御伽百物語卷之四 雲濱の妖怪
雲濱(くものはま)の妖怪
[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のもの。]
能登の國の一宮氣多(けた)の神社は能登の大國玉(おほくにたま)にして、羽咋郡(はくひのこほり)に鎭座の神なり。祭祀おほくある中に、每年十一月中(なか)の午の日は、鵜(う)まつりと號して、丑の刻にいたりて是れをつとむるに、十一里を隔てて鵜の浦といふ所より、いつも此神事のため鵜をとらへ、籠にして捧げ來たる役人あり。彼が名を鵜取兵衞(うとりへうゑ)と號して代々(よゝ)おなじ名を呼びつたえて故實とせり。
[やぶちゃん注:「能登の國の一宮氣多(けた)の神社」現在の石川県羽咋(はくい)市寺家町(じけまち)気多大社。大己貴命(おおむなちのみこと)を主祭神とする北陸の古社。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「気多大社」によれば、気多大社では現在も古式の祭りである「鵜祭(うまつり)」が十二月八日から十六日に行われており、これは『大己貴命が高志の北島から鹿島郡の新門島に着いた時、この地の御門主比古神が鵜を献上したのが始まりとされる。祭で鵜を献上する人々は』「鵜捕部(うっとりべ)」と呼ばれ、鹿島(かしま)郡の鹿渡島(かどしま)という所に先祖代々、『住み、その役に仕えていた』(「七尾市観光協会公式サイト」の「鵜祭り」によれば、『七尾市鵜浦町の観音岬』(ここ(グーグル・マップ・データ))、『通称「鵜捕崖」で小西家に代々受け継がれた一子相伝の技法で捕えられた「鵜」を』二十一『人の鵜捕部に渡し、その年の当番である』三人が三日がかりで四十キロメートルもの道のりを運んで、『羽咋市の気多大社へ奉納する』とある)。十二月八日に『鵜崖という場所に神酒・米・花などを供えた後、麻糸を付けた竹竿で鵜を捕らえるが』、『手法には一子相伝の秘訣があるという。献上された鵜は社殿の階上に放され、宮司がそれを内陣に行くよう図るが』、『その時の鵜の進み具合によって翌年の作物の豊凶を占う。進み方が芳しくない時は神楽や御祓いを行う。鵜が内陣の机の上にとまったら』、『神官はそれを捕まえて、浜で放す』とある。標題の「雲濱」は実は標題にのみ出現する地名であり、現在のどこに当たるかは不詳である。しかし、主人公は最後に自宅に戻っているのであるから、この浜も「鵜の浦」地区にあるのでなくてはおかしい。七尾市鵜浦町はここ(グーグル・マップ・データ)である。
「能登の大國玉」ここは所謂、古来からの産土神を指す。
「鵜」カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus。因みに、本邦の河川で行われる鵜飼の鵜は総てカワウ(ウ属カワウ Phalacrocorax carbo)ではなく、より大型のこのウミウである。
「故實」代々の嫡流の習慣・作法。]
去(い)ぬる元祿のころかとよ、この鵜取兵衞いつものごとく神事のためとて、鵜の浦にたち出でまねきけるに、餘多(あまた)ある鵜の中に神事を勤むべき鵜はたゞ一羽のみ。鵜取兵衞が前に來たる事なるを、今宵は珍しく二羽寄り來たりしを、何こゝろなく只一同とらんとしけるに、二羽ながら手にいりければ、不思議の事に思ひて、放ちかへせども、猶(なを)立ちかへりける程に、
『やうこそあらめ。』
とおもひて、籠におさめ、一宮のかたへと急ぎける所に、年の程廿ばかりとも見えたる男の、惣髮(さうはつ)にて、何(なに)さま、學問などに通ひける人にやと見えて、書物をふところに入れたるが、此鵜取兵衞に行きあひて、道づれとなりしばらく物がたりなど仕(し)かけ、打ちつれたるに、何とかしたりけん、俄に腰をひき出(い)でたる程に、
「いかにしけるや。」
と問ひければ、彼(か)の人いふやう、
「殊の外、疝氣(せんき)の發(おこ)りたれば、今は、足も引きがたし。あはれ、その鵜籠に、しばし、乘せて給ひてんや。」
といひけるを、鵜とり兵衞、
『たはぶれぞ。』
とおもひ、
「安き事、乘せ申さん。」
といふに、かの人、立ちあがり、
「さらば乘り申さん。ゆるし給へ。」
と、いふかとおもへば、たちまち鵜籠の中にあり。
[やぶちゃん注:「元祿」一六八八年~一七〇四年。またしても直近の怪奇譚(本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版)。
「何こゝろなく只一同とらんとしけるに」この「一同」は「二羽一緒に」の意ではなく(それでは叙述がおかしくなる)、心に神事に用いる一羽の鵜を獲ることだけを念じて、という副詞「一同に」の意である。
「やうこそあらめ」「何か、儂には判らぬ、鵜同士の縁でもあるのであろう」。
「腰をひき出(い)でたる」ぐっと腰を背後に折り曲げて、蹲るようになったのである。
「疝氣」下腹部の痛む病気。]
されど、さのみ重しともおぼえず。然(しか)も鵜と双(なら)び居たりければ、
『いとあやし。』
とおもへど、さのみとがむる迄にもおよばず。なを、道すがら、はなしうちして行くほどに、一宮までは今二里ばかりもやあるらんとおもふ折ふし、彼の書生、鵜籠より出でていふやう、
「さてさて、今宵はよき御つれをまふけ侍るゆへ、足をさへやすめ給はりぬるうれしさよ。いでや、此御はうしに振舞ふべき物あり、しばらくやすみ給へ。」
と、ありけるほどに、鵜取兵衞も不敵ものにて、
「さらば休み申すべし。」
と、荷をおろしける時、書生、口をあきて、何やらん、物をはき出だすよ、と見えしが、大きなる銅(あかゞね)の茶辨當(ちやべんたう)壹ツ、高蒔繪(たかまきゑ)したる大提重(おほさげぢう)壹組を、はき出しぬ。此中にはさまざまの珍しく奇(あや)しき食物(くひもの)をしたゝめ、魚類、野菜、あらゆる肴(さかな)、みちみちて、鵜取兵衞にくはせ、酒も數盃(すはい)におよびける時、彼(か)の書生、かたりけるは、
「我、もとより、一人の女をつれ來たりぬれども、君が心を如何(いかゞ)と議(はか)りがたくて、今に及べり。くるしかるまじくば、呼び出だして、酒をもらんと思ふなり。」
と語りけるを、
「何のくるしき事か候はん。」
と、鵜取兵衞がいひければ、又、口より女を吐き出だしけるに、年のころ十五、六ばかりと見えたるが、容顏美麗にして愛しつべし。書生もいよいよ興をもよほし、酒をのみける程に、事の外、醉ひてしばらく臥したるに、また女、鵜取兵衞にむかひていふやう、
「我は、もと、此おのこと夫婦のかたらひをなしける折ふし、兄弟もなきものなりといつはりて身を任せ侍るゆへ、心やすくおもひとりて、我ひとりは何方(いづかた)迄も召(めし)ぐして、いたはり、やしなふべきちかひを立て、こゝまでもいつくしみ惠み給ふ也。しかれども、誠(まこと)は我に一人の弟(おとゝ)ありて、我、また、此夫に隱して養ひ侍る也。今、此(この)妻(つま)[やぶちゃん注:「夫」のこと。]の醉ひふしたる隙(ひま)に呼び出だして、物くはせ、酒なんどもてなさんとおもふ也。かまへてかまへて我が夫の眠さめたりとも、此事もらし給ふな。」
と、口かためして、此女もまた、一人の男と、金屛風壹双(いつさう)とを吐きいだし、夫のかたに此屛風をはしらかして隔(へだて)とし、彼のおのこと、うち物かたらひて、酒をのみける内、はや夜も七つ[やぶちゃん注:言い方がちょっとおかしいが、午前四時頃か。]に過ぎぬらんとおもふころ、彼の醉ひふしたるおのこ呵欠(あくび)して起きんとする氣色(けしき)ありければ、是れにおどろきて、女は、最前(さいぜん)、吐き出だしつる男と屛風とを吞みて、何の氣もなきさまにて、かたはらにあり。書生は、やうやうとおきあがり、鵜取兵衞にむかひて、
「扨(さて)も、宵より、さまざまと御世話に預り、道を同じくしてこゝまで來たり。ゆるやかに興を催し侍る事、身にあまりて忝(かたじけ)なし。」
などゝ一禮し、さて、彼(か)の女をはじめ辨當、敷物、悉く、のみつくして、たゞ一つの銀(しろかね)の足打(あしうち)一具をのこして、鵜取兵衞にあたへて、是れより、わかれぬ。
[やぶちゃん注:「足打」足付き折敷(おしき)。膳の代わりともなる縁つきの盆である折敷に足を取り付けたもので、銀製のもの。通常は檜のへぎ(杉や檜などを薄く削った板)で作るから、とんでもない高級品である。]
鵜取兵衞、此足打を得て、宿にかへり、先づ此あやしき咄(はなし)を妻にもかたり、終(つい)に人にも見せて什物(じうもつ)となしけるが、はじめ慥(たしか)に二羽とりたりし鵜の、たゞ一羽ありて籠に入りてありけるも、又、あやしかりける事とぞ。
[やぶちゃん注:さて、本話は実は種本があり、大元は南朝梁の官僚で文人呉均(四六九年~五二〇年)が、六朝時代の宋の東陽无疑 (むぎ)の書いた志怪小説集「斉諧記」(せいかいき)に擬えて書いた志怪小説集「続斉諧記」であり、但し、これは本書に先行する井原西鶴の「西鶴諸国はなし」(貞享二(一六八五)年刊)の「殘るものとて金の鍋」で既に翻案されている(但し、舞台は畿内とし、怪異に逢う主人公は木綿商の問屋業の男にしてある)。而して実は、原話類も、この話も、西鶴のそれも、総て、私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「吐き出された美女」』の注で電子化しているのであった。但し、今回は底本を変えて新たに起しており、読みや注も新たに添えてある。しかし、柴田のそれと私の注は、如何に本話が変容されて、それこそ何度も吐き出されて蘇生してきたかというドライヴのさまをよく伝える。未読の方は、一読をお薦めするものである。]