譚海 卷之二 安永七年京師洪水の事幷比叡山うはゞみの事
○安永七年七月、友人某京師より來書に云(いはく)、當月二日大水にて殿上へも水入り、町々は不ㇾ及ㇾ申(まうすにおよばず)當所六條門跡の門などもよほど損じ候程の事にて、死人百餘人と申(まうす)事に候、比叡山のふもとにてうはゞみ岩に當り死(しに)申候、尤(もつとも)山八町ぬけ申候、只今まで淀の舟も大坂かよひやみ申候。
[やぶちゃん注:「安永七年七月」「二日」同年旧暦七月二日は一七七八年七月二十五日。 FUJIMAKI Sachio 氏のサイト「聚史苑」の「天変地異年表 近世後半(A.D.1716~1867)」に、同年七月一日から『翌日にかけて京で雷雨。洪水となり、御所にも被害』が及び、十七に及ぶ『橋が流出。死者』は六百七十人にもなったとあり、「十三朝記聞」「続史愚抄」「続日本王代一覧」「泰平年表」「続皇年代」「浚明院殿御実記」などの資料に載る旨の記載がある。
「六條門跡」現在の京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル門前町にある浄土真宗本願寺派本山の龍谷山(りゅうこくざん)本願寺、所謂、通称「西本願寺」のこと。分立当初の旧称。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「うはゞみ」巨大な蛇。
「尤」大蛇が死んだどころか、のニュアンスであろう。
「山」比叡山。
「八町ぬけ」八百七十三メートルほどに亙って大規模な山崩れが起き。]
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