ブログ1080000アクセス突破記念 豚と金魚 梅崎春生
[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年七月号『主婦の友』に発表。
因みに、最初に出る「長者門(ちようじゃもん)」と出るが、梅崎春生の当時の家は練馬区の建売住宅で、そんな御大層なものではない。唯の普通の家の門柱を想起されたい。念のため。
本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1080000アクセスを突破した記念として公開する。【2018年4月18日 藪野直史】]
豚と金魚
1
「豚(ぶた)をかいませんか。豚を!」
夕方になっても暑いから肌ぬぎになって、膳を縁側に持ち出し、冷(ひや)ヤッコをさかなにしてビールを飲んでいたら、山名君が長者門(ちようじゃもん)をくぐつて、のそのそと庭に入って来て、いきなりそう声をかけた。
「おや。もうビールを飲んでんですか。まだこんなに明るいのに」
「明るくたって、大きなお世話だよ」
私はつっぱねた。山名君は年少の友人だが、まだ年齢は若いくせに、何やかやととかくお節介(せっかい)をやくくせがあるのである。若いのから意見されるのは、あまり愉快なことではない。
「日がながくなったんだからね、暗くなるのを待ってたんじゃ、八時頃になっちまう」
「それもそうですな。しかしその冷ヤッコ、うまそうですなあ」
つばをごくりと飲み込んだ。
「それに薬味(やくみ)のシソとショウガの色のあざやかなこと。絵になりますよ」
山名君は絵の先生をやっているから、そんなことを言うのだが、本当に色に感心したのか、食欲をそそられて口走ったのか、よく判らない。舌をべろりと出して下唇をなめた。
「シソなんかどうでもいいよ。それよりも豚を何とかと言ってたが、どうしたんだい?」
「ああ。豚ね。豚を持って来たんですよ。リヤカーに乗せてね」
長者門の外を彼は指差した。
「安くしときますよ。どうですか」
「安いと言っても、いつも君から貰ったり買ったりすると、結局高くついてしまうからねえ。で、その豚肉、密殺豚じゃあるまいね。四百グラム、いくらだ?」
「四百グラム?」
山名君は眼をばちくりさせた。
「冗談じゃないですよ。四百グラムだなんて。生き豚です。生きてんですよ」
「なに。生き豚?」
私はつまみ上げた冷ヤッコを丼(どんぶり)に取り落した。
「僕に生き豚を買えというのか。買ってどうしろと言うんだ?」
「そりや小屋をつくって飼ってもいいし、何なら丸焼きにしてお食べになってもいいじゃないですか。とにかく持って来ます」
ちょっと待てという暇もなく、山名君は身をひるがえして、長者門の方にすっ飛んで行った。やがて皮紐(かわひも)を引いて戻って来たので、よく見ると紐の先に仔豚がついて、よちよちと歩いて来た。仔豚の胴体に腹巻き式に、ぐるりと布が巻きつけてあって、紐はその腹巻きについているのである。山名君は鼻翼をうごめかして自慢した。
「どんなもんです。いい考えでしょう。初め犬の首輪をつけてみたんですがね、なにしろ豚はイノシシが進化したものでしょう。だから猪首(いくび)で、豚は苦しがってもがくし、もがくとスポッと首輪が抜けてしまう。それでこんな腹掛け式にしてやりました。どうです。この可愛いこと。こんないい顔立ちの豚は、めったにいませんぜ」
仔豚はきょとんとした表情で、庭を見回している。私は豚についてあまり知識はないが、さほどすぐれた豚相とも思えない。豚は肥っているというのが相場だが、この仔豚はへんにスマートで、つまり瘦せこけているようだし、毛並もよごれている。後肢のつけ根あたりがこぶみたいに、ぶくりとふくれているのも気にかかる。
「あんまりいい豚じゃないね。それに僕には豚を飼う趣味はない。牛飼いならまだ趣きがあるが、豚飼いなんて散文的過ぎるよ。御免こうむる」
「じゃ今度は牛を持って来ましょう」
「いや。結構だ」
私はあわてて手を振った。山名君のことだから、牛でも馬でも持って来かねない。この間などは頼みもしないのに、ヘビのぬけがらを持って来て、むりやりに私に売りつけた。つぶして粉にしてのむと精力剤になるというのだが、あまり当てにならないから、近所のどぶに捨ててしまった。
「それに豚を飼えばくさくて、近所から文句が出るだろう」
「御冗談でしょう。豚ほど清潔な動物は、他にはいないですよ。くさいのは管理が悪いからです。飼うのがイヤだったら、丸焼きは如何ですか。おいしいですよ。ことに鼻の部分がうまいという話です。邸永漢(きゅうえいかん)さんの本にもそう書いてありました」
仔豚が私の方を向いてブーと鼻を鳴らした。
「それならどこかの中華料理屋に持って行ったらどうだい?」
「実はお宅におうかがいする前に、うちの近くの中華屋に持って行ったんですよ。相手が話に乗って商談がまとまりかけた時、この仔豚はお香代(かよ)婆さんから預ったものだと、うっかり口をすべらせたら――」
「なに。これは香代婆さんの豚か」
「そうなんですよ。するとおやじがとたんに青筋を立ててね、オカヨババアの豚ならタダでもいやだ、とっとと持って帰れって怒鳴りつけたんで、僕はもうびっくりして――」
「なに、なに。そりや何か複雑な事情があるらしいな。まあ上れよ。ゆっくり話を聞こう」
「ではそうさせていただきます」
予期していた如く、彼は皮紐を柿の木の根もとに結びつけると、下駄を脱いでのこのこと縁側に上って来た。坐るのかと思ったら、そのまま台所の方に行って、割箸と皿とコップを大事そうにかかえて戻って来た。御馳走するとも言わないのに、もう飲み食いする気でいるのだから、イヤになってしまう。もっとも図々しいところが、この山名君の身上(しんじょう)だと言えるのだけれども。
「うまいですなあ。この冷ヤッコ」
豆腐をつまみ上げながら、コップをにゅっと突き出したので、私は余儀なくビールをとくとくと注(つ)いでやった。山名君はそれを一息で飲みほした。腕で唇の泡をふきながら、満足そうな声で言った。
「うまい。もう一杯下さい!」
「そりや飲ませてやらないこともないけどね、どうしてその中華屋のおやじが怒ったんだね?」
「これには深い事情があるんですよ。先ずさし当っての原因は、目下の求人ブームで、出前(でまえ)の人手不足ということですな」
山名君は急に重々しくもったいぶった口調になった。ゆっくりしゃべることで時間をかせぎ、その分だけビールを余計に飲もうとの魂胆だとは思いたくないけれども、いつも彼は坐り込んでコップを手にすると、こんな話し方になってしまうのはふしぎである。
2
香代婆さんに私はまだ会ったことはないが、山名君の世間話にしばしば出て来るので、顔なじみのような気がしている。山名君の家の裏手に、小さな隠居所みたいな家があり、そこに一人で住んでいる。と書くと天涯孤独の身のように聞えるが、ちゃんと立派な息子がいて、貿易会杜の課長をやっていて、なかなか羽ぶりがいいという話だ。では何故息子と同居しないかというと、息子の嫁と気性が合わないのではなく、
「あたしゃ昔から自由が大好きでね、やりたい放題のことをやりたいのさ」
そこでわざわざ別居して、生活費だけは息子に送らせて、気ままな老年をたのしんでいるのである。我意を通すだけあって、かなり気性は強く、どちらかというと強情我慢、ウルサ型の典型みたいな婆さんらしい。その婆さんがどういうわけか山名君とウマがあう。いろいろ可愛がったり、おかずを分けて呉れたりして、世話を焼いて呉れる。山名君の話によると、
「あたしゃ世の中の不正だのインチキだのを見ると、むらむらっと腹が立ってつっかかりたくなるけれど、あんたみたいに素直で正直な人を見ると、ひいきにしたくなるんだよ」
と婆さんが言ったとのことで、私もすこしあきれて、
「へえ。君が素直で正直なのかね」
と嘆息したら、
「もちろんそうですよ。それとも僕がひねくれてるとでも思っているのですか。それに僕が貧乏にもめげず、芸術にいそしんでいるでしょう。その点に婆さんは感動したらしいのです」
と語気を強めた。なるほど、山名君は画家だけれど、絵が売れたという話は一度も聞いたことがない。その点感服にあたいすると言えば、言えるかも知れない。
その香代婆さんがこの間、少々血相をかえて、総髪にした白髪をふり立てるようにして、山名君の家の庭に入って来た。駅前通りに出るためには、自分の門をくぐつて出るより山名君の庭を横切る方が近道なので、いつも婆さんはそこを通るのである。その時縁側で爪を切っていた山名君は、それを見てあわてて呼びとめた。
「お婆さん。お婆さん。顔色をかえて、一体どうしたんです」
「どうもこうもないよ。癪(しゃく)にさわるじゃないか」
婆さんは足をとめて、じだんだを踏むようにした。丁度(ちょうど)そこらに草花が芽を出し始めていたので、山名君ははらはらしたそうである。
「駅前通りの珍華亭(ちんかてい)に、ラーメンの出前を頼んだんだよ。それから三十分も経つのに、まだ持って来ないじゃないか。女の一人暮しと思って、あの珍華のおやじ、あたしをバカにしてんだよ。だから今から文句を言いに行くんだ」
なかなか気の強い婆さんで、不正不義を憎むのである。不正不義と言っても、婆さんがそう思い込んでいるだけで、生憎(あいにく)その日は日曜だったし、珍華亭の雇い人が一人やめて、出前の手不足で配達が遅れていたのだ。しかしそれを説明しても聞き入れるような婆さんではないので、山名君も爪切りを中止して、ついて行くことになった。婆さんの加勢をしようという殊勝な魂胆でなく、喧嘩の現場を見たいとの野次馬根性からだったらしい。
3
「その珍華亭のおやじも少々変り者でね、商売人のくせにむっつりして、お世辞ひとつ言わない。しかしそういうのに限って、腕は確かなようですな。ラーメンでもチャーハンでも、ひなにはまれなものを食わせました」
ビールも冷ヤッコもなくなったから、山名君は台所に立ち、勝手に冷蔵庫をあけて、新しいビールを二本と焼豚の皿を持って戻って来た。実に平然とことを遂行(すいこう)するので、私はなんだかここが自分の家じゃないような気がして来る。庭の生き豚を眺めながら焼豚を食うのは、妙な感じのものであった。
「婆さんは前にのめるような姿勢で、とっとと歩いて行く。もう六十何歳というのに、足腰が達者で、とても早いんですよ。僕も遅れじとあとに続きました。珍華亭の前に来ると、婆さんははずみをつけるような恰好(かっこう)でパッとのれんをはね上げ、中に押し入りました。珍華のおやじは丁度調理場でチャーハンをいためていた。婆さんが大声を出しましたね。
『出前を頼んで一時間も経つのに、まだ持って来ないのはどういうわけだね。あたしゃ腹が減ってんですよ。あたしを干乾(ひぼ)しにしようというつもりかい?』
『干乾し?』
飯を空中でくるりとひっくり返しながら、おやじはじろりと婆さんを横眼で見ました。
『今若い者が暇をとってね、手が足りねえんですよ』
『手はあるじゃないか』
婆さんは店番の小女(こおんな)を指差しました。小女はおろおろと灰皿などを片付けています。
『女じゃダメだよ』
おやじは冷然と言って、コショウを飯にパッパッとふりかけました。
『それにあんたは出前にいろいろ文句を言うそうじゃないか。やめた若い者が言ってましたよ。やれ今日のは汁がからかったとか、シナ竹(ちく)が少かったとか――』
『文句じゃないよ。批評してやってんだよ』
『批評なんてものはね、もっと大局からするもんだよ。それを何ですか。シナ竹の一本や二本に、ケチケチとこだわって――』
『あれ、あたしをケチとお言いなのかい』
婆さんは腕まくりをしました。女ながら勇ましいものですねえ。
『あたしゃお客だよ。そのお客に向って、ケチだから、つくってやらないと言うんだね』
『そうは言ってないよ。婆さんの分は出来てんだよ。ほら、そこに』
おやじが顎をしゃくったので、見ると台の上にちゃんとラーメンの丼が乗っかっています。
『そんなに腹がぺこぺこなら、ここで食べてったらどうだね。その方が早道ですよ』
『お婆さん。そうしたらどうですか。いつまで言い合っても、きりがないから』
僕がそう口をそえたものですから、香代婆さんは不服そうに僕をにらみつけ、それからどしんと椅子に腰をおろして、つんけんした声で小女に命令しました。
『それなら食べてやるから、棒みたいにつっ立ってないで、早くラーメンを持っといで!』
小女がラーメンを持って来ると、婆さんはおもむろに卓上のコショウの容器を振り上げました。そしてあの穴が点点とある中蓋を爪でこじあけると、中身を全部パアッとラーメンにぶちあけてしまった。あっ、と言う間もありませんや。あれは一瓶五十円やそこらはするんでしょう。婆さんは帯の聞から財布を出して、十円玉を四つ、卓上にパチパチと並べました。
『さあ。代(だい)はここに置いたよ。山名さんや。帰りましょう』
横眼で調理場から見ていたおやじが、憤然たる面もちで飛び出しました。そりゃそうでしょう。四十円のラーメンに五十円のコショウをぶちあけられては、どだい商売にならない。おやじは怒鳴りました。
『何てことをするんだ。もったいない』
『あたしゃケチケチすることが大きらいでね』
婆さんも怒鳴り返しました。
『それともお前さんとこの店じゃ、コショウを使っちゃいけないのかい?』
『いけないとは言わん!』
おやじもぐつと詰ったらしい。すぐ体制を立て直して、
『コショウをそんなに使った以上、ここで全部食べてもらおう』
『食おうと食うまいと、金を払った以上、あたしの勝手ですよ。それともお前さん、押売りする気かい?』
『なに押売りだと?』
おやじの額に青筋がニョキニョキと立ちました。
『さっきこの小女(こおんな)に何て言った? 食べてやるから持って来いと言ったじゃないか。さあ、きっぱり食べていただこうじゃねえか』
今度は香代婆さんの方がぐつと詰った。調理場でチャーハンが焦(こ)げて、煙を出し始めたので、小女があわててガスの火を消しに飛んで行きました。
『食えばいいんでしょ。食えば!』
逃口上(にげこうじょう)がなくなったものだから、婆さんはふてくされて、居直りました。見ると丼の表面はコショウだらけで、ソバもシナ竹(ちく)も肉片もその中に埋没しています。婆さんは箸でそっとコショウをかきわけ、ソバをつまみ出しました。一口食べたとたんに、コショウが鼻に入ったと見え、大きなくしゃみを三度続けざまにしました。
おやじが腕組みしてにらみつけているので、婆さんも逃げ出すわけには行かない。くしゃみをしたり、涙をほろほろ流したりしながら、やっと半分も平らげたでしょうか。見るに見かねて僕が横から口を出しました。
『お婆さん。残りは僕が食べましょう。僕も腹ぺこなんです』
『そうかい。それなら差上げるよ』
と丼を僕の方によこした。あんなからいラーメンを食ったのは、生れて初めてですな。まるで口の中が火事になったみたいで、出すまいとしても大粒の涙がコロコロころがり出る。やっとのこと食べ終ったら、おやじが腕組みを解いて、汁まで全部飲んで行けと言う。ムチャな話ですよ。コショウがどっさり溶け込んでいるんですから、あれを飲んだら気違いになるか、あるいは肝臓が破裂して死んでしまうかも知れません。
『汁まで飲まねばならぬという規則は、どこにもないぞ』
と頑張って、婆さんと二人で外に出て、家まで小走りでかけ戻って来ました。そしてボンプをギイコギイコ鳴らして水を出し、二人でがぶがぶ飲みました。実は珍華亭で水を注文してもよかったのだけれど、行きがかり上そんなわけには行きません。婆さんが涙を流しながら我慢しているのに、僕が水を頼んだとあっては、男の名折れですからねえ。
香代婆さんはその夕方から、どっと床につきました。あんなからいものを食べて、水を一升ぐらい飲んだので、胃腸をこわしたんですな。僕ですらその日一日は身体の調子が悪かったんだから、六十何歳という年齢にはムリだったに違いありません」
4
「豚とその話とどういう関係があるんだね」
と私は聞いた。
「ええ。それがね、身体をこわしてどっと床についたとこから、次の幕が始まるんですがね」
山名君はにやにや笑いながら、空のビール瓶を催促がましく振って見せた。
「もう、これ、ないんですか」
「イヤな奴だな。もうビールはないよ。戸棚をさがせばウィスキーが少し残っているかも知れないけれど」
「ウィスキー、結構ですねえ。持って参りましょう」
台所をごそごそ探し回り、半分ほど残ったウィスキー瓶を持って戻って来た。
「なにしろ胃腸をいためたのだから、固いものは食べられない。僕も気の毒に思って、朝夕二度重湯(おもゆ)などをこしらえて、届けていました。香代婆さんというのは大の医者嫌いで、どんなにすすめてもかかろうとしない。おなかの病気なんか寝てりゃなおるという信念で、その信念が通ったのか、三日目にはやっと床に坐れるほどに回復しました。鏡を使って髪を撫でつけたりしていると、その鏡に庭の一部がうつったんですな。
婆さんは一人で暮しているだけあって、きれい好きで、庭はあまり広くないけれど、雑草ひとつ生えていません。真中に小さな池があって、婆さんの趣味で金魚が飼ってある。僕は金魚について知識はないけれど、なかなか素姓のいい金魚だそうで、大きな尻尾をひらひらさせて、ゆうゆうと泳いでいます。その金魚を猫がねらっているのが、鏡にうつったんです。婆さんはキャッというような声を上げて、庭の方に振り向いた。
全身があぶらぎって憎たらしく大きな黒猫だったそうですが、ちらと婆さんの方を見ただけで、また視線を元に戻して、前肢をチョイチョイと池につっこんで、金魚をかすめようとしている。婆さんはカッとなって立ち上り、そこらにあった箒(ほうき)をふり上げて突進しようとしたが、なにしろ三日間食うや食わずでしょう。腹に力が入らないものですから、ひょろひょろと縁側までたどりついた時、黒猫はパッと金魚をすくい上げた。口にくわえると、生垣の方に逃げて行く。おのれとばかり婆さんが縁側から飛び降りると、やはり体力不足のせいで足を取られて、よろめいて庭にひっくり返りました。起き上った時には、もう猫の姿も形も見えません。もしこれが病気でなけりゃ、婆さんは箒で猫を張り倒して、金魚を救えたでしょうにねえ。
婆さんは怒りに燃えて、近所の子供たちを呼んで猫の特徴を話すと、それはきっと豚足の猫だよと口々に言う。豚足というのは一町ほど離れたところにある農家で、本来は農業ですが、内職に豚を飼っている。それだけ聞きただすと、婆さんは部屋に取って返し、生卵を二箇割って呑み、杖をついて豚足に出かけたんですな。婆さんを支えているのは、不正不義を憎む精神力だけです。でも精神力だけではスピードは出なくて、一町歩くのに三十分ぐらいかかったそうです。
豚屋のおやじは在宅していました。四十がらみの肥った男で、庭で豚の餌の調合をしていました。サツマイモの煮たのに米ヌカとかオカラとか、そんなのを混ぜ合わせているところに、へんな婆さんが杖をついてよたよたと入って来たので、何と間違えたのか、
『うちじゃ間に合ってるよ』
と、つっけんどんに言ったそうです。そこで婆さんはこちんと頭に来た。
『間に合ってるとは何だよ。この泥棒猫!』
『派棒猫?』
猫呼ばわりをされて、豚屋は眼をぱちくりさせました。
『そうだよ。お前さんとこの猫が、さっきうちの金魚をかっさらって逃げたんだよ。一体どうして呉れる』
『金魚? 金魚ごときの問題で、血相かえることはないじゃないですか。いい歳をして見っともない』
『何を言ってんだい。金魚々々とバカにしなさんな。一匹何十万円という金魚もあるんだよ。お前さんとこの三文豚とは、ケタが違うんだ』
『三文豚とは何だ』
調合の手を休めて、豚足も本気で怒り出しました。
『そら、自分で飼ってるものをけなされりゃ、誰だって怒るだろ。大切な金魚を盗られた身にもなってみなさい』
『じゃあどうしろと言うんだい?』
『金魚の代償に、豚一匹よこしなさい。それだったら、我慢してやる』
別段豚が欲しいわけじゃなかったのですが、豚足の態度が横柄なのと、体がつらいのをムリしてここまで来たもとを取ろうと、とっさの間に婆さんの口から、そんなせりふが飛び出したというわけです。ちょいとした言いがかりですな。
『金魚と豚と!』
果たして豚足は天を仰いで嘆息しました。
『冗談も休み休みにしてもらいたいね。比較になるもんか。それとも婆さんとこの金魚は、何十万という代物(しろもの)なのかい』
『何十万はしないけれど、一万五千円ぐらいするんだよ』
婆さんはサバをよみました。香代婆さんの死んだつれあいというのは、弁護士だったそうで、その影響で彼女もサバをよんだり、言いくるめたりするのが得意なのです。
それから婆さんと豚足の間に大議論が始まって、猫の行動にどの程度まで飼主が責任を持つべきかということや、金魚の管理に不備はなかったかとの。問題などについて、さまざまの意見が交されて、ついに豚足は、
『うちのクロが金魚を盗ったというが、その証人か目撃者を連れて来い』
と言い出して来た。目撃者はいない。見ていたのは婆さんひとりですから、彼女は口惜しがって歯をギリギリと嚙み鳴らし、
『よろしい。お前さんがそういう態度を取るなら、あたしにも考えがある。あたしゃ警察署長や新聞記者に、たくさん知合いがあるんだからね。あとで後悔しなさんな』
と捨ぜりふを残して、また一町の道を二十五分ぐらいかかって、えっちらおっちらと戻って来ました。
夕方僕がおかゆをこしらえて、香代婆さんの家を訪ねると、婆さんは壁に向って坐って、ダルマのように何か思案にふけっていました。僕が声をかけると、婆さんはこちらを振り向いたが、あの気丈な婆さんが両眼に涙をうっすらとたたえているので、おどろきましたねえ。コショウ中毒にかかった揚句、大切な金魚まで盗られて、さすがの婆さんも涙もろくなったらしいのです。
『あたしゃ口惜しいんだよ』
一部始終を聞いて、僕も同情にたえなかったですな。婆さんが血相をかえて珍華亭におもむこうとした時、この僕がとめさえすれば、こんな事態にはならなかった。その点で僕にも責任はないことはない。
『どうです。お婆さん』
僕は思いついて提唱しました。
『新聞に投書したらどうですか。苦情欄とか何とか、そんなのを取り扱う欄があるでしょう。それに豚屋の猫のことを――』
『そうねえ』
婆さんはおかゆをモグモグ食べながら、視線を宙に浮かせて、何かしきりに考えていましたが、
『でも、採用して呉れるかねえ。たかが泥棒猫のことで』
『そりゃ出してみなきや判らないですよ。案外目新しい事件だから、採って呉れるかも知れない』
婆さんは梅干を頰ばり、首をかたむけていましたが、やがて思い詰めたように、
『それよりも、山名さん、あんたがその新聞記者に化けて、あの豚足をおどかして呉れないかねえ』
『え? 僕が新聞記者に?』
『そうだよ。あの豚屋みたいな男は、弱い者には横柄に出るけれど、強いのが来るとすぐへたへたとなるタイプだよ。あたしのカンに間違いはない。ねえ、山名さん、あたしをたすけると思って、ここで一芝居打ってお呉れでないか』
と両手をつかれた時には、もう僕もことわり切れなかったですな」
5
「それで――」
私もあきれてコップを下に置き、先をうながした。
「君がその苦情欄の記者に化けたのか」
「そうですよ」
山名君はウィスキーの瓶の尻をたたいて、最後の一滴を飲み干した。
「友達に新聞社につとめているのがいてね、翌日そいつを訪ねて名刺を一枚もらい、その足で豚足のところに行ったのです。一老女という署名の投書があって、お宅に悪質な泥棒猫がいるという話だが、と切り出すと、豚足はギクリとしたらしいが、平気をよそおって、
『あんたは誰だ?』
というから、名刺を見せてやりました。そして続けて、
『豚のにおいがプンプンして、近所が迷惑しているとも書いてあるが――』
と言うと、豚屋は急にへどもどして、態度もていねいになり、
『それ、新聞に乗せるんですか?』
と哀願的な口調になったので、僕も少々気の毒になり、
『いや。部課長会議にかけて採否はきめるんだが、その一老女というのに心当りがあったら、あやまりに行って、投書の取消しを頼んだらどうだね』
と教えてやり、縁側でお茶とお菓子を御馳走になり、意気揚々として戻って来たのです。なに? 包み金か何かもらったろうって? 冗談じゃないですよ。それほど僕は悪らつな男じゃありません。うちへ戻ってしばらくすると、香代婆さんの家の方から話し声が聞えるから、窓からそっとのぞいて見ると、豚屋がこの仔豚を持ってあやまりに来ていたところでした。僕は笑いをかみ殺すのに苦労したですな」
外はもう蒼然と昏(く)れかかって、柿の木につながれた仔豚の姿も、さだかでなくなっている。酔いがこころよく全身をめぐつて来た。
「その仔豚を持て余して、珍華亭に売りに行ってことわられ、それで僕のところに持って来たというわけか」
「そうなんですよ」
山名君はコップを伏せて長嘆息した。
「お宅でも要(い)らないとすると、一体どこに持って行けばいいのかなあ。仔豚の始末は僕に任せなさいと、婆さんに見得(みえ)を切って来た手前、今更持ち帰るわけにも行かないし、ほんとに頭が痛いですよ。弱ったなあ」
立ち上ってからも、山名君はしきりにぼやいた。