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2018/04/16

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 九 大人彌五郎まで / ダイダラ坊の足跡~了

      九 大人彌五郎まで

 是までに大切な我々が創世紀の一篇は、やはり人文の錯綜に基づいて、後漸く徴にして且つ馬鹿馬鹿しくなつた。九州北面の英雄神は、故意に宇佐の勢力を囘避して外海に向わはんとしたかの如き姿がある。壹岐の名神大社住吉の大神は、英武なる皇后の征韓軍に先つて、まづ此島の御津浦に上陸なされたと稱して、太宰管内志には御津八幡の石垣の下にある二石と、此浦の道の辻に立つ一つの石と、三箇の御足形の寸法を詳述して居る。何れも其大さ一尺一二寸、爪先は東から西に向いて居る。信徒の目を以て見れば、それ自身が神の偉勳の記念碑に他ならぬのだが、しかも壹岐名勝圖誌の錄するところでは、此島國分の初丘(はつをか)の上に在るものは、大は則ち遙かに大であつて、全長南北に二十二間[やぶちゃん注:四十メートル。]、拇指の痕五間半[やぶちゃん注:十メートル。]、踵の幅二間[やぶちゃん注:三メートル六十四センチメートル弱。]、少し凹んで水づいて居るとあるが、これは昔大(おほ)といふ人があつて、九州から對馬[やぶちゃん注:底本では「對島」であるが、ちくま文庫版全集で特異的に訂した。]に渡る際に足を踏み立てた跡だと謂ひ、しかも村々にも同じ例が多かつたのである。それ迄はまだよいが、肥前平戸島の薄香(うすか)灣頭では、切支丹伴天連と稱する恠物があつて、海上を下駄ばきで生月(いけづき)その他の島々に跨いだとも謂つて居る。卽ち古く近江の石山寺の道場法師の故迹と同じく、殘つて居るのは下駄の齒の痕であつたのである。

[やぶちゃん注:「壹岐の名神大社」(みやうじんたいしや(みょうじんたいしゃ))は壱岐島のほぼ中央に位置する、長崎県壱岐市芦辺町(あしべちょう)住吉東触(ひがしぶれ)にある住吉神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの同神社によれば、『社伝によれば、住吉大神の守護によって三韓征伐を為し遂げた神功皇后が、その帰途現在の壱岐市郷ノ浦町大浦触に上陸して三神を祀ったのに始まるという(これを以て「日本初の住吉神社」を称している)。その後、神託により現在地に遷座した。『延喜式神名帳』では名神大社に列した。その他にも長崎県下筆頭神社を名乗っている』とある。

「御津浦」現在の壱岐志摩西部の湯本湾か、その南の半城湾と思われる。

「太宰管内志」江戸後期の福岡藩の国学者で地誌学者の伊藤常足(安永三(一七七四)年~安政五(一八五八)年)が六十八歳の時、九州各地の歴史を纏めたもの。全八十二巻。三百冊もの資料を読み解き、実に三十七年もの歳月をかけて完成した労作。福岡県鞍手郡にある「鞍手町歴史民俗博物館」公式サイト内のこちらのページを参照した。

「御津八幡」御津浦の正確な位置が不明なのであるが、長崎県壱岐市勝本町本宮西触にある、本宮八幡神社か? ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、他にも「八幡」を称する神社は壱岐島内に少なくとも後三つはある。

「壹岐名勝圖誌」江戸時代末の文久元(一八六一)年に編纂された壱岐島地誌。当時の壱岐島を治めた第十代平戸藩主松浦熙の命により、十一年の歳月をかけて作成された。全二十五巻。

「國分の初丘(はつをか)」長崎県壱岐市芦辺町国分。この附近(グーグル・マップ・データ)の丘陵であろう。

「肥前平戸島の薄香(うすか)灣頭」現在の長崎県平戸市平戸島(現在、陸と架橋)の北部にある大きな湾。この湾の入り口附近(グーグル・マップ・データ)。

「生月(いけづき)」薄香湾の西方洋上にある大きな島(現在、平戸市生月島で平戸島と架橋)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 それから南へ下つては肥後鹿本郡吉松村の北、薩摩では阿久根の七不思議に算へられる波留(なる)の大石の如き、共に大人の足跡といふのみで、神か鬼かのけぢめさへ明瞭で無い。其の名の早く消えたのも怪しむに足らぬのである。ところが是から東をさして進んで行くと、諸處に恰かも群馬縣の八掬脛[やぶちゃん注:「やつかはぎ」。既出既注。]の如く、神に統御せられた大人の名と話が分布して居る。阿蘇明神の管轄の下に於ては鬼八法師、又は金八坊主といふのが大人であつた。神に追はれて殺戮せられたといふかと思ふと、塚あり社あつて永く祀られたのみならず、その事業として殘つて居るものが、悉く凡人をして瞳目せしむべき大規模なものであり、しかも人間の爲には功績があつて、或はもと大神の眷屬であつたやうにも信ぜられたのであつた。

[やぶちゃん注:「肥後鹿本郡吉松村の北」現在の熊本県熊本市北区植木町轟附近かと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「薩摩では阿久根の七不思議に算へられる波留(なる)の大石」「阿久根」は鹿児島県の北西部にある現在の阿久根市。ここ(グーグル・マップ・データ)。「阿久根市」公式サイトのこちらに『「阿久根七不思議」と呼ばれるものがあり』、『江戸時代末に書かれた「三國名勝圖會」によると、「阿久根七奇」として「光礁」「隔岡の塩田」「大人の足形」「黒神岩」「岩船」「小潟崎穴」「尻無川」が挙げられて』おり、またまた、大正四(一九一五)年に『発行された「出水風土記」によると、前述のものに「五色濱」「鍋石」「龍の化石」のうち』、『一つを七不思議に加える場合もあるとされてい』るとある。「波留の大石」という名は出ないものの、この「大人の足形」には(写真有り)『市内山下地区の八幡神社前にある大きな石にある約』六十センチメートル『程の人の足型のくぼみをそう呼』ぶとあって、『伝説によると、この地方に住んでいた天狗が』、『村人たちにけしかけられて阿久根大島まで飛ぼうとしたときに踏み台にした石だと伝えられて』おり、『「天狗の足跡」とも呼ばれてい』るというのがそれであるようにも思われる。]

 其矛盾の最初から完全に調和せぬものであつたことは、更に日向大隅の大人彌五郎と、比較して見ることによつて明白になるかと思ふ。彌五郎は中古に最も普通であつた武家の若黨家來の通り名で、それだけからでも神の從者であつたことが想像せられる。而うして大人彌五郎の主人は八幡樣であつた。大隅國分の正八幡宮から、分派したらうと思ふ附近多くの同社では、その祭の日に必ず巨大なる人形を作つて之を大人彌五郎と名け、神前に送り來つて後に破却し又は燒棄てること、恰も津輕地方の佞武多(ねぶた)などと一樣であつた。さうして其行事の由來として、八幡宮の大人征服の昔語を傳へて居るのである。或は其大人の名を、大人隼人などゝ説いたのも明白なる理由があつた。卽ち和銅養老の九州平定事業に、宇佐の大神が最も多く參與せられ、其記念として今日の正八幡があるのだといふ在來の歷史と、斯うすれば確かに稍一致して來るからである。

[やぶちゃん注:「日向大隅の大人彌五郎」ウィキの「弥五郎どんによれば、「弥五郎どん」は「大人弥五郎」「弥五郎様」とも呼ばれ、『九州南部、宮崎県と鹿児島県に伝わる巨人伝説(大人伝説)。およびこれを祀ってこの地方で行われる年中行事・神事である』。『「大人弥五郎」は ダイダラボッチのように山ほどもある大男であったとされている』。『弥五郎のモデルとなった人物や、伝説の起源は明らかではないが、言い伝えでは、弥五郎とは奈良時代の』養老四(七二〇)年に『勃発した「隼人の反乱」の際、律令政府に対抗した隼人側の統率者であったとする説が最も広まっている。後にこの戦いで敗北した隼人達の霊を供養する放生会が行われたが、これが現在の「弥五郎どん祭り」の起源となったとされている』。『他に』三百『歳の長寿を生き、大臣として』六『代の天皇に仕えたとされる伝説上の人物、武内宿禰であるとする説がある』(私はこれを果敢な隼人族の反乱を大和朝廷の捏造された歴史に組み込むための戦略、或いは虚説によって本来の姿を残すための逆の戦略であったのではないかと考えている)。『「弥五郎どん祭り」、または「弥五郎様祭り」は、宮崎県内の』二『地域と、鹿児島県内の』一『地域で毎年』十一『月に開催されており、巨大な弥五郎の像が作られ町内を練り歩く。なお、これら』三『地域の弥五郎は、兄弟であるとする設定が与えられている』(宮崎県都城市山之口町にある円野神社(的野正八幡宮)で行われる長男とされる「山之口弥五郎どん祭り」及び日南市にある田ノ上八幡神社で行われる三男とされる「弥五郎様」はリンク先を見て戴きたい)。さて、次男とされる、曽於市大隅町岩川にある岩川八幡神社で行われる「弥五郎どん祭り」の「弥五郎どん」は身長四メートル八十五センチメートルで、『白い顔に黒髭を生やし、梅染めの茶色い衣を纏い、腰に』二『本の刀を差し、両手で鉾を持つ。「浜下り(はまくだり)」行事』(隼人族の霊を慰めるため、放生会をするようにという宇佐神宮の託宣によって始まったとされるもの。五穀豊穣・豊漁祈願を願い、鹿児島神宮から隼人塚を経て御神幸地へとお下りする大隅一ノ宮鹿児島神宮御神輿行列を模したものであろう)『の先頭に立って練り歩く』ものである。既に注で述べたが、この曽於市大隅町岩川は私の母方の実家(祖父笠井直一。歯科医師)のあったところである。私はこの「弥五郎どん」の祭りを見たことがない。私は死ぬ前に一度、必ず、この弥五郎どんを見たいと思っている

「和銅養老」間に「神龜」を挿んで、七〇八年から七二四年までの期間を指す。]

 大人隼人記といふ近代の傳記には、國分上小川の拍子橋(ひやうしばし[やぶちゃん注:底本では「ひやうばし」であるが、ちくま文庫版全集で特異的に訂した。])の上に於て、日本武尊大人彌五郎を誅戮したまふなどゝ謂つて居るさうだ。其屍を手切り足切り、爰に埋め彼處に埋めたといふ類の話は、今も到る處の住民の口に遺つて居るのだが、しかも一方に於ては大人は尚靈であつて、足跡もあれば山作りの物語も依然として承繼せられるので、それほど優れた神を何故に兇賊とし、屠つて[やぶちゃん注:「はふつて(ほうって)」。]後また祭らねばならなかつたかの疑は、實はまだ少しも解釋せられては居なかつた。大隅市成村諏訪原の二子塚は、一つは高さ二十丈[やぶちゃん注:六十メートル六十センチメートル。]周五町[やぶちゃん注:五百四十五メートル半。]餘、他の一つは略其半分である。相距ること一町ばかり、これも昔大人彌五郎が草畚[やぶちゃん注:「ひもつこ」。ちくま版のルビに拠った。草藁で編んだもっこ。]で土を運んだ時に、棒が折れて飜れて[やぶちゃん注:ちくま版では『こぼれて』とひらがなで書かれている。意味は判るが、しかし、「飜」は「こぼれる」とは訓じない。]此塚となつたといふ點は、富士以東の國々と同じである。獨り山を荷うて來たのみで無い。日向の飫肥(おび)の板敷神社などでは、稻積彌五郎大隅の正八幡を背に負ひ、此地に奉安して社を建てたと謂ひ、やはり其記念として行ふ所の人形送りは、全然他の村々の濱殿下りの儀式、隼人征討の故事といふものと一つである。それから推して考へて行くと、肥前島原で味噌五郎と謂ひ筑豐長門において塵輪と謂ひ、備中で溫羅といひ美作で三穗太郎目崎太郎と謂ひ、因幡で八面大王などゝ傳へて居る恠雄、それから東に進むと美濃國の關太郎、飛驒の兩面の宿儺(すくな)、信州では有明山の魏石鬼(ぎしき)、上州の八掬脛、奧羽各地の惡路王大武丸、及びその他の諸國で簡單に鬼だ強盜の猛なる者だと傳へられ、殆ど明神の御威德を立證する爲に、此世に出てあばれたかとも思はれる多くの惡者などは、實は後代の神戰[やぶちゃん注:「かみいくさ」、]の物語に、若干の現實味を鍍金[やぶちゃん注:「めつき」。]するの必要から出たもので、例へば物部守屋や平將門が、死後に却つて大いに顯れた如く、本來はそれほど純然たる兇賊では無かつたのかも知れぬ。それは改めて尚考ふべしとしても、少なくとも彌五郎だけは忠實なる神僕であつた證據がある。而うしてそれが殺戮せられて神になつたのは、また別の理由があつたのである。

[やぶちゃん注:「大人隼人記」不詳。識者の御教授を乞う。

「國分上小川の拍子橋」現在の霧島市国分上小川。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、現在は川も橋もない。吉留だいすけ氏のブログ「吉留だいすけの「日新タ」日記」の「寄り道(シリーズ第30弾:霧島市上小川)」に写真入りで記事が載る。必見。『熊襲の頭、川上梟師(タケル)がここにかかっていた橋で拍子をとったとのことでつけられた拍子橋があったとされる場所』があり、『この近くで日本武尊によって殺されたとも伝わる(女装して熊襲を倒すという話)』とあり、『近くに隼人の末裔「弥五郎」の体の一部が祀られた枝宮神社もある』とある。

「大隅市成村諏訪原の二子塚」鹿児島県鹿屋市輝北町諏訪原。ここ(グーグル・マップ・データ)。こちらの方の「二子塚の田の神」でこの「二子塚」が現存することも判った。写真(但し、二子塚の全景は判らない)もあり、地図もある。

「日向の飫肥(おび)の板敷神社」現在、日南市飫肥にある田ノ上八幡神社(旧称に改称された)。ここ(グーグル・マップ・データ)。こちらの詳細な記載も参考になり、そこには「稻積彌五郎」及び稲津弥五郎という名も見出せる。

「塵輪」ちくま文庫版では『じんりん』とルビする。

「溫羅」ちくま文庫版では『おんら』とルビする。

「少なくとも彌五郎だけは忠實なる神僕であつた」柳田國男は八幡神の使いとなった点や、或いは天皇の即位式に於ける隼人舞(最後に犬狼のように屈辱的に吠えて言祝ぐのだ!)などを根拠としているのかも知れぬが、私はそれは隼人族が大和朝廷に隷属させられたことの「證據」でこそあっても「忠實なる神僕であつた證據」だなどとは天地が引っ繰り返っても思わないとここに述べておく。

 もう長くなつたから兎に角に此話だけの結末をつけて置く。我々の巨人説話は、二つの道をあるいて進んで來たらしい跡がある。其一方は夙に當初の信仰と手を分ち、單なる古英雄説話の形を以て、諸國の移住地に農民の伴侶として入來り、彼等が榾火の側に於て、兒女と共に成長した。他の一方は因緣深くして、春秋の神を祭る日每に必ず思出し又語られたけれども、爰でも信仰が世と共に進化して、神話ばかりが舊い型を固守して居るといふことは難かつた。卽ち神主等は高祖以來の傳承を無視する代りに、之を第二位第三位の小神に付與して置いて、更に優越した統御者を、其上に想像し始めたのである。名稱は形である故に、固より之を新たなる大神に移し、一つ一つの功績だけは古い分から之を下﨟の神におろし賜はつたのである。菅原天神が當初憤恚(ふんい)[やぶちゃん注:「恚」は怒ること。]激怒の神であつて、後久しからずしてそれは眷屬神の不心得だから、訓誡してやらうと託宣せられ、牛頭天王が疫病散布の任務を八王子神に讓られたというが如き、何れも大人彌五郎の塚作りなどゝ、類を同じくする神話成長の例である。幾ら大昔でもそんな事は有得ないと決すれば、恐らくは又次第に消えて用ゐられなくなることであらう。

[やぶちゃん注:柳田國男の見解は、官僚的な構造支配で総て片が着くとでも考えているらしい。彼は支配階級が最も畏れた御霊の信仰形態の強力な核心の恐ろしさを全く認識していないように私には見える。あんたがこんなことを書いた十四年も後、第二次世界大戦が勃発した際、昭和天皇は崇徳院の御陵に侍従を送り、アメリカに味方されぬようにおろおろと祈らせた事実を教えてやりたい気がした。

 村に淋しく冬の夜を語る人々に至つては、其點に於て稍自由であつた。彼等は澤山な自分の歴史を持たぬ。さうして昨日の向ふ岸を、茫洋たる昔々の世界に繫ぎ、必ずしも分類せられざる色々の不思議を、其中に放して置いて眺めた。一旦不用になつて老嫗の親切なる者などが、孫共の寢付かぬ晩の爲に貯へて居た話も、時としては再び成人教育の教材に供せられる場合があつた。卽ち童話と民譚との境は、渚の痕の如く常に靡き動いて居たのである。而して若し信じ得べくんば力めて[やぶちゃん注:「つとめて」。]これを信じようとした人々の、多かつたことも想像し得られる。傳説は昔話を信じたいと思ふ人々の、特殊なる注意の産物であつた。卽ち岩や草原に殘る足形の如きものを根據としなければ、之を我村ばかりの歷史の爲に、保留することが出來なかつた故に、殊にさういふ現象を大事にしたのである。而して我が武藏野の如きは、兼て逃水堀兼井の言ひ傳へもあつた如く、最も混亂した地層と奔放自在なる地下水の流れを有つて居た。泉の所在は度々の地變の爲に色々と移り動いた。郊外の村里には曾て淸水があるに由つて神を祭り居を構へ、それが又消えた跡もあれば、別に新たに現れた例も亦多い。此の如き奇瑞が突如として起る每に、或はかのダイダラ坊樣の所業であらうかと解した人の多かつたことは、數千年の經驗に生きた農夫として、些かも輕率淺慮の推理では無かつた。説話は卽ち之に基づいて復活し、又屢〻其傳説化を繰返したものであらうと思ふ。

        (昭和二年四月、中央公論)

[やぶちゃん注:「昭和二年」一九二七年。]

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