オースン・スコット・カード 無伴奏ソナタ
昨日、髪結いに行き、夕刻の妻のリハビリの帰りまでの時間潰しに、戸塚から大船まで歩いた。柏尾川には鴨や白鷺や青鷺や川鵜がいて、調整池では牛蛙が鳴いていた。皐月がすっかり満開だった。
歩きながら、アメリカのSF作家オースン・スコット・カードの「無伴奏ソナタ」(Orson Scott Card:Unaccompanied Sonata 1980)を読んだ(ハヤカワ文庫・冬川亘訳)。
……私は教師を辞めて以来、この6年の間、各種テクストの電子化作業以外の目的で、純粋に読書を楽しむために読んだ本は、十数冊しかない。教員時代は二日に一度は本屋に向かい、一ヶ月の本の購入総額も数万円を下らなかったが、今や、本屋には滅多に行くこともなく(今から以前に行ったのは実に一ヶ月半ほども前だ)、野人になって、ただ読むために買った本も、ただ、四、五冊しかない。書斎には、昔、買い溜めてしまった本が、あたら、紙魚の餌食となっているばかり。私は私の所持している書籍・雑誌の半分も読んでいないだろう。今日は不図、二十四年も前に買っていながら、ろくに読みもしなかったそれ(当該の原書及び訳書は十一篇の短編集)をポケットに入れて家を出たのであった……
この短篇、何か、ひどくしみじみしてしまった。
SFで、かく、しみじみしてしまったのことは、実に二十代の始めに読んだ、諸星大二郎の漫画で手塚賞入選した「生物都市」と、同じ彼の「感情のある風景」(これは漢文で「杜子春」をやった時に授業でも扱ったので覚えている教え子諸君も多かろう。私の小攷『立ち尽くす少年――諸星大二郎「感情のある風景」小論』もサイトにある。私は実を言うと、この「感情のある風景」を読み終わった時、図らずも落涙したことを告白しておく)ぐらいなものだのに……。しかし、まあ、ネタバレになるから、「無伴奏ソナタ」の梗概はここには書かない。一寸書いても、私の感じた「しみじみ」感は損なわれると思うからだ。
同文庫本の他の作品は、SFでも、かなり偏頗なグループに属するものであり、一冊まるごと買うのは、そうしたフリーキーでない方以外には、お薦め出来ないが、たった三十ページだし、立ち読み出来る。なされんことをお薦めする。
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