大正四(一九一五)年に第一高等学校独法科を卒業して、東京帝国大学独法科に入学した。在学中から柳田國男に目をかけられた。大正一〇(一九二一)年に帝大を卒業すると、裁判官になり、福岡市・東京市・大阪市・岡山県津山市など各地に赴任、最後の任地の津山で肺結核のために三十一歳で亡くなった(以上はウィキの「佐喜眞興英」に拠った)。本「ダイダラ坊の足跡」は昭和二(一九二七)年四月の『中央公論』初出。
「盤古」(ばんこ)は中国の古代神話に登場する神。この世界を創造した造物主であるとされ、その世界創造については二通りの異なる伝承が残されている。一つは「天地分離型」と呼ばれるもので、それによれば、太初の世界は、上も下もないどろどろしたカオス状態にあり、盤古は、その中から生まれた。その後、天地が押し開かれると、陰陽二気のうちの清らかな「陽気」が天に、濁った「陰気」が地になった。彼は天と地の間に立って双方を支え続けたが、天は日に一丈ずつ高くなり、また、地は日に一丈ずつ厚くなったため、それにつれて盤古の身長も一丈ずつ伸びてゆき、遂には天と地は果てしなく隔たることになったとするものである。今一つの伝承は、「死体化生(けしょう)型」とグループされるもので、それによれば、この世の初めに既に盤古は居た。そして盤古が死んだ際、その体の各部が変化して世界を構成する諸物と成り、両眼は日月に、体は大地に、血液は川に、筋肉の筋(すじ)は大地の襞に、皮膚は田畑に、髪や髭は星に、体毛は植物に、歯や骨は岩石にと、それぞれ変化したとするものである。この二タイプの世界創造神話は、本来、同一の系統に属すものなのか、或いは、全く別の伝承が同じ盤古の名に依って語られるようになったものなのかは、現在、明らかではない(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「ランギパパの昔語」ニュージーランドの先住民であるマオリ族の世界創造神話に登場する「ランギ」と「パパ」の二神の名(マオリ族は東ポリネシアのソサエテ諸島のタヒチ島・クック諸島・マルケサス諸島からニュージーランドに十一世紀頃に移住してきた)。Es Discovery製作のサイト内の「世界の神々」の中の「マオリの神話:天空神ランギ・大地母神パパ」によれば、彼らの、その『神話で説かれている原初の世界は『混沌と無の世界』であり、暗闇の中でのポーといううめき声に合わせて世界の動きが起こり、そこから光・熱・湿気が生み出され、世界最初の二神である天空神ランギと大地母神パパが出現した』とする。彼らは『その他の神々や天地の間にある万物を創造したが、二人があまりに親密で仲良くしっかりと固く抱き合っていたため、天と地が近づきすぎて』、『光が届かず』、『ずっと暗闇に覆われたままであった。二人が生み出した子供の神々、タネやタンガロア、ロンゴらは、世界に光と昼を取り戻すためには、親である二人を引き離すか殺すかしかないと考え、森の神タネの『天空を遥か上にして、大地を足元に置くため、二人を無理やりにでも引き離そう』という提案に賛成した。唯一、嵐と風の神であるタウヒリだけが、父母を引き離すことに反対していた』。『密着してがっちりと抱き合っている天空神ランギと大地母神パパを引き離すことは簡単ではなかったが、森の神タネが頭を母の大地に押し付けて、足で父の天空を激しく蹴り上げることによって何とか二人を引き離した。父母は引き離された悲しみを訴えて泣いたが、二人が引き離されたことで、暗闇の世界に光が差して』、『昼の時間が回復されたのである。母パパの嘆きの溜息は霧となって天空(夫)へと上がり、父ランギの涙は大雨になって大地(妻)に降り注いだの』]だった、とある。]
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