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2018/04/19

譚海 卷之二 江戶白銀瑞聖寺什物天竺蓮葉の事

 

○江戶白銀瑞聖寺は、黃檗山(わうばくさん)の旅宿寺也。瑞聖寺に年來(としごろ)勤め居たる男七助と云(いふ)もの、一日朝飯焚(たき)ゐたるが、そのまゝ跡をかくし行方(ゆくへ)なし。月日を經(ふ)れば入水(じゆすゐ)などせしにやなど皆々申(まうし)あひたるに、六年過(すぎ)て七助うせたる其月のその日に、門前にて人ののしりあざむ事甚し。何事にやと寺僧も出(いで)て見るに、遙(はるか)なる空中より一むら黑雲の如きもの苒々(ぜんぜん)に地へ降る、是をみて人騷動する也。さて程なく空中のものくだり來て瑞聖寺の庭に落たり、大なる蓮の葉也。その内にうごめく物有(あり)、人々立寄(たちより)て開きみれば件(くだん)の七助茫然として中より這出(はひいで)たり。奇怪なる事いふばかりなし。一兩日過(すぎ)て、七助人心地(ひとごこち)付(つき)たる時、何方(いづかた)より來(きた)るぞと尋(たづね)たれば、御寺に居たるに僧一人來りて天竺へ同伴せられしかば、共に行(ゆく)と覺えしに、さながら空中をあゆみて一所に至る時、其所の人物言語共に甚(はなはだ)異也(ことなり)、天竺なるよ僧のいはれしに、折しも出火ありてさはがしかりしかば、僧われにいはるゝ樣(やう)、この蓮の葉に入(いり)てあれと入(いれ)たれば、やがて包みもちて投(なげ)すてらるゝと覺へし、その後(のち)何にも覺へ不申(まうさず)といひけり。此蓮の葉は天竺の物なるべし、八疊敷程ある葉也。寺庫に收(をさめ)て今にあり、蟲干の節は取出(とりいだ)し見する也。此七助その後八年程ありて七十二歲にして寺にて卒したり。此蓮の葉彼寺の蟲干の節行逢(ゆきあひ)て、正しく見たる人の物語也。

[やぶちゃん注:この神隠し譚、惜しいかな、消えた期間が「六年」、消えた月日も再び戻ったのも同月同日、帰ってから八年後に数え七十二で亡くなったと小まめに時間を記すのに、一向、それが何年のことであったか、肝心な部分が全く記されていないという辺り、それこそ実は、作り話の都市伝説臭いのである。但し、以下に見る通り、瑞聖寺の創建は寛文一〇(一六七〇)年であり、本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る津村の見聞記であるから、概ねその百年の間とは言えるわけだが。如何にもあやしい。但し、この話はかなりその頃、持て囃された有名なものだったらしく、底本の竹内利美氏校訂注版の注によれば、これに基づいて作られた多数の類話が存在するらしい。案外、山崎美成や平田篤胤が入れ込んだ、天狗に連れられて仙界を経廻って帰還したと称し、その後も冥界と行き来出来るとし、た江戸の「天狗小僧寅吉」(文化三(一八〇六)年の秋頃に出現、文政五年に篤胤は彼から聴き取った異界・幽冥界の話を「仙境異聞」として大真面目に出版し、篤胤はこの少年に幽界への手紙まで託した。さらに篤胤はこの仙吉を自身の養子となし、文政十二年まで世話までした)なんぞも、この古い七助の話をもとに悪智恵チンピラ寅吉がインスパイアしたものだったのかも知れないなどと思ったりする。なお、本条は私の電子化した柴田宵曲の「妖異博物館」「天狗の誘拐」(3)で紹介されており、そこの注で既に私は電子化もしてある。柴田の現代語訳でも楽しまれたい。同「天狗の誘拐」(1同(2)もリンクさせておくので、未読の方は、順番に読まれることをお薦めする。

「瑞聖寺」「ずいしょうじ」(現代仮名遣)と読み、現在の東京都港区白金台三丁目にある黄檗(おうばく)宗系禅宗寺院である紫雲山瑞聖寺。本尊は釈迦如来。創建は寛文一〇(一六七〇)年で開山は本邦の臨済宗黄檗派(黄檗宗)第二代の明の渡来僧木庵性瑫(もくあんしょうとう 一六一一年~貞享元(一六八四)年:江戸時本山黄檗山萬福寺開山で黄檗宗祖隠元隆琦(一五九二年~寛文一三(一六七三)年:福建省福州福清県生まれ。萬福寺は生地福清の古刹)の弟子)。江戸時代は幕末まで江戸黄檗宗の中心寺院として壮大な伽藍を誇った。(グーグル・マップ・データ)。因みに、黄檗宗は曹洞宗・臨済宗と並ぶ日本三禅宗の一つで、本山は現在の京都府宇治市にある黄檗山万福寺。承応三(一六五四)年に明から渡来した僧隠元隆琦(いんげんりゅうき 一五九二年~寛文一三(一六七三)年によって齎された。宗風は臨済宗とほぼ同じであるが、明代の仏教的風習が加味されている。明治七(一八七四)年に一旦、臨済宗と合併したが、二年後に独立、今も一宗派となっている。

「旅宿寺」黄檗宗は勿論、恐らくは親和性の強かった臨済宗(実際、私は鎌倉史の研究もしているが、臨済宗の占有とも言える鎌倉の禅寺や付属施設の中には、江戸時代、この寺の末寺であったり、持ち分であったものが見出せる)の行脚僧を宿泊させる寺であったものと推定される。

「あざむ」意外なことに驚く、呆れかえる、ここはその声。

「苒々(ぜんぜん)に」はここでは「ゆっくりだんだんと」の意か、或いは「ふうわりふうわりゆらゆらと」といったオノマトペイア(擬音語・擬態語)として用いているように思われる。]

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