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2018/04/25

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十年 「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」と柿の歌 / 明治三十年~了

 

 

     「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」と柿の歌

 

 

 

 秋になってからの居士は、「俳人蕪村」の稿を継いで、遂にこれを完成したのをはじめ、あるいは大野洒竹(しゃちく)氏の「与謝蕪村」を評し、あるいは「若菜集の詩と画」を論ずるなど、筆硯頗る多忙であった。

 

[やぶちゃん注:「俳人蕪村」は既に本文でも少し語られた通り、『日本』明治三〇(一八九七)年四月十三日から連載を始めたが、五月中は病気のために中絶し、その後も「諮問」などの連載で滞っていたものが、再度、書き継がれ始めて、十一月二十九日に完結した。「青空文庫」で新字新仮名版(昭和四二(一九六七)年中央公論社刊「日本の文学 15 石川啄木・正岡子規・高浜虚子」底本)と新字旧仮名版(昭和五八(一九八三)年(改版二刷)岩波文庫岩波書店刊「俳諧大要」底本)が読めるが、底本の相違から後者には「緣語及び譬喩」の項にある、

 

 つかみ取て心の闇の螢哉(かな)

 

 半日の閑を榎(えのき)蟬の聲

 

 又噓(うそ)を月夜に釜(かま)の時雨(しぐれ)哉(かな)

 

の三句が載らない、と後者の「図書カード」にはある。

 

『大野洒竹(しゃちく)氏の「与謝蕪村」』大野洒竹(明治五(一八七二)年~大正二(一九一三)年)は医師(開業医)で俳人。熊本県出身、本名は豊太。東京帝国大学医学部卒。明治二七(一八九四)年に佐々醒雪・笹川臨風らと筑波会を結成、明治二八(一八九五)年には尾崎紅葉・巌谷小波・森無黄・角田竹冷らとともに、正岡子規と並ぶ新派の「秋声会」の創設に関わった。明治三〇(一八九七)年には森鷗外に先駆けて「ファウスト」の部分訳を公表してもいる。参照したウィキの「大野洒竹」によれば、『古俳諧を研究し、古俳書の収集にも熱心であり、「天下の俳書の七分は我が手に帰せり」と誇ったという』。約四千冊に及んだ『蔵書は』現在、『東京大学総合図書館の所蔵となって』おり、『洒竹のコレクションは同図書館の竹冷の蔵書とあわせ』、『「洒竹・竹冷文庫」として、「柿衞文庫」、天理大学附属天理図書館「綿屋文庫」とともに三大俳諧コレクションと評価されている』。『妻は岸田吟香の娘(劉生の姉)』、『従兄に戸川秋骨がいる』とある。「与謝蕪村」(「與謝蕪村」)は明治二九(一九〇二)年発表で、翌明治三十年九月に春陽堂から刊行された、与謝蕪村の評伝。国立国会図書館デジタルコレクションので全文が読める。]

 

 

 

 『日本人』にも八カ月ぶりで新体詩「微笑」を掲げた。日記を見ると頻に俳句分類にも従事はしているようだから、そういう方面においては全く発病以前に復したものと思われるが、更に特筆すべきはこの間において小説に著(ちゃくしゅ)手していることである。

 

[やぶちゃん注:「微笑」国立国会図書館デジタルコレクションのアルス子規全集で読める。]

 

 

 

 九月十五日漱石氏宛の手紙に「近來たのまれて小説とやらをものし居候」とあり、日記を見ると九月十日から「小説を草す」ということが頻に出て来る。これは誰に頼まれたのか明でない。小説は十月十七日に至り脱稿したらしく、同二十日から浄書にかかっており、十月三十日に及んで

 

  碧梧桐虛子來る

 

  晩餐、小説會を開く

 

という記事が見える。この小説が「曼珠沙華」であるが、小説会のために草したのか、誰かの依頼で書いたのを、小説会で読んだものか、その辺はよくわからない。

 

[やぶちゃん注:「曼珠沙華」驚くべきことに、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で、正岡子規自筆原稿(書名「る」)視認出来全コマのダウン・ロードを強くお薦めする。]

 

 

 

 「曼珠沙華」の大きな特色は第一に言文一致を用いた点にある。この以前の居士は学生時代に興味半分で書いたものの外、殆ど言文一致の文章を書いていない。この時思いきって言文一致を採用したについては、何か理由があったのかも知れぬが、地の文章に言文一致を用い、篇中の会話に松山言葉を用いたのは、居士としては最初の試であった。従来居士の小説に用いられた舞台は、「花枕」一篇を除き、何らかの意味で居士に交渉を持った土地でないこともなかったが、松山の地が取入れられたのは「曼珠沙華」を以て囁矢とする。全体は空想趣味に属するものだけれども、三並(みなみ)良氏の書かれたものによると、「曼珠沙華」の主人公になっている人物も、その大邸宅も実際にあったらしいし、こまかい写生的な場面も随所にある。「曼珠沙華」がこれまでの居士の小説と異るのは、大体以上の諸点であるが、当時は遂にどこにも発表されずにしまった。『ホトトギス』にその一節を抜萃して載せたのは、居士の歿後大分たってからのように記憶する。

 

[やぶちゃん注:「花枕」は既出既注。「青空文庫」のこちらで読める(但し、新字)。

 

「三並(みなみ)良」(はじめ 慶応元(一八六五)年~昭和一五(一九四〇)年)は牧師で、明治二十二年以前 最初の詩「聞子規」に既出既注。子規と同じ松山出身で、子規の母の従弟でもあったことから、松山中学時代の子規が「五友」の一人に数えるなど、交流があった。]

 

 

 

 十月十日、京都から帰って来た桂湖村(かつらこそん)氏が、愚庵の庭になった「つりがね」という柿と松蕈(まつたけ)とを居士の病淋に齎(もたら)した。その日の日記には「愚庵の柿つりがねといへるをもらひて」と前書して柿の句が記されているが、居士はこの柿について愚庵和尚に何もいってやらなかった。毎日小説執筆中であったため、取紛れて手紙を書く暇がなかったのかも知れぬ。居士が愚庵和尚へ礼状をしたためたのは十月二十八日の夜で、その翌朝湖村氏の来訪を受けた。湖村民のもとに愚庵和尚の寄せ来った端書には歌が六首記されており、その最後の一首に「正岡はまさきくてあるか柹の實のあまきともいはずしぶきともいはず」とあったのは、和尚が湖村氏に柿を託して以来、杳然として消息なきを訝(いぶか)ったのである。居士はこの歌を読んで、直に追かけて次の手紙を和尚に贈った。

 

[やぶちゃん注:「桂湖村」(明治元(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は後の中国文学者。ウィキの「桂湖村によれば、『現在の新潟県新潟市新津の出身』で、『湖村は故郷近くの福島潟に由来する号で』あり、『本名は五十郎』。『生家は国学や漢学を修めた学者の家系で、自身も幼少から漢籍等に触れて育った』。『東京専門学校専修英語科(現・早稲田大学)に進学し』、明治二五(一八九二)年に卒業』、『日本新聞に客員社友として属したのち、中国に渡航して陶芸や書画について学』んだ。『帰国後は東洋大学・國學院大學で教壇に立ち、その後』、『母校の早稲田大学教授に就任した』明治三八(一九〇五)年に「漢籍解題」を『明治書院から刊行し』ている。

 

「愚庵」京都清水坂の僧天田愚庵(あまだぐあん)。既出既注

 

 以下は底本では書簡本文が二字下げで、追記の短歌と追伸は四字下げであるが、ブラウザの不具合を考えて総て上げた。前後を一行空けた。表記は「子規居士」原本で校訂した。太字部分は底本では傍点「○」。]

 

 

 

昨夜手紙認(したた)めをはり候處今朝湖村氏來訪、御端書拜誦(はいしやう)歌いづれもおもしろく拜誦仕候。失禮ながら此頃の御和歌春頃のにくらべて一きは目たちて覺え申候。おのれもうらやましくて何をかなと思ひ候へど言葉知らねばすべもなし。さればとて此まゝ默止(もくし)て過んも中々に心なきわざなめり。俳諧歌とでも狂歌とでもいふべきもの二つ三つ出放題にうなり出(いだ)し候。御笑ひ草ともなりなんにはうれしかるべく           あなかしこ

 

  十月二十九日      つねのり

 

 愚庵禪師 御もと

 

みほとけにそなへし柹のあまりつらん我にぞたびし十あまり五つ

 

柹の實のあまきもありぬかきのみの澁きもありぬしぶきぞうまき

 

籠にもりて柿おくり來ぬふるさとの高尾の山は紅葉そめけん

 

世の人はさかしらをすと酒のみぬあれは柹くひて猿にかも似る

 

おろかちふ庵(いほ)のあるじかあれにたびし柹のうまさのわすらえなくに

 

あまりうまさに文書くことぞわすれつる心あるごとな思ひ吾(わが)師

 

 發句よみの狂歌いかゞ見給ふらむ

 

 

 

これらの歌は全体の調子からいって、むしろ居士晩年の歌に接近している観がある。日記には第一首の「あまりつらん」を「のこれるを」に改め、第三首の「高尾の山は紅葉そめけん」を「高尾の紅葉色づきにけん」と改めてあるが、これは一度愚庵和尚に贈った後、更に改刪(かいさん)を加えたものであろう。「柹の實のあまきもありぬかきのみの澁きもありぬ」というのが、「柹の實のあまきともいはずしぶきともいはず」に酬(むく)いたものであることは贅(ぜい)するまでもあるまい。この柿の歌は十月十日の日記にある「つりがねの蔕(へた)のところが澁かりき」「澁柹や高尾の紅葉猶早し」「柹熟す愚庵に猿も弟子もなし」「御佛に供へあまりの柹十五」などの句を参照すべきものであるが、俳句を歌に移した――居士自身謙抑(けんよく)の辞を用いている「發句よみの狂歌」という程度でなしに、渾然と出来上っているのは注目に催する。二十九年から三十年へかけて、居士は一首の歌も『日本』に掲げておらぬにかかわらず、突としてここに一連の歌が現れるのは、単に愚庵和尚の歌から刺激を受けたばかりではない。やがて歌に向うべきことを、予告しているもののように思われる。

 

[やぶちゃん注:「改刪」詩句や文章の字句を削ったり、直したりすること。改削(かいさく)に同じい。

 

「謙抑」遜(へりくだ)って控えめにすること。]

 

 

 

 十二月二十四日、はじめて蕪村忌を子規庵に催した。旧派の俳人によって営まれる芭蕉忌に対し、新に蕪村忌を修することをはじめたのは、その旗幟(きし)を明(あきらか)にしたもので、水落露石(みぞおちろせき)氏が遠く大阪から天王寺蕪(かぶら)を寄せ、庭前に写真撮影を試みるというようなことも、蕪村忌の行事として、その後も年々繰返されることになった。この日会する者二十人、当日の記事は居士によって翌年一月の『ホトトギス』に発表された。『ホトトギス』が南海に生れ、「俳人蕉村」が『日本』に連載される年に当って、蕪村忌が新に行事となるのは極めて当然の成行であった。

 

[やぶちゃん注:与謝蕪村は享保元(一七一六)年生まれで、旧暦天明三年十二月二十五日(グレゴリオ暦一七八四年一月十七日)に亡くなっている(享年六十九)。年忌法事は命日より前倒しするのは問題ない。よく、命日より後にそれするのを忌むとするが、これには仏教的な根拠はないと私は思う(恐らくは世間体が悪いという現世的な遺族の方の理由によると思われる)。

 

「水落露石」示した通り、底本は「みぞおち」とルビするが、諸事典類でもこれは「みずおち」が正しい。水落露石(みずおちろせき 明治五(一八七二)年~大正八(一九一九)年)は大阪府出身の俳人。ウィキの「水落露石によれば、『本名は義一、のちに庄兵衛』。『大阪府安土町(現在の大阪市中央区、いわゆる船場にあたる)の裕福な商家に生まれる。府立大阪商業学校(のちの大阪商科大学、現在の大阪市立大学)を経て、泊園書院で藤沢南岳に漢学を学ぶ。その頃から俳句を始め、日本派の正岡子規に師事』し、『東京の子規庵句会、松山の松風会に継いで』三『番目となる日本派の拠点、京阪満月会を興す。京阪満月会は寒川鼠骨、中川四明ら京都や大阪の日本派俳人を中心に拠った。しかし』、『わずか』一『年で露石は』、『地元の大阪で京阪満月会とは別に大阪満月会を興し、それに大阪の俳人たち、松瀬青々、野田別天楼、青木月斗らも続いた。以降は大阪俳壇の重鎮として子規を助け、与謝蕪村の研究家としても、蒐集した膨大な蕪村の原稿を』「蕪村遺稿」『(表紙は富岡鉄斎)として出版した。豊富な資金力から、子規亡き後を引き継いだ高浜虚子の『ホトトギス(雑誌)』発行に金銭的援助をし続けた。また』、『新傾向俳句にも傾倒し、同じ子規門の河東碧梧桐が主宰した『海紅』の同人と』もなっている。

 

「天王寺蕪」双子葉植物綱フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種カブ(アジア系)品種テンノウジカブラ Brassica rapa var. glabraウィキの「天王寺蕪によれば、『なにわの伝統野菜(根菜)の一つ』で、『大阪府大阪市天王寺付近が発祥地だといわれている』。『「和漢三才図会」や「摂津名所図会大成」などにも収録されており、徳川時代から明治末期までが栽培の全盛だったが、耐病性の問題から大正末にはほとんど尖りカブに置き換わったとされる』。『多肉根(主根と胚軸部が肥大した根。カブの場合は胚軸部である)は扁平で、甘味が強』く、『肉質は緻密である』。『また、多肉根が地面から浮き上がったように成長することから』「浮き蕪」とも『呼称される。また、葉には、丸葉と切葉の二系統があり、系京いずれも上記の特徴をしている。本来は細身の切れ葉であったとされ、葉の肉質も柔らかい』。二『月中旬から』九『月中旬にかけて』、『ハウスやトンネル被覆で栽培され、播種後』三十『日程度で小カブとして収穫される』。『成株としての収穫期は』十『月下旬から』一『月半ば』までである、とある。]

 

 

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