甲子夜話卷之四 29 御當家御舊例、御年男の事
4-29 御當家御舊例、御年男の事
或人語る。都城にて年男の役は、老職年﨟の衆勤らるゝ也。舊式にて、年男を勤し人に、おしきの膳に椀を添、その上靑銅二貫文下さる。草履取にも、少し品は下れど、同じく膳椀、靑銅三百文下さるとなり。此事は、公方家いまだ御小身にてあられしとき、老職の人も、僕一人を隨て登城せし御吉例なるべし。又年男より、大奧のはした女中一人に、帶一筋を贈る。これも當年、僅の女中の中帶を乞求しものありしよりの佳例なりとぞ。又年男の居りと云もの出來て、上の御鏡餠と大さ一樣にして、御殿にあることなり。七種畢りて、上の御居りと一同に、年男へ賜はることなり。是も外方には聞ず。珍しき例なり。
■やぶちゃんの呟き
「年男」「としをとこ」。正月行事を司る役の男性。
「おしき」「折敷」。「をしき」が正しい。檜の折(へ)ぎ(薄く削った板)で作った縁(ふち)附きの盆。通常は方形で、食器などを載せる。
「靑銅二貫文」鳥目(ちょうもく:銅銭)二百文は一両の二十分の一。幕末で一万円相当。
「公方家」将軍家。ここは徳川家康のこと。
「隨て」底本編者は『したがへて』とルビする。
「はした」「端」。ごく下級の召使い。
「僅の」「わづかの」。ごく下級の、或いは、(人数が)数少ないの意であろう。
「乞求し」「こひもとめし」。
「年男の居り」「としをとこのすはり」。これで一語で、本文文脈から、特別仕立ての鏡餅の呼称であることが判る。
「七種畢りて」「ななくさをはりて」。人日の節句である一月七日(「松の内」の最終日に相当)が過ぎて。現行では通常、所謂、「鏡開き」は一月十一日に行われる。これはウィキの「鏡開き」によれば、『元々は松の内が終わる小正月』(旧暦一月十五日)の後の一月二十日に『行われていたが、徳川家光が亡くなったのが』慶安四(一六五一)年四月二十日であったことから、それ以降は一月二十日を『忌日として避け、後に松の内』『後の』一月十一日
とされた、とある。
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