子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十年 新体詩押韻
新体詩押韻
新体詩の作品は引続き『日本人』その他に掲げられたが、三十年に入ってから新体詩に韻を踏むことをはじめた。居士は三月五日発行の『日本人』に「新体詩押韻の事」なる論文を掲げ、押韻の種類と実際の経験とについて、つぶさに説くところがあったが、作品の上に押韻の跡が見えるのは、一月二十日発行の『日本人』に揚げた「老媼某(なにがし)の墓に詣づ」「田中館甲子郎(たなかだてこうしろう)を悼む」「少年香庵を悼む」「古白の墓に詣づ」の諸篇以来である。一度押韻と決した上は、如何なる場合にもこれを廃せず、「まさをかつねのり」の名を以て「皇太后陛下の崩御遊ばされたるをいたみたてまつる」を『日本』に掲げた時なども、整然と一行置きの押韻が試みてある。
[やぶちゃん注:「老媼某(なにがし)の墓に詣づ」以下の全詩篇は国立国会図書館デジタルコレクションの「子規全集」(第六巻大正一五(一九二六)年アルス刊)で読める。ここ。左コンテンツ「目次・巻号」をクリックし、「新體詩」の項目が見えるまでスクロール・ダウンすると、ずらりと並ぶ。
「田中館甲子郎(たなかだてこうしろう)」物理学者で東京帝大教授の田中館愛橘(あいきつ)の弟。詳細不祥。
「少年香庵」不詳。
「皇太后陛下」孝明天皇の女御で明治天皇の嫡母(実母ではない)英照皇太后(天保五(一八三五)年~明治三〇(一八九七)年一月十一日:九条夙子(あさこ):明治天皇睦仁(むつひと)は孝明天皇と典侍(ないし)中山慶子(よしこ)との間の子であったが、立太子と同時に准后九条夙子の実子とされた)。同追悼詩は十四日後の一月二十五日のクレジット。]
新体詩押韻の一事は、当時としても共鳴者は出なかった。居士は前年の十月『日本人』の「文学」において「新體詩に韻を踏むことの利害如何。曰く踏むも可なり、踏まざるも可なり。若し韻を踏まんとならば徒に形式的に蹈[やぶちゃん注:ここは「子規居士」原本のママ。]まんと企てずして、其韻をして吟誦の際效力あらしむるやうにすべきなり」というのを前提として、押韻に関する意見を述べたことがあったが、この時はまだ実験したわけではなかった。自ら実験したところによると、句法の曲折が多くなる、これは名詞や副詞が語尾に来た結果で、世人は佶屈聱牙とか、支離滅裂とか、文法が違うとかいうであろうが、韻文が散文より佶屈聱牙になり、支離滅裂のところが多くなり、文法を破る傾向があるのは当然である、ただ実際問題からいって、名詞を韻にするのは困難であるにかかわらず、名詞を韻にしなければならぬ必要を感じた、というのである。
新体詩における押韻は、最後の母韻のみを韻とする者、最後の一字だけを韻とする者、最後の一字とその前の字の母韻とを韻とする者の三種に分れるが、居士は実験上第二の法を採った。「是れ唯此量を適度と信じたるに因る」というのである。韻の距離ということも一の問題であり、居士は六種ほどの例を挙げているが、韻の距離は遠ければ遠いほど作り易いといっている。「吾は調子の上より新體詩に韻を踏まざるべからずとは言はず、されど今の散文的新體詩を韻文的ならしむる一方便として韻を踏むことを勸むる者なり。韻を踏みたるがために佶屈聱牙ともならん、支離滅裂ともならん。佶屈聱牙も支離滅裂も刺激劑として必要なりと信ず」というのがその結論である。
[やぶちゃん注:一応、全詩篇を読んだが、佶屈聱牙とも支離滅裂とも感じぬ一方、形式整序への興味があからさまに傾斜していて、詩人の悲傷も、これまた、全くと言っていいほど、美事に伝わってこない。]
居士はこの押韻のために自分で「韻さぐり」一巻を作った。語尾の韻によって語を分類し、同類の中は更にこまかく分けてある。三十年一月著手(ちゃくしゅ)とあるから、押韻をはじめると同時にこの事を作ったものに相違ない。新体詩に押韻の必要を認めたところで、自分一個の詩作の便宜のために「韻さぐり」を作って座右に置くというようなことは、尋常文学者の能くせぬところであろう。居士には何事も根抵から着手しなければ気の済まぬ性質があった。
三月五日の『日本人』に居士は「俚歌(りか)に擬(ぎ)す」六篇を掲げた。当時の新体詩壇にあって民謡俚歌に著眼したのも面白いが、居士の作の最も短いものとして、ここに挙げて置くことにする。
大凧あがれ、
天まであがれ。
天から落ちたら
柳にかかれ。
柳の枝に
三羽の鷺が
みんな逃げて
しまつた。
これははじめのところに「れ」の韻が踏んであるだけのようであるが、次の一篇は大分こまかに韻を用いている。無造作なように見えて、苦心を要したものであろう。
雄蝶舞へ舞へ
雌蝶を連れて、
雌蝶ひらひら、
雄蝶を追ふて、
麥や菜種や
大根の花や、
大根飛び越え
向ふへ行くや
右は小雀、
左は悪魔、
中にぐるぐる
大水車、
行くな遊ぶな、
又舞ひ戾り、
もとの菜種に
夢語り夢語り。
[やぶちゃん注:以上二篇はやはり国立国会図書館デジタルコレクションの「子規全集」(第六巻大正一五(一九二六)年アルス刊)の画像(ここ)を視認して校訂した。「雄蝶」は底本ルビから「をてふ(おちょう)」、「雌蝶」は「めてふ(めちょう)」と読んでいるようである。]
この年三月に新詩会から発行された『この花』という詩集には、居士も正岡子規の名を以て加わっており、『日本人』に掲げた「鹿笛」「父の墓」「小虫」「曳」「筆」「四季」等の外に「おもかげ」一篇が収められている。「おもかげ」はこの集のために作ったものかと思うが、押韻が試みられているところを見れば、三十年以後の作であることは疑(うたがい)を容れぬ。居士以外の『この花』の作者は落合直文、佐佐木信綱、武嶋羽衣(はごろも)、杉烏山(すぎうざん)、大町桂月、塩井雨江、与謝野鉄幹の諸氏であった。
[やぶちゃん注:「武嶋羽衣」(明治五(一八七二)年~昭和四二(一九六七)年)は日本橋生まれの詩人で国文学者・作詞家。宮内省御歌所寄人(よりゅうど)。本名は武島又次郎。瀧廉太郎作曲の名曲「花」やジンタやチンドン屋の演奏で知られる「美しき天然」の作詞者である。但し、彼のウィキによれば、折口信夫(釈迢空)の短歌「葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり」を幼稚な歌だと批判し、「心なく山道を行きし人あらむふみしだかれぬ白き葛花」と添削したことによって、折口の「あたらし」を「新し」ではなく「愛惜し」と誤解したこと、また、紅紫色の葛の花を「白き」とした無知によって歌壇の失笑を買ったという逸話が残されている』とある。
「杉烏山」杉敏介(としすけ 明治五(一八七二)年~昭和三五(一九六〇)年)は山口県生まれの教育者。第一高等学校の国文教授・校長。通称は「びんすけ」で、夏目漱石の「吾輩は猫である」の「津木ピン助」のモデル。歌人としても知られ、「烏山」はその号。
「塩井雨江」塩井正男(明治二(一八六九)年~大正二(一九一三)年)の号。但馬(兵庫)出身の詩人で国文学者。落合直文の「浅香社」に参加し、七五調の詩を発表、擬古派の詩人として注目された。日本女子大・奈良女高師教授。]
居士の新体詩方面における仕事は、他の方面の業績に掩(おお)われ過ぎた嫌(きらい)がある。あるいは居士に取って労多くして酬いらるるところ少いものであったかも知れぬが、二十九年から三十年へかけて、居士の精力の一半は新体詩に傾注されていたといって差支ない。その点は『この花』の一作者たる以外に、多くの検討を要するものがあると思う。
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