譚海 卷之二 江戸小石川無量院小野小町墓の事
○江戸小石川無量院に小野小町が墓あり。本堂の脇に有(あり)、是は此寺の檀那牧野家大坂御城番のとき、大和の國に小町の墓有、その石(いし)殊の外ふるきものゆへ、牧野殿茶の湯數奇(すき)の餘りその五輪の内をもらひ受(うけ)、墓所にはあらたに石塔建立ありて、件(くだん)の石をば江戸の邸に取(とり)よせ、燈籠にこしらへ庭に置(おか)れけるに、折々怪異の事あり、剩(あまつさ)へ三世まで早世なりしゆへ、不祥のものなりとてその靈をおそれ、菩提所なれば無量院へ寄附ありしに、又此寺にてもとかくあやしき事ありしまゝ、かゝるものは庭中の觀(くわん)に備ふるもいかゞとて、本堂のわきへうつし、小町が墓所となし、その移したる日七月八日を忌日として、每年法事行ふ事なり、それより寺に怪異もなかりしとぞ。今年安永八年小町の九百年忌にあたり、七月は盆中故八月八日にその法會(はふゑ)別に行ふ事なりし、その時參詣して親しく見たり。燈籠の火ふくろにせし所には梵字あり、但し小町の正忌日は三月某の日なりとぞ。
[やぶちゃん注:底本の竹内利美氏の注に『小野小町の墓は各所にあ』り、『彼女は秋田の生まれともいい』(出羽国の郡司小野良真の娘とする出自説によるのであろう)、『その生涯についてはいろいろの伝奇的物語が生じた。おそらく歌占』(うたうら:巫女や男巫(かんなぎ)が神慮を和歌で告げ、その歌によって吉凶を判断するものや、小弓に和歌を書いた短冊をいくつも結びつけて客に一枚引かせて出てきた和歌で判じる占い、或いは、百人一首の草子などを任意に開いて、そこに出た歌で吉凶を占うこと等を言う。御神籤の原型ともされる)『その他の芸で遊行すうる巫女的存在が』、『後世』、『ひろく各地をまわり、その伝承が小町に付会されつつ、小町伝説は成長し、各所にその墓もできたのではないかといわれている』とある。ある記載によれば、小野小町の墓は、現在でも、全国に三十数箇所あるという。
「江戸小石川無量院」浄土宗(京都知恩院末)薬王山能覚寺無量院。明治になって廃絶したらしい。この当時は現在の文京区小石川三町目内の、伝通院(でんづういん)の東北方直近にあったと思われる(この中央附近と推定(グーグル・マップ・データ))。サイト「形原松平家について」のこちらのデータに拠った。そこには確かに、同寺に小野小町石塔或いは供養塔があったとする記事が見える。
「牧野家」不詳。譜代大名で知られたところでは、越後長岡藩藩主牧野氏ではある。
「今年安永八年」一七七九年。
「小町の九百年忌」小野小町の生没年は未詳であるが、交渉した貴族らとの関係から、承和から貞観の中頃(八三四年から八六八年頃)が活動期と考えられるので、この回忌だと、没年は元慶二(八七八)年となり、不自然ではない。
「小町の正忌日は三月某の日」歳時記を見ると、陰暦三月十八日を小町忌としている。これは恐らく根拠はなく、「春」に彼女を合わせたい願望によるものであろう。]
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