柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 七 太郞といふ神の名
七 太郞といふ神の名
自分等が問題として後代の者に提供したいのは、必ずしも世界多數の民族に併存する天地創造譚の些々たる變化では無い。日本人の前代生活を知るべく一段と重要なのは、何時から又如何なる事由の下に、我々の巨人をダイダラ坊、若しくは之に近い名を以て呼び始めたかといふ點である。京都の附近では廣澤の遍照寺の邊に、大道法師の足形池があることを、都名所圖會に插畫を入れて詳しく記し、乙訓(おとくに)郡大谷の足跡淸水は、京羽二重以下の書に之を說き、長さ六尺ばかりの指痕分明也とあつて、今の長野新田の字大道星は卽ち是だらうと思ふが、去つて一たび播州の明石まで踏出せば、もうそこには辨慶の荷塚(になひづか)があつて、奧州から擔いで來た鐵棒が折れ、怒つてその棒で打つたと稱して頂上が窪んで居た。だからダイダ坊などはよい加減の名であらうと、高を括る人もあるいは無いと言はれぬが、自分だけはまだ決してさう考へない。畿内の各郡から中國の山村にかけて、往つては見ないが大道法師、ダイダラ谷ダイダラ久保等といふ地名が、竝べてよければ幾らでも玆に擧げられる。つまりは話は面白いが人は知らぬ故に、大人といふ普通名詞で濟まして置き、辨慶が評判高ければあの仁でもよろしとなつたのであらう。笠井新也君が池田の中學校に居た頃、生徒にすゝめて故鄕見聞錄を書かせた中に、備前赤磐郡の靑年があつて、地神山東近くの山上の石の足跡を語るのに、大昔造物師(ざうぶつし)といふ者が來て、山から山を跨いで去つた。それで土人が其足跡を崇敬すると述べて居る。耶蘇教傳道の初期には、何れの民族にも斯んな融合はあつたものである。
[やぶちゃん注:「廣澤の遍照寺の邊に、大道法師の足形池があることを、都名所圖會に插畫を入れて詳しく記し」所持する「都名所圖會」の「卷之四 右白虎」の「遍照寺山」(へんじょうじやま)の項に、『大道法師足形池』として、割注で『廣澤の巽』(南東)『三町』(約三百二十七メートルほど)『ばかりにあり』と記す。添えられた『廣澤池 遍照寺舊跡』にある「足形池」から見て、その位置は現在の広沢の池の南東池畔、京都府京都市右京区嵯峨広沢町、或いはその池畔直近の嵯峨広沢池下町の広沢公園附近と推定される。ここ(グーグル・マップ・データ)。【2020年10月7日追記】私の誤認。最後の追記を参照されたい。
「乙訓(おとくに)郡大谷の足跡淸水」乙訓郡(おとくにぐん)は京都府(山城国)の郡。現行は京都府で大山崎町(おおやまざきちょう)一町であるが、旧郡は京都市伏見区の一部と南区の一部及び西京区の一部、向日市と長岡京市の全域を含んだ。「大谷」は不明で「足跡淸水」から逆に辿れるだろうと思ったが、甘かった。それも見出せない。識者の御教授を乞う。【2020年10月7日追記】追加情報提供を受けた。最後の追記を参照されたい。
「京羽二重」「きょうはぶたえ」(現代仮名遣)と読み、貞享二(一六八五)年に水雲堂狐松子が著した全六巻六冊から成る、実用性を重視した京都の地誌及び観光案内記。【2020年10月7日追記】追加情報提供を受けた。最後の追記を参照されたい。
「長野新田の字大道星」探すのに苦労した。「長野新田」は現在の京都府京都市西京区大枝東長町附近であることが判った。埼玉大学教育学部谷謙二(人文地理学研究室)氏の提供になる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」の、ここの左の古地図に「長野新田」とある。なお、この大道星(だいどうぼし)という字地名は現在も残っていることが、京都市の墓地区画整理関連の文書から判明した。【2020年10月7日追記】追加情報提供を受けた。最後の追記を参照されたい。
「笠井新也君」(明治一七(一八八四)年~昭和三一(一九五六)年)は現在の徳島県美馬市脇町の生まれの教師で考古学・古代史研究者・阿波郷土史家。國學院大學師範部国語漢文歴史科卒(特待生で首席卒業)。卒業後は帰郷して、県立高等女学校(現在の城東高校)や県女子師範学校などの教職を勤めながら、歴史・民俗の研究・論文執筆に取り組んだ。明治四四(一九一一)年には長野県上田中学校に転じ、さらに翌明治四十五年には大阪府池田師範学校(後の大阪学芸大学学芸学部 (現在の大阪教育大学教育学部)の母体の一つ)とに移った。両校在職中も、生徒が記録した民話・伝説を纏めるなど、それぞれの土地の民俗に関心を持って活動した。特に邪馬台国研究に力を注ぎ、その所在地は大和であり、奈良県桜井市にある最古の前方後円墳とされてきた全長二百七十二メートルの箸墓古墳が女王卑弥呼の墓であると最初に提唱したことで知られる。以上は「徳島県立博物館」公式サイト内のこちらの記載を参照した。
「備前赤磐郡」(あかいはぐん(あかいわぐん))は岡山県にあった旧郡。現在の岡山市の一部・赤磐市の大部分・和気郡和気町の一部を含んだ。「地神山」は不詳。異名か。識者の御教授を乞う。]
紀州の百餘の足跡はその五分の一を辨慶に引渡し、殘りを大人の手に保留して居る。美作の大人足跡も其一部分を土地の恠傑目崎太郞や三穗太郞に委讓して居る。西は備中備後安藝周防、長門石見などでもただ大人で通つて居る。それから四國へ渡ると讚州長尾の大足跡、又大人の蹴切山がある。伊豫でも同じく長尾といふ山の麓に、大人の遊び石といふ二箇の巨巖があつた。阿波は劔山々彙を繞つて、もとより數多い大人樣の足跡があり、或は名西地方の平地の丘に、山作りの畚の目から、こぼれて出來たといふものも二つもある。土佐でも幡多高岡の二郡には、色々此例があつて何れも單に大人田、若しくは大人足跡で聞えて居た。だからもうこの方面にはダイダラ坊の仲間は無いのかと思ふと、豈に測らんや柳瀨貞重の筆錄を見ると、却つて阿波に近い韮生(にろう[やぶちゃん注:底本では「みろう」とルビするが、調べてみると、「にろう」であり、ちくま文庫版全集もそうなっているので、特異的に訂した。])鄕の山奧に、同名の巨人は悠然として隱れて居た。卽ち此筆者の居村なる柳瀨の在所近くに、立石・光石・降石(ぶりいし)の三箇の磐石があつて、前の二つはダイドウボウシ之を棒にかつぎ、降石は袂に入れて此地まで步いて來ると、袖が綻びてすつこ拔けて爰へ落ちた。それで降石だと傳へて居たのである。
[やぶちゃん注:「目崎太郞」「三穗太郞」孰れもダイラダボッチの実在性を高めるために、漢字のそれらしい実在人物らしい表記仕立てとしたものと考えてよい。
「讚州長尾」旧香川県大川郡長尾町(ながおちょう)。この附近一帯(グーグル・マップ・データ)。
「蹴切山」不詳。識者の御教授を乞う。
「伊豫でも同じく長尾といふ山」不詳。識者の御教授を乞う。
「劔山々彙」徳島県中部南方に位置する徳島県の最高峰(標高千九百五十五メートル)の剣山(つるぎさん)を中心とした周囲の山々の意(隠田集落村である祖谷(いや)はこの地帯の西方である)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「山彙」は「さんゐ(さんい)」と読む普通名詞で、山系や山脈を成すことなく、孤立している山々の集まり、山群を指す。
「名西地方」徳島県名西郡(みょうざいぐん)。現在の石井町(ちょう)・神山町の外、旧郡域は徳島市の一部・板野(いたの)郡上板町(かみいたちょう)の一部を含んだ。現在の郡域はここ(グーグル・マップ・データ)。
「土佐」「幡多」高知県幡多郡は現在、大月町・三原村・黒潮町のみであるが、旧郡域は宿毛市・土佐清水市・四万十市の全域、及び高岡郡四万十町の一部を含んで、土佐国内の郡で最大の面積を有し、南海道でも紀州に牟婁郡に次いで広大な郡域を持っていた。
「高岡」現存する郡。旧郡域(高知西部中央地区)はウィキの「高岡郡」を参照されたい。【2020年10月10日追記】昨日、記事末に示した柴田昭彦氏から情報提供メールを頂戴した。以下に掲載させて戴く。
《引用開始》
本日、大阪府立中央図書館で、高知県の資料を確認してきました。京都・明石の資料も併せて報告します[やぶちゃん注:後者は別掲した。]。
○幡多高岡の二郡の「大人田・大人足跡」について
『南路志 第四巻』(高知県立図書館、平成4年)の「南路志 巻三十七 神威怪異 奇談(下)」の90~91頁に次のようにある。
「81、(仁井田郷の足跡石)高岡郡仁井田郷に大石有。其石に長六尺、幅三尺斗の足蹟あり。大指より小指まて備はり、跟の跡有りて、泥土に人の足をふミたるか如く、左の足跡也。又五町斗南に、同しやうなる岩に右の足跡有。里人傳云、大人昔時五町を一足にすといへり。」
「西孕岡田山にも足跡有石有、尋見るへし。」 <柴田注:跟(かかと)>
従って、柳田の言う、高岡郡の「大人足跡」の一例は判明した。仁井田郷は、現在の窪川町[やぶちゃん注:現在は合併して四万十町。]全域と中土佐町の一部にあたる(高知県の地名、平凡社)[やぶちゃん注:この付近となろう。グーグル・マップ・データ。]。「西孕岡田山」は資料が見当たらず、地点不明。
一方、幡多郡の(おそらく)「大人田」は『南路志 第三巻』(郡郷の部 下 吾川・高岡・幡多)(平成3年)を通覧したが見当たらない。
《引用終了》
「柳瀨貞重」土佐の郷士柳瀬貞重(居住地韮生郷)。香美郡韮生郷の小領主で山田家臣。山田家の滅亡後に太西・川窪の両家を通じて長宗我部国親の麾下に属した。彼は韮生郷を中心に安芸郡から幡多郡までの古文書・記・伝承などを編纂した「竹木筆剰」などを残している。
「韮生(にろう)」現在の香美市の北東部、奥物部県立自然公園(ここ(グーグル・マップ・データ))の周辺。
「筆者の居村なる柳瀨」現在の高知県香美市物部町柳瀬(やないせ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「立石・光石・降石(ぶりいし)の三箇の磐石」不詳。【2020年10月10日追記】昨日、記事末に示した柴田昭彦氏から情報提供メールを頂戴した。以下に掲載させて戴く。
《引用開始》
○ 韮生郷の山奥、柳瀬貞重の居村なる柳瀬の在所近くの「立石・光石・降石」について
『南路志 第二巻』(郡郷の部 上 安芸・香美・長岡・土佐)(平成3年)の「南路志 巻十三 香美郡下」の「115、柳瀬村 韮生郷」の中の254頁に、次のようにある。
「立テ石 神ノ方山ノ根
光リ石 艮川中ニ在
降(ブリ)石【貞重云、乾小川ニ立て有しか、宝暦七丑七月洪水ニ倒され今ハ横になる。】
貞重筆記云 以上三石は大磐石也【昔ダイドウホウシと云者、立石と光石とを荷ひブリ石を袂に入て歩ミ行しに、袖底ぬけて落しよりブリ石と名付しと云傳。】」[やぶちゃん注:柴田氏が原本画像を添付して下さったので、割注部を【 】で囲った。]
今の時点では、柳田の引用した出典が判明したのみ。柳田は「ダイドウボウシ」と書くが、「南路志」の平成3年の活字版では「ダイドウホウシ」である。
平凡社の「高知県の地名」の155頁を見ると、「柳瀬村(やないせむら) 現物部村柳瀬」の項目に、昭和32年の永瀬ダム[やぶちゃん注:ここ。グーグル・マップ・データ。]建設に伴い、立花・平井・吹越(ふいこし)などの集落を残して大部分が湖底に沈んだ、とある。現在では三石を見ることはできない可能性が高い。
《引用終了》 ]
そこで私たちは、是ほどにして迄も是非ともダイドウボウシでなければならなかつた理由は何かといふことを考へて見る。それには先づ最初に心づくのは、豐後の嫗嶽の麓に於て、神と人間の美女との間に生まれた大太(だいた)といふ怪力の童兒である。山崎美成の大多法師考に引用する書言字考には、近世山野の際に往々にして大太坊の足蹴と傳ふるものは、疑ふらくはこの皹童(あかゞりわらは)のことかと言つて居る。證據はまだ乏しいのだから冤罪であつては氣の毒だが、少なくとも緖方氏白杵氏等の一黨が、この大太を家の先祖とせんが爲に、頗る古傳の修正を試みた痕は認められる。成程後に一方の大將となるべき勇士に、足跡が一反步もあつては實は困つたもので、山などはかついで來なくとも、別に神異を說く方便はあつたのであらう。しかしどうして大太といふが如き名が附いたかと言へば、やはり神子にして且つ偉大であつたことが、その當初の特徴であつた故なりと、解するの他は無いのである。
[やぶちゃん注:「豐後の嫗嶽」「嫗嶽」は「うばだけ」。宮崎県との県境の、大分県豊後大野市に山頂を持つ祖母山(そぼさん)。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高千七百五十六メートルで、宮崎県の最高峰。ここに記された伝承は、個人サイト「戦国 戸次氏年表」のこちらのページに詳しい。
「山崎美成」(寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)は随筆家で雑学者。江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子で家業を継いだものの、学問に没頭して破産、国学者小山田与清(ともきよ)に師事、文政三(一八二〇)年からは随筆「海錄」(全二十巻・天保八(一八三七)年完成)に着手している。その間。文政・天保期には主として曲亭馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢といった考証収集家と交流し、当時流行の江戸風俗考証に勤しんだ。自身が主宰した史料展観合評会とも言うべき「耽奇会」や同様の馬琴の「兎園会」に関わった。江戸市井では一目おかれた雑学者として著名であった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「大多法師考」不詳。読んでみたい。
【2020年10月26日追記】情報提供を戴いた、柴田昭彦氏より追加のメールを頂戴した。
《引用開始》
とくに真新しい情報ではないのですが、「七 太郎という神の名」の中の、山崎美成「大多法師考」について、「海録」(大正四(一九一五)年、国書刊行会)(ゆまに書房、平成一一(一九九九)年)を調べてみました。三二四頁の巻之十二の「三 大多法師畫巻」、四九四頁の巻之十八の「三 大太坊蹤」の部分が、柳田の参照した全てと思います。[やぶちゃん注:中略。「これが」と添えておく。]柳田の出典と言えるでしょう。後者の「大太童」云々には「盛衰記」とあり、「源平盛衰記」巻三十三に見える記事からとった内容でしょう。
《引用終了》
「海錄」は山崎美成が諸研究や執筆活動の傍ら、文政三(一八二〇)年六月から天保八(一八三七)年二月まで、実に十八年間に亙って書き続けた一大考証随筆で、難解な語句や俚諺について、古典籍を援用して解釈を下し、また、当時の街談巷説・奇聞異観を書き留めて詳しい考証を加えたもので、その項目は千七百余条に及び、近世後期の百科事典と評してよい。柴田氏が添えて下さった「海錄」画像(国立国会図書館デジタルコレクションのこことここ)を視認して、以下に電子化する。最初が同書「卷之十二」の「三」。〔 〕は私が附した読み。
*
三大多法師畫卷 世に大多法師の畫卷と云〔いふ〕物を傳ふ、【頭書、大多法師考、又第十八卷の三條にあり、可二併考一、】之を思ふに、そのかみの童話に斯る事のありしを繪きたるならん、己も一本を收めたり、その始に大魚の、舟遊びせし人を舟なから呑めるが、大多法師の膳部につきて、魚腹の中に猶舟遊びして居けるをもととせし也、これは呑舟之魚といふ事の漢土に見えたるより、思ひよれる趣旨なるべし、大多法師といふことは、甲越のあたりにて大きなる足跡をみれば、大多法師の足跡と諺にいへり、【按〔かんが〕ふに、山𤢖[やぶちゃん注:やまわろ。山怪の異類の一種。]俗に山男といへるものの足跡なるべし、】唐土〔もろこし〕にいふ巨人跡の事なり。
*
次に「卷之十八」の「三」。
*
三大多法蹤(あしあと) 「日州鹽田大太夫女、與二嫗嶽大蛇一密接、所ㇾ生男兒號二大太童一、徒足而歷二行山野一、或呼曰二皸童一事迹詳二于盛衰記一、今世山野之間、往々有下稱二大太坊蹤一者上、疑據二皸童之義一乎、」【見二于書言字考一之廿四ウ一、】[やぶちゃん注:推定訓読しておく。
*
『日州[やぶちゃん注:日向国。]鹽田大太夫女〔むすめ〕、嫗嶽〔うばがたけ〕の大蛇と密かに接〔まぐは〕ひ、生まるる所の男兒、「大太童(〔だいだ〕わらは)」と號し、徒足〔かちあし〕にて山野を歷行し、或いは呼んで「皸童(■せり)」と曰ふ。事迹〔じせき〕は「盛衰記」に詳らかにして、今の世の山野の間、往々、「大太坊〔だいだばう〕の蹤〔あしあと〕」と稱する者有り。疑ふらくは、「皸童」の義に據るか。』【「書言字考」一之廿四ウを見よ。】。
以下、全体が一字下げ。
因に云、世に大太法師が畫卷といふ一軸あり、此等の事より附愆〔ふえん〕[やぶちゃん注:「附け誤ること」。]せしものか。【海錄第十二卷三の條[やぶちゃん注:前に電子化した部分。]にあり、可二併考一、】
*
肝心の異名の一つである「皸童(■せり)」のルビの一字判読不能。但し、このルビは「皸童」の右中央に均等に配置されてあり、この「■」は単なる汚損かもしれない。しかし、「皸童」を「せり」と読むのは解せない。かと言って、「皸」は「ひび・あかぎれ」のことであるが、小学館「日本国語大辞典」で「あかぎれ」や「ひび」を調べても、「せり」に近い方言その他を見出せない。識者の御教授を乞う。【翌日追記】この文字列の読みについて、柴田氏より追加のメールを頂戴した。添付された画像とともに示す。
《引用開始》
「大場磐雄著作集第六巻 記録―考古学史 楽石雑筆(上)」(昭和五〇(一九七五)年・雄山閣刊)を見た所、巨人伝説についての雑記が多数ありました。
添付ファイルは、その三三頁下段と三四頁上段で、大正七(一九一八)年の谷川磐雄氏(昭和三(一九二八)年に母方を相続し、母の姓「大場」に改姓)の雑記の一部分です。谷川氏は当初、巨人伝説に精力的に取り組み、最初の著書、谷川磐雄「民俗叢話」(大正一五(一九二六)年坂本書店刊)に「巨人民譚考」を収録しています。「ダイダラ坊の足跡」より早い時期の詳細な巨人伝説の論考として知られています。この雑記は、その論考を補う資料を含んでいます。
《引用終了》
頂戴した、当該書の三四頁(画像の二枚目)の三行目に『大太童(ワラワ)』と『皸童(アセリ)』のルビがある。柴田氏曰く、『なぜ、そう読めるのか』は判らないものの、『谷川氏が、読み取りやすい文献で確認されたもの』で、「海錄」の『原書のふりがなが「アセリ」となっていると』考えてよいとあり、私もそう思う。さらに、やはり画像を添付して戴いた上で、
《引用開始》
大場磐雄著作集第六巻の一〇頁には「大太童(アセリ童)の事」とありました。「皸」のみで、「アセリ」の読みです。
「源平盛衰記」巻三十三には[やぶちゃん注:以下の私の電子化も参照されたい。]、「皸」に対して、「アカゞリ」とあります。
これが、遠目には「アセリ」と見えそうな(?)感じです。
もしかすると、判読間違いから生じた読み方「アセリ」なのかもしれません。本当は「アカガリ」なのではないでしょうか。
《引用終了》
これにも大いに賛同する。「アカガリ」は「あかぎれ」の古名として小学館「日本国語大辞典」でも確認出来る。
さて、山崎の言う典拠の「源平盛衰記」巻三十三のそれはかなり長いが、以下に引く。私は「源平盛衰記」の前半部しか版本を持たないので、国立国会図書館デジタルコレクションの寛永年間の藤本久兵衛板行のこちら以降を視認した(原文は漢字カタカナ交じりであるが、漢字平仮名に直した。一部に濁点を追加した。読みは一部に留め、一部の送り仮名を外に出した。漢文表記は訓読した。歴史的仮名遣の誤りはママ。一部の読みは私が推定で〔 〕によって歴史的仮名遣で示した。読み易さを考え、段落や記号も加えて成形した)。なお、これは、平安末期から鎌倉初期の武将で豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領した緒方三郎惟栄(これよし 生没年不詳)の先祖を語るシークエンスに出る。彼は祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫で、臼杵惟隆の弟。「平家物語」にも登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている。ウィキの「緒方惟栄」によれば、宇佐神宮の荘園であった緒方庄の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだが、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵後、翌養和元年に臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らとともに平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など、広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。寿永二(一一八三)年に平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から、平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたため、これとも対立し、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った。こうした緒方一族の寝返りによって、源氏方の九州統治が進んだとされる。また、惟栄は源義経が源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられ、上野国沼田へ流罪となる。この時、義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許され、豊後に戻って佐伯荘に住んだとも、途中で病死したとも伝えられる、とある。
*
抑(そもそも)彼の惟義と云ふは、大蛇の末(すへ)なりければ、身健(すこや)かに、心も剛(かう)にして、九國をも打ち隨へ、西國(さい〔こく〕)の大將軍せんと思ふ程の、おほけなき者なりけるに、一院の御定(〔ご〕ぜう)とて、國司より懸る仰を蒙りける上は、身の面目(めんぼく)と思ひて出で立ちけり。
大蛇の末と云ふ事は、昔、日向國鹽田(しほだ)と云ふ所に、大大夫(〔だい〕たゆう)と云ふ德人(とく〔じん〕)あり。一人の娘あり。其名を花御本(はなのおんもと)と云ふ。みめ、こつがら、尋常也。國中(こく〔ぢゆう〕)に同じ程なる者の聟にならんと云ふをば、德に誇り、用ひず、我より上樣(〔うへ〕さま)なる人は云ふ事なし、祕藏しけり、と覺へて、後園(こうえん)に屋(や)を造りて、此娘を住ましめける程に、男と云〔いふ〕者をば、尊(たつと)きも卑しきも、通さず、歲(とし)、去り、歲、來れ共〔ども〕、慰み方(かた)無く、春、過ぎ、夏、闌(たけ)ても、友なき宿を守る。秋の夜(よ)長し、夜長くして終夜(よもすがら)を明し兼ねたる曉に、尾上(をのへ)の鹿の、妻、呼ぶ音(こへ)、痛ま敷(しく)、壁にすだく蟋蟀(きりぎりす)、何(なに)歎くらんと、最(いと)心細き折節(をりふし)に、いづくより來る共(とも)覺へず、立烏帽子(たてえぼし)に水色の狩衣著(き)たる男の、二十四、五なるが、田舍の者とも覺へず、たをやかなる貌(かたち)にて、花御本が傍(そば)に指し寄りて、樣々、物語して、慰め語ひけれ共(ども)、女(をんな)、靡(なび)く事、なし。
男、夜々(よ〔よ〕)、通ひつゝ、細々と恨み、口說(くど)きければ、花御本、流石(さすが)、岩木ならねば、終には靡きけり。
其後(〔そのの〕ち)は、雨、降り、風、冷(すさま)じけれ共、夜(よ)がれもせず、通ひけり。
父母(ぶも)に、つゝみて深く是を隱しけれ共、月比〔つきごろ〕日比、夜々(よなよな)の事なれば、付き仕へける女童(をんなわらは)、是を見咎めて、父母に
「角(かく)。」
とぞ語りける。
急ぎ娘を呼び、委しく是を問ひけれ共、耻かしき道なれば、顏、打ち赤めて、兎角、紛らかしけり。母、さまざまにをどしすかして問ひければ、親の命(めい)も背き難くして、有(あり)の儘にぞ、語ける。
母、此事を聞き、
「水色の狩衣に立烏帽子は窘(おぼつか)なし。太宰府の近くは京家(きやうけ)の人とも思ふべきに、此邊(このへん)には有るべき事に非ず。よしよし、縱(たと)ひ、上臈(〔じやう〕らう)なりとも、契(ちぎり)は人に依るべからず。たとひ、下﨟なり共、娘が見する面道(めんだう)[やぶちゃん注:途中。附き合っている最中の意。]也、況んや、狩衣に立烏帽子、定めて只人にはあらじ。今は聟とも用ゆべし。如何にして彼(か)の人の行末を知べき。」
と樣々計(はから)ひけるに、母が云はく、
「其人、夕べに來(きた)りて、曉、還るなるに、注し(しる〔し〕)をさして、其行末を尋ぬべし。」
とて、苧玉卷(をだまき)と針とを與へて、懇ろに娘に敎へて、後園の家に歸す。
其夜、又、彼男、來れり。曉方(あかつきがた)に歸りけるに、敎への如く、女、針を小手卷(をだまき)の端に貫きて、男の狩衣の頸(くび)がみに指してけり。
夜明けて後に、
「角(かく)。」
と告げたれば、親の鹽田大夫、子息・家人(けにん)、四、五十人、引き具して、糸の注(しる)しを尋ね行く。
誠に賤(しづ)が苧玉卷、百尋千尋(もゝいろち〔ひろ〕)に引きはへて、尾越谷(をこしだに)越へ行く程に、日向と豐後との境(さかひ)なる嫗嶽(うばがたて)と云ふ山に、大〔おほい〕なる穴の中へぞ、引き入れたる。
彼の穴の口にて立ち聞きければ、大に痛み吟(ぎん)ずる音(こへ)あり。
是れを聞く人、身の毛、竪(よだ)ちて、怖し。
父が敎へに依りて、娘、穴の口にて糸を引(か)へて云ひけるは、
「抑(そもそも)此穴の底には如何なる者の侍(はんべ)りぞ。又、何事を痛みて吟(によ)うぞ。」[やぶちゃん注:「によふ」のウ音便。「呻吟(によ)ふ」で「うなる・うめく」の意で、「吟」自体の原義がそれ。]
と問へば、穴の中に答けるは、
「我は、汝、花御本が許へ、夜々(よなよな)通ひつる者なり。然れども契りも緣も盡き果て、此曉、おとがひ[やぶちゃん注:顎(あご)。]の下に針を立〔たて〕られたり。大事の疵(きず)にて、痛み吟(によ)う。我、本身(ほんしん)は大蛇なり。有りし形ならば、出でて見もし、見へ奉つり度(たき)こそあれ共、日比の變化(へんげ)、既に盡きぬ。本の貌(かたち)は畏れ恐れ給ふべきなれば、這い出でても、見へ奉らず。よに遺(なごり)も惜しく、戀しくこそ覺ゆれ。是まで尋ね來り給へる事こそ、忘れ難し。」
と云ひければ、女の云はく、
「縱(たと)ひ、いかなる貌(かたち)にて座(まし)ますとも、日比の情(なさけ)、爭(いか)でか、忘るべきなれば、只、出で給へ、最後の有樣(ありさま)をも見、又、見〔まみ〕えもし奉らん、つゆ、畏しと思はず。」
と云ひければ、大蛇は、穴の中より、這い出たり。
長(たけ)は知〔しれ〕ず、臥長(ふし〔たけ〕)は五尺計り也。眼(まなこ)は銅(あかゞね)の鈴(すゞ)を張るが如く、口は紅(くれなひ)を含めるに似たり。頭(かしら)に角を戴き、耳を低(だ)れたり。頭は、髮、生ひなどして、獅子の頭に異ならず。され共、形ちには似ず、をめをめとして淚を浮めて、頭ばかりを指し出だしたり。
女、衣(きぬ)を脫ぎて、蛇の頭に打ち懸けて、自〔みづか〕ら頥(おとがひ)の下のはりを、ぬく。
大蛇、悅んで申けるは、
「汝が腹の内に、一人の男子(なん〔し〕)、宿(やど)せり。已に五月〔いつき〕に成り、もし、十月にして顯れたらば、日本國(〔に〕ほん〔こく〕)の大將とも成るべかりつれ共、五月にして顯れぬ。九國には並ぶ者あるまじ。弓矢を取つて人に勝(すぐ)れ、計り賢(さか)しくして、心、剛なるべし。斯(かゝ)る怖しき者の種(たね)なればとて、穴賢(あなかしこ)、捨て給ふな。我が子孫の末までも守護すべし。必ず、繁昌すべし。」
是を最後の言(こと)ばにて、大蛇、穴に引き入りて死にけり。
彼の大蛇と云ふは、即ち、嫗嶽の明神の垂跡(すいじやく)也。
鹽田大夫々妻・眷屬、おぢ恐れて歸りにけり。
日數積つて月滿ちぬ。花御本、男子(なんし)を生む。成長爲(す)るに隨つて、容顏もゆゝしく、心樣(〔こころ〕ざま)も猛(たけ)かりけり。母方の祖父(をほぢ)が片名(かたな)を取りて、是を「大太童(〔だいた〕わらは」と呼ぶ。はだしにて野山を走り行きければ、足には、あかゞり、常に分(わ)れければ、異名には「皸童(くんどう[やぶちゃん注:原本は『クントウ』。])」とも云ひけり。
此の童は烏帽子著(き)て、「皸大彌太(あかゞり〔だい〕やた)」と云〔いふ〕。「大彌太」が子に「大彌次(〔だいや〕じ)」、其子に「大六」、其子に「大七」、其子に「尾形三郞惟義」なれば、「大太」より五代の孫(そん)なり。心も猛く、畏ろしき者にてぞ在りける。
*
「書言字考」近世の節用集(室町から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種。「せっちょうしゅう」とも読む。漢字熟語を多数収録して読み仮名を付ける形式を採る)の一つである「書言字考節用集(しょげんじこうせつようしゅう)」のことか。辞書で十巻十三冊。槙島昭武(生没年未詳:江戸前中期の国学者で軍記作家。江戸の人。有職故実や古典に詳しく、享保一一 (一七二六) 年に「關八州古戰錄」を著わしている。著作は他に「北越軍談」など)著。享保二(一七一七)年刊。漢字を見出しとし、片仮名で傍訓を付す。配列は語を意味分類し、さらに語頭の一文字をいろは順にしてある。近世語研究に有益な書。
「皹童(あかゞりわらは)」「皹」は「あかぎれ・ひび」の意。この伝説はM.Shiga氏のサイト「パノラマ風景写真で観光する大分県」の「緒方川原尻橋周辺の風景 緒方三郎物語 伝説」に詳しいので参照されたい。
「緖方氏」日本の氏族。平安後期以降、豊後国大野郡や直入郡を本拠地とし、豊後国南部に勢力を伸ばした大神(おおが)氏の後裔氏族。大友氏が入国する以前からの豊後国に於ける有力な在地武士の一族で、大野川・大分川流域の大野・直入両郡を本拠地として、豊後国南部に勢力を伸ばした。参照したウィキの「大神氏」によれば、『大神氏は中世期の豊後における在地武士の一族として栄えるが、惟基については祖母岳大明神の神体である蛇が人間と交わって生まれたとの伝説が』「平家物語」や「源平盛衰記」に『見え、それによると惟基の』五『代の孫が緒方氏の祖、緒方惟栄』(おがたこれよし 生没年不詳)『となる。因みに、惟栄は』養和元(一一八一)年に『豊後国目代を追放』され、元暦元(一一八四)年には『平家についた宇佐神宮を焼き討ちにするなど、従来の支配階級に代わり』、『武士勢力による支配を強めた。治承・寿永の乱(源平合戦)に際して源氏につき、葦屋浦の戦いで戦勲を挙げるなど大いに活躍した』とある。ウィキの「緒方惟栄」によれば、『豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領し』、『祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫で、臼杵惟隆の弟』とある。「平家物語」に登場し、『その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている』。『宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ』治承四(一一八〇)年の『源頼朝挙兵後』、養和元(一一八一)年、『臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった』。寿永二(一一八三)年に『平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたため』、『これと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った』。『こうした緒方一族の寝返りによって源氏方の九州統治が進んだとされる』。また、『惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り佐伯荘に住んだとも、途中病死したとも伝えられる』とある。
「白杵氏」ウィキの「臼杵氏」によれば、『大神氏の一族で、大神惟盛が豊後国臼杵荘に入り、地名を取って臼杵氏と称した。戸次氏・佐伯氏・緒方氏(佐伯氏の庶家とする説もある)などの庶家が出た』。『鎌倉時代に臼杵惟直(直氏)には男子が無く、すでに近隣の有力豪族であった大友氏の一族になっていたかつての庶家・戸次氏から、戸次貞直の子の直時を婿養子に迎えた。これにより臼杵氏の嫡流も大神姓から大友系へと変わり、大友氏に従属する立場となった』。『戦国時代の当主・臼杵長景は臼杵庄水ヶ谷城主で、大友義鑑の加判衆を務めるなど、大友氏の重臣として活動した。その死後、家督を継いだのは長男の臼杵鑑続で』二十『年の長きに渡って加判衆を務め、幕府や朝廷との交渉等、大友氏の外交を担った。鑑続には男子がいたが幼少のため、弟の臼杵鑑速が跡を継いで、加判衆を務めた。鑑速は大友義鎮(宗麟)の重臣として活動し、吉岡長増・吉弘鑑理らと「豊後三老」と称された。この頃は外交だけではなく、筑前国や豊前国に侵攻してきた毛利氏への対応や、明や李氏朝鮮との対外貿易にも携わった』。天正二(一五七四)年『の書状から見えるように、この頃から鑑速の嫡男・臼杵統景が父の名代としての活動を開始して将来を嘱望された。しかし』、天正六年の『耳川の戦いに出陣した統景は島津軍に敗れて討死した。統景の討死により、その従兄弟の臼杵鎮尚が家督を継いだ。鎮尚は侵攻する島津氏に抵抗して臼杵城の攻防戦にも参加している。また同じく統景・鎮尚の従兄弟の臼杵鎮定は、宗麟死後大友義統に仕えて、文禄・慶長の役にも出陣したが、義統がこの戦役の最中に改易されると、大友氏を退出して上洛。その後、行方不明となり、戦国武将としての臼杵氏は完全に滅亡した』とある。
「一反步」「いちたんぽ」。三百坪。九百九十一・七三六平方メートル。約一千平方メートルとすれば、テニス・コート約四面分ほどに相当する。]
柳亭種彥の用捨箱[やぶちゃん注:「ようしやばこ」。]には、大太發意(だいたぼつち)は卽ち一寸法師の反對で、是も大男をひやかした名だらうと言つてある。大太郞といふいみじき盜[やぶちゃん注:「ぬすつと」と読んでおく。]の大將軍の話は、早く宇治拾遺に見えて居り、烏帽子商人の大太郞は盛衰記の中にもあつて、いたつて有觸れた[やぶちゃん注:「ありふれた」。]名だから不思議も無いやうだが、自分は更に溯るつて、何故に我々の家の惣領息子を、タラウと呼び始めたかを不思議とする。漢字が入つて來てちやうど太の字と郞の字を宛てゝもよくなつたが、それよりも前から藤原の鎌足だの、足彥(たらしひこ)帶姬(たらしのひめ)だのといふ貴人の御名があつたのを、丸で因みの無いものと斷定することが出來るであらうか。筑後の高良[やぶちゃん注:「かうら(こうら)」。]社の延長[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集ではここに『年間』と入る。]の解狀[やぶちゃん注:「げじやう(げじょう)」。律令制で下級官司が上級官司又は太政官に差し出す上申文書。]には、大多良男[やぶちゃん注:「だいだらを(だいたらお)」。]と大多良咩[やぶちゃん注:「だいたらひめ」。]のこの國の二神に、從五位下を授けられたことが見え、宇佐八幡の人聞菩薩朝記には、豐前の豬山にも大多羅眸神[やぶちゃん注:「だいたらばうしん(のかみ)」と読むか。]を祭つてあつたと述べて居る。少なくもその頃までは、神に此樣な名があつても恠まれなかつた。さうして恐らくは人類の爲に、射貫き蹴裂き[やぶちゃん注:「いぬき・けさき」。後者はちくま文庫版に拠る読み。]といふやうな奇拔極まる水土の功をなし遂げた神として、足跡は又其宣誓の證據として、神聖視せられたものであらうと思ふ。
[やぶちゃん注:「柳亭種彥の用捨箱」柳亭種彦の江戸後期の考証随筆。天保一二(一八四一)年刊。三巻三冊。「俳諧用捨箱」の外題を付した後摺本もある。近世初期の市井の風俗や言語などについての考証が大部分を占め、概ね刊年の明確な俳書を援用して実証し、また古版本の挿絵や古画を模写・透写して多数載せて画証としており、所説の信憑性が高い。引用資料中には現存不明のものもあり、資料的価値も高い。なお、一般名詞としての「用捨箱」とは箱の中を仕切って、必要な文書と用済みの文書を区分けして入れるようにしたものを指す語である。
「盜の大將軍の話は、早く宇治拾遺に見えて居り」「宇治拾遺物語」の巻三にある「大太郎盜人事」(大太郎盜人(だいたらうぬすびと)の事)。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める。
「烏帽子商人の大太郞は盛衰記の中にもあつて」「源平盛衰記」巻二十二「大太郎烏帽子」。ブログ「北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室」の『「源平盛衰記」巻二十二甲斐国の住人大太郎(烏帽子商人)』で原文が読める。
「足彥(たらしひこ)帶姬(たらしのひめ)」古代皇族の名によく見られる。
「筑後の高良社」福岡県久留米市の高良山にある高良大社(こうらたいしゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「延長」九二三年~九三一年。
「宇佐八幡の人聞菩薩朝記」「人聞菩薩朝記」は「にんもんぼさつてうき(にんもんぼさつちょうき)」と読むものと思われる。仁平二(一五二)年頃に書かれたとされる、現在、京都府八幡市の石清水八幡宮が所蔵するもので、宇佐八幡の縁起が記されてある、最古の縁起書。神仏習合によって、宇佐では八幡大菩薩に対し、人聞(にんもん:神母)菩薩が比定創成されて民衆に信仰された。
「豐前の豬山」大分県豊後高田市臼野と同県豊後高田市城前の境にある猪群山(いのむれやま)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高四百五十八メートル。山頂にある巨石群で知られ、「飯牟礼山」とも書く。ウィキの「猪群山」によれば、『大分県の北東部にある国東半島に位置し、国東半島の中心である両子山から見ると北西の方角にあたる。猪群山という名前は、イノシシが群れるほどに多かったことに由来するといわれる』。『山頂は南北に分かれ、北峰の頂上付近に巨石群がある。この山の最高地点は北峰より約』十メートル『高い南峰にあ』り、『中腹には飯牟礼神社の中宮がある』。『北峰の頂上付近にある巨石群は、斜め上方に向かってそびえる高さ約』四・四メートルの『神体石を中心に、東西』に三・三メートル、南北に楕円状に四十二メートルにも及ぶ十六基もの『巨石が並ぶ。さらにその外側には』『円状に』『直径約』七十メートルに達する二十四基の『石が配されている。登山路から頂上の巨石群への入口には陰陽石と呼ばれる一対の巨石が門のように立っている。一帯は、「オミセン」と呼ばれる聖域で、女人禁制の地であった。なお、現在は女性も立ち入ることができる』。『この巨石群はストーンサークル(環状列石)であると言われるが、配列に歪みがあり』、『整った楕円状ではないことや、石の間隔が一定でないことなどから、ストーンサークルと呼ぶべきではないとの指摘もある。巨石群の周囲には楕円状に土塁と溝が走っているが、これは』明治三九(一九〇六)年に『山火事から守るため』、『防火壁として築造されたものであるとされる』ものの、『それ以前から遺構があった可能性も残されている』。『神体石は、伝承によれば、山幸彦と海幸彦神話で知られる山幸彦が、龍宮から持ち帰った潮盈珠(しおみちのたま)、潮乾珠(しおひのたま)を置いた場所であるとされる。そのため、神体石の上部の窪みには、満潮時には水が満ち、干潮時には水が乾くという。また、窪みには金魚が住んでおり、この金魚を見た者は盲目になるとも伝えられる。この巨石群は、古代の巨石信仰の遺跡であるとする説、中世の仏教信仰の霊場跡であるとする説、中世の砦跡であるとする説、自然地形であるとする説等がある。また、卑弥呼の墓とする俗説もある』とある。この山が柳田國男がここで言う「豐前の豬山」かどうかは分らぬが、この巨石群はまさにダイダラボッチに相応しいアイテムであると私は思う。
「大多羅眸神」不詳。ネット検索にはこの文字列では全く掛かってこない。識者の御教授を乞う。
【2020年10月7日追記】昨日、ダイダラボッチの全国の異名や伝承を研究しておられる柴田昭彦氏から本パートについての情報提供メールを頂戴した。以下に掲載させて戴く。
《引用開始》
当方、「ダイダラ坊の足跡」を読み解くことを始めていて、ダイダラボッチの全国の異名を収集していますが、石川県の「たんたん法師」については、とても参考となりました。光林寺でなく、光琳寺であるという指摘も貴重です。ありがとうございました。
さて、今回、メールしましたのは、「七」の「①大道法師の足形池」「②乙訓郡大谷の足跡清水」「③長野新田の字大道星」「④播州の明石の弁慶の荷塚」の4件についてです。私なりの解釈を披露してみます。
① この「都名所図会」に見える「大道法師の足形池」とは、今日の京都市右京区の1万分1地図に見える、広沢池の東端から400m東方に位置する「弁慶足型池」だと思います。通常の地図に大抵、載せています。太秦三尾町の西端です[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]。今日、つり池となっていて、弁慶池とも呼ばれています。「広沢池の巽(南東)方向三町ばかり」ではないじゃないか、と言われそうですが、広沢池の南~東方向、四里以内に存在する足型の形の池は、古い地形図を見ても、この「弁慶足型池」だけです。図書館(京都学・歴彩館)で、昭和32年、昭和34年の右京区北部の住宅地図(住宅協会出版部)を見ると、「足形池」とだけあります。昭和38年の地図からは池の名称が消え、昭和41年の住宅地図には、「弁慶足型池」に変更されています。その呼称が、現在も使用されているというわけです。ネットで見ても、何ら伝承は見当たらず、図書館で有名な竹村氏の本やガイドなども多種見ましたが、足型池を紹介しているものは見当たりませんでした。完全無視という感じです。おそらく、昭和30年代までは、大道法師の「足形池」という名残りがあったのに、昭和40年代には、力持ちの弁慶の足跡という話が流布して、「弁慶足型池」に変わったのだと思います。「足形」→「足型」という変化も、都名所図会の影響力が消えたことを示すような気がします。【2020年10月10日柴田氏から追記】○「都名所図会」の竹村俊則の注記について 『日本名所風俗図会 8 京都の巻Ⅱ』(角川書店、昭和56年)は竹村俊則編集で、「都名所図会」も収録している。本文の「大道法師足形池」は106頁にあり、その注記五四には、次のようにある(460頁)。
「足形池 広沢池の東、宇多野療養所に至る一条通の南側にある池をいうか。弁慶足形池という。由緒不詳。」
ここでは「足形池」の表記である。末尾の「由緒不詳」が全てを物語る(やはり、風聞だろうか)。柳田の言うように、「大道法師」は、有名な「弁慶」に変わりやすいのである。
今回で、大道法師の足形池の調査は完了したと言えるだろう。
② 柳田は、長野新田の場所を「乙訓郡大谷の足跡清水」と書き、出典を『京羽二重』としています。早稲田大学図書館古典總合データベースに、その「京羽二重大全」の画像があり、4(巻4)の56コマのうち、25コマに該当する箇所があります[やぶちゃん注:この画像。]。「京羽二重 巻四 名泉」の一項目で、廿三裏には次のようにあります。刊本では『近世風俗・地誌叢書』第6巻(1996年)の198頁です。「大人足跡(あしあと)ノ泉 乙訓郡大谷新田村二有り長さ六尺余 五ノ指(ゆひ)分明也俗に大道法師と呼ふ也」これが、柳田の記述「長さ六尺ばかりの指痕分明なり」の出典です。六尺(約180cm)の大きさの泉というわけです。【2020年10月10日柴田氏から追記】○「都花月名所」について 「都花月名所」は、寛政5年4月に秋里離島が出版したもので、「足跡清水」は、「京羽二重」からの引用だろう。次のようにある(新修 京都叢書 第二巻、光彩社、昭和42年、558頁)。
「〇足跡(あしあとの)清水 乙訓郡大谷村 大道(たいだう)法師の足跡より涌出(ゆしゆつ)す六尺計五ッの指分明也」
③ 従って、「乙訓郡大谷新田村の大道法師」=「長野新田の字大道星」ということになります。②と③は同じ場所の言い換えです。柳田の原文をよく読めば、同じ場所を言い換えていることが読み取れるはずです。
④ 興味を引かなかったのでしょうか、スルーされていますが、国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できる、藤澤衛彦「日本伝説叢書 明石の巻」(大正7年)の19~20頁に「荷塚(にづか)」(明石郡明石町)があります(28・29コマ)[やぶちゃん注:ここから次のページにかけて。]。もとは「播磨鑑」口碑からのようです。読み方が異なりますが、柳田が独自に読み替えたのでしょう。【2020年10月10日柴田氏から追記】○「播磨鑑」の「荷塚」について 『播磨鑑(全)・摂陽群談(上) (上)』(歴史図書社、昭和44年)の261頁、明石郡の東浦部の中の項目に、次のようにある。
「【荷塚】 在太寺 草生栗石を積上たり 多聞村の高塚の類ならむ 嬰児ノ話ニ昔辨慶陸奥より鐵棒にて荷來り爰にて棒折たり 其時嶺を打たりとて窪ミ有と云 小児の物語には最似合しき事也とそ」
「播磨鑑」は宝暦12年頃の完成と言われている。
《引用終了》
柴田氏に心から御礼申し上げる。
【追伸】本日、改定後、同氏から、以下のメールを戴いた。一部を引用する。
《引用開始》
「季刊 自然と文化 10秋季号」(日本ナショナルトラスト、1985年)「近畿地方の巨人と矮人」(高谷重夫)(54~55頁)には、下記のような「弁慶のにない塚」の記載があり、こっちが、柳田の文章に一致するので、直接の文献のようです。先にお知らせした藤澤衛彦の「荷塚(明石郡明石町)」との関係は不明です。どちらも土の塚で、棒によってできた跡というのは共通です。太寺は明石町の一部なので、
同じ場所の紹介のような気がします。玉岡氏の本は未見なので後ほど調べてみます。
「兵庫県の明石市太寺(だいでら)町にも、弁慶のにない塚といって、弁慶が奥州からはるばる運んで来た土が、担い棒が折れたためにここにこぼれてできたという塚がある。塚の上には、怒った弁慶が棒で叩いた跡が残っているという。<玉岡松一郎『播磨の伝説』等>」
同じ高谷氏の文には、広沢の足形池についてもふれているが、具体的な現状については全く書いていない。筆者は今日、この弁慶足型池を訪問してみたが、有料の「つり池弁慶」として、「見学禁止」となっていて、周囲は厳重に囲まれて、有刺鉄線まであり、樹木に隠されて、どこからも、地図で見えるような見事な「左足」は見ることができず、残念であった。左足型を見るのは、空中写真が一番のようである。
《引用終了》
【2020年10月9日:追々記】昨夜遅くに柴田氏より、「大道星」の正確な所在地についての調査報告を頂戴したので、以下に掲げる。旧字地名の記された柴田氏が合成してお作りになった地図も添えて下さったので、それも添えてある。
《引用開始》
本日、京都の図書館2カ所で調べました。
①「京都府地誌葛野郡村誌二」(明治前期の作成)の「山城国葛野郡中野村」の村誌に、太秦三尾山上にある池として、古池、新池、辨慶足形池が記載されていました。明治前期には、すでに、「弁慶足形池」の呼称であったことがわかりました。
②「大谷新田村」は、角川日本地名大辞典26京都府上巻に解説がありました。大谷村、岡新田村、今岡新田、岡村新田ともいう。「京羽二重」の乙訓郡大谷新田村が明確になりました。葛野<かどの>郡岡村(今日、西京区樫原<かたぎはら>を冠する地名の地域)の枝郷。元禄期に入植して開発。明治9年7月に、長野新田村に合併。今日の、西長町の北部に該当します。
③上掲「大谷新田村」の項目に掲げられた資料の『大枝の郷 大枝小学校百周年記念誌』(昭和49年)(京都府立図書館所蔵)に、大谷村(岡新田)所属の小字が11掲げられ、その中に「大道星東筋」「大道星西筋」がありました。小字地図も掲載され、その場所もわかりました。大谷村の範囲には、九社神社、その北東の墓地(千丈墓地とは異なる)、重保院、天理教会などがあります。上の池、下の池(墓地移転資料に言う「新田地区における「下の池」に相当)もあります。京都市立芸術大の南方、新林池公園の西方辺りが「大道星」です。その東半分ぐらいが大枝西新林町1丁目7~13の宅地に変わっています。西長町の南半分が「千丈新田(長野新田村所属)」で、千丈墓地、千丈天満宮、千丈橋もあり、「千丈」の地名が残されています。大谷(岡新田)の地名も、大道星の地名も、失われつつあり、しっかり記録しておく必要がありそうです。
ということで、柳田の記述はそのままで正しいのですが、長野新田と言えば、東長町のほうになってしまうので、明治9年に長野新田村に合併されたとはいっても、西に離れた飛地の大谷村(岡新田)に「大道星」が存在するので、長野新田村の岡新田の字大道星というのが、わかりやすい地名表示ではないかと思われます。
《引用終了》
【2020年10月12日:追記】柴田昭彦氏は御自身のサイトの中に(ホームページ「ものがたり通信」はここ)、「ダイダラボッチの足跡」というページを作成しておられる。非常に緻密な追跡をしておられ、是非、お読みになられんことをお薦めする。]
« 子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十年 再度の手術、再度の疲労 | トップページ | 柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 八 古風土記の巨人 »