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2018/04/13

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 四 百合若と八束脛

 

     四 百合若と八束脛

 上野國では三座の靈山が、初期の開拓者を威壓した力は、却つて富士以上のものがあつたかと想像せられる。乃ち其峰每に最も素朴なる巨人譚を、語り傳へた所以であらう。例へば多野郡の木部の赤沼は、伊香保の沼の主に嫁いだといふ上﨟の故郷で、我民族の間に殊に美しく發達した二處の水の神の交通を傳ふる説話の、注意すべき一例を留めて居る沼であるが、是もダイラボツチが赤城山に腰を掛けて、うんと踏張つた足形の水溜りだといふ口碑がある。榛名の方では又榛名富士が、駿河の富士よりも一もつこだけ低い理由として、其傍なる一孤峰を一畚(ひともつこ)山と名けて居る。或はそれを榛名山の一名なりとも謂ひ、今一畚足らぬうちに、夜が明けたので山作りを中止したとも傳へる。其土を取つた跡が、あの閑かな山中の[やぶちゃん注:ちくま文庫版では『伊香保の』となっている。榛名湖のことであろう。]湖水であり、富士は甲州の土を取つて作つたから、それで山梨縣は擂鉢の形だと、餘計な他所の事まで此序を以て語つて居る。此山の作者の名は單に大男と呼ばれて居る。榛名の大男は曾て赤城山に腰をかけて、利根川水で足を洗つた其折に臑(すね)に附いて居た砂を落したのが、今の臑神の社の丘であるとも謂ふ。

[やぶちゃん注:「上野國」「三座の靈山」上毛三山。赤城山・榛名山・妙義山。

「多野郡の木部の赤沼」現在の群馬県高崎市木部町であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。伊香保はここから北北西に二十七キロメートルほど、赤城山は東北に三十二キロメートルほど。但し、鏑川の右岸ではあるが、現在、「赤沼」は見当たらない。

「一畚山」(ヒトモッコやま)は榛名山(標高千四百四十九メートル)南西の榛名湖に少し突出した麓のピーク。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高は千百四十メートルほどだが(榛名山との高低差は三百九メートル)、榛名湖(標高千八十四メートル)の湖面からの比高は五十六メートルしかなく、見たところは湖岸の丘陵といった感じである(例えば、こちらの個人の画像を)。「畚」(もっこ)は「ふご」とも読み、藁・繩・竹・蔓などを用いて網状に編んだ蓆(むしろ)状の平面の四隅に、吊り綱を二本附けた形状の運搬用具。古くは主に農作業で土砂を運搬するのに使用された。

「臑神の社」いろいろ調べてみたが、この社(やしろ)は現在のどこを指すのか、不詳。識者の御教授を乞う。但し、「臑神」というのは直ちに「荒脛巾神」、則ち、本邦の民間信仰的な古形の神の一柱である「あらはばき」を想起させはするウィキの「アラハバキ」によれば、この神名は一般には「脛(はぎ)」に佩く「脛巾(はばき)」(脛巾裳(はばきも)。臑(すね)当てのこと。旅や作業などの際に臑に巻き附けて紐で結び、臑を防備する一方、動き易くした実用的装具。古くは藁や布で作った。後世の脚絆)の『神と捉えられ、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰がある。多賀城市の荒脛巾神社で祀られる「おきゃくさん」は足の神として、旅人から崇拝され、脚絆等を奉げられていたが』、『後に「下半身全般」を癒すとされ、男根をかたどった物も奉げられた』。また、近代の『神仏分離以降は「脛」の字から』後の日本神話に登場する長髄彦(ながすねひこ)=『長脛彦を祀るともされた』。『荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られるが、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。客人神については諸説があり、「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という説もある』。また、『荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースは、埼玉県大宮の氷川神社でも見られる。この摂社は「門客人神社」』『と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた。だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたものである』。『これらのことを根拠として、荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説』『もある』。『氷川神社は、出雲の斐川にあった杵築神社から移ったと伝わり、出雲の流れを汲む。出雲といえば日本の製鉄発祥の地である。しかし、音韻的に斐川は「シカワ」から転訛したという説と、氷川は「ピカワ」から転訛したという説を双方とって、両者に全く繋がりはないという説もある(しかし、シカワ説もピカワ説も格別有力な説というわけではない)』。『氷川神社は延喜式に掲載されている古社ではあるが、氷川神社の主祭神がスサノオであるという明確な記述は江戸時代までしか遡れない』とある。なお、リンク先に詳述される「東日流外(つがるそとさんぐんし)三郡誌」に基づく見解は、同書の偽書性が確実であることから、私は引用していない。] 

 

 それから妙義山の方では山上の石の窓を、大太(だいだ)といふ無雙の強力があつて、足を以て蹴開いたといふ話がある。仲仙道の路上から此穴のよく見える半年石(はんねじ)といふ處に、路傍の石の上に大なる足跡のあるのは、其時の記念なりと傳へられた。緘石錄といふ書には、大太は南朝の忠臣なり、出家して其名を大太法師、又の名を妙義と稱すとあるが、如何なる行き違ひからであらうか、貝原益軒の岐蘇路記を始とし、此地を過ぐる旅人は、多くは之を百合若大臣の足跡と教へられ、あの石門は同人が手馴らしの鐵の弓を以て、射拔いた穴だといふ説の方が有力であつた。百合若は舞の本によれば、玄海の島に年を送り、とても關東の諸國までは旅行をする時をもたなかつたやうに見えるが、各地に其遺跡があるのみか、その寵愛の鷹の綠丸までが、奧羽の果てでも塚を築いて弔はれて居る。如何なる順序を經てさういふことになつたかは、茲で簡單に説き盡すことは不可能だが、つまりは村々の昔話に於て、相應に人望のある英雄ならば、思ひの外無造作にダイダラ坊の地位を、代つて占領することを得たらしいのである。

[やぶちゃん注:「半年石(はんねじ)」中山道から視認出来るとならば、この範囲内(中央に妙義山)である(グーグル・マップ・データ)。妙義山の最高峰は表妙義稜線上の相馬岳で千百三・八メートルであるが、妙義山系全体の最高峰は裏妙義の谷急山の千百六十二・一メートル。しかし、ここは前者であろう。ここに書かれた伝承は、今、ネット検索を掛けると、悉くが柳田國男のこの記載からの孫引きとしか思えないものばかりである。中には勝手に「はんねんいし」などという誤った読みを振っているものもある。こんな世も末の世界では既に、その由緒の「石の窓」(妙義は見上げる限り、奇岩奇石は多く、登ったことはないが、山容は好きだ。室生犀星が「生姜のようだね」と言ったのは言い得て妙である)も「半年石」も大太の「足跡」というのも消えてしまったものかも知れない。但し、後で引く貝原益軒の「岐蘇路記」には、『松井田と坂本の間に世俗にいはゆる、ゆり若大臣の足あとの岩と云あり』とあり、この「坂本」とは現在の横川の北、軽井沢へ越える一帯の北の地名であるから、この「半年石(はんねじ)」は、松伊田附近から北西を越えて軽井沢に行く手前の旧中山道添い(グーグル・マップ・データ)にある(あった)と限定出来る。【2018年6月20日追記:現在、電子化注作業中の 諸國里人談卷之三」の「妙義」で、調べているうちに、ここに出る「石の窓」に相当するもの、及び「半年石」に相当するものが、現存することが判明した。そちらを是非、読まれたい。

「緘石錄」恐らくは江戸期の随筆と思われるが、不詳。柳田國男は諸作で引用している。【2020年10月30日追記】ダイダラボッチの研究を手掛けておられる柴田昭彦氏より情報を戴いた。柴田氏はこの「緘石録」なる書物が、『ネット検索で一切、見当たらないため、これは、成城大学の柳田文庫収蔵書と考えて、「増補改訂 柳田文庫蔵書目録」』(成城大学民俗学研究所・平成一五(二〇〇三)年)をお探しになられたところ、当該書の451頁に発見され、画像を添付して下さった。その画像を以下に示す。書誌データには、寛政五(一七九三)年の原本からの写本で、上・中・下三巻一冊(サイズ二十四センチメートル)とある。しかし、柴田氏と同じで、ネット検索では書誌情報が全く見当たらない。続けて、著者・内容等、ご存知の方の情報を求む。【2020年11月3日追記】柴田氏より追加情報を頂戴したので追記する。『成城大学民俗学研究所の所蔵本は、厚さ1.5センチメートルぐらいの和綴じ本(ページ数不明)で、柳田国男の書き込みがあるとのこと。写本であり、寛政五年の原本ではない。閲覧は事前申請のうえで、見るのみ許可が必要で、複写は不可。九州大学附属図書館に写本が2種類あるのが、他の機関の唯一の所蔵。1冊本と5分冊本あり。「九大コレクション」を見ると、貴重書として、2種類の書写本が見つかる。1冊本は、天保一一(一八四〇)年に植栗経が書写したもので、著者名は、松典とあり、5分冊本は、一切、データなし。以上です。公共図書館を通して、複写の申し込みを完了したところですが、許可されるかどうかは、今のところ不明です。松典については、調べていませんが、おそらくデータ皆無では』とのことであった。

Kansekiroku
【2020年11月6日追記】柴田昭彦氏が遂に本書全体を明らかにして下さった。メールによれば、『「緘石録」一冊本の画像が、九州大学附属図書館ホームページの「貴重資料」→「貴重資料デジタルアーカイブ」で、書名を入力して検索すれば、閲覧できます。柴田が公共図書館を通じて複写を申し込んだところ、画像36枚(全頁分)の公開で対応してもらえたのです。虫食いもありますが、本文は読み取れます』(こちら)。『本文最初のページに、執筆の動機と、書名の由来がのべてあります』。『大太法師については、画像6に、挿絵入りで、記述されていて興味深いです。ここが柳田の出典ですね』とあった。書誌を見ると、同図書館の「雅俗文庫」に随筆として収蔵されており、

寛政五(一七九三)年の
定菴(庵)(じょうあん)居士松典(松岡定菴(庵))の序

があるが、当該蔵書は
書肆巽何(せんか)某の所持本を植栗経(「うえぐり つね」か)が書写した写本
であるとし、

松岡定菴(典は名)は
松岡怡顔斎の息子である(奥書による)
・松岡怡顔斎 (いがんさい:本名は玄達。この人は私も知っている有名な儒者・本草学者であった松岡恕庵(じょあん 寛文ハ(一六六八)年~延享三(一七四六)年:京都生まれ)のことである。動植物・鉱物を九種品目に分けて考証した博物書「怡顔斎何品(かいひん)」が知られる)

とあった。私などは、作者は、てっきり、市井に埋もれてしまった在野の好事家ぐらいにしか思っていなかっただけに正直、驚いた。なお、書写されたのは、

天保一一(一八四〇)年
とあるので、柳田國男旧蔵書と同じ(複本)であることが判る。冒頭を電子化すると(本文のカタカナをひらがなに代えた。読みは推定で私が附し、一部、濁点・句読点を添えた)、
   *
余志學[やぶちゃん注:数え十五。]の比より、人の語り、或は自ら見たり、或は意(こころ)浮びたる雜事を録しをけり。今、積(つみ)て帙(ちつ)を成す、因(より)て題して「鍼石録」と云(いふ)。亦、宋人(そうひと)、燕石(えんせき)を珍とするの意也。[やぶちゃん注:
燕山という山から出土する玉 (ぎょく) に似ているが、玉でない石(古代の貝などの化石など複数が正体とされる)、即ち、まがいもの。転じて、「価値のないものを珍重し、誇ること」、「小才の者が慢心すること」の喩え。松典の自己卑称。]
寛政癸丑五月平安定菴居士松典書千綴喜法輪山房
   *
大太法師の箇所も電子化しておく。カタカナは原文のルビ。
   *
大太(ダイタ)が蹤(あと)のこと、「合類節用集」乾坤部に詳(つまびらか)也。即ち「毛詩」[やぶちゃん注:「詩経」、]に所謂(いふところの)、大人(だいじん)の蹤なり。中山道上野の國臼井嶺(うすいたうげ)の「半年石」と云処、驛なり。妙義山あり、大石山(だいせきのやま)にして、峯、多し。山に石の窓あり、山の背(うしろ)へ通り貫(つらぬ)けり。其前の大石に大人(おほひと)の足跡、凹(くぼみ)あり、相(あひ)傳ふ、「大太法師、此の石を履(ふ)み、片足にて、其石窓を蹴穿(けあけ)たり」と。大太は南朝の官なり。後(の)ち、出家して「大太法師」と云へり。後、妙義とも号すと。一説に、「百合稚(ゆりわか)、蹴穿(けあけ)たり」と。
   *

「大太は南朝の忠臣」「出家して其名を大太法師、又の名を妙義と稱す」原典が不詳なので、調べようがない。こんな人物は私は知らない。

「貝原益軒の岐蘇路記」江戸前・中期の儒者で本草家の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年:名は篤信。筑前福岡藩主黒田光之に仕え、後に京に遊学して寛文四(一六六四)年に帰藩した。陽明学から朱子学に転じたが、晩年には朱子学への疑問を纏めた「大疑錄」も著している。教育や医学の分野でも有意な業績を残している著書は「大和本草」「養生訓」「和俗童子訓」など、生涯、実に六十部二百七十余巻に及ぶ)が享保六(一七二一)年に刊行した木曾路の紀行文。当該項を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像から先を起こす。読みは一部に留めた。下線太字は私。

   *

○松井田より坂本へ二里、松井田、家數四百軒ばかり。此地を松枝(えだ)共云。此間に橫川と云所に關所あり。箱根の關のごとく往來のあやしき人をとむ。妙義山は松井田の南、道の左に有。此山は松井田より坂本の西まで、凡五里ばかりつゞきたる岩(いは)山也。故(かるがゆゑ)に山上には草木(くさき)なし。他所(たしよ)にはなき程の珍しき山也。麓の高き所に堂有、其前坂の上に二町程なる町有。民家きれい也。妙義山へ參詣する者の休息する所也。馬もあり。町の東の家より東の方を望めば、上州、武州、眼下に見えて好(よき)景也。町より石の階(かい)を登りゆけば堂有。妙技法師を安置せし所也。靈驗ありとて關東の人民は甚(はなはだ)尊敬渇仰(そんきやうかつかう)をなす。故に人の參詣常に多して繁盛の地也。堂の前側(かたはら)に別當の寺有。堂の前に薪敷(しき)衣着たる女巫(かんなぎ)、常に二十餘人並居(なみゐ)たり。參詣の人女巫に逢(あひ)て、御託(たく)をきかんといへば、託をのべて各々其人の行さきの吉凶を告(つぐ)る。妙技法師は、比叡の山の法牲坊尊意(ほつしやうばうそんい)也という延喜帝の御時の人なり。此山を白雲山(はくうんざん)と號す。奧(おくの)院へ麓より一里有。中の嶽(たけ)と云。道さがしといへり。尤靈地なりと云。此山世に類なき寄異成(なる)形樣(ありさま)なれば神靈ある事むべなり。かかる名山には必靈あり。故に祈ればしるしあり。
松井田と坂本の間に世俗にいはゆる、ゆり若大臣の足あとの岩と云あり。凡ゆり若大臣と云人古書に見えず。世俗のいひ傳ふること、信じがたし。但日本武尊をあやまりてかくいひ傳へけるか。此邊(へん)は日本武尊とおほ給ひし道也。又豐後築前にも百合若大臣の古跡有。強力武勇ありてつよ弓引し人なりといひ傳ふ。日本武尊筑紫にも下り給ひ、武勇はなはだすぐれたる人なれば、若此人をや、かくいひ傳へけん、いぶかし。然れ共世に云傳るは、嵯峨天皇の御宇に、四條左大臣公光の子百合若(ゆりわか)大臣九州の總司として下り、豐後に住せられしといへば、日本武尊とは時代ちがへり。

   *

ここに出る「百合若大臣」は伝説や物語上の貴種流離譚の主人公。幸若舞や説経節の「百合若大臣」の英雄として活躍し、後には浄瑠璃や歌舞伎、地方の踊り歌にまで脚色された。主たる物語では、嵯峨天皇の時、長谷観音の申し子として生まれた百合若は、蒙古襲来に出陣して大勝、帰途に玄海の孤島で一休みしていた間に、家臣の別府兄弟の悪計によって置き去りにされてしまう。兄弟は帰国後、百合若の死の虚偽報告を成し、九州の国司となった。しかし、百合若の形見に残した「緑丸」という鷹が孤島に飛来し、妻との連絡もつき、孤島に漂着した釣り人の舟によって帰国を果たし、九州を支配していた別府兄弟を成敗、宇佐八幡宮を修造して日本国将軍となるというものである。この伝説は本来、山口県以南に分布するもので、九州を本貫(ほんがん)とする説話が、諸芸能によって全国に分布するようになったものと思われる。伝説には諸種があり、例えばここに出た「百合若の足跡石」という巨石を伝えたり、別称「ダイダラボウシ」の名をもって祀られた「百合若塚」なども存在する。孰れもここで柳田が問題とする巨人伝説を踏襲するものであるから、必ずしも柳田が百合若と絡むのを奇異に感ずるのは当たらない。その他にも、鷹の緑丸に関わる遺跡も多く、鷹を神使とする民俗の影響が考えられる。また、壱岐島には「イチジョー」という巫女(みこ)が、天台や「ボサの祭り」と称する、毎月二十八日に神楽として語る「百合若説経」と称するものもあり、これは五十センチメートルほどの竹二本を、黒塗りの弓と「ユリ」という曲物(まげもの)を置いて、たたきながら行うもので、病人平癒の祈禱にも同じことをするという。そこではかつては「百合若」以外も語ったらしいが、今は他には残っていないという。筋も他の百合若伝説とほぼ同様で、桃の中から生まれたり、壱岐島の鬼を退治したり、桃太郎の話との混淆はあるが、宇佐八幡と柞原(ゆすはら)八幡(大分県大分市にある柞原八幡宮。本社は宇佐八幡宮の豊後国への分祀社と見て間違いない)での本地物になっている。百合若説話の成立には、宇佐の海人部(あまべ)の伝承と八幡信仰の関与があると考えてよい(以上は小学館「日本大百科全書」を参照した)。

「舞の本」中世芸能の一種であった幸若舞(こうわかまい)の詞章を記したもの。幸若舞は曲舞(くせまい)の一流派の後裔で、室町期に流行した。

「その寵愛の鷹の綠丸までが、奧羽の果てでも塚を築いて弔はれて居る」Nachtigall Blaue氏のブログ「碧風的備忘録」のこちらに、宮城県栗原市栗駒にある鳥合(ちょうごう)神社の緑丸の伝承が、奥羽ではないが、近接する「新潟県聖籠町(せいろうまち)」公式サイト内のこちらにも、町名の由来が緑丸に関わることが記されてある。 

 

 自分の是からの話は大部分が其證據であつて、特に實例を擧げる迄も無いのだが、周防の大島の錨ケ峠の近傍には、現在は武藏坊辨慶の足跡だと稱するものが殘つて居る。昔笠佐の島が流れようとした時に、辨慶こゝに立つて踏張つて之を止めたといふのである。紀州の日高郡の湯川の龜山と和田村の入山(にふやま)とは、同じく辨慶が畚(ふご)に入れて荷うて來たのだが、廣瀨峠で朸(おこ)が折れて、落ちて此土地に殘つたと謂ひ、大和の畝傍山[やぶちゃん注:「うねびやま」。]と耳成山[やぶちゃん注:「みみなしやま」。]、一説には畝傍山と天神山とも、やはり萬葉集以後に武藏坊がかついで來たといふ話がある。朸がヤーギと折れた處が八木の町、いまいましいと棒を棄てた處が、今の今井の町だなどゝも傳へられる。そんな事をしたとあつては、辨慶は人間でなくなり、從つて此世に居なかつたことになるのである。實に同人の爲には有難迷惑な同情であつた。

[やぶちゃん注:「周防の大島の錨ケ峠」大島はここ(グーグル・マップ・データ)。「錨ケ峠」(いかりがとうげ)は不詳。

「笠佐の島」大島の西方に浮かぶ小島。

「紀州の日高郡の湯川の龜山と和田村の入山(にふやま)」この附近(グーグル・マップ・データ)。現在の和歌山県御坊市湯川町丸山と、その西南に接する和歌山県日高郡美浜町和田地区

「廣瀨峠」不詳。

「朸(おこ)」「おうご」「おうこ」とも呼ぶ。荷物に差し通して肩に担ぐ天秤(てんびん)棒のこと。

「ヤーギ」折れる音のオノマトペイアらしい。] 

 

 それは兎も角として信州の側へ越えてみると、亦盛んにダイダラ坊が活躍して居る。戸隱參詣の道では飯綱山の荷負池が、中陵漫錄にも出て居て既に有名であつた。此以外にも高井郡沓野の奧山に一つ、木島山の奧に一つ、更級郡猿ケ番場の峠にも一つ、大樂法師の足跡池があると、信濃佐々禮石には記して居る。少し南へ下れば小縣郡の靑木村と、東筑摩郡の坂井村との境の山にも、其間二十餘丁[やぶちゃん注:二~三キロメートル弱。]を隔つて二つの大陀(だいだ)法師の足跡があり、何れも山頂であるのに夏も水氣が絶えず、莎草科の植物が茂つて居る。昔巨人は一跨ぎに此山脈を越えて、千曲川の盆地へ入つて來た。其折兩手に提げて來たのが男嶽女嶽の二つの山で、それ故に二蜂は孤立して間が切れて居るといふ。

[やぶちゃん注:「飯綱山の荷負池」「飯綱山」は「いひづなやま(いいづなやま)」、「荷負池」は「におひいけ(においいけ)」。長野県北部の、長野市・上水内郡信濃町・飯綱町に跨る山(標高千九百十七メートル)でここ(グーグル・マップ・データ)であるが、「荷負池」は不詳。識者の御教授を乞う。

「中陵漫錄」水戸藩の本草学者佐藤中陵成裕(宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)が文政九(一八二六)年に完成させた採薬のための諸国跋渉の中での見聞記録。同書は所持するが、当該記事を発見出来ない。発見し次第、追記する。

「高井郡沓野」現在の長野県下高井郡山ノ内町(旧高井郡沓野(くつの)村)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「木島山」長野県下高井郡木島平村のそれ(グーグル・マップ・データ)か?

「更級郡猿ケ番場の峠」長野県千曲市と東筑摩郡麻績(おみ)村を結ぶ猿ヶ馬場峠(さるがばんばとうげ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「信濃佐々禮石」「科野佐々禮石」(しなのさざれいし)。江戸末期の橘鎮兄(たちばなちんけい/しづえ)著になる信濃国の地誌。万延元(一八六〇)年成立。刊本は大正二(一九一三)年。

「小縣郡の靑木村と、東筑摩郡の坂井村との境の山」この中央付近と推定される(グーグル・マップ・データ)。

「莎草科」「ささうか(さそうか)」。単子葉直物綱イネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae のカヤツリグサ(蚊帳吊草・莎草)の類。

「男嶽女嶽」(をだけ・めだけ)はここ(グーグル・マップ・データ。「男山」「女山」と表記されている)。] 

 

 東部日本の山中には此類の窪地が多い。それを鬼の田又は神の田と名づけて、或は蒔かず稻の口碑を傳へ、又或は稻に似た草の成長を見て、村の農作の豐凶を占ふ習ひがあつた。それが足の田・足の窪の地名を有つことも、信州ばかりの特色では無いが、松本市の周圍の丘陵に其例が殊に多く、大抵は亦デエラボツチヤの足跡と説明せられて居るのである。その話もして見たいが長くなるから我慢をする。只一言だけ注意を引いて置くのは、爰でも武相の野と同じやうに、相變らず山を背負うて、其繩が切れて居ることである。足跡の濕地には甚だしい大小があるに拘らず、落し物をして去つたといふ點は殆ど同一人らしい粗忽である。小倉の室山に近い背負山は、デエラボツチヤの背負子[やぶちゃん注:「しよいこ(しょういこ)」。]の土より成ると謂ひ、市の東南の中山は履物の土のこぼれ、倭村の火打岩は彼の庭石であつたといふが如き、何れも一箇の説話の傳説化が、到る處に行はれたことを示すのである。

[やぶちゃん注:「小倉の室山に近い背負山」現在の長野県安曇野市三郷小倉にある室山はここ(グーグル・マップ・データ)。「背負山」は不詳。識者の御教授を乞う。

「倭村」長野県の旧南安曇郡倭村(やまとむら)。現在の松本市梓川倭。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「火打岩」(ひうちいは)不詳。] 

 

 但し物草太郎の出たといふ新村の一例のみは、或はダイダラ坊では無く三宮明神の御足跡だといふ説があつたさうだ。今日の眼からは容易ならぬ話の相異とも見えるが、さういふ變化は既に幾らでも例があつた。上諏訪の小學校と隣する手長神社なども、祭神は手長足長といふ諏訪明神の御家來と傳ふる者もあれば、又デイラボツチだといふ人もあつて、舊神領内には數箇所の水溜りの、二者のどちらとも知れぬ大男の足跡から出來たといふ窪地が今でもある。手長は中世までの日本語では、單に給仕人又侍者を意味し、實際は必ずしも手の長い人たることを要しなかつたが、所謂荒海の障子の長臂國、長脚國の蠻民の話でも傳はつたものか、さういふ怪物が海に迫つた山の上に居て、或は手を伸ばして海中の蛤を捕つて食ひ、或は往來の旅人を惱まして、後に神明佛陀の御力に濟度せられたといふ類の言ひ傳へが、方々の田舍に保存せられて居る。名稱の起りはどうあらうとも、畢竟は人間以上の偉大なる事業を爲し遂げた者は、必ず亦非凡なる體骼を持つて居たらうといふ極めてあどけない推理法が、一番の根源であつたことは略確かである。それが次々に更に畏き[やぶちゃん注:「かしこき」。]神々の出現によつて、征服せられ統御せられて、終に今日の如く零落するに至つたので、ダイダばかりか見越し入道でも轆轤首でも、曾て一度はそれぞれの黃金時代を、もつて居たものとも想像し得られるのである。

[やぶちゃん注:「物草太郎」(ものくさたらう)は渋川版「御伽草子」の一つである貴種流離譚「物くさ太郎」の主人公。信濃国筑摩郡「あたらしの郷」(次注参照)に「物くさ太郎ひじかす」という無精者が寝て暮らしていた。あまりの物ぐさぶりに驚きあきれた地頭が、村人に彼を養うように命令するが、やがて京の国司から村に夫役がかかった際、この夫役を物くさ太郎に押しつける。京に上ると、人が変わったようにまめまめしく働き、夫役を無事に務めて、妻となるべき女性を探し求め、清水寺の門前に立ち、見初めた貴族の姫と恋歌の掛け合いの末、勝って結ばれる。貴族となった太郎は、やがて仁明天皇の孫が善光寺に申し子して授かった子であることが判明、信濃の中将に任ぜられて帰国、百二十歳まで生き、死後、彼は「おたかの明神」に、妻は「朝日の権現」として祀られたとする。昔話の「隣の寝太郎」と同系統の説話であるが、怠け者で貧しい男が巧智を用いて長者の婿になるという寝太郎型の昔話では、物語の舞台が農村に限定されているため、知恵の優位を強調することで物語を展開させているのに対し、こちら物語では、後半部の舞台を農村から都へ移すことで意外性に満ちた波瀾万丈の物語となっている。つまり、太郎の行動、則ち、農村での「物くさ」から、都での「まめ」への極端な行動の変化を通じて、農村と都では社会システムとそれを支える価値や倫理観が異なっていることを語り示しているとされる。さらに、この「物くさ」と「まめ」の対立的な行動の背後には、中世人の「のさ」という行動原理が貫いているとの解釈もなされている。中世の農村では、日頃から養っていた乞食などを、実際の犯罪者の身代わりに立てて処理するという習慣があり、その習慣が、この物語における「物くさ太郎」の養育と夫役の関係にも反映されているとみることもできる(以上は「朝日日本歴史人物事典」の小松和彦氏の解説に拠る)。

「新村」現在の長野県松本市新村(にいむら)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三宮明神」神武天皇の第一皇子日子八井命(ひこやいのみこと)か。] 

 

 故に作者といふ職業の今日の如く完成する以前には、コントには必ず過程があり種子萌芽があつた。さうしてダイダラ坊は單に幾度か名を改め、其衣服を脱ぎ替えるだけが、許されたる空想の自由であつた。例へば上州人の氣魄の一面を代表する八掬脛(やつかはぎ)といふ豪傑の如きも、なるほど名前から判ずれば土蜘蛛の亞流であり、又長臑彦・手長足長の系統に屬する樣に見えるが、その最後に八幡神の統制に歸服して、永く一社の祀りを受けて居ると云ふ點に於ては、依然として西部各地の大人彌五郎の形式を存するのである。しかも曾ては一夜の中に榛名富士を作り上げたとまで歌われた巨人が、僅かに貞任・宗任の一族安倍三太郎某の、その又殘黨だなどと傳説せられ、繩梯子を切られて巖窟の中で餓死をしたといふ樣な、花やかならぬ最後を物語られたのも、實は亦無用な改名に累された[やぶちゃん注:「わづらはされた」。]ものであつた。八掬脛はさう大した名前ではない。一掬を四寸としてもせいぜい三尺餘りの臑である。だから近世になると色々な講釋を加へて、少しでも其非凡の度を恢復しようとした跡がある。例へば此國の領主小幡宗勝、每日羊に乘つて京都へ參觀するに、午の刻[やぶちゃん注:正午。]に家を立つて申の刻[やぶちゃん注:午後三時から五時。]には到着する。依て羊太夫の名を賜はり、多胡の碑銘に名を留めて居る。八束小脛は其家來であつて、日々羊太夫の供をして道を行くこと飛ぶが如くであつたのを、或時晝寢をして居る腋の下を見ると、鳥の翼の如きものが生えて居た。それを挘り取つてから隨行が出來ず、羊太夫も參觀を怠るやうになつて、後には讒言が入つて主從ながら誅罰せられたなどと語り傳へて愈々我ダイダラボチ[やぶちゃん注:ママ。ちくま文庫版では『ダイダラボッチ』。]を小さくしてしまつたのである。

[やぶちゃん注:「コント」conte。フランス語で「短い物語・童話・寸劇」を意味するが、英語に取り入られると、特に笑いを含んだ冒険・空想物の短編小説を指すようになった。

「八掬脛(やつかはぎ)」「越後国風土記」(逸文)に(【 】は二行割注)、

   *

美麻紀の天皇[やぶちゃん注:崇神天皇。]の御世、越の國に人あり、八掬脛(やつかはぎ)と名づけき【その脛の長さ八掬ありて、力多くいたく強し、これ出雲の後なり。】。その屬(たぐひ)多かりき。

   *

「一掬」(ひとつか)は、人が掌を握った拳の幅を指す単位で、「八掬」は概ね八十センチメートル相当か。身長が大きくないのに、脛だけが長いと採れ、それは胴が短く、足が長い種族ということになり、土蜘蛛に等しく、長臑彦(ながすねひこ)の名とも合致する。

「手長足長」(てながあしなが)。ウィキの「手長足長」より引く。『秋田県、山形県、福島県、長野県、福井県などに伝わる伝説・昔話に登場する巨人』。『その特徴は「手足が異常に長い巨人」で各地の伝説は共通しているが、手足の長い一人の巨人、または夫が足(脚)が異常に長く妻が手(腕)が異様に長い夫婦、または兄弟の巨人とも言われ、各地で細部は異なることもある。手の長いほうが「手長」足が長いほうが「足長」として表現される』。『秋田では鳥海山に棲んでいたとされ、山から山に届くほど長い手足を持ち、旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていた。鳥海山の神である大物忌神はこれを見かね、霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。山のふもとの三崎峠が「有耶無耶の関」と呼ばれるのはこれが由来とされる』。『それでも手長足長の悪行は続いたため、後にこの地を訪れた慈覚大師が吹浦(現・山形県鳥海山大物忌神社)で百日間祈りを捧げた末、鳥海山は吹き飛んで手長足長が消え去ったという』。『また消えたのではなく、大師の前に降参して人を食べなくなったともいわれ、大師がこの地を去るときに手長足長のために食糧としてタブノキの実を撒いたことから、現在でも三崎山にはタブノキが茂っているのだという』。『福島の会津若松に出現したとされる手長足長は、病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま。磐梯山の古名)の頂上に住み着き、会津の空を雲で被い、その地で作物ができない状態にする非道行為を行い、この状態を長期にわたり続けたという。その地を偶然訪れた旅の僧侶がことの事情を知り、病悩山山頂へ赴き、手長足長を病悩山の頂上に封印し、磐梯明神』『として祀ったとされている。このことをきっかけに、病悩山は磐梯山と改められ、手長足長を封印した旅の僧侶こそ、各地を修行中の弘法大師だったと言われている』。『福井の雄島にある大湊神社には、安島に最初に住んでいたのが手長と足長だったと伝わる。足長が手長を背負って海に入り、手長が貝のフンをその長い手で海に入れ、魚をおびき寄せ獲って暮らしていたという』。『上記のような荒ぶる巨人としての存在とは別に、神・巨人・眷属神としての手長足長、不老長寿の神仙としての手長足長もみられ』、室町時代に編纂された「大日本國一宮記」によると、『壱岐(長崎県)では天手長男神社が国の一の宮であった』『とされ、天手長男(あめのたながお)神社と天手長比売(あめのたながひめ)神社の』二『社が存在していた』。『長野の上諏訪町(現・諏訪市)では、手長足長は諏訪明神の家来とされており』、『手長と足長の夫婦の神であるといわれ、手長足長を祀る手長神社、足長神社が存在する』。『この二社は記紀神話に登場している出雲の神である奇稲田姫(くしなだひめ)の父母・足名稚(あしなづち)と手名稚(てなづち)が祭神とされているが、巨人を祀ったものだという伝承もある』。『また、建御名方神が諏訪に侵入する以前に、諏訪を支配していた神の一つで、洩矢神と共に建御名方神と戦ったとされる』。『これら社寺に関連する「てなが(手長)」という言葉について柳田國男は、給仕をおこなう者や従者を意味していた中世ころまでの「てなが」という言葉が先にあり、「手の長い」巨人のような存在となったのは後の時代でのことであろうと推論している』(本条)。また、十一世紀に成立した、かの「大鏡」には、『硯箱(すずりばこ)に蓬莱山・手長・足長などを金蒔絵にして作らせたということが記されており、花山院(』十『世紀末)の頃には、空想上の人物たる手長・足長が認知されていたことがわかる。これは王圻』(おうき)の「三才圖會」などに『収録されている中国に伝わる長臂人・長股人(足長手長)を神仙図のひとつとして描くことによって天皇の長寿を願ったと考えられる』。『天皇の御所である清涼殿にある「荒磯障子」に同画題は描かれており、清少納言の』「枕草子」にも』、『この障子の絵についての記述が見られる』。』『物語文学のひとつである絵巻物』「宇治橋姫物語繪卷」には、『主人公のひとりである中将を取り囲んで現われる異形の存在(「色々の姿したる人々」)として、みるめ・かぐはな・手なが・あしながという名が文章上では挙げられている』。『岐阜県高山市の飛騨高山祭の山車装飾、市内の橋の欄干の彫刻など手長足長のモチーフが多く見られる』が、『これは嘉永年間』(一八四八年~一八五五年)『の宮大工が彫刻を手名稚と足名稚として高山祭屋台に取り付けたものが由来』『とされている。手長足長に神仙としてのイメージと』「山海經」、『あるいは浮世絵などの絵画作品を通じての異民族・妖怪としてのイメージ、双方からのイメージが江戸時代後期には出来上がっていることがわかる』とある。

「大人彌五郎」(おほひとやごらう)は本「ダイダラ坊の足跡」の最終章「大人彌五郎まで」で語られるが、主として九州南部に伝わる巨人伝説の主人公の名である。鹿児島県大隅町の岩川八幡神社の祭りには、大人弥五郎の人形が登場することが知られており、こうした弥五郎人形は、ヤマトタケルに滅ぼされた隼人族の長であるとする伝承がある。これは八幡信仰と結びついたものだが、その他にも、悪い病気を追放する牛頭天王と結びつき、邪霊を払う弥五郎人形が、村境まで送られて焼かれてしまう祭事も存在する。実は、その鹿児島県大隅町岩川とは私の母の故郷なのである

「安倍三太郎某」康平五(一〇六二)年九月に源頼義・義家父子が奥州の安倍貞任を衣川・鳥海・厨川の柵で破り、貞任を殺して宗任を降伏させ、前九年の役が終わるが、その安倍氏滅亡の際、配下の大将安倍三太郎が残党を従えて群馬と福島の県境の尾瀬に逃げ延び、百六十年もの間、そこに住みつき、その後、群馬県旧水上町大字藤原へと移ったとする伝承が残る。

「繩梯子を切られて巖窟の中で餓死をした」不詳。識者の御教授を乞う。

「小幡宗勝」多胡羊太夫(たごひつじだゆう)の名で伝承される人物。ウィキの「多胡羊太夫により引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『奈良時代天武天皇の時代(六七二年~六八六年)に活躍したとされる上野国(群馬県)の伝説上の人物(豪族)。伝承では多胡郡の郡司だったとされる。多胡碑によれば、「和銅四年』(七一一)年『に近隣三郡から三百戸を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした」と記載される「羊」なる者であるとされる。なお、多胡碑の原文は漢文であり』、『「給羊」の句があることから発想された。人名説以外に方角説時刻説などがあるが、現在学説では人名説が有力である』。『名前については、多胡(藤原)羊太夫宗勝、小幡羊太夫とも表記されることがある。「羊太夫伝説」では、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市または本庄市)で和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊を発見し朝廷に献上した功績で、多胡郡の郡司とともに藤原氏の姓も下賜されたと伝承される。この和銅発見により、年号が慶雲から和銅に改められたとされる(続日本紀卷四。ただし、実際の発見者と羊太夫が同一であることは証明しきれない。)』。『上州小幡氏が多胡羊太夫の子孫と称する。現代でも群馬県高崎市及び安中市の多胡氏を羊太夫の流れを汲むとする説もある。(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)』『伝説によれば、羊太夫は、武蔵国秩父郡(埼玉県本庄市児玉町河内(神子沢)羊山(ツジ山)には、羊太夫に関連すると伝わる採鉄鉱跡と和銅遺跡がある)で和銅を発見し、その功により藤原不比等から上野国多胡郡の郡司と藤原姓を賜り、渡来人の焼き物、養蚕など新しい技術を導入、また蝦夷ら山岳民と交易するなど、地域を大いに発展させたが、)(武蔵国高麗郡の)高麗若光の讒言により朝廷から疑いをかけられ、討伐されたとある(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)』。『斎藤忠「日本古代遺跡の研究文献編」によれば、多胡羊太夫は、蘇我氏に滅ぼされた物部守屋滅亡(五八七年)に連座し、上野国に流された中臣羽鳥連の末裔であるとしている。中臣羽鳥連は、その子、中臣菊連の娘が、貴種を求める上野国の地方豪族車持国子(男性)に嫁ぎ、その娘・与志古が天智天皇の采女に上がり、藤原鎌足に下賜され、藤原不比等が生まれたとしているため、多胡羊太夫の郡司就任には藤原氏の影響があったとする説もある。(吉田昌克説)』。『考古学者尾崎喜左雄(元群馬大学教授)は、「(伝承によれば、多胡碑のある多胡郡には)帰化人が多かったはずなのに(多胡羊太夫がいたとされる群馬県高崎市)吉井町付近にはそれを思わせる大きな古墳がないのは不思議だ」と同時代の他の地区との間に文化的差異があったことを指摘している』。但し、『遺物については多胡碑のほか、須恵器や上野国分寺の瓦などの焼き物と若干の銅製品、石碑、石仏が出土しているだけであり、また各地に伝わる古文書・伝承にも、時系列や情報の混乱(おそらく江戸時代に多胡碑が全国に紹介された後、羊太夫伝承が偽造された、もしくは他の民間伝承と混交したのであろう)が認められるため、モデルとなる人物がいたとしても、伝説通りに実在したかについては疑問視されている』。『なお、この伝説では、羊太夫は広域にわたる大規模な反乱を起こしているが、「続日本紀」にはそれに類する記録は見当たらない』。『吉田昌克によれば、中央集権の律令政治に勢力を持ちすぎた邪魔な地方豪族の国司や郡司を解体したことが歴史上の事実であり、羊太夫伝説で高麗若光の讒言により攻められたなどは、江戸時代に羊太夫伝説として再構成された時の単なる口実ではないかと』する説もあるらしい。『多胡碑によると「和銅四年に近隣三郡から三百を切り取り』、『「羊」なる者に与え多胡郡とした」とある』わけだが、『多胡碑は金石文であり、「羊」の解釈については、方角説、人名説など長い間論争がなされてきた。現在では、前述した尾崎が主張する人名説が有力とされている』。『「羊」が人名であるとした場合、その正体は』、『藤原不比等本人であるとする説(関口昌春提唱)』、『「羊」は物部氏の祖神の名である経津主の転であり、物部氏の後裔であるとする説(吉田説)』、『秦氏に連なる渡来人とする説。(久保有政説)』、『「火」を神聖視した伝承が羊神社にあることから、ゾロアスター教に関係がある、中央アジア系渡来人であるとする説』、『キリスト教関係の遺物が多胡碑から発見されたことから景教(ネストリウス派キリスト教)教徒説』や『ユダヤ人系キリスト教徒説。(日ユ同祖論説)』『など、さまざまな説が百出しているため、はっきりしない。上野国風土記などの古風土記は、これについての記載がなされていると考えられるが、現存しておらず、その逸文も発見されていない。流石に渡来人、キリスト教徒であるという説は、確たる証拠等が出土しない限り、納得できない』。但し、『久保有政は、仏教伝来の歴史においてシルクロード経由で大乗系の仏教が日本に伝わってくる間に、ユダヤ教やゾロアスター教やネストリウス派キリスト教の影響をかなり受けていることを指摘しており、キリスト教とは言えないまでも、奈良時代には仏教と混交した形で入っていると主張している』。『「日本書紀」によれば当時数十戸を賜う対象は皇族の皇子くらいの者であり、臣下に当たる「羊」が三百戸も賜わったのには相当な理由や功があったと推測できる』。以下、「羊太夫伝説」の項。『伊藤東涯による「盍簪録」(一七二〇年(享保五年))や青木昆陽による『夜話小録』(一七四五年(延享二年))をはじめとする数多くの古文書や古老の伝承などに、次のような「羊太夫伝説」がみられる。こ』こ『で、筆録された写本や地方史誌等に集録されているものは、二十数種あるとされ』、『この話の舞台は、群馬県西南部を西から東に流れる鏑川流域に沿った地域と秩父地方である。それぞれの「羊太夫伝説」にほぼ共通するあらすじは、次のようなものである』。『昔、この地に羊太夫という者がいて、神通力を使う八束小脛(ヤツカコハギ。八束脛ともいう)という従者に名馬権田栗毛を引かせて、空を飛んで、都に日参していた。あるとき、羊太夫が昼寝をしている小脛の両脇を見ると羽が生えていたので、いたずら心から抜いてしまったが、以後小脛は空を飛べなくなってしまい、羊太夫は参内できなくなった。朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てていると考え、軍勢を派遣し、朝敵として羊太夫を討伐した。落城間近となった羊太夫は、金の蝶に化して飛び去ったが、池村で自殺した。八束小脛も金の蝶に化身し飛び去ったとされる』。『しかし、「羊太夫伝説」のなかには、著しい差異がみられる古文書もあ』り、『「神道集」(文和・延文年間・一三五二年~一三六一年)においては、羊太夫は、履中天皇の時代(四〇〇年〜四〇五年)の人として登場』し、『この話では、羊太夫自身が神通力を持ち、都と上野国を日帰りしたという話が残されている』。『また、六八七年に創基した釈迦尊寺(群馬県前橋市元総社町)には、羊太夫のものとされる墓がある。寺の由来では、中臣羽鳥連・妻玉照姫・子菊野連は、守屋大連の一味同心として、蒼海(元総社)に流罪となるが、後に大赦を受け、菊野連の子青海(中臣)羊太夫が、玉照姫が聖徳太子から譲り受けた釈迦牟尼仏の安置所として、釈迦尊寺を建立したとされる』。『伝承では、羊太夫の従者である八束小脛は神通力を持ち、大いに太夫を助けたとされる。また一部の伝承によっては、山の知識に優れていたとも、馬術にすぐれていたともされる。このことから小脛は、羊太夫に協力した渡来人や蝦夷等の人格化ではないかとする説がある』。『他にも』、その『正体については、山岳信仰の現れとして山神・天狗の類であった説、名前通り土蜘蛛、つまり蝦夷であったという説、役小角に縁のある修験者であったり、鉱山を探す山師であったり、高い呪力を持つシャーマンであったりと諸説あり、伝承によっては、男であったり男装の乙女、物の怪ともされる』(下線やぶちゃん。以下も同じ)。『ある時期に、渡来人や蝦夷等の協力が得られなくなったことが、羊太夫伝説が指し示す事実であるとする説もある』。『里見郷の上里見神山における伝承では、八束小脛は、榛名山の女天狗であり、銅鉱山を羊太夫に教えたのも小脛の仕業との話も伝わる』。『そのバリエーションには、全てを与える代わりに自分を裏切ったら全てを失うと請願を立てさせた話、銅鉱石から金を作り出した伝説(利根川流域上流(草津、沼田付近)には銅鉱床があるため、洪水で流された黄銅鉱、黄鉄鉱がしばしば河原で見つかり、砂金と間違われるという)、羊太夫が討伐された後、彼の財産であった金銀財宝がたちまち錆び腐った等の話もある(おそらく黄鉄鉱などを金や銀と間違えたことをさす話であろう)』。『類似するものとして、「日本書紀」神功皇后九年(二〇九年)の条に「荷持田村に、羽白熊鷲という者有り。其の為人、強く健し、亦身に翼有して、能く飛びて高く翔る。……層増岐野に至りて、即ち兵を挙りて羽白熊鷲を撃ちて滅しつ。」という説話がある』。『久保有政は、松浦静山がその著書の中で、多胡碑のかたわらの石槨に「JNRI」という文字が見られ、また碑の下からは十字架も発見されたと書き記していることを挙げ、羊太夫とネストリウス派キリスト教との関連性を指摘する』。『「JNRI」は、ラテン語の Jesus Nazarenus, Rex Iudaeorum の頭文字をとった略語であって』これは『「ユダヤ人の王ナザレのイエス」を意味し、十字架刑に処せられたイエス・キリストの頭上にかかげられた言葉であるとされ、「INRI」(この場合、Iesus の頭文字である。)とも記されることがある。久保は、これについて東方キリスト教の残滓が日本まで到達したことを示すものであろうとしている』。『また「INRI」について、ヘブライ語は筆記においては母音が省略され子音のみ表記されるため、「INaRI」と母音を補い、稲荷信仰との関連も指摘されている。しかし、この説の根拠となる遺物に関しては、江戸時代にキリスト教信者によって捏造された可能性が否定できない他、語呂合わせ的な主張でもあり、説を補強する確かな遺物でも発見されない限り、この説を取ることは困難である』とある。]

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