柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 三 關東のダイダ坊
三 關東のダイダ坊
自分たちは先づ第一に、傳説の舊話を保存する力といふものを考へる。足跡がある以上は本當の話だらうといふことは、論理の誤りでもあらうし、又最初からの觀察法では無かつたらうが、兎に角に斯んなをかしな名稱と足跡とが無かつたならば、如何に誠實に古人の信じて居た物語でも、さう永くは我々の間に、留まつて居なかつた筈である。東京より東の低地の國々に於ては、山作りの話は漸く稀にして、足跡の數はいよいよ多い。卽ち神話は遠い世の夢と消えて後に、人は故郷の傳説の巨人を引連れて、新たに此方面に移住した結果とも、想像せられぬことは無いのである。けだし形狀の少しく足跡に似た窪地をさして、深い意味も無くダイラボツチと名付けたやうな彗口も、或時代には相應に多かつたと見なければ、説明のつかぬ程の分布があることは事實だが、大本に溯つて、若し巨人は足痕を遺すもの也といふ教育が無かつたら、到底是までの一致を期することは出來ぬかと思ふ。
上總・下總は地名なり噂話なりで、ダイダの足跡の殊に遍ねき地方と想像して居るが、自分が行つて見たのは一箇處二足分に過ぎなかつた。旅はよくしても中々そんな處へは出くはせるもので無ない。上總では茂原から南へ丘陵を一つ隔てゝ、鶴枝川が西東に流れて居る。其右岸の立木といふ部落を少し登つた傾斜面の上の方に、至つて謙遜なるダイダツポの足跡が一つ殘つて居た。足袋底の型程度の類似はもつて居るが、此邊が土ふまずだと言はれて見ても、なる程と迄は答へにくい足跡であつた。面積は僅かに一畝と何步、周圍は雜木の生えた原野なるに反して、此部分のみは麥畠になつて居た。爪先は爰でも高みの方を向いて居る。土地の發音ではライラツポとも聞える。兩岸[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集では『川の両岸』とある。]の岡から岡へ一跨ぎにしたと言ふのであるが、向ひの上永吉の方では、松のある尾崎が近年大いに崩れて、もう足跡だと説明することが出來なくなつて居る。たゞ其の少しの地面のみが別の地主に屬し、左右の隣地を他の一人で持つて居る事實が、多分以前は除地であつたらうことを、想像せしめるといふだけである。
[やぶちゃん注:「茂原から南へ丘陵を一つ隔てゝ、鶴枝川が西東に流れて居る。其右岸の立木といふ部落」現在の千葉県茂原市立木。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「除地」「よけち」(「じょち」とも読む)。江戸時代、幕府や藩から年貢を免除された土地の内、寺社の境内や特別な由緒のある土地を指す。従来は検地を受けなかったが、次第に検地された上で、検地帳に「除地」として登録されるようになった。起源は中世寺社境内の免租地を除地といったことにあるらしい(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]
埴生郡聞見漫錄を見ると、この地方の海岸人がダンダアといふのは、坊主鮫とも稱する一種の恠魚であつた。それが出現すると必ず天氣が變ると傳へられた。或は關係は無いのかも知れぬが、事によるとダイダ坊も海から來ると想像したのではあるまいか。常陸の方では、風俗畫報に出た「茨城方言」に、ダイダラボー、昔千波沼(せんばぬま)邊に住める巨人なりといふ。土人いふ此人大昔千波沼より東前池(ひがしまへいけ)まで、一里餘の間を一跨ぎにし、其足跡が池となつたと言ひ傳ふる假想の者だとある。其足跡の話は吉田氏の地名辭書にも見え、或は椎塚村のダツタイ坊などの如く、そちこち徘徊した形跡は勿論あるが、それを古風土記の大櫛岡の物語が、其儘殘つて居たものと解することは、常陸の學者には都合がよろしくとも、他の方面の傳説の始末が付かなくなる。自分はさういふ風に地方々々で、獨立して千年以上を持ち傳へたやうには考へて居ないのである。
[やぶちゃん注:「埴生郡聞見漫錄」深川元儁(もととし 文化七(一八一〇)年~安政三(一八五六)年):江戸後期の国学者・蘭学者。平田篤胤に国学を、幡崎鼎(はたざきかなえ)に蘭学を学んだ。郷里の上総地方の本草調査や研究を行い、漢学・詩文にも優れた)の著になる埴生郡(はにゅうぐん/はぶぐん)の見聞記。埴生郡は現在の茂原市の一部・長生郡長南町の大部分・長生郡睦沢町の一部(以上、旧上埴生郡)、及び、成田市の一部・印旛郡栄町の一部・茨城県稲敷郡河内町の一部(以上、下埴生郡)に相当する広域である。
「風俗畫報」明治二二(一八八九)年二月に創刊された日本初のグラフィック雑誌。大正五(一九一六)年三月に終刊するまでの二十七年間に亙って、特別号を含め、全五百十八冊を刊行している。写真や絵などを多用し、視覚的に当時の社会風俗・名所旧蹟を紹介解説したもので、特に「名所圖會」シリーズの中の、「江戸名所圖會」に擬えた「新撰東京名所圖會」は明治二九(一八九六年から同四一(一九〇八)年年までの三十一年間で六十五冊も発刊されて大好評を博した。謂わば現在のムック本の濫觴の一つと言える。同誌の「茨城方言」は明治四〇(一九〇七)年七月発行ではないかと思われる(柳田國男の「野草雜記・野鳥雜記」の記載内容から推定)。
「千波沼(せんばぬま)」茨城県水戸市の偕楽園内にある千波湖のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。個人のブログ「コツコツ歩き隊!」の「偕楽園と千波湖を歩く(2)」によれば、現在、同湖の遊歩道に「ダイダラ坊の伝説」という案内石柱があり、それを電子化しておられた。整序して連続させて以下に示す。
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千波湖をつくったのはダイダラ坊という巨人だ、と言い伝えられている。ダイダラ坊は現在の内原町大足に住んでいた。村が朝房山のために日陰になり、村人の困っているのを見たダイダラ坊は、山を村の北方に移してしまった。ところが、その跡に水がたまって洪水になったため、指で小川をつくって水を流し、その下流に掘った沼が千波湖だという。
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「東前池(ひがしまへいけ)」この名称では残っていないか、池自体が消失しているのかも知れない。識者の御教授を乞う。
「吉田氏の地名辭書」「大日本地名辭書」。明治後期に出版された地名辞典。日本初の全国的地誌として在野の歴史家吉田東伍個人によって十三年をかけて編纂された。
「椎塚村」水戸の遙か南方(でも巨人なら十数歩)の茨城県稲敷市椎塚か。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「古風土記」の一書である「常陸國風土記」。
「大櫛岡の物語」水戸市塩崎町にある「大櫛(おおくし)の岡」で、「茨城県生活環境部生活文化課」作成になるこちらによれば、文献に記載された貝塚としては世界最古の貝塚とされる縄文前期に形成された大串貝塚遺跡がある。ここにはその貝塚に纏わる巨人伝説が知られている。「常陸國風土記」の「那賀郡」の条に(武田祐吉編の岩波文庫版から引用する)、
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平津(ひらつ)の驛家(うまや)[やぶちゃん注:古代日本の五畿七道の駅路沿いに整備された施設。後の宿駅。]の西一二里に岡あり。名を大櫛(おほくし)といふ。上古(いにしへ)に人あり、體(かたち)極めて長大(おほ)きに身は丘壟(をか)の上に居りて、蜃(うむぎ)[やぶちゃん注:蜃気楼を吐いて見せるとされる伝説上の巨大な蛤。]を採りて食ひき。その食へる貝、積聚(つも)りて岡と成りき、時の人大きに朽ちし義(こゝろ)を取りて、今大櫛(おほくし)の岡(をか)といふ。その踐(ふ)みし跡は、長さ四十餘步、廣さ二十餘步あり、尿(ゆまり)[やぶちゃん注:小便をすること。それで地面に穴が開いたのである。]の穴趾(あと)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]は、二十餘步許なり。
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とある。]
下野では又鬼怒川の岸に立つ羽黑山が、昔デンデンボメといふ巨人の落して往つた山といふことになつて居る。此山に限つて今尚一筋の藤蔓も無いのは、山を背負つて來た時に藤の繩が切れた爲だといふのは、少々ばかり推論の繩が切れて居る。或は此山に腰を掛けて、鬼怒川で足を洗つたと謂ひ、近くに其時の足跡と傳ふる二反步ばかりの沼が二つあり、土地の名も葦沼と呼ばれて居る。足のすぐれて大きな人を、今でもデンデンボメの樣だと謂つて笑ふといふのも(日本傳説集)、信州などの例と一致して居る。
[やぶちゃん注:「羽黑山」現在の栃木県宇都宮市宮山田町にある羽黒山。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高は水準点で四百五十八メートル(但し、最高地点は標高四百七十メートル以上四百八十メートル未満のピーク)。ウィキの同山の記載によれば、『羽黒山には人間がまだ誕生しない大昔、でいだらぼっちが羽黒山に腰掛けて鬼怒川で足を洗ったという言い伝えがある』とある。
「少々ばかり推論の繩が切れて居る」落した後に本体の山をどこへ運んだかという後段の本筋が切れているということか。
「土地の名も葦沼と呼ばれて居る」栃木県宇都宮市芦沼町。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、沼は見当たらない。他にも芦沼の少し北には、デンデンボメが肘(ひじ)をついたと伝える栃木県塩谷郡塩谷町(しおやまい)肘内(ひじうち)もある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「足のすぐれて大きな人を、今でもデンデンボメの樣だと謂つて笑ふといふのも(日本傳説集)」国立国会図書館デジタルコレクションのここ。]
枝葉にわたるが足を洗ふといふ昔話にも、何か信仰上の原因があつたのでは無いかと思ふ。私の生まれた播州の田舍でも、川の對岸の山崎といふ處に、淵に臨んだ岩山があつて、夜分其下を通つた者の怖ろしい經驗談が多く流布して居た。路を跨いで偉大なる毛脛が、山の上から川の中へぬつと突込まれたのを見たなどゝ謂つて、其土地の名を千束と稱するが、センゾクは多分洗足であらうと思つて居る。江戸で本所の七不思議の一つに、足洗ひといふ恠物を説くことは人がよく知つて居る。深夜に天井から足だけが一本づゝ下がる。之れを主人が𧘕𧘔[やぶちゃん注:「かみしも」。裃。]で盥を採つて出て、恭しく洗ひ奉るのだといふなどは、空想としても必ず基礎がある。洗はなければならなかつた足は、遠い路を步んで來た者の足であつた。卽ち山を作つた旅の大神と、關係が無かつたとは言はれぬのである。
[やぶちゃん注:兵庫県神崎郡福崎町(ふくさきちょう:柳田國男の生地)の山崎(やまさき)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「千束」「せんぞく」と読む。柳田國男の引用もある『観光情報 ふくさき』(平成二十七年五月号・PDF)によれば、この大きな足の出たとする崖の上は「播磨國風土記」で神が降臨したとする「神前山」であるとあり、『大足伝説はこのことと無家系ではないかもしれない』とある。]
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