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2018/05/31

諸國里人談卷之一 筑摩祭

 

     ○筑摩祭(つくままつり)

近江國湖(みづうみ)のひがし、坂田郡(さかたこふり)の濱邊、旦妻(あさつま)といふ名所の南十余町を過〔すぎ〕て、筑摩(つくま)の庄(しやう)あり。此村の明神の祭りは四月午〔うま〕の日なり。その村の女、おとこに會(あひ)たる、その男の數ほど、土鍋(つちなべ)を作りて、板にとりならべ、いたゞきて、まつりの庭は、神輿(みこし)の殿(しりへ)について、わたるなり。もし、男にあひたる數をかくす時は、たちまち、神罰をかうぶるとかや。是、すなはち、罪障懺悔(ざいしやうさんげ)せしめ給へる、此神の方便なりとぞ。むかし、婬婦(いんぷ)ありて、あまたの男をせし事をはぢて、大きなる鍋、ひとつをいたゞき、おとこの數ほど、小鍋をつくりて、大鍋に入子〔いれこ〕にして、人目をかくせしかば、神慮にそむきてころびしに、おほくの小鍋、くづれいでゝ恥(はぢ)みたりける、となり。中ごろは、常の鍋をいたゞきてわたりしが、それも絶(たへ[やぶちゃん注:ママ。])はてゝ、神まつりも、なきがごとし、といへり。所の人は「ちくま」といふなり。「ち」と「つ」は五音(ごいん)相通(あいつうずる)なり。「八雲御抄(やくもみしやう)」には「つくま」とあり。

「いせ物がたり」に、むかし、をとこ、女のまだ世をへずとおぼえたるが、人の御もとにしのびてものきこえて、後ほどへて、

 あふみなるつくまのまつりとくせなんつれなき人の鍋のかずみん

「淸輔集」に 寄ㇾ社戀(やしろ〔に〕よするこひ)

 夜とゝもに淚をのみぞわかすかなつくまの鍋にいらぬ物ゆへ

又、曰(いはく)、筑摩庄(つくまのしやう)は大膳職御厨(だいぜんしよくみくりや)の地なり。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に御食津神(みけつのかみ)を祭(まつる)。此神は稻食(とうしよく)をつかさどり給ふによつて、此里の女、嫁入(かじゆ)の時の祭祀には、鍋釜(なべかま)を戴(いただい)て神に進(たてまつ)る也。

[やぶちゃん注:「近江國湖(みづうみ)のひがし、坂田郡(さかたこふり)の濱邊、旦妻(あさつま)といふ名所」「筑摩(つくま)の庄(しやう)」「此村の明神」現在の滋賀県米原市朝妻筑摩(あさづまちくま)にある筑摩神社(ちくまじんじゃ:ここ(グーグル・マップ・データ))の、日本三大奇祭の一つとされる「鍋冠祭(なべかぶりまつり)」である。ウィキの「筑摩神社」等によれば、同神社は御食津神(みけつかみ:「古事記」では「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」、「日本書紀」では「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」。「うか」は「穀物・食物」の意で穀物神。両書とも性別を明らかにしないが、古来、女神とされてきている)を主祭神に、大歳神(おおとしのかみ:「年」は「稲の実り」で穀物神)・倉稲魂神(御食津神の「日本書紀」での名)・大市姫神(おおいちひめのかみ:「古事記」では須佐之男命の後妻となり、大歳神と宇迦之御魂神(稲荷神)を産んだとされることから、やはり農耕神・食料神として信仰された)の食物に関わる三柱を配祀する。『社伝によれば、孝安天皇』二十八『年に創祀され、継体天皇が越前から上京する際に、当社のそばに行宮を設け、社殿を再建して神域を定めたとされているが、鎮座地は桓武天皇の時代に内裏』の大膳職(だいぜんしき/おおかしわでのつかさ:本邦の律令制に於いて宮内省に属した、朝廷に於いて臣下に対する饗膳を供する機関)の御厨(みくり/みくりや:「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、本来は「神饌を用意するための屋舎」を意味する。ここは宮廷の食糧の調達地の意。「御園(みその/みそのう)とも呼ぶ)が置かれた地なので、その鎮守として御食津神を祀ったものとも推定されている。なお、御厨は』延久二(一〇七〇)年に廃されている。仁寿二(八五二)年に『従五位下の神階を授けられているが』、「延喜式神名帳」へ『の記載はない。後鳥羽天皇や源頼朝からも神領が寄進され』、寛元三(一二四五)年には『最高位の正一位の神階が授けられた。江戸時代には彦根藩主井伊氏の崇敬を受けた』。五月三日に行われる『春の大祭では、御旅所から神社までの約』一キロメートルを総勢二百人が『ねり歩く。その行列の中に狩衣姿の数え年』八『歳前後の少女』八『人が』、『鍋を被って加わることから』、『「鍋冠祭」とも呼ばれ』る』。『社伝によれば、桓武天皇の時代(』八『世紀)以来』、一千二百年の『伝統がある』祭事とされ、『当社の祭神が全て食物に関係のある神であり、神前に供物とともに近江鍋と呼ばれる土鍋を贖物』(あかもの/あがもの:罪の償いとして出す財物)『したことから、このような祭が生まれたと考えられている』。『過去には鍋冠りは少女ではなく』、『妙齢の女性の役目だった。鍋冠りの女性は』、『それまでに付き合った男の数だけ鍋釜を冠るという不文律があり』ここに出るように、「伊勢物語」にも『詠われるほど』、『有名なルールだった。江戸時代中期に、わざと少ない数の鍋をかぶった女性に神罰が下り、かぶっていた鍋を落とされ』、『笑いものにされ、お宮の池に飛び込み自殺してしまうという事件が起きた。事件の顛末を聞いた藩主の井伊氏が鍋冠りを禁止したが、嘆願の結果』、七、八『歳の幼児による行列ならば、と許可され』、『今日の姿となった』という。兵庫県神戸市垂水区にある「絵葉書資料館」の公式サイト内の絵葉書販売ページので「歌川広重」の描いた「筑摩祭」の絵が見られる。なお、これに類似した祭りとして、私は富山県富山市婦中町鵜坂にある鵜坂神社(うさかじんじゃ)の「楉祭(しもとまつり)」、別名「尻打ち祭り」を知っている。『平安時代から江戸時代までは、楉祭という特殊神事が行われていた。別名を「尻打祭」といい、貞操を戒めるために女性の尻を打つ祭であった。正月に七草粥を炊いた薪で女性の尻を打つと』、『健康な子が生まれるという公家の遊びが伝わったものである。「日本五大奇祭」の一つとして日本全国にその名が知られ、松尾芭蕉や宝井其角も』、『この神事を詠んでいる。明治初年に雌馬の尻を打つ祭に変えられ、第二次世界大戦終戦ごろに廃絶した。「八雲御抄」には「うさかのつえ、是は越中の国うさかの明神祭日、榊木して女の男のかずに禰宜(ここに脱字あるかという)を打つ事なり」とあり、「倭訓栞」には「其祭日に神人祝詞を宣る時、一郷の女子に其年あへる男の数をいはせ、杖をもて女の尻を打といふ」とある』と記す。

「十余町」十町は約一キロ九十一メートル。米原市朝妻筑摩はここ(グーグル・マップ・データ)であるが、筑摩神社は現在の同地区でも、最南端に位置しており、天野川河口域の朝妻筑摩の、当時は中心であったと思われる地区からは一キロ半弱離れていることから、こうした言い方になっているものと思われる。

「板にとりならべ、いたゞきて」不審。これは所謂、薄い土鍋をこの祭り専用の素焼きで作ったものを、板の上に並べて、それを(則ち、土鍋を並べた板を)頭の上に頂いて、としか読めないからである。しかし、それは如何にも安定が悪い。現在のお祭りの少女の被る鍋や、広重の絵を見ても、頭部をすっぽり隠すような本格的な大きさである。後者の奥の女性は明らかにそれを二つ重ねて被っているのが判る

「懺悔」本邦の場合は近世末まで「さんげ」と「さ」を濁らないのが正しいのである。

「中ごろ」過去の有意な時間をおおまかに三分割し、比較的古い時期・中期・今に近い比較的新しい時期を設定して「中頃」と称しているのである。

「常の鍋」家庭で使っている鍋。

『「ち」と「つ」は五音(ごいん)相通(あいつうずる)なり』タ行の同行列で音が近いから、相通ずると言っているか。確かに「筑摩」は「ちくま」「つくま」の両様に読むことは読む。しかし、沖縄方言の母音の口蓋化でも「い段」と「う段」は明確に別れるから、「相通ずる」などと軽々に言えないと思うのだが。寧ろ、「ち」と「つ」がある種の方言や特定集団の用いる言葉に於いては混同が生じ易いとか言った方が腑に落ちるのだが。

「八雲御抄(やくもみしやう)」順徳天皇(建久八(一一九七)年~仁治三(一二四二)年)が自ら著した歌論書。承久三(一二二一)年六月の「承久の乱」以前から書き始められ、一度、纏められたが、乱後に配流先の佐渡でさらに書き続けられ、京の藤原定家に送付されたものである。

『「いせ物がたり」に……』「伊勢物語」百二十段。

   *

 むかし、男、女の、まだ世經(よへ)ずとおぼえたるが、人の御(おほん)もとにしのびてもの聞えてのち、ほど經て、

 近江(あふみ)なる筑摩(つくま)の祭(まつり)とくせなむつれなき人の鍋の數(かず)見む

   *

「世經ずとおぼえたるが」男との肉体関係を持ったことがないとしか思えなかった女が。「人の御もとにしのびてもの聞えてのち」あるお方のところへ、人目を忍んで深く情をお交わしになるようになって後に。男からの如何にもな恨み節で、すこぶる不快な歌である。因みに、この歌は「拾遺和歌集」の巻十九の「雜戀」に「題知らず 詠人知らず」の(一二一九番)、

 いつしかも筑摩(つくま)の祭早(はや)せなむつれなき人の鍋の數見む

として載り、「俊頼髄脳」にもこの歌を引いて説明がある、と昭和五四(一九七九)年角川文庫刊「新版 伊勢物語」(石田穣二訳注)の補注にある。

『「淸輔集」に……』藤原清輔(長治元(一一〇四)年~治承元(一一七七)年:公卿で歌人。和歌の百科全書ともいうべき名作「袋草紙」(保元元(一一五六)年成立)で知られ、歌道家としての勢威も対立する藤原俊成の御子左家を凌いだとされる)の私家集「淸輔集」の「戀」部にある一首。前書の「寄ㇾ社戀(やしろ〔に〕よするこひ)」は確認出来ないので推定で「に」を補った。「涙」「わかす」「鍋」「いる(煎る)」は縁語であろう。「いらぬ」はそれに「入らぬ」(彼女に私は相手にされない)を掛ける。]

諸國里人談卷之一 常陸帶

 

   ○常陸帶(ひたちおび)

俊賴抄に云、常陸國鹿島明神の祭の日、女のけさう人〔びと〕のあまたある名どもを、布の帶に書つけて、神前に、をくなり。すべき男の名、書〔かき〕たる、をのづから、かへる也。女、「さも」とおもふ男なれば、したしくなると云。

                          公朝

 衣手のひたちの神のちかひにて人のつまをもむすぶなりけり

今此事は絶たるといへり。

[やぶちゃん注:「常陸帶」ここに書かれたように、鹿島神宮でかつて行われていた、女性が将来の夫を占う「帯占(おびうら)」のこと。意中の男性(本文の「けさう人」=「懸想人」)の名を帯に書いて神前に供え、神官がそれを結び合わせて占ったとするが、ほかにも諸説あるようである。期日も古くは正月十一日で、江戸時代には十四日などと様々であったという。神功皇后による腹帯の献納が起源とされ、腹帯は現在も鹿島神宮に収蔵されている(主にサイト「きごさい歳時記」のに拠った)。沾涼が本書を板行したのが寛保三(一七四三)年で、その時には既に絶えて有意な時間が経っていたことが判る。にしても「あまたある名ども」をとか、『女、「さも」とおもふ男なれば、したしくなると云』(いふ)という辺り、なかなかですねぇ

「俊賴抄」歌人源俊頼によって書かれた歌論書「俊頼髓腦(としよりずいのう)」の別名。天永四・永久元(一一一三)年成立と考えられている。

「公朝」権僧正公朝(ごんのそうじょうきみとも 生没年未詳)。評定衆北条朝時(建久四(一一九三)年~寛元三(一二四五)年:鎌倉幕府第二代執権北条義時の次男。名越流北条氏の祖)の息子で、鎌倉歌壇の有力歌人であった。

「衣手のひたちの神のちかひにて人のつまをもむすぶなりけり」夫木和歌抄」巻三十四の「雜十六」に載る一首。

 衣手(ころもで)の常陸の神の誓ひにて人のつまをも結ぶなりけり

「衣手の」「衣手を浸す」意から「常陸・常盤」に掛かる枕詞。「つま」「衣の褄」と「人の夫(妻)」を掛ける。「衣」「褄」「結ぶ」は縁語。]

諸國里人談卷之一 熱田的射

 

     ○熱田的射(あつたのまとい)

尾張國熱田社(あつたのやしろ)に、每年正月十五日、的矢あり。六百人の社家(しやけ)、これを射る也。もし、射はづせば、其家を沒し、官錄を、はなたる。よつて、當社の社人、年中、おこたらず、これを勵(はげみ)て、五寸、三寸の的を、常に射はづす事なく、皆、達人也。ことに、其日の的は二尺ばかりの大的にて、いづれにも發(はづれ)ぬやうにする事なり。されども、行跡(かうせき)あしく、神慮に脊(そむ)く輩(ともがら)は、必(かならず)、射はづす事、時として、ありとぞ。

[やぶちゃん注:熱田神宮の歩射神事(ほしゃしんじ)は現在も新暦の一月十五日に行われている。熱田神宮」公式サイト神事解説よれば、『豊年と除災とを祈る神事で、午後』一『時より神楽殿前庭で行』われ、『俗に「御的(おまとう)」ともいわれ』、『初立・中立・後立の各』二『人の射手(神職)が矢を』二『本づつ、各』三『回、計』三十六『本を奉射』する。『最後の矢が射られたと同時に』、『参拝者が一斉に大的を目指して押しかけ、特に大的の千木(ちぎ:大的に付した木片)は古くより魔除けの信仰があり、多数の参拝者がこれを得ようと奪いあうさまは壮観で』あるとある。的の裏には「鬼」と墨書されており、的の直径は一・八メートルと別な記載にあった。流石に今は外しても神職は首にはならんのじゃろうなぁ

「社家」とは代々、特定神社の神職や社僧の職を世襲してきた家(氏族)を指す。熱田神宮は千秋家(せんしゅうけ)。しかし、今、「六百人」もおらんじゃろうなぁ。調べて見たが、熱田神宮の神官の人数なんてものは判らんもんなんじゃなぁ。]

諸國里人談卷之一 犬頭社

 

    ○犬頭社(けんとうのやしろ)【犬尾社(けんびのやしろ)は下和田にあり。】

三河國碧海(へきかい)郡上和田村【岡崎にちかし。】に犬頭社といふあり。深更に及〔および〕て、靑銅百疋を長く繫(つなぎ)て口に喰(くわ)へ、鳥井の邊より社まで、四つ這(ばひ)にはひて行けば、かならず、福を得(うる)と、いひつたへたり。人、あつて、此事をなすに、神慮に叶ふ人は行課(ゆきおふ)せ、叶はざるは、何事ともしらず、兩足を跡へ引きて、行〔ゆく〕事、あたはず、となり。○天正年中、領主宇津左衞門五郞忠茂、一時(あるとき)、獵(かり)して山に入〔いり〕、一樹の下にして俄に睡(ねむり)を催しけるに、手飼の白犬、裾(すそ)を咬(くわへ)て行〔ゆく〕に、目を寐(さま)し、又、睡るに、犬、頻(しきり)に枕の上に吠(ほゆ)る。睡眠の妨(さまたげ)を怒(いかつ)て、腰刀(こしがたな)を拔(ぬき)て、犬を伐(きる)。その頭(かうべ)、飛(とん)で、樹(き)の上の※[やぶちゃん注:「虫」+「白」。]蛇(うはばみ)の頭(かしら)に嚙付(くひ〔つき〕)たり。忠茂、これを見て、大きに驚き、卽(すなはち)、※蛇を殺す。彼(かの)犬の忠情(ちうせい[やぶちゃん注:ママ。])を感じ、兩(りやう)和田村に、犬頭・犬尾を埋(うづみ)て、是を祭る。【東君、聞召〔きこしめし〕、甚〔はなはだ〕感ジサセ玉フ。】

[やぶちゃん注:【2018年8月15日追記】clubey氏のブログ 「猫の神様を求めて」の『愛知県の猫神・糟目犬頭神社の「唐猫」中編』で本条を含め、伝承の変遷が詳細に語られてあるのを発見した。是非、読まれたい。
 
「三河國碧海(へきかい)郡上和田村」現在の愛知県岡崎市三上和田町(まち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここで語られる「犬頭社」はかつてこの地区内の「糟目」という場所にあったが、現在はその少し南の愛知県岡崎市宮地町馬場(ここ(グーグル・マップ・データ))に「糟目犬頭神社(かすめけんとうじんじゃ)」として合祀されて現存している。これは「岡崎おでかけナビ」のこちらで判明した。

「犬尾社(けんびのやしろ)は下和田にあり」上和田町の南、現在の糟目犬頭神社の二キロほどの位置(愛知県岡崎市下和田町北浦。ここ(グーグル・マップ・データ))に「犬尾神社」として現存する。読みは調べる限りでは「けんび」「いぬお」「けんぴ」とさまざまである。ご夫婦で作っておられるサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」のこちら(こちらは「けんぴ」)が「犬尾神社由緒」の画像を掲げておられるので、リンクさせて戴く。その由緒書きには(句読点を挿入した)、

   *

祭神 彦火火出見尊 熊野大神

その昔、この地に彦火火出見尊を鎮座し、祭礼を行い、この辺りの開発の神として尊崇する。後、永延元年(九八七)六月二十五日、紀州熊野権現を勧請し、合祀する。承和二年(一三四六)、上和田城主宇都宮泰藤、犬の危急の報を知らず頭首を刀で断ったが、蛇からの難を免がれることができた。

 これは神明の犬によるものであると深く感じ入って犬の霊を犬頭、犬尾の両社に祭って弔う。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

とあって、主人公の名がこことは異なる。

「靑銅百疋」百疋は一貫文であるから、銭一貫文(基準千枚)は前に示したように、江戸中期なら二万五千円。重さは単位同じであるから約三・七五キログラム。

「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。

「領主宇津左衞門五郞忠茂」大久保氏。個人サイト「三河松平(徳川氏)家臣団の城館跡」の大久保氏の記載によれば、『大久保氏は粟田関白藤原道兼五代の後胤、下野国住人宇都宮左衛門尉朝綱の後裔と伝わ』り『朝綱九代の孫泰藤は、新田義貞に従っていたが』、『義貞戦死ののち越前を落ち』、『三河に移り住んだ。泰藤の孫泰道の代に姓を宇津と改め、その孫昌忠以来松平氏に仕えた』とあり、先の犬尾神社の人物が、この大久保泰藤であることが判る。また、その後裔である、この大久保改め宇津忠茂についても、『松平清康と敵対していた岡崎の松平昌安』(?~大永五(一五二五)年)『を討つべく』、『山中城奇襲を提言実行』した人物とする。さらに、筑後守氏の「筑後守の航海日誌」の「長福寺(大久保一族の墓)」に、この忠茂は天文一六(一五四七)年に愛知県岡崎市竜泉寺町前田にある、この寺に葬られたとある。

「東君」あまり見かけないが、東照大権現徳川家康のことであろう。]

諸國里人談卷之一 梅園社

 

     ○梅園社(むめぞのゝやしろ)

肥前國長崎丸山に富(とめ)る者あり。平日(つねに)、天滿宮を信ず。大宰府の飛梅(とびむめ)の枯條(かれゑだ)を以〔もつて〕、聖像を彫刻して、朝夕(あさゆう[やぶちゃん注:ママ。])、これを拜す。一日(あるひ)、途中にて、不斗(ふと)、口論に及び、殺されけるが、相手もまた、人を害し、遁るべきにあらねば、則(すなはち)、自殺してけり。かくて、殺されたるもの、夢のごとくにして蘓生(そせい)し、家に皈(かへ)りて、しだいを語り、神像を拜するに、御身(ごしん)に刃(やいば)の跡、あり。それより、血、流れたり。大〔おほき〕に驚惶(きやうくわう)し、是、神の我(わが)難に代(かは)り給ふを知りぬ。「梅園(むめぞの)の天神」と稱し、長崎にあり。元祿年中の事也。

[やぶちゃん注:「肥前國長崎丸山」現在の長崎県長崎市丸山町及び寄合町(附近(グーグル・マップ・データ))に相当するが、ここは江戸初期から近代まで「丸山遊廓」として知られた長崎の花街であるから、この「富(とめ)る者」もそうした遊廓の経営者である可能性が高い。

「梅園(むめぞの)の天神」丸山町内に現存する。(グーグル・マップ・データ)。長崎市公式観光サイト「あっと! 長崎」内の梅園身代り天満宮(ウメゾノミガワリテンマングウ)に、『この天満宮は』、元禄一三(一七〇〇)年に創建された『丸山町の氏神様で、昔から“身代り天神”と呼ばれ親しまれてきた。“身代り”と呼ばれるのは、創建者の安田次右衛門が、ある夜』、『何者かに襲われ』、『左脇腹を槍で刺され倒れたが』、『どこにも傷がなく、その代わりに』、『自邸の祠の天神像が左脇腹から血を流していたことによるのだという。また、丸山の遊女達も身代を“みだい”と呼び、自分の生活に苦労がないことを願って参拝した』とあって、沾涼の記載よりもより具体的である。]

諸國里人談卷之一 龍虵

 

   ○龍虵(りうじや)

出雲國秋鹿(あきかの)郡、佐陀社(さたのやしろ)は、さまざま、神事あり。十月十一日より十五日までの間に、沖より一尺ばかりの小蛇(こへび)一疋、浪にのりて磯に寄(よる)。この蛇、金(こがね)を以(もつて)彩色(さいしく[やぶちゃん注:ママ。])がごとく、甚〔はなはだ〕美〔うつく〕し。これを龍虵といふなり。神官、潔齊して汀(みぎは)に出〔いで〕て、その來れるを待(まち)、海藻(かいも)を手に受(うく)るに、龍虵、その藻のうへに曲(まが)り居(い[やぶちゃん注:ママ。])るを、則(すなはち)、神前に進(たてまつ)るなり。是、海神より佐陀社へ獻(たてまつ)るものなり。

祭神 伊弉諾(いさなき)・伊弉冉(いさなみ)の二神也。十月は陰神(ゐんしん)崩(ほう)じ給ふ月なれば、諸神、この社(やしろ)に集り給ふ。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に當所にては神在(かみあり)月と云。

[やぶちゃん注:「伊弉冉」の「冉」は原典では「冊の最終画の上に横に一本「一」を入れた字体であるが、表記出来ないので、一般的な「冉」を用いた。

「出雲國秋鹿(あきかの)郡、佐陀社(さたのやしろ)」現在の島根県松江市鹿島町佐陀宮内(さだみやうち)にある出雲国二宮である佐太神社(さだじんじゃ)。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「佐太神社によれば、正殿に『佐太御子大神』(さだのみこおおかみ)、『伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命』(はやたまのおのかみ:伊奘諾尊が黄泉国に伊奘冉尊を訪れた際、例のごたごたの中で誓約のために吐いた唾(つば)から生まれた神とされる)『事解男命』(ことさかのおのみこと:同じくその吐いた唾を払った際に生まれた神とされる)の五柱を、他に七柱(後の引用を参照)を祀る。『秋鹿郡佐田大社之記に垂仁』五十四『年の創建で、養老元年』(七一七年)『に再建されたとある。『出雲国風土記』の記述からもとは神名火山(現:朝日山)のふもとに鎮座していたと考えられる』とあり、『現在の神社側の公式見解では、正殿の主祭神である佐太御子大神とは猿田彦神のことである』『としている。佐太大神は『出雲国風土記』に登場し、神魂命の子の枳佐加比売命を母とし、加賀の潜戸で生まれたという。現在では、神名の「サダ」について、猿田の本来の読みであるという説、狭田すなわち狭く細長い水田の意とする説、岬の意とする説、等のほか諸説がある』とあって、さらに本文に「さまざま、神事あり」とある通り、『祭礼は古来』、七十五『度あったと言われるが、近世にはすでに行われなくなったものもかなりあると見られている』と記す。平津豊氏のサイト「MYSTERY SPOT」の佐太神社と万九千神社に、『佐太神社は、出雲大社にひけをとらないほど広い境内と社殿を構えた神社で、三殿が並立しためずらしい造りとなっている。この神社に祭られている神は、中央の社に、佐太大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊・事解男命、速玉之男命。右の社に、天照大神、瓊々杵尊。左の社に、素盞鳴尊、秘説四座。合わせて十二もの神々が祀られているとされている。これはいかにも豪華すぎる。また、異説も沢山あり近年整えられたものにすぎない。本来は、佐太大神のみが祀られていたと考えられている。この佐太大神とは何者か、については、「狭田国(サダノクニ)」の祖神であり、「サダ」とは島根半島を指すと考えられている。社の正式な由縁では、佐太大神は古事記に出てくる猿田毘古(サルタヒコ)であるとしているが、これは明治に松江藩から命じられ受け入れたことで、別神である。おそらく』、『佐太大神は、出雲の土着の神で、明治時代に天津神に関係する神でよく似た名前の神をあてがったものと考えられる』。『神有月の頃、海から尻尾に斑紋のある海蛇があがる。これを「龍蛇神」と呼び祀る習わしがある。一方、古事記には、海を照らして光り輝きながらわたってきた御諸の神、つまり三輪大神が大国主の国づくりを手伝ったとあり、この三輪の神は蛇に化身する神であることから、この風習と一致する』。『つまり、佐太の神も蛇にまつわる神である、大国主は大穴牟遅(オオナムチ)の別名を持っておりナムチは蛇を表わす。土着の神=国津神はこのように、蛇と深い関係をもって表現されることがある』とあり、また、Kami Masarky氏のブログの【龍蛇神の紋章】 佐太神社には、出雲の「神在月」には全国の神々が『竜宮の使いである「龍蛇神」に先導されて海から出雲の地に上陸』し、『この龍蛇神は実際には「セグロウミヘビ」』爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科セグロウミヘビ属セグロウミヘビ Pelamis platura:一属一種。有毒。全長六十~九十センチメートル。体重百~二百グラムと小型。ウィキの「セグロウミヘビによれば、『体形は側偏』し、『本種は他のウミヘビ亜科の種と同様、卵胎生を獲得して産卵のための上陸が不必要となった完全な海洋生活者であり、その遊泳生活に応じて、他のヘビでは地上を進むのに使用されている腹面の鱗(腹板)は完全に退化している。頭部は小型で細長い。前牙類のため上顎の前方に毒牙があるが、牙は比較的小さい』が、『神経毒で、毒牙が小さいため』、『一噛みあたりの注入量は少ないが、人を殺せるほど強力なもの』『で、非常に危険である。また、本種は肉にも毒があるので、食用にはならない』。『名前の由来は、背が黒いこと』に由来するが、『腹面は黄色もしくは淡褐色で、色味は個体により』、『黄色の強いものから』、『象牙色に近いものまでかなりの幅がある。体色は全身にわたってほぼ二色にくっきりと分かれているが、尾部のみは黄色や淡褐色地に黒色、もしくは黒色地に黄色あるいは淡褐色の斑点模様、または太い波型の縞模様になっている個体が多くみられる』とある。また『本種は日本の出雲地方では「龍蛇様」と呼ばれて敬われており、出雲大社や佐太神社、日御碕神社では旧暦』十『月に、海辺に打ち上げられた本種を神の使いとして奉納する神在祭という儀式がある。これは暖流に乗って回遊してきた本種が、ちょうど同時期に出雲地方の沖合に達することに由来する』ともある)のことであると述べられ、なぜ、この『「神迎え神事」を行うのかというと、この時期になると』、『日本海が荒れて、出雲の海岸にセグロウミヘビがよく打ち上げられるからで』あるとある。『このことから』、『出雲では昔からこのセグロウミヘビを神々を先導する「龍蛇神」として崇めてき』たのであり、『出雲の原初の信仰は「龍蛇神信仰」で』あったとされる。

「彩色(さいしく)」「いろどる」の意であろう。

「陰神(ゐんしん)」伊弉冉尊を指す。彼女の没したのが十月という根拠は不詳。]

諸國里人談卷之一 人魚

 

     ○人魚

若狹國大飯郡(おゝいごほり)御淺嶽(みぜんがだけ)は魔所にて、山八分(ぶ)より上に登らず。「御淺(みぜん)明神の仕者(ししや)は人魚なり」と、いひつたへたり。寶永年中、乙見(おとみ)村の獵師、漁(すなどり)に出けるに、岩の上に臥(ふし)たる體(てい)にして居るものを見れば、頭(かしら)は人間にして、襟(ゑり)に鷄冠(とさか)のごとく、ひらひらと赤きものまとひ、それより下は、魚なり。何心なく、持〔もち〕たる櫂(かい)を以〔もつて〕打〔うち〕ければ、則(すなはち)、死せり。海へ投入(なげ〔いれ〕)て歸りけるに、それより、大風、起つて、海、鳴(なる)事、一七日〔ひとなぬか〕、止(やま)ず。三十日ばかり過〔すぎ〕て、大地震(だいぢしん)し、御淺嶽の梺(ふもと)より海邊まで、地、裂(さけ)て、乙見村一郷(いちごう)、墮入(おち〔いり〕)たり。是、明神の祟(たゝり)といへり。

[やぶちゃん注:「若狹國大飯郡(おゝいごほり)御淺嶽(みぜんがだけ)」よく判らないのだが、或いは、これは現在の福井県大飯郡高浜町高野にある青葉山(山体全体は京都府舞鶴市に跨っている東峰と西峰からなる双耳峰。標高六百九十三メートル。信仰との関わりが深い山で、舞鶴市側の西中腹には西国三十三所第二十九番札所松尾寺が創建され、高浜町側の東中腹には中山寺が創建されており、両寺はともに山号を「青葉山」とする。また、東峰の山頂には青葉神社、西峰の山頂には青葉神社西権現が祀られている。また、古来より若狭三山(青葉山、多田ヶ岳、飯盛山)の一つとして修験道が盛んに行われていた。ここはウィキの「青葉山」に拠った)のことではなかろうか? ある資料に、この青葉山の別名を「御山」と記しているからで、これは「淺嶽(みぜんがだけ)」とちょっと似ている気がしたからである。また、その他の大飯郡のピークは(三()国岳などまたちょっと似ているものはあるのだが)、概ね内陸で海岸線に近くないので、この話向きでないと考えたからでもある。また、この直後に乙見村」というのが出るのあるが、この漢字表記では見当たらないものの、この青葉山の東北に先太りで突き出ているのが音海半島(おとみはんとう)だから、この漁師の村もこの音海附近ではないかと思うのである。さすれば、福井県高浜町北西部にロケーションが限定出来るここ(グーグル・マップ・データ))からである。また、斉藤喜一氏のサイト「丹後の地名」の「青葉神社」の非常に詳しい考証ページによれば、この青葉山は、古代に於いては、大和朝廷に抵抗した土蜘蛛の陸耳御笠(くがみみみかさ)が領有していたのものでなかったのかと記しておられ、まず、「高浜町誌」を引用されて、

   《引用開始》

青葉山の土蜘蛛(青葉山麓)

 青葉山は、丹後と若狭との国境にあって若狭富士ともいわれている。

 崇神天皇のころ、この山に「土蜘蛛」が住んでいて、その頭を「陸耳の御笠」といった。山から下りて来て田畑を荒らしたり、家にはいって物を盗んだりするので、天皇は御弟の日子坐の王に、討ち捕えるようにとお命じになった。王が青葉山のふもとにお着きになると、地面や山々はごうごうと音をたてて揺れだし、天からは御光がさして、土蜘妹たちは目もあけていられないので、頭の陸耳は驚いて山を下り逃げ出した。王は方々追いかけまわして遂に、これらのものをお退治になったという。

   《引用終了》

とあり、次に「丹後風土記残欠」から以下を示しておられるが、こちらは国立国会図書館デジタルコレクションの「丹後資料叢書」(昭和二(一九二七)年刊)にある「丹後風土記殘缺」の画像(こちらこちら)を確認して、オリジナルに勝手訓読してみた。読みは田の資料も参考にして推定で歴史的仮名遣で附してある。

   *   *   *

甲岩(かぶといは)

甲岩ハ、古老、傳へて曰く、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのみこと[やぶちゃん注:崇神天皇の名。])の御代に當り、當國の靑葉山の中に、土蜘(つちぐも)有り。「陸耳御笠」と曰ふ者にして其の狀(じやう)、人民を賊(そこな)ふ。故(かれ[やぶちゃん注:そこで。])、日子坐王(ひこいますのみこ)、勅を奉(たてまつ)りて來たりて、之れを伐つ。卽ち、丹後國[やぶちゃん注:引用元にはここに『(六字虫食)』とあるが、斉藤喜一氏は『若狹國ノ境ニ到ニ』とされておられる。]堺、鳴動して以つて、光輝を顯はし、忽ちにして、巖岩、有り。形貌、甚だ金甲に似たり。因つて、之れを「將軍の甲岩」と名づくなり。亦、其の地を鳴生(なりふ)と號づく。

   *

志託(したか)

以つて「志託」を稱する所以(ゆゑん)は、往昔(そのかみ)、日子坐王、官軍を以つて、將(まさ)に陸を攻伐せん[やぶちゃん注:引用元にはここに『(七字虫食)』とあるが、斉藤喜一氏は『耳御笠ヲ攻伐ノ時、靑』とされておられる。]葉山より墜隨(ちくずい[やぶちゃん注:落ち延びてゆくことと採っておく。])す。之れを遂ひて、此の地に到り、卽ち、陸耳、忽ち、稻中に入りて潛み匿るるなり。王子、忽ち、馬を進み入れ(六字虫食)、將いに殺さんとす。則ち、陸耳、忽ち雲を起こし、空中を飛び走り、南に向けて去れり。(二字虫食)王子、甚(いた)く稻(いね)・粱(あは)[やぶちゃん注:底本は「稻梁」となっているが、これは原典の「粱」(あわ)の誤りであろう。そうでないと意味が通じぬので特異的に訂した。それはおかしいとならば、御指摘戴ければ幸いである。]を侵して、荒蕪(したき)爲(ま)せり。故(かれ)(以下十四行虫食)[やぶちゃん注:斉藤氏はここを『其地ヲ名ツケテ荒蕪』(シタカ)『ト云フ』とされておられる。]

   *   *   *

青葉山が古えの土蜘蛛の根城であったとすれば、これはまさに伝承上、後々まで「魔所」とされるに相応しいではないか。また、若狭は人魚伝承の多い地域であるが、人魚の肉を誤って食べてしまった不老長寿となる、所謂、「八百比丘尼」伝説もある。しかもウィキの「人魚」によれば、『京都府綾部市と福井県大飯郡おおい町の県境には、この八百比丘尼がこの峠を越えて福井県小浜市に至ったという伝承のある尼来峠という峠がある』とあり、この尼来峠は青葉山から十二キロメートルほどと比較的近い位置にある(通常の地図では確認出来ないので。サイト「峠データベース」のこちらを確認されたい)但し、以上の尼来峠を八百比丘尼が越えたとする話には要出典要請がかけられているので判る通り、出典が定かでない。私は以前にこの出典を調べてみたことがあるのだが、いろいろなところにこの記載がありながら、どなたもその一次史料を示していないので怪しい気もする。されば、参考までに記しおくに留める。

「仕者(ししや)」使者。

「寶永年中」一七〇四年~一七一一年。徳川綱吉・家宣の治世。

「獵師」漁師。

「頭(かしら)は人間にして、襟(ゑり)に鷄冠(とさか)のごとく、ひらひらと赤きものまとひ、それより下は、魚なり」男女の区別をしていない。されば、頭部が単に人間らしい印象であったに過ぎないことが判る。その場合、私は「耳」があるかないかが、大きな人面のシミュラクラのポイントの一つになると考えているので、この漁師が沿岸の岩礁上に認めたそれは、目立つ耳介を持つ、哺乳綱ネコ目アシカ科キタオットセイ属キタオットセイ Callorhinus ursinus ではなかったかと推理している。「襟(ゑり)に鷄冠(とさか)のごとく、ひらひらと赤きもの」を纏っていたというのは、紅藻類の海藻が頸の周囲に付着していたと考えても無論、よいが、実はわざわざそんなもので無理に装飾しなくても、実はオットセイの幼体や♀の成獣の毛は腹面が赤褐色を呈するのである。

「一七日〔ひとなぬか〕」一週間。

「大地震(だいぢしん)」宝永年間の大地震は宝永の地震(宝永四年十月四日(一七〇七年十月二十八日)であるが、これは東海道沖から南海道沖の南海トラフを震源とするもので、小浜附近の推定震度はマグニチュード5~6で(ウィキの「宝永地震に拠る)、「御淺嶽の梺(ふもと)より海邊まで、地、裂(さけ)て、乙見村一郷(いちごう)、墮入(おち〔いり〕)たり」というような大規模な広域の陥没のカタストロフが起きたような感じではない。なお、この謂いからは「乙見」は「音海」ではなく、青葉山の北方の内海湾湾奧になくてはならぬことになる。不審。]

2018/05/30

諸國里人談卷之一 直會祭

 

     ○直會祭(なをへまつり)

尾張國中嶋郡國府宮(こふのみや)【淸洲(キヨス)の近所也。】、每年正月十一日に「直會祭」といふあり。神官、旌旗(せいき)を立〔たて〕て、道の邊〔べ〕に出て、往來の人を一人、捕ふ。さるによつて、其日は諸人、戸出(とで)をつゝしむ。旅人などは旅館にて此事を告〔つげ〕しらせて逗留するなり。斯(かく)恐るれども、自然(しぜん)と、このために捕はれる者、出來〔いでき〕て、其人を沐浴(ゆあみ)をさせ、淨衣(じやうゑ)を著(きせ)て、神前につれ行〔ゆき〕、大きなる爼板(まないた)一器(いつき)、木にて作れる庖丁、生膾箸(まなばし)をまうけ置〔おき〕、又、人形(ひとがた)を作りて、捕はれたる人の代(かはり)として、末那板(まないた)の上に据(すへ)て、その傍(かたはら)に捕はれし人を居(お[やぶちゃん注:ママ。])らしめ、神前に備(そな)へ進ずる事、一夜なり。翌朝(よくてう)、神官來りて、件(くだん)の備物(そなへもの)・人、共に神前よりくだし、土を以〔もつ〕て、大きなる鏡餠(かゞみもち)を作りて、彼(かの)人、背に負せ、靑銅一貫文を首にかけて追放(おいはなつ[やぶちゃん注:ママ。])に、走り行〔ゆき〕て、かならず、倒(たをれ)て絶入(ぜつじゆ)す。少時(しばらく)ありて正氣いでゝ、元のごとし。その倒れたる所に土餠(どもち)を納めて塚を築(つく)なり。此神事、社家の深祕(しんぴ)とす。

眞淸田明神〔ますみだみやうじん〕 祭神 國常立尊〔くにのとこたちのかみ〕 當國の一宮也。

[やぶちゃん注:これは私には、礫川全次氏の編著になる「生贄と人柱の民俗学」(一九九八年批評社刊・「歴史民俗学資料叢書」五)の加藤玄智博士の大正一四(一九二五)年の論文「尾張國府宮の直會祭を中心として見たる人身御供及び人柱」を始めとして、文献上は非常に親しく知っている異祭である。歴史的仮名遣では正しくは「直會祭(なほゑまつり)」である。以上の内容から容易に察することが出来るが、この祭りは古えにあっては明確な人身御供の祭儀であったのであり、恐らくは近世の初期頃までは、ここに記されたよりも、より原型に近い凄惨な一部(犠牲者への暴行・傷害・致死)を色濃く保存していたものと私は推定している。実際に私は、近世後期まで、こうした厄を負わせた浮浪者を生贄に仕立て、祭りの最後に村民全員が石を投げ打ったり、棒で叩いたりして村落境界外へ追放したり、共同体辺縁を意味する橋の上から突き落としたりして半死半生にするという祭儀を、複数、知っている

「尾張國中嶋郡國府宮(こふのみや)【淸洲(キヨス)の近所也。】」現在の愛知県稲沢市国府宮にある尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)。(グーグル・マップ・データ)。祭神は尾張大国霊神で、これは尾張人の祖先が当地を開拓する中で、自分達を養う土地の霊力を神と崇めたものとされている。開拓神ということから、大国主命とする説もある。尾張国府の設置とともに創建されたもので、尾張国総社とされた。国府は近くにあったことから、一般には「国府宮(こうのみや)神社」或いは単に「国府宮」と呼ばれる。現在も毎年旧暦一月十三日に執り行われる「儺追(なおい)神事」としてこの祭りは生きており、これは通称「はだか祭り」として有名である。この「はだか祭り」では、「籤(くじ)」によって選ばれた「神男」(しんおとこ:或いは単に「シン」と呼ばれる)に触れると厄が落とされるという言い伝えが今なお残っているが、加藤玄智氏の論文によれば『其勢ひは頗る猛烈である爲に、其シンになつた男が、身體の肉を裂かれ血を出して負傷するやうな事もあるから、屈な男が數名之を護衞して、其シンになつた所の男を』『防禦』する。しかし、これは昼間の儀式で、夜の部の祭(午前二時から払暁まで)では一転してシンに『鏡餅を背負はせ、それに人形を付け』、『神主始め其他の人が、之を鬼として追ふのである。其時にぶつけるものは、桃の枝と柳の枝とを二本合せて』撚つて『結び、一寸ばかりに切つた飛礫を』『ぶつけるのである』。『さうして三囘』シンが『逃廻つた後に、社前約半丁ばかりの一定の土地に逃込んで』(こここそが古えの生贄の殺害場所であり、埋葬地であったに違いない)、『其處に其脊負つて居つた餅を下して土中に埋め』(餅は稲霊であるよりもここでは生身の人の霊魂の代替物である)、『其シンになつた』逆に多くの『厄を脊負つ』てしまった『男は、急いで自分の家へ歸』ることになっていたのである。これは江戸時代の話ではない。論文が書かれた大正末期の様子なのである。それ以前の原型がいかに強烈なものであったかは、この異常な生贄役選別が旅人や公的な飛脚の通行を著しく妨げて問題になった結果、寛保年間(一七四一年~一七四四年)、当時の尾張藩第八代藩主徳川宗勝がこの祭祀を学者に調べさせ、人を捕えて神前に供するという仕儀を「淫祠」と断じて禁じたことからも判る。後に江戸中期の神道家源誠之の書いた「吉見宅地書庫之記」によれば(加藤論文からの孫引き)

   *

寛保年間本州國府宮正月十三日追儺修法、捕人以充之者、以似淫祀、邦君(註德川宗勝)寬政之餘、思國民之憂、欲止之、使有司問之先生、於是先生考索和漢典籍、審誌勘文、以聞、乃有嚴命、禁止猥捕往來人之淫祀、因下令於國中、不啻使闔國往還安、天下大悅、傳聞之者、無不感嘆邦君之仁政、嗟呼偉哉。

   *

とあって、実は祭りに参加していた民草自身が、この奇体な祭りが禁止されたことを逆に悦んでいることが判るのである。しかも、本「諸國里人談」の刊行は寛保三(一七四三)年であるから、ここに記された内容は、まさしく旧型の禁止される最後の形を記している貴重な資料なのである。

「旌旗(せいき)」色鮮やかな幟旗。

「戸出(とで)」外出。

「斯(かく)恐るれども、自然(しぜん)と、このために捕はれる者、出來〔いでき〕て」生贄がなければ、直会祭を行えない以上、神主や氏子総代は当然、裏で手を回して、浮浪人や卑賤の大道芸人・知的障碍者などを金銭を以って雇い入れていたものと推測される。

「其人を沐浴(ゆあみ)をさせ、淨衣(じやうゑ)を著(きせ)て」典型的な「一夜神主」=人身御供である。

「生膾箸(まなばし)」「眞魚箸(まなばし)」で魚鳥を礼式に則って料理する際に使う、柄のついた長い木又は鉄製の箸。

「人形(ひとがた)を作りて、捕はれたる人の代(かはり)として、末那板(まないた)の上に据(すへ)て、その傍(かたはら)に捕はれし人を居(お)らしめ、神前に備(そな)へ進ずる事、一夜なり」フレーザーのいう類感呪術の教科書的記述と言える。慄然とするものがある。

「靑銅一貫文」江戸中期だと、一両の四分の一が銭一貫文で、凡そ一両は十万円相当として、二万五千円。これが生贄役のギャラだった。私は安過ぎると思うね。「ハレ」には実際の生贄が何時だって必要なんだ、今だって、ね。

「走り行〔ゆき〕て、かならず、倒(たをれ)て絶入(ぜつじゆ)す。少時(しばらく)ありて正氣いでゝ、元のごとし。その倒れたる所に土餠(どもち)を納めて塚を築(つく)なり」こうしないとエキサイトした参加者の中には、「総ての厄を担った鬼」役を確信犯で実際に撲殺する者が出てくるからである。これは神主から予めその者に謂い含められたシナリオなのだと私は思う。これは「神(シン)」=「鬼」=トランス状態の巫覡(ふげき:男のミコ)の行動としても腑に落ち、失神した(神がかりが落ちた)それに手は出さないのが、こうした際の暗黙の鉄則だからである。それこそ、そうした演出こそが本来のこの祭りの「社家の深祕(しんぴ)」だったのだと私は思う。]

諸國里人談卷之一 龍王祭

 

     ○龍王祭(りうわうまつり)

淡路國由良の湊の南西の海中に、周(めぐ)り、三里ばかりの小島あり。此所に平生(ひらもへ[やぶちゃん注:ママ。])といふ大石、海へさし出〔いで〕たる、方〔ほう〕三間〔げん〕あまりの平〔たひら〕なる石あり。每年六月三日、由良の八幡の社僧、來り、此石の上に供物を備へ、祭儀を修(しゆ)す。これを龍王祭といふ也。此時節に至つて、かの石の邊(あたり)に、大小の龜、數萬(すまん)、群(むらが)り集りて、海上を塞ぐ。祭事、過ぬれば、殘らず、忽(たちまち)に去る。今に至〔いたり〕て、例年、たがはず。

[やぶちゃん注:以下は原典では全体が一字下げ。]

案ずるに、此島は牟島(むしま)なり。此島に秦武文(はたのたけふみ)が伴ひし御息所(みやすどころ)、漂泊し、此所に流れより、はじめて上り給ふ、といふ所に、岩あり。傍に小祠(ほこら)あり。今、弁財天に祭る。

[やぶちゃん注:本条の挿絵が後に別にここに載る。早稲田大学図書館古典総合データベースの①のそれで示した。

「淡路國由良の湊の南西の海中に、周(めぐ)り、三里ばかりの小島あり」「牟島(むしま)」これは「太平記」の巻第十八の「春宮(とうぐう)還御の事 付けたり 一宮御息所(いちのみやみすんどころ)」の中に出る秦武文の妻の話から、「武島(むしま)」が正しいと思われる。しかし、この「武島」、不詳とされており、例えば「新潮日本古典集成」(昭和五八(一九八三)年刊)の「太平記 三」(山下宏明校注)の頭注によれば、岩波古典大系本では淡路島の南にある沼島(ここ(グーグル・マップ・データ))に、『この御息所に関する話が伝わると』注するとあり、また、『淡路島北西部の津名郡北淡(ほくだん)町野島か』(この附近(グーグル・マップ・データ)。しかし、ここは島ではなく、淡路島島内の地名である)とも注されてある。この条に出る「由良の湊の南西の海中」というロケーションとしては後者の「野島」は当たらない(そもそもが島でないからアウト)。兵庫県洲本市由良は淡路島の東端で(ここ(グーグル・マップ・データ))で、沼島は由良を起点にして確かに南西ではあり(但し、由良から直線でも十七キロメートルも離れている)、また、沼島の周囲は九・五三キロメートルと、「周(めぐ)り、三里ばかり」(十二キロメートル弱)というのと極端には違わない。取り敢えずは「沼島」で採っておこうと思う。なお、由良には南北に細長い「成ヶ島(なるがしま)」(トンボロ(陸繋島))があるが、ここは逆立ちしても「由良の湊の南西の海中」とは言わないだろうから、私は当初から候補にしていない。

 さて、ウィキの「沼島を見てみると(下線やぶちゃん)、『淡路島は、『古事記』では淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)と書かれ、『日本書紀』では淡路洲と書かれていて、伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の産んだものとされ』、『伊弉諾尊・伊弉冊尊の二神が天上の「天浮橋(あめのうきはし)」に立って、「天沼矛(あめのぬぼこ)」をもって青海原をかき回し、その矛を引き上げたところ、矛の先から滴り落ちる潮が凝り固まって一つの島となった。これがオノゴロ島で、二神はその島に降りて夫婦の契りを結んで国産みを行った。初めに造られたのが淡路島で、その後次々に島を生んで日本国を造られたとされる。おのころ島の所在地については諸説ある。そもそも架空の島であると言う説、淡路島北端の淡路市にある絵島、南あわじ市榎列(えなみ)の自凝島神社のある丘、あるいは淡路島全体であるという説もある。しかし』、『沼島には古来おのころ島の伝えがあり、天沼矛に見立てた奇岩、おのころ山に鎮座して二神を祭る「おのころ神社」が存在するため、沼島とする説もある』とある、大変な島で、「平生」(ひらもえ)という大石は確認出来ないものの、奇岩の奇景の豊富なところで、「上立神岩」・「屏風岩」・「あみだバエ」など、『島の南側の海岸線は太平洋の黒潮をまともに受ける場所であり、奇岩・岩礁を形作っている。なかでも高さ約』三十メートルの『上立神岩(かみたてがみいわ)は「天の御柱」とも言われ、江戸時代に『和漢三才図会』には「龍宮の表門」と書き記されている』とあるのは、本話が「龍王祭」であり、祭祀の途中にウミガメが数万匹(これは幾らなんでもオオゲサ過ぎ!)も群泳するという驚くべき怪異現象と合わせ、龍宮説話との非常に強い親和性をこの島は感じさせると言えるのである。

「方三間〔げん〕」五メートル四十五センチ四方。

「由良の八幡」現在の兵庫県洲本市由良にある由良湊神社であろう。サイト「玄松子の記憶」の由良湊神社の記載に、元、この神社は王子権現社と称していたが、『中世に八幡神信仰により、由良城主池田忠長が八幡宮を』別なところに『創建、万治元』(一六五八)『年に蜂須賀光隆が、当社境内に八幡宮を遷し、明治三』(一八七〇)『年に、八幡宮は当社へ合祀された』とあるからである。

「秦武文(はたのたけふみ)が伴いし御息所(みやすどころ)」「秦武文」は「太平記」で元徳三(一三三一)年の元弘の乱の際、摂津国兵庫の海で、死を賭して主君尊良(たかなが)親王(延慶三(一三一〇)年?~延元二/建武四(一三三七)年):後醍醐天皇の皇子。斯波高経率いる北朝方との金ヶ崎の戦いで新田義貞の子義顕とともに戦ったが、力尽きて義顕とともに自害した)の妻これがここで言っている「御息所」である。老婆心乍ら、武文の妻ではないので注意されたい)を守って入水したとされる南朝忠臣(右衛門府の下官)。「たけぶん」とも読む。実在性はない。因みに、所謂、恨みの人相を甲羅に刻むとされる、節足動物門甲殻亜門軟甲綱十脚目短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ属ヘイケガニ Heikeopsis japonica(及びその近縁種)は、摂津の大物(だいもつ)の浦(現在の大阪湾に近い兵庫県尼崎市大物町(ちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在は大阪湾に流れ込む神崎川河口から少し入った内陸にあるが、かつては直近に浜があった)を発祥元とする怪異伝承に基づくと、別名を「武文蟹」と称し、彼の生まれ変わりとする。私の毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)に「太平記」の当該話を紹介してあるので、知らない方は、そちらを参照されたい

「傍に小祠(ほこら)あり。今、弁財天に祭る」ここで言っているものかどうかは不明だが、女優の下川友子さんのオフィシャル・ブログの日本創成の島!?おのころ島と伝えられる沼島へ!弁財天 沼島八幡宮によれば、沼島の港のすぐ直近の、(グーグル・マップ・データ)に弁天社が現存する(祭神は宗像三女神の一人である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)とあるが、彼女は本地垂迹説では弁才天と同一視されることが多く、古くから弁才天を祀っていた神社では廃仏毀釈以降に市杵島姫神や宗像三女神を祀っている神社も多い)。]

諸國里人談卷之一 飽海神軍

    ○飽海神軍(あくみのかみいくさ)

出羽國庄内、飽海の社(やしろ)は大物忌(おほものいみ)太神と號す。祭神、倉稻魂神〔うかのみたまのかみ〕なり。年に一度、風、烈しく震動して、天氣、常に異なる雪・霰(あられ)の中に、矢の根、交りて降るなり。これを「神軍(かみいくさ)」とて、土人、大きに怖る。晴〔はれ〕て後、木蔭に、石にあらず、鐡(かね)にあらず、鏑(かぶら)矢・蟇股(かりまた)等の鏃(やのね)、數品(すひん)あり。これを雷斧(らいふ)と云〔いふ〕。鹿伏(かふし)の矢の根にかはらず。また、奧州・能州の中にもあり、常州鹿島にもありと云。これ、則〔すなはち〕、「本草」にいふ所の雷楔(らいけい)・雷斧の類ひなるべし。

[やぶちゃん注:沾涼明らかに前の「鹿伏神軍」の類例として続いて示している。この怪異については、サイト「日本歴史地名大系ジャーナル」の「地名拾遺」にある「第25回 神矢田 【かみやだ】18 神軍(かみいくさ)の鏃(やじり)降りそそぐ地 山形県飽海郡遊佐町」で詳細な科学的・考古学的・民俗学的考証がなされている。かなり長いものであるが、必見である。結論だけを引かせてもらうと、『現代からみれば、土中に埋没していた縄文・弥生時代の石器が、長雨によって表土が流出したために地上に現れたに過ぎないのだが、古代の人々は形態から弓箭の鏃であろうとは推察はしたものの、天上の神々が戦を起こした際に使用した鏃が降りそそいだのであり、石鏃を神与のものと考えた』のであるとある。

「出羽國庄内飽海の社(やしろ)は大物忌(おほものいみ)太神と號す」山形県飽海郡遊佐町にある鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)であろう。本神社は鳥海山頂の本社及び麓の吹浦(ふくら)と蕨岡(わらびおか)の二か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称しており、鳥海山を神体山とする鳥海山山岳信仰の中心を担う神社である。本文の叙述は山頂の本社をロケーションとしているようには見えないから、吹浦のそれ(ここ(グーグル・マップ・データ))或いは蕨岡のそれ(ここ(グーグル・マップ・データ))であろう。ウィキの「大物忌神」によれば、『鳥海山は古代のヤマト王権の支配圏の北辺にあることから、大物忌神は国家を守る神とされ、また、穢れを清める神ともされた。鳥海山は火山であり、鳥海山の噴火は大物忌神の怒りであると考えられ、噴火のたびにより高い神階が授けられた』とあり、『大物忌神は、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神とされる。鳥海山大物忌神社の社伝では神宮外宮の豊受大神と同神として』おり、『鳥海月山両所宮では鳥海山の神として倉稲魂命を祀っている』とある。

「倉稻魂神〔うかのみたまのかみ〕」「朝日日本歴史人物事典」より引く(コンマを読点に代えた)。『日本神話に登場する穀物神。伊奘諾尊が飢えたときに生まれた神。『延喜式』の祝詞では、「屋船豊宇気姫命」という神に「是は、稲の霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻といふ」との説明があるほか、『日本書紀』の神武天皇の巻に「厳稲魂女」という神名がみえ、「うか」が穀物を意味する語であることがわかる。『日本書紀』の保食神』(うけのかみ)『や『古事記』の豊宇気毘売神』(とようけびめのかみ)『の「うけ」は、それが転じたもの。このように、古い文献に「うか」「うけ」を含む神名が多数みえるのは、穀物神、穀霊』(稲霊(いなだま)『が方々で祭られ、それに応じて種々の呼称が存在したことを反映するものらしく、この倉稲魂命もその一例と考えられる。『古事記』の宇迦之御魂神は、須佐之男と神大市比売』(かむおおいちひめ)『との間に生まれた神として出ているので、別神だろう』とある。

「蟇股(かりまた)」前の「鹿伏神軍」で注した「雁股」の意で記している。恐らくは、鏑矢の一種である「蟇目・引目(ひきめ)」と混同してしまった表記であろう。因みに「ひきめ」は、「響目(ひびきめ)」の略として射た際に音を響かせることからの名とも、また、鏑に開けた孔の形が蟇蛙の目に似ているからともいう。朴(ほお)又は桐製の大形の鏑で、犬追物(いぬおうもの)や笠懸(かさがけ)などに於いて、射る対象を傷つけないようにするために用いた。「ひきめの矢」は特にその音が、妖魔を退散させるとして、呪術的な処方としてもしばしば使われた。

「鏃(やのね)」「やじり」に同じい。

「雷斧(らいふ)」雷神の斧(おの)。石器時代の遺物の打製石斧などを、雷神の持ち物が落雷などで空から落ちてきたと考えたもの。「天狗のまさかり」「天狗の飯匕(めしかい:杓文字(しゃもじ)のこと)」などとも呼ぶ。

「奧州・能州の中にもあり、常州鹿島にもあり」前条に出した木内石亭の「雲根志」の「後編卷之三 像形(ざうぎやう)類」の「霹靂碪(へきれきちん)」(「雷神の砧(きぬた)」の意)には、能登の「所の口」という所の『畑の中より、天狗の爪を多く掘出す』とし、さらに、『奥州南部、出羽の羽黑山、越後馬正面(ばせうめん)村、東美濃客見野(かくみの)、飛驒國高原(たかはら)等に雷斧多し。其外、國々稀にありと見ゆ。細小なるは三、五分、巨大なるは尺余、かけ肌あり、みがき肌あり、諸方石を愛せる家每に雷斧・雷刀・雷鎚・雷碪・雷環・雷珠・雷鑽(さん)・雷楔(けつ)・雷墨・雷劍等あり。根元(こんげん)、一物なり。各形容によつて名を呼(よぶ)なるべし。予、數百種を蓄(たくはふ)。色・形・大小・産所、等しからず。按ずるに、雷に寄る事、非なり。意者
(おもふに)、上古の兵具(へうぐ)ならんか。口傳あり」と鮮やかに正しく述べている。また、「後編卷之四」の冒頭「鐫刻(せんこく)類」の冒頭の「鏃石(やじりいし) 一」には、「続日本紀」から始めて、本条の鳥海山の「神軍」の例も含め、詳細にこれを綴っており、そこには同現象の起こる場所を細かに羅列しており、その中に、まさに『常陸國鹿島海邊』『奥州津輕同松前仙
臺南部左井(さい)村等』『能登七尾近所二の宮、又、「ヒラ」といふ所』『佐渡國鹿伏(かぶし)大明神境内』(前の「鹿伏神軍」である)を挙げて、『東國北國には所々にあるべし』とも記している(太字下線やぶちゃん)。

『「本草」にいふ所の雷楔(らいけい)・雷斧』明の李時珍撰の「本草綱目」の「卷十 金石之四」に「霹靂碪」の項を挙げ、そこに「雷揳」「雷斧」が載る。原文は「漢籍リポジトリ」の殆んど末尾(「雷墨」の前)で読める。これを見るに、前注の石亭の「雲根志」での「雷~」の名数はこれに拠ることが判る。]

諸國里人談卷之一 鹿伏神軍

 

     ○鹿伏神軍(かふしのかみいくさ)

佐渡國鹿伏(かふし)明神、每年二月九日、大雨風〔おほあめかぜ〕にして、夜に入〔いり〕て大きにあれ、明がたより、しづまり、翌十日、極めて晴天なる事、例年、たがはず。土俗(ところのもの)、其夜は「神軍あり」といひつたへて、戸出(とで)をせず、籠れり。あけの日、社頭の邊に、ふしぎの矢の根、數(かず)あり。尖矢(とがりや)・かりまた・かぶら矢など、さまざまの形にして、大〔おほい〕さ、常の箭(や)の根のごとし。人民、これを拾ひて守(まもり)とす。囘國の僧など、拾ひ得て來〔きた〕る事あり。

[やぶちゃん注:四度の私の佐渡行で二度泊まった「ホテル大佐渡」のある、現在の新潟県佐渡市相川鹿伏(あいかわかぶせ:(グーグル・マップ・データ))地区には、現在、海辺近くに熊野神社と善知鳥神社があるが、この孰れかか? 孰れの神社を調べても、比定は出来ない。但し、後者は仁平元(一一五一)年の創建と伝わり、嘗ては善知鳥七浦(下戸・羽田・下相川・小川・達者・北狄・戸地)の総鎮守とされていた由緒ある神社で、こちらに分はありそうには見える。五度目の佐渡行で是非、行って調べてみたい。なお、この鏃が突如、出現するという奇譚は、私が電子化した橘崑崙の北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))で、佐渡島と海を隔てた新潟での奇談として似たような話として語られているのが興味深い。是非、そちらも参照されたい。さらに私の佐渡怪談藻鹽草 淺村何某矢の根石造るを見る事によれば、この相川地区の山の中で何者かが鏃を作っているという怪異も載せられており、これは本話とロケーションから言っても強い親和性・関連性があるものと考えてよい。こちらも是非、読まれたい。また、後の奇石収集家で本草学者の木内石亭(きうち/きのうちせきてい 享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)の、私の偏愛するフリーキーな石百科「雲根志」(十六巻。(安永二(一七七三)年に前編を、安永八(一七七九)年に後編を、享和元(一八〇一)年に三編を刊行)の「後編卷之三 像形(ざうぎやう)類」の「霹靂碪(へきれきちん)」(「雷神の砧(きぬた)」の意)に、『佐渡國鮎河(あゆがは)』(相川のこと)『鹿伏(かふし)明神の境内に每年二月九日山神を祭る。翌十日、近郊のもの、山に入(いり)て鏃石をたづね拾ふに、きはめて得ると』と出る。

「戸出(とで)」外出。

「かりまた」「雁股」。先が股(やや外に開いたU字型)の形に開き、その内側に刃のある狩猟用の鏃(やじり)。通常では飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るのに用いる。

「かぶら矢」鏑矢。「鏑(鳴鏑(なりかぶら)」は矢柄 (やがら) の先の鏃 (やじり) 部分に附ける道具で、木・竹・獣類の角などで作り、「蕪(かぶら)」の形に似た鈍体で、長円形を成し、中を空洞にして周囲に三~八個の孔を空けておき、これによって、矢を射ると、その孔が風を切って鳴りながら飛ぶ。本来は、その響きによって相手を射竦めたり、もっとプラグマティクに開戦や味方への信号用として用いた。鳥や兎などの小型獣類を外傷を加えずに捕獲或いは射技の一つとして射る場合にも用いた。古墳時代中期以降に既に現われており、「古事記」「万葉集」に「比米加夫良」「鳴鏑」の名がみえる。「嚆矢(こうし)」・「鳴箭 (めいせん)」 とも称する。]

諸國里人談卷之一 吉備津釜

 

     ○吉備津釜(きびつのかま)

 

備中國吉備津宮(きびつのみや)に「釜殿(かまどの)」といふ、あり。是に大〔おほき〕なる釜あり。祈願の人、吉凶を伺ふに、社人、玉襷(たまだすき)をして、一つの幣(へい)を釜中(ふちう)にうつし、法を修(しゆ)すれば、釜、鳴動(めいどう)す。そのひゞき、數〔す〕十町にきこゆ。これを「動ずる」といふなり。其音によつて、成就・不成就、病人、快全・不快を考ふる事なり。

當社は備中賀陽郡(かようのこふり)内、板倉川のひがし、備前の界也。

[やぶちゃん注:挿絵「早稲田大学図書館古典総合データベース」の寛保三(一七四三)年版(版本)(①。以降はこの記号のみで示す)でリンクさせておく。左頁の上図である。さても、上田秋成の「雨月物語」の「吉備津の釜」で人口に膾炙する、それである。

「備中國吉備津宮」現在の岡山県岡山市北区吉備津(岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備の中山(標高百七十五メートル)の北西麓に北面して鎮座する吉備津神社。吉備の中山は古来より神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座し、当社と吉備津彦神社ともに主祭神に当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、また、命の一族を配祀している)にある吉備津神社。(グーグル・マップ・データ)。社史は参照したウィキの「吉備津神社を見られたい。ここで語られるのは、そこで行われる(現在も金曜日を除く毎日、行われている)鳴釜神事(なるかましんじ)である。ウィキの「鳴釜神事によれば、この特殊な『神事は、釜の上に蒸篭(せいろ)を置いて』、『その中にお米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いた』際、『鳴る音の強弱・長短等で吉凶を占う神事。吉備津の釜、御釜祓い、釜占い、等ともいう。元々』、『吉備国で発生したと考えられる神事』で、『一般に、強く長く鳴るほど良いとされる。原則的に、音を聞いた者が、各人で判断する』という。『女装した神職が行う場合があるが、盟神探湯』(くか(が)だち:真偽・祈誓を試す対象者に神仏に対して潔白などを誓わせた後に「探湯瓮(くかへ)」という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせて判じる呪法(うらない)。正しい者は火傷をせず、罪のある者は大火傷を負うとされる)・湯立(湯立(ゆだて/ゆだち:神前に大きな釜を据えて湯を沸かし、神がかり(トランス)状態にある巫女が持っている笹・幣串をこれに浸した後、自身や周囲に振りかける儀式。現在では単にお祓いの形式的儀礼として行われているが、古くは神事の大切なプレの儀式としての「禊(みそぎ)」の要素が大きく、同時に、神意を伺うための「占卜(ぼくせん)」の手段として「問湯(といゆ)」などと呼ばれてもいた。前の「盟神探湯」は、ここから発生したと考えられ、この流れを汲む中世に於ける湯起請(ゆぎしょう:室町記に正式な訴訟上の立証方法として認められた裁判法。原告・被告に起請文を書かせた上、熱湯中の石を摑み出させ、三日又は七日の間、神社などに籠らせて後、火傷の有無を以って正否を決したもの。有罪とされるべき反応を「湯起請失(ゆぎしょうしつ)」と称した)のことを「湯立」とも称した)『等と同じく、最初は、巫女が行っていた可能性が高い』。『現在でも一部の神社の祭典時や修験道の行者、伏見稲荷の稲荷講社の指導者などが鳴釜神事を行う姿が見られる』が、『いつの頃から始まったかは不明』で、『古くは宮中でも行われたという。吉備津神社の伝説では、古代からあったとする』。以下、「吉備津神社の鳴釜神事」の項。『同神社には御釜殿があり、古くは鋳物師の村である阿曽郷(現在の岡山県総社市阿曽地域。住所では同市東阿曽および西阿曽の地域に相当する)から阿曽女(あそめ、あぞめ。伝承では「阿曽の祝(ほふり)の娘」とされ、いわゆる阿曽地域に在する神社における神職の娘、即ち巫女とされる)を呼んで、神職と共に神事を執り行った。現在も神職と共に女性が奉祀しており、その女性を阿曽女と呼ぶ』。『まず、釜で水を沸かし、神職が祝詞を奏上、阿曽女が米を釜の蒸籠(せいろ)の上に入れ、混ぜると、大きな炊飯器やボイラーがうなる様な音がする。この音は「おどうじ」と呼ばれる。神職が祝詞を読み終える頃には音はしなくなる。絶妙なバランスが不思議さをかもし出すが、この音は、米と蒸気等の温度差により生じる熱音響』『とよばれる現象と考えられている。』百『ヘルツぐらいの低い周波数の振動が高い音圧を伴って』一ミリメートル『ぐらいの穴を通ると』、『この現象が起きるとされ』る。『吉備津神社には鳴釜神事の起源として以下の伝説が伝えられている。吉備国に、温羅(うら)という名の鬼が悪事を働いたため、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでも』、『うなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしても』、『うなり続け、御釜殿の下に埋葬しても』、『うなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日』、『温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという』とある。

「釜殿(かまどの)」ウィキの「吉備津神社に、現在のものは慶長一一(一六〇六)年に鉱山師安原知種によって再建されたもので、『単層入母屋造の平入で、本瓦葺。南北に伸びた長方形で、北二間に釜を置く』とある。国重要文化財。

「玉襷(たまだすき)」神事に用いる「襷(たすき)」なれば、尊称としての接頭語を附したもの。

「數〔す〕十町」一町は約一〇九メートルであるから、私の考える〈「数」は六掛け〉で、六百五十メートル前後。

「快全」全快。]

2018/05/29

諸國里人談卷之一 芝祭

 

     ○芝祭(しばまつり)

出羽國大泥(どろ)村に、每年、四月八日、芝祭といふあり。其所に大き成(なる)池あり。一山(さん)の山伏、池の邊に臨んで祈る時、かたはらの芝、四、五尺ほど裂(さけ)て、池にうかみて、漂泊す。これを「芝舟」といへり。其時、「寬(ゆる)々と遊び給へ」と呼〔よば〕はれば、少時(しばらく)、猶豫す。程なく、本の所へたゞよひ歸りて、地に癒付(いへ〔つく〕)事、前のごとし。ふしぎの祭なり。當所は藥師佛を安置し、一山、四十人ケ寺、みな、山伏持〔もち〕の所なり。此日、近國よりの見物、群集す。

[やぶちゃん注:幾ら探しても、この村名も祭りの名も掛かってこない。「一山、四十人ケ寺、みな、山伏持〔もち〕の所なり」とする「出羽國」の「四月八日」(これは薬師如来の生誕日とされるので探索限定のヒントにはならない)に行われる「芝祭」である。そこには寺或いは堂があってそこに「藥師佛を安置」するという。これはもう、修験道のメッカ出羽三山の御膝元でなくてはなるまい。一つ考えたのは、山形市薬師町にある国分寺薬師堂であるが、ここは山形県でも東方で出羽三山から有意に離れてしまう。とすると、やはりこれはもう、おぞましき廃仏毀釈によって寺としては存在しないのではないか? と考えた。そんなところから条件を絞って見ると、鶴岡市にそれらしいものがあるのが目についた。峰薬師神社(出羽三山)である(山形県鶴岡市羽黒町手向。ここ。(グーグル・マップ・データ)。現在でも羽黒派古修験道を伝える、羽黒山入山の儀式としての「秋の峰入り」がここで続けられていると、こちらのページにある。地図でも見ても宿坊が犇めいており、それらしい感じではある。現在の航空写真を拡大してもても、近くには池はないのだが、しかし、直近の北六十メートルの隣りの地名が「池之頭」なのは大いに気になる。ただ、如何せん、この旧別当寺、寛文元(一六六〇)年の勧請とあって、こんな神秘的な祭りが行われるには新し過ぎる気はする。だって、本書の刊行でさえ、寛保三(一七四三)年だもん。と、ここで識者に投げようかと思ったのだが、今一つ、浮島現象を起こす大きな池をポイントとして調べていなかったことに気がついた。……おや? あれ? 何だ? ここ? 山形県西村山郡朝日町大沼? 「大沼」? 「大泥」と似てね? 旅行サイトの「山形県・大沼の浮島~国指定名勝の小島が浮遊する神秘ののページがえらく詳しい(【2023年7月31日追記:現行、以下に引いた詳しい部分が読めなくなっている。】。『湖面には複数の浮島が遊泳する、美しく神秘的な沼は、まさに秘境の名勝地で』、『湖畔にある周遊道は、南に位置する浮島稲荷神社を起点に続いており、一周約』三十分とあるから、これ「大きななる池」としては十分だぞ。『大沼はその神秘的な景観から、古くから信仰されてきた神池で』千三百『余年もの昔に、修験者によって開かれたとされ』、『歴代の領主や徳川幕府から祈願所とされ、湖畔には浮島稲荷神社が建立。湖面に静かに遊泳する浮島は、その動静から吉凶が占われたといわれ』るともある。『大沼の西側に位置する』出島(浮島ではない)は『雨請壇とも呼ばれ、その昔、日照りが続くと』、『雨乞いの祭壇が設けられ、祝詞を奉じると雨が降ったと』も言われる。ここ大沼は白鳳九(六八〇)年、『修験道の開祖と云われる役小角が発見し、同行していた弟子の覚道に、神池の守護を託したとされ』、『覚道は、湖畔に浮島稲荷神社の前身となる祠を建立し、大沼と神社の別当である大行院の開祖となったと伝えられ』る。『浮島の数は、奈良時代に僧の行基が訪れた頃には』、六十『以上もあったと伝えられ、行基は、大小様々な浮島に、日本各地の国名を名付けたと』いう。『後に大沼の地は、歴代の領主や政権の祈願所となり』、『鎌倉時代には源頼朝、戦国時代には山形の武将である大江氏や最上氏、江戸時代には徳川家の祈願所とな』った。『古来より人々は、大沼に遊泳する浮島に、自身や国の将来を重ね、幸福を祈願してきたので』あったと記す。『大沼の浮島は、西岸一帯にあるヨシの群落が元となり、岸からヨシの地下茎や根が、固まりとなって分離して生まれ』るが、今は特に『戦後の環境の変化によって、十数個に減少した』とある。『地元の方々の目撃情報』によれば、『浮島は無風でも静かに遊泳し、その場でクルクルと回ったり、複数の島が一列に並ぶこともあった』と言い、『朝夕に活発に動くとされ、湧水の流れる出島の向って右側に集まるともいわれ』、『また、まったく動かないこともあり、風の強い日は岸辺に移動していることが多い』ともある。『大沼で年に一度行われる神事に「島まつり」があり』、『この神事は』七月の第三『日曜日に行われ、大沼の湖畔から新たな島を切り出すもの』で、『新たな浮島には、浮島稲荷神社の宮司(大行院の当代)によって、その年の縁起のよい方位にある、旧国名が名付けられ』るそうである。行って見たくなった。実際の動く浮島は、短いが、映像がよい。薬師堂はない。ないが、「大沼」と「浮島」現象はとても強い比定候補地と言える(グーグル・マップ・データ)。

『其時、「寬(ゆる)々と遊び給へ」と呼〔よば〕はれば』浮島(「芝舟」)に向かってひといに呼びかけるように、である。

「少時(しばらく)、猶豫す」その声掛けを理解したかのように、少しの間、その辺りを逍遙するか、或いはそこに凝っと留まっている。

「地に癒付(いへ〔つく〕)」岸や根のある島の、さっき離れた元の場所に、あやまたず、戻って来て、元通りにぴったりと癒合する。]

諸國里人談卷之一 諏訪祭

 

    ○諏訪祭(すはのまつり)

信濃國諏訪明神は東征守護の神にて、桓武帝の時、田村將軍これを建(たつ)るなり。每年、三月七日、鹿(しか)の頭〔かしら〕七十五、供(けう)す。氏人(うぢびと)の願望にて、何方〔いづかた〕よりと極〔きはめ〕たる事なく、自然と集(あつまる)事、恆例、たがはず。まさに、一つの增減、なし。七十五の内、兩耳の切れたるかしら、一つ、きはめて、あり。それかれ、奇なりとす。

上諏訪祭神 健御名方命〔たけみなかたのみこと〕 下諏訪 祭神 八坂入姫命〔やさかのいりひめのみこと〕

上諏訪に七不思議あり。

官影(みやのかげ) 普賢堂の板壁に、穴あり。紙をあてゝ日にうつせば、下のすはの三重の塔、うつる。其間、一里なり。

社壇雨(しやだんのあめ) 每日、巳の刻に、雨ふる。

根入杉 根、八方へ、はびこる。

温泉 湯山より、おつる所の口をふさげば、湯、落〔おち〕ず。

氷橋(こほりのはし) 冬、諏訪湖、氷る時、「おみわたり」とて、狐、わたりそめて、其後、人馬、氷のうへを通路す。春、又、狐、渡れば、通ひを止(とどむる)。

鹿(しか)の頭(かしら) 祭の時、七十五頭、例年、たがはず。

冨士移ㇾ湖(ふじうつるみづうみ) 湖上に冨士の影、うつるなり。【甲斐一國をへだつ。其間に高山多く有り。】」

 すはの海衣が崎に來て見れば冨士の浦こぐあまの釣舩

[やぶちゃん注:以上は既に一度、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(5) 生贄の徴』の注で電子化している(底本が異なるので、ゼロから起こした)。リンク先の柳田國男の文章も是非、参照されたいが、当該部を以下に抜いておく。

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日本でも諏訪の神社の七不思議の一つに耳割鹿(ミミサケジカ)の話があつた。毎年三月酉の日の祭に、俗に御俎揃(おまないたぞろ)へと稱する神事が前宮(さきみや)に於て行はれる。本膳が七十五、酒が十五樽、十五の俎に七十五の鹿の頭を載せて供へられる。鹿の頭は後には諸國の信徒より供進したといふが、前は神領の山を獵したのである。其七十五の鹿の頭の中に、必す一つだけ左の耳の裂けたのがまじつてゐた。「兼て神代より贄に當りて、神の矛にかゝれる也」とも謂つて、是だけは別の俎の上に載せた。諸國里人談には「兩耳の切れたる頭一つ」とあつて、何れが正しかを決し難い。兎に角に是は人間の手を以て、切つたので無いから直接の例にはならぬが、耳割鹿で無ければ最上の御贄となすに足らなかつたことは窺はれる。或は小男鹿の八つ耳ともいつて、靈鹿の耳の往々にして二重であつたことを説くのも、斯うして見ると始めて其道理が明かになるのである。

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「信濃國諏訪明神」上社(本宮(ほんみや:長野県諏訪市中洲宮山)・前宮(まえみや:茅野市宮川)と下社 (秋宮(あきみや:諏訪郡下諏訪町武居)・春宮(諏訪郡下諏訪町下ノ原)の四宮がある。四宮の位置は諏訪大社公式サイト内のこちらの地図で確認されたい。同公式サイトの解説は、事典類のようなインキ臭いものではなく、非常にすっきりとしていて一読、なるほど、と感心させられるものなので、以下に引用させて戴く。『信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、国内にある最も古い神社の一つとされて』いる。『諏訪大社の歴史は大変古く』、「古事記」の『中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また』、「日本書紀」には『持統天皇が勅使を派遣したと書かれてい』る。『諏訪大社の特徴は、諏訪大社には本殿と呼ばれる建物が』存在しないことで、『代りに』、『秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝して』いる。『古代の神社には社殿がなかったとも言われて』いるところから、『諏訪大社はその古くからの姿を残して』いるもので、『諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神』、『また』、『武勇の神として広く信仰され』てきたとある。

「東征守護の神にて、桓武帝の時、田村將軍これを建(たつ)るなり」これは全く誤った聞書きで、古社である諏訪明神に失礼な記載である。ィキの「諏訪大社」によれば(下線やぶちゃん)、『祭祀が始まった時期は不詳。文献上は』「日本書紀」の持統天皇五(六九一)年八月の条に『「信濃須波」の神を祀るというのが初見であ』り、『古くから軍神として崇敬され、坂坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたと伝えられる』とあって、田村麻呂が桓武天皇に重用されて征夷大将軍として蝦夷征伐に出たのは延暦二〇(八〇一)年(二月十四日進発・「日本略記」には同年九月二十七日、「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とある)のことである(但し、先立つ八年前、延暦一二(七九三)年に、当時の征夷大将軍であった大伴弟麻呂(おとまろ)の副使(副将軍)として同行、蝦夷征討の従軍経験はあった)。

「健御名方命〔たけみなかたのみこと〕」ウィキの「タケミナカタ」によれば、「古事記」では『大国主神(オオクニヌシ)の御子神で、事代主神(コトシロヌシ)の弟神とする』。『しかし』、『大国主神の系譜を記した箇所にはタケミナカタの記載がないため』、『母は明らかでない』。「先代旧事本紀」の「地祇本紀(地神本紀)」では、『大己貴神(大国主)が高志沼河姫(こしのぬなかわひめ)を娶って生まれた一男が建御名方神であるとする』とある。「古事記」では彼は『葦原中国平定(国譲り)の場面で記述されている。これによると、建御雷神(タケミカヅチ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った際、大国主神は御子神である事代主神(コトシロヌシ)が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った』。『建御名方神は巨大な岩を手先で差し上げながら現れ、建御雷神に力競べを申し出た。そして建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化した。建御名方神がこれを恐れて下がると、建御雷神は建御名方神の手を握りつぶして放り投げた。建御名方神は逃げ出したが、建御雷神がこれを追い、ついに科野国(信濃国)の州羽海(すわのうみ:諏訪湖)まで追いつめて建御名方神を殺そうとした。その時に、建御名方神はその地から出ない旨と、大国主神・八重事代主神に背かない旨、葦原中国を天つ神の御子に奉る旨を約束したという』。但し、この話は「日本書紀」には『記載されていない』。

「八坂入姫命〔やさかのいりひめのみこと〕」誤まり建御名方神の妃神は八坂刀賣命 (やさかとめのみこと)で、八坂入姫命はその妹の名とされるものである。ウィキの「八坂刀売神」によれば、『記紀神話には見られない神であり、諏訪固有の神とも考えられる』とあり、『父は天八坂彦命であり』、『妹に八坂入姫命がいるとされる』ともある。但し、「入姫」と「刀賣(売)」の文字や発音はどこか近似的で、間違えてもおかしくはない。

 

諏訪湖の御神渡は、上社に祀られている建御名方神が下社の八坂刀売神の下を訪れる際にできたものであるという伝説がある。

「上諏訪に七不思議あり」「諏訪法人会」公式サイト内の「諏訪の七不思議」によれば、諏訪に古来より伝わる七不思議伝承があり、これに関わる形で、別に『七木・七石という霊木霊石があ』ったという。『これらは鎌倉末期の文献に「上社物忌令」に見えているのが最初であると』される『が、諏訪地方に於ける宗教思想の期限は』、『遠く』、『石器時代に於ける原始的』信仰にまで溯る『ことができる』もので、この七不思議とそれに関連する名数も、そうした古代信仰としての『自然崇拝、動植物崇拝、呪物崇拝等であったと考えられ』るとある。以下、そこに出る「諏訪の七不思議」を、まず、引く。

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①湖水御神渡

『諏訪湖の御神渡のことであり、湖の氷が南北に割れる、その割れた方向によりその年の富凶を知る、湖氷の御渡は上社の神が下社の女神の許に通い給うのだ』、『という信仰がある』。

②蛙狩(かわずがり)神事(上社)

『諏訪上社の正月元旦(早朝の神事、上社前の御手洗川(みたらしがわ)で元旦朝氷を割って蛙狩りをする。これは「的始め」「生贄始め」として』、『小弓で射って神前にささげる』。

③五穀(ごこく)の筒粥(つつがゆ)(下社)

『正月十四日夜より十五日暁にかけて』、『葦を束ねて米と炊けば、葦の筒の中に粥が入り、葦の中に入った五穀によって作毛の善し悪しを占う』。所謂、全国的に見られる「粥占」神事である。

④高野(こうや)の耳裂け鹿(上社)

『毎年四月十五日酉の祭りがおこなわれるが、その時集まる鹿の中に』、『必ず』、『耳の裂けた鹿がいる』。

⑤葛井(くずい)の清池(せいち)

『毎年十二月大晦日の夜半、一年中』、『上社に捧げた幣を』、『この池に投げ込めば、翌朝』、『遠州の国佐奈岐(さなぎ)の池に浮くという』。

⑥御作田(みさくだ)

『六月十日に田植えをすると』、『七月下旬』、『これを刈り取り、八月一日に神前に供することができ、六十日で実る』。

⑦宝殿(ほうでん)の天滴(てんてき)(上社)

『上社の』宝殿『はどんな干天のおりにも、水滴が落ちるといわれる。雨乞のおりにも』、『この天水を青竹に頂いて帰り、神事をすると』、『必ず』、『雨が降ると伝えられている』。

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また、ウィキの「諏訪大社七不思議」には、以下の上社と下社に伝わる七不思議、重複を除くと、十一の不思議があるとする。

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○上社版七不思議

①元朝(がんちょう)の蛙狩(かわずが)り

蛙狩神事において、御手洗川の氷を割ると必ず二、三匹のカエルが現れる(先に示した蛙狩神事そのものを指すこともある)。

②高野の耳裂鹿

御頭祭(おんとうさい)では神前に七十五頭の鹿の頭を供えたが、毎年、必ず、一頭は耳の裂けた鹿がいたという。ウィキの「諏訪大社」によれば、御頭祭は四月十五日に『上社で行われる祭』で、『現在では、鹿や猪の頭の剥製が使われているが、江戸時代に菅江真澄の残した資料に、白い兎が松の棒で串刺しにされたものや』、『鹿や猪の焼き皮と海草が串に刺さって飾られていたり、鹿の脳和え・生鹿・生兎・切兎・兎煎る・鹿の五臓などが供され、中世になると』、『鹿の体全体が供され、それを「禽獣の高盛」と呼んだという内容が残っている』とある。

③葛井の清池

茅野市・葛井神社の池に、上社で一年使用された道具や供物を大晦日の夜に沈めると、元旦に遠州(静岡県)の佐奈岐池に浮く。また、この池には池の主として片目の大魚がいるとされている。

④宝殿の天滴

どんなに晴天が続いても、上社宝殿の屋根の穴からは一日に三粒の水滴が、必ず、落ちてくる。日照りの際には、この水滴を青竹に入れて雨乞いすると、必ず、雨が降ったと言われる。

⑤御神渡

⑥御作田の早稲(わせ)

藤島社の御作田は六月三十日に田植えをしても七月下旬には収穫できたと言う。六月三十日の田植え神事そのものを指すこともある(下社の同じ名数とは厳密には違っているという)。

⑦穂屋野の三光

御射山祭(みさやまさい)の当日は、必ず太陽・月・星の光が同時に見えると言う。ウィキの「諏訪大社」によれば、御射山祭は『上社の狩猟神事。中世には年』四回、『八ヶ岳の裾野で巻き狩り祭を行い、御射山祭はその中で最も長く』五『日間続いた。青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上』、『祭典を行なうことから「穂屋祭り」の名称もある。鎌倉時代に幕府の命で御射山祭の費用を信濃の豪族に交代負担することが決められ、参加する成年期の武士(と馬)はこの祭で獲物を射止めることで一人前の武士、成馬として認められたという』。『またこの祭の起こりとして、南北朝時代の』「神道集」の「諏訪大明神秋山祭のこと」によれば、『「平安時代初期、坂上田村麻呂が蝦夷征討のため信濃まで来た際、諏訪明神が一人の騎馬武者に化身して軍を先導し、蝦夷の首領悪事の高丸を射落としたので田村将軍がとどめを刺すことが出来た。将軍がこの神恩に報いるため』、『悪事の高丸を討ち取った日を狩猟神事の日と定め、御射山祭の始めとなった。この縁日』(旧暦七月二十七日)『になると』、『討ち取られた高丸の怨霊が嵐を起こすといわれる」という伝説を伝えている。現在はこの祭はずっと小規模になっている』とある。

●下社版七不思議

①根入杉

秋宮境内の大杉。丑三つ時になると、枝を垂らして鼾(いびき)をかいて寝たという。

②湯口の清濁

八坂刀売命が下社に移る時、化粧用の湯を含ませた綿を置いた場所から温泉が湧き出したという伝承。現在の下諏訪温泉で、この湯に邪悪な者が入ると、湯口が濁ると伝えられている。

③五穀の筒粥

春宮境内筒粥殿で行われる行事。一月十四日から十五日にかけて、炊いた小豆粥で一年の吉兆を占う。

④浮島

たびたび氾濫した砥川(とがわ)にあって、決して土が流れず、無くならなかった島のこと。

⑤御神渡

⑥御作田の早稲

⑦穂屋野の三光

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而して、ウィキの「諏訪大社七不思議」では、現在、一般的な「諏訪の七不思議」は、

①御神渡

②元朝の蛙狩り

③五穀の筒粥

④高野の耳裂け鹿

⑤葛井の清池

⑤御作田の早稲

⑥宝殿の天滴

とする。とすると、以上と本文の七不思議で齟齬するのは、本文最初の「官影(みやのかげ)」という「普賢堂の板壁に、穴あり。紙をあてゝ日にうつせば、下のすはの三重の塔、うつる。其間、一里なり」というものと、最後の「冨士移ㇾ湖(ふじうつるみづうみ)」の「湖上に冨士の影、うつるなり。【甲斐一國をへだつ。其間に高山多く有り。】」で、これは孰れの内容とも近似しない(「湯山」の「湯山より、おつる所の口をふさげば、湯、落〔おち〕ず」は「下社版七不思議」の「②湯口の清濁」と親和性がある。下諏訪温泉は諏訪大社下社(春宮・秋宮)の周辺や諏訪湖湖畔に約二十軒の温泉旅館が現存し、共同浴場である「旦過(たんが)の湯」の源泉は鎌倉時代に寺湯として使われた歴史があることから、開湯はそれ以前と考えられている(ここはウィキの「下諏訪温泉に拠った)。この「湯山」というのははっきりしないが(東北に丸山という山はある)、地上にちょろちょろと湧き出ているその山の湯口を塞ぐと、温泉全域の湯が止まってしまうというのであろう)。前者が今に伝わらないのは腑に落ちる。その「普賢堂」なるものが、最早、存在しないからである。現在の諏訪大社上社には嘗て神仏習合時代、戦国時代までは元別当寺の神宮寺があって(社伝によれば空海の創建とする)、本宮の周囲に大坊・上ノ坊・下ノ坊・法華寺の上社四寺のほか、多くの坊があって、普賢堂・五重塔・二王門といった伽藍もあったことが絵図によって判っている。私が非常にお世話なっている、s_minaga 氏のサイト「がらくた置場」の「信濃諏訪大明神神宮寺(上宮神宮寺・下宮神宮寺)」にある絵図で見ると、普賢堂は、この絵図上では、障害物なく、五重塔のすぐ左手に描かれてあるから、一里隔たっていても、ピン・ホール・カメラの原理で映って、なんら、これ、不思議ではない。なお、後者は、湖面に映らないまでも、諏訪湖湖岸(北西岸)からは九十八キロメートル弱離れた富士山が実際に見えるのである。葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「信州諏訪湖」にもはっきり遠景に富士が描かれている。Hajime HAYASHIDA 氏のサイト「富士山のページ」の諏訪湖から見る富士を見られたい(実写真の他、歌川広重「富士三十六景 信州諏訪之湖」や渓斎英泉の「木曾街道六十九次 塩尻嶺 諏訪ノ湖水眺望」も見られる)。

「すはの海衣が崎に來て見れば冨士の浦こぐあまの釣舩」秋里籬島(あきさとりよう)の「木曾路名所圖會」(文化二(一八〇五)年版)の巻之四の「須波乃湖(すはのうみ)」のら(早稲田大学図書館古典総合データベース画像)の右頁末)に出る一首。その本文に若桜宮天皇(誰これ?)御製とも弘法大師作ともする怪しげなものである。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 キンコダイ (チカメキントキ?)

 

Kinkodai

 

キンコダイ

 

Kinkodai2

 

奇鬣 キンコダイ

   又云クニシマ魚

   其魚極小而又

   彩美麗可愛

   覩者蓋奇品

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。別々に挙げるつもりであったが、よく見ると、これは色違いで酷似した魚体であること、しかも「キンコダイ」という同名のキャプションがつくことから、並べて出した。原本でもリンク先を見て戴ければ判る通り、上下に並べてある(但し、貼り込みで二枚は別に描かれたものである)。

 下の図のキャプションはちと悩ましい。二行目の「又云クニシマ魚」が『又、云(いふ)、「クニシマ魚」なのか『又、云(いは)く、「ニシマ魚」』なのかが判らぬことである。今までの翻刻体験から、丹洲ならば、そうした誤読を避けるために「ク」は小さく右に書くように思うので、私は「クニシマウヲ」と採りたい気はしている。孰れにせよ、「クニシマウオ(或いはクニシマダイ)」も「ニシマウオ(或いはニシマダイ)」も現在の生き残っていないので同定の役には立たない。

 さて、当初は共通の「キンコダイ」から、「キダイ」(スズキ目スズキ亜目タイ科キダイ属キダイ Dentex hypselosomus)の幼魚を考えたのだが、どうも真正のタイっぽくなく(本魚譜はやたらに「~タイ」とキャプションするが、実は真正のタイ科 Sparidae の魚は極めて少ない)、およそキダイとも思えない。そこで考えたのは鰭である。二枚目の図にはわざわざ「奇鬣」(「鬣」は本来は「たてがみ」であるが、丹洲は「鰭(ひれ)」の意で用いており、私は過去「きひれ」と自分の中で訓じている。因みに「鬣」は音は「リョウ」である)と書いている点である。見た目、それほど今までの図の鰭と変わった感じを覚えないのであるが、わざわざ丹洲がこう書く以上は、よほど、他の魚とは異なった奇体な鰭であったと考えねばならない。敢えて「鬣」の意を限定的に採るならば、これは背鰭が「奇」体なものであったということになろうか(私は実際には他の鰭も含めて「奇」と言っているのではないかと実は思っているのだが)。そうとるなら、この二匹の背鰭は、基部やや上に赤い連続する円紋が後ろまで棘条間に続いているのが「奇」と言えば奇である。翻って、ネットで検索をかけてみると、「キンコダイ」という呼称で引っ掛かるものがある福井県水産試験場公式サイト福井県魚類図説に、『キンコダイ(田鳥)』とある(但し、この「田鳥」は「田烏」(たがらす)の誤りではないかとちょっと思っている。田烏なら(グーグル・マップ・データ)だが、「田鳥」は見当たらないからである)。しかしてこれは、

スズキ亜目キントキダイ科チカメキントキ属チカメキントキ Cookeolus japonicus

である(一属一種)。リンク先の写真を見た人は、「ゼッタイ、違う!」と叫ぶだろう。真っ赤だからな。しかし、どうもこの丹洲の描いた魚をいろいろ考えてみて、ネットの魚画像の森を彷徨してみると、ついつい、この画像に戻ってしまう自分がいるのである。それは本種の画像のどの鰭もが、このチカメキントキ君は、如何にも「奇鬣」だからである。本種は背鰭は言うに及ばず、実は決定的なのは腹鰭が大きくてその鰭膜が黒いことであるが、丹洲の絵では大きくは描かれていない。しかし、二枚目のそれには腹鰭の部分に有意に黒い線が引かれているのがはっきりと判るのである。

 チカメキントキの今一つの特徴は体高が高く、頭長さより大きいことであるが、控えめながらそれはクリアーしているように思われる。最大の問題は体色なのであるが、今までも丹洲が色を正確に描いていないことは何度も見てきたから、実は私はあまりその相違を重く捉えていないのである。

 さらに言えば、珍しく丹洲がキャプションで感覚的なことを記している点が気になるのである。則ち、「其の魚、極く小さくして、又、彩(いろどり)、美麗」とし、「覩(み)」るに愛すべき者」(推定訓)であって、「蓋し奇品なり」と言っている点である。「可愛」はまず丹洲の感想としては特異点と言ってよい。そうして実際のチカメキントキの写真を見ると(個人の趣味の問題ではあるが)、これは「奇鬣」であり「其魚極小而又彩美麗可愛覩者」「蓋奇品」と評するに相応しいと思うのである。この推定同定は恐らく賛同者は少ないと思う。「これはこれだよ」と別な種を示して戴ける方の御教授を俟つものである。]

菊岡沾凉「諸國里人談」始動 / 諸國里人談卷之一 和布刈

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集」に於いて菊岡沾凉の怪奇談集「諸国里人談」を始動する。

 「諸国里人談」は作家菊岡沾涼(せんりょう)が寛保三(一七四三)年に刊行した怪奇談への傾きが有意に感ぜられる百七十余話から成る俗話集。半紙版二冊本で全五巻で、神祇部に始まり、釈教・奇石・妖異・山野・光火(こうか)・水辺(すいへん)・生植(せいしょく)・気形(きぎょう[やぶちゃん注:本文ルビは「ききやう」。])・器用部の類別部立てとする。後発の諸怪奇談集には本書を引用するものが頗る多く、そうした意味で、江戸後期の諸怪奇談蒐集本や創作怪談集の形成に大きな影響を与えた随筆作品の一つと言ってよい。

 菊岡沾凉(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)は江戸中期の俳人で作家。伊賀上野の生まれ。諱は房行、通称は藤右衛門、別号を米山(べいさん)・南仙などと称した。ウィキの「菊岡沾凉」によれば、『祖父伝来の婦人薬女宝丹』(「にょほうたん」と読むか)、『二日酔い薬清酲散』(せいていさん)『を販売して生計を立てる傍ら、内藤露沾門』(陸奥磐城平藩の世嗣であったが、奇体な家内のごたごたによって父から廃嫡された(一時は幽閉されている)。第六代藩主(後に日向延岡藩の初代藩主)内藤政樹の実父。俳人としては芭蕉や其角らと親しく交遊した)『下で俳諧を学び、江戸座で精力的に俳諧活動を行った。しかし、露沾の死後』、『俳壇で孤立し、後世には寧ろ』、「江戸砂子」(享保一七(一七三二)年五月刊)を始めとする地誌(「江戸砂子」はムック本のような江戸観光案内書として非常な好評を得、享保二〇(一七三五)年にはそれを追補する形の第二弾「続江戸砂子」が「新板江戸分間(ぶんけん)絵図」(測量に基づくデータに絵画的表現を取り入れた地図)附き(総て沾凉自身の手に成る)を板行している)と、本書や「本朝世事談綺」(享保一九(一七三四)年)といった『説話集の著者として名が知られる』。『伊賀国阿拝郡』(あはいぐん/あえぐん)『上野城下本町筋中町(三重県伊賀市上野中町)』で『造り酒屋清洲屋飯束瀬左衛門政安(法号三悦)の四男として生まれた。飯束家時代は勘左衛門と名乗った。まもなく、嫡子がいなかった母方の親戚にあたる福居町菊岡行尚の養子となり、名を房行とした。『元禄一二(一七九九)年、『行尚に実子が生まれると、分家して江戸に下り、藤右衛門と名乗った。住所は神田鍛冶町一丁目藍染川北側で、現在の千代田区鍛冶町二丁目』二『番地北部及び』六『番地に当たる』。『元禄年間の内に、芳賀一晶に師事したが、間もなく一晶は俳壇から離れたため、内藤露沾に師事し』、享保二(一七一七)年)『初冬、絵俳書』「百福寿」に参画、『三世立志とも接近し、江戸座において歳旦集に入句し』ている。享保五(一七二〇)年『頃、露沾から一字を賜り』、『沾涼と号した』。享保一二(一七二七)年三月十七日には『湯島天満宮で万句興行を主催し、 宗匠として立机した』。しかし、享保一八(一七三三)年の『露沾の没後、後継者貴志沾洲が譬喩』(ひゆ)『俳諧を行ったため、枯淡を基調とする』彼の『俳風から』、『江戸座の中で孤立していった』。享保十七年五月に「江戸砂子」を刊行、『これが評判を呼んだ』。この間、沾洲グループと激しい論争を繰り返し、孤立化は深刻となった。『晩年は俳諧紀行の旅で得た見聞を基に地誌や綺談説話集を著して過ごした。沾洲派の譬喩俳諧が批判され、松尾芭蕉回帰の運動も起こったが、これにも参画することはなかった』。『辞世は「葉は茎はよし枯るとも薄の根」』である。

 底本は「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」内の三種の同書があるが、この内、最も古いものが寛保三(一七四三)年版(版本)(こちら。①とする)、次が同じく版本の寛政一二(一八〇〇)年版(こちら。②とする)なのであるが、原本の経年劣化と撮影の諸条件から、画像自体が甚だ暗く、私には判読し辛い。ところが、最も新しいが、安政五(一八五八)年の山本氏による写本は保存状態がよく、明度が非常に高い(こちら。③とする)。そこで③を基礎底本とし、①(必要ならば②とも)と校合しつつ、本文を電子化することとする。因みに、私は活字本を昭和五〇(一九七五)年吉川弘文館刊「日本随筆大成」第二期第二十四巻で所持している(底本は奥書から②の版と同一のものである)。しかし、これは漢字が新字体であるので、この本文をOCRで取り込み、加工用の基礎データとして利用させて戴いた。

 ①~③を校合した際、原典の崩し字で字体に迷ったものは正字で表記した。原典にはかなりの量の読み(ルビ)が附されているが、私が必要と判断したものだけに留めて何時も通り、( )で後に附した。送り仮名が含まれているもの(例えば、以下の「門司(もじが)關早靹(はやともの)明神」の「が」「の」)は必ず採った。また、原典にないが、読みを補った方がよいと私が判断した箇所には、私が歴史的仮名遣で推定の読みを〔 〕で補った(因みに、吉川弘文館随筆大成版はルビが全くない、非常に不親切なものである)。なお、読み易さを考えて句読点や諸記号を附した。それは吉川弘文館随筆大成版を一部で参考にさせては貰ったが、基本、私のオリジナルである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。割注は【 】で示した。一部で清音表示を確信犯で濁音化したが、それはいちいち断らなかった。

 今までのブログ・カテゴリ「怪奇談集」の今までの仕儀通り、私のオリジナル注を附す。序と目次(原典では各巻冒頭にそれぞれの巻の目次が置かれてある)は最後に電子化する。【2018年5月29日始動 藪野直史】

 

諸國里人談 卷之一   菊岡米山翁著

 ㊀神祇(じんぎの)部

    ○和布刈(めかり)

豐前國門司(もじが)關早靹(はやともの)明神の宮前(きうぜん)は海なり。是〔これ〕に石の階(きざはし)あり。常に二十階(かい)ほどは水中に見えて、その先はしらず。每年十二月晦日の子〔ね〕過〔すぎ〕、丑の剋(こく)の間に社人、宮殿の寶劔(ほふけん)を胸にあてゝ、石階(せきかい)をくだりて海中に入る。其時、潮(うしほ)、左右へ「颯(さつ)」とひらけり。海底の和布〔め〕を一鎌、かりて、歸るなり。もし、誤(あやまつ)て二鎌かれば、潮に溺るゝの難あり。此時は社頭・民家の燈(ともし)火、海上、掛り舩〔ぶね〕の火、ことごとく、これを消(けす)なり。その剋限の前〔まへ〕、半時ばかり、浪、大きに立〔たち〕て、海、あらし。海底(かいてい)に入らんずるとおもふころ、しばらく、浪、しづまりて、又、前のごとく、半時が程は、海、あるゝ也。元朝、件(くだん)の和布を神前に備ふ。又、帝都へも奉るなり。是を「和布刈〔めかり〕の神事」といふ。○當社は龍神の屬(ぞく)にして、神功皇后(じんぐうこうぐう)三韓退治の時、干珠(かんじゆ)滿珠(まんじゆ)を持來りて、舩を守護し玉ふ也。その頃、皇后、孕(みごも)らせ給ふなれば、「軍の中に降誕(こうたん)あらば、いかゞならん」とわづらはせ給ふに、此神、和布を獻じすゝめ給ふに、三とせを經て、征伐し給ひ、歸朝の時、筑前の箱崎にて、御降誕ありける。應神天皇、是なり。此和布を食する者は万病を治(ぢ)す。疫瘧(やくぎやく)は立所に癒(いゆ)。可ㇾ貴〔たふとむべし〕。

[やぶちゃん注:「和布刈(めかり)」三字遍へのルビ。「和布」二字を「め」と読む。これは現在の福岡県北九州市門司区門司(関門トンネルの九州側の端に当たる。ここ(グーグル・マップ・データ))にある和布刈(めかり)神社で行われる奇祭「和布刈神事」(めかりしんじ)である。ウィキの「和布刈神社」に、『神社名となっている「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われる』。和銅三(七一〇)年には『神事で供えられたワカメが朝廷に献上されているとの記述が残って』おり、現在、この神事は『福岡県の無形文化財に指定されている』とある。因みに、この神事、私には中学生の頃に貪るように読んだ松本清張の一作、「時間の習俗」以来、耳馴染みの神事である。私は行ったことがないのだが、壇ノ浦に面した海岸に鳥居が建っており、そこから石段が社殿に向かって延びているのがネット上の写真で確認出来る。「和布刈神社」公式サイトによれば、『和布刈神事は、神社創建以来続いた神事で、神功皇后が安曇磯良』(あずみのいそら:伝承上の古代の精霊の名とされる。貝や藻や海産生物が付着した容貌をしているとする。実際には中世以降の説話に登場するが、「太平記」によれば、ここで語られる通り、神功皇后が三韓に出兵する際に竜宮へ使者として参り、潮の干満を操ることが出来る干珠(かんじゅ)・満珠(まんじゅ)の宝玉を持ち帰ったとする。海人(あま)を統率した安曇氏の祖とされ、阿度部(あとべの)磯良ともいう。ここは講談社「日本人名大辞典」に拠った)『を海中に遣わし、潮涸珠』(しおふるたま)『・潮満珠』(しおみつたま)『の法を授けた遺風とされている。毎年冬至の日に和布(わかめ)繁茂の祈念祭をもって始まり』、『旧暦十二月一日には松明を作り』、『奉仕の神職は一週間前から別火に入り』(日常の穢れたそれではない、異なった火、神聖な別な火、神聖な儀式に則り、神聖に道具で鑽(き)り出したところの「神聖なる火」の意。ここは、そうした特殊な火を以って調理したものだけを口にすることによって、潔斎するとともに、神人共食に近い状態に持ち込むことで、神に直接特別に奉仕するための準備をするの意。極めて古形の神式に基づくものである)、『潔斎を行う』。『旧暦一月一日午前三時頃』、『神職三人は衣冠を正し』、『鎌と桶を持ち』、『松明で社前の石段を照らして下り』、『退潮を追って』、『厳寒の海に入り』、『和布を刈る』。『これを特殊』な『神饌(福増・歯固・力の飯』(それぞれ「ふくそう」「はがため」「ちからのい)」と読む。孰れも「福を増す」「健康な堅固な歯を養う」「稲霊(いなだま)の力を持った霊飯」と、一年の豊穣祈願・延命長寿を願う予祝神饌である)『)等の熟饌と共に神前に供えて祭典を行い』、『明け方近くに』直会(なおらい:神事の最後に神饌として供えものを下ろし、参加者で戴く行事。古来からの神人共食の大切な儀式である)を以って『全ての行事を終る。昔は刈り取った和布を朝廷や領主に献上していた。また、和布は神の依り代ともされ』、「陽氣初發し、萬物萌え出づるの名なり。その草たるや、淡綠柔軟にして、陽氣發生の姿あり。培養を須ひずして自然に繁茂す……」『と、万物に先駆け』、『自然に繁茂する非常に縁起の良いものであると伝えられている』とある。

「海上、掛り舩」「海上」の「繫かり船」で、海上に停泊している船のこと。

「當社は龍神の屬(ぞく)」龍神を祀る、龍宮の眷属、支社の意であろう。

「神功皇后(じんぐうこうぐう)三韓退治」ウィキの「三韓征伐」より引いておく。『夫の仲哀天皇の急死』(二百年)『後、神功皇后が』その翌年から二六九年まで『政事を執り行なった』が、仲哀九(二〇〇)年三月一日、『神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神の神託で再び』、『新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま』、『海を渡って』、『朝鮮半島に出兵し』、『新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという』。『渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当てて』、『さらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた』という。『月延石は』三『つあったとされ、長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納』されたとし、『また、播磨国風土記逸文には、播磨で採れた顔料の原料である赤土(あかに)を天の逆矛(あまのさかほこ)や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊の管川(つつかわ)の藤代(ふじしろ)の峯に祭ったとある』。『皇后は帰国後、筑紫の宇美』(うみ)『で応神天皇』『を出産し、志免』(しめ)で襁褓(おしめ)『を代えた。また、新羅を鎮めた証として旗八流を対馬上県郡峰町に納めた(木坂八幡宮)』。『神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという』。以上が「古事記」「日本書紀」に『共通する伝承の骨子であり』、「日本書紀」には、『新羅に加えて高句麗・百済も服属を誓ったこと、新羅王は王子を人質にだしたことが記される』。神功皇后摂政五年(二〇五年又は三二五年)年三月七日、『新羅王の使者として、汗礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らが派遣され、人質として倭国に渡った微叱旱岐(みしこち)の妻子が奴婢とされたので返還を求める』、『としてきた。神功皇后はこの要求を受け入れ、見張りとして葛城襲津彦』(かつらきのそつひこ)『を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され』、『微叱旱岐に逃げられた。怒った襲津彦は、毛麻利叱智ら三人の使者を焼き殺し、蹈鞴津(たたらつ。釜山南の多大浦)から上陸し、草羅城(くさわらのさし。慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜を連れ帰った。このときの捕虜は、桑原、佐備、高宮、忍海の四つの村の漢人の祖先である』とする。

「筑前の箱崎」記者である菊岡沾凉は恐らく現在の福岡県福岡市東区箱崎附近を指していると思われる(ここ(グーグル・マップ・データ))が、応神天皇の出生地としては、前注に出した福岡県糟屋郡宇美町又は筑紫の蚊田(かだ:筑後国御井郡賀駄郷或いは筑前国怡土郡長野村蚊田)で生まれたとされ(ウィキの「応神天皇」に拠る)、また、ウィキの「三韓征伐」には、壱岐市芦辺町箱崎諸津触にある赤瀬鼻での出産説が挙げられており、『神功皇后がここで応神天皇を出産し』、『その血で岩が赤く染まったとされる』ともある。

「疫瘧(やくぎやく)」狭義には悪性の流行り病いのことであるが、諸病でよい。]

2018/05/28

御伽百物語卷之六 福びきの糸 / 御伽百物語全電子化注~完遂

 

   福びきの糸

 

Hukubikino

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。本図は二枚あるが、最終話は楽屋落ち的な特異な構成を持っており(その区切れは原典では続いていて戸惑うので、例外的にアスタリスク三点を挿んだ)、これは全く別な絵で、原典の図の配置も完全に離れている(ここでもそうした。ただ、一枚目の絵はどうもこの話の挿絵としてはピンとこない。有り得るとした内侍所の参詣ぐらいしか合わないが、だとしても、何をどう描いたのか、全くの的外れの絵である。まあ、右手上方の二人が主人公の男女ということだろうけれどね)。なお、短歌・漢詩・詞書きの前後は一行空けた。]

 

 戀にさまざまの道あり。見そめて戀ふるあり、聞きてしたふあり、馴れておもふあり、繪によりて人をもとめ、草紙よみてうらやみ願ふあり、神に祈り佛にうつたへ身を捨ても逢はん事をおもふ。誠にかぎりなき欲によりて、かぎりある命を投げうつたぐひも、おほかり。さるが中に珍らしき宿世(すくせ)あり、あひがたき人に逢ふためしには、かならず、先づ、文正(ぶんしやう)がむかしをぞ引き、そのほかには猿源氏(さるげんじ)ひき、人鉢(ひとはち)かづき、うつぼの俊蔭(としかげ)が娘など、いにしへの文(ふみ)にも、たぐひなきものに思へばこそ、かくは記して置きけめ。

[やぶちゃん注:「文正(ぶんしやう)」「文正草子(ぶんしょうのそうし)」。作者未詳の室町時代の御伽草子。鹿島大明神の大宮司の下男である文太(後に文正)が塩売りをして長者となり、大納言にまで出世する庶民立身譚。

「猿源氏(さるげんじ)」「猿源氏草紙」。江戸の寛文年間(一六六一年~一六七三年)に大坂心斎橋の書肆渋川清右衛門が『いにしへのおもしろき草子』を選んで「御伽文庫」とシリーズ名をつけて板行した全二十三編中の一つ。室町時代の成立で作者未詳。「鰯賣り」と題した古写本もある。内容は鰯売り猿源氏が和歌連歌の歌徳により、五条東洞院の傾城「蛍火」との恋を遂げて立身出世する、という「源氏物語」の庶民版パロディ。

「人鉢(ひとはち)かづき」「鉢被(はちかづ)き」。室町時代の御伽草子。作者未詳。母の臨終に鉢をかぶせられた備中守藤原実高の姫が、継母に憎まれて家出し、山蔭の三位中将の風呂番をするうち、その末子の宰相殿と相思の仲となり、嫁比べの前夜、鉢がとれて金銀宝物を得て幸福に暮らす話。継子物に長谷観音の霊験譚を絡ませたもので、所謂、「シンデレラ」型説話である。「人」はヒロインが鉢を被るから添えたものか。

「うつぼの俊蔭(としかげ)が娘」平安中期の九七〇年代頃に成立したとされる「宇津保物語」。作者は源順(したごう)とする説が有力。清原俊蔭・その娘・藤原仲忠・犬宮(いぬみや)の四代に亙る霊琴に纏わる音楽霊験談と、源雅頼の娘の貴(あて)宮を主人公とする皇位継承譚が絡み合って展開する。琴の物語が伝奇的であるのに対し、貴宮の物語はさまざまな求婚者の描写や「国譲(くにゆずり)」の巻の政争の記述などに於いて写実性が顕著である。書名は、発端の「俊蔭」の巻に仲忠母子が木の空洞(うつほ)に住むシークエンスに因む。]

 

 それが類(たぐひ)とはなけれど、花洛(くわらく)にも此ごろ、有りがたき戀せし幸人(さいはひびと)ぞある。

 富松(とまつ)何某(なにがし)といふもの、獨りのむすめを持てり。父母の慈みふかく、ひたすらにおさなきより、手かき物、よませ、糸竹(いとたけ)の態(わざ)にも、おほやう、心ゆくばかり、學ばせ、少し物の心わきまふる比(ころ)にもなりぬれば、

『今ははや、いかなる方にも、さそふ水あらば、よしある人の手に。』

とおもひ居たり。

 此むすめ、又、かたち・心ざま、いとやさしく、情もふかく、餘(よ)の人にも似ず、心ある生れなりしかば、其比のもてはやし草(ぐさ)になりて、知る、しらぬ、心を通はし、情を挑(いど)まざるは、なかりけり。

 されど、此むすめ、何をおもひ入れ、いかに心に染(そ)みけるにや、露ばかりも、はかなき戲れをだにせず、物の心しり顏に、明かし暮しつる程に、十といひて五つもや餘りけん、異人(ことひと)には難面(つれな)きものに思はれたれども、流石、また、露(つゆ)心なきにしもあらで、移り行く年も、はや暮れ行く空の、春に立ちかはる、節分とて、我も人も、北にむかひ、南にあゆみ、禁中の御神樂(みかぐら)・六角・天使など、心(こゝろ)々によき年をとるべく、願ひて、いさみたつに、此父母もむすめを連れ、

「いざや、年とりてよ、大内(おほうち)は世にめでたきかたにこそあれ。あやかりてよきさいわひの年にもあへ。」

と、諸共(もろとも)に、うちむれたる人の中、をし分けつゝ、程なく内侍所(ないしどころ)の廣前(ひろまへ)にいりぬ。

[やぶちゃん注:「六角」恐らく、現在の京都市中京区堂之前町にある天台宗紫雲山頂法寺(とうほうじ)のことであろう。本堂が六角形であるため、一般に「六角堂」の通称で知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「天使」恐らく、現在の京都市下京区にある五條天神社であろう。通称を「天使の宮」「天使社」と呼ぶ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「年をとる」後で「年とりてよ」とか、「年とりにと出るが、これは新年を迎えたことを祝って行う寺社などへ参詣する儀式のこと。大晦日や節分に行われた。

「内侍所(ないしどころ)」内裏で「三種の神器」の一つである神鏡を奉安する場所。女官の内侍が守護したところから、この名がある。「賢所(かしこどころ)」とも称する。神鏡の実物は伊勢神宮に祀られている(ということになっている)が、これを模して造ったレプリカが天皇の身辺近くに奉安されていた。江戸時代は春興殿(しゅんこうでん)に置かれてあった。]

 

 かゝる人ごみの中といへども、あひあふえにし[やぶちゃん注:「相ひ逢ふ緣」。]とて、此富松が家にむつまじう行きかよひ、常にうらなく[やぶちゃん注:隔てなく。]語りける冥合(めいがう)といふ書生ありけるが、是れも、年とりにとて、此庭に參りて、思はず、此むすめと立ちならびて、共にふしおがみけるを、兼て此むすめ、心にしめて、冥合をたぐひなき者に床(ゆか)しく思ひ居たりしに、かゝる折から、娘、さとく、

『それよ。』

と見とがめ、少し袖をひかへ、何とはしらず、袖より袖に、いるゝ物あり。

 冥合もまた、心なきにしもあらず、明暮れ戀したひつゝありけれど、人めの關(せき)の隙(ひま)なければ、此三とせばかりも埋火(うすみび)の下(した)にのみ、こがれたる色ながら、それとだに打ち出でて、ゑいひも出でざりけるに[やぶちゃん注:「え言ひも出でざりけるに」の誤り。]、不思議のよすが[やぶちゃん注:「緣」「便」。たよりとしするに足る事態。]嬉しく、殊にむかふる年の始め、

『さいわひよし。』

とおもひつゝ、ひとり笑みして歸りて後、袖にいれられたりし物をとり出だして見れば、白きうすやうにかきたる、

 

   けふこそはもらしそめつれおもふ事

   またいはぬ間の水くきのあと

 

とかや、いと小さく書きて引きむすびたり。

 冥合も、もとより戀わたりけれども、かく双戀(もろごひ)に見たれけりとはしらざりければ、今さら、道ゆく人の足もとに金(こがね)ひろいたらんやうに、飛びたつばかり、うれしさも身にあまりて、

 

   見こもりの神にや君もいのるらん

   戀ときくより我もうれしき

 

など思ひつゞけて、折ふしの行きとぶらひける序(ついで)、ことに、何よりも猶、心とめて互に花薄(はすゝき)、みだれあふべき折をうかゞひける程に、あらたまの春の日かげ長閑(のどか)に明けわたる朝(あした)は、きのふにも似ず、ありあふ人も骨牌(かるた)・ほう引きと、賑ひわたるにつきても、

『彼(か)のいひかはせし詞(ことば)のすゑ、いかに。』

と、先づ、心にのみかゝりて、富松かたへ行きけるに、こゝには、人々、あまたこぞりて、何やらん、大ごゑに笑ふ音(おと)す。

『こは、何事をわらひ給ふぞ。』

と、奧のかたをさしのぞくに、物ひとえ隔てゝ、内より、帶のやうなるものをあまたの人のまへに投げいだすに、めんめんに、是れを、ひきしろひて取り、勝ちたる物を一筋づゝ引きいだして取る時、その帶の端に、何にても、かならず、括り付けたるものありて、それをめんめんの得物(えもの)とする事なり。

[やぶちゃん注:「見こもりの神」「見こもり」は「水籠もり・水隱り」(上代語で原義は「水中に隠れること」であるが、ここは「心に秘めていること」の意であろうか。

「ほう引き」「寶引き」。室町から江戸時代にかけて正月に行われた福引きの一種。数本の細い繩を束ねて、その中のどれかに橙(だいだい)の実又は金銭などを結び附けておき、それを引き当てた者を勝ちとした。

「ひきしろひて」「引きしろふ」互い引っ張り合う、或いは、強く引く、の意。]

 

 されば、是れにも、幸ひある人は、錢(ぜに)や雜紙(ざつし)・頭巾・碁盤など引きとる物あり。

 さもなものは紙雛(かみびな)・双六(すごろく)の筒(とう)火吹竹(ひふきだけ)やうのものを引きとりて、恥(はづ)かしがるを笑ふなりけり。

[やぶちゃん注:「さもなもの」そこまで運がついていない者。

「双六の筒」双六をする際に骰子(さいころ)を入れて振る筒(つつ)のこと。]

 

 冥合も、おかしさに、

「いで。我も引きて心みん。」

と、手にあたりたる帶一すじ取りて引くに、かた、引けず。力を出だしてひくに、引きしぼりたるばかりにて、猶、ちつとも、引きとらず。

 身をよりて引くに、すこしは寄るやうにても、ひかれぬを、そばなる人、わらひつゝ、

「是れは、例(れい)の柱にゆひ付けてある帶なるべし。さきざきの人もかゝる事にて、手をとりたる物を。」

と、こけまどひて笑ふ。

[やぶちゃん注:「例(れい)の柱」大黒柱か。

「さきざきの人」前(今まで・過去)に挑んだ人々。

「かゝる事にて、手をとりたる物を」「この牽けども引けぬとんでもないそれを引き当ててしもうて、大いに手古摺った挙句、諦めてしもうたものやに。」。]

 

 冥合も、今はせんかたなくて、

「さらば、柱か、見ん。」

と物の隙(ひま)よりさしのぞけば、彼のむすめ、帶のはしをとらへてあなたへとひく也けり。

 嬉しさは限りなけれど、夫(それ)も人めのやるかたなくて、心に答へ、目にやくそくして、しばらく、其座を繕ひ、

「實(げ)に。これは柱にてありけり。」

などと空しらずして、物のまぎれより、忍び入るも、わりなし。

 娘も、いまだかゝる添臥(そひぶし)したる身にしあらねど、宿世の緣(えにし)とかいふ物に催され、早(はや)疾(とく)より戸口に待ちつけて、いとうれし氣(げ)なりけるを、冥合も、

『此珍しき逢瀨をゆるしぬるは、そも如何なる神のむすびそめし下紐(したひも)ぞ。』

と、ありがたき事におもへば、

 

   かたおかの森のしめなはとくるより

   長くとだにもなを祈るかな

 

といひかけゝるに、をんなも、はぢらひながら、

 

   我はたゞ來ん世のやみもさもあらばあれ

   きみだにおなじみちにまよはゞ

 

など、はかなげにひさして、いたく恥かし、とおもひたる氣粧(けはひ)もいとほしくて、かりなる手枕(たまくら)に、來し方の恨(うらみ)を晴(はら)し、一夜に千世(ちよ)のちぎり絶(たへ[やぶちゃん注:ママ。])ずなど、むつ言(ごと)の數も盡(つき)ねども、よしよし、あかでこそ、またの夕暮れもまたるれ、せき守人(もりびと)めに怪しまれなば、佐野の舟橋(ふなはし)とりはなれたる中(なか)となりなん。

[やぶちゃん注:「佐野の舟橋(ふなはし)とりはなれたる中」「中」は「仲」。「万葉集」巻第十四(三四二〇番)の、

 

 上つ毛野(かみつけの)佐野の舟橋(ふなはし)取り離し親は離(さ)くれど吾(わ)は離かるがへ

 

及びそれを下敷きとした複式夢幻能「船橋」に掛けたもの。「舟橋」は舟を複数繋いで上に板を渡した仮作りの橋のこと。「がへ」は終助詞「かは」の訛り。強い否定を含んだ疑問。]

 

 はてはては、名(な)にながれてや、はつべきなどゝ、まぎらはし、なだめて出づるを、女はうしと思へるさまにて、

 

   心にもあらぬ月日はへだつとも

   いひしにたがふつらさならずば

 

となん、手ならひのやうにかけるを見て、

 

   すゑまでもなをこそたのめ夕だすき

   かけしちぎりは世々にくちめや

 

など、かへすがへす、慰めて出でぬ。

 かくて、行きかよひける程に、其年もなかばたつ秋の名にあふ月もてあそばんとて、富松が家に友をまねく事ありしに、冥合もその人數にありて出でたりしが、其夜は殊に月のひかりもいつより冴へまさりて、あづさ弓やしまの外(ほか)も曇りなく見ぬ唐(もろこし)の洞庭の暮も胸の中にうかみて、など、各(おのおの)いひあへるにも、我のみ、おもひ、くまあるものから、先づ、おもかげぞさやかにたてり、

 

   いとゞしくおもかげにたつこよひかな

   月を見よともちぎらざりしに

 

とおもひつゞけらるゝも、くるし。

 かくて、夜も更け行くに、酒もくみかさねて、みなみな、醉いふしたるに、主(あるじ)の富松、さかづきをもちて、いまひとしほなど、しゐて、さしける序(ついで)、

「是れをさかなに。」

と、いひてさしよせたる硯ふたに、

 

   池水(いけみづ)にこよひの月をうつしもて

   こゝろのまゝに我がものとみん

 

とかきて、かたはらに、『庭のをみなへし色こくなりにたり、今は一もとの花をゆるし參らせてん』とあり。

 冥合、

「さ。」

と、心とゞろきて、うれしさの餘り、又、さかづきをかたぶけつゝ、壻(むこ)しうとのむすびをいひかはせば、

 

   千とせまでおもかはりすな秋の月

   おひせぬ門(かど)にかげをとゞめて

 

など、よろこびの數をかさね、千世よろづ代のすゑ、くちず、めでたき妹背(いもせ)とぞなりにける。

[やぶちゃん注:「ひとしほ」「一鹽」。酒の肴としても盛り塩を今一杯に掛けたもの。]

 

   *   *   *

 

Otogi100endo

 

 かくて、物語も、はや、九十九におよび、今一つにて百におよぶといふころ、俄に家鳴(やな)りし、風すさまじく吹きおちて、一筋の灯(ひ)の、心ぼそく、ちらめき[やぶちゃん注:ちらちらと揺れて消えかかることであろう。]、そこらあたり、物音の、

「ひしひし。」

とひゞきわたるに、

「扨は、化物(ばけもの)の出づるなるべし。始めよりいらざる物といひしに。」

などと、肝膽(きもたましい)も身にそはず、ちりぢりに逃げかくれ、息をもたてず居たりけるに、案に違(たが)はず、其たけ、一丈ばかりもあらんとおもふ、四方髮(ほうがみ)の侍、大小をさし、肩衣袴(かたぎぬばかま)、りゝしく着こなし、天井より、

「ゆらり。」

とおりて、人々の居ならびたる中へ罷り出で、何とも物いはず、ふところより、何やらん、取りいだしけるを見れば、一間(けん)の机一脚と、硯箱を出だし、また、左の袖より、五尺ばかりもあらんと見ゆる、屛風の白張(しらばり)なるを出だし、人中(ひとなか)に引きひろげて、ながめ居たり。

[やぶちゃん注:ここが本「御伽百物語」のコーダで、最初の百物語の開始のシークエンスに戻って繋がり、綺麗な額縁構造を成しているのである。御伽百物語の「序・目録を再度、確認されたいが、登場人物は、

・百物語の咄人(はなして) 六十六部の僧如寶(にょほう)

・同じく 発起人      花垣舌耕子(はながきぜっこうし)

・同 応対(あど)     四五人

・亭の主人         白梅園

であった。

「始めよりいらざる物といひしに」「百物語をすると、必ず、百話になんなんとする最後に恐るべき怪異が出来(しゅったい)するからやめたがいい、と拙者が申したに!」と座中の誰かが責任転嫁をしたのである。

「四方髮」(しほうがみ)は髪を長く伸ばし、四方からかき上げて後ろで束ねた「総髪」の異称。近世の医者・学者・浪人などが結った。

「一間」一メートル八十二センチメートル弱。]

 

 しばらくして、右の袖より、十四、五なる小坊主、飛びいでゝ、彼(か)の硯にむかひて、墨を磨り、大筆(おほふで)を點じて、大男に渡せば、彼のおのこ、筆を取り、屛風にむかひて物を書くなりけり。

 始め、逃げちりたる人の中に、心づよく肝ふときものありて、是れを見るに、

 

  世重雙南價 天然百練精

 

と書きて、又、もとの如く、机も硯も、ふところにおしいれける時、身うちより、光明をはなち、數千人の小坊主となりて、大ごゑをあげ、手をたゝきて笑ひ、各(おのおの)つぼの内におりけるよ、とぞ見えし、掻きけすやうに、失せてけり。

[やぶちゃん注:「世重雙南價 天然百練精」

 

 世に重んず 雙南(さうなん)の價(あたひ)

 天然 百練 精(くは)し

 

と訓じている。

「つぼ」庭のこと。]

 

 是れを見て、心をゆるし、逃げかくれつる者ども、皆々、ひとつ所にあつまり、とりどりの評判、はてしなく、我のみ賢顏(かしこがほ)にかたりあへど、ひとりとして證(しやう)もなき事なりしを、つくづくと聞きつゞけ、舌耕(ぜつかう)も主人も、

「くつくつ。」

と笑ひ、

「みな、何れものはなしは、昔ものがたりのやうに、付けそゆる私事(わたくしごと)多くて、一つも實(まこと)にならず。我、此ばけものゝ書きたる詩を思ふに、定めてこれは、幸(さいはひ)の端(はし)なるべし。彼の詩は黃金(わうごん)を題にふまへたる物なるぞや。此かたへ行きて掘りて見よ。」

とありければ、舌耕、よにうれしくおもひ、主君(しゆくん)と共に先達(せんだち)し、人あまたに鋤鍬(すきくわ)をもたせ、先づ、庭におりけるに、不思議や、此家の緣さきより、黄なる鳥、一羽、飛びあがり、巳午(みむま)の方をさしてかけり行くを見て、

「いよいよ、此鳥を目がけて、行けや、者ども。」

と、主人のおしへにまかせ、ひたすら、鳥の行くかたへあゆみけるに、稻荷山(いなりやま)のおくにいたりて、此鳥、大きなる杉の木あるに、羽(は)をやすめけるまゝに、急ぎ、掘りて見たりけるに、纔か三尺ばかりの底にあたりて、大きなる石の櫃(ひつ)を掘り得たり。

[やぶちゃん注:「幸(さいはひ)の端(はし)」金運の端緒の繩の端。前の話の宝引きに引っ掛けてあるのである。

「彼の詩は黃金(わうごん)を題にふまへたる物なるぞや」私が馬鹿なのか、どこから黄金が引き出されるのか判らない。「雙南」は何か中国辺りの故事か、或いは漢字の分解した謎かけか。「天然百練精」は言われりゃ、錬金的ではあるが。識者の御教授を願う。

「主君」話を催した屋敷の主人白梅園。君主ではないので注意。

「巳午」南南東。

「稻荷山」不詳。但し、京都っぽいから、現在の伏見区北部の伏見稲荷大社の東にある東山三十六峰の南端の稲荷山かも知れない(京都市中からなら、方角も腑に落ちる)。標高二百三十二メートル。(グーグル・マップ・データ)。]

 

 そのうへに、銘ありて、いはく、

 

   金子三萬兩天帝これをあたふ

 

とあり。おのおの、悦び、此ふたを開きけるに、はたして書付けのごとく、三萬兩のこがね、ありしかば、兩人して配分し、心々のはたらきにより、次第に家とみ、國さかへ、今に繁昌の花ざかりとぞ聞えける。

 誠に信あれば德あり。今年は何によらずとおもひつる念によりて、かゝる幸(さいはい[やぶちゃん注:ママ。])にもあひしと也。

[やぶちゃん注:「兩人」百物語発起人の花垣舌耕子と場所を提供し、自らも参加したホスト亭主白梅園。六十六部の僧如宝がいるが、彼は行脚僧であるから、望まないであろうし、そこから二人が餞別を施せばよい。四、五人の参加者はいるが、「その他大ぜい」であって、こいつらは「兩人」には含まれない。]

 

 

   寶永三年正月吉日

          江戸 林和泉掾

                 開版

          京 寺町通松原上ル町

             菱屋治兵衞

 

 

御伽百物語卷之六

[やぶちゃん注:原典では、年月日の前に、

 諸國因果物語(しよこくいんくわものかたり) 全部六巻 後ゟ追付出來

という広告の一文がちゃっかり挟まっている。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 石蜐(カメノテ) / カメノテ

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。右の下方の一部をマスキングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『町医和田氏藏』『數品』(すひん)、『九月廿二日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、ここで町医師であることが判明する。前の二丁のクレジットの翌日であり、その和田某のコレクションを連日写生したことが判る。従ってこれは、天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日と考えよい。]

 

Kamenote

 

「多識扁」、

石蜐〔「ホヤ」・「カメノテ」・「ワシノ爪」・「シイ」(筑紫。)〕

   亀脚 紫𧉧

   紫※(シカウ)  石脚

[やぶちゃん注:「※」=(旧くさかんむり)+({「帥」-「巾」-((へん)の一画目を除去)}を左右に配し、間に「昔」。]

「興化府志」、

『石𧉧。一名、亀脚。一名、佛爪。一名、仙人掌。』。

 「ヲニノテ」〔佐州。〕。 「セイ」〔俗。〕。

 「ジユシ貝」〔同。〕。

此物、裏表とも、此くのごとくにして、蛤のごとく、口を結ぶ。開けば、中に肉あり。頭は、さながら、「亀」の「て」のごとし。貝、うすし。「大和本草」に詳(つまびら)かに説くがごとし。

[やぶちゃん注:さても私の大好きな、

節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下(フジツボ)綱下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ Capitulum mitella

である(一属一種)。謂わずもがなであるが、フジツボと極めて近縁で、荒っぽい言い方をすれば、広義のエビの仲間であって、「貝」ではない。私は既に、このキャプションにも出る貝原益軒の「大和本草」の「卷之十四 水蟲 介類 石蜐」(カメノテ)及び『栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」カメノテ』を電子化注しているので、カメノテの詳細はそれらを見て貰うとして贅言は附さない。

「多識扁」林羅山道春が書いた辞書「多識編」。慶安二(一六四九)年の刊本があり、それが早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあったので、調べたところ、「卷四」のこちらに「石蜐」の項があり、そこに(推定訓読した)、

   *

石蜐 或るの說に云はく、『「保(ボ)」なり。』と。【異名】亀脚(キキヤク)〔俗名。〕。

   *

とあった。遅れたが、「石蜐」は、音ならば「セキコフ(セキコウ)」又は「セキケフ(セキキョウ)」と読む。「蜐」は単漢字でもカメノテを指す。

「ホヤ」全くの別種で高等生物である脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱 Ascidiacea のホヤと同名であるが、これは恐らく、岩礁への着底生活をすること、鱗状の頭状部の左右相称に並ぶ大小の貝殻のように非常に硬い殻板(かくばん)や、柄部表面のやはり硬質の鱗片から、或いはホヤの仲間とか、子どもとか思ったものかも知れない(私はその錯誤は案外に腑に落ちる)。益軒は前掲書で、『石蜐(カメノテ) 「本草」、介類にのせたり。又、龜脚と云ふ。和名、「カメノテ」と云ふ』とし、はっきりと『「ホヤ」と訓ずるは、あやまれり』と退けているにも拘わらず、梅園がかく記すのは、本草家としての、益軒とのある距離感(或いは自身の博物学的矜持)が感じられて、面白い。

「ワシノ爪」「鷲の爪(つめ)」。

「シイ」私は本種の異名として広汎に見られる「セイ」「セイガイ」の転訛であろうと思うのだが、「大和本草」で益軒は岩の隙間に『垂れて移り動かず。果(くわ)の木に付けるがごとし』とし、しかも『椎の實のたれたるにも似たり。故に、「シイ」と云ふ』としている。これは筑紫の地方名とし、益軒は福岡藩であるから、この説は無視出来ない証言ではある。なお、「セイ」は「勢」で男根の古称である。この性的な異名も私にはすこぶる腑に落ちるものである。

「紫𧉧」「𧉧」は音「キョ・コ・キョウ・コウ」(現代仮名遣)。単漢字ではまず使用しない。「𧉧(きょふ)」はカマキリ或いはヒキガエルを意味し、「石𧉧」(せっきょう)」で本種カメノテを指す。尖った殻板から、蟷螂の斧を連想したか。

「紫※」(「※」=(旧くさかんむり)+({「帥」-「巾」-((へん)の一画目を除去)}を左右に配し、間に「昔」)「※」の字は意味不詳。江淹(こうえん:中国南北朝時代の文人)の「石蜐」にはカメノテを一名「紫𧄤」とする。何となく、似ているが、この字も単漢字では意味不明である。

「興化府志」明の呂一静らによって撰せられた福建省の興化府地方の地誌。台湾の対岸広域。(グーグル・マップ・データ)。

「ヲニノテ」「鬼の手」。

「佐州」佐渡国。佐渡では現在も一部地域で本種を食すのは普通。私は特異的に四度も佐渡に行ったが、残念ながら、出逢えていない。二度行ったイタリアでもポップコーン見たようにして食べると聴いていたから、かなり執拗に探したのだが、やはりお目にかかれなかった。私が最初の食べたのは下田でであった。妻と、亡き女友達と、三人で食べた忘れられぬ記憶である。

「セイ」前に注した「勢」。

「ジユシ貝」不詳。「手指貝」(じゅしがい)か、或いは、先の「大和本草」に出る木の実のミミクリーで「種子貝」(じゅしがい)か。後者っぽい。当初、直感的に形状のミミクリーから、ミカン属シトロン変種ブッシュカン(仏手柑)Citrus medica var. sarcodactylis をミミクリーしたものを想起したもの、ゴロが合わなくて退けた。

「蛤」ハマグリではなく、広義の二枚貝のことを指しており、されば「がふ(ごう)」と読んでおくのが適切であろう。

『「大和本草」に詳(つまびら)かに説く』私の大和本草卷之十四 水蟲 介類 石蜐(カメノテ)」を参照。「大和本草諸品圖下 潮吹貝(シホフキガヒ)・彌勒貝・コブシガニ・石𧉧(カメノテ/シイ) (オニアサリ・イソシジミ或いはウスレイソシジミ・コブシガニ・カメノテ)」にしょぼい図も載る。但し、図なら、『栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 カメノテ』の方が遙かによい。

大和本草卷之八 草之四 紫菜(アマノリ) (現在の板海苔原材料のノリ類) 附・川苔(カハノリ) (カワノリ)

 

紫菜 本草水菜類ニ載タリ海中石ニ付テ生ス靑色

 ナリ取テ乾セハ色紫ナリ又ホシテ色靑キモアリ味甘

 シ處々ニ多シ武州ノ淺草ノリ品川苔下總ノ葛西ノリ

 雲州ノ十六島モ皆紫菜ノ類ナリウツフルヒトハ海中ノ

 苔ヲトリ露ヲ打フルヒテホス故ニ名ツクト云コノ苔ノ名

 ニヨリテ其島ノ名ヲモウツフルヒト云凡此ノリ諸州有之

 地ニヨリテ形色少カハル紫菜ヲ食シテ腹痛スルニ熱醋

 ヲ少ノメバヨシト本草ニ見ヱタリ又河苔ハ水草門ニシルス

○やぶちゃんの書き下し文

「紫菜(アマノリ)」 「本草」は「水菜類」に載せたり。海中〔の〕石に付きて生ず。靑色なり。取りて乾かせば、色、紫なり。又、ほして、色、靑きもあり。味、甘し。處々に多し。武州の「淺草ノリ」・「品川苔〔(シナガハノリ)〕」、下總の「葛西〔(カサイ)〕ノリ」、雲州の「十六島(ウツフルヒ)」も皆、紫菜の類なり。「ウツフルヒ」とは海中の苔をとり、露を打ちふるひてほす故に名づくと云ふ。この苔の名によりて、其の島の名をも「うつふるひ」と云ふ。凡そ此の「ノリ」、諸州〔に〕之れ有り。地によりて、形・色、少しかはる。

紫菜を食して腹痛するに、熱〔き〕醋〔(す)〕を少のめばよし、と「本草」に見ゑたり。又、河苔〔(かはのり)〕は「水草門〔(すいさうもん)〕」にしるす。

[やぶちゃん注:以上の本文に挙げられている個別の「海苔類」の内、『武州の「淺草ノリ」』・「品川苔〔(シナガハノリ)〕」・『下總の「葛西〔(カサイ)〕ノリ」』は単に産地を被せた加工食品化したそれの名称であって、すべてが、

紅色植物門紅藻亜門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属アサクサノリ Pyropia tenera

である(しかし、悲しいかな、現在の当該地で絶滅(海域消失を含む)或いは殆んど見ることが出来ない絶滅危惧種である)。現行では一九六二年頃から、愛媛県西條市玉津で上記の変種である、

オオバアサクサノリ Pyropia tenera var. tamatsuensis

が、一九七〇年頃には千葉県袖ケ浦町奈良輪で、アサクサノリとは別種の、所謂、「岩海苔」系の、

アマノリ属スサビノリ(荒び海苔)Pyropia yezoensis

の品種、

アマノリ属ナラワスサビノリ(奈良輪荒び海苔)Pyropia yezoennsis form. narawaensis

が、何れも養殖漁業者の手で確立された(その結果として、これらの病気に強く育てやすい養殖品種が普及し、アサクサノリ野生種の養殖はされなくなって絶滅のスピードは急速化したわけでもある。東京湾湾奧での野生のアサクサノリはほぼ絶滅したと見られていたが、近年、多摩川河口域で少数が発見されてはいる)。また、他に、

アマノリ属オニアマノリ Porphyra dentata

も板海苔の原材料の主体となっている(別地域ではアサクサノリも少数養殖されてはいる)。

 但し、ここに出る『雲州の「十六島(ウツフルヒ)」ノリ』はそれらとは異なり、近縁種の「岩海苔」の一種である、

アマノリ属ウップルイノリ Porphyra pseudolinearis

である。なお、このウップルイノリは島根県出雲市島根半島十六島(うっぷるい)地区(島根半島西方の十六島湾沿岸を中心とした地域。ここ(グーグル・マップ・データ))で採れたことに由来する。(このウップルイノリを採って打ち振って日に乾す「打ち振り」が訛ったとする説を益軒はまことしやかに記すが、他の海藻類だとするならまだしも、この岩礁にへばり付いているウップルイノリは、摘み採って「笊で水切りする」のであって、「打ち振って処理するタイプの海藻ではないから、私は信じ難い。現在も朝鮮語の古語で「多数の湾曲の多い入江」という意とする説、アイヌ語説(発音的にはそれらしい)、十六善神(じゅうろくぜんしん:四天王と十二神将とを合わせた計十六名の、「般若経」を守る夜叉神とされる護法善神のこと)信仰と関連するなど、諸説あるものの、定かでない。

 宮下章は「ものと人間の文化史 11・海藻」(一九七四年法政大学出版局刊)の第二章「古代人の海藻」の「(二)海藻の漢名と和名」の「神仙藻(アマノリ) 紫菜(ムラサキノリ)」の項で、『現今われわれのいう「海苔(のり)」に対し』て、我々の『祖先は』それを『「アマノリ」と名づけていた。文字が渡来してから、その漢名は「神仙菜」「紫菜」であることがわか』り、『紫菜の漢字を訓読みするとムラサキノリとな』り、『隨唐文化に心酔していた奈良平安朝時代の支配階級は、本来の名称であるアマノリより、ムラサキノリの方を好んで使った。その習慣は実に約一千年にわたって根強く残り、明治時代までは公用文書には紫菜、ムラサキノリが用いられた』とある。しかし、『平安朝末期は、紫菜、神仙菜から甘海苔』(アマノリ)へと表記が『変わる過渡期で』、『その当時書かれた『宇津保物語』には紫菜と甘海苔の両文字が使われている。鎌倉期以降になると公用文書に紫菜が使われるほかは、通常には甘海苔がが使われだ』し、『さらにこれが江戸時代になると海苔に変わるのである』とある。また、『中国の唐代の書物を見ると「紫菜は海中では青いが、乾せば紫色になる」と無造作に断定している。確かに良質のノリは乾して抄』(す)『きあげれば、紫色は点々と耀くが、全体の感じは赤味がかった黒い艶をしていて紫色は強くはない。海中にある生ノリは、紅色だが多少は紫色がかって見えるのもある』。『もしも古代中国人が、この紫色を鋭敏にとらえて紫菜と名付けたのなら感嘆のほかはない。が、「乾せば紫色になる」との説明にもあるように』、『乾燥してからの紫色に眼を向けている。ノリは乾燥してのち』、『放置しておけば湿気を帯び、いわゆる「カゼヒキノリ」になり』、『紫変する』。『古代中国の首都の多くは大陸の奥深くにあった。新羅や山東半島(あるいは日本か)から送られたノリは、管理の知識の乏しい昔のことだから、日ならずして紫変してしまう(日本のようにノリの香を重んじない中国ではこれでも十分に味わえる)。実際に生ノリを見たことのない宮廷学者が、これをノリ本来の色と見て紫菜と名づけたのではなかろうか。いずれにしろ、紫菜という表現は、わが「アマノリ」にくらべれば、表面的、皮相的なものといえる』。『新鮮なノリほど、甘い芳香があり、噛みしめるほどに甘味の出てくるものだ。この醍醐味を適確にとらえた名称がアマノリである。二種の名は、大陸の奥地に都をおく国と、四面環海、豊かな海産を謳歌した国との、ノリに寄せる心情の差異が生み出したものといえよう』とすこぶる肯んぜられる海苔論を展開しておられる。

『「本草」は「水菜類」に載せたり』巻二十八の「菜之四」「水菜類六種」に以下のように載る。

   *

紫菜【「食療」。】

釋名紫、【音、軟。】。

集解【詵曰、「紫菜、生南海中附石。正靑色。取而乾之、則紫色。」。時珍曰、「閩越海邊悉有之。大葉而薄。彼人挼成餠狀、晒乾貨之。其色正紫。亦石衣之屬也。】

氣味甘寒、無毒【藏器曰、「多食令人腹痛、發氣吐白沫、飲熱醋少許、卽消。】

主治熱氣煩塞咽喉、煮汁飲之【孟詵】。病癭瘤脚氣者、宜食之【時珍。】。

發明【震亨曰、凡癭結積塊之疾、宜常食紫菜。乃鹹能軟堅之義。】。

   *

『河苔〔(かはのり)〕は水草門〔(すいさうもん)〕にしるす』本巻の前の方にある(但し、表記は「川苔」)。これは思うところあって、ここで電子化しておく。

   *

【和品】

川苔 川苔モ海苔ニ似タリ處々ニアリ冨士山ノ麓柴川

 ニ芝川苔アリ冨士ノリトモ云日光苔ハ野州日光ノ川ニ

 生ス菊池苔ハ肥後ノ菊池川ヨリイヅ。ホシテ遠ニヲクル。ア

 マノリニ似タリ肥後水前寺苔ハ水前寺村ノ川ニ生ス乾

 シテ厚キ紙ノ如ナルヲ切テ水ニ浸シ用ユ此類諸州ニアリ

やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「川苔(〔カハ〕ノリ)」 川苔も海苔〔(ウミノリ)〕に似たり。處々にあり。冨士山の麓、柴川に「芝川苔〔(シバカハノリ)〕」あり、「冨士ノリ」とも云ふ。「日光苔」は野州日光の川に生ず。「菊池苔」は肥後の菊池川より、いづ。ほして、遠くに、をくる。「アマノリ」に似たり。肥後「水前寺苔」は水前寺村の川に生ず。乾して厚き紙のごとくなるを、切りて水に浸し、用ゆ。此類、諸州にあり。

   *

こちらも注しておくと、「川苔」は純淡水性藻類の日本固有種、

緑藻植物門トレボウクシア藻綱
Trebouxiophyceae
カワノリ目カワノリ科カワノリ属カワノリ Prasiola japonica

で、ウィキの「カワノリによれば、『かつては緑藻綱アオサ目』Ulvales『に分類されていたが、系統学的な研究により』、近年、『トレボウクシア藻綱に分類が改められた』。『岐阜県や栃木県、熊本県などの河川に生息し、日本海側の河川からは発見されていない』。『渓流の岩石に着生して生活するが生息数は少なく』、『日本では絶滅危惧種に指定されている』。『アオサのような緑色のうすい葉状体を形成し、長さはおよそ』十~二十センチメートル。『主に無性生殖で繁殖するが、接合子をつくり』、『有性生殖する例も知られている』。『遊走子はもたない』。『夏から秋にかけて採集され、川海苔として食用にされる』。『産地の河川名を頭につけて呼ばれることもあり、大谷川のり、桂川のり、菊池のり』、『芝川のりなどと呼ばれる川海苔が存在する』とある。なお、勘違いしている人が多いので(誰も指摘しないが、正直、生物学的には商品名に問題があると私は思っている)、一言言っておくと、四万十川上流には本種も植生するが(流通はしない)、一般に市販されて目にする「四万十の川のり」として知られるものは、四万十川河口附近で採取される海産藻類である、

アオサ目アオサ科アオノリ属スジアオノリ Enteromorpha prolifera

であって、狭義のカワノリではない

「芝川」現在の静岡県富士宮市芝川付近を流れる。(グーグル・マップ・データ)。

「肥後の菊池川」熊本県を流れる。(グーグル・マップ・データ)。

『肥後「水前寺苔」は水前寺村の川に生ず』九州の一部だけに自生する食用の淡水産稀少藍藻類である、

藍藻綱クロオコッカス目クロオコッカス科スイゼンジノリ Aphanothece sacrum

のこと。茶褐色で不定形、単細胞の個体が寒天質の基質の中で群体を形成、郡体は成長すると川底から離れて水中を漂う。但し、現在も熊本県熊本市東区中央区江津にある上江津湖((グーグル・マップ・データ))に国天然記念物「スイゼンジノリ発生地」はあるものの、一九九七年以降、水質の悪化と水量の減少により、ここのスイゼンジノリはほぼ絶滅したと分析されている(現在、自生地としては福岡県朝倉市の黄金川一箇所のみ。附近(国土地理院地図))。本種は熊本市の水前寺成趣園の池で発見され、明治五(一八七二)年にオランダの植物学者ウィレム・フレデリック・レーニエ・スリンガー(Willem Frederik Reinier Suringar)によって世界に紹介された。因みにこの種小名sacrumは英語の“sacrifice”で「聖なる」を意味する。これは、彼がこの藍藻の棲息環境のあまりの清浄なさまに驚嘆して命名したものという。ただ、近年では人口養殖に成功し、食用に生産されている他、スイゼンジノリの細胞外マトリックス(Extracellular Matrix:生物細胞の外側を外皮のように覆うように存在している超分子構造体)に含まれる高分子化合物の硫酸多糖であるサクラン(Sacran:種小名に由来)が重量比で約六千百倍もの水分を吸収する性質を持つことから、保湿力を高めた化粧水に応用されたり、サクランが陽イオンとの結合によってゲル化するという性質を利用、スイゼンジノリを原料に生産したサクランを工場排水などに投入してレア・メタルを回収する研究などが行われているという(以上は主にウィキの「スイゼンジノリ」及びそのリンク先に拠った)。]

2018/05/27

大和本草卷之八 草之四 裙蔕菜(ワカメ)

 

 

【外】

裙蔕菜 食物本草載之和名抄曰ニキメ處々海中ニ

 多シ二月ニトル伊勢ノ海ニ産スルヲ好トス又紀州ノ賀多

 ニ産スルハ脆クシテ味ヨシ珍賞ス爲茹而食ス煮羹亦

 可也生ナルヲモ食ス又莖ヲモ食フ莖ハコトニ甘滑ナリ

 莖ノ傍ニツキテ厚ク耳ノ如クナルヲメミヽト云莖モメミヽモ

 羹トシ又鹽醬ニツケテ食ス○性寒味甘シ有虫積

 患腹痛人不可食或曰本草二十八卷ニ所載ノ石

 蓴是ナルヘシト云○生薑ト酢ニ和乄食ヘハ無腹痛之

 患ワカメヲ食テ腹痛スル者モ亦可食之

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

「裙蔕菜(ワカメ)」 「食物本草」、之れを載す。「和名抄」に曰はく、『ニギメ』〔と〕。處々〔の〕海中に多し。二月にとる。伊勢の海に産するを好しとす。又、紀州の賀多〔(かた)〕に産するは、脆くして、味、よし。珍賞す。茹で爲〔(な)〕して食す。煮て羹〔(あつもの)〕と爲すも、亦、可なり。生なるをも、食す。又、莖をも食ふ。莖は、ことに甘〔く〕滑〔か〕なり。莖の傍〔ら〕につきて、厚く耳のごとくなるを「メミミ」と云ふ。莖も「メミミ」も羹とし、又、鹽〔(しほ)〕・醬〔(ひしほ)〕につけて、食す。

○性、寒。味、甘し。虫積〔(ちゆうしやく)〕有〔りて〕腹痛を患ふ人、食ふべからず。或いは曰はく、『「本草」二十八卷に所載の「石蓴」、是れなるべし』と云ふ。

○生薑〔(しやうが)〕と酢に和して食へば、腹痛の患ひ無し。ワカメを食ひて腹痛する者も亦、之れを食ふべし。

[やぶちゃん注:お馴染み、

褐藻綱コンブ目チガイソ科ワカメ属ワカメ Undaria pinnatifida

である。しかし、本邦には同属の非常によく似た、

アオワカメ Undaria peterseniana

ヒロメ Undaria undarioides

が植生し、孰れも食用であるから、これらもここに含めるべきであろう。なお、ワカメの生体は黄色或いは茶色である(湯通し処理した緑色のワカメの絵を海中にしばしば描くが、それが本種「ワカメ」ならば、それは大きな誤りである)が、このアオワカメ・ヒロメの二種は生体でも暗い青緑色に見える。これらは葉片が分かれず、ぺろんとしているから、容易に「ワカメ」とは区別は出来る(アオワカメ・ヒロメは、ヒロメの方は中肋がはっきりとしていることで識別でき、アオワカメよりもより暖海性である)。また、流通上では歯応えや味に違いがあることから、ワカメの北方品種で茎が長い

ナンブワカメ Undaria pinnatifida var. distans

と、南方型変種で、茎が短く、葉状部と胞子葉が繋がっている

ナルトワカメ Undaria pinnatifida f. narutensis(野生のそれは絶滅に近い)

の「ワカメ」の「三種」を区別しているらしいが、生物学の分類学上はこれを区別しない。但し、一部、参考にさせて戴いた鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」のワカメのページによれば(コンマを読点に代えた)、二〇〇七年の研究で、『ミトコンドリアにコードされる cox3 遺伝子を用いた遺伝子解析の結果、ワカメ(Undaria pinnatidida)、ヒロメ(U. undarioides)、アオワカメ(U. peterseniana)は同種であると述べ』られており、一九七二年の報告では、交雑実験によって、この三『種はどの組み合わせでも雑種第一代(F1)を作ること、ワカメとヒロメでは雑種第二代(F2)まで作ること』が判っており、『自然界でもワカメとヒロメあるいはアオワカメとの雑種と考えられる個体がしばしば採集されており』、一九九八年の記載によれば、同属の種の一つとされてきた『Undaria crenata はワカメとアオワカメの雑種であると考えられて』おり、『これらの結果は、ワカメ、ヒロメ、アオワカメが生物学的に同種であることを強く示唆してい』る(太字下線はやぶちゃん)が、『ヒロメとアオワカメをワカメと呼ぶのは、ワカメ属(Undaria)の歴史的背景や』、三『種が一般的に広く浸透していることから難しいかもしれ』ないと述べておられる。本邦では海藻食は非常に古く且つ広く行われてきており、神饌・食膳に供するものとして、南北を問わず、極めて一般的であるが、世界的には逆にすこぶる限定的な食文化で、中国・朝鮮・インドネシアなどのアジアの一部と、アイルランドやフランス沿岸部のごく限られた一部地域でしか見られない。昆布と並ぶごく普通の海藻として子どもでさえ知っているワカメは、現在、しかも、タンカーなどのバラスト水によって遊走子が多量に、本来、植生していなかった地域に持ち込まれ、ニュージーランド・オーストラリア及びヨーロッパ諸国沿岸域で摂餌する天敵もなく、環境への適合が旺盛であることから、激しく増殖しており(オーストラリアの一部海域では他の海藻類を駆逐してしまいワカメだけが密生している惨状を映像で見た)、人為移入による強力な外来侵入生物、深刻な生態系破壊を惹起させる危険な種として問題になっている事実を知る日本人は少ない。これを私が人に説明すると、その中の多くの方が、必ず「なぜ、採って食べないのだろう?」と反問してくる。かつてペルーやイタリアに行った時、仲良くなった現地の子にお菓子を上げると、煎餅の海苔を黒い包装紙と思って剝して食べた。「一緒に食べると美味しい」と食べて見せても、彼らは信じず、やっと口にしても吐き出してしまった。梅干しや納豆とタメ張りで海苔は外国人には得体の知れぬ黒い紙かの中国であっても今も多くの人は海苔を食べたことがなかった。近年になって食されているのは、海苔に餅米を塗って揚げた「お菓子」としてである(韓国の『中央日報』日本語版のこの記事を参照)日本人はどこかで日本食が洗練された「美しい料理」だと誤認する傾向がある。私は鯨が好きだが(反捕鯨の思想は生物学的には殆んど正当な理由がない。ミンククジラは北極海で過剰に個体数が増えてしまっており、人為的な間引きが必要なことは鯨類学者でさえ提唱している)、犬は食いたいとは思わない(妻は中国派遣教師時代に中国東北部出身の教え子から振る舞われた赤犬を食べたことがあるが、非常に美味しかったそうである)。昆虫食(それでもイナゴ・ザザムシは食える)は勘弁だが、ホヤは大好物で上手く捌けるし、ユムシは美味いもんだ。こういう私を顰めツラで眺める日本人であるあなたも、西洋人からはおぞましいものを食べている人間と映っていることを忘れてはいけない

「裙蔕菜(ワカメ)」「裙」は「裳裾(もすそ)」の、「蔕」は「へた」である。これは中肋から左右に広がる大きな切れ込みを持った羽状の葉状部を前者に、その基部の根の上部の非常に厚くなった葉状部がぎゅっと縮まって折れ重なったようになっている、ここで後で言っている「メミミ」、現在、我々が「メカブ(和布蕪)」と呼んでいる箇所(ここには生殖細胞が集まっている)を「蔕」に喩えたものとして、非常に分かり易い漢字表記であり、現在も実はこの漢字表記は実際に使用されている。

「食物本草」李東垣(一一八〇年~一二五一年)は金・元医学の四大家の一人とされる医師。名は杲(こう)、字(あざな)は明之(めいし)、東垣は号。河北省正定県真定の生で幼時から医薬を好み、張元素に師事、その業をすべて得たという。富家であったので医を職業とはせず、世人は危急の際以外は診てもらえなかったが「神医」と称されたという。病因は外邪によるもの以外に精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとして「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると百病が生じる」との「脾胃論」を主張、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。朱震亨(しゅしんこう)とあわせて李朱医学と称された(小学館「日本大百科全書」に拠る))の「食物本草」。これは、明代の汪穎の類題の書と区別するために「李東垣食物本草」とも呼ぶ。

「「和名抄」に曰はく、『ニギメ』〔と〕」宮下章「ものと人間の文化史 11・海藻」(一九七四年法政大学出版局刊)の第二章「古代人の海藻」の「(二)海藻の漢名と和名」の「藻(モ・ハ)」の項によると、源順の『和名抄が編』纂『されるより少なくとも二、三百年前から、古代日本の人々は「海藻」の文字に「ニギメ」(ワカメ)の和名を当てるという誤りをおかしてしまった』とする一方、諸海藻名の末尾に多く見られる「メ」は『布のほか「女」「芽」にも通』ずるとする。また、後の「海藻(ニギメ・ワカメ)」の項では、『和名抄は、唐書が藻類の総称とする「海藻」をニギメと読む誤りをおかしたが、反面で「和布」という和製文字を示してくれた。また、ニギメのほかに「ワカメ」という呼び方も示してくれた』とする。

 これは「和名類聚抄」で、

   *

海藻 本草云海藻味苦醎寒無毒【和名𨒛木米俗用和布】

○やぶちゃんの書き下し文

海藻 「本草」に云ふ「海藻」は、味、苦醎(くかん)にして寒。無毒【和名は「𨒛木米(にぎめ)」。俗に「和布(わかめ)」を用ふ。】

   *

(「醎」は「鹹」に同じい)と記すのを指す。

 引用に戻る。

『たとえば、延喜式では海藻をニギメ、和布をワカメ、万葉集では稚海藻をワカメ、和海藻をニギメと読ませている』。『ニギメとワカメとは別種でなく、ニギメの若芽がワカメである。古くから若芽が喜ばれたと見えて、中世に入るころには「ニギメ」は消えてしまう。「メ」は藻類の総称だが、「和布刈(めかり)」の神事や人麻呂の』(「万葉集」巻第七・一二二七番)、

磯に立ち沖邊(おきへ)を海藻刈舟(めかりぶね)海人(あま)漕ぎ出(づ)らし鴨(かも)翔(かけ)る見ゆ

などでは『ニギメの意味にも使われていた』。『ニギメは、古代人に最もよく親しまれた藻類であった。神饌にもよく用いられ、貢納される量も多く、上下の差を問わずよく食べられた。だからこそ「メ」の文字を独占できたのである』。以下、ワカメの価値が記されているが、そこまで引くと同条全部になってしまうので、どうぞ、同書をお読みあれかし。

「伊勢の海に産するを好しとす」伊勢志摩産として現在も健在。伊勢神宮への神饌としてのブランド性が強み。

「紀州の賀多〔(かた)〕」現在の三重県鳥羽市鳥羽に賀多(かた)神社があるが((グーグル・マップ・データ)、この附近か、ここは志摩国であるが、北西端で生き残っただけで、旧志摩国の大部分(紀伊半島南東沿岸)は紀伊国に戦国期に吸収されてしまったから、言い方としてはおかしくないか。

「羹〔(あつもの)〕」煮凝(にこご)り。

「醬〔(ひしほ)〕」大豆と小麦で作った麹(こうじ)に食塩水をまぜて造った味噌に似た食品。なめ味噌にしたり、調味料にしたりする。ひしお味噌。

「虫積〔(ちゆうしやく)〕」現代の漢方ではヒト感染性寄生虫による痛みを漢方で言うが、実際には、ヒト感染性寄生虫による症状で痛みが出ることは極めて稀れであるから(明治以前は多量の寄生虫感染によって痛みや「逆虫(さかむし)」という寄生虫を嘔吐するはあったが、しかしそれでも痛みを生ずることは寄生虫閉塞以外にはまず考えられないから、広汎な消化器系疾患をこう言っていると考えた方がよい。

『「本草」二十八卷に所載の「石蓴」』以下。

   *

石蓴【「拾遺」。】 校正【自草部移入此。】

集解藏器曰、「石蓴、生南海。附石而生似紫菜色靑。氣味甘平無毒。主治、下水利小便。」。藏器、「主風祕不通五膈氣幷臍下結氣。煮汁飮之。胡人、用治疳疾李珣。」。

   *

「ワカメを食ひて腹痛する者も亦、之れを食ふべし」益軒先生、これは対症療法としてもいただけません!]

大和本草卷之八 草之四 索麪苔(サウメンノリ) (ウミゾウメン)

 

【和品】

索麪苔 サウメンニ似テ長キ藻也色黑シ味甘乄美ナリ

 鹽ニツテ或灰ニ和シテホシ用ユ煮テ食ス或薑醋ニ浸シ

 食フ其漢名ト性ト未詳冷滑ノ物不益于人

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「索麪苔(〔サウメン〕ノリ)」 「さうめん」に似て、長き藻なり。色、黑し。味、甘くして、美なり。鹽につけて、或いは灰に和して、ほし、用ゆ。煮て食す。或いは薑醋〔(しやうがず)〕に浸し、食ふ。其の漢名と性〔(しやう)〕と、未だ詳かならず。冷滑〔(れいかつ)〕の物、人に益せず。

[やぶちゃん注:和名及び様態と処理法から、

紅藻綱ウミゾウメン(海素麺)目ウミゾウメン亜目ベニモヅク科ウミゾウメン属ウミゾウメン Nemalion vermiculars(本邦では今一種、ウミゾウメン属ツクモノリ Nemalion multifidum も植生するが、以下はウミゾウメンを記述する)

と同定する。主に田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)によれば、学名は属名「Nemalion」が「糸のような」、種小名「vermiculars」が「回虫の形をした」。日本各地の潮間帯中部の岩礁域に生え、長さは十~十五センチメートル(但し、諸本記載では二十センチメートル程度ともある)、太さ(付着部下部も藻体上部もあまり変わらずに伸びる)二~三ミリメートル。『岩上に数十本が並ぶ様はまさしく太いそうめんである。ただし』、『乾燥すると干そうめんのように細くなる』。『分岐しない円柱状のからだをも』ち、『粘液質で』、『大変』、『ぬるぬるする』。『生品は熱湯をかけて、乾燥品は水にもどして、二倍酢、酢味噌、味噌汁にして食する』(私は味噌汁が好きである)。「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「ウミゾウメン」によれば、『晩春~夏にかけて日本海沿岸でとれて、生もしくは塩漬けで出回る。乾物もあるが』、『あまり見かける機会はない』。『表面がぬめっとして軟らかく、海藻らしい風味もある。吸物や酢のものなどにして食べると非常に美味』とし、別に『そのまま生で食べる。また』、『湯に通すと青くなるが』、『火を通しすぎると』、『ネバリが出る』とあり、『太くてぬるぬるするものが新しく』、『美味しい』。『ゆでてもあまり色は変わらない』とある。宮下章氏の「ものと人間の文化史 11・海藻」(一九七四年法政大学出版局刊)には、『青萌黄色で美しい』とあり(陸に上がっているものや標本は褐色に見える場合が多いが、藻体の一部や状態によっては全体が鶯色に見える)、食用には『熱湯をそそ』ぐことを処理としている。『保存法としては、灰乾、素乾、塩蔵があ』り、ミル(緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミルCodium fragile)『と同様に九州の北部、山陰地方でよく食べる。採取期は春いっぱい』で、『江戸の昔はこれを桶に盛り、塩を入れ、四方に売り歩いたという』とある。

「冷滑〔(れいかつ)〕の物、人に益せず」というのは現在も生食もするから不審である。「心太(ココロフト=トコロテン)の項で示したような、近年、問題となっているプロスタグランジンE2由来の重い中毒機序や、猛毒アプリシアトキシンaplysiatoxin 中毒のことを言っているとはとても思われない。本種にプロスタグランジンE2が含まれているかどうかも不明だし(リンク先の私の注を読んで戴くと判るが、プロスタグランジンE2自体が有毒なのではない)、アプリシアトキシン aplysiatoxin 中毒の可能性は現在でも、あったとしても、非常に稀れであると考えられている。そもそもが、それらの重い中毒症状(孰れも死亡例あり)を指しているとすれば、「人に益せず」(人に有益な効果を齎さない)などというなまっちょろい書き方はしない。或いは、中国の本草書に載らないことから(実際、学名で中文で検索を掛けても引っ掛からないので、中国では本種は一般的に知られていないようではある。同属が植生しないことはないと思うのだが?)、万一のことを考え、益軒は火を通さないものは警戒すべしと、単に注意書きしたものかも知れぬ。今一つ私が考えたのは、別な「海素麺」の誤食である。腹足綱異鰓上目後鰓目無楯亜目アメフラシ科アメフラシ属アメフラシ Aplysia kurodai やその近縁種の卵塊は(梅雨時期の岩礁帯の浅瀬などでしばしば見られる)、黄色やオレンジ色を呈して細長い素麺のような塊状を呈することから、広く全く同じく「海素麺(うみぞうめん)」と呼ばれている。しかし、これには弱毒性が認められており、食べると、下痢を起こすことがある。但し、色が鮮やか過ぎるし(その色だけで私は食う気がしない。試しにちょっとだけ生食してみたことはあるのだが、まずい)、塊りという形状が全く異なり、真正の海藻のウミゾウメンと誤認することは真正のウミゾウメンを知っている者にはあり得ない。ただ、私はしばしば海岸観察の途中でこれを見つけ、同行者に「アメフラシの卵だ」と示し、『通称「うみぞうめん」と言うのだ』とを伝えると、全員、最初の質問は「食べられる?」という問いであったことも、また、事実ではある。

2018/05/26

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(二) 二 遺傳する性質の優劣

 

     二 遺傳する性質の優劣

 

 メンデルが實驗研究によつて見出したことは、先づ第一には、相異なる品種がそれぞれの性質を雜種に遺傳するに當つて、その勢力に優劣の差のあることである。一例を擧げて説明すると、こゝに碗豆の黃色い豆のなる甲品種と、靑い豆のなる乙品種とがある。この兩種は若し純粹に培養したならば、甲品種はどこまでも黃色い豆、乙品種はどこまでも靑い豆が出來るが、この兩品種の間に雜種を造ると如何なるものが生ずるかといふと、第一代の雜種としては悉く黃色い豆のみが出來て、一つも靑い豆は出來ない。而して雜種を造るに當つて、甲の方の花粉を乙の花に著けても、乙の方の花粉を甲の花に著けても、結果は全く同一である。かやうに第一代の雜種では、豆の色に關しては兩親の中の一方だけの性質を受けて、他の方からは何も傳はらなかつた如くに見えるが、更にこの豆を蒔いて引き續き培養して見ると、第二代以後にまた靑い豆の出來ることから考へれば、乙品種の性質は全く子に傳はらなかつた譯ではなく、雜種の第一代に於てはたゞ表面に現れなかつた

といふに過ぎぬ。この事實を見てメンデルは次の如き説を考へ出した。卽ち第一代雜種の體内には黃色い豆を生ぜしめる甲品種の性質も、靑い豆を生ぜしめる乙品種の性質も竝び存するが、一方の勢力が優つたために、その方のみが表面に現れ、他の方は負けて隱れて居るのであると見倣して、之を優劣の法則と名づけた。二品種の相異なる點は、皆相對立せしめることの出來るもので、例へば、甲は果實の色が黃色で乙は靑いとか、甲は花の色が白で乙は赤いとか、または甲は葉の幅が廣くて乙は狹いとか、甲は莖が長くて乙は短かいとかいふ類であるが、かやうに相對する性質の中で、一方が優勢で他が劣勢である場合を明にしたのは、メンデルの功績である。なほメンデルは實驗の結果、碗豆に於ては豆の形の丸いこと、莢の形の簡單に膨れたること、若い莢の綠色なること、莖の丈の高いことなどが、優勢の性質で、之に對し、豆の形に角あること、莢の形の豆粒の間に縊れてあること、若い莢の黃色なること、莖の丈の低いことなどが、劣勢の性質であることを確めた。またメンデル以後の研究によると、かやうなことは、碗豆の外にも、動物・植物ともに隨分澤山あつて「たうもろこし」では粒の黃色が優勢で白が劣勢、兎では毛の短いのが優勢で長いのが劣勢、鷄では普通の羽毛が優勢で、烏骨鷄のやうな絹樣の羽毛が劣勢である如きは、最も確な例である。

 

Kurosiromadarareguhon

[黑白斑のレグホーン]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版を用いた。]

 

 然しながら、二品種の間に雜種を造れば、いつでもこゝに述べた如きことが生ずるかといふと、決してさやうではない。雜種は當然兩親の間の性質を有すべき筈とは誰も考へることであるが、近年盛に行はれる實驗の結果で見ても、雜種には樣々な場合がある。碗豆の如くに一方の親の性質のみが現れるものもあるが、また兩親の中間に位する性質を示すものが頗る多い。例へば「おしろい花」の赤い花の咲く品種と、白い花の咲く品種との間の雜種には、桃色の花が咲く。丈の高い「たうもろこし」と丈の低い「たうもろこし」との間には、中位の丈の雜種が出來る。白い卵を産む鷄の品種と、茶色の卵を産む品種との開の雜種は、薄茶色の卵を産み、耳の長い兎と耳の短い兎との間には、中位の耳を持つた子が生れる。京都の動物園には西藏産の二瘤駱駝とアラビヤ産の一瘤駱駝とが飼つてあるが、その間に生れた雜種は二つの瘤が連續して一つになつた如き中間の形の瘤を持つて居る。兩親の中間の性質というても、必ずしも兩親の性質を合せて二で割つたやうな性質が、總べての子に揃つて現れるといふわけではない。尾の長い犬と尾の短い犬との間には、尾の稍長い稍短い子など、樣々なものが生れる。白人と黑人との間の子も之と同樣で、やはり兩親の間の色を有するが、その中に色の黑さに種々の程度がある。また、生れた子の體部によつて、兩親の性質の優劣の關係が違ふものがある。例へば、頭は父に似て、尾は母に似るとか、左半は男親の通りで、右半は女親の通りとかいふ如き場合がある。四本指のドルキンと五本指のドルキンとの間には、往々左足には四本、右足には五本の指のある雛の生れることがある。黑と白との兩親の性質が子の體部により優劣を異にすれば、その結果として斑[やぶちゃん注:「まだら」。]が生ずるが、黑いレグホーンと白いレグホーンとの間には、時々全身に黑白の細かい斑點のあるものが生れる。その他、最も相異なる鳩の變種の間に雜種を造ると、往々兩親の何れにも似ずして、却つて野生の「かわら鳩」に似たものが生ずることは已にダーウィンも知つて居たが、鷄なども甚しく違つた品種間の雜種に、今日マレイ地方に棲んで居る野生の鷄にそのまゝのものが生ずる。これらは恐らく先祖の姿に戾つた譯であらうが、「おしろい花」の白い品種と黃色の品種との間に、赤と桃色との斑の花の咲く雜種の出來た場合の如きは、餘程關係が複雜で、なかなか一々の性質の遺傳の道筋を明にすることは容易でない。

[やぶちゃん注:「おしろい花」ナデシコ目オシロイバナ科オシロイバナ属オシロイバナ Mirabilis jalapa。花は赤・黄・白及び絞り模様(同じ株でも複数の色の花を咲かせる場合もある)などであるが、白と黄の絞りは少ない。

「たうもろこし」単子葉植物綱イネ目イネ科トウモロコシ属トウモロコシ Zea maysウィキの「トウモロコシによれば、『トウモロコシは長い栽培の歴史の中で用途に合わせた種々の栽培品種が開発されている。雑種強勢(異なる品種同士を交配すると、その子供の生育が盛んとなる交配の組み合わせ)を利用したハイブリッド品種が』一九二〇年頃から『アメリカで開発され、以後収量が飛躍的に増加した。また、近年では遺伝子組換えされた栽培品種も広がりつつある』。『一般にトウモロコシの分類に用いられるのは、粒内のデンプンの構造によって種を決める粒質区分で』、『種によって用途や栽培方法に違いがある』とある。我々がよく呼び、食用としている「スイートコーン(甘味種)」は Zea may svar.saccharata である。

「西藏産の二瘤駱駝」「西藏」は「チベット」であるが、ここは現在の中国のチベット自治区も含まれ、その周辺域まで広げておいた方がよいであろう。ウシ目ラクダ科ラクダ属フタコブラクダ Camelus ferus。中央アジア原産で、トルコ以東のイラン・カスピ海沿岸・中央アジア・新疆ウイグル自治区やモンゴル高原付近にまで棲息している。頭数は百四十万頭程度で、ラクダのうちの十%程度に過ぎない(後は総てヒトコブラクダ)。しかもこれらは家畜個体の頭数であり、野生のフタコブラクダの個体数は世界中で約千頭しかいないとされており、野生のフタコブラクダは二〇〇二年、国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅危惧種に指定されている(ウィキの「ラクダ」に拠る。次も同じ)。旧版やそれの一つを底本としている講談社学術文庫版では『滿州産』『満州産』となっている。どちらが正しいのかであるが、実際に運ばせたのは中国東北部(旧満州地方)で家畜していた個体であったのだろうが、それは恐らく、中央アジアから運んだものであるから、まあ、この「西藏」の方が当時としてはよりよいとは思う。

「アラビヤ産の一瘤駱駝」ヒトコブラクダ Camelus dromedaries。西アジア原産で、インドやインダス川流域から西の、中央アジア・イランなどの西アジア全域、アラビア半島・北アフリカ・東アフリカを中心に広汎に分布している(現在、飛び地的にオーストラリア中央部の砂漠地帯に約七十万頭が棲息するが、これは人為移入したものが野生化したもの)。なかでも特に「アフリカの角」地域(Horn of Africa:アフリカ大陸東端のソマリア全域とエチオピアの一部などを占める半島部の広域呼称)では現在でも遊牧生活に於いてラクダが重要な役割を果たしており、世界最大のラクダ飼育地域となっている。但し、これは総てが家畜個体で、ヒトコブラクダの個体群はほぼ完全に家畜個体群に飲み込まれたため、野生個体群は絶滅している。

「ドルキン」鳥綱キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ(ガルス・ガルス・ドメスティカス)Gallus gallus domesticus の英国産品種の一つである“Dorking chicken”のことであろう。英文ウィキを参照されたい。

「レグホーン」“Leghorn”。レグホンとも呼ぶイタリア原産のニワトリの品種。イギリス・アメリカで改良された。白色・褐色・黒色があるが、白色が最も産卵数が多い。「レグホン」はイタリアのトスカーナ州の西のリグリア海に面した港町リボルノ(Livorno(グーグル・マップ・データ))が本種の特産地であったことから、その英語名に由来する。

「かわら鳩」ハト目ハト科カワラバト属カワラバト Columba livia。最も普通に見かけ、我々が通常、「鳩」と呼んでいる種である。

「マレイ地方」現在のマレー半島(Malay Peninsula)。太古には周辺域に広がるスンダ列島とともに大スンダ大陸を形成しており、その頃からの生物では島嶼部からマレー半島にかけて原生棲息しているような種群が多く見られる。現在、北西部はミャンマーの一部、中央部と北東部はタイの一部、南部の大部分はマレーシアである(ウィキの「マレー半島」に拠った)]

 

 また兩親の性質に明に優劣があつて、第一代雜種が兩親の孰れか一方に似る場合でも、いつも必ずメンデルの碗豆に於ける如く、簡單に規則正しく行はれるとは限らぬ。例へば同一の性質でも相手によつて或は優勢となり、威は劣勢となることもある。黃色い繭を造る蠶の甲品種が、白い繭を造る乙品種に對しては優勢で、その間には黃色い繭のみを造る雜種を生むに拘らず、同じく白い繭を造る丙品種に對しては劣勢で、それとの間に出來た雜種は悉く白い繭を造るといふ如き例もあり、また蠶の甲乙二品種の間の雜種で、繭の色が兩親の孰れに似るか全く不規則で定まらぬこともある。また、若いときには親の一方に似、成長するに隨つて、他の一方の親に似るものもある。例へば、殼の黃色い蝸牛と殼の紅い蝸牛との間の雜種では、幼時に出來た殼部は黃色で、成長してからは紅い殼を生じた。鳥類にも之に類する例がある。その他、子が雄ならば一方の親なる甲品種の性質が優つて現れ、雌ならば他の一方の親なる乙品種の性質が優つて現れるといふやうな場合も少くない。

 以上述べた通り、相異なる兩親の性質が子に傳はるには、種々の仕方があつて、然もその間には判然した境界は附けられぬ。單に優劣の點のみに就いて論じても、白と赤との間に中間の桃色の生ずる如き殆ど優劣のない場合から、碗豆の如くに優劣の明なものまでの間に、無數の階段がある。また桃色の最も濃いのは赤と區別が出來ず、桃色の最も薄いのは白と區別が出來ぬ。試に赤インキに二割の水を混じて字を書いて見るに、元の色との區別は到底分らぬ程であるから、第一代雜種が全く一方の親のみに似て居ても、必ずしも他の方の親の性質が少しも混じて居らぬとの斷言は出來ぬ。赤と白との斑も、赤が段々減ずれば終には全く白となり、白が段々減ずれば終には全く赤となる。赤と白との斑が細かくなれば絞りとなり、霜降りとなり、更に細かくなれば全部一やうの桃色となる。斯く考へると、雜種には兩親の性質が或る割合に相混じて現れるのが通則であつて、メンデルの實驗した碗豆の如きはその一方の極端に位する特殊の場合と見倣すが至當であろう。メンデルは偶然にも初め碗豆を用ゐて實驗したから、兩親の性質が雜種の體内で相爭ひ、勝つた方が負けた方を壓服して居る如くに想像したが、若し他の材料を用ゐたならば、恐らく雜種には常に兩親の性質が或る形に相混じて現れることが明に知れて、優劣の區別には斯くまで重きを置かなかつたかも知れぬ。且碗豆の場合と雖も、第一代雜種が一方の親と全く同一で、少しも相違がないやうに見えるのも、或は見る人に識別力が足らぬためであるかも知れぬといふことに氣が附いたであらう。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(一) 序・一 メンデルとド、フリース

 

    第十六章 遺傳性の研究 

 

 前にも述べた通り遺傳に關する實驗的研究は、今より二十六七年前から遽に[やぶちゃん注:「にはかに(にわかに)」。]盛になつたものであるが、その理由は次の如くである。前世紀の中頃にオーストリア領のブルンといふ町の或る寺にグレゴール・メンデルといふ和尚があつて、この人が寺の仕事の餘暇に、種々の碗豆[やぶちゃん注:「えんどうまめ」。]を庭に植えて、違つた品種の間に雜種を造り、數年間實驗を續けた結果、遺傳に關する頗る面白い新事實を發見したので、之を短く書き綴つて、その地方の博物學會の會報に載せて置いた。然るに田舍の小雜誌であつたためか、世間の學者は一向これに注意した人がなくて、三十幾年かの間は全く忘れられて居たが、一千九百年に至つて、オランダド、フリースドイツコルレンスオーストリヤチュルマックといふ三人の植物學者によつて、偶然にも殆ど同時に見附け出された。ド、フリース等はその前から品種間の雜種を造つて、遣傳の研究に從事して居たが、他人の古い論文の中に、自分の研究に關係のあることが出ては居ないかと、彼此[やぶちゃん注:「かれこれ」。]探す中にこの報告を見出して、讀んで見ると極めて面白いことがあつて、然もそれが已に三十何年も前に發表せられてあつたから、大に驚いて、直に之を世に紹介した。それから急に、こゝでもかしこでもメンデルの曾て行つたのと同樣な實驗を試みる人が澤山に出來て、續續と新しい事實が發見せられ、雜種研究の有望なことが明になると同時に、メンデルの名は遽に世間に弘まり、非常に有名となつて、今では遺傳のことを論ずるに當つて、メンデル的といふ形容詞や、「メンデ」り、「メンデ」る、「メンデ」らん、などといふ四段活用の動詞までが用ゐられるやうになつた。今日盛に行はれて居る遺傳の研究も、その大部分は、昔メンデルの行つたと同樣のことを、たゞ材料を變へて試して居るだけである。

[やぶちゃん注:「オーストリア領のブルン」旧オーストリア=ハンガリー帝国領であった、現在のチェコ共和国第二の都市でモラヴィア地方の中心都市ブルノ(チェコ語: Brno)。ドイツ語名はブリュン(Brünn)またはブルン Brunn)。メンデルが入った修道院は“Augustinian St Thomas's Abbey”(英語)で、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「グレゴール・メンデル」遺伝の基本法則「メンデルの法則」で知られる植物学者で遺伝学の祖とされるグレゴール・ヨハン・メンデル(Gregor Johann Mendel 一八二二年~一八八四年)は司祭。ウィキの「グレゴール・ヨハン・メンデル」によれば、『メンデルの所属した修道院は哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などを擁し、学術研究や教育が行われていた』。一八四七年に『司祭に叙階され、科学を独学する。短期間ツナイムのギムナジウムで数学とギリシア語を教える』。一八五〇年には『教師(教授)の資格試験を受けるが、生物学と地質学で最悪の点数であったため不合格となった』。一八五一年から二年間、『ウィーン大学に留学し、ドップラー効果で有名なクリスチャン・ドップラーから物理学と数学、フランツ・ウンガーから植物の解剖学や生理学、他に動物学などを学んだ』。『ブリュンに帰ってからは』、一八六八年まで『高等実技学校で自然科学を教えた。上級教師の資格試験を受けるが』、『失敗している。この間に、メンデルは地域の科学活動に参加した。また、園芸や植物学の本を読み勉強した』。この頃には一八六〇~一八七〇年に『かけて出版されたチャールズ・ダーウィンの著作を読んでいたが、メンデルの観察や考察には影響を与えていない』。『メンデルが自然科学に興味・関心を持ち始めたのは』、一八四七年に『司祭として修道院の生活を始めた時である』。一八六二年には『ブリュンの自然科学協会の設立にかかわった。有名なエンドウマメの交配実験は』一八五三年から一八六八年までの『間に行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があり様々な形質や品種があり、人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目した』。『次に交配実験に先立って、種商店から入手した』三十四品種の『エンドウマメを二年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代的用語で純系に相当する)ものを最終的に』二十二品種を選び出している。『これが遺伝法則の発見に不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行ったものはいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった』。『その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても解っていたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で2n=14であるからである』。『この結果は口頭での発表は』一八六五年に『ブリュン自然協会で、論文発表は』一八六六年に『ブリュン自然科学会誌』で行われ、タイトルはVersuche über Pflanzen-Hybriden(植物雑種に関する実験)であった(太字下線やぶちゃん。以下、同じ)。『さらにメンデルは当時の細胞学の権威カール・ネーゲリに論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されなかった。メンデルの考えは、「反生物的」と見られてしまった。ネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナ』(キク亜綱キク目キク科タンポポ亜科ヤナギタンポポ属ミヤマコウゾリナ(深山顔剃菜・深山髪剃菜)Hieracium japonicum)『による実験を勧められ、研究を始めたが』、『この植物の形質の要素は純系でなく結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから』、『交配実験から遠ざかることになった』。一八六八年に『修道院長に就任し』、『多忙な職務をこなしたが』、一八七〇年ごろには『交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった』。『メンデルは、研究成果が認められないまま』、一八八四年に『死去した。メンデルが発見した法則は』、その十六年後の一九〇〇年に、ここに出る三人の『学者、ユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマクらにより再発見されるまで埋もれていた。彼らの発見した法則は、「遺伝の法則」としてすでにメンデルが半世紀前に研究し』、『発表していたことが明らかになり、彼の研究成果は死後に承認される形となった』のであった。

「碗豆」マメ目マメ科マメ亜科エンドウ属エンドウ Pisum sativumウィキの「エンドウ」によれば、『メンデルは遺伝の研究』では『特に』『遺伝子雑種と』『遺伝子雑種の研究が有名であ』り、その『遺伝子雑種の研究について』は、

・エンドウの種子には「丸型」と「皺(しわ)型」があること。

・純系の「丸型」と「皺型」を自家受精させたものの種子を調べると全てが「丸型」であったこと。

が大きなポイントで、これは「丸型」の形質が「皺型」の形質に対し、『優性であることを示して』おり、『メンデルはこれを『優性の法則』と呼んだ』。として、

・生まれてきた丸型の種子を自家受精させると、丸型:皺型=31の比率で種子ができたこと。

で、『これは体細胞で対になっている対立遺伝子は配偶子形成の減数分裂第一分裂の際、二手に分かれ』、『それぞれ別の配偶子に入ることを示してい』るものであった。『メンデルはこれを『分離の法則』と呼んだ』。『メンデルがエンドウを材料に使った理由は、そのころ』、『すでに数人の研究者によって、遺伝実験の材料として使われたことがあったためと思われる。エンドウは自家受粉が可能で、多くの品種があり、このことも遺伝の実験には好都合だったと見られる』とある。

「ド、フリース」ユーゴー・マリー・ド・フリース(Hugo Marie de Vries 一八四八年~一九三五年)はオランダの植物学者・遺伝学者。ウィキの「ユーゴー・ド・フリース」によれば、オオマツヨイグサ(フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta)の栽培実験によって、一九〇〇年に『カール・エーリヒ・コレンスやエーリヒ・フォン・チェルマクらと』、それぞれ独自に『メンデルの法則を再発見した。さらにその後も研究を続け』、翌一九〇一年には『突然変異を発見』、彼は『この成果に基づいて、進化は突然変異によって起こるという「突然変異説」を提唱した』。『政治家の息子としてオランダのハールレムに生まれた。ライデン大学・ハイデルベルク大学で植物分類学を学び、オランダの植物相の専門家となった。のちにヴュルツブルク大学のユリウス・フォン・ザクスの研究室へ入り、ここで植物生理学の分野で重要な貢献をした(膨圧、呼吸、成長、原形質分離など。「原形質分離」という言葉を作ったのもド・フリースである)。ここでの研究はヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフの浸透圧の研究にも影響を与えた』。一八七八年に『アムステルダム大学の植物学の教授となり、この頃から遺伝の研究に移』り、一八八九年には『これまでの遺伝に関する研究をまとめた『細胞相互間のパンゲネシス』(Intracellular Pangenesis)』(「パンゲネシス」は獲得性遺伝を説明するためにダーウィンが一八六八年に唱えた仮説。「gemmule(ジェミュール:芽球)」という自己増殖する粒子が各細胞にあって、それが外界から種々の影響を受け取って生殖細胞に集まり、次代になって再び各器官に分散して遺伝現象を起こすというもの。これによれば、後天的獲得形質は遺伝可能となる。無論、現在は歴史的興味を留める旧説に過ぎない。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『を出版した。論文中で彼は遺伝を決定する細胞内の要素をパンゲンと名づけた。この理論を研究するため』、一八九二年から『植物の栽培実験を始めた。そして』四年後の一八九六年、『メンデルの法則を再発見した。彼はこの結果をしばらく発表しないでいたが』、一九〇〇年に三十四年前の『グレゴール・ヨハン・メンデルの論文を知り、自身の論文を発表した』。『微小な変異が蓄積して新種が生じるというチャールズ・ダーウィンの説に懐疑的にだったド・フリースは』一八八六年から『アムステルダム近郊でオオマツヨイグサの栽培実験を始めた。彼は、この研究において生じたいくつかの変異株が常に同一形質の子を生ずることに気付いた。彼はこれをパンゲンが変化したために』、『それに支配される形質だけが標準型と異なる「新種」が生まれたとして、これを突然変異と名づけた。そして進化はこのような突然変異による新種に自然選択が働いて起こると考え』、その結果を一九〇一年から『突然変異論』(The Mutation Theory)として出版した』(「から」というのは後で丘先生が本文で言われるように、一九〇三年にも追加しているからである)。『しかしながら』、『後にこの植物の染色体の遺伝的構成はきわめて複雑なことが判明し、ド・フリースの観察した結果は三倍体ないし四倍体による変異であると説明されるようになった。それでも、彼の理論は現在でも』、『ある種について進化に繋がる変異がどの程度起きるかを考察するために重要なものとみなされている』とある。

「コルレンス」カール・エーリヒ・コレンス(Carl Erich Correns 一八六四年~一九三三年)はドイツの植物学者・遺伝学者。ウィキの「カール・エーリヒ・コレンス」より引く。『彼は第一に、彼自身の遺伝学における法則の発見によって、そして遺伝学に関するグレゴール・ヨハン・メンデルの初期の論文を、植物学者であるエーリヒ・チェルマック及びユーゴー・ド・フリースとほぼ同時に、しかしそれぞれ独立して再発見した(いわゆるメンデルの法則の再発見)ことによって知られる』。『コレンスは、当初はカール・ネーゲリの学生であった。ネーゲリは、メンデルが自分のエンドウマメで行った遺伝の研究について論文を送ったにもかかわらず、その研究の重要性を理解できなかった著名な植物学者であ』り、『また、チェルマックはメンデルのウィーンでの学生時代に植物学を教えた人物の孫であった』。『ミュンヘンで生まれた。幼い頃に両親を亡くしたので、スイスに住む叔母によって育てられた』。一八八五年に『ミュンヘン大学に入学し、そこでメンデルが自身の行ったエンドウマメの実験について論文を送付した植物学者であるカール・ネーゲリに師事して植物学を学んだ』。『自身の学位論文を書き上げた後』、一八九二年に『テュービンゲン大学の私講師となり、さらにライプツィヒ大学およびミュンスター大学での教授職を経て』、一九一三年、『ベルリン郊外のダーレムに新しく設立されたカイザー・ヴィルヘルム生物学研究所の初代所長となった』。『コレンスは』十九『世紀の変わり目頃に遺伝学の分野における多くの基礎的な仕事を行った。彼はメンデルの業績を別のモデル生物を用いて独自に追試し、再発見した。彼はまた、メンデルの法則の重要な進展となる細胞質遺伝を発見したが、これはメンデルの法則を越えて遺伝学を大きく拡大したものであり、表現型に関係を持つものが染色体外にも存在することを証明していた。しかし、コレンスのほとんどの研究は未発表に終わり』、一九四五年の『ベルリンの戦いにより』完全に破壊され』てしまっている。『テュービンゲン大学時代の』一八九二年、『コレンスは植物における形質の遺伝について実験を開始した。彼はメンデルによるエンドウマメの実験の結果を知らないで、メンデルが行ったのと同じ実験を、主にヤナギタンポポ』(キク目キク科ヤナギタンポポ属ヤナギタンポポ Hieracium umbellatum『により行った。コレンスは最初の論文を』一九〇〇年一月二十五日に発表しているが、『彼はその中でチャールズ・ダーウィンとメンデルの両方を引用したが、遺伝学とダーウィンの進化論の関連性については十分に理解していなかった。コレンスの論文『交配種の子孫の様式に関連したグレゴール・メンデルの法則』において、彼はメンデルの研究結果、分離の法則及び独立した組み合わせの法則について言及した』。『メンデルの遺伝の法則を再発見した後、コレンスはオシロイバナ』(ナデシコ目オシロイバナ科オシロイバナ属オシロイバナ Mirabilis jalapa)『を用いて、その変化に富んだ(緑と白のまだらの)葉の色の遺伝を研究した。彼が再発見したメンデルの法則は染色体の振る舞いそのものであったが、彼はオシロイバナの研究によって、メンデルの法則に対する明確な反例を探しだした。メンデルの法則では、その形質はその元になる両親の性別とは独立して振る舞うのに対して、コレンスは、この例では葉の色はその性質を持つ親がどちらの性であるかに大きく依存していることを発見した。例として、白い枝に別の区域の白い花からの花粉で受粉すると』、『白い子孫を生じ、これは劣性遺伝子であれば当然予測される結果である。緑の柱頭に緑の花粉を受粉すると、すべて緑色の子孫を生じ、これも優性遺伝子ならば期待通りの結果であった。しかしながら、もし白い柱頭を緑の花粉で受粉すると子孫は白くなるが、花粉と柱頭の組み合わせを逆にして緑の柱頭を白い花粉で受精すると、子孫は緑であった』。『この、メンデルの法則から外れた遺伝のパターンは、後に』 IOJAP(葉緑体蛋白質合成が起こらない白色変異の一つを出現させる遺伝子)『と名付けられた遺伝子であることが突き止められた。これは、葉緑体リボソームを適切に組み立てるために必要な小さな蛋白質をコードしたものである。たとえ』IOJAP『がメンデルの法則にしたがって類別しても、もし母系がホモ接合型劣性であるなら、その蛋白質は産生されないので葉緑体リボソームも形成されず、細胞小器官の中にリボソームは取り込まれないことからプラスミドは機能しない結果となる。子孫は iojap の機能的なコピーを持っているかもしれないが、たいていの被子植物では、葉緑体はその大部分が母方から排他的に伝えられるので、それらはそれ以前の世代では不活性であり、白い植物となったことだろう。逆にもしも父方が白く、緑色の母方と交配すると、この母は機能を保った葉緑体を持っているから、子孫は機能的な葉緑体のみを引き継いで緑色になる』。一九〇九年の『論文において、彼は葉の斑入りが細胞質遺伝の最初の包括的な例であることを立証した』とある。

「チュルマック」エーリヒ・フォン・チェルマク(Erich von Tschermak-Seysenegg 一八七一年~一九六二年)はオーストリアのウィーン出身の農学者(遺伝・育種)。ウィキの「エーリヒ・フォン・チェルマク」より引く。『初期は園芸品種の改良に関心を示した』。『フライブルクの農場で従事し、病害に強い品種の開発を行い、その中には交雑種を含むムギの品種改良が含まれている』。一九〇〇年に『オーストリアの国営農場でエンドウの交配実験を行い、チェルマクはユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンスと並び、グレゴール・ヨハン・メンデルが』一八六〇年に『発表したメンデルの法則を再発見した人物とされ』る。一九〇六年には『ウィーン農科大学の教授を務めた』とある。

『メンデル的といふ形容詞や、「メンデ」り、「メンデ」る、「メンデ」らん、などといふ四段活用の動詞までが用ゐられるやうになつた』私は聴いたことがないが、明治末から大正期にかけてはこんな新語があったのであろう。面白い。] 

 

 遺傳に關する近頃の議論を書いたら、その大要だけを摘んでも悠に一册の書物となる程であるから、本書に於ては無論その一部分より述べることは出來ぬ。元來本書は生物進化のことを通俗的に説明するのが目的てあるから、遺傳に就いての樣々の假説を掲げる必要はないやうにも思ふが、遺傳のことを書いた新しい書物の中には、往々事實と假説とを混合して、或る一派の人々の唱へる假説までも、已に確な事實であるかの如くに書いたものもあつて、讀者をして自然淘汰説が已に他の新説と交代したかの如き感を抱かしめぬとも限らぬから、本章に於て、近來の實驗で確められた遺傳上の事實と、之を説明するために考へ出された學説の中で重要な部分だけを短く紹介する。

 

     一 メンデルド、フリース 

 

Mendel[メンデル]

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を明度を上げて補正して使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。後のド・フリースの肖像も同じ。] 

 

 グレゴール・メンデルは一千八百二十二年にオーストリヤシュレジヤ地方の或る村で生れた。姓を聞くとユダヤ人かと思はれるが、實は純粹な獨逸人で、高等學校を卒業してから、ブルン町の寺に入つて僧侶となり、寺の費用でヴィーン大學に人學し、三年間理科を修め、歸つてからは町の實科學校で、理科を受持つて居た。遺傳の實驗をしたのはその頃で、八年間寺の庭で研究を續け、その結果を千八百六十五年の春、ブルン博物學會の例會で講演し、後これを同會の會報に掲げた。後世の實驗遺傳研究の手本となつたのは、この僅に三十頁ばかりの報告である。一千八百六十八年、卽ち我が國の明治元年に教員を止めてからは、專ら寺の和尚となり、研究も中絶したが、その後、寺院の課税問題に就いて政府に反抗し、晩年は極めて不愉快な生活をして、終に一千八百八十四年、卽ち明治十七年に六十三歳で死んだ。さればメンデルの名が急に世に知られたのは、當人の死後十數年を經てからである。

[やぶちゃん注:「オーストリヤ領シュレジヤ地方の或る村」メンデルは旧オーストリア帝国のハインツェンドルフ(Heinzendorf:現在のチェコ・モラヴィアのヒンチツェ(Hynčice)。ここ(グーグル・マップ・データ))に小自作農の果樹農家の子として生まれた。母語はドイツ語であった。

「寺院の課税問題に就いて政府に反抗し、晩年は極めて不愉快な生活をして、終に一千八百八十四年、卽ち明治十七年に六十三歳で死んだ」小学館「日本大百科全書」によれば、後年の『メンデルは、交配実験のやりにくいミヤマコウゾリナの研究で目を悪くしたうえ』、一八六八年の『選挙で聖トマス修道院の院長に選ばれ、雑用に追われる身となり、遺伝研究を続けることができなくなった』一八七四年、『オーストリア議会が修道院からも徴税する法律を制定、彼はその反対闘争に立ち上がり、死ぬまでの』十『年間は』、『その撤回のための闘いに全精力を傾けた。政府の懐柔策と闘ううちに、周囲からも裏切られ、孤立し、しだいに人を信じない気むずかしい老人となり』一八八四年一月六日、『この世を去った』とある。私は中学生の頃、少年向け科学書で、彼の発見が生前、全く顧みられなかったこと、そしてこの晩年の話をも読み、それ以来、メンデルがとても可哀想に思われた。今も同じである。] 

 

 メンデル以前にも相異なつた品種間に雜種を造つて見た人は幾らもあつたが、特にメンデルが他人の見出し得なかつた面白い新事實を發見したのは何故であるかといふに、一はかの選んだ材料が偶然にも丁度適當なものであつたにも因るが、また彼の用ゐた實驗の方法が頗る注意深くあつたためである。雜種を造るに當つて、彼は決して一代で滿足せず、更に引き續いて幾代も培養し、常に他の花から花粉の飛んで來ぬやうに、一個一個の花を保護して、その花だけで果實を生ぜしめ、更に之を蒔いて、性質の相異なつたものが生えれば、一代每にその數を精密に算へて置いたが、斯くして第一代雜種は皆一樣である場合にも、第二代以後には樣々の相異なつたものが出來て、然もその間の數の割合が略々一定して居ることなどを發見した。今日でも彼の用ゐたのと同じ材料を用ゐ、同じ方法で實驗さへすれば、誰でも容易に彼の得たと同樣の結果を見ることが出來る。雜種による遺傳研究の今日頗る盛であるのも、一はその比較的容易に行はれ得るためであらう。

Dofrice[ド、フリース] 

 

 フーゴー、ド、フリースは一干九百年にメンデルの古い研究を世に紹介した一人であるが、この人は一千八百四十八年にオランダハールレム市で生れ、自國ではレイドン、獨逸ではハイデルベルヒヴュルツブルヒ等の大學で修業し、一千八百七十七年卽ち明治十年にアムステルダム大學の植物學教授となつて、今もそのまゝ勤めて居る。初めは主として植物生理を研究して居たが、遺傳・變異等の問題にも大なる興味を持ち、曾て「細胞内パンゲン説」と題する面白い册子を書いたことがある。遺傳・變異等の實驗研究の材料として、最も適當な植物を色々探して居る内、一千八百八十六年にアムステルダムの附近のヒルフルスムといふ村の荒畑で、不圖[やぶちゃん注:「ふと」。]月見草に面白い變異のあることを見附け、早速、アムステルダム大學の植物園に移し植ゑ、それからは全力を盡して月見草の變異の研究に從事し、何萬本ともなく培養したが、一千九百年には曾てメンデルが發見したと同樣の事實を確め、一干九百一年と同三年とには「突然變異説」と題する二册物の立派な書物を著した。この書はド、フリースが十五年間の實地研究に基づいたもので、議論の基礎とする事實が頗る確實で且豐富であつたから、忽ち非常な評判となり、後アメリカから招かれて講演に行つたときなどは、同地の新聞紙にはダーウィンの自然淘汰説は全く倒れて、ド、フリースの突然變異説がその代りに立つた如くに囃し立てた。動植物學者間に雜種の研究の流行し始めたのは丁度その頃で、それ以來は新しい實驗の報告が殆ど絶え間なく澤山に發表せられ、今日では之を掲載するための專門の雜誌が、イギリスドイツ等に二三種も刊行せられ、最近にはアメリカにも「遺傳の雜誌」といふ表題の雜誌が出來るに至つた。

[やぶちゃん注:「オランダのハールレム市」ハールレム(Haarlem)は現在のオランダの北ホラント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)で、州都が置かれている都市。因みに、ニューヨークのハーレム(Harlem)地区の名称はこのハールレムに由来する(オランダ移民が作ったからという。以上はウィキの「ハールレム」に拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「レイドン」ライデン大学(オランダ語: Universiteit Leiden)。オランダ国内の大学としては最も古い。一五七五年設立。

「ハイデルベルヒ」「大學」ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク(ドイツ語:Ruprecht-Karls-Universität Heidelberg)。一三八六年創立のドイツ最古の大学。通称は「ハイデルベルク大学」。

「ヴュルツブルヒ」「大學」ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルク(ドイツ語:Julius-Maximilians-Universität Würzburg)。通称は「ヴュルツブルク大学」。一四〇二年創立。

「細胞内パンゲン説」序の注のド・フリースの中で注した「パンゲネシス」(Pangenesis)の略称。

「アムステルダムの附近のヒルフルスムといふ村」オランダ中部北ホラント州の基礎自治体(ヘメーンテ)ヒルフェルスム(オランダ語:Hilversum)。(グーグル・マップ・データ)。

「月見草」この場合は、ド・フリースの先の注で示したフトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta を指している。一般に本邦では本種や同属のオオマツヨイグサ Oenothera erythrosepala、及びコマツヨイグサ Oenothera laciniata などを「月見草」と呼んでいるので、世間一般での呼称に合わせたならば間違いではないが、狭義の種としては、マツヨイグサ属ツキミソウ Oenothera tetraptera を指すので、生物学書としては、ここは「マツヨイグサ」或いは「月見草(マツヨイグサ)」としなければ、甚だまずい。なお、以上の種は総てが帰化種である。因みに、私は黄色いオオマツヨイグサ・やマツヨイグサが嫌いである(従って太宰のあのキャッチ・コピーも好かぬ(太宰治の小説「富嶽百景」昭和一八(一九四三)年新潮社刊)の有名な『富士には月見草がよく似合ふ』というフレーズの「月見草」とは実はオオマツヨイグサのことである。だって富士に『相(あひ)対峙(たいじ)し』て『けなげにすつくと立つてゐた』と出るのはとてもとてもツキミソウではない!)。但し、砂浜海岸に見られるコマツヨイグサやハマベマツヨイグサ Oenothera humifusa (コマツヨイグサに似るが茎が直立する。やはり帰化種)はいい。しかし、前者は鳥取砂丘で砂丘を緑化する「害草」として駆除されているらしい。可哀想!)。ユウゲショウ Oenothera rosea (帰化種)に至っては、これ見よがしな紅がはっきり言って嫌い! 私が好きなのは、もうお分かりと思うが、唯一正統る「月見草」、白色の可憐なツキミソウ Oenothera tetraptera なのである(グーグル画像検索「Oenothera tetraptera――白い花だけをご覧下)。……三十五年前、独身だった私の新築前の古い家の地所内の玄関脇には、野生の、この白いツキミソウ Oenothera tetraptera の群落があったのだった。毎日のように泥酔して帰ると、この時期、夢幻(ゆめまぼろし)のように闇の中に十数輪の月見草がぼうっと輝いていたものだった。……ある夜、それを楽しみに千鳥足で帰ってみると……門扉の中側でありながら……一株残らず……綺麗にシャベルでこそがれて持って行かれていた……私はユリィディスを失ったオルフェのように地べたに膝をついて号泣したのだった……私はそれを偸んだ奴を実は知っている……あの裏山を越えたところに今も住んでいる老婆だ……今も私は恨んでいる……『君には何う見えるか知らないが、私は是で大變執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年立つても二十年立つても忘れやしないんだから』……(漱石「こゝろ」より)……

『最近にはアメリカにも「遺傳の雜誌」といふ表題の雜誌が出來るに至つた』不詳。識者の御教授を乞う。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十二年 「曙覧の歌」

 

     「曙覧の歌」

 

 三月に入ってから久々に「病牀譫語(びょうしょうせんご)」という随筆を『日本』に掲げつつあった居士は、その稿の了らぬうちに、「曙覧(あけみ)の歌」なるものを載せはじめた。居士が実朝以後においてすぐれた歌人を求めんとし、作品を点検しては失望を繰返していた消息は、「曙覧の歌」冒頭にある数行の文字がよくこれを伝えている。

[やぶちゃん注:「曙覧」橘曙覧(たちばな あけみ 文化九(一八一二)年~慶応四(一八六八)年)は幕末の歌人・国学者。ウィキの「橘曙覧」より引く。身近な言葉で日常生活を詠んだ和歌で知られる。『越前国石場町(現・福井県福井市つくも町)に生まれる。生家は、紙、筆、墨などや家伝薬を扱う商家で、父親は正玄(正源とも表記)五郎右衛門。彼は長男として生まれ、名は五三郎茂時。後に、尚事(なおこと)、さらに曙覧と改名する。橘諸兄の血筋を引く橘氏の家柄と称し、そこから国学の師である田中大秀から号として橘の名を与えられた』。二『歳で母に死別』、十五『歳で父が死去。叔父の後見を受け、家業を継ごうとするが、嫌気をさし』、二十八『歳で家督を弟の宣に譲り、隠遁。京都の頼山陽の弟子、児玉三郎の家塾に学ぶなどする。その後、飛騨高山の田中大秀に入門し、歌を詠むようになる。田中大秀は、本居宣長の国学の弟子でもあり、曙覧は、宣長の諡号「秋津彦美豆桜根大人之霊位」を書いてもらい、それを床の間に奉って、独学で歌人としての精進を続ける。門弟からの援助、寺子屋の月謝などで妻子を養い、清貧な生活に甘んじた。当初足羽山で隠遁していたが』、三十七『歳の時、三ツ橋に住居を移し、「藁屋」(わらのや)と自称した』。四十三『歳の時、大病をし、名を曙覧と改めた』。安政五(一八五八)年には、「安政の大獄」で謹慎中の松平慶永(文政一一(一八二八)年~明治二三(一八九〇)年:第十六代越前福井藩主。号の「春嶽」の方が知られる。幕府が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印した際、徳川斉昭らとともに登城をして抗議したことを不時登城の咎とされて強制的に隠居させられて謹慎の処罰を受けていた。後、文久二(一八六二)年四月に幕政参加を許された)『の命を受け、万葉集の秀歌を選んだ。曙覧の学を慕った春嶽は』元治二・慶応元(一八六五)年、『家老の中根雪江を案内に「藁屋」を訪れ、出仕を求めたが、曙覧は辞退した』。慶応四年八月二十八日(一八六八年十月十三日)に亡くなったが、この十日後、明治に改元された。『橘曙覧の長男、井手今滋(いましげ)は父の残した歌をまとめ』、明治一一(一八七八)年に「橘曙覧遺稿 志濃夫廼舎歌集」(しのぶのやかしゅう)を編纂した。正岡子規はこれに注目』、ここにある通り、明治三二(一八九九)年、『日本』紙上に『発表した「曙覧の歌」で、源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人と絶賛し、「墨汁一滴」において「万葉以後において歌人四人を得たり」として、源実朝・田安宗武・平賀元義とともに曙覧を挙げている。以後、子規およびアララギの影響下にある和歌史観において重要な存在とな』った。「志濃夫廼舎歌集」には『「独楽吟」(どくらくぎん)がある。清貧の中で、家族の暖かさを描き、次のような歌がある』。

 

たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時

たのしみはまれに魚烹(に)て兒等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時

たのしみは空暖(あたた)かにうち晴(はれ)し春秋(はるあき)の日に出(い)でありく時

たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙艸(たばこ)すふとき

たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來たりて錢くれし時

 

以上の引用歌は所持する「橘曙覧全歌集」(一九九九年岩波文庫刊)と校合した。

 以下は国立国会図書館デジタルコレクションの大正一一(一九二二)年アルス刊「竹里歌話 正岡子規歌論集」の「曙覧の歌」(全文が読める)と校合した(「曙覧の歌」は「青空文庫」のでも読めるが、新字新仮名である)。底本では頭の一字下げがなく、全体が二字下げである。前後を一行空けた。]

 

 予の初めて歌を論ずる、或人予に勸めて、俊賴集、文雄集、曙覽集、を見よといふ。其斯くいふは三家の集が尋常歌集に異なる所あるを以てなり。先づ源俊賴の『散木奇歌集』を見て失望す。いくらかの珍しき語を用ゐたる外に何の珍しき事もあらぬなり。次に井上文雄(いのうへふみを)の『調鶴集(てうかくしふ)』を見て亦失望す。これも物語などにありて普通の歌に用ゐざる語を用ゐたる外に何の珍しき事もあらぬなり。最後に橘曙覽の『志濃夫廼舍(しのぶのや)歌集』を見て始めてその尋常の歌集に非ざるを知る。其歌、『古今』『新古今』の陳套に堕ちず、眞淵・景樹の窠臼(くわきう)に陷らず、『萬葉』を學んで『萬葉』を脱し、鎖事俗事を捕へ來りて、縱橫に馳驅(ちく)する處、却て高雅蒼老(こうがさうらう)些(いささか)の俗氣を帶びず。殊にその題目が風月の虛飾を貴ばずして、直(ただち)に自己の胸臆(きようおく)を攄(し)く者、以て識見高邁、凡俗に超越する所あるを見るに足る。而して世人は俊賴と文雄を知りて、曙覽の名だに之を知らざるなり。

[やぶちゃん注:「窠臼(くわきう)」(現代仮名遣:かきゅう)は文章・芸術品などを批難する場合に用い、「旧套・紋切り型」の意。「窠」は、木瓜(もっこう)とも称し、瓜(うり)を輪切りにした形に似た文様や紋所を指す。一説には蜂の巣の形ともいう。「臼」はそれを「繰り返し搗き捺(お)した(もの)」というステロタイプのことであろうか。

「俊賴」「源俊賴」(天喜三(一〇五五)年頃~大治四(一一二九)年)は平安後期の歌人。大納言源経信の子。近衛少将・左京権大夫・木工頭(もくのかみ)を歴任、従四位上に至った。白河院より命を受け、「金葉和歌集」を撰している。進歩的で清新な歌風で、勅撰集に約二百首の和歌が選入されている、院政期を代表する大御所的存在であった大歌人。ここに出る「散木奇歌集」は自選歌集。全十巻で千六百二十二首を載せる。大治三(一一二八)年頃の成立。作者一生の総決算ともいうべき家集である。「散木」は俊頼が木工頭であったことから謙遜して称したもの。「小倉百人一首」の第七十四番歌、

 

憂かりける人を初瀨の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを

 

や歌学書「俊賴髓腦」(天永四・永久元(一一一三)年成立か)でよく知られる。

「文雄」「井上文雄」(ふみお 寛政一二(一八〇〇)年~明治四(一八七一)年)幕末から明治初めの田安家侍医で歌人。通称は元真。文雄は法号。岸本由豆流(きしもとゆずる)に国学を学び、後、一柳千古(いちやなぎちふる)の門下となり、医師を辞めた後は日本橋茅場町に住んで、歌人として立ったが、維新後、時局諷刺の新聞『諷歌新聞』を発行して明治政府を批判し、幕府や会津藩士に同情する歌を発表したことから、政府に睨まれ、獄に投ぜられたこともあった(老身ゆえ間もなく許されたという)。「万葉集」を理想とした賀茂真淵の説に反対し、「古今和歌集」を尊ぶ香川景樹の説を支持した。江戸派の最後を飾る歌人で、「香川景樹以後の詠み口」とも称された。個性を重視し、用語の自由を主張して和歌の革新を用意したと評される。佐々木弘綱(信綱の父)は彼の門下である。ここに出る私歌集「調鶴集」(慶応四・明治元(一八六八)年成立)は短歌九百十七首・連歌二首・長歌五首を収録する。子規はぼろ糞に言っているが、中には、

 

さくらちり鈴菜こぼるる田舍道これより春も暮れてゆくらむ

 

などの写実的な歌もある(以上は小学館「日本大百科全書」を主として、一部で水垣久氏のサイト「やまとうた」の「井上文雄」を参照した)。

「鎖事」瑣事に同じ。

「高雅蒼老(こうがさうらう)」「蒼老」は対象が年経た、年老いた様子をしていることを言う語であるが、ここは謂わば、「燻し銀」の意でとればよかろう。

「胸臆(きようおく)を攄(し)く者」胸の裡(うち)を表出するところのもの。「攄」(音「チョ」)は「表わす・述べる」の意。]

 

 居士が俊頼、文雄についていうところは漫然たる罵倒ではなかった。『散木奇歌集』にしろ、『調鶴集』にしろ、居士は皆精読の上、手抄(しゅしょう)を作っている。自己の敬意を払わぬ作家の者に対しても、この種の労を敢てすることは、「俳句分類」や「俳家全集」が蒼虬(そうきゅう)、梅室らの作品を逸しておらぬのと一般である。ただ『歌よみに与ふる書』において大上段に構えた居士としては、『散木奇歌集』や『調鶴集』で満足するわけに行かない。『志濃夫廼舎歌集』に至ってはじめて論ずるに足るものに逢著(ほうちゃく)したのである。

[やぶちゃん注:「手抄(しゅしょう)」自分の手でオリジナルに選んで、直接、抜き書きをすること。そのように抄録したもの。]

 

 「曙覧の歌」は前後九回にわたり、相当長いものであるが、曙覧の人物と歌とを紹介するにはじまり、その歌に対する批評を以て了っている。居士は「曙覽の貧は一般文人の貧よりも更に貧にして、貧曙覽が安心の度は一般貧文人の安心よりも更に堅固なり」といった。曙覽の「独楽唫(どくらくぎん)」の中に饅頭、焼豆腐を詠じていることについて、陽に清貧を楽んで陰に不平を蓄うる似而非(えせ)文人の到底よくせざるところとし、「彼等は酒の池、肉の林と歌はずんば必ずや麥の飯、藜(あかざ)の羹(あつもの)と歌はん。饅頭、燒豆腐を取つてわざわざ之を三十一文字に綴る者、曙覽の安心ありて始めて之有るべし。あら面白の饅頭、燒豆腐や」と断じたのは、俳句の月並に対するのと同じ見解である。

[やぶちゃん注:正直言うと、私は正岡子規の異常な食欲や喰い振り、それを日記に記しているのが、非常に厭である。不快である。その一点に於いて、私は一時期、子規の書を持ちながら、遠ざけていさえした。これは或いは志賀直哉が妻との性交を日記に律儀に『肉』と記し続けたのと変わらぬほどに不快なのである。しかもそこには美食・贅食レベルのものも往々に含まれており、しかも概ね、自分で金を払わぬ贈りものである。それをまた、母や妹に分けずに一人で全部食ってしまうことが多い。それが甚だ腹が立つのである。ここで子規が曙覧を賞揚した核心は、まさにこの「独楽吟」の食通(贅沢品でなくても食通はあり得る)にこそあったのだと私は確信している。因みに、短歌嫌いの私にしては珍しく橘曙覧は好きである。

「更に貧にして、貧曙覽が安心の度は」先のアルス版では『更に貧にして貧、曙覽が安心の度は」となっているが、後の「貧文人」との附け合いから、この方がいい。

「独楽唫(どくらくぎん)」「唫」は「吟」に同じい。「志濃夫廼舎歌集」の「春明艸 第一集」の中にある同題の「たのしみは」で始まって「~とき」で終わる形式で詠んだ連作五十二首。ここで子規は連続する次の三首を掲げている(ここ)。但し、以下は子規のそこからではなく、先の岩波文庫本を漢字を正字化して示した(子規の表記には一部違いがある)。

 

たのしみは木(こ/き)の芽(め)瀹(に)やして大きなる饅頭(まんぢゆう)を一つほほばりしとき

たのしみはつねに好める燒豆腐(やきどうふ)うまく烹(に)たてて食(く)はせけるとき

たのしみは小豆(あづき)の飯(いひ)の冷(ひ)えたるを茶漬(ちゃづ)けてふ物になしてくふ時

 

「木(こ/き)」「こ」は右ルビ、「き」は左ルビ。「木の芽」山椒の芽。「瀹(に)やして」漬(ひた)して。]

 

 居士は進んで「安心の人に誇張あるべからず、平和の詩に虛飾あるべからず」といい、曙覧を以て盲の誇張虚飾なきものとした。松平春嶽が曙覧を聘(へい)せんとし、曙覧が固辞して応じなかった一事を評して「文を賣りて米の乏しきを歎き、意外の報酬を得て思はず打ち笑みたる彼は、此に至つて名利(めいり)を見ること門前のくろの糞(ふん)の如くなりき。臨むに諸侯の威を以てし、招くに春嶽の才を以てし、而して一曙覧をして破屋竹笋(ちくじゆん)の間より起たしむる能はざりし者何が故ぞ」云々と述べたのは、やがて居士自身世に処する態度に触れて来るものでなければならぬ。

[やぶちゃん注:「門前のくろの糞」「くろ」は「畔」「壠」か。これは、①「田と田の間の土の仕切り・畦」、②「平地であるが、少し小高くなった場所」の意があるが、どうも孰れも「門前の」の形容と繋がりが悪く、ピンとこない。方言の一部で「隅・端」の意があるが、これも画像が逸れてしまい、上手くない。しかし、「日本国語大辞典」を見たところ、「藁などを積み上げたところ」を「うろ」と四国で呼ぶことが判った。私はそれが子規の意識の中にあって、「うろの」を「こんもりと盛り上がった」という形容として使用したのではないかと推理した。大方の御叱正を俟つ。]

 

 曙覧の歌が比較的何集の歌に似ているかといえば、いうまでもなく『万葉集』である。曙覧が歌の材料として取り来る者は、多く「自己周圍の活人事(かつじんじ)活風光(かつふうこう)」であって、「題を設けて詠みし腐(くさ)れ花腐れ月」ではない。実地を離れぬ曙覧の歌の中でも、飛驒の鉱山を詠んだ八首の如きは、殊に珍重すべきものであるが、客観的景象を詠ずる点にかけては、新材料を入れた事において、趣味を捉えた事において、『万葉』より一歩を進めると同時に、新言語、新句法を用いた事において、一般歌人よりは自在に言いこなすことが出来た。殊に見る所、聴く所、触るる所悉く歌にする、歌想の豊富なる点にかけては、単調な『万葉』の如きものではない。――居士はこういう風に曙覧を論じて来て、最後に調子の問題に及んだ。全体の調子からいうと、曙覧は『万葉』に及ばず、実朝に劣る、「惜むべき彼は完全なる歌人たる能はざりき」というのである。

[やぶちゃん注:「飛驒の鉱山を詠んだ八首」「志濃夫廼舎歌集」の「松籟艸 第一集」の中の以下。万延元(一八六〇)年、曙覧四十九歳の時、友人の案内で飛驒の銀鉱山の採掘現場を見学した際の、採掘から精錬に至るまでの行程を順に詠んだ連作八首。子規も全首をここで揚げている(但し、前書はカットされている)。以下、先の岩波文庫本を漢字を正字化して示した。

 

  人あまたありて、此わざ物しをるところ、見

  めぐりありきて

日のひかりいたらぬ山の洞(ほら)のうちに火ともし入りてかね掘り出だす

赤裸(あかはだか)の男子(をのこ)むれゐて鑛(あらがね)のまろがり碎(くだ)く鎚(つち)うち揮(ふ)りて

さひづるや碓(からうす)たてゝきらきらとひかる塊(つちくれ)つきて粉(こ)にする

筧(かけひ)かけとる谷水にうち浸(ひた)しゆれば白露(しらつゆ)手にこぼれくる

黑けぶり群(むらが)りたゝせ手もすまに吹き鑠(とろ)かせばなだれ落つるかね

鑠くれば灰とわかれてきはやかにかたまり殘る白銀(しろがね)の玉

銀(しろがね)の玉をあまたに筥(はこ)に收(い)れ荷(に)の緒(を)かためて馬馳(はし)らする

しろがねの荷負へる馬を牽きたてゝ御貢(みつぎ)つかふる御世(みよ)のみさかえ

 

「さひづる」は「から」の枕詞。「手もすまに」手も一時として休めることなしに。]

 

 曙覧の歌は概して第二句が重く、第四句が軽く、結句は力弱くして全首を結び得ぬものが多い。いわゆる「頭重脚軽(とうじゅうきゃくけい)」である。頭重脚軽の歌は『万葉』にないのは勿論、『古今』にもない。徳川時代の末、漸く複雑な趣向を取るに至ってこの風を生じたので、曙覧もまたこれを免れぬ。彼が完全なる歌人たり得ぬのは、調子を解せぬためということになるのである。この調子の問題は居士の最も意を用いたところで、当時の歌壇の多く顧みぬところであった。

 曙覧は居士によって発見された歌人ではないが、大(おおい)に世に顕れるに至ったのは居士の評論が出てからである。居士はとにかくこの人を得て「實朝以後たゞ一人」と称することが出来た。楫取魚彦(かとりなひこ)を「徒(いたづら)に『万葉』の語句を摸して『万葉』の精神を失へる」ものとして斥(しりぞ)け、語句を模せずしてかえって『万葉』の精神を伝えた――思うままを詠んで自ら『万葉』に近づいた曙覧を揚げたところに、居士の進歩的な意見が窺われる。

[やぶちゃん注:以上は、歌」末尾

「楫取魚彦(かとりなひこ)」(享保八(一七二三)年~天明二(一七八二)年)は江戸中期の国学者で歌人。ウィキの「楫取魚彦によれば、『本姓は伊能氏』。『名は景良』。『生れは下総国香取郡佐原(現香取市)。同郷で遠縁の親族が測量家の伊能忠敬(伊能三郎右衛門家)であ』った。『はじめは俳諧をたしなみ、建部綾足の門に入って片歌をつくり、あわせて画を学んだ』。『その後、賀茂真淵に師事して古学を修め、仮名遣いの書「古言梯(こげんてい)」を編集・出版し』、『賀茂真淵の四天王と称揚され』た。]

2018/05/25

詩集「在りし日の歌」 後記   中原中也 /   中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版) ~了

 

    後  記

 

 茲に收めたのは、「山羊の歌」以後に發表したものの過半數である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序でだから云ふが、「山羊の歌」には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを收めた。

 詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出來れば、私の詩生活も既に二十三年を經た。もし詩を以て本職とする覺悟をした日からを詩生活と稱すべきなら、十五年間の詩生活である。

 長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは少くない。今その槪略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確實に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも云つてをきたい。

 私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に託し、東京十三年間の生活に別れて、鄕里に引籠るのである。別に新しい計畫があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潛しようと思つてゐる。

 扨、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。

 さらば東京! おゝわが靑春!

        〔一九三七、九、二三〕

 

[やぶちゃん注:最後のクレジットは下二字上げインデントであるが、ブログのブラウザの不都合を考え、ずっと上に引き上げた。

「山羊の歌」昭四五(一九七〇)年麥書房刊の第一詩集。中原中也は生前、これと本「在りし日の歌」の二詩集しか出していない。

「大正十四年」一九二五年。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「むなしさ」の解説冒頭で「月」「春」夏の夜」などがそれに当たる(但し、創作時期であって発表ではないので注意)と述べておられる。

「昭和十二年」一九三七年。「永訣の朝」の後半の幾つか。これは、概ね、注で述べた。

「私の詩生活も既に二十三年を經た」クレジットの昭和一二(一九三七)年から二十三年前は数えとしてみると、大正四(一九一五)年、中也八歳となるが、これは冬の日の記憶の注で述べた、その年の一月、弟亜郎の死を悼んで歌を作った、という事実と合致する。

「詩を以て本職とする覺悟をした日からを詩生活と稱すべきなら、十五年間の詩生活である」同じように計算すると、大正一二(一九二三)年、中也十六歳となる。立命館中学へ転校した年である。ゆきてかへらぬ――京 都――の注で引用して述べたように、この年の秋、高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉の詩」を読んで感激し、ダダ風の詩を作るようになり、有意な詩篇をものしたとする(四十編ほどが現存)という事実と合致する。

「小林秀雄に託し」残念ながら、本詩集「在りし日の歌」は没後半年後の刊行となった。

「東京十三年間」中也の上京は大正一四(一九二五)年三月であるから、数えで一致する。

「鄕里に引籠る」遂にこれは成らなかった。墓は郷里の山口県吉敷(よしき)村長楽寺(現在の山口市吉敷佐畑。浄土宗。(グーグル・マップ・データ)。墓は地図画面の右端の経塚墓地内にある。注で述べたが、メルヘンのロケーションとされる吉敷川畔である)にあるが、葬儀は自宅の表にある鎌倉の寿福寺で行われている。

「それを思へば茫洋とする」小林秀雄の「中原中也の思い出」(昭和二四(一九四九)年『文芸』八月号「特輯中原中也」)でよく知られる。新潮文庫「作家の顔」(昭和四五(一九七〇)年改版)から引用しておく。小林秀雄は「大々」がつくぐらい大嫌いだが、このエピソードには今もしみじみする。ロケーションが私の好きな鎌倉の妙本寺から始まるせいだからであろう。

   *

 晩春の暮れ方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直(す)ぐに間断なく、落ちていた。樹蔭(こかげ)の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひらと散らすのに、きっと順序も速度も決めているに違いない、何んという注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺(おれ)達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果てしなく、見入っているときりがなく、私は、急に厭(いや)な気持ちになって来た。我慢が出来なくなって来た。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変らずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化(どうけ)た様な笑いをしてみせた。

 二人は、八幡宮の茶店でビールを飲んだ。夕闇(ゆうやみ)の中で柳が煙っていた。彼は、ビールを一と口飲んでは、「ああ、ボーヨー、ボーヨー」と喚(わめ)いた。「ボーヨーって何だ」「前途茫洋(ぼうよう)さ、ああ、ボーヨー、ボーヨー」と彼は目を据え、悲し気な節を付けた。私は辛(つら)かった。詩人を理解するという事は、詩ではなく、生まれながらの詩人の肉体を理解するという事は、何んと辛い想いだろう。彼に会った時から、私はこの同じ感情を繰り返し繰り返し経験して来たが、どうしても、これに慣れる事は出来ず、それは、いつも新しく辛いものであるかを訝(いぶか)った。彼は、山盛りの海苔巻(のりまき)を二皿平げた。私は、彼が、既に、食欲の異常を来(きた)している事を知っていた。彼の千里眼は、いつも、その盲点を持っていた。彼は、私の顔をチロリと見て、「これで家で又食う。俺は家で腹をすかしているんだぜ。怒られるからな」、それから彼は、何とかやって行くさ、だが実は生きて行く自信がないのだよ、いや、自信などというケチ臭いものはないんだよ、等々、これは彼の憲法である。食欲などと関係はない。やがて、二人は茶店を追い立てられた。

   *

因みに、以上は没した年の晩春である。

 以下、奥附となっているが、死後の刊行なので復元しない。因みに、『版元』は創元社、印刷は昭和一三(一九三八)年四月十日、発行は同年四月十五日である。定価は一円五十銭(但し、満州・朝鮮・台湾・樺太等の外地定価は一円六十五銭)とある。
 

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     亡き娘アリスの靈に捧ぐ


【2018年5月25日 藪野直史】]

蛙聲   中原中也

 

     蛙  聲

 

天は地を蓋ひ、

そして、地には偶々池がある。

その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……

――あれは、何を鳴いてるのであらう?

 

その聲は、空より來り、

空へと去るのであらう?

 

天は地を蓋ひ、

そして蛙聲は水面に走る。

 

よし此の地方(くに)が濕潤に過ぎるとしても、

疲れたる我等が心のためには、

柱は猶、餘りに乾いたものと感(おも)はれ、

 

頭は重く、肩は凝るのだ。

さて、それなのに夜が來れば蛙は鳴き、

その聲は水面に走つて暗雲に迫る。

 

[やぶちゃん注:本詩篇が「在りし日の歌」の詩篇の掉尾である。「蛙聲」は「あせい」。本文中のそれも同じ。但し、単独の二箇所の「蛙」は「かへる(かえる)」でよい。諸本もそう読んでいる。発表は昭和一二(一九三七)年七月の『文學界』(角川文庫「中原中也詩集」年譜による)で、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、創られたのは同年五月十四日とある。また、この日には今一つの生前発表(没月)された今一つの詩「初夏の夜に」も創られているとある。されば、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」に所収する「初夏の夜に」を基礎底本としつつ(サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「生前発表詩篇」の電子データを加工用に使用させて戴いた。また、新潮社版になく、そちらにある最後のクレジットも使用させて戴いた)、恣意的に漢字を正字化して示すこととする。

   *

 

  初夏の夜に

 

オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か――

死んだ子供等は、彼(あ)の世の磧(かはら)から、此の世の僕等を看(み)守つてるんだ。

彼の世の磧は何時(いつ)でも初夏の夜、どうしても僕はさう想へるんだ。

行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。

窓の彼方(かなた)の、笹藪(ささやぶ)の此方(こちら)の、月のない初夏の宵の、空間……其處(そこ)に、

死兒等は茫然(ばうぜん)、佇(たたず)み僕等を見てるが、何にも咎(とが)めはしない。

罪のない奴(やつ)等が、咎めもせぬから、こつちは尚更(なほさら)、辛(つら)いこつた。

いつそほんとは、奴等に棒を與へ、なぐつて貰(もら)ひたいくらゐのもんだ。

それにしてもだ、奴等の中にも、十歳もゐれば、三歳もゐる。

奴等の間にも、競走心が、あるかどうか僕は全然知らぬが、

あるとしたらだ、何(いづ)れにしてもが、やさしい奴等のことではあつても、

三歳の奴等は、十歳の奴等より、たしかに可哀想と僕は思ふ。

なにさま暗い、あの世の磧(かはら)の、ことであるから小さい奴等は、

大きい奴等の、腕の下をば、すりぬけてどうにか、遊ぶとは想ふけれど、

それにしてもが、三歳の奴等は、十歳の奴等より、可哀想だ……

――オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か……

 

          (一九三七・五・一四)

   *]

春日狂想   中原中也

 

    春 日 狂 想

 


        
1

 

愛するものが死んだ時には、

自殺しなけあなりません。

 

愛するものが死んだ時には、

それより他に、方法がない。

 

けれどもそれでも、業(?)が深くて、

なほもながらふことともなったら、

 

奉仕の氣持に、なることなんです。

奉仕の氣持に、なることなんです。

 

愛するものは、死んだのですから、

たしかにそれは、死んだのですから、

 

もはやどうにも、ならぬのですから、

そのもののために、そのもののために、

 

奉仕の氣持に、ならなけあならない。

奉仕の氣持に、ならなけあならない。

 

       2

 

奉仕の氣持になりにはなつたが、

さて格別の、ことも出來ない。

 

そこで以前(せん)より、本なら熟讀。

そこで以前(せん)より、人には丁寧。

 

テムポ正しき散步をなして

麥稈眞田(ばくかんさなだ)を敬虔に編み――

 

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、

まるでこれでは、每日、日曜。

 

神社の日向を、ゆるゆる步み、

知人に遇へば、につこり致し、

 

飴賣爺々と、仲よしになり、

鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

 

まぶしくなったら、日蔭に這入り、

そこで地面や草木を見直す。

 

苔はまことに、ひんやりいたし、

いはうやうなき、今日の麗日。

 

參詣人等もぞろぞろ步き、

わたしは、なんにも腹が立たない。



       
⦅まことに人生、一瞬の夢、

      
 ゴム風船の、美しさかな。⦆

 

空に昇つて、光つて、消えて――

やあ、今日は、御機嫌いかが。

 

久しぶりだね、その後どうです。

そこらの何處かで、お茶でも飮みましよ。

 

勇んで茶店に這入りはすれど、

ところで話は、とかくないもの。

 

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、

名狀しがたい覺悟をなして、――

 

外(そと)はまことに賑かなこと!

――ではまたそのうち、奧さんによろしく、

 

外國(あつち)に行つたら、たよりを下さい。

あんまりお酒は、飮まんがいいよ。

 

馬車も通れば、電車も通る。

まことに人生、花嫁御寮。

 

まぶしく、美(は)しく、はた俯いて、

話をさせたら、でもうんざりか?

 

それでも心をポーッとさせる、

まことに、人生、花嫁御寮。



        
3

 

ではみなさん、

喜び過ぎず悲しみ過ぎず、

テムポ正しく、握手をしませう。

 

つまり、我等に缺けてるものは、

實直なんぞと、心得まして。

 

ハイ、ではみなさん、ハイ、ご一緖に――

テムポ正しく、握手をしませう。

 

[やぶちゃん注:「⦅まことに人生、一瞬の夢、/ゴム風船の、美しさかな。⦆」は原典でもややポイント落ち。発表は角川文庫「中原中也詩集」によれば、中原中也が死ぬ五ヶ月前、昭和一二(一九三七)年五月号『文學界』である。アイロニカルで投げやりに厭世的なそれは、明らかに文也の死後の作である。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説でも、同年三月の作と推定されており、『この詩を歌って』十『か月も経たない』うちに『詩人は亡くな』ったとある。

「自殺しなけあなりません」「自殺しなきゃなりません」という口語表現の拗音音写の一法か。以下、すべて「けあ」はそう採る。

「麥稈眞田(ばくかんさなだ)」「ばっかんさなだ」麦藁(むぎわら)を平たく潰して真田紐 のように編んだもの。麦藁帽子や袋物などを作るのに用いる。中原中也に麦藁帽子は、よく似合う、と思った途端、彼の知られた肖像写真には、そんなものはないことに気づいた。「何故、そう思ったんだろう?」――と――気がついた。帝銀事件の冤罪の死刑囚平沢貞通氏が獄中で描いた晩年の「十八歳自画像・想出再描」(26:44で見られる)だ! あの姿が何故か、私の中で中原中也と一緒になっていたのだ!

「いはうやうなき」「祝ふ樣無き」であろう。祝いようがない。

「麗日」ルビをしないのであれば「れいじつ」なのだろうが、どうも硬い。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」ではここに『うららび』とルビする。私はこれを採る。

「這入り」「はいり」。]

正午    丸ビル風景   中原中也

 

     正  午

         丸ビル風景

 

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて

あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの眞ッ黑い、小ッちやな小ッちやな出入口

空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる

ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……

なんのおのれが櫻かな、櫻かな櫻かな

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの眞ッ黑い、小ッちやな小ッちやな出入口

空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

 

[やぶちゃん注:発表は角川文庫「中原中也詩集」によれば、中原中也自身の死の、昭和一二(一九三七)年十月号『文學界』である。本詩集中では生前初出発表の最後の詩篇となる。私はこれを中原中也の代表的な詩篇の一つとしてよく記憶している。それは教科書の参考詩や幾つかの現代詩人の抄録集で、中也のこの一篇がよく掲げられていたからであるが、実は私は、この一篇、面白い、と思いながらも、どうも、好きになれないでいる。今も同じである。萩原恭次郎の大正一四(一九二五)年刊の詩集「死刑宣告」のクンズホグレツの「日比谷」の詩を〈見た〉時の、ドっとシラケた感じと、実は同じ部類の感じなのである。私の感じ方に異論はあろう。私も、この私の生理的不快感を冷徹に説明してそうした反論に反駁しようとも思うのだが、本電子化は中原中也詩集「在りし日の歌」の正規表現復元版が目的であって、私の感覚的感想を述べるのが目的ではない(私が偏愛すると言った中原中也の詩篇へのそれも逆にまた浅薄で見当違いのものであるかも知れぬことも重々承知の上である)し、後、二篇で終わるものでもあり、ここでこの注の筆は擱くこととする。すまん、中也。]

米子   中原中也

 

    米  子

 

二十八のその處女(むすめ)は、

肺病やみで、腓(ひ)は細かつた。

ポフラのやうに、人も通らぬ

步道に沿つて、立つてゐた。

 

處女(むすめ)の名前は、米子と云つた。

夏には、顏が、汚れてみえたが、

冬だの秋には、きれいであつた。

――かぼそい聲をしてをつた。

 

二十八のその處女(むすめ)は、

お嫁に行けば、その病氣は、

癒るかに思はれた。と、さう思ひながら

私はたびたび處女(むすめ)をみた……

 

しかし一度も、さうと口には出さなかつた。

別に、云ひ出しにくいからといふのでもない

云つて却つて、落膽させてはと思つたからでもない、

なぜかしら、云はずじまひであつたのだ。

 

二十八のその處女(むすめ)は、

步道に沿つて、立つてゐた、

雨あがりの午後、ポプラのやうに。

――かぼそい聲をもう一度、聞いてみたいと思ふのだ……

 

[やぶちゃん注:角川文庫「中原中也詩集」年譜によれば、昭和一一(一九三六)年十二月に三笠書房発行の雑誌『ペン』に発表したもの。これも創作から投稿・編集・発行に至る二ヶ月ほどのタイム・ラグから考えて、長男文也の急逝以前に創作されたものであろう。

「米子」「よねこ」。

「腓(ひ)」訓で「こむら」。脹脛(ふくらはぎ)、足の脛(すね)の後ろ側の膨らんだ部分のこと。]

冬の長門峽   中原中也

 

    冬 の 長 門 峽

 

長門峽に、水は流れてありにけり。

寒い寒い日なりき。

 

われは料亭にありぬ。

酒酌みてありぬ。

 

われのほか別に、

客とてもなかりけり。

 

水は、恰も魂あるものの如く、

流れ流れてありにけり。

 

やがても密柑の如き夕陽、

欄干にこぼれたり。

 

あゝ! ――そのやうな時もありき、

寒い寒い 日なりき。

 

[やぶちゃん注:回想詩(長門峡を訪れたのが何時かは不詳)で、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、長男文也が死んだ日(昭和一一(一九三六)年十一月十日)から四十四日後の同年十二月二十四日(クリスマス・イブ)に書かれたもので、角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜によれば、翌昭和十二年四月発行の『文學界』に発表している。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、昭和十二年九月の条に、中也はこの頃、『再び身心の疲労甚しく、しばらく郷里に帰ろうと考え』たが、『しかしこのころ郷里の家は、長年にわたる中也の東京生活への仕送りのため、経済的に余裕のない状態にあった』とあり、『詩集『在りし日の歌』の編集を終え、原稿を小林秀雄に託』したのもこの月であった。翌十月五日に発病(結核性脳膜炎とされる)、六日に鎌倉養生院(現在の清川病院)に入院するも、十六日後の十月二十二日午前〇時十分に亡くなっている。

「長門峽」「ちやうもんけふ(ちょうもんきょう)」と読む。阿武川上流の、山口県山口市阿東及び萩市川上に位置する峡谷で、全長約十二キロメートル。ウィキの「長門によれば、『奇岩や滝、深淵など、変化を織りなす奇勝として知られ、国の名勝や長門峡県立自然公園にも指定されている』。『中生代白亜紀の流紋岩質凝灰岩やデイサイト溶岩から形成されており、断崖を形成する』。『命名者は郷土の画家、高島北海であり、また詩人中原中也もこの地を絶賛した。景勝地は個性的な名前で、洗心橋や龍宮淵、獺淵、暗がり淵などの名所がある。洗心橋には中原中也の詩碑が立つ』とある。(グーグル・マップ・データ)。]

或る男の肖像   中原中也   附初出形「或る夜の幻想」推定復元

 

    或る男の肖像



         
1

 

洋行歸りのその洒落者は、

齡(とし)をとつても髮に綠の油をつけてた。

 

夜每喫茶店にあらはれて、

其處の主人と話してゐる樣(さま)はあはれげであつた。

 

死んだと聞いてはいつさうあはれであつた。


        
 2

 

              ――幻滅は鋼(はがね)のいろ。

 

髮毛の艷(つや)と、ラムプの金との夕まぐれ

庭に向つて、開け放たれた口から、

彼は外に出て行つた。

 

剃りたての、頸條(うなじ)も手頸(てくび)も

どこもかしこもそはそはと、

寒かつた。

 

開け放たれた口から

悔恨は、風と一緖に容赦なく

吹込んでゐた。

 

讀書も、しむみりした戀も、

あたたかいお茶も黃昏(たそがれ)の空とともに

風とともにもう其處にはなかつた。


        
3

 

彼女は

壁の中へ這入つてしまつた。

それで彼は獨り、

部屋で卓子(テーブル)を拭いてゐた。

 

[やぶちゃん注:「――幻滅は鋼(はがね)のいろ。」は原典では、ややポイントが落ちてるだけで、こんなに小さくはないが、ブログ・ブラウザでの不具合を考えて有意に小さくした。開始位置は再現してある。前の私の「村の時計」の注で述べたが、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説、及び同サイトの前の「村の時計」、及び、同サイトの上にあるコンテンツの中の「生前発表詩篇」の中に配されてある「或る夜の幻想(1・3)」の合地舜介氏の解説によって、

本詩篇と前の「村の時計」の初出は『四季』の昭和一二(一九三七)年三月号(同年二月二十日附発行)

であるが、そこでは

「或る夜の幻想」という長い詩の一部

であった。ところが、本詩集「在りし日の歌」では、中原中也自身によって、それが

分割・取捨されて「村の時計」と本「或る男の肖像」となった

とある。因みに、この原型である

「或る夜の幻想」の創作自体は昭和八(一九三三)年十月十日

と記されてある。そして、合地氏によると、

元の「或る夜の幻想」は全六節

から成るもので、

第一節が「彼女の部屋」、第二節が先の「村の時計」、第三節が「彼女」、第四・五・六節が本篇「或る男の肖像」

という構成であったとある。そこで、以下にその初出原型を推定で再現してみたい。但し、原発表形を私は現在、視認することが出来ないので、合地氏の解説に従い、また、新潮社版に所収する「或る夜の幻想」(初出後にカットした二パートが載る。読みはそれに従った)を基礎底本としつつ(サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「或る夜の幻想(1・3)」の電子データを加工用に使用させて戴いた)、恣意的に漢字を正字化して示すこととする。パート数字の位置は本詩集の位置を使用した。但し、現在の「彼女の部屋」「村の時計」「彼女」「或る男の肖像」という標題は恐らくは初出ではなかったのではないかと思われるので、除去しておいた。万一、あるとならば、お教えれば追加補正する(その場合、「或る男の肖像」がどこにどう表記されているかを正確にお教え戴きたい)。

   *

 

    或る夜の幻想

  1

 

彼女には

美しい洋服簞笥(だんす)があった

その箪笥は

かわたれどきの色をしていた

 

彼女には

書物や

其の他色々のものもあった

が、どれもその簞笥に比べては美しくもなかったので

彼女の部屋には簞笥だけがあった

 

  それで洋服簞笥の中は

  本でいつぱいだつた


     
2

 

村の大きな時計は、

ひねもす動いてゐた

 

その字板のペンキは、

もう艷が消えてゐた

 

近寄つてみると、

小さなひびが澤山にあるのだつた

 

それで夕陽が當つてさへが、

おとなしい色をしてゐた

 

時を打つ前には、

ぜいぜいと鳴つた

 

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか

僕にも誰にも分らなかつた


     
3

 

野原の一隅(ぐう)には杉林があつた。

なかの一本がわけても聳(そび)えてゐた。

 

或る日彼女はそれにのぼつた。

下りて來るのは大変なことだつた。

 

それでも彼女は、媚態(びたい)を棄てなかつた。

一つ一つの舉動は、まことみごとなうねりであつた。

 

夢の中で、彼女の臍(へそ)は、

背中にあつた。


     
4

 

洋行歸りのその洒落者は、

齡(とし)をとつても髮に綠の油をつけてた。

 

夜每喫茶店にあらはれて、

其處の主人と話してゐる樣(さま)はあはれげであつた。

 

死んだと聞いてはいつさうあはれであつた。



        
5

              ――幻滅は鋼(はがね)のいろ。

 

髮毛の艷(つや)と、ラムプの金との夕まぐれ

庭に向つて、開け放たれた口から、

彼は外に出て行つた。

 

剃りたての、頸條(うなじ)も手頸(てくび)も

どこもかしこもそはそはと、

寒かつた。

 

開け放たれた口から

悔恨は、風と一緖に容赦なく

吹込んでゐた。

 

讀書も、しむみりした戀も、

あたたかいお茶も黃昏(たそがれ)の空とともに

風とともにもう其處にはなかつた。


     
 6

 

彼女は

壁の中へ這入つてしまつた。

それで彼は獨り、

部屋で卓子(テーブル)を拭いてゐた。

 

   *]

村の時計   中原中也

 

    村 の 時 計

 

村の大きな時計は、

ひねもす動いてゐた

 

その字板のペンキは、

もう艷が消えてゐた

 

近寄つてみると、

小さなひびが澤山にあるのだつた

 

それで夕陽が當つてさへが、

おとなしい色をしてゐた

 

時を打つ前には、

ぜいぜいと鳴つた

 

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか

僕にも誰にも分らなかつた

 

[やぶちゃん注:なにがなし、私はこの小品が、好きだ。あたかもタルコフスキの映像を見るかのようなのだ。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説、及び同サイトの複数の他のページを見ると、初出(「或る夜の幻想」という長い詩の一部)は『四季』の昭和一二(一九三七)年三月号(同年二月二十日附発行)であるが、創作自体は古く(昭和八(一九三三)年十月十日)、しかも初出以後、非常に複雑な経緯を辿って作者自身によって分割されてここに所収されていることが判る。それについては次の「或る男の肖像」で、初出形を再現することで注したいと思うので、ここはこれだけにしておく。]

月の光 その一・その二   中原中也

 

     月  の  光 その一

 

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

 

  お庭の隅の草叢(くさむら)に

  隱れてゐるのは死んだ兒だ

 

月の光が照つてゐた

月の光が照つてゐた

 

  おや、チルシスとアマントが

  芝生の上に出て來てる

 

ギタアを持つては來てゐるが

おつぽり出してあるばかり

 

  月の光が照つてゐた

  月の光が照つてゐた

 

 

 

    月  の  光 その二

 

おゝチルシスとアマントが

庭に出て來て遊んでる

 

ほんに今夜は春の宵

なまあつたかい靄もある

 

月の光に照らされて

庭のベンチの上にゐる

 

ギタアがそばにはあるけれど

いつこう彈き出しさうもない

 

芝生のむかふは森でして

とても黑々してゐます

 

おゝチルシスとアマントが

こそこそ話してゐる間

 

森の中では死んだ子が

螢のやうに蹲んでる

 

 

[やぶちゃん注:二篇を纏めて示す中也の文也追悼詩の白眉――戦慄の幻覚――である「また來ん春……」の注で示した通り、「詩三篇」として昭和十二年二月号『文學界』に発表された。

「チルシスとアマント」Tircis」と「Aminte」。恐らく中原中也は、ヴェルレーヌ二十五歳の一八六九年に刊行した詩集“Fêtes galantes”(「優雅な宴(雅宴画)」)の中の“Mandoline”(「マンドリン」)を元にしている(原詩はこれ。英訳附きのページを選んだ二人とも第二連に出る)。ネットのQ&Aサイトで、まさに本篇のこの二つの名を訊ねたのに対する、その回答が素晴らしく、『チルシスは、ヴェルギリウスの「田園詩」に出てくる、下働きの女性の名前。アマントは、やはり「田園詩」中の美少年「アミンタス」を、フランス語読みした名前で』、『いずれも、欧州各国で、類型化されて「牧歌劇」に用いられている名前で』あり、『ヴェルレーヌの詩においては、夜、ひとびとが集まり、セレナーデ(小夜曲)が奏でられるひと時、音楽のもたらす幻想に重なって彼らの姿が現れ』る設定となっている。『つまり、彼の詩においては、牧歌的な雰囲気の中、賑やかで楽しげな場面に出てくる妖精のように考えてよいと思』われるとし、『同じフランスの作曲家、ガブリエル・フォーレによってメロディを付けられている詩でもあり』、『中原の詩でもまた、チルシスやアマントはまるで「音楽の精」のように、夜、月の光の下に表れる』も、『楽器は放り出して』しまう。『賑やかで楽しげであるはずの夜のひと時は、中原の詩においては沈黙が支配し、チルシスやアマントも、まるで「音楽の幽霊」のような存在になっている』。『中原は、悲しいという言葉をただの一度も使わずに、逝った息子、文也の姿を月の光の下に追い求め続け』るのであり、『個人的には、彼の詩における「チルシスとアマント」とは、かつて文也と共にあり、幸福であった中原の夢の残骸の姿と感じ』る、と記しておられる(この記載が正しいことは、個人ブログ「コイケランド」月とその光に関するメモ その3ブログ記載で、同様の内容が岩波文庫版「中原中也詩集」の注釈にあると記しておられる(引用有り)ことで保証される)。プーブリウス・ウェルギリウス・マーロー(Publius Vergilius Maro 紀元前七〇年~紀元前一九年)はウィキの「ウェルギリウスによれば、『ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人である。共和政ローマ末の内乱の時代からオクタウィアヌスの台頭に伴う帝政の確立期にその生涯を過ごし』、『ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される人物である』とある。「アミンタス」は“Amyntas”だろう。チルシスの元とするのは“Tityrusで「ティテュルス」か?
 

また來ん春……   中原中也

 

     春……

 

また來ん春と人は云ふ

しかし私は辛いのだ

春が來たつて何になろ

あの子が返つて來るぢやない

 

おもへば今年の五月には

おまへを抱いて動物園

象を見せても猫(にやあ)といひ

鳥を見せても猫(にやあ)だつた

 

最後に見せた鹿だけは

角によつぽど惹かれてか

何とも云はず 眺めてた

 

ほんにおまへもあの時は

此の世の光のたゞ中に

立つて眺めてゐたつけが……

 

[やぶちゃん注:二箇所の「猫(にやあ)」の「にやあ」は「猫」に対するルビである。本詩集の詩集本文詩篇の中で、長男文也の死後に詠まれた詩篇は、これが最初であり、文也の死が直截に詠み込まれたものは、これ、一篇のみである。昭和一一(一九三六)年十一月十日、長男文也が二歳余り(昭和九年十月十八日生まれ)で小児結核のために急逝、中也は直後から激しい悲哀悲嘆に陥った。ウィキの「中原中也等によれば、『中也は』三『日間』、『一睡もせず看病した』。『葬儀で中也は文也の遺体を抱いて離さず、フク』(中也の母)『がなんとかあきらめさせて棺に入れた。四十九日の間は毎日』、『僧侶を呼んで読経してもらい、文也の位牌の前を離れなかった』。翌十二月十五日『に次男の愛雅(よしまさ)が生まれたが』、『悲しみは癒え』ず、『幻聴や幼児退行したような言動が出始めたため、孝子がフクに連絡』、『フクと思郎』(中也の弟。柏村(中原)家四男)『が上京した』。翌年、昭和一二(一九三七)年一月九日、『フクは中也を千葉市千葉寺町の道修山にある中村古峡療養所に入院させ』、『ここで森田療法や作業療法を受け』て二月十五日に帰宅したが、『騙されて入院させられたと』妻『孝子に言って暴れたため、またフクが呼ばれた。文也を思い出させる東京を離れ』、二月二十七日に鎌倉町扇ヶ谷一八一(寿福寺の裏手)へ転居している。本詩篇はそんな中で書かれたもので、以下に続く「月の光 その一」「月の光 その二」とともに「詩三篇」として昭和十二年二月号『文學界』に発表されたものである。

「動物園」サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の草稿詩篇夏の夜の博覧会はかなしからずや文也死後一ヶ月後昭和十二十二十二日記文也の一生出現の解説で、「文也の一生」の終りの部分が引用されており、そこに『同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分らぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。六月頃四谷キネマに夕より淳夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。七月淳夫君他へ下宿す。八月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子三人にて夜店をみしこともありき。八月初め神楽坂に三人にてゆく。七月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる』とあるから、これは恩賜上野動物園かと思われる。]

月夜の濱邊   中原中也

 

    月 夜 の 濱 邊

 

月夜の晚に、ボタンが一つ

波打際に、落ちてゐた。

 

それを拾つて、役立てようと

僕は思つたわけでもないが

なぜだかそれを捨てるに忍びず

僕はそれを、袂に入れた。

 

月夜の晚に、ボタンが一つ

波打際に、落ちてゐた。

 

それを拾つて、役立てようと

僕は思つたわけでもないが

   月に向つてそれは抛れず

   浪に向つてそれは抛れず

僕はそれを、袂に入れた。

 

月夜の晚に、拾つたボタンは

指先に沁(し)み、心に沁みた。

 

月夜の晚に、拾つたボタンは

どうしてそれが、捨てられようか?

 

[やぶちゃん注:「北の海」とともに私の中也遺愛の歌。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本篇は昭和一二(一九三七)年二月号『新女苑』に『発表されたのが初出で』あるが、実はやはり、『制作は文也の死んだ』昭和十一年十一月十日『以前と推定されてい』るとある。そこで、サイト主合地舜介氏は、『となれば』、『ミステリーじみてくる』が、この詩は、文也急逝から三ヶ月後の『新女苑』に『発表された詩』ではあるが、創作は明らかにそれ以前であり、本詩の詠吟(その感懐)は文也の死と直接は関わらないものであった。しかし、『「在りし日の歌」に収録される』詩篇が『編集』された『時期は文也の死後であり』、『偶然にも「月夜の浜辺」が追悼詩としても成立すると見なした詩人が「永訣の秋」の中に配置した、と考えれば矛盾しないはずで』ある、と述べておられる。『新女苑』はこの前月昭和一二(一九三七)年一月から実業之日本社が『少女の友』の姉妹誌として創刊した若い女性向け雑誌(昭和三四(一九五九)年七月終刊)で、これも如何にも掲載誌を意識して作った感は強い。]

2018/05/24

言葉なき歌   中原中也

 

    言 葉 な き 歌

 

あれはとほいい處にあるのだけれど

おれは此處で待つてゐなくてはならない

此處は空氣もかすかで蒼く

葱の根のやうに仄かに淡(あは)い

 

決して急いではならない

此處で十分待つてゐなければならない

處女(むすめ)の眼(め)のやうに遙かを見遣つてはならない

たしかに此處で待つてゐればよい

 

それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた

號笛(フイトル)の音(ね)のやうに太くて繊弱だつた

けれどもその方へ驅け出してはならない

たしかに此處で待つてゐなければならない

 

さうすればそのうち喘ぎも平靜に復し

たしかにあすこまでゆけるに違ひない

しかしあれは煙突の煙のやうに

とほくとほく いつまでも茜の空にたなびいてゐた

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和一一(一九三六)年十二月発行の『文學界』初出(角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜に拠る)。やはりこれも(前のの注で示したような理由(創作から投稿・編集・発行に至る二ヶ月ほどのタイム・ラグ)から)長男文也の急逝以前に創作されたものということになる。

「號笛(フイトル)」号笛(がうてき(ごうてき))は「合図のために吹く笛」で、英語のホイッスル(whistle)が腑に落ちる。ところが、中也の得意なフランス語では、“whistle”の相当語は“sifflet”(カタカナ音写:シフレ)で似ても似つかぬ。困って調べてみたところ、ネットのQ&Aサイトに、まさにこの詩のこの語の意味が判らないという質問に対し、昭和七五(一九五〇)年河出書房刊の「日本現代詩大系」所収の「在りし日の歌」では、その部分のルビが『フィフル』となっている(恐らくは編者による推定補正)とあるのを発見した。それならば、恐らくはフランス語の“fifre”(カタカナ音写:フィハァル)で「横笛」となる。思うに中也は、英語の“whistle”の「ホゥイスル」の音と、フランス語のその「フィハァル」の音を混同して誤表記したものと推定する。]

あばずれ女の亭主が歌つた   中原中也

 

    あばずれ女の亭主が歌つた

 

おまへはおれを愛してる、一度とて

おれを憎んだためしはない。

 

おれもおまへを愛してる。前世から

さだまつていることのやう。

 

そして二人の魂は、不識(しらず)に温和に愛し合ふ

もう長年の習慣だ。

 

それなのにまた二人には、

ひどく浮氣な心があつて、

 

いちばん自然な愛の氣持を、

時にうるさく思ふのだ。

 

佳い香水のかほりより、

病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

 

そこでいちばん親しい二人が、

時にいちばん憎みあふ。

 

そしてあとでは得態の知れない

悔の氣持に浸るのだ。

 

あゝ、二人には浮氣があつて、

それが眞實(ほんと)を見えなくしちまふ。

 

佳い香水のかほりより、

病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和一一(一九三六)年十一月発行の『歷程』初出(角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜に拠る)。やはりこれも長男文也の急逝以前に書かれたものということになる。]

幻影   中原中也

 

    幻  影

 

私の頭の中には、いつの頃からか、

薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、

それは、紗の服なんかを着込んで、

そして、月光を浴びてゐるのでした。

 

ともすると、弱々しげな手付をして、

しきりと 手眞似をするのでしたが、

その意味が、つひぞ通じたためしはなく、

あはれげな 思ひをさせるばつかりでした。

 

手眞似につれては、唇(くち)も動かしてゐるのでしたが、

古い影繪でも見てゐるやう――

音はちつともしないのですし、

何を云つてるのかは 分りませんでした。

 

しろじろと身に月光を浴び、

あやしくもあかるい霧の中で、

かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、

眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和一一(一九三六)年十一月発行の『文學界』初出(角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜に拠る)。やはりこれも長男文也の急逝以前に書かれたものということになる。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説で、サイト主の合地舜介氏は同年九『月以前の制作ということにな』ると断定されており、これは編集・印刷から実際の発行までを考えると腑に落ちる(因みに、当該ページで上記初出誌の発行年を一九三七年とされているのは誤りである)。]

一つのメルヘン   中原中也

 

    一つのメルヘン

 

秋の夜は、はるかの彼方に、

小石ばかりの、河原があつて、

それに陽は、さらさらと

さらさらと射してゐるのでありました。

 

陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、

非常な個體の粉末のやうで、

さればこそ、さらさらと

かすかな音を立ててもゐるのでした。

 

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、

淡い、それでゐてくつきりとした

影を落としてゐるのでした。

 

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、

今迄流れてもゐなかつた川床に、水は

さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和一一(一九三六)年十一月発行の『文藝汎論』初出(角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜に拠る)。やはりこれも長男文也の急逝以前に書かれたものということになる。ウィキの「中原中也によれば、このロケーションは郷里山口県の、吉敷(よしき)川であるとある。この直近にまた、中原中也自身の墓もある。(グーグル・マップ・データ)。

「硅石」(けいせき:silica stone)とは主に酸化珪素(けいそ)からなる鉱物としてはチャート(chert:堆積岩の一種)・珪質砂岩・珪岩・石英片岩や石英・水晶などが含まれ、見た目が白っぽいものが多い。古くは板ガラスの主原料であった。]

「在りし日の歌」 永訣の秋 / ゆきてかへらぬ ――京都――   中原中也

 

   永 訣 の 秋

 

 

    ゆきてかへらぬ

        ――京 都――

 

 僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々搖つてゐた。

 

 木橋の、埃りは終日、沈默し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。

 

 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の緣者(みより)なく、風信機(かざみ)の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。

 

 さりとて退屈してもゐず、空氣の中には蜜があり、物體でないその蜜は、常住食すに適してゐた。

 

 煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。

 

 さてわが親しき所有品(もちもの)は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布團ときたらば影だになく、齒刷子(はぶらし)くらゐは持つてもゐたが、たつた一册ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。

 

 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、會ひに行かうとは思はなかつた。夢みるだけで澤山だつた。

 

 名狀しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

 

      *         *

           *

 

 林の中には、世にも不思議な公園があつて、不氣味な程にもにこやかな、女や子供、男達散步していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。

 さてその空には銀色に、蜘蛛の巢が光り輝いてゐた。

 

[やぶちゃん注:アスタリスク三個のパーテーションはブログでの不具合を考えて原典の配置を再現せず、上に引き上げ、アスタリスク間も短縮しておいた。本篇は昭和一一(一九三六)年十一月発行の『四季』初出(角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜に拠る)である。この十一月十日に長男文也が二歳で小児結核のために急逝しているが、本篇はそれ以前に書かれたものということになる。中原中也にして非常に珍しい散文詩形式である。京都時代を素材とした幻想的回想である。彼の京都時代は大正一二(一九二三)年三月に県立山口中学校第三学年を落第し、四月に京都の私立立命館中学へ転校してから、大正十四年三月に大学受験を目指して上京するまでの間であることは既に「獨身の注で述べたので、そちらを参照されたいが、これも少なくとも先のその「獨身者」的な閉じられた世界を抽出して語っていることから、私はそちらの注で更に限定したのと同様、長谷川泰子と同棲する以前の大正一二(一九二三)年三月から翌年四月までの一年余り(満十六歳から十七歳初めまで)が素材回想の事実上の対象期間であるように思われる。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、転校後は『岡崎あたりに下宿』し、『生まれてはじめて両親のもとを離れ、飛び立つ思いであった。「学校は下宿にばかりゐては胃が悪くなるから、散歩の終点だと思つてかよつた。」という散歩は中也にとって特別の意味を持っており、このころから結婚する前の昭和八年十月に至る迄、毎日毎日歩き通した。「読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩く」のを日課と』していたとある。『この年』(大正十二年)『の秋の寒い夜に丸田町橋際の古本屋で』「ダダイスト新吉の詩」(高橋新吉(明治三四(一九〇一)年~昭和六二(一九八七)年:中也より六つ年上)の詩集(辻潤編)。この大正十二年二月に中央美術社から刊行していた)『を読み』、『感激。その影響を受けて高橋新吉風の詩を作るようになる。四十編ほど残存、〝ダダイスト〟〝ダダさん〟などの綽名(あだな)で呼ばれ』た、とある。また、泰子との同棲の直前の大正十三年三月には詩人富永太郎(明治三四(一九〇一)年~大正一四(一九二五)年十一月十二日:中也より六つ年上。結核が悪化し、この翌年、酸素吸入器のゴム管を「きたない」と言って、自ら取り去って二十四歳で亡くなった。中也は彼の死に激しい衝撃を受けた。因みに、私はサイト内の「心朽新館」で彼の全詩篇(三ページある)を遠い昔に電子化している)と知り合い、この後、急速に親しくなっていった。

「洒ぎ」「そそぎ」。

「花々搖つてゐた」助詞なしで繋げているのは韻律からであろう。「搖つてゐた」は「ゆすつてゐた(ゆすっていた)」。

「埃り」「ほこり」。

「赫々」「あかあか」。

「街上」「かいじやう(がいじょう)」。

「停つて」「とまつて(とまつて)」。

「喫つても」「すつても(すっても)」。]

蜻蛉に寄す   中原中也

 

    

 

あんまり晴れてる 秋の空

赤い蜻蛉が 飛んでゐる

淡(あは)い夕陽を 浴びながら

僕は野原に 立つてゐる

 

遠くに工場の 煙突が

夕陽にかすんで みえてゐる

大きな溜息 一つついて

僕は蹲んで 石を拾ふ

 

その石くれの 冷たさが

漸く手中(しゆちう)で ぬくもると

僕は放(ほか)して 今度は草を

夕陽を浴びてる 草を拔く

 

拔かれた草は 土の上で

ほのかほのかに 萎えてゆく

遠くに工場の 煙突は

夕陽に霞んで みえてゐる

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、この一篇は『むらさき』という『女性向けの教養雑誌に初出』するもので、『この雑誌は、紫式部学会の編集』であるという(創作は昭和一一(一九三六)年八月頃と推定されているとある。因みに『ぬらさき』は昭和九年五月創刊で現在も続いている)。サイト主の合地舜介氏も述べておられる通り、本篇は言葉遣いや内容の平易さを見ると、多分に女性雑誌を意識した作品のように感じられる。なお、以上で「在りし日の歌」の第一大パート「在りし日の歌」は終わっている

「蹲んで」「しやがんで(しゃがんで)」。

「放(ほか)して」捨てて。「ほかす」は上方(かみがた)語。名古屋の亡き義母がよく使っていたのを思い出すから、中部以西の方言であろう。一部の辞書類はまことしやかに「放下す」などと漢字表記しているが、ちょっと私はクエスチョンだ。]

曇天   中原中也

 

    曇  天

 

 ある朝 僕は 空の 中に、

黑い 旗が はためくを 見た。

 はたはた それは はためいて ゐたが、

音は きこえぬ 高きが ゆゑに。

 

 手繰り 下ろさうと 僕は したが、

綱も なければ それも 叶はず、

 旗は はたはた はためく ばかり、

空の 奧(をく)處に 舞ひ入る 如く。

 

 かゝる 朝(あした)を 少年の 日も、

屢〻 見たりと 僕は 憶ふ。

 かの時は そを 野原の 上に、

今はた 都會の 甍の 上に。

 

 かの時 この時 時は 隔つれ、

此處と 彼處と 所は 異れ、

 はたはた はたはた み空に ひとり、

いまも 渝らぬ かの 黑旗よ。

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、この一篇は中也二十九歳の『中央公論』と並ぶ総合雑誌『改造』の昭和一一(一九三六)年七月号に発表されたもので、同誌に『詩人が載せた初めての作品で』、『記念すべき作品で』あるとある。

「手繰り」「たぐり」。

「奧(をく)處」「おく」はママ。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」では『おくか』とルビする。上記の「中原中也・全詩アーカイブ」本詩篇電子化と「青空文庫」の歌」は孰れも『おくが』とする。これは「奥深い所・果て」の意で、「おくか」「おくが」孰れにも読む。私は上代語でもあり、清音を採りたい。

「屢〻」「しばしば」。

「憶ふ」「おもふ(おもう)」。

「甍」「いらか」。

「此處」「ここ」。

「彼處」「かしこ」。

「異れ」「ことなれ」。違っているが。

「渝らぬ」「かはらぬ(かわらぬ)」。「渝」(音「ユ」)は「変わる・代わる・改める」の意。]

春宵感懷   中原中也

 

    春 宵 感 懷

 

雨が、あがつて、風が吹く。

 雲が、流れる、月かくす。

みなさん、今夜は、春の宵。

 なまあつたかい、風が吹く。

 

なんだか、深い、溜息が、

 なんだかはるかな、幻想が、

湧くけど、それは、摑めない。

 誰にも、それは、語れない。

 

誰にも、それは、語れない

 ことだけれども、それこそが、

いのちだらうぢやないですか、

 けれども、それは、示(あ)かせない……

 

かくて、人間、ひとりびとり、

 こころで感じて、顏見合せれば

につこり笑ふといふほどの

 ことして、一生、過ぎるんですねえ

 

雨が、あがつて、風が吹く。

 雲が、流れる、月かくす。

みなさん、今夜は、春の宵。

 なまあつたかい、風が吹く。

 

獨身者   中原中也

 

    獨  身  者

 

石鹼箱には秋風が吹き

郊外と、市街を限る路の上には

大原女が一人步いてゐた

 

――彼は獨身者(どくしんしや)であつた

彼は極度の近眼であつた

彼はよそゆきを普段に着てゐた

判屋奉公したこともあつた

 

今しも彼が湯屋から出て來る

薄日の射してる午後の三時

石鹼箱には風が吹き

郊外と、市街を限る路の上には

大原女が一人步いてゐた

 

[やぶちゃん注:太字「よそゆき」は原典では傍点「ヽ」。謂わずもがなであるが、これは回想詩である。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説に、この一篇は昭和一一(一九三六)年四月の創作とあるからである。「大原女」(おほはらめ(おおおはらめ))の描写から、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜に添うならば、大正一二(一九二三)年三月に県立山口中学校第三学年を落第し、四月に京都の私立立命館中学へ転校してから、大正十四年三月に大学受験を目指して上京するまで(早稲田大学の受験をしようとしたが、中学修了証書がないために手続き出来ず、日本大学には試験場に三十分も遅刻して会場に入れて貰えず、結局、どこにも入学出来なかった)の閉区間のシークエンスと取り敢えずはとれる(満十六歳から十七歳まで)。しかし、実はその間の大正十三年の四月に、京都の演劇グループで知り合っていた俳優長谷川泰子(明治三七(一九〇四)年~平成五(一九九三)年:中也より三つ年上で、この当時は満二十歳直前)と同棲を始めており、この上京も泰子と一緒であったから、彼の「獨身者」を文字通り、馬鹿正直に受け入れるとすれば、大正一二(一九二三)年三月から翌年四月までの一年余りが回想対象時期するのが正確となろう。

「判屋奉公」印刷屋のことであろうが、中也がそんな仕事に従事して給金を得ていたことは年譜その他の資料からは窺えない。識者の御教授を乞う。]

わが半生   中原中也

 

    わ が 半 生

 

私は隨分苦勞して來た。

それがどうした苦勞であつたか、

語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。

またその苦勞が果して價値の

あつたものかなかつたものか、

そんなことなぞ考へてもみぬ。

 

とにかく私は苦勞して來た。

苦勞して來たことであつた!

そして、今、此處、机の前の、

自分を見出すばつかりだ。

じつと手を出し眺めるほどの

ことしか私は出來ないのだ。

 

   外(そと)では今宵、木の葉がそよぐ。

   はるかな氣持の、春の宵だ。

   そして私は、靜かに死ぬる、

   坐つたまんまで、死んでゆくのだ。

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本篇は昭和一一(一九三六)年七月号初出とある。結核性脳膜炎で彼が入院先の鎌倉養生院(現在の清川病院)急逝するのは翌昭和十二年十月二十二日午前〇時十分のことであった。]

雪の賦   中原中也

 

    雪  の  賦

 

雪が降るとこのわたくしには、人生が、

かなしくもうつくしいものに――

憂愁にみちたものに、思へるのであつた。

 

その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、

大高源吾の頃にも降つた……

 

幾多々々の孤兒の手は、

そのためにかじかんで、

都會の夕べはそのために十分悲しくあつたのだ。

 

ロシアの田舍の別莊の、

矢來の彼方に見る雪は、

うんざりする程永遠で、

 

雪の降る日は高貴の夫人も、

ちつとは愚痴でもあらうと思はれ……

 

雪が降るとこのわたくしには、人生が

かなしくもうつくしいものに――

憂愁にみちたものに、思へるのであつた。

 

[やぶちゃん注:古代までの溯る部分はないが、中也得意の自由な時間遡上を通して、しんしんと降る自然の雪のイメージの中を、過去の歴史の映像が自在にモンタージュされ、時空を超えた惨めな人間たちの儚い人事の憂愁が綴れ織りされている。

「大高源吾」(おおたかげんご 寛文一二(一六七二)年~元禄一六(一七〇三)年二月四日)は「赤穂義士」の一人で播磨赤穂藩主浅野長矩(ながのり)家臣。名は忠雄。源吾は通称。俳人でもあり、子葉と号し、蕉門の榎本其角とも親交があった。大石内蔵助良雄の吉良邸討入りを果たした後、長矩の眠る泉岳寺へ入った際、泉岳寺では彼を知る僧から一句を求められ、

 山をさく刀もおれて松の雪

の一句を残している。大石の嫡男で数え十六であった大石主税(ちから)良金(よしかね)らとともに芝三田の伊予松山藩第四代藩主松平定直の中屋敷へ預けられた。彼は松平家預かりの浪士十人の最後に切腹の座についたが、そこで、

 梅で吞む茶屋もあるべし死出の山

の一句を残している。松平家家臣の宮原頼安の介錯で切腹。享年三十二(以上はウィキの「大高忠雄を参照した)。中也は「雪」から雪後の討ち入りを連想すると同時に、俳人としても優れていた彼へのシンパシーもあったのであろうと思われる。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本篇は昭和一一(一九三六)年三月頃の作であるとあるから(初出は同年五月号『四季』)、中也満二十九の直前で、大高の逝った年齢にも近い。

「ロシアの田舍の別莊の……」因みに、ロシア革命でのソヴィエト政権樹立(十月革命)はユリウス暦一九一七年十月二十五日(グレゴリオ暦十一月七日)で、本創作の十九年前になる。ロシアの没落貴族の別荘と雪原のシークエンスの挿入は本篇の夢想を感覚的にもワイドにしている。

「矢來」「やらい」。ここは木を縦横に粗く組んで作った仮囲いの(最早、変革の嵐を防ぐに役立たない)垣根。]

除夜の鐘   中原中也

 

    除 夜 の 鐘

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

千萬年も、古びた夜(よる)の空氣を顫はし、

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

それは寺院の森の霧つた空……

そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて來る。

それは寺院の森の霧つた空……

 

その時子供は父母の膝下で蕎麥を食うべ、

その時銀座はいつぱいの人出、淺草もいつぱいの人出、

その時子供は父母の膝下で蕎麥を食うべ。

 

その時銀座はいつぱいの人出、淺草もいつぱいの人出。

その時囚人は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、

その時銀座はいつぱいの人出、淺草もいつぱいの人出。

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

千萬年も、古びた夜(よる)の空氣を顫はし、

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

[やぶちゃん注:「顫はし」「ふるはし(ふるわし)」。

「遠いい」靑い瞳」で注した通り、中国地方での「遠い」の方言である。

「霧つた」「きらつた(きらった)」。「霧らふ」は上代の連語(動詞「霧(き)る」の未然形に+復継続の助動詞「ふ」)。霧・霞が一面に立ち籠(こ)める。

「食うべ」「たうぶ(とうぶ)」。「賜(と)うぶ」と同語源の、上代からあるバ下二段活用の動詞。「食ふ」「食ぶ」に同じい。ここは韻律上の感覚的選択であって、わざわざ「いただく」という謙譲表現で採る必要はない。]

殘暑   中原中也

 

    殘  暑

 

疊の上に、寢ころばう、

蠅はブンブン 唸つてる

疊ももはや 黃色くなつたと

今朝がた 誰かが云つてゐたつけ

 

それやこれやと とりとめもなく

僕の頭に 記憶は浮かび

浮かぶがまゝに 浮かべてゐるうち

いつしか 僕は眠つてゐたのだ

 

覺めたのは 夕方ちかく

まだかなかなは 啼いてたけれど

樹々の梢は 陽を受けてたけど、

僕は庭木に 打水やつた

 

    打水が、樹々の下枝(しづえ)の葉の尖(さき)に

    光つてゐるのをいつまでも、僕は見てゐた

 

[やぶちゃん注:太字「かなかな」は原典では傍点「ヽ」。]

思ひ出   中原中也

 

    思  ひ  出

 

お天氣の日の、海の沖は

なんと、あんなに綺麗なんだ!

お天氣の日の、海の沖は

まるで、金や、銀ではないか

 

金や銀の沖の波に、

ひかれひかれて、岬の端に

やつて來たれど金や銀は

なほもとほのき、沖で光つた。

 

岬の端には煉瓦工場が、

工場の庭には煉瓦干されて、

煉瓦干されて赫々してゐた

しかも工場は、音とてなかつた

 

煉瓦工場に、腰をば据えて、

私は暫く煙草を吹かした。

煙草吹かしてぼんやりしてると、

沖の方では波が鳴つてた。

 

沖の方では波が鳴らうと、

私はかまはずぼんやりしてゐた。

ぼんやりしてると頭も胸も

ポカポカポカポカ暖かだつた

 

ポカポカポカポカ暖かだつたよ

岬の工場は春の陽をうけ、

煉瓦工場は音とてもなく

裏の木立で鳥が啼いてた

 

鳥が啼いても煉瓦工場は、

ビクともしないでジツとしてゐた

鳥が啼いても煉瓦工場の、

窓の硝子は陽をうけてゐた

 

窓の硝子は陽をうけてても

ちつとも暖かさうではなかつた

春のはじめのお天氣の日の

岬の端の煉瓦工場よ!

 

  *         *

       *         *

 

煉瓦工場は、その後廢(すた)れて、

煉瓦工場は、死んでしまつた

煉瓦工場の、窓も硝子も、

今は毀れてゐようといふもの

 

煉瓦工場は、廢(すた)れて枯れて、

木立の前に、今もぼんやり

木立に鳥は、今も啼くけど

煉瓦工場は、朽ちてゆくだけ

 

沖の波は、今も鳴るけど

庭の土には、陽が照るけれど

煉瓦工場に、人夫は來ない

煉瓦工場に、僕も行かない

 

嘗て煙を、吐いてた煙突も、

今はぶきみに、たゞ立つてゐる

雨の降る日は、殊にもぶきみ

晴れた日だとて、相當ぶきみ

 

相當ぶきみな、煙突でさへ

今ぢやどうさへ、手出しも出來ず

この尨大な、古者が

時々恨む、その眼は怖い

 

その眼は怖くて、今日も僕は

濱へ出て來て、石に腰掛け

ぼんやり俯き、案じてゐれば

僕の胸さへ、波を打つのだ

 

[やぶちゃん注:アスタリスク四個のパーテーションはブログでの不具合を考えて原典の配置を再現せず、上に引き上げ、アスタリスク間も短縮しておいた。本篇の岬の煉瓦工場のある風景のロケーションは不詳。

「赫々」新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」に『あかあか』とルビする。従がう。

「毀れて」新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」に「毀」『こは』とルビする。従がう。

「古者」「ふるつはもの」。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」もかくルビする。

「俯き」「うつむき」。

お道化うた   中原中也

 

    お 道 化 う た

 

月の光のそのことを、

盲目少女(めくらむすめ)に教へたは、

ベートーヹンか、シューバート?

俺の記憶の錯覺が、

今夜とちれてゐるけれど、

ベトちやんだとは思ふけど、

シュバちやんではなかつたらうか?

 

霧の降つたる秋の夜に、

庭・石段に腰掛けて、

月の光を浴びながら、

二人、默つてゐたけれど、

やがてピアノの部屋に入り、

泣かんばかりに彈き出した、

あれは、シュバちやんではなかつたらうか?

 

かすむ街の燈とほに見て、

ウヰンの市(まち)の郊外に、

星も降るよなその夜さ一と夜、

蟲、草叢にすだく頃、

教師の息子の十三番目、

頸の短いあの男、

盲目少女(めくらむすめ)の手をとるやうに、

ピアノの上に勢ひ込んだ、

汗の出さうなその額、

安物くさいその眼鏡、

丸い背中もいぢらしく

吐き出すやうに彈いたのは、

あれは、シュバちやんではなかつたらうか?

 

シュバちやんかベトちやんか、

そんなこと、いざ知らね、

今宵星降る東京の夜(よる)、

ビールのコップを傾けて、

月の光を見てあれば、

ベトちやんもシュバちやんも、はやとほに死に、

はやとほに死んだことさへ、

誰知らうことわりもない……

 

[やぶちゃん注:標題「お道化うた」は「おどけうた」と読みたい。

「月の光のそのことを、」「盲目少女(めくらむすめ)に教へた」「月光」の通称で知られる、ベートーヴェンが一八〇一年に作曲したピアノソナタ「ピアノソナタ第十四番嬰ハ短調作品二十七の二“Sonata quasi una Fantasia”(「幻想曲風ソナタ」)のこと。私もこの話は中学のリーダーの副読本で読まされたが(挿絵までよく覚えている)、これは全くの虚構である。ウィキの「ピアノソナタ第14ベートーヴェンによれば、『日本では戦前の尋常小学校の国語の教科書に、「月光の曲」と題する仮構が読み物として掲載されたことがあった』。『この物語は』十九『世紀にヨーロッパで創作され、愛好家向けの音楽新聞あるいは音楽雑誌に掲載された。日本では』明治二五(一八九二)『年に上梓された小柳一蔵著『海外遺芳巻ノ一』に『月夜奏琴』という表題で掲載された』。『『月夜奏琴』を口語調に書き直したものが『月光の曲』である』とし、そのシノプシスは、『ベートーヴェンが月夜の街を散歩していると、ある家の中からピアノを弾く音が聞こえた。良く見てみると』、『それは盲目の少女であった。感動したベートーヴェンはその家を訪れ、溢れる感情を元に即興演奏を行った。自分の家に帰ったベートーヴェンはその演奏を思い出しながら曲を書き上げた。これが「月光の曲」である』というものである。

「ベートーヹン」ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)。

「シューバート」フランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert)。彼には重唱曲に“Mondenschein”(「月の光」)がある。]

閑寂   中原中也

 

    閑   寂

 

なんにも訪(おとな)ふことのない、

私の心は閑寂だ。

 

    それは日曜日の渡り廊下、

    ――みんなは野原へ行つちやつた。

 

板は冷たい光澤(つや)をもち、

小鳥は庭に啼いてゐる。

 

    締めの足りない水道の、

    蛇口の滴(しづく)は、つと光り!

 

土は薔薇色、空には雲雀

空はきれいな四月です。

 

    なんにも訪(おとな)ふことのない、

    私の心は閑寂だ。

 

頑是ない歌   中原中也

 

    頑 是 な い 歌

 

思へば遠く來たもんだ

十二の冬のあの夕べ

港の空に鳴り響いた

汽笛の湯氣(ゆげ)は今いづこ

 

雲の間に月はゐて

それな汽笛を耳にすると

竦然として身をすくめ

月はその時空にゐた

 

それから何年經つたことか

汽笛の湯氣を茫然と

眼で追ひかなしくなつてゐた

あの頃の俺はいまいづこ

 

今では女房子供持ち

思へば遠く來たもんだ

此の先まだまだ何時までか

生きてゆくのであらうけど

 

生きてゆくのであらうけど

遠く經て來た日や夜(よる)の

あんまりこんなにこひしゆては

なんだか自信が持てないよ

 

さりとて生きてゆく限り

結局我ン張る僕の性質(さが)

と思へばなんだか我ながら

いたはしいよなものですよ

 

考へてみればそれはまあ

結局我ン張るのだとして

昔戀しい時もあり そして

どうにかやつてはゆくのでせう

 

考へてみれば簡單だ

畢竟意志の問題だ

なんとかやるより仕方もない

やりさへすればよいのだと

 

思ふけれどもそれもそれ

十二の冬のあの夕べ

港の空に鳴り響いた

汽笛の湯氣や今いづこ

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、昭和一〇(一九三五)年十二月(中也満二十八)の作で、翌年一月号『文藝汎論』初出とする。

「十二の冬のあの夕べ/港の空に鳴り響いた/汽笛の湯氣(ゆげ)は今いづこ」「十二の冬」は「十二」(数え)が正確ならば、大正七(一九一八)年となる。山口師範附属小学校小学校四年生である(この歳の四月にそれまで在籍していた下宇野令(うのれ)小学校から山口県立山口中学受験のためにこちらに転校した)。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜の同年の記載に、『一時、科学に懲(こ)り、発明家を夢みて』父の『病院から試薬を持ち出し、実験に耽ったりした』とあり、またこの頃、『防長新聞』や『『婦人畫報』等に短歌を投稿』している。『学校には「矢鱈に何ということなしに心惹かれていた女教員」がいて、彼女の茶色の袴(はかま)を恋しい気持ちで眺めていた』とあるだけで、この「十二の冬のあの夕べ」、とある「港の空に鳴り響いた」「汽笛の湯氣(ゆげ)」の音や映像を解明してくれる事実や事件やそれを匂わせる事蹟は記されていない。ただ、私はまず、この「十二」というのは七五調の韻律上から選ばれた〈それらしい記号〉なのではないかと疑っている。「十」や「十三」「十六」ではだめなのは明白である。しかも、いかにも事実らしく聴こえる「十二の冬」という年齢・季節といい、限定された或る秘密めいた一日(ひとひ)の「あの夕べ」といい、潮の匂いの漂う「港の空」といい、そこに劈ざくように「鳴り響いた」船の「汽笛」と、その「湯氣(ゆげ)」の視聴覚上のリアリズムに、我々は具体な、どこかの港の夕暮れの情景や、なんとなく妖しい雰囲気の実画面を描きがちになる。しかし私はこれは全くの彼の幼年幻想とその終わりというものの仮想イメージなのだと思っている。則ち、これら「十二の冬のあの夕べ」や「港の空に鳴り響いた」「汽笛の湯氣」続く二連の「雲間」の「月」やは、すべてが、一人の、頻りに尖(とん)がったポーズをしたがる少年が、早々と大人の真似(或いはをし、パイプなど銜えて、詩人のマドロスとして、退屈で不満に満ちた世俗世界におさらばし、何か面白いことが出来そうな荒海(それは怪しい科学実験でも非生産的な発明でももっと非生産的なる芸術やら文芸でも/でこそよい世界である)へと向かいたいと夢想した〈幼年幻想/詩人幻想の「時空」に於ける記号〉なのだと思うのである。

「それな」「な」は強調して念を押す間投助詞。

「竦然」(しようぜん(しょうぜん)」は「ひどく恐れるさま・慄(ぞ)っとして竦(すく)むさま。

「今では女房子供持ち」これが創作された昭和一〇(一九三五)年十二月当時は妻孝子と結婚後二年目、長男文也(昭和九年十月十八日生まれ)は一歳二ヶ月であった。

「こひしゆては」「戀ひしゆては(こひしゅては)」。恋しゅうては。恋しさがつのってくる状態では。

「我ン張る」「頑張る」。]

2018/05/23

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 メノコダイ (イサキ)

 

Menokodai

 

メノコダイ

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。先のトンデモ画群をイサキに同定したぐらいなら、これならもう、遙かに、

スズキ目スズキ亜目イサキ科イサキ属イサキ Parapristipoma trilineatum

同定して心配しない気になってくる。こんな色に見えるイサキなら、実際、いる。しかも、前の「キシミダイ」の図を色を除いて比較してみて御覧な、魚体が鰭に至るまで酷似していることが判るぜ。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 キシミダイ (イサキ?)

 

キシミダイ

 黄檣魚ノ一種

 

Kisimidai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。またしても悩ましい色をしている。前にもあったが、栗本丹洲の魚図の体色にはどう考えてもあり得ない異常なものが、これ、しばしば見られる。されば、ここも大胆に色を度外視して名前と魚体の体勢から考えてみた。ところが、いくら調べてみても「キシミダイ」というこのありそうな異名は現代に残っていないようで、如何なるネット検索にも引っ掛かってこない。しかし「キシミ」ってなんだ? 「黃染み鯛」か? 鰭の黄色か? そういゃあ、後の「黄檣魚」は前にも「ヒメ小鯛・黄檣魚(キグチ)」とか、体色異常の「紅■■ (イサキ)」のキャプションに出てたよな? 前の奴はどうだ?(その図)……あちゃ……面(つら)が似てねぇなあ。待てよ? これはスズキ目スズキ亜目ニベ科キグチ属キグチ Larimichthys polyactis に同定したんだが、あの時、調べてた時に、なんだか頭の形がこんな、こう、ズングリした奴がキグチの仲間にいたぞう! おお! そうだ! 顎のシャクれた感じのあいつ

スズキ目スズキ亜目ニベ科キグチ属フウセイ Larimichthys crocea

だ! グーグル画像検索「Larimichthys croceaを見てみてくれ。こりゃ、頭がクリソツじゃねえか! ただなぁ……尾鰭の形状がな~あ、中央が凹むんじゃなくて、後ろに突出してねえとなぁ……あれぇ?……でも……そうすると、「ヒメ小鯛・黄檣魚(キグチ)」の同定も誤り(キグチも同じ団扇みたような尾鰭)ということになっちまうぞ……う~ん、墓穴掘っちまった!…………しゃあねぇな!(「どですかでん」の六ちゃん風に) じゃあ、もう一つのイサキん方は、どうよ? 赤いイサキなんていねえって? だからさ、言ったろ?! 色は無視、す、ん、の! にしても、似てねえってか? う~ん、確かに……いや?……待て、待て! 「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「イサキ」の三つ並んだ写真の中央、おう! それそれ! クリックしてみな! なんか、似てねえか? 鰭、黄色いな! それに幼魚や若魚は『やや明るい茶色で濃い褐色の縞文様が縦に走る』ってあるよな? これを全面的に強着色すると紅くなるとも言えるよな? 或いはこれも体色異常の、

スズキ目スズキ亜目イサキ科イサキ属イサキ Parapristipoma trilineatum

てか? 分らん!]

北の海   中原中也

 

    北  の  海

 

海にゐるのは、

あれは人魚ではないのです。

海にゐるのは、

あれは、浪ばかり。

 

曇つた北海の空の下、

浪はところどころ齒をむいて、

空を呪つてゐるのです。

いつはてるとも知れない呪。

 

海にゐるのは、

あれは人魚ではないのです。

あれは、浪ばかり。

 

[やぶちゃん注:私が中原中也の詩の中で最も偏愛する詩篇である。謂わずもがなであるが、第二連最終行末の「呪」は「のろひ(のろい)」と読む。「中原中也詩集」(河上徹太郎編・昭和六〇(一九八五)年改版三十四版・角川文庫刊)の年譜によれば、昭和一〇(一九三五)年二月に創作され、同年五月に発行された創刊号『歷程』(第一次。逸見猶吉・草野心平らにより、中也も同人となっていた)に発表した詩篇である。]

初夏の夜   中原中也

 

    

 

また今年(こんねん)も夏が來て、

夜は、蒸氣で出來た白熊が、

沼をわたつてやつてくる。

――色々のことがあつたんです。

色々のことをして來たものです。

嬉しいことも、あつたのですが、

囘想されては、すべてがかなしい

鐵製の、軋音さながら

なべては夕暮迫るけはひに

幼年も、老年も、靑年も壯年も、

共々に餘りに可憐な聲をばあげて、

薄暮の中で舞ふ蛾の下で

はかなくも可憐な顎をしてゐるのです。

されば今夜(こんや)六月の良夜(あたらよ)なりとはいへ、

遠いい物音が、心地よく風に送られて來るとはいへ、

なにがなし悲しい思ひであるのは、

消えたばかしの鐵橋の響音、

大河(おほかは)の、その鐵橋の上方に、空はぼんやりと石盤色であるのです。

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本篇もまた、創作年月日がはっきりしており、昭和一〇(一九三五)六月六日とあって、初出は『文學界』同年八月号である。

「軋音」新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」に『きつおん』とルビするが、「軋」の字は「キツ」という音は持たない。呉音で「エチ」、漢音で「アツ」である。ここは「あつおん」と読んでおく。「軋(きし)み音」である。

「顎」上記新潮社版では『あぎと』とルビする。「可憐な」の形容を考えると、この読みを私は支持する。

「良夜(あたらよ)」「可惜夜(あたらよ)」で、「明けるのが惜しいほどに素晴らしい夜」の謂い

「響音」「きやうおん(きょうおん)」と読んでおく。汽車が鉄橋を渡って行く、その反響音である。

「石盤色」英語の色名「スレート・グレイ」(slate grey)の訳語。濃い灰色。「スレート」は屋根を葺くのに用いる粘板岩の薄板のこと。]

雲雀   中原中也

 

    雲   雀

 

ひねもす空で鳴りますは

あゝ 電線だ、電線だ

ひねもす空で啼きますは

あゝ 雲の子だ、雲雀奴(め)だ

 

碧(あーを)い 碧(あーを)い空の中

ぐるぐるぐると 潛(もぐ)りこみ

ピ-チクチクと啼きますは

あゝ 雲の子だ、雲雀奴(め)だ

 

步いてゆくのは菜の花畑

地平の方へ、地平の方へ

步いてゆくのはあの山この山

あーをい あーをい空の下

 

眠つてゐるのは、菜の花畑に

菜の花畑に、眠つてゐるのは

菜の花畑で風に吹かれて

眠つてゐるのは赤ン坊だ?

 

春と赤ン坊   中原中也

 

    

 

菜の花畑で眠つてゐるのは……

菜の花畑で吹かれてゐるのは……

赤ン坊ではないでせうか?

 

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です

ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です

菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

 

走つてゆくのは、自轉車々々々

向ふの道を、走つてゆくのは

薄桃色の、風を切つて……

 

薄桃色の、風を切つて

走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲(しろくも)

――赤ン坊を畑に置いて

 

夏の夜に覺めてみた夢   中原中也

 

    夏の夜に覺めてみた夢

 

眠らうとして目をば閉ぢると

眞ッ暗なグランドの上に

その日晝みた野球のナインの

ユニホ-ムばかりほのかに白く――

 

ナインは各々守備位置にあり

狡(ずる)さうなピッチャは相も變らず

お調子者のセカンドは

相も變らぬお調子ぶりの

 

扨、待つてゐるヒットは出なく

やれやれと思つてゐると

ナインも打者も悉く消え

人ッ子一人ゐはしないグランドは

 

忽ち暑い眞晝(ひる)のグランド

グランド繞るポプラ竝木は

蒼々として葉をひるがへし

ひときはつづく蟬しぐれ

やれやれと思つてゐるうち……眠(ね)た

 

[やぶちゃん注:「ひる」は「眞晝」二字へのルビ。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、中也は野球(観戦)好きであったらしい。

「扨」「さて」。

「繞る」「めぐる」。]

朝鮮女   中原中也

 

    朝  鮮  女

 

朝鮮女(をんな)の服の紐

秋の風にや縒(よ)れたらん

街道を往くをりをりは

子供の手をば無理に引き

額顰めし汝(な)が面(おも)ぞ

肌赤銅の乾物(ひもの)にて

なにを思へるその顏ぞ

――まことやわれもうらぶれし

こころに呆(ほう)け見ゐたりけむ

われを打見ていぶかりて

子供うながし去りゆけり……

輕く立ちたる埃(ほこり)かも

何をかわれに思へとや

輕く立ちたる埃かも

何をかわれに思へとや……

・・・・・・・・・・・

 

[やぶちゃん注:最終行の中黒大十一点のリーダーはママ。「をんな」のルビは「女」のみに附される。

「額顰めし」「ひたひ(ひたい)/しかめし」と読む。

「肌赤銅」「はだ/しやくどう(しゃくどう)」。

秋日狂亂   中原中也

 

    秋 日 狂 亂

 

僕にはもはや何もないのだ

僕は空手空拳だ

おまけにそれを嘆きもしない

僕はいよいよの無一物だ

 

それにしても今日は好いお天氣で

さつきから澤山の飛行機が飛んでゐる

――歐羅巴は戰爭を起すのか起さないのか

誰がそんなこと分るものか

 

今日はほんとに好いお天氣で

空の靑も淚にうるんでゐる

ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて

子供等は先刻昇天した

 

もはや地上には日向ぼつこをしてゐる

月給取の妻君とデーデー屋さん以外にゐない

デーデー屋さんの叩く鼓の音が

明るい廢墟を唯獨りで讃美し𢌞つてゐる

 

あゝ、誰か來て僕を助けて呉れ

ヂォゲネスの頃には小鳥くらゐ啼いたらうが

けふびは雀も啼いてはをらぬ

地上に落ちた物影でさへ、はや余りに淡(あは)い!

 

――さるにても田舍のお孃さんは何處に去(い)つたか

その紫の押花(おしばな)はもうにじまないのか

草の上には陽は照らぬのか

昇天の幻想だにもはやないのか?

 

僕は何を云つてゐるのか

如何なる錯亂に掠められてゐるのか

蝶々はどつちへとんでいつたか

今は春でなくて、秋であつたか

 

ではあゝ、濃いシロップでも飮まう

冷たくして、太いストローで飮まう

とろとろと、脇見もしないで飮まう

何にも、何にも、求めまい!……

 

[やぶちゃん注:「歐羅巴は戰爭を起すのか起さないのか」サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説では、本詩篇の創作時期は昭和一〇(一九三五)年十月とする。第二次世界大戦は一九三九年九月一日のナチス・ドイツのポーランド侵攻が始まりとされるが、まさにドイツはこの一九三五年に再軍備宣言を行って、強大な軍備を整え始めていた。因みに、日中戦争の勃発の一つの起点とされる一九三七年七月七日の盧溝橋事件は中也の亡くなる三ヶ月前の出来事であった。

「デーデー屋」下駄や雪駄などの履物を修理して町廻りをした商売屋。三谷一馬氏の「江戸商売図絵」(一九九五年中央公論社(中公文庫)刊)によれば、『江戸の雪駄直しは「デイデイ」といって来ました。手を入れよという意味だといいます。肩から籠をかけて笠を被り、笠の下には更に頰かむりをしていました。雪駄を直す時は家には入らず、土間で作業したそうです』とある。

「ヂォゲネス」ディオゲネス(ラテン文字転写:Diogenēs 紀元前四〇四頃~紀元前三二三頃)は古代ギリシャの哲学者で犬儒学者(Cynici:キュニコス派。皮肉派とも呼ぶ。ソクラテスの弟子アンティステネスの創唱した古代ギリシア哲学の一派で、社会規範を蔑視し、自然に与えられたものだけで満足して生きる〈犬のような〉(ギリシア語で「キュニコス」(kynikos))人生を理想とした。英語のシニシズム cynicism はこれに由来する。無欲・無所有こそ幸福の要件であると考え、ストア学派の先駆となった。理論より実践に徹した。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)チャンピオン。世俗の権威を否定し、自然で簡易な生活の実践に努め、樽を住居としたことから「樽の中のディオゲネス」と呼ばれた。アレクサンドロス大王との問答は有名で、日光浴中のディオゲネスにアレクサンドロス大王が、「望みはないか」と訊ねたところ、「そこに立たれると、日陰になるのでどいて欲しい」と答えたという。以上は小学館「大辞泉」に拠ったが、この最後に記したエピソードを本詩篇はパロディ化しているものと読める。

「掠められて」「かすめられて」。]

骨   中原中也

 

    

 

ホラホラ、これが僕の骨だ、

生きてゐた時の苦勞にみちた

あのけがらはしい肉を破つて、

しらじらと雨に洗はれ、

ヌックと出た、骨の尖(さき)。

 

それは光澤もない、

ただいたづらにしらじらと、

雨を吸收する、

風に吹かれる、

幾分空を反映する。

 

生きてゐた時に、

これが食堂の雜踏の中に、

坐つてゐたこともある、

みつばのおしたしを食つたこともある、

と思へばなんとも可笑しい。

 

ホラホラ、これが僕の骨――

見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。

靈魂はあとに殘つて、

また骨の處にやつて來て、

見てゐるのかしら?

 

故鄕(ふるさと)の小川のへりに、

半ばは枯れた草に立つて、

見てゐるのは、――僕?

恰度立札ほどの高さに、

骨はしらじらととんがつてゐる。

 

[やぶちゃん注:本篇は珍しく創作日が原詩稿に記されている詩篇らしい。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説に『制作は、詩篇末尾に日付がある通り』、昭和九(一九三四)年四月二十八日で、これは中也が前年末の十二月三日に遠縁の縁者であった六歳歳下の上野孝子と結婚してから、『およそ』五『カ月後の制作で、この頃、東京四谷区の花園アパートに住んでい』たとあり、本詩篇の初出は前年昭和八年五月に同人となった、坂口安吾主宰の雑誌『紀元』の同年六月号とする(但し、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、中也は『紀元』同人を四月に脱退している)。

「光澤」上記新潮社版に従い、「つや」と読んでおく。

「恰度」「ちやうど(ちょうど)」。]

秋の消息   中原中也

 

    秋 の 消 息

 

麻は朝、人の肌(はだえ)に追ひ縋(すが)り

雀らの、聲も硬うはなりました

煙突の、煙は風に亂れ散り

 

火山灰掘れば氷のある如く

けざやけき顥氣の底に靑空は

冷たく沈み、しみじみと

 

教會堂の石段に

日向ぼつこをしてあれば

陽光(ひかり)に𢌞(めぐ)る花々や

物陰に、すずろすだける蟲の音(ね)や

 

秋の日は、からだに暖か

手や足に、ひえびえとして

此の日頃、廣告氣球は新宿の

空に揚りて漂へり

 

[やぶちゃん注:「肌(はだえ)」の「え」はママ。歴史的仮名遣は「はだへ」が正しい。

「けざやけき」「けさやけき」の連濁。「さやけし」は「清けし・明けし」で「明るい・明るくて清々(すがすが)しい・清(きよ)い」の意。「け」は接頭語で、強意或いは「何となく」の意を添える。

「顥氣」「かうき(こうき)」と読む。天上の白く明らかな広大な気。

「教會堂」不詳。

「すずろすだける」「すずろ」は形容動詞の語感で副詞的に「むやみに・やたらに」の意。「すだく」は「集(すだ)く」で、虫が集まってにぎやかに鳴くの意。

「廣告氣球」アドバルーン。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説で合地舜介氏は、『三越百貨店あたりのイメージでしょうか。そうでなくとも角筈』(つのはず:東京都新宿区の旧地名。現在の新宿区西新宿・歌舞伎町及び新宿の一部。附近(グーグル・マップ・データ))『あたりを歩いている詩人の姿が見えてきます』と記しておられる。]

冬の夜   中原中也

 

    冬  の  夜

 

みなさん今夜は靜かです

藥鑵の音がしてゐます

僕は女を想つてる

僕には女がないのです

 

それで苦勞もないのです

えもいはれない彈力の

空氣のやうな空想に

女を描いてみてゐるのです

 

えもいはれない彈力の

澄み亙つたる夜(よ)の沈默(しじま)

藥鑵の音を聞きながら

女を夢みてゐるのです

 

かくて夜は更け夜は深まつて

犬のみ覺めたる冬の夜は

影と煙草と僕と犬

えもいはれないカクテールです

 

 2

 

空氣よりよいものはないのです

それも寒い夜の室内の空氣よりもよいものはないのです

煙よりよいものはないのです

煙より 愉快なものもないのです

やがてはそれがお分りなのです

同感なさる時が 來るのです

 

空氣よりよいものはないのです

寒い夜の瘦せた年增女(としま)の手のやうな

その手の彈力のやうな やはらかい またかたい

かたいやうな その手の彈力のやうな

煙のやうな その女の情熱のやうな

炎えるやうな 消えるやうな

 

冬の夜の室内の 空氣よりよいものはないのです

 

湖上   中原中也

 

    湖   上

 

ポッカリ月が出ましたら、

舟を浮べて出掛けませう。

波はヒタヒタ打つでせう、

風も少しはあるでせう。

 

沖に出たらば暗いでせう、

櫂から滴垂(したゝ)る水の音は

昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、

――あなたの言葉の杜切れ間を。

 

月は聽き耳立てるでせう、

すこしは降りても來るでせう、

われら接唇(くちづけ)する時に

月は頭上にあるでせう。

 

あなたはなほも、語るでせう、

よしないことや拗言(すねごと)や、

洩らさず私は聽くでせう、

――けれど漕ぐ手はやめないで。

 

ポッカリ月が出ましたら、

舟を浮べて出掛けませう、

波はヒタヒタ打つでせう、

風も少しはあるでせう。

 

老いたる者をして ―― 「空しき秋」第十二   中原中也

 

    老いたる者をして

       
  ――「空しき秋」第十二

 

老いたる者をして靜謐の裡にあらしめよ

そは彼等こころゆくまで悔いんためなり

 

吾は悔いんことを欲す

こころゆくまで悔ゆるは洵に魂(たま)を休むればなり

 

あゝ はてしもなく涕かんことこそ望ましけれ

父も母も兄弟(はらから)も友も、はた見知らざる人々をも忘れて

 

東明(しののめ)の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く

はたなびく小旗の如く涕かんかな

 

或(ある)はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき

海の上(へ)の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……

 

     反歌

 

あゝ 吾等怯懦のために長き間、いとも長き間

徒(あだ)なることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……

 

 〔空しき秋二十數篇は散佚して今はなし。その第十二のみ、諸井三郞の作曲によりて

  殘りしものなり。〕

 

[やぶちゃん注:太字「はたなびく」は底本では傍点「ヽ」。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本詩篇は昭和三(一九二八)年十月に創作されたとする中原中也の友人関口隆克(たかかつ 明治三七(一九〇四)年~昭和六二(一九八七)年:教育者(文学者や作家ではない)。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、中也は、この昭和三年五月下旬からの一時期(翌年一月までか)には下高井戸の彼の下宿で共同生活をしているとある。後に文部官僚や開成学園中学校・高等学校校長となったようである)の証言があるとされ、以下、非常に細かい当時の中也の置かれていた状況が仔細に語られてあるので、本詩篇の読解に大いに参考になる。是非、一覧されたい。少なくともここで言い添えておいてよいと思うことは、この連禱(事実は長歌と反歌という万葉集的歌型)めいた詩篇(元は群)は、当時の中也の置かれていた心理状態と関係するのではないかという点である。上記新潮社版「中原中也」の年譜などを見ると、この昭和三年五月十六日には父謙助が死去(同年三月十五日に往診先で倒れた。胃癌であった)しているが、見舞いのために病床には二度帰郷しているのに、葬儀には着る学生服がなかったために帰郷していない。同時期、小林秀雄と別れた長谷川泰子に再び近づくが、拒絶される。しかし恋慕止まず、同年十二月に詩篇「女よ」を書き、『以後、逃れつづける泰子に対して絶望的な恋愛詩を書くという、苦悩の中から生まれた豊かな詩作の次代が始まる』とある(新潮社版の編者は大岡昇平・飯島耕一であるが、年譜の編者は名義が示されていない)。その詩篇「女よ」はまさに本詩篇と共時的に書かれたもので、ある種、本篇の心内反転鏡像のように私には見えるので、参考までに以下に掲げておく。底本はその新潮社版に載るものを用いたが、恣意的に漢字を正字化した。

   *

 

  女よ

 

女よ、美しいものよ、私の許(もと)にやつておいでよ。

笑ひでもせよ、嘆きでも、愛らしいものよ。

妙に大人(おとな)ぶるかと思ふと、すぐまた子供になつてしまふ

女よ、そのくだらない可愛いい夢のままに、

私の許にやつておいで。嘆きでも、笑ひでもせよ。

 

どんなに私がおまへを好きか、

それはおまへにわかりはしない。けれどもだ、

さあ、やつておいでよ、奇麗な無知よ。

おまへにわからぬ私の悲愁(ひしう)は、

おまへを愛すに、かえつてすばらしいこまやかさとはなるのです。

 

さて、そのこまやかさが何處(どこ)からくるともしらないおまへは、

欣(よろこ)び甘え、しばらくは、仔猫(こねこ)のやうにも戲(じや)れるのだが、やがてそれに飽いてしまふと、そのこまやかさのゆゑに

却(かへつ)ておまへは憎みだしたり疑ひ出したり、つひに私に叛(そむ)くやうにさへもなるのだ、

おゝ、忘恩なものよ、可愛いいものよ、おゝ、可愛いいものよ、忘恩なものよ!

 

   *

因みに、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」のこの「女よ」の詩篇の電子化と解説を見ると、こちらでは詩篇(表記の一部が以上とは異なる)末に『(一九二八・一二・一八)』のクレジットがある。これは本詩篇「老いたる者をして」創作期から二~三ヶ月圏内の後の日付である。

 

「靜謐」「せいひつ」。静かで落ち着いていること。

「裡」「うち」。

「洵に」「まことに」。

「涕かん」「なかん」。

はたなびく」やや意外な感じがするかも知れぬが、これは一般的な単語ではない(私も使ったことがないし、「日本国語大辞典」にも載らない)。中也が傍点を打ったところからも、韻律上からの確信犯の奇体な造語のように思われる。「小旗の如く」から「旗靡く」と漢字を当てたくなるが、それはあり得ない。「旗」は「はためく」のであって「棚引(たなび)く」のではないからである。

「こだま」木霊。谺。

「とことはに」これ一語で形容動詞ナリ活用の連用形(古くは「とことばに」上代語からある)。漢字表記するなら「常(とことは)に」である。永遠に変わらないさま。

「怯懦」「けふだ(きょうだ)」。臆病で気が弱いこと。意気地(いくじ)のないこと。

「徒(あだ)なる」「儚(はかな)いさま」或いは「無駄で無用なさま」。

「諸井三郞」(明治三六(一九〇三)年~昭和五二(一九七七)年)は作曲家。東京生まれ。東京帝国大学卒業後、ドイツに渡ってベルリン高等音楽学校で学び、昭和九(一九三四)年に帰国、交響曲・協奏曲を作曲し、後続の作曲家らを育てた。戦後は文部省で音楽教育行政に携わり、東京都交響楽団長・洗足学園大教授を勤めた。新潮社版年譜によれば、中也は昭和二(一九二七)年一月(十九歳)で前年末の一時帰郷から東京へ還った際、河上徹太郎(明治三五(一九〇二)年~和五五(一九八〇)年:文芸評論家・音楽評論家)と知り合い、同年十二月に『河上の紹介で、作曲家諸井三郎を知り、新進作曲家の音楽団体「スルヤ」に近づく』とあり(スルヤは「Surya」で、サンスクリット語の「太陽神」を意味するという)、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説には、『この詩に、諸井三郎が曲を付け』、昭和五(一九三〇)年五月『の「スルヤ」第』五『回発表会で演奏され』たとある。]

2018/05/22

冬の明け方   中原中也

 

    

 

殘んの雪が瓦に少なく固く

枯木の小枝が鹿のやうに睡い、

冬の朝の六時

私の頭も睡い。

 

烏が啼いて通る――

庭の地面も鹿のやうに睡い。

――林が逃げた農家が逃げた、

空は悲しい衰弱。

     私の心は悲しい……

 

やがて薄日が射し

靑空が開(あ)く。

上の上の空でジュピター神の砲(ひづつ)が鳴る。

――四方(よも)の山が沈み、

 

農家の庭が欠伸(あくび)をし、

道は空へと挨拶する。

     私の心は悲しい……

 

[やぶちゃん注:「殘んの雪」「のこんのゆき」。「殘んの」は古語の連体詞で「残りの」の転訛したもの。「残っている」の意。

「林が逃げた農家が逃げた」はサイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説がよい。『これは、中也がよく使うレトリックの一つ』で、『林が逃げた、というのは、林がどこかに行ってしまった、というのではなく』、『林もまだ目覚めておらず』、『そこにあるのだけれど、ないのも同然という、不在感を表現したもの』であり、最終連の『農家も、同様に解すことができ』、『林も農家も』、『まだ、冬の朝に、目覚めていないので』あるとされておられる。

「ジュピター神の砲(ひづつ)が鳴る」遠い寒雷の雷鳴と採ってもよい。それを天空神ジュピターJupiter:ローマ神話の最高神ユピテル(ラテン語:Jūpiterの英語名。気象現象(特に雷)を司る神)が「太陽」を打ち出した火砲の砲弾にをかく言ったもの(雷鳴とは敢えて採らない)だとどこかで思っていた。いや、今もそう思っている、と言い添えておく。]

冷たい夜   中原中也

 

    冷 た い 夜

 

冬の夜に

私の心が悲しんでゐる

悲しんでゐる、わけもなく……

心は錆びて、紫色をしてゐる。

 

丈夫な扉の向ふに、

古い日は放心してゐる。

丘の上では

棉の實が罅裂(はじ)ける。

 

此處では薪が燻つてゐる、

その煙は、自分自らを

知つてでもゐるやうにのぼる。

 

誘はれるでもなく

覓(もと)めるでもなく、

私の心が燻る……

 

[やぶちゃん注:「棉」「わた」と訓じていよう。「綿」に同じい。

「薪」「まき」か「たきぎ」か、確定不能。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の本篇では『まき』とルビするが、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の電子化本文では『たきぎ』と読みを添える。「薪」の字は本詩集ではここにしか用いられていない。そこで、第一詩集「山羊の歌」(昭和九(一九三四)年十二月文圃堂刊)を調べてみたところ、「生ひ立ちの歌」の「Ⅱ」の第一連の三行目「薪の燃える音もして」とあり(やはり「薪」の字はここのみ)、この「薪」には上記新潮社「日本詩人全集」版や岩波文庫版では『たきぎ』のルビを附してある。しかし乍ら、所持する、底本と同じく中原中也記念館館長中原豊氏の打ち込みになるベタの電子テクスト・データの「山羊の歌」(底本は復刻版「山羊の歌」昭四五(一九七〇)年麥書房刊)には、この「薪」にルビは入っていない。さればこそやはり確定出来ない

「燻つてゐる」「くすぶっている」(現代仮名遣)と読む。

「覓(もと)める」「求める」に同じい。]

秋の日   中原中也

 

    秋  の  日

 

 磧づたひの 竝樹の 蔭に

秋は 美し 女の 瞼(まぶた)

 泣きも いでなん 空の 潤(うる)み

昔の 馬の 蹄(ひづめ)の 音よ

 

 長の 年月 疲れの ために

國道 いゆけば 秋は 身に沁む

 なんでも ないてば なんでも ないに

木履の 音さへ 身に沁みる

 

 陽は今 磧の 半分に 射し

流れを 無形(むぎやう)の 筏は とほる

 野原は 向ふで 伏せつて ゐるが

 

連れだつ 友の お道化た 調子も

 不思議に 空氣に 溶け 込んで

秋は 案じる くちびる 結んで

 

[やぶちゃん注:「磧」「かはら」。河原。川辺の水が枯れて砂や石が多い場所。

「竝樹」「なみき」。並木。

「泣きも いでなん」「美し」い「秋」であるが、その「空」は「今にも泣き」出し「も」しそうに見える、雨を降り出させそうな「空」の比喩ではある。「女の 瞼(まぶた)」はその形容表現の反側的な配置であろう。しかし、この「女」はただの比喩ではなく、詩篇全体に「女」の影を詩想全体に及ぼすための、確信犯的な企(たくら)みと私は踏んでいる。

「長の」「ながの」。

「年月」「としつき」と読みたい。

「いゆけば」「い行けば」。「い」は語調を調える接頭語。

「なんでも ないてば」「てば」は「と言へば」の音変化したものが、係助詞風になったもの。相手の言葉を改めて話題として示す意。「何でもないと言おうなら、確かに」。

「なんでも ないに」「に」は接続助詞で逆接の確定条件。「何でもないのだけれども」。

「木履」「ぼくり」。通常は下駄を指す。ここも実際には主人公と「連れだ」って国道を歩いている男の「友の」「お道化た」「調子」の「カラン! コロン!」という、乾いた軽快にして滑稽な、その下駄の「音」が現実の音なのであろうが(だから副助詞「さへ」を用いているのである)、しかし、ここではまた、第一連で比喩表現で匂わされた「女」の感覚的イメージから、主に少女が用いた、材の底を刳(く)り抜いて後ろ側を丸くし、前の方は前のめりに仕立て、漆で黒や赤に塗った駒下駄(こまげた)の一種の「ぽっくり」「ぼっくり」の音をも、読む者の意識の中に響かせようとしているのではないか? と私は読みたくなるのである。

「流れを 無形(むぎやう)の 筏は とほる」「筏」は「いかだ」であるが、ここは実際に筏が通っているのでは、無論、ない。それは「無形の」「筏」=不可視の筏=漂泊する詩人の魂のようなものの換喩であろう。それは直下で「野原は 向ふで 伏せつて ゐるが」という擬人法を用いている辺りからも漂ってくるのである。

「秋は 案じる くちびる 結んで」――唇をむつかしく「ぎゅっつ」と結んで、あれこれと、男の詩人たち(この友もまた詩人であろう)を考えあぐまさせるのであるよ、「秋は」――と私は採る。その反側として艶っぽい「女」のイメージが詩の背後に潜んでいると私は採るのである。そも「秋」である。「淮南子(えなんじ)」(前漢の淮南王(わいなんおう)劉安の撰になる思想書。二十一編が現存する。道家・陰陽家・法家などの諸学派の説を総合的に記述編修輯したもの)の「繆稱訓(びゅうしょうくん)」に言う、「春女思、秋士悲、而知物化矣。」(春、女は思(かな)しみ、秋、男は悲しみ、而して「物化」(万物の無常の変化)を知る。)のである。]
 

冬の日の記憶   中原中也

 

    冬の日の記憶

 

晝、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、

夜になつて、急に死んだ。

 

次の朝は霜が降つた。

その子の兄が電報打ちに行つた。

 

夜になつても、母親は泣いた。

父親は、遠洋航海してゐた。

 

雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。

北風は往還を白くしてゐた。

 

つるべの音が偶々した時、

父親からの、返電が來た。

 

每日々々霜が降つた。

遠洋航海からはまだ歸れまい。

 

その後母親がどうしてゐるか……

電報打つた兄は、今日學校で叱られた。

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本詩篇の創作は推定で昭和一〇(一九三五)年十二月とし、この死んだ子は四歳の『中也の次弟・亜郎』(つぐろう/通称/あろう)であり、従ってここに出る「兄」が長男であった中原中也自身であるとあり、『亜郎が亡くなったのは』大正四(一九一五)年一月九日で中也八歳の時であったという。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、この時、この次男亜郎の詩を悼んで歌(本詩篇ではない)を作っており、それが中也の最初の詩作であったとする。この詩はそういう意味で、中原中也にとっての近親者の死によるトラウマの起点であったと同時に、彼の文学的出発点でもあったということになろうか。

「父親は、遠洋航海してゐた」事実の文学的虚構。当時、父謙助は金沢の聯隊付から朝鮮の龍山(ヨンサン)(現在の大韓民国ソウル特別市中央部の漢江北岸にある龍山区。ソウル駅がある)聯隊陸軍医長に栄転し、前年大正三年三月から赴任しており、家族は同時に金沢から山口に戻っていた(謙助はその後、上司に申し出て、八月、家族のいる山口の衛戍病院長に転任して帰還した。因みにその二ヶ月後の十月、彼は中原家と養子縁組をし、中原家の戸主となり、ここで初めて中也は柏村から中原姓となったのであった。ここはウィキの「中原謙助に拠る)。

「つるべ」
「釣瓶」。井戸で水を汲み上げる際に用いる、繩・綱を取り付けた桶などの容器を狭義には指すが、後にはそれを引き上げる天秤状の釣瓶竿や滑車など機構全体を指すようになった。井戸は古来、死者の国としての黄泉(よみ)の国や冥界に通底する通路とされたから、ここでそれが何故か音を立てたというところには、民俗的なそうした意識が働いていることを見逃してはなるまい。

この小兒   中原中也

 

    こ の 小 兒

 

コボルト空に往交(ゆきか)へば、

野に

蒼白の

この小兒。

 

黑雲空にすぢ引けば、

この小兒

搾る淚は

銀の液……

 

     地球が二つに割れゝばいい、

     そして片方は洋行すればいい、

     すれば私はもう片方に腰掛けて

     靑空をばかり――

 

花崗の巖(いはほ)や

濱の空

み寺の屋根や

海の果て……

 

[やぶちゃん注:太字「もう片方」は原詩集では傍点「ヽ」。「この小兒」とは精霊「コボルト」(後注参照)の変じた長男文也を具体なイメージの一つとしながら、それが詩の半ばで詩人自身にグラデーションを以ってメタモルフォーゼするかのようである。角川文庫「中原中也詩集」(河上徹太郎編)の年譜によれば、本篇は昭和一〇(一九三五)年六月発行の『文學界』に発表している。

「コボルト」(ドイツ語:Kobold:カタカナ音写:コォゥバァルドゥ)はドイツの民間伝承に由来する醜い悪戯好きの妖精或いは鉱山の地霊などの、精霊群を指す汎用名称。ウィキの「コボルト」より引く。『コボルトはドイツ語で邪な精霊を意味し、英語ではしばしばゴブリンと訳される』(Goblin。広く西欧で信じられている、森や洞窟に住むとされる醜い小人の姿をした悪戯好きの精霊の汎称。このドイツの「コボルト」の他、フランスでは「ゴブラン」(Gobelin)と呼んだりする。映画で有名になったグレムリン(gremlin)もゴブリンの一種である)。『最も一般的なイメージは、ときに手助けしてくれたりときにいたずらをするような家に住むこびとたちというものである。彼らはミルクや穀物などと引き替えに家事をしてくれたりもするが、贈り物をしないままだと』、『住人の人間にいたずらをして遊んだりもする。また、一度』、『贈り物をもらったコボルトはその家から出て行ってしまうと言われる。もうひとつあるコボルトのイメージは、坑道や地下に住み、ノームにより近い姿である』『金属元素コバルトの名はコボルトに由来する』が、これは『コバルト鉱物は冶金が困難なため』、十六『世紀頃のドイツでは、コボルトが坑夫を困らせるために魔法をかけて作った鉱物と信じられていたからである』とある。

「黑雲」「こくうん」「くろくも」孰れとも読める。因みに本詩篇の上の定位置に記された第一連・第四連は総てが初行と最終行の頭をカ行音で合わせてある。個人的には、次行の「この小兒」の「こ」と響き合わせて、独特の硬質感(後で地球が割れればいいといい、最終連に花崗岩が出る辺りも含め)を出したい気がするので「こくうん」と私は読みたい。

「そして片方は洋行すればいい」「すれば私はもう片方に腰掛けて」「靑空をばかり――」やや分かり難いが、厭世的詩人は言い放つ。『地球が二つに割れてしまえばいい、割れてしまったら、その一方はどこか遠い宇宙のどことなりへと旅立って(「洋行」)しまえばいい、旅だって俺独りになったなら、その一方は私の足下に残っている、そこで「私は」その片割れの半地球に徐ろに「腰掛けて」「靑空をばかり」眺めて居たい』というのである。さてもこれは私の偏愛する尾形龜之助の、あの詩集色ガラスの街」(大正一四(一九二五)年十一月惠風館刊。リンク先は私が二〇一四年に作った〈初版本バーチャル復刻版〉)の一篇、

   *

 

    不幸な夢

 

「空が海になる

私達の上の方に空がそのまま海になる

 ―― 

そんな日が來たら

 

そんな日が來たら笹の舟を澤山つくつて

仰向けに寢ころんで流してみたい

 

を私は直ちに想起する。

「花崗」「くわこう(かこう)」。花崗岩。以下、「濱の空」「み寺の屋根」「海の果て」と、かなり具体なロケーションが続くので、この第四連は特定の場所がイメージされていることは間違いないが、不詳。]

幼獸の歌   中原中也

 

    幼 獸 の 歌

 

黑い夜草深い野にあつて、

一匹の獸(けもの)が火消壺の中で

燧石を打つて、星を作つた。

冬を混ぜる 風が鳴つて。

 

獸はもはや、なんにも見なかつた。

カスタニエットと月光のほか

目覺ますことなき星を抱いて、

壺の中には冒瀆を迎へて。

 

雨後らしく思ひ出は一塊(いつくわい)となつて

風と肩を組み、波を打つた。

あゝ なまめかしい物語――

奴隷も王女と美しかれよ。

 

     卵殼もどきの貴公子の微笑と

     遲鈍な子供の白血球とは、

     それな獸を怖がらす。

 

黑い夜草深い野の中で、

一匹の獸の心は燻る。

黑い夜草深い野の中で――

太古は、獨語も美しかつた!……

 

[やぶちゃん注:太古の古代人幻想詩篇。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本詩篇は本『詩集の前の方に配されてい』るものの、創作時期は、没する前年の昭和一一(一九三六)年六月頃『と推測される』もので(中也二十九歳)、昭和一一(一九三六)年八月号の『四季』に発表されたもの、とある。

「黑い夜草深い野にあつて」現代仮名遣で「くろいよる//くさぶかい/のにあって」と読む。

「獸」これは獣類を指していないことは以下で火打石を打っていることからも判る。古代の野人の一人の成人の大人である。

「火消壺」「ひけしつぼ」。

「燧石」「ひうちいし」。

「カスタニエット」カスタネット(英語:castanet:英語をカタカナ音写するなら「キャスタネット」が近い)。元はスペイン語「castaña」(カスターニャ)で「クリの実」の意。形が似ていることに拠るといい、平凡社「世界大百科事典」によれば、実際に本来は原料にクリ材を用いるとあり、小学館「日本大百科全書」によれば、スペイン式カスタネットの起源は古代エジプトに溯るとある。古代エジプトの国家形成は紀元前三千年頃で、本邦では縄文時代中期から後期に当たる。本詩篇の幻想は本邦というよりは、この語の使用によって、一見、古代西洋的なニュアンスを感じさせるが、しかし、当時の縄文期も集落が大型化し、三内(さんない)丸山遺跡のような巨大集落が現われ、植林農法も進化して、それまでのドングリよりも、そのまま食べられるクリに変わって大規模化しているから(ここはウィキの「紀元前3千年紀に拠った)、これを私は繩文幻想と採りたい気が強くしている

「目覺ます」「めざます」。

「卵殼もどき」「らんかくもどき」。つるんとした傷一つない綺麗な(「貴公子」だから)の頰の形容。どことなく文弱な感じだが、それはそれで内在する貴種の力を思せる。それが知力は「遲鈍」であっても、やはり強靱なパワーを伏在させている野人の「子供」と対となると私は思う。

「白血球」は外敵を鋭く感知し、攻撃し、食い尽くすから、これはその古代の民の普通の「子供」の中に生得的に天賦されて内包されている、新たな世代の強靱な「血」=魂=霊力を換喩しているものと私は読む。

「それな獸を怖がらす」「な」は強調して念を押す間投助詞と採る。「それこそが」未だただの獣である常に力ある何者かに平伏す野人の大人を生理的に恐れさせる、の謂いと私は採る。

「燻る」「くすぶる」。

「獨語」「どくご」。しかし実は、そうした未だ野人の大人の、誰に言うでもないモノローグでさえも、既にして実はアニミスティクな呪的な超自然力を持った言霊(ことだま)なのであり、だからこそそれでさえも「美しかった!」のである。こういう、言葉が本来持っていたはずの呪的詩的パワーを我々は失って久しいのである。中也がこの詩で言いたかったのはそんな思いではなかったろうか? しかも、それでこそ、実はうわべだけでない、真正のダダイズム的詩篇として私は本詩篇を詠むのである。]

夏の夜   中原中也

 

    夏  の  夜

 

あゝ 疲れた胸の裡を

櫻色の 女が通る

女が通る。

 

夏の夜の水田(すゐでん)の滓、

怨恨は氣が遐くなる

――盆地を繞る山は巡るか?

 

裸足(らそく)はやさしく 砂は底だ、

開いた瞳は をいてきぼりだ、

霧の夜空は 高くて黑い。

 

霧の夜空は高くて黑い、

親の慈愛はどうしようもない、

――疲れた胸の裡(うち)を 花瓣が通る。

 

疲れた胸の裡を 花瓣が通る

ときどき銅鑼(ごんぐ)が著物に觸れて。

靄はきれいだけれども、暑い!

 

[やぶちゃん注:初行の「裡」にはルビがない。「水田(すゐでん)」の「ゐ」、「をいてきぼり」の「を」、はママ。

「滓」「おり」と読む。

「遐くなる」「とほくなる(とおくなる)」。「遠くなる」に同じい。

「繞る」「めぐる」。

「銅鑼(ごんぐ)」銅鑼(どら)。「ゴング(gong:マレー語語源の英語)」の当て読み。]

春の日の歌   中原中也

 

    

 

流(ながれ)よ、淡(あは)き 嬌羞よ、

ながれて ゆくか 空の國?

心も とほく 散らかりて、

ヱジプト煙草 たちまよふ。

 

流(ながれ)よ、冷たき 憂ひ祕め、

ながれて ゆくか 麓までも?

まだみぬ 顏の 不可思議の

咽喉(のんど)の みえる あたりまで……

 

午睡の 夢の ふくよかに、

野原の 空の 空のうへ?

うわあ うわあと 涕くなるか

 

黃色い 納屋や、白の倉、

水車の みえる 彼方(かなた)まで、

ながれ ながれて ゆくなるか?

 

[やぶちゃん注:「嬌羞」「けうしう(きょうしゅう)」と読み、原義は「女性の嬌(なまめ)かしい恥じらい」の意。

「午睡」新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」では『ひるね』とルビするが、であれば、中也はルビを振ったであろう。響きからも私は「ごすい」と音で読みたい。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の電子化でも『ごすい』とされておられる。

「涕く」「なく」。]

春   中原中也

 

    

 

春は土と草とに新しい汗をかゝせる。

その汗を乾かさうと、雲雀は空に隲る。

瓦屋根今朝不平がない、

長い校舍から合唱は空にあがる。

 

あゝ、しづかだしづかだ。

めぐり來た、これが今年の私の春だ。

むかし私の胸摶つた希望は今日を、

嚴めしい紺靑(こあを)となつて空から私に降りかゝる。

 

そして私は呆氣てしまふ、バカになつてしまふ

――藪かげの、小川か銀か小波(さざなみ)か?

藪かげの小川か銀か小波か?

 

大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに

一つの鈴をころばしてゐる、

一つの鈴を、ころばして見てゐる。

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本詩篇の初出は、昭和四(一九二九)年九月号『生活者』とある。さても、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、まさにこの年の春四月、当時二十二歳になった中原中也を中心とし、河上徹太郎・大岡昇平・阿部六郎ら『九人の文学青年が、十円の同人費を持ち寄って』、同人雑誌『白痴群』を創刊している(誌名は『野心を持ちたくても持てない馬鹿の集りの意』ともある)。

「隲る」「のぼる」と読む。

「瓦屋根今朝不平がない」「かはらやね//けさ/ふへいがない」(斜線は切れを示し、二重斜線はより有意な切れを示す)と読んでおく。

「胸摶つた」「むねうつた(むねうった)」と読む。

「紺靑(こあを)」紫色を帯びた暗い青色(或いは「鮮やかな明るい藍色」とも表現できる)。但し、紺青は「こんじやう(こんじょう)」と読み、「こあを(こあお)」という読み方はしない。「こんあを」をこんな風には略さないから、ここは同じような濃い青色を意味する「濃青(こあを(こあお))」の読みを「紺靑」に韻律上から当て訓したものと私は採る。

「呆氣てしまふ」「ほうけてしまふ(ほうけてしまう)」。]

雨の日   中原中也

 

    雨  の  日

 

通りに雨は降りしきり、

家々の腰板古い。

もろもろの愚弄の眼(まなこ)は淑やかとなり、

わたくしは、花瓣の夢をみながら目を覺ます。

 

     *

 

鳶色の古刀の鞘よ、

舌あまりの幼な友達、

おまへの額は四角張つてた。

わたしはおまへを思ひ出す。

 

     *

 

鑢の音よ、だみ聲よ、

老い疲れたる胃袋よ、

雨の中にはとほく聞け、

やさしいやさしい唇を。

 

     *

 

煉瓦の色の憔心の

見え匿れする雨の空。

賢(さかし)い少女(をとめ)の黑髮と、

慈父の首(かうべ)と懷かしい……

 

[やぶちゃん注:これも幼年記憶の追幻想の一篇である。

「腰板」(こしいた)とは、建物の壁面の仕上げや構造が上部と下部で異なる場合の下部の壁面を「腰」と称し、その腰の部分に張られた板を「腰板」と称する。腰羽目(こしばめ:壁の下部に板を平らに張ったもの。「羽目」は当て字で動詞「塡(は)める」の連用形由来とされる)としてよく用いられ、壁の下部を保護するとともに意匠的意味を持つ。腰板の上部に「笠木(かさぎ)」を、下部に「添え木」を施すのが通例(小学館「日本大百科全書」他に拠った)。

「淑やか」「しとやか」と読む。

「古刀」音数律のリズムから見て「こたう(ことう)」と訓じていよう。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」では『刀』でこれなら「かたな」であるが、残念ながら、同書は本詩集「在りし日の歌」を底本としているから、ただの脱字である。

「舌あまり」舌が短くて一部の発音が上手くいかない「舌足らず」の反対で、舌が長過ぎるために同様の現象が起こる、そうした長い舌、などと、まことしやかにネット上に書かれてあるが、「舌足らず」は「舌が短いために発音がおかしいこと」の意ではなく、一部の発音が正常に出来ないことをかく言っているに過ぎない。「舌あまり」は恐らくその方言であろう(但し、「日本国語大辞典」には載らない)。

「鑢」「やすり」と読む。

「煉瓦の色の憔心の」「憔心」は「せうしん(しょうしん)」であるが、一般的な熟語ではない。「憔」は「憂い悩む」であるから「憔悴した心」の状態をさすとは読める。無論、ここは「見え匿れする雨の空」の眼前の暗く重い雨空の感覚的形容であり、謂わずもがな、同時に主人公の心象風景の反転画像である。]

六月の雨   中原中也

 

    六 月 の 雨

 

またひとしきり 午前の雨が

菖蒲のいろの みどりいろ

眼(まなこ)うるめる 面長き女(ひと)

たちあらはれて 消えてゆく 

 

たちあらはれて 消えゆけば

うれひに沈み しとしとと

畠(はたけ)の上に 落ちてゐる

はてしもしれず 落ちてゐる

 

        お太鼓叩いて 笛吹いて

        あどけない子が 日曜日

        疊の上で 遊びます 

 

        お太鼓叩いて 笛吹いて

        遊んでゐれば 雨が降る

        櫺子(れんじ)の外に 雨が降る 

 

[やぶちゃん注:第三・四連の有意な字下げはママ。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、原詩篇は昭和一一(一九三六)年四月(満二十九歳直前か。中也の誕生日は明治(一九〇七)年四月二十九日)の創作と推定されているとあるから、長男文也は昭和九年十月十八日生まれであるから、一歳半あまりで、後半部の「あどけない子」は一見、文也のようにも思われるが、創作時期が「六月」よりも前であり(但し、同解説では本詩篇の初出が昭和一一(一九三六)年の『文學界』六月号であったとあるから、それが発行される梅雨時を意識して詩篇内時制を設定した投稿(依頼原稿ではない。後述)である可能性は非常に高いとは言える)、前の詩篇「三の記憶」の後に配されてある時、自ずと、これも中也自身の幼年期の記憶の中の映像のように私には感ぜられるのである。いや、「中原中也・全詩アーカイブ」のサイト主合地舜介氏もここにそのようなオーバー・ラップを見ておられる。また、何かで読んだが、中也は子どもと一緒に遊ぶよりも、遊んでいる子どもを見ているのが好きだったともいう。しかしそれでも、やはり第四連でモノクロームの映像が後退し、上方の古風な櫺(れんじ)窓からの梅雨の午前の減衰した外光だけが差している部屋で、太鼓を叩き、笛を吹いて遊んでいるのは、独りきりの幼児であり、やはりそれは文也ではなく、あどけない失われた日の詩人自身であると私は思う。因みに、同じく合地舜介氏によれば、本詩篇は翌月の『文學界』七月号で発表されることになっていた第六回「文學界賞」の応募作であったとあるので、「六月の雨」という時制設定は詩想の中の確信犯ではあったと言えよう。しかし、本詩篇は第六回「文學界賞」では選外二席に終っており、『この時の受賞作は、岡本かの子の小説「鶴は病みき」で』、『中原中也が受賞を逃した作品として知られてい』るとある(かの子の、故芥川龍之介との鎌倉ホテルでの避暑生活での交流を素材としたモデル小説「鶴は病みき」も同じ『文學界』六月号に初出している)。それ以外にも、合地氏は、この「たちあらはれて」は「消えてゆく」ミラージュの「眼(まなこ)うるめる」「面長き女(ひと)」を、中也の昔の恋人で、親友小林秀雄と奇体な三角関係にあったことで大いに知られる女優長谷川泰子か、と言い添えておられる。彼女の顔は確かに面長ではある。

「菖蒲」ルビがないことから、「しやうぶ(しょうぶ)」と読んでよかろう。これはつまらぬ注ではない。「菖蒲」と書いて「あやめ」と読ませることが有意に多く(古文では「あやめ」の訓が圧倒的。そもそもが古文では「あやめ」は現在のハナショウブを指したのである)、近代作家の作品でも「あやめ」と訓ずる場合が相当数見られるので、必ず何と訓じているかは厳密な確認或いは確定が常に必要だからである。因みに私は、「あやめ」はその混同が厭なことから決して「菖蒲」とは書かず「綾目」或いは「文目」、「しょうぶ」は「菖蒲」と書く。なお、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」でも『しやうぶ』と振られてある。因みに、「綾目」と「菖蒲」と「杜若(かきつばた)」の見分け方は、

被子植物門単子葉綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属アヤ
Iris sanguinea →〈花弁内を覗いて見て、網目型の綾目模様があれば、アヤメ

単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ノハナショウブ変種ハナショウブ Iris ensata var. ensata→〈花弁内に綾目がないことを確認した上で葉に触れて見て、そこに硬い中肋がはっきりと感じられれば、ショウブ

アヤメ属カキツバタ Iris laevigata →〈花弁内に綾目がないことを確認した上で葉に触れて見て、葉に中肋がなく、平滑でぺらっとしていれば、カキツバタ

によって、子どもでも区別ができる。私は高校二年の時、これを植物好きの化学の先生から教えて貰った。その時、私はその化学の先生を初めて尊敬した。自身の専門でない、しかし自身の好きなことを、自信を持ってしかも心から楽しんでいる表情で人に伝えることが如何に素晴らしいことかを教えて下さったからである。しがない国語教師である私が生物学好きであるのもその後天性獲得形質に依ると言える(そう言えば、教育実習を母校でやった時、他の先生から、その化学の先生は酒癖が悪いと耳打ちされた。そこも全くその後の私と同んじだったのだ)。]

2018/05/21

御伽百物語卷之六 勝尾の怪女

 

   勝尾の怪女

 

Kationokaijiyo

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]

 

 津の國勝尾寺(かちおじ)の前の里を名付けて勝の郷(がう)といへり。此筋はおほく湯治の人、有馬にかよふの海道または西國の大名、武江(ぶこう)に往還の道すぢとして、驛路の鈴も、おとづれを絶(たゝ)ず。是れも繁榮の地なりければ、一村に指おりの富貴者(ふうきしや)とかぞへらるゝものも又おほかりける。

 こゝに忠五郎といふ者あり。田畠(でんぱた)あまた持ちて農業を事とし、家は美麗に造りなして、國主參勤の本陣を承りければ、家門、日に添へて榮へ、衣食・眷屬にいたるまで、年ごとに彌(いや)增(まさ)るたのしみをぞ盡しける。

 さる程に、忠五郎、一人のむすめをもふけ、是れを育てさせんとて似合(にあは)しき乳母(うば)を尋ねけるに、折ふし、芥川の里に貧家(ひんか)の娘あり、同じ里の農民の家に嫁し、一人の子あり。夫(それ)は高槻(たかつき)の城下に未進(みしん)の事ありて、是れに驅(か)りとられ、人夫となり、在江戸(ざいえど)して、病死したり。かゝりける程に、母子ともに世をわたるべき便(たより)なくなりて、

「いづかたにも、宮仕へせばや。」

とおもふ心つきて、彼方此方(かなたこなた)と、さまよひありきけるを、不憫の事に思ひ、幸い我が子と同じ年なる子持ちなりければ、呼び寄せて我が娘をやしなはせ、母子ともにかくまへ置きけるに、忠五郎が妻も情ある者にて、乳母の子をも、我が子とおなじく、いつくしみ愛して、衣類食物にいたるまで、かならず、一やうにそろえてとらせ、寵愛しけるが、ある時、此妻、たまたま、物へまうでたる歸りに、林檎をたゞ一つ袖にいれて歸りしが、餘り寵愛のあまりに、たはぶれながら、我が子ばかりに此林檎をとらせける時、乳母、大きに怒り、腹たちて、

「今、君がむすめ、やうやう我が世話によりて成長し、四つばかりにもなり、はや、物くはせても、そだつ程になりたれば、我が恩をわすれ給ふよな。何ぞ今までありつるやうに、兩人ひとしくは、したまはざる。我(われ)なくとも、其(その)子あらば、あらせよ。」

と、拳を握り、牙(きば)をかみて、主人の子をとらへ、打ち殺しもすべきありさまに見えしかば、忠五郎夫婦をはじめ、有りあふ者ども、驚き、さはぎ、

「こは、いかに。氣ばし違ひたるか。さほど迄、腹たつる事かは。」

と、先づ、忠五郎がむすめを引きわけ、抱きとりけるに、不思議や、忠五郎が子と、乳母が子と、いさゝかも、違はず、俄におなじ器量になりて、顏貌(あほかたち)、物いひ迄、そのまゝの、乳母が子也。

 忠五郎夫婦、あきれながら、何とやらん、恐しくおぼえければ、俄に手をつかね、詞(ことば)をいやしくして、さまざまと詫言(わびごと)し、なだめける時、乳母、やうやう心やはらぎ、主人の子を抱きて、首より足まで撫(なで)おろしけるにぞ、忠五郎が娘のかたちとなりける。

 是れに懲りてより、忠五郎、心におもひけるは、

『何さま、此乳母は只ものにあらず、我をたぶらかし欺きて、我が家(いへ)を亡(ほろぼ)さんとする狐狸(きつねたぬき)の災(わざはひ)なるべし。いかにもして殺さばや。』

と思ひ、先づ、しもおとこをかたらひあはせ、ある日ぐれに、乳母一人、門(もん)に立ち居たるを、

『よき折から。』

とおもひ、鍬(くは)を取りのべ、此うばが頭(かうべ)を、

「みぢんになれ。」

と打ち付けさせしに、正しく打ちこみける鍬の飛びかへりて、門の扉にあたりて、扉を半(なかば)うちひしぎたり。

 乳母、また、大きに怒り、

「いかに忠五郎。我をおそろしく見、にくき者におもひたりとも、幾度(いくたび)も、かゝる事にて失はるゝ物にてなきぞ。後(のち)に恨(うらみ)ましき心ならば、いかにもして、我を憎み、追ひ、失ふたくみを、せよ。」

とぞいひける。

 忠五郎も、今はせんかたなく、おそろしさ、彌(いや)增(まさ)りて、是れより後(のち)は、主(しゆう)のごとく、神(かみ)のごとく、つゝしみおそれて、終に心ざしをそむく事なかりしが、それより十ケ年もありて、乳母も子も、いづくへ行きけるにか、かいくれて、見ゑずなりぬ。また其家もつゝがなく、何のふしぎもなかけるとぞ。

[やぶちゃん注:「勝尾寺」現在の大阪府箕面(みのお)市粟生間谷(あおまたに)にある真言宗応頂山勝尾寺(かつおうじ/かつおじ/かちおじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。中央南方に有馬温泉を位置させた。

「芥川の里」現在の大阪府高槻市芥川町及びその西を北西から南東に流れる芥川(淀川に合流)一帯であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「高槻(たかつき)の城下」高槻藩の城下。現在の大阪府高槻市市街地。芥川の東直近

(グーグル・マップ・データ)。

「未進(みしん)の事」有意な額の年貢の未納。

「驅(か)りとられ」未納分を賦役で代替させられて。

「かくまへ置きける」ここは特に「匿ふ」でとらずともよい。「雇い入れて養っておく」でよい。

「餘り寵愛のあまりに」ママ。くどいが、当時の口語的古文ではしばしば見られる。

たはぶれながら、我が子ばかりに此林檎をとらせける時、乳母大きに怒り、腹たちて、

「我(われ)なくとも、其(その)子あらば、あらせよ」「万一、私が世を去っても、その子が存命であったなら、そのようせよ!」。

「牙(きば)をかみて」ぎりぎりと歯噛みをして。

「手をつかね」手を合わせて拝むように。

「詞(ことば)をいやしくして」言葉づかいも遜(へりくだ)って。

「しもおとこ」下男(げなん)。

「うちひしぎたり」押し潰してしまった。

「幾度(いくたび)も」何度やろうが。

「後(のち)に恨(うらみ)ましき心ならば」これでもまだ懲りずに恨みがましい心を我に持っておるのであったなら。

「たくみ」企(たくら)み。]

三歲の記憶   中原中也

 

    

 

緣側に陽があたつてて、

樹脂(きやに)が五彩に眠る時、

柿の木いつぽんある中庭(には)は、

土は枇杷いろ 蠅が唸く。

 

稚厠(おかは)の上に 抱えられてた、

すると尻から 蛔蟲(むし)が下がつた。

その蛔蟲(むし)が、稚厠の淺瀨で動くので

動くので、私は吃驚しちまつた。

 

あゝあ、ほんとに怖かつた

なんだか不思議に怖かつた、

それでわたしはひとしきり

ひと泣き泣いて やつたんだ。

 

あゝ、怖かつた怖かつた

――部屋の中は ひつそりしてゐて、

隣家(となり)は空に 舞ひ去つてゐた!

隣家(となり)は空に 舞ひ去つてゐた!

 

[やぶちゃん注:「中庭(には)」は二字へのルビ。

「唸く」「うめく」。意味は「唸(うな)る」でよい。

「稚厠(おかは)」「おまる」のこと。小学館「日本国語大辞典」に「まかわ(歴史的仮名遣:おかは)」で載り、『子供用または病人用の楕円形の便器』とあり、『「お」は接頭語、「かわ」は「かわや(厠)」の略』とある。当初、家の側を流れる川畔に文字と通りの「かわや」がある、だから「浅瀨」とも読んではみたのだが、それではどうにもシチュエーションがおかし過ぎるのだ。何故なら、第一連は屋敷内の中庭に面した縁側のある部屋であり、最終連も「部屋の中は」「ひつそりしてゐ」るのだ。そこで「蛔蟲(むし)」「が下が」るのを見、「その蛔蟲(むし)が、稚厠の淺瀨で動く」のを見たからこそ「あゝあ、ほんとに怖かつた」! 「なんだか不思議に怖かつた」! だから「わたしはひとしきり」「ひと泣き泣いて やつたんだ」! と、遠い記憶を思い出しつつ、詩人は心の内に叫ぶのである。先に示した石川敏夫氏のサイト「詩のある暮らし」の「わたし流 近代詩の読み」の中原中也のパートの「第1部 父への反抗 第1話 奇蹟の子」中原家見取り図でも(年譜を調べると、三歳当時はここにいたことが確認出来る)、中庭に引き込んだ小流れなどはない感じで、そもそもが図の下(方位表示がないのでこう言っておく)と右が病室(病棟)であり、左は台所である。とすれば、この額縁の中の第二連と第三連が、中庭に降りて屋敷の外にある小川(あるかどうかも知らない。ただ、下方向は田圃ではあるから、そちらの方には用水用の小流れがあった可能性はある。しかし、自然のそこを子供用の厠に常時していたというのは、これ、ひどく潔癖で厳しい医師である父謙助が許そうはずもないではないか?!)というのでは、「吃驚」りしようがない! というより、驚きが、これ、ひどく間が抜けたものとなってしまうではないか?! やはりこれは「おまる」なのだ。その「おまる」の「浅くなったところ」(乾いていていいのである)に「蛔蟲(むし)」が動くの見たのである! これは人工のそれである故にこそ、三歳児にもつぶさに観察できたのだ! だから驚いたのだ! 小流れの浅瀬で抱えられて用を足している子が、その直後、有意な時間、観察など出来ようはずがないではないか?! 下手すりゃ、落ちて溺れて、詩人中原中也になるまえに死んでしまっているかも知れんぞ?! 冗談? 冗談じゃねえよ! 詩篇「月」の注を見て貰おうじゃあねえか! 父謙助は中也が小学校になっても、学校から帰った彼を出来うる限り、外へ出させないようにしてたんだぜ?! その結果、泳ぎも出来なかったんだぜ? 反論があるなら、受けて立とうじゃねか!

「蛔蟲(むし)」線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫(カイチュウ)目回虫上科回虫科回虫亜科カイチュウ属ヒトカイチュウ Ascaris lumbricoides と同定してよかろう。安心なされよ。ここで詳細注をするつもりはさらさらないから。しかし、和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)の私の注をリンクさせておくこととはしよう。]

靑い瞳   中原中也

 

   靑  い  瞳

 


         
 1 夏 の 朝

 

かなしい心に夜が明けた、

  うれしい心に夜が明けた、

いいや、これはどうしたといふのだ?

  さてもかなしい夜の明けだ!

 

靑い瞳は動かなかつた、

  世界はまだみな眠つてゐた、

さうして『その時』は過ぎつつあつた、

  あゝ、遐い遐いい話。

 

靑い瞳は動かなかつた、

  ――いまは動いてゐるかもしれない……

靑い瞳は動かなかつた、

  いたいたしくて美しかつた!

 

私はいまは此處にゐる、黃色い燈影に。

  あれからどうなつたのかしらない……

あゝ、『あの時』はあゝして過ぎつゝあつた!

  碧い、噴き出す蒸氣のやうに。

  2 冬 の 朝

 

それからそれがどうなつたのか……

それは僕には分らなかつた

とにかく朝霧罩めた飛行場から

機影はもう永遠に消え去つてゐた。

あとには殘酷な砂礫だの、雜草だの

頰を裂る(き)やうな寒さが殘つた。

――こんな殘酷な空寞たる朝にも猶

人は人に笑顏を以て對さねばならないとは

なんとも情ないことに思はれるのだつたが

それなのに其處でもまた

笑ひを澤山湛えた者ほど

優越を感じてゐるのであつた。

陽は霧に光り、草葉の霜は解け、

遠くの民家に鷄(とり)は鳴いたが、

霧も光も霜も鷄(とり)も

みんな人々の心には沁(し)まず、

人々は家に歸つて食卓についた。

    
(飛行機に殘つたのは僕、

     
バットの空箱(から)を蹴つてみる)

 

[やぶちゃん注:「湛えた」はママ。

「遐い遐いい話」
「とほいとほいいはなし」。「日本国語大辞典」の「遠い」によれば、方言として広島・周防大島の『トイイ』、鳥取・島根の『トイー』を記すから、この後半の「とほいい」は口語的詠嘆表現を含みながら、その方言の表記化とも思われる。

「罩めた」「こめた」。

「バット」知られた安煙草ながら愛煙されている「ゴールデンバット」(Golden Bat)のこと。]

月   中原中也

 

     

 

今宵月は蘘荷(めうが)を食ひ過ぎてゐる

濟製場の屋根にブラ下つた琵琶は鳴るとしも想へぬ

石灰の匂ひがしたつて怖(おぢ)けるには及ばぬ

灌木がその個性を砥いでゐる

姉妹は眠つた、母親は紅殼(べんがら)色の格子を締めた!

 

さてベランダの上にだが

見れば銅貨が落ちてゐる、いやメダルなのかァ

これは今日晝落とした文子さんのだ

明日はこれを屆けてやらう

ポケットに入れたが氣にかゝる、月は蘘荷を食ひ過ぎてゐる

灌木がその個性を砥いでゐる

姉妹は眠つた、母親は紅殼色の格子を締めた!

 

[やぶちゃん注:「ァ」「ッ」は後続詩篇の通常表記と大きさを比べて確定した。

「今宵月は」「こよひ」、「つきは」。

「蘘荷(めうが)」は「茗荷」に同じい。被子植物植物門単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ミョウガ Zingiber mioga。この詩篇全体が、落語の「茗荷宿」などで知られる「茗荷を食べると物忘れがひどくなる」という俗信のパロディとしてあるように思われる。但し、これは「本草綱目」の巻二十六の「菜之一」の「生薑」(同属の生姜(Zingiber officinale))の記載の中の「弘景曰、『久服少志少智。傷心氣。今人噉辛辣物。惟此最常。故論語云、每食不撤薑。言可常食。但不可多爾。有病者是所宜矣』とあるのを本邦で茗荷に当ててしまった誤りらしく、しかもショウガもミョウガもそのような悪しき成分は無論、含まれてはいない。

濟製場」「さいせいば」と読む。吉竹博氏の論文「中原中也の身体意識(2)――血について――」PDF)の注に、中原中也の弟中原思郎氏が吉田熈生編「中原中也必携」(昭和五六(一九八一)年学燈社刊)の中で、『当時の医院には済製場(さいせいば)があった。包帯、ガーゼ、脱脂綿などを洗濯、消毒する部屋である。直径一メートルもある消毒釜に水を入れ、沸騰させ、汚れものを煮沸する。約賓は石炭酸で、蒸気いっぱいの部屋は石灰臭い』とある。これで「石灰」は腑に落ちた。軍医であった中也の父謙助は軍役を退いた後、郷里山口に帰って、大正六(一九一七)年四月(中也十歳)に中原家のある湯田町に併設されていた個人病院(中也の母中原フクの父助之の弟が「湯田医院」として開院していた。助之は三十三で若死しており、フクは政熊の養女となっている)を継いでいる。石川敏夫氏のサイト「詩のある暮らし」の「わたし流 近代詩の読み」の中原中也のパートの「第1部 父への反抗 第1話 奇蹟の子」には、その医院と中原家全体の見取り図が載せてあるが、そこに「済生場」とあるのがそれであろう。

「紅殼(べんがら)色の格子」「紅殼」は赤色顔料の一つ。主成分は酸化第二鉄Fe2O3。着色力が強い。塗料・油絵具の他、研磨剤に用いる。ベンガラ。名称はインドのベンガル地方で多く産出したことから。それに当字したものの訓読みである。ここは単に濃い赤味の褐色を指している。赤黒く塗った入口の格子戸というのは、私は即座に天然痘(疱瘡)除けの色彩を想起する。上記リンク先の見取り図を見ていると、同医院にあった独立棟の病室(或いは使用人や看護婦の住む長屋など)の戸口ではあるまいか? と、ふと思ったりした。

「屋根にブラ下つた琵琶」月の隠喩であろう。

「文子さん」第一連の姉妹の一人であろう。病人か看護婦か使用人か。前の「紅殼色の格子」から、私には家族ぐるみ(付き添い看護の可能性もある)で住んでいるうちの、一少女のようにも思われる。前の石川氏の解説に『父謙助は、湯田が温泉観光地のため、色町で環境が悪いと言って、学校から帰った中也を一歩も外へ出しませんでした。中也はついに自転車にも乗れず、泳ぎもできなかったのです。二時間くらいで予習・復習をやってあとはすることがありません。所在ないので習字をし、絵を描きました』とあり、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜(大正七年の条末)にも中也の言葉として『父は私の小さい時から、内から外へは出来得る限り出さなかった。外から来る子供だって、大抵は追ひ帰してしまふのであつた』とあるから、この「姉妹」「文子さん」こそが、彼の数少ない年齢の近い交流相手であったことが判る。或いは、この「姉妹」の「母親」が「格子を締め」るというのは、それさえも大人たちによって遮断されるという、中也自身の異様な孤独感の表出がこの詩全体を覆っているのかも知れぬ。]

早春の風   中原中也

 

   早 春 の 風

 

  けふ一日(ひとひ)また金の風

 大きい風には銀の鈴

けふ一日(ひとひ)また金の風

 

  女王の冠さながらに

 卓(たく)の前には腰を掛け

かびろき窓にむかひます

 

  外(そと)吹く風は金の風

 大きい風には銀の鈴

けふ一日(ひとひ)また金の風

 

  枯草の音のかなしくて

 煙は空に身をすさび

日影たのしく身を嫋(なよ)ぶ

 

  鳶色の土かほるれば

 物干竿は空に往き

登る坂道なごめども

 

  靑き女(をみな)の顎(あぎと)かと

 岡に梢のとげとげし

今日一日(ひとひ)また金の風……

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、原詩篇は昭和三(一九二八)年(二十一歳)の創作と推定されているとある。しかし、初出は『帝都大學新聞』(『東京大学新聞』の前身)の昭和一〇(一九三五)年五月十三日号とあるから、実に八年もの間、熟成させたということになる。なお、そこには、『帝都大学新聞へ、この作品を送ったとき』、担当の『学生が、もう時季が早春ではないから何とか変えてくれ、と、タイトルの変更を申し入れてきたことにふれ、後に詩人は、「帝都大学新聞が詩を浴衣の売出しかなんかのように心得ているとはけしからん。文化の程度が低いのである」と、メモを残したエピソードが伝わってい』る、とある。

第二連「冠」は韻律から見て私は「くわん(かん)」と音読みしていると思う。

第三連「嫋(なよ)ぶ」しなやかに、なよなよとしていて、もの柔らかな動きをする。]

夜更の雨  ――ヹルレーヌの面影――   中原中也

 

     夜 更 の 雨

       
――ヹ ル レ ー ヌ の 面 影――

 

雨は 今宵も 昔 ながらに、

  昔 ながらの 唄を うたつてる。

だらだら だらだら しつこい 程だ。

  と、見るヹル氏のあの圖體(づうたい)が、

倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。

 

倉庫の 間にや 護謨合羽(かつぱ)の 反射(ひかり)だ。

  それから 泥炭の しみたれた 巫戲けだ。

さてこの 路次を 拔けさへ したらば、

  拔けさへ したらと ほのかな のぞみだ……

いやはや のぞみにや 相違も あるまい?

 

自動車 なんぞに 用事は ないぞ、

  あかるい 外燈(ひ)なぞは なほの ことだ。

酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、

  遐くの 方では 舍密(せいみ)も 鳴つてる。

 

[やぶちゃん注:「護謨合羽(かつぱ)」は四字への、「反射(ひかり)」「外燈(ひ)」「軒燈(あかり)」は孰れも二字へのルビである。本篇はポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine 一八四四年~一八九六年)の一八七四年の詩集“Romances sans paroles”(「言葉なき恋歌」)の中の“Ⅲ”、“Il pleut doucement sur la ville (Arthur Rimbaud)”(「街にしめやかに雨が降る(アルトゥール・ランボー)」のエピグラフを持つ有名な詩をもとにしている(詩集はこちらで読めるPDF)。この詩集は彼が前年にランボーを二度銃撃しようとし(一度目は一九七三年七月十日のブリュッセルで、実際に撃ち、ランボーの手首に軽傷を負わせている)たため、ランボーに訴えられて入獄していた一年半の中に友人の手で刊行され、獄中の彼のもとに手渡されたものである。なお、私が中学二年の時に買った中込純次訳「ヴェルレーヌ詩集」(一九七〇年三笠書房刊)の本詩(訳題(「ぼくの心に雨が降る……」)の作品解題によれば、この『ランボーのエピグラフは』ランボー『の作品のなかに見当らない。最初はロングフェローの「雨が降っている。風は少しもおとろえない」というエピグラフがついていたという。ロンドン滞在中』(一八七二年九月から翌年七月初め)『の作である』とある)。無論、中也は原詩で読んでいる。しかし、これは堀口大學の訳詩集「月下の一群」(大正一四(一九二五)年第一書房刊)の名訳で知られ、少なくとも読者としての我々は、それを無化して読むことは出来ず、というより、寧ろ、堀口のあの訳詩のフィルターを通して読まざるを得ない人々が有意に多いと考えるのでここに掲げておくこととする。これは本詩をよりよく正しく味わうための、読者にとって実は極めて必要と思われるものであるから、著作権侵害には当たらない適切な〈引用〉と認識する(実際、ネット上には表記のいい加減なそれが馬糞のようにゴロゴロしている)。講談社文芸文庫の「月下の一群」を底本とするが、恣意的に漢字を正字化した。堀口はランボーのエピグラフはカットしている。彼は「われの心に淚ふる」を題であるかのようにして附しているが、私はこういうやり方を、実は、好まない。

   《引用開始》

 

  われの心に淚ふる

 

巷に雨の降るごとく

われの心に淚ふる。

かくも心に滲(にじ)み入る。

この悲しみは何ならん?

 

やるせなき心のためには

おお、雨の歌よ!

やさしき雨の音は

地上にも、屋上にも!

 

消えも入りなん心のうちに

故もなく雨は淚す。

何事ぞ! 裏切りもなきにあらずや?

この喪(も)その故を知らず。

 

故(ゆゑ)しれぬかなしみぞ

實(げ)にこよなくも堪へがたし、

戀もなく恨もなきに

わが心かくもかなし。

 

   《引用終了》

この詩と、中原中也のこのヴェルレーヌへのオードとしての本篇を並べて読んでみると、どちらがヴェルレーヌの陥った極度の悲哀と抑鬱気分をリアルに捉えているかは一目瞭然である。堀口大學のそれは洒落たアンブレラを差しかけ、一滴の雨にも濡れることなく、シャンゼリゼを軽快に歩くスタイリストのデカダンを気取った三文詩人でしかない。原詩の湿度とその雨を含んだ重みはそこでは致命的に減衰してしまっている。翻って、この中也のヴェルレーヌのモノクロームの肖像画はと言えば、これ、驚くべきリアリズムの映像で、落魄した、しかし、しかも執拗に何かに縋ろうとする詩人が、路地を肉の塊りのような図体を引き摺りながら彷徨(さまよ)う姿を撮りきっているのである。なお、最後に言っておくと、私はその中二の時の中込純次訳「ヴェルレーヌ詩集」で彼を知り、その解説から、直ぐに同じ三笠書房の高橋彦明訳「ランボー詩集」を求め(書庫の紙魚の餌になったらしく、こちらは見当たらない)たのが、最初のヴェルレーヌ→ランボー体験なのであった。今ではランボーの訳集の方が所持している冊数は多いけれど、しかし、今でも実は、私は美少年ランボーの詩よりも、禿げ上がった金柑頭の胡乱な目つきのビア樽みたような図体のヴェルレーヌの詩の方が、好きかも知れない。

第二連「巫戲けだ」「ふざけだ」と読む。

第三連「遐くの」既出既注。「とほく(とおく)」で「遠くの」に同じ。

「舍密(せいみ)」「舍密」とは幕末から明治期にオランダ語の「chemie」(ケェミイ)の音訳漢字表記で「化学」の旧称であるが、このままでは意味が採れない。山田兼士氏の小論「ヴェルレーヌと中原中也―音楽的化合について」(二〇〇三年十一月発行『國文學』所収)では、本詩を後半で採り上げ、『一杯の安酒を求めて街を彷徨するうらぶれた詩人晩年の姿だ。だが、それでも人は生き続けることができる。ノンシャランと言えば言えるし、タフと言えばそうとも言える、人生に病み疲れた果ての磊落なストイシズム』『が晩年のヴェルレーヌの真骨頂だ。そしてここに(影のようになって)流れ続けている雨の唄こそが中也=ヴェルレーヌの音楽の原基だ。リズムやメロディのことではない。魂の奥底に流れ続ける通奏低音のような音楽のことだ。その音楽に導かれ、詩人は一軒の酒場に逢着する。このとき中也は、いわば晩年のヴェルレーヌに化合している。「遐(とお)く」で鳴る「舎密(せいみ)』『」とは二人の詩人の音楽的化合の喩なのである』とされる(但し、この山田氏が繰り返す「晩年の」という謂いにはやや違和感を覚える。“Romances sans paroles”中のかの詩篇は一八七二年の作品で、この時のヴェルレーヌは未だ二十八、彼は五十一まで生きている。彼の晩年の複数の娼婦のヒモ生活をすることになる属性が既に内包として決定していて、寧ろ、過去の詩篇の謎の語句をそれが逆照射するというのは、ヴィトゲンシュタインの鏡像理論のようで面白くはあるが、やや作品論的器械油の臭いがして私は好かない)。而して、山田氏はこの謎の語「舍密」に注されて、『上田敏訳によるラフォルグの詩「お月様のなげきぶし」に「宇宙の舎密が鳴るのでせう」の用例がある』とされる。これは「牧羊神」の中の一篇で、冒頭の「星の聲」(台詞形式)の第五連目、

   *

――もう、もう、これで澤山よ、

おや、どこやらで聲がする。

――なに、そりや何(なに)かのききちがひ、

宇宙の舍密(せいみ)が鳴るのでせう。

   *

を指す。全篇を読む必要がある。これは「青空文庫」がよい(正字正仮名)。これはしかし、「化学」(ケミストリー)というより、その語源であるところの、宇宙の不可知な錬金術的(アルケミー)な超化学的変性の際に発せられる深奥摩訶不思議な音として私は腑に落ちる。以下、山田氏は続けて、『「同音を借りて蝉の意か」(飛高隆夫「中也詩語辞典」『國文学』一九八三年四月号)、「神の現れとしての有機的かつ無機的な現象」(小山俊輔』『)等諸説がある。私見では、ヴェルレーヌ『叡智』第三章第一三篇の一節「忽ち鐘の音の波、/笛の如、渦巻き上り」(河上訳)に見られるように、距離を隔てて「鐘の音」が「笛」のように聞こえる(さらには波や渦と化す)現象の意を読み取りたい。空気や風や雨によって音楽的化合(=舎密)が生じる、と。パリのヴェルレーヌにとっては鐘の音、東京の中也にとっては遠くの化学(舎密)工場から聞こえるサイレンか何かの音かもしれない』と纏めておられる。私はかつて読んだ時は「遠い空の彼方から幻のように聴こえてくる鐘の音(ね)」の意と読んだ。しかし、それは実際の教会の鐘である必要は、ない。逆に、遠雷のゴロゴロという音(おと)でも、構わない。ともかくもそれが何らかの予兆――ツルゲーネフの「猟人日記」の“Живые мощи”(「生ける聖遺体」)のルケリヤの最期の「その音が教會からではなく、『上から』聞こえて來ると言つたさうだ、――おそらく、彼女は敢へて『天から』とは言はなかつたのであらう」(中山省三郎譯。リンク先は私の全電子化)を思い出すが、この時の中也にとってのそれは、そんな瑞兆の摩訶不思議なイオンの匂いはしない。寧ろ、鼻を撲(う)つ粘膜を焼け爛らす強いオゾンの臭いが漂ってくる気が私にはしているのである……。]

 

2018/05/20

むなしさ   中原中也

 

    む な し さ

 

臘祭の夜の 巷に墮ちて

 心臟はも 條網に絡み

脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなぢ)も露(あら)は

 よすがなき われは戲女(たはれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて

 この日頃 闇を孕めり

遐き空 線條に鳴る

 海峽岸 冬の曉風

 

白薔薇の 造化の花瓣

 凍(い)てつきて 心もあらず

 

明けき日の 乙女の集(つど)ひ

 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形=聚接面そも

 故弓の音 つづきてきこゆ

 

[やぶちゃん注:強力な個人サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「むなしさ」の解説では、『「含羞」の次に配置された「むなしさ」は』大正一五(一九二六)年『の作とされ』中原中也自身が死の一ヶ月前に書いた本詩集の自筆「後記」に『最も古いのでは大正十四年のもの』とすることから、本詩篇は『「在りし日の歌」の中では「最も古い」作品の』の一つであり、しかも『「在りし日の歌」の編集当初は』、まさにこの『「むなしさ」を冒頭に配置する計画で』あったが、『発行に至る間に長男文也が急逝したことによって「在りし日の歌」全体の構成を変えることになり』、『追悼詩としての「含羞(はぢらひ)」が冒頭に置かれ』たとある。則ち、当初の中也の詩想の中では、『「在りし日の歌」は元をたどれば「むなしさ」にはじまったので』あると述べておられる。なお、同鑑賞ではこの詩篇のロケーションを横浜中華街と設定しておられる。驒一連の「戲女(たはれめ)」(ここは「よすがなき われは戲女」で自身を「寄る辺なき街娼」に擬えたのではあるが、現在の中華街の北西直近には大きな花街があった)、第二連の「海峽岸」、最終連の「偏菱形=聚接面」(後注参照)「胡弓」から見て、至当であろう。サイト主合地舜介氏は『横浜は詩人の母フクが生まれ』、七『歳まで育った土地で』あった『し、祖父助之が客死した土地で』もあり、中也は『横浜にも由縁』の者があったことから、『折りあるごとに遊びに出かけ』ると、『その足はおもむくままに娼婦街へと向か』ったものであったともあり、横浜ロケ物とする確かな補強がなされてある。

「臘祭」「らふさい(ろうさい)」と読む。大晦日のこと(本来は、古代中国の風俗に於いて当時の後の第三の戌(いぬ)の日に、猟(「獵」の音通)をし、それで得た獲物を神々や祖先の霊に捧げて祭りを営んだことに基づく呼称)。

「條網」「でうまう(じょうもう)」。大晦日の、色とりどりの、切り抜かれて線条や網の目になったテープ状の紙飾りか。

第二連「遐き」「とほき(とおき)」。「遠き」に同じい。

第二連「海峽岸」「かいけふぎし(かいきょうぎし)」と私は読みたい。音韻的にも、発音として聴いての意味も採り易いからである。

第二連「曉風」「げうふう(ぎょうふう)」暁(あかつき)の陸風。

第三連「白薔薇の 造化の花瓣」実景と娼婦の置換的イメージ。

第五連「偏菱形=聚接面」「偏菱形」は「へんりようけい(へんりょうけい)」で「菱形(ひしがた)」が強い傾きをもって潰れた形で、これは所謂横軸が縦軸より長い(反対でもよい)、我々が普通に呼ぶ菱形で、「聚接面」は「しゆうせつめん(しゅうせつめん)」で「多くの対象が集まって接する面」の意であって、それが等記号で結ばれているのであるから、菱形模様を、多数、接合、繋げて集めた、目くるめくような同形反復の意匠・デザインの謂いで、これは中国系の人々が好む紋様・模様と思われるが、如何であろう。

「そも」接続詞。但し、ここは「さても、それに加えて」の意の合いの手的挿入。]

 

含羞(はぢらひ) ――在りし日の歌――   中原中也

 

   

 

 

    含  羞(はぢらひ)

          
――在 り し 日 の 歌――

 

なにゆゑに こゝろかくは羞ぢらふ

秋 風白き日の山かげなりき

椎の枯れ葉の落窪に

幹々は いやにおとなび彳ちゐたり

 

枝々の 拱(く)みあはすあたりかなしげの

空は死兒等の亡靈にみち まばたきぬ

をりしもかなた野のうへは

あすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき

 

椎の枯れ葉の落窪に

幹々は いやにおとなび彳ちゐたり

その日 その幹の隙(ひま) 睦みし瞳

姉らしき色 きみはありにし

 

その日 その幹の隙(ひま) 睦みし瞳

姉らしき色 きみはありにし

あゝ! 過ぎし日の 仄燃えあざやぐをりをりは

わが心 なにゆゑに なにゆゑにかくは羞ぢらふ……

 

[やぶちゃん注:太字「あすとらかん」は原典では傍点「ヽ」。一九九二年二月発行の『国文学 解釈と教材の研究』の「現代詩を読むための研究事典」内の長野中原中也 含羞――在りし日の歌PDF)の解題によれば、初出は『文学界』昭和十一年一月号で、創作『されたのは前年の十一月十三日』を閉区間とし(則ち、本詩の「死兒」のイメージは文也の死を踏まえたものではない)、『その時には副題はなかった。副題は詩集編纂時に添えられたもので、その点から見ても、詩集全体の意置に深く関わっている』とある。

「彳ちゐたり」「たちいたり」と読む。

「あすとらかん」ロシア南部のカスピ海北西岸にあるアストラハン(astrakhan:ヴォルガ川右岸の河口デルタに位置する。(グーグル・マップ・データ))を主産地とし、広く中近東に産するところの、カラクール(karakul)種と呼ぶ羊の腹子(はらご)又は、生まれたての黒い巻き毛の子羊から獲って素材化した毛皮(帽子やコートなどに使う)を本来は言う。しかし、ここはその間合いを幻想の「古代の象」(されば私にはマンモスかナウマンゾウのように視える)が縫うように歩むのであるから、「あすとらかん」はそれを獲る、この世に生を受けて直ちに人に嬲り殺されて皮を剝がれてしまう子羊を指すと考えてよいであろう。前に示した長野隆氏の「研究の展望」によれば、『吉田煕生に依れば、《「あすとらかん」は極めて短命な運命にある子羊であり、「象」の力強さ、長い生命とは対照的な存在であって、やがては「死児」の列に加わる生物》』であるが『ゆえに《この第二連の世界は、不吉な原初的世界としての像を明確にする》』と解釈しているとある。また、池田純溢は、『「あすとらかん」は〈子羊たちの姿をした白い雲〉で、「古代の象」は〈巨大な象の姿に似た山〉でいのではないか。「死児等の亡霊」から目をそらしたときに、〈山〉と〈雲〉がそのような「夢」、つまり〈幻覚〉としてむこうの「野のうへ」に見えたのだ》』『と、平凡だが無理のない見解を提出している』とある。私は前者の吉田氏の説に強く共感する

最終連「仄燃え」「ほのもえ」と読む。

最終連「あざやぐ」「鮮やぐ」で「色などが際立って見える・鮮やかに見える」の意。]

中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)始動 /「目次」まで

 

[やぶちゃん注:本電子化は昭和一三(一九三七)年四月十五日創元社発行の中原中也(明治四〇(一九〇七)年)四月二十九日~昭和一二(一九三七)年十月二十二日:山口県吉敷郡山口町大字下宇野令(しもうのりょう)村(現在の山口市湯田温泉)生まれ。旧姓は柏村(大正四(一九一五)年改姓)であるが、これは最終的に陸軍軍医であった父謙助が妻のフクの実家と養子縁組した結果の改姓である。この父自身、「小林」→「野村」→「柏村」→「中原」と生涯に三度も姓を変えねばならなかった。その経緯はウィキの「中原謙助を参照されたい。なお、中也の死因は急性(現在は結核性とされる)脳膜炎で、満三十歳と六ヶ月、ぎりぎり夭折の詩人であった)の没後六ヶ月後の出版となった第二詩集「在りし日の歌」を、可能な限り、正規表現で復元したものである。底本は所持する昭和五八(一九八三)年八月日本近代文学館刊の「名著復刻 詩歌文学館」〈紫陽花セット〉の同詩集を用いた。但し、私の電子データ・ストックの中にある、中原中也記念館館長中原豊氏がかつて電子化されて配布されておられた、同詩集の、歴史的仮名遣表記で漢字が新字体となっているベタ・テクスト・データ「在りし日の歌」(底本は昭和四八(一九七三)年日本近代文学館刊「復刻版『在りし日の歌』」及び昭四六(一九七一)年五月角川書店刊「中原中也全集」第一巻)を加工用に使用させて戴いた(一九九七年七月入手)。ここに御礼申し上げる。但し、この電子データは現在はネット上では入手出来ない模様である。

 読みは今まで通り、( )で後に同ポイントで添えた。但し、今回の字体は原著に近い明朝で示すことにした。さらに、今までの私の電子化と異なり、使用可能な旧字フォントは総て使用するため、そちらの使用環境によっては表示されない字が出てくるのはお許しあれ。また、傍点(巻頭の「含羞」に出るが、全体的には極めて少ない)は出来ないことはないのだが、不具合が生ずることが多いため(上手くいっても、後に修正することが難しい上に、デバイスや環境によってズレが生じるらしい)、例外的に太字とし、後注を附すことにした。なるべく字のポイント・字配り・字間も復元するように心がけたが、ブログ・ブラウザでの不具合を考えて、必ずしも正確には再現していない箇所もある。それが極端に異なる場合は注を入れた。また、読みなどの不審な箇所は、所持する新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」(大岡昇平・飯島耕一編)等を参考にして注を附した。また、ネット上では以上ない強力な合地舜介氏のサイト「中原中也・全詩アーカイブがあり、これは各詩篇に解説がついていて、それがまた、非常に鑑賞に有益な情報を提供して呉れている。引用ページ明記の上でこれも参考にさせて戴く。

 テクストだけでなく、ヴァーチャルな部分でも復元しておきたく思うので、冒頭に箱・表紙・口絵写真をスキャン画像で表示した。

 なお、これは詩集「在りし日の歌」の正規表現の復元電子化を意図したものであるので、私の注は極力、排したいと考えているが、中には作詩背景、表現や特殊な語句で必要な箇所が出てくる。そこは出来得る限り、ストイックに注したいと考えてはいる。なお、このためにブログ・カテゴリ『中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)』を設けた。【2018年5月20日始動 藪野直史】]

 

  中原中也著

 在りし日の歌

      創元社

 

 在りし日の歌 中原中也

 

Hako

Hakose_3

[やぶちゃん注:箱の表及び背。現物は実際には、背の右側の部分と同様に(ここでは画像読み取りする際、綺麗に正立させることしか意識しなかったので、ガラス画面の縁に寄せたため、殆んど映り込んでいない)、表の斜め縞のデザイン模様の右部分は折り返した四ミリメートル程が、箱の内側に折り込まれてある。]

 

 

 在りし日の歌   中原中也

 

Hyousiseurabyous

 

[やぶちゃん注:本冊の表紙・背・背表紙。]

 

 

  中 原 中 也 著

 

   在 り し 日 の 歌

 

             創元社

 

[やぶちゃん注:扉。]

 

    亡き兒文也の靈に捧ぐ

 

[やぶちゃん注:扉裏の献辞。次の口絵写真の右頁。以下の写真で間紙(あいし)を透かして見える。文也(ふみや)は、昭和八(一九三三)年十一月(中也二十六歳)に結婚した遠縁の上野孝子(六歳歳下)との間に翌昭和九年十月十八日に生まれた長男。しかし、昭和十一年十一月十日、僅か二歳で小児結核のために急逝した。翌月十二月十五日には次男愛雅(よしまさ)が生まれたが、文也喪失の悲哀は激しく、中也はこの死の直後に幻聴を含むかなり重い精神変調を来している。なお、次男愛雅も中也の没した翌年一月、やはり一歳とわずかで病死している。]

 

Kenjikutie

 

[やぶちゃん注:口絵肖像。以下の目次末尾にある通り、著者十九歳の折りの写真。非常に知られたものであが、ウィキの「中原中也」の同写真のキャプションに、大正一四(一九二五)年、上京した満十八歳頃のもので、銀座の有賀写真館で撮影されたとある。

 以下、「目次」を示すが、附しても全く意味がないので、リーダとページ・ナンバーは省略した。]

 

      目  次

 

在りし日の歌

 

  含羞

  むなしさ

  夜更の雨

  早春の風

  月

  靑い瞳

    
 1. 夏の朝

     
2. 冬の朝

  三の記憶

  六月の雨

  雨の日

  春

  春の日の歌

  夏の夜

  幼獸の歌

  この小兒

  冬の日の記憶

  秋の日

  冷たい夜

  冬の明け方

  老いたる者をして

  湖上

  冬の夜

  秋の消息

  骨

  秋日狂亂

  朝鮮女

  夏の夜に覺めてみた夢

  春と赤ン坊

  雲雀

  初夏の夜

  北の海

  頑是ない歌

  閑寂

  お道化うた

  思ひ出

  殘暑

  除夜の鐘

  雪の賦

  わが半生

  獨身者

  春宵感懷

  曇天

  蜻蛉に寄す

 

永訣の秋

 

  ゆきてかへらぬ

  一つのメルヘン

  幻影

  あばずれ女の亭主が歌つた

  言葉なき歌

  月夜の濱邊

  また來ん春

  月の光 その一

  月の光 その二

  村の時計

  或る男の肖像

  冬の長門峽

  米子

  正午

  春日狂想

  蛙聲

   
後記

  (口繪肖像著者十九

            裝幀 靑山二郎

[やぶちゃん注:「
青山二郎」(明治三四(一九〇一)年~昭和 五四(一九七九)年)は装丁家・美術評論家。中也とは昭六(一九三一)年五月に知り合い、中也が結婚後に四谷区花園町の花園アパートに住んだ際も、同じところに青山も住んでおり、小林秀雄や大岡昇平らがよく訪ねて来て、文芸サークル的雰囲気を成していたようである。

2018/05/19

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十二年 「万葉集巻十六」

 

     「万葉集巻十六」

 

 二月二十七日から三月一日まで、三回にわたって居士は「万葉集巻十六」を『日本』に掲げた。歌論の当初において『万葉集』の尊重すべきを論じ、「五七五七七」の中でも調子の問題に関して述べてはあるが、いずれかといえば断片的な見解が多く、やや纏ったものとしてはこの「万葉集巻十六」がはじめである。居士は劈頭先ず「『萬葉集』は歌集の王なり」と喝破し、『万葉』崇拝を以て任ずる真淵を評して「『萬葉』を解せざる者と斷言するに躊躇せざるなり」といっている。真淵は趣向の半面を見て調子の半面を見得なかった、『万葉集』の歌は如何なる凡歌といえども、真淵の歌のように調子の抜けたものではない、いわんや真淵は趣向の半面すらその一部分を得たに過ぎぬ、『万葉』の歌は真淵の歌の如く変化の少いものではない、その証拠は巻十六を閑却しているのでわかる、という論法である。

[やぶちゃん注:「万葉集」の巻第十六(三七八六番から三八八九番までの全百四首で、内訳は長歌八、短歌九十二、旋頭歌三、仏足石歌一首である)は「由縁ある雜歌」の標題で、伝説歌・戯笑歌・民謡及び特定の語句の詠み込み歌など、当時の歌の諸相を見せ、題詞や左注などによって作歌事情を伝える。「万葉集」の第二パートの最終巻とされ、白鳳・平城・天平十六年頃(六五〇年か六六一年か六七二年頃から七四四年頃)までの歌群である(ここは中西進編「万葉集事典」(昭和六〇(一九八五)年講談社文庫刊)に拠った)。

「万葉集巻十六」正岡子規のそれは「青空文庫」のここで正統な正字正仮名で読める。以下の引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。校訂は国立国会図書館デジタルコレクションのアルス刊の「竹里歌話 正岡子規歌論集」の当該論に当たった。「青空文庫」版で校合しないのは、「青空文庫」のブラウザでの表記法及びその縛りを好まないことから、そのデータそのものの信頼性を深く疑うからである。]

 

 眞淵以後『萬葉』を貴ぶ者多少之れ有り。されども其『萬葉』に貴ぶ所は其簡淨なる處、莊重なる處、高古なる處、眞面目なる處に在りて、曾て其他を知らざるが如し。簡淨、莊重、高古、眞面目、此等が『萬葉』の特色たる事は予亦異論無し。『萬葉』二十卷、殊に初の二、三卷が善く此特色を現して秀歌に富める事は予も亦之を是認す。只『萬葉』崇拜者が第十六の卷を忘れたる事に向つて予は不平無き能はず、寧ろ此一事によりて予は所謂『萬葉』崇拜者が能く『萬葉』の趣味を解したりや否やを疑はざるを得ざるなり。

 

『万葉』尊重は居士の見識であった。而していわゆる『万葉』崇拝者と伍を与(とも)にしなかったのは、更に居士の見識といわなければならぬ。真淵の説で事足るような万葉論ならば、居士は最初から声を大にする必要を認めなかったであろう。

 居士は世人が巻十六の歌を採らざる理由を以て趣向の滑稽なる点にありとし、日本人が表に真の滑稽趣味を解せざることに言及した。真面目の趣を解して滑稽の趣を解せざる者は共に文学を誇るに足らぬ、否、滑稽の趣を解せなければ、真面目な趣を解することも出来ない、というのである。殊に巻十六の特色は滑稽に限られたわけではない。「複雜なる趣向、言語の活用、材料の豐富、漢語俗語の使用、いづれも皆今日の歌界の弊害を救ふに必要なる條件ならざるはあらず。歌を作る者は『萬葉』を見ざるべからず。『萬葉』を讀む者は第十六卷を讀むことを忘るべからず」というのが居士の結論であった。

 「万葉集巻十六」を草してから間もなく、居士はパリ滞在中の福本日南(ふくもとにちなん)に一書を送った。書簡の末に「イタツキニワレハフシヲルフランスノタマノウテナニキミハスムトフ」一首が記されていたのに対し、日南氏が「暫(しばし)待て萬葉十六茶漬飯食ひては語り語りては食はん」と酬(むく)いたのは、遥にパリにあって居士の所論を読み、共鳴するところがあったものであろう。日南氏は愚庵和尚と同じく、居士の先輩の中で最もよく『万葉』を解し、万葉調の歌を詠む一人だったからである。

[やぶちゃん注:「福本日南」(安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)は筑前(福岡県)出身のジャーナリスト。既出既注であるが、再掲しておく。本名は誠。司法省法学校中退。「政教社」同人をへて明治二二(一八八九)年に新聞『日本』を陸羯南らと起した(子規が同紙の記者となるのは、その三年後の明治二十五年)。アジア問題に関心を持ち。明治二四(一八九一)年七月には白井新太郎とともに発起人となり、アジア諸国及び南洋群島との通商・移民のための研究団体「東邦協会」を設立、その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いだ。後、『九州日報』社長兼主筆や衆議院議員(国民党)となった。著作に「元禄快挙録」などがある。因みに、彼の欧州(パリ・ロンドン)への遊学は前年の明治三一(一八九八)年からこの年にかけてであったが、ロンドンでは南方熊楠と出逢い、この時の交遊を描いた随筆「出てきた歟(か)」を後の明治四三(一九一〇)年、『大阪毎日新聞』に連載、これが熊楠を日本に初めて紹介した邦語の記事とされている。

「イタツキ」「勞
き・病き」で病気のこと

 

 三月十四日、子規庵に歌会を催した。この前俳人ばかりの歌会を開いてから、丁度一年ぶりのわけであるが、この時は俳人側は殆ど加わっていない。香取秀真、岡麓、山本鹿洲、木村芳雨、黒井恕堂の諸氏のうち、恕堂氏の外は皆「新月集」の仲間である。この歌会の記事はどこにも発表されなかったが、居士の「垣」の歌は『日本』に、その他の人の歌の一部は『ホトトギス』に載せられた。

[やぶちゃん注:「木村芳雨」(明治一〇(一八七七)年~大正六(一九一七)年)は福島県生まれの鋳物師で歌人。明治三一(一八九八)年に発足した正岡子規の「根岸短歌会」に当初から参加し、子規没後の歌誌『アララギ』にも関係した。銅印の篆刻に優れた。

「黒井恕堂」不詳。識者の御教授を乞う。「恕堂」は「じょどう」であろう。

「新月集」不詳。識者の御教授を乞う。

『居士の「垣」の歌』(国立国会図書館デジタルコレクションのアルス版「子規全集」第六巻の当該部)。]

 

 三月二十日漱石氏宛の手紙を見ると、『ホトトギス』の原稿などでも、四頁以上のものを書く場合には何時も徹夜する、「小生は前より夜なべの方なれども身體の衰弱するほど愈〻畫は出來ず、夜も宵の口は餘り面白からず、十一、二時頃の頃よりやうやう思想情態活潑に相成候。徹夜の翌日は何も出來ず不愉快極り候。翌夜寐て其又の日は又原稿のために徹夜せざる可らざるやうに相成、月末より月始にかけては實に必死の體(てい)に候」と書いてある。年始以来寒気に悩まされて終日臥褥(がじょく)することも少くないというが、それほど元気がなかったわけでもない。殊にこの二、三日前には車で神田まで出かけ、虚子氏が不在であったため、飄亭氏のところで蒲焼を食べたりした。これが「今年の初旅」とある。それ以前引籠っていたのも主として寒気を恐れたので、病気に累せられたのではなかった。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(6) 六 最近の狀況 / 第十五章 ダーウィン以後の進化論~了

 

     六 最近の狀況

 

 以上はたゞダーウィン以後には種々の相反する議論が絶えず鬪はされて居たことを、二三の例に就いて示しただけであるが、大體は斯かる有樣で今日まで繼續して來た。但、最近十四五年間はその以前に比べると、著書にも議論にも著しく趣の異なつた所が出來た。その理由は、この頃から遺傳の實驗的研究が急劇に盛になつて、生物學の舞臺の正面に出たため、多數の人はこの方に注意を惹かれ、生物進化の大問題は却つて暫く等閑[やぶちゃん注:「なほざり」。]にせられたからである。尤も實驗的研究といつても、單に相異なる品種間に雜種を造つて、その結果を見るだけであつて、植物では特に行ひ易いから、近來は大に流行の氣味で、植物園とか、農事試驗場とかいふ所では、盛に行はれ、隨つて、近頃急に多數に出版せられる遺傳に關する書物も、その内容は大概この種類の實驗の結果で充たされて居る。何故斯く急に盛になつたかは次の章に述べるが、かやうな書物を讀み議論を聞く時に、特に忘れてならぬことは、事實と學説とを明に區別することである。多數の人々が、種々の材料を用ゐて熱心に實驗を行へば、それだけ遺傳に關する事實上の知識が增すこと故、學問の進步の上に極めて喜ぶべきことで、その事實に就いては疑を插むべき理由はないが、之を基として學者の考へた理論や學説の方は、素より各個人によつて、相異なるを免れぬ故、互に批評し講究すべき餘地は十分にある。遺傳に關する近頃の書物を讀んで見るに、雜種研究者は兎角、長い間に於ける生物の進化を忘れ、僅に二三代に亙る實驗の結果から推して、一々の性質を固定せるものの如くに見倣し、性質の組合(くみあはせ)はどうにもなるが、一々の性質そのものは一定不變のものである如くに考へる傾[やぶちゃん注:「かたむき」。]がある。後天的性質の遺傳を否定して居る者の多いのも、その爲ではないかと思ふ。素より今日も力を靈してラマルク説を主張する學者は相變らず有るが、數の上からいふと、親の新に得た性質は子に遺傳せぬと論ずる人の方が遙に多いであらう。現に我が國の著書を見ても、石川氏の進化新論はいふに及ばず永井氏の生命論、池野氏のローマ字書き實驗遺傳學など、皆この組に屬するもので、之に反對の考へを有する者は殆ど本書の著者人の如き有樣である。

[やぶちゃん注:「石川氏」動物学者で進化論学者の石川千代松(ちよまつ 万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年:石川千代松(ちよまつ 万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年:明治四二(一九〇九)年に滋賀県水産試験場の池で琵琶湖のコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた業績で知られる。以下、ウィキの「石川千代松によれば、『旗本石川潮叟の次男として、江戸本所亀沢町(現在の墨田区内)に生まれた』が明治元(一八六八)年の『徳川幕府の瓦解により駿府へ移った』。明治五年に『東京へ戻り、進文学社で英語を修め』、『東京開成学校へ入学した。担任のフェントン(Montague Arthur Fenton)の感化で蝶の採集を始めた』(明治一〇(一八七七)年十月には当時、東京大学教授であったエドワード・シルヴェスター・モースが蝶の標本を見に来宅したことがモース著石川欣一訳「日本その日その日」の「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 49 教え子の昆虫少年を訪ねる」に出る。リンク先は私のオリジナル注附きの全電子化の一部)。翌明治十一年、東京大学理学部へ進んだ。明治一五(一八八二)年、動物学科を卒業して翌年には同教室の助教授となっている。その年、明治一二(一八七九)当時のモースの講義を筆記した「動物進化論」を出版しており、進化論を初めて体系的に日本語で紹介した人物としても明記されねばならぬ人物である。その後、在官のまま、明治一八(一八八五)年、新ダーウィン説のフライブルク大学』(正式名称は「アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク」(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)。ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウにある国立大学)『アウグスト・ヴァイスマン』(Friedrich Leopold August Weismann 一八三四年~一九一四年:フライブルク大学動物学研究所所長で専門は発生学・遺伝学)の下で学び、『無脊椎動物の生殖・発生などを研究』、明治二二(一八八九)年に帰国、翌年に帝国大学農科大学教授、明治三四(一九〇一)年に理学博士となった。『研究は、日本のミジンコ(鰓脚綱)の分類、琵琶湖の魚類・ウナギ・吸管虫・ヴォルヴォックスの調査、ヤコウチュウ・オオサンショウウオ・クジラなどの生殖・発生、ホタルイカの発光機構などにわたり、英文・独文の論文も』五十篇に上る。『さかのぼって、ドイツ留学から帰国した』明治二十二年の秋には、『帝国博物館学芸委員を兼務』、以降、『天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。ジラフを輸入したあと』、明治二八(一九〇七)年春に辞した。「麒麟(キリン)」の和名の名付け親であるとされる。

「進化新論」石川千代松が明治二四(一八九一)年敬業社から刊行したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像全篇。進化論が日本の生物学者に消化され、紹介され、論じられる時代の第一歩となる著作とされる(以上は八杉龍一「進化論の歴史」(一九六九年岩波書店刊)の評言)。

「永井氏の生命論」医学者で生理学者の永井潜(ひそむ 明治九(一八七六)年~昭和三二(一九五七)年):広島県賀茂郡下市村(現在の竹原市)出身。明治三五(一九〇二)年、東京帝国大学医科大学を卒業後、翌年からドイツのゲッティンゲン大学に留学、冬眠動物の代謝生理の研究を行い、四年後に帰国、大正四(一九一五)年には東京帝国大学医科大学生理学教室第二代教授に就任した。その前後から、一般雑誌や婦人雑誌などに、盛んに優生学や生命論をはじめとした論稿を多数、発表し、昭和五(一九三〇)年に「日本民族衛生学会」を設立、理事長として優生学研究の推進と、悪名高き「国民優生法」(昭和一五(一九四〇)年の前身である「民族優生保護法案」の提出に大きな役割を果たした。昭和九年、東京帝国大学医学部長となり、昭和一五(一九三七)年に定年退官するが、その後も海外に赴任して、台北帝国大学医学部長・京城帝国大学医学院名誉教授を歴任している(以上はウィキの「永井潜に拠る))が大正二(一九一三)年に洛陽堂から出版した「生命論」か。国立国会図書館デジタルコレクションの画像全篇

「池野氏のローマ字書き實驗遺傳學」植物学者・遺伝学者の池野成一郎(せいいちろう 慶応二(一八六六)年~昭和一八(一九四三)年:明治二三(一八九〇)年、東京大学植物学科卒業。明治二九(一八九六)年ソテツの精子を発見し、同年、平瀬作五郎を指導してイチョウの精子も発見させている。この植物学上重要な研究発見により、種子植物とシダ植物が系統的に近いことが明らかにされた。明治三九(一九〇六)年にドイツ・フランスに留学、帰国して東京大学教授となった。彼は熱心なローマ字普及論者としても著名で、主著の一つであるこの「実験遺伝学」(大正七(一九一八)年「日本のローマ字社」刊)は総てローマ字で書かれており、書名も無論、Zikken-Idengaku」である(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。圧倒的に読み難いと思われるにも拘らず、評判が良くて売れ、再版まで出ていることが、新著紹介資料PDF。国立国会図書館デジタルコレクションの画像)で判る。内容は植物の実験遺伝学のようである。]

 

 生物進化の理を明にするには先づ以て、遺傳及び變異の現象を詳[やぶちゃん注:「つまびらか」。]にすることは無論必要であるが、品種間の雜種を造つて研究する方法は、たゞ已に存在する性質が如何に子孫に傳はるかを調べるのであるから、遺傳に關する一部分のことを知り得るだけである。されば、飼養動植物の品種の改良を圖るに當つては、この種類の研究は甚だ有益なものであるが、長い年月の間に、自然に生物各種が進化し來つた原因を探るためには、他に之よりも更に重大な問題がある。それは、先づ人工的に生活狀態を變へて、或る生物に新しい變異を起させ、それが少しでも子孫に遺傳するか否かを試して見ることであるが、ダーウィン以後の論爭の中心點ともいふべき後天的性質の遺傳に關する疑を解くには、之が最も大切な實驗的研究である。この方面の研究も近年は幾らも行つた人があるが、品種間の雜種を造るのとは違つて、稍大仕掛けの設備と費用とを要する故、到底雜種研究の如くに手輕くは行はれず、隨つてその結果の發表せられた數はまだ比較的に少い。倂し、この方面の研究の結果は、殆ど皆外界から生物個體に及ぼす影響は、たゞその一代に止まらず、後の代にまで及ぶことを示すものばかりである。遺傳及び變異に關する最近研究の結果は次の二章に略述するが、現今の生物學理論界の狀況を一言でいへば、雜種研究に重きを置いて、後天的性質の遺傳を否認する多數者と、人工的飼養實驗によつて後天的性質の遺傳を證明せんとする少數者との戰の最中であるというて宜しかろう。然もその爭の大部分は、事實に就いての爭ではなく、同一の事實を眼の前に控へながら、その説明を異にするとか、用語の意味が違ふとかの爲に相爭つて居るのである。

[やぶちゃん注:本箇所より以降、底本で「」を「々」としていたのを、原本通りに表示することとした。]

御伽百物語卷之六 桃井の翁

 

   桃井の翁

Momoinookina

[やぶちゃん注:ここは、最終巻に入ったので、一度も使用していない小川武彦編「国文学資料文庫三十四 青木鷺水集 第四巻」(昭和六〇(一九八五)年ゆまに書房刊)の大判の挿絵を使用して見た。]

 

 

 禪師隆源といふ僧あり。曹洞の所化(しよけ)なり。久しく豫州宇和島の等覺寺(とうかくじ)にありて、江湖(こうこ)をつとめ、此たびは美濃の慈照寺にとおもひたち、錫(しやく)を飛ばせ、芒鞋(ぼうあい)を踏みて、先づ、上(かみ)がたへと心ざしける序(ついで)、故郷なりければ、若州(じやくしう)のかたへも寄りて、兩親の無事をも尋ねばやとおもひて、三條なる宿(やど)より、北をさして急がれしが、誰(たれ)いそぐ道にもあらず、心にまかせたる旅といひ、且は此僧の俗姓(ぞくしやう)、若州においては双(ならび)なき武士なり。其身、また、武勇を好み、就中(なかんづく)、半弓(はんきう)の手だれなりしかば、朝暮(てうぼ)、殺生を好み、鳥・獸(けだもの)はいふに及ばず、咎(とが)なきものといへども、一旦の怒(いかり)に心ざしを奪ひ、殺害(せつがい)殘忍の惡業(あくがう)にほこりけるゆへ、二親(しん)も、これにもてあまし、後生(ごしやう)を恐れて出家させし人なりとぞ。されば、此ゆへに、かゝる轉蓬(てんぽう)の身となりても、猶、宿習(しゆくしう)の兆(きざ)すところふかく、常に半弓をはなさず、旅には、かならず、これを身にそへて出でけるゆへ、心剛(こゝろがう)なるにまかせて、夜の道ぞ難所ぞと物えらみする事なく、おもひたちし本意(ほい)は、かたの如く遂(とぐ)る人なりけるまゝに、今度(こんど)、都にのぼりし序(ついで)、國許(くにもと)へも赴くなれば、道すがら見ぬ所を行くも、一つの慰(なぐさみ)なるべしなどおもひて、俄に下賀茂より左につきて鞍馬山へまふで、こゝかしこ拜みめぐりて惣門に出づれば、日は、はや、七つにさがりけるに、泊るべき心もなく、なを、北をさしてあゆみ行くほどに、桃井坂(もゝゐさか)の山口(やまぐち)にいたりぬ。是れよりは山道のみにて、又やすむべき人屋どりもなく、二里が程は險しき山坂(やまさか)ぞと聞きて、しばらく、その邊の葛屋(くづや)に立ちいり、煮茶(にちや)など乞ひてやすみしが、主(あるじ)と見ゆるものは法師にて、大杉を伐(きり)たふし、これが杉皮を剝ぐなりけり。此翁(おきな)、隆源をつくづく見て、

「何と御坊はこの晩景におよびて、猶、北に行くの氣(け)しき也。これよりさきは山坂のみ相つゞきて、咽(のんど)をうるほすべき谷水だに遠し。夜(よ)にいりぬれば、狐狼(こらう)おほく、又は八升(やます)・奧瀨(おくせ)・久田(くた)・婆梨畠(はりはた)などいふ里々(さとさと)の惡黨ども、おのれおのれが、友をかたらひ、往反(わうへん)の柴賣(しばうり)・木賣(きうり)など、暮れて歸るものあれば、切りたふし、突き留(と)め、わづかなる錢、少しの糧(かて)をも情なく剝ぎとるぞや。是非、こよひは泊りて、明日おくへは、通り給へ。」

とかたりけれども、隆源は生得不敵なる心から、

「我に一藝あり。さやうの惡黨は、しりぞくるに易し。」

といひて、暮れかゝる空をいとはず、その家を、たちわかれぬ。

[やぶちゃん注:「禪師隆源」「曹洞の所化」不詳。「所化」は修行僧のこと。「禪師」は後年の称号ということになろう。

「豫州宇和島の等覺寺(とうかくじ)」現在の愛媛県宇和島市野川(のがわ)にある臨済宗龍華山(りゅうげさん)等覚寺(とうがくじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。宇和島藩主伊達家菩提寺。宗派が違うが、禅宗は極めて個人主義的な宗教で、本来は宗派(禅宗内ではなおさら)の違いを問題にしないから、全くおかしくない。例えば、藪野家の墓のある臨済宗の円覚寺白雲庵は、鎌倉幕府第九代執権北条貞時に招かれて渡来した、元の僧東明慧日(とうみょうえにち 一二七二年~一三四〇年の隠居所(彼は円覚寺・建長寺などの住持を歴任した)であるが、彼は終生、曹洞宗の僧であった

「江湖(こうこ)」禅宗で修学参禅を行う学問僧を指す。馬祖道一(ばそ どういつ 七〇九年~七八八年中唐の禅僧で後継は臨済宗と関係が深い)が揚子の西に、石頭希遷(せきとう きせん 七〇〇年~七九〇年:六祖慧能と行思(ぎょうし)に師事し、後、衡山の南寺の石上に庵を結んで坐禅をしたことから「石頭和尚」と呼ばれた。江西の馬祖と並んで「湖南の石頭」と称された)が洞庭の南に住し、参禅の徒は、その間を往復した故事に基づく。従って、この「つとめ」は職務に「務め」たのではなく、学問に「努め」たのである。

「美濃の慈照寺」岐阜県瑞浪市日吉町にある曹洞宗恵日山慈照寺か。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、岐阜県内には今一つ、揖斐郡大野町下磯に臨済宗玉臺山(ぎょくだいさん)慈照寺がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「芒鞋(ぼうあい)」草鞋(わらじ)の別称。

「若州(じやくしう)」若狭国。

「三條」京の三条。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「半弓(はんきう)」和弓の長さによる分類で、六尺三寸(約百九十一センチメートル)を標準としたもの。七尺三寸(約二百二十一センチメートル)の大弓(通常の和弓のこと)よりも短いものを言う。威力は大弓に劣るものの、コンパクトで座って引き放つことができることから、即射や狭い所(屋内も含まれる)では非常な効果を発揮する。

「轉蓬(てんぽう)」風に吹かれて切れ、根を離れて転がる蓬(よもぎ)の意からそれこそ「転」じて、流浪すること及び旅人の身に喩える。

「宿習(しゆくしう)」本来は「前世で積み重ねた善悪の行為の応報」の意。しかし、ここで露水は明らかに俗人であった頃の因果な過去の習癖の意を含めている。

「桃井坂(もゝゐさか)の山口(やまぐち)」現在の京都府京都市左京区大原百井町百井峠の登り口であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「葛屋(くづや)」草葺きの民家。

「八升(やます)」現在の京都府京都市左京区花脊八桝(はなせやますちょう)町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「奧瀨(おくせ)」不詳。国土地理院地図で調べたが見当たらない。しかし、現在の花脊八桝町と次の久田地区の間と考えてよいから、この中央附近(グーグル・マップ・データ)の古い地名と推測はされる。おお! ここは! 私がもう一度逢いたい超美人の若女将のいる料理グンバツの「美山荘」のあるところではないか!!!

「久田(くた)」婆梨畠(はりはた)」京都府京都市左京区久多(くた)地区。ここの附近国土地理院地図)。

「婆梨畠(はりはた)」不詳。但し、久田地区から国土地理院地図を北上してみると、福井県小浜市中ノ畑とか、その南東には、滋賀県高島市朽木麻生地区と思われる場所に熊ノ畑という地名を見出せるから(リンクは孰れも国土地理院地図)、この周辺であろうと私は推測する。]

 

 はや、半里ばかりもや過ぎぬらんとおもふに、折しも廿四日の夜(よ)の星のひかりさへ、雲かくれて、跡さきも見えず。遠近(をちこち)のたつきもしらぬ山中を、とぼとぼと分けつゝ行くうしろに、思はずも、人のひそかに蹐(ぬきあし)して跡をしたひ來るもの有り。

 隆源、

『すは。癡者(しれもの)よ。』

とおもひ、立ちとゞまり、聲をかけて、

「何やつなれば、かくはするぞ。」

と、あらゝかにとがむれども、應諾(こたへ)もせずして、同じやうに立ちとゞまるを、雲すきに透(すか)して見るに、いと大きなる男の、太刀、ぬきそばめて、立つる也。

『こは、惡いやつ。』

と、例の半弓をうちつがひ、矢つぎ早(ばや)に射かけけるに、一筋もあだ矢なく、手ごたへしてあたりけれども、彼の男、きくもせず、猶、こたへて衝立(つゝた)ちたり。

[やぶちゃん注:「癡者(しれもの)」これはてっきり、かの老人が言った追い剥ぎと合点した隆源が「(この手練(てだ)れ儂と知らずに、なんと)馬鹿な大阿呆な奴」と傲岸不遜にも思って、心の内でせせら笑ったのである。これは本話が最後に種明かしするところの非常に重要なポイントなのである。

「雲すきに透(すか)して見るに」雲の隙間から少し指す月光にに透かして見てみたところ。

「きくもせず」(放った矢が悉くその体に刺さったことは間違いないにも拘らず、それが)利いて風も見えず。

「こたへて衝立(つゝた)ちたり」こちらに対して、『お前の矢の腕前とはその程度なのか?』とでも応ずるように、平然と突っ立って、痛がったり、屈んだり、よろめいたりすることがなかったのである。]

 

 隆源も、今はせんかたなく、逸足(いちあし)を出だして馳せぬけんとする程に、日暮より催したる雨の、俄にはらはらと降り出づるに、風さへ橫ぎりに、はげしく吹き落ち、袖・笠もためず、目もあかれねば、とある大木の杉の、四、五本、茂り立ち、枝さしおほひたるをうれしき物におもひ、いそぎ、木のもとに立ちかくれ、雨(あま)やどりしたる所に、電光、おびたゞしく、隆源が跡をしたひて、此木影(こかげ)にいたり、あやまたず、彼の杉の木ずゑに、ひらめきわたる事、あたかも繪にかける輪寶(りんほう)のどとし。此ひかりの度(たび)ごとに、

「ばたばた。」

と落ちかゝるものあり。

 何やらんとおそろしくて、口に、理趣分(りしゆぶん)、とだへなく唱へ、わなゝくわなゝく、さしのぞき見るに、大きなる杉皮なり。

 しばらくの間に、杉皮の積る事、膝にいたりて、猶、落ちやまず。

「かくては、なかなか降り埋(うづ)まれ、はてはいかなる恥にかあはんずらん。」

と、強勢(がうせい)の氣をひるがへし、天にあふぎて拜し、滅罪の咒(じゆ)を誦(しゆ)し、陀羅尼品(だらにほん)・心經(しんきやう)、さまざまと、おもひ出(いづ)るに任せ、よみつらね、纔(わづか)に金剛經をよみかゝる時、やうやう、電光、うすらぎ、次第に空へまひあがるとおもへば、雨風もしづまり、やゝ星のひかり見えそめたり。

「こは、うれし。有難や。」

とふりあふのきて見るに、さしも、茂りあひつる大木の杉枝(すぎえだ)も葉も、只、今の雨風に吹き折れしにや、禿(かふろ)になりて、竿をたてたるやうになりぬ。

 隆源、いよいよ、いきほひを失ひ、心ほれて、すゝみ行くべき心ちもせざりければ、そろそろと、もとの道に歸り下り、最前とゞめたりし翁(おきな)の許(もと)まで、やうやうと歸り着きて、窺ひ見るに、なを、杉皮を剝ぎて居たりしを、戸を敲きて内に入り、いひしにも似ず、手を束(つか)ね、

「さきに君の教(をしへ)いましめ給ひつるを聞かずして、かゝる難に逢ひ、からき命たすかり、やうやうと歸りたり。今は、我、得心(とくしん)しぬ。そのうへ身も草臥(くたび)れ侍るなれば、教にそむきたる罪のほどをも見ゆるし、こゝに一夜をあかさせて給(た)べ。」

と詫びけるに、翁は、こたふ詞(ことば)なく、只、すこし、うち笑みながら、

「よし。こゝにやすみ給へ。いらざる僧の腕(うで)たてにこそあれ。佛道に入り、三衣(え)を着(ちやく)する身のすべき態(わざ)かは。けふよりして、ゆめゆめ、かゝる心な持ち給ひそ。護法善神(ごほうぜんじん)も如法(によほう)につとむる者をこそ、加護はしたまふなるぞかし。」

とて、かたはらより、大きなる杉皮を、壹枚、とり出だして見せけるに、彼(か)の、最前、くせものに射かけたる矢ども、ことごとく立ちてありしにぞ。

 隆源も、いよいよ、感淚をながし、

『扨は。我、たまたまあひがたき御法(みのり)にあひ、入りがたき釋門(しやくもん)の徒(と)になりながら、いたづらに信施(しんせ)を受け、心は、なを、惡にまみれて、假(かり)にも殺生(せつしやう)の態(わざ)を好むを、いましめ懲(こら)さんと、護法(ごほう)の、今こゝに現じ給ひ、まのあたり、我を善所に導き給ふにぞありけめ。』

とおもへば、一しほ、有りがたき。

「我がための善知識にて侍るぞや。」

とて、終宵(よもすがら)、かたりあかし、明(あく)れば、故郷のかたへと暇(いとま)こひて、出でぬ。

 そのゝち、國よりの歸りに、彼の翁、こひしく、問(とは)まほしくて、態々(わざわざ)、此道にかゝり、彼(か)の有家(ありか)を尋ねけれども、いづくの程にかありけん、それに似たる家もなく、まして翁を知りたる人もなければ、終に、あはでぞ歸りける。

[やぶちゃん注:「逸足(いちあし)現行では「いっそく」と読んで、「足の速いこと・駿足」の意。

「橫ぎり」「橫切り」で、刀で横に斬り払うかのような、猛烈な勢いで風が吹き荒ぶこと。

「袖・笠もためず」これは「溜めず」と採る。目的語は「雨水」で、降っているそれが横殴りの強風のせいで、吹き飛んでしまい、袖や笠に「留まって溜まることもなく」の意と採るのである。「矯む・揉む」の「伸ばしたり曲げたりして形を整える」の意で、強風のために、笠や袖がそれぞれあるべき位置で形を成さずに横流しになっている、という意味も考えたが、どうも苦しい。

「輪寶(りんほう)」現行では「りんぼう・りんぽう」と読む。インドの神話で正義によって世界を治める理想的帝王とされる転輪聖王(てんりんじょうおう)が所有する七宝の一つ。金・銀・銅・鉄の四種がある。元来は車輪の形をした、八つの突起を持った、投擲して相手を傷つける古代インドの武器であったが、仏教に取り入れられて、仏法を害せんとするものを、仏に先行して四方に亙って制するとされる仏具となった。仏教に集合した転輪聖王は、世俗世界の主(あるじ)として、真理界の帝王たる仏にも譬えられる地位を与えられ、三十二相・七宝を具備するとされ、天から感得した輪宝を転がして四州を治める。所持する輪宝の違いで鉄輪王・銅輪王・銀輪(ごんりん)王・金輪王の四輪王がいるとされる。

「理趣分(りしゆぶん)」「般若波羅蜜多理趣百五十頌(はんにゃはらみったりしゅひゃくごじゅうじゅ)」、略して「理趣経」。「金剛頂経」十八会の内の第六会に当たる「理趣広経」の略本に相当する密教経典で、主に真言宗で読誦される常用経典。その言うところは、一切万物の本質が本来清らかなものであることを強調し、如何にして仏国土をこの世に実現すべきかが説かれている。

とだへなく唱へ、わなゝくわなゝく、さしのぞき見るに、大きなる杉皮なり。

 しばらくの間に、杉皮の積る事、膝にいたりて、猶、落ちやまず。

「強勢(がうせい)の氣」威丈高であった態度。

「滅罪の咒(じゆ)」サンスクリット語音写をそのまま唱える陀羅尼(だらに)の一つの「七仏滅罪真言」か。過去七仏が説いたとされるで、「光明真言」と同じく滅罪に極めて大きな効験がある真言とされるものである。

「陀羅尼品(だらにほん)」「法華経」の「陀羅尼品第二十六」。非常に強い威力を持つ経とされ、読むに達していない者が読むと狂人となるとさえ言われる経文である。

「心經(しんきやう)」般若心経。

「金剛經」「金剛般若波羅蜜経」。大乗経典。全一巻。鳩摩羅什(くまらじゅう:西域のクチャ(亀茲(きじ))国出身の翻訳僧。サンスクリット名「クマーラジーバ」)訳が著名。一切法の空(くう)・無我を説き、特に禅宗で重んじられる。

「禿(かふろ)」禿(は)げ。

「腕(うで)たて」粗暴極まりない腕(腕力)自慢。

「三衣(え)」は「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に僧衣のこと。

「護法善神(ごほうぜんじん)」仏法を守護する鬼神。梵・帝釈天・四天王・十二神将・十六善神・二十八部衆などを総称する。

「如法(によほう)」「法のごとし」で、仏の教法に叶っていることを指す。

「御法(みのり)」仏さまのありがたい教え。

「信施(しんせ)」信者が仏・法・僧の三宝に捧げる布施。

「善知識」人を導いて仏道・悟りに導き入れる師としての僧。

「有家(ありか)」「在處(ありか)」。]

ブログ1090000アクセス突破記念 梅崎春生 やぶれ饅頭



やぶれ饅頭   
梅崎春生 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年十二月号『小説新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第四巻」(昭和五九(一九八四)年刊)を用いた。因みに、梅崎春生はこの翌年、昭和四〇(一九六五)年七月十九日、五十歳で肝硬変のために亡くなっている。

 幾つかについて、先に注しておく。

 初めの方に出る「原子力潜水艦が日本に寄港するという記事が新聞に出た」というのは、この前年の昭和三八(一九六三)年一月九日、アメリカ政府が日本政府に対し、原子力潜水艦の日本寄港を要請、反対の気運が盛り上がる中、翌年、アメリカ政府は日本の情勢を考慮したとされる「外国の港に於ける合衆国原子力軍艦の運航に関する合衆国政府の声明」及び「エード・メモワール(原子力艦船の安全性に関する覚え書き)」を送り、①日本政府の意志に反して行動しない。②安全確保に広範な措置をとる。③燃料交換や動力装置の修理を日本では行わない。④休養と補給を寄港の目的とすると表明、日本政府はこの声明が担保されるならば安全上は問題ないとして原子力潜水艦の入港を認め、この昭和三九(一九六四)年八月にアメリカ側に寄港の受け入れを通告、本作が発表される直前の昭和三九(一九六四)年十一月十二日、原子力潜水艦「シードラゴン」USS Seadragon, SSN-584/二千三百六十トン/排水量(水上)二千五百八十トン・(水中)二千八百六十一トン/全長八十二メートル/全幅七・六メートル/吃水六・八三メートル/最大速二十ノット(時速三十七キロメートル)/乗員九十五名/母港・ハワイ・オアフ島真珠湾)が長崎県の佐世保港に入港したことを指す。この潜水艦はこの四年前の一九六〇年八月二十五日、北極点に到達、薄い氷を破って浮上した初の潜水艦として知られる(一九八三年退役・一九八六年除籍・一九九四年十月一日原子力艦再利用プログラムによる解体開始・一九九五年九月十八日解体完了)。因みに、当時、私は小学校二年生で、本作に出る第十八回オリンピック(昭和三九(一九六四)年十月十日~十月二十四日の記憶(白黒テレビだったので色が着色していないが)は鮮明だが、この「シードラゴン」寄港に纏わるものは残念ながら全くない(しかし、この潜水艦はその怪物めいた(実際にはタツノオトシゴの仲間である条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科ヨウジウオ亜科 Phycodurus 属のシードラゴン類の英名由来)と持っていた小学館の図鑑(「地球の図鑑」か)の単色の絵と一緒にこちらも何故か鮮明に覚えている)ので、「原水爆禁止日本国民会議」公式サイト内のここと、「毎日新聞社」公式サイト内の「昭和のニュース」のこちら、及びウィキの「シードラゴン(原子力潜水艦)」を参照した)。

 オリンピックについての主人公の台詞に「とくに閉会式なんか、哀感がただよっていて、涙が出た」とあるのには、激しく共感した。小学二年生の私でさえ、あの入場の最後のシークエンスには驚き、そして強く打たれ、同じように涙が出たことを今も忘れないからである。

 今一人の登場人物の一人野原の台詞の中に「北朝鮮やインドネシヤをしめだして何がオリンピックですか」という下りがあるが、これは、ウィキの「オリンピックのインドネシア選手団」によれば、『オリンピックインドネシア選手団は』一九五二年の第十五回『ヘルシンキオリンピックから参加し』ていたが、一九六二年に行われた『アジア競技大会で』、先進国への不満と社会主義諸国への親和性を強めていた当時の『インドネシア政府が』、『イスラエルと中華民国の参加を拒否したため、翌』『年に国際オリンピック委員会から一時資格停止処分を課された』。一九六四年六月には、この『資格停止処分は取り消され』、『東京オリンピックへの参加を予定していたが』、その『インドネシア選手団』の中に『新興国競技大会』(英語:The Games of the New Emerging Forces/略称:GANEFO。先の事件後、インドネシアはIOCと対立して脱退を宣言、社会主義国・アラブ諸国・アフリカ諸国にオリンピックに対抗し得る総合競技大会の開催を呼びかけて一九六三年十一月にインドネシアで開催されたスポーツ大会。IOCはこの大会に出場する選手はオリンピックに参加する資格を失うと宣言していた)『の問題で資格停止処分となった選手が含まれていたため』、『東京オリンピックに参加することなく』、『帰国を余儀なくされた』ことを指す。また、冨田幸祐氏の論文「東京オリンピックにおける参加国・地域に関する史的研究」(PDF)によれば、『北朝鮮は GANEFO に東京オリンピックにも参加予定の選手を多数派遣していた』とあり、全く同じ理由で参加出来なかったことが判る(結局、朝鮮民主主義人民共和国の夏季オリンピックへの初参加は一九七二年の第二十回ミュンヘンオリンピックからの参加となった(但し、冬季はこれより遥か前の一九六四年の第九回インスブルックオリンピックが初参加)。

 「チャンピオンフラグ」は「championflag」で優勝旗。但し、和製英語。

 「床頭台」「しょうとうだい」と読む。病院の病室の患者用ベッド近にある、例のテーブルや小間物入れ等の附いたもののこと。

 「昇汞(しょうこう)」は塩化水銀IIHgCl2(塩化水銀)のこと。極めて有毒であるが、千倍から五千倍(〇・一~〇・〇二%)に薄めた水溶液は、かつては種々の殺菌・消毒に用いられた。

 あまり前に注すると、読むあたたが面白くないだろうから、一部は、概ね、本文中のパートの切れ目に挿入した。

 また、本篇では主なシークエンスを主人公の入院していた病院とするのであるが、描写内容から見て、梅崎春生がこの前年、昭和三八(一九六三)年九月に吐血後、そのまま不摂生のために同年十二月に東京都武蔵野市境南町にある武蔵野日赤病院に入院、一ヶ月後のこの年の一月に東大病院に転院(三月まで治療継続)した入院の実体験をまずは下敷きとしていると考えられる(季節も合致し、武蔵野日赤病院なら富士山が見えておかしくない)。但し、それ以前の、昭和三四(一九五九)年の五月に精神的変調を起し、五月から七月まで台東区下谷の近食(こんじき)病院に入院し、持続睡眠療法を受けた折りの、やや古い体験も或いは援用されていると考えてもよい(特に最後の方の野原の体験談の一部にはその感じが私にはする)。それは、遺作となってしまった一九六五年六月発表の「幻化」(リンク先は私のマニアック注釈附縦書版。ブログ版もある)では、この後者の精神科入院体験が大きなモチーフの一つとなっているからである。なお、前者の実体験は梅崎春生の随筆「病床日記」(私の注附き電子化)に詳しい

 なお、本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1090000アクセスを突破した記念として公開する。【2018年5月19日 藪野直史】] 

 

   やぶれ饅頭 

 

 ある日の夕方のこと。やや肌寒くて、火鉢を入れた。

 この頃急に日が短くなって、あれよあれよという間に陽が落ち、あたりが薄暗くなる。春と秋とをくらべると、私はどちらかというと、春の方が好きだ。春はものがだんだん伸びて成熟して行く。秋はその反対で、しぼんだり枯れたり、やがて寒い冬がそれにつづく。つまり私は寒さがきらいなのである。

 私は広縁に食台を持ち出し、ひとりで酒を飲んでいた。家内は子供をつれて、久しぶりに実家に帰っている。枯葉でうずまった庭の、小さな木戸を押しあけて、男が一人ぬっと顔をつき出した。

「こんちは。お留守ですか」

 私の顔を見ながら言った。顔を見ているくせに、お留守ですかとは、全く人をくった質問だ。私はすこし怒った。

「留守であるかどうか、見りや判るだろ。玄関に回りなさい。そしてベルを押すんだ」

 悪質のセールスマンや物乞いが、とかく木戸から入って来る。この間、原子力潜水艦が日本に寄港するという記事が新聞に出た翌日、もう寄港反対の署名簿を持ってあらわれた中年女がいた。これは署名すればいいというものではない。署名をすれば、電球を買取らねばならぬ。そういう仕組になっている。この女も玄関から入りにくいとみえ、木戸から入って来た。この男もそれかと思った。

「玄関で何度もベルを押したんですけどね」

 男は庭に足を踏み入れた。

「お宅のベルの電池が、きかなくなっているんじゃないですか」

「そ、それはそうだが――」

 私はどもった。うちのブザーは夏の頃から調子が悪くなり、押しても鳴らぬ時がある。私が実験してみると、まっすぐに押しては絶対鳴らない。すこし斜めに押すと鳴る。斜めといってもその日によって右斜め、左斜め、下斜めと、鳴らし方が違う。どういうわけでそんな具合になるのか、私には判らない。接触か何かが悪いのだろう。また時ならぬ時にブザーが鳴り渡り、玄関に出ると、誰もいない。外に飛び出しても、姿は何も見えない。

 八年前にこの家を建てた時、これを取りつけたのだが、家の古びにともなって、ブザーも化物(ばけもの)じみて来たらしい。

「あれには押し方があるんだ」

 と私は言った。

「でも、鳴らなきゃ、玄関に入って、案内を乞えばいいじゃないか。それをわざわざ裏木戸に回って――」

「ずいぶん乞いましたよ」

 男はのそのそと縁側に近づいて来た。

「応答がないので、庭に回って――」

 近づいて来る男の顔を、私は見た。そしてはっと思い当った。

「ああ。君は、暑さの冬の――」

「そうです。先輩。あの時の野原です」

 今年の冬は、やけに暑かった。日本全体が暑かったわけではない。私たち、野原を含めて暑かったのである。何故私どもが暑かったのか。病院に入っていたからだ。なぜ病院が暑かったのか。暖房がきき過ぎていた。なぜきき過ぎたのか?

「まあ上れよ」

 私は野原を招じ入れた。遠慮の気配を示している。

「今日はみんな留守で、ぼく一人だ。上んなさい」

 野原はあたりを見回して、縁側にずり上った。坐り直して頭を下げ、菓子包みみたいなものを差出した。

「これはほんの手土産です」

「そんなムリをしなくてもよかったのに」

 私は受取りながら言った。立ち上って台所から盃(さかずき)を持って来た。野原は盃を受取り、にらむような妙な顔をして私を見た。

「飲んでもいいんですか?」

 ためらっている。遠慮しているのかと思って、私は酒をなみなみとついでやった。盃と言っても大型のもので、ぐい飲みに近い。

「へんな遠慮はするなよ。君らしくもない」

「別に遠慮はいたしませんがね、そうあなたが勧めるなら、飲むことにしましょう」

 野原はぐいと飲み干し、眼をぱちぱちさせて、おそるおそるあたりを見回した。私はまたついでやった。

「涼しくなりましたね。庭ってものは、ほんとにいいもんだ」

「いいってもんじゃない。うちのは掃除しないから、落葉だらけだよ」

 私は苦笑して言った。

「オリンピックが済んだとたんに、葉の散り方が多くなったようだ」

「オリンピック?」

「うん。そうだよ。多少の手落ちやいざこざがあったけれど、曲りなりにも済んでよかったねえ。とくに閉会式なんか、哀感がただよっていて、涙が出た」

「北朝鮮やインドネシヤをしめだして何がオリンピックですか。ところで、閉会式のキップがよく手に入りましたねえ」

「キップで見たんじゃない。テレビでだ」

「何だ。テレビですか。つまらない」

 野原は盃を置いた。もう空(から)になっているので、私はまたついでやった。

「さあ。飲めよ。肌寒いだろ。寒い時は外から暖めるより、熱爛で内側から暖める方がききめがある。かけつけ三杯という諺(ことわざ)もあるしね」

「飲めよとおっしゃるなら、飲みますがね」

 野原は恩着せがましく盃を取上げた。

「オリンピックが済んだのは、何も日本の役員がうまく運営したからじゃない。終りの時間が来たから、済んだんです。何も涙を出す必要はありませんよ」

「そりゃそうかも知れないが――」

「葉だって、散る時期が来たから、散ったんですよ。オリンピックとは全然関係ないです」

 言うことがへんに理屈っぽくなって来たので、おどろいて野原の顔を見ると、もう相当にあかくなっている。屁(へ)理屈上戸なのか。髪の生え際にニキビ状のものがあり、そこらがきわだって赤い。このニキビはあの暑さの冬の頃からあった。ずいぶん持ちのいいニキビだと思って訊(たず)ねてみた。

「そのニキビ、まだ直らないのかね」

「これはニキビじやありません」

 野原はそこを拒で押すようにした。

「これはね、バスクラスパイダーと言うんです」

「バスクラスパイダー?」

「そう。バスクラスパイダー。これをニキビと間違えられると、ぼくは嬉しいような、哀しいような、忌々しい気分になるんです。何かの読み違いで、桂馬で王将をぽいと取られたような――」

「そうか。ただのニキビじゃないのか」

 私はまじまじとそのニキビ状のものを見た。

「そりやスパイダー君に悪かったな。しかし、スパイダーとは、たしか英語で蜘蛛(くも)のことじゃなかったかな」

「蜘蛛ですよ。蜘蛛だから困るんです」

 彼は盃のふちをなめるようにして、洒をすこし含んだ。抑えられて白っぽくなったそのスパイダーに、徐々に血が戻って来て、元通りの色になった。

「閉会式の聖火みたいに、パッと消えてしまえばいいんですがね、そううまくいかないのが悩みなんです」

「なぜ?」

[やぶちゃん注:「バスクラスパイダー」肝障害が起こると、手掌紅斑(palmer erythema:手のひらの小指側の丘が紅潮する症状)の他、皮膚に蜘蛛状血管腫vascular spiderを認めることが多い(「vascularは形容詞で「血管の」の意)。これは春生が示すように前胸部に発症し易い。音写は「バスキュラー・スパイダー」が正しい。ウィキの「クモ状血管腫」によれば、『顔面や前胸部などの上大静脈領域に蜘が足を広げたように血管が拡張して、中心部の血管が拍動しているもの』で、『拍動している中心部を鉛筆などで押さえると、血管腫が消失したように見える。肝硬変などの肝疾患で見られる』とあり、画像も見られる。] 

 

 その病室は四階にあった。南向きの部屋でベランダがついている。ベッドと椅子と洋服簞笥(だんす)、それだけでいっぱいで、人が動き回る余裕はほとんどない。中にしきり戸があり、それをあけると、バス、洋風便所がある。バスとトイレは専用ではなく、隣室と共用になっている。

 だからこのバストイレ室は、二つ扉を持っている。私の方に通じるのと、隣室へ通じるのとだ。一緒に入ると具合が悪い。片方が風呂に入っている時、片方が便所を使うような事態になると、たいへん具合が悪い。

「使用する時は、かならず電燈をつけて下さい」

 婦長に聞くと、そう教えて呉れた。

「すると向うじゃ遠慮して、入らないことになっています。くれぐれも注意することは、電燈をつけ放しにしないこと。つけ放しにして置くと、向うが便意をもよおしても、扉をあけられない。じだんだを踏んでベッドの上でのたうち回り、とうとうベランダに放出した例があります」

 なるほど、と私は合点々々をする。私だってのたうち回って、揚句はベランダに放出するだろう。私は訊ねた。

「そのベランダに放出したのは、男ですか。それとも女――」

「そんなことをあなたが心配する必要はありません。要はつけ放しにしないこと」

 ベランダは高い手すりがついていて、部屋から一メートル余り突出している。私は高所恐怖癖があるので、下をのぞくと眼が回りそうだ。ここから富士山が見える。晴天の時には白富士。夕方になると黒富士。夕焼を背にした黒富士は格別の趣きがあった。しかし私はこのベランダをもっぱら冷蔵庫がわりに使用していた。

 部屋はやたらに暑かった。

 スチームのせいである。

 初めはちゃんとパジャマを着ていたが、それも脱ぎ、毛布も蹴飛ばして、時には真裸になって寝た。それでもまだ暑い。最高の時は二十五六度あったと思う。私は訊ねた。

「どうにかなりませんか」

 スチームの元が私の部屋に通っている。洋服簞笥のうしろと窓ぎわを通っている。スチームの起点がそこらにあるらしく、簞笥をあけると、服などがほかほかにむれている。むし風呂に入っているみたいだ。ここが起点であるから、熱さをやわらげるわけには行かない。ぬるくすると末端まで行き届かない。

「寒いよりはましでしょ」

 と婦長は言うが、あんまり暑いのも困りもんだ。買置きの牛乳や見舞品の果物などが、すぐに腐ってしまう。だからそれらをベランダに陳列しておく。必要に応じてベランダから坂り出す。いつか夜中に雨が降り出し、パンや丸ボーロにかかって、食べられなくなってしまったことがある。油断もすきもならない。

 隣室の患者が、この野原であった。初対面のベランダの上で、野原の方からあいさつをした。

「お暑うございます」

「ほんとに、ねえ」

 と私はその季節外(はず)れのあいさつに応じた。

「時々ここに涼みに出なきゃ、体がもたないですな」

「そうですよ。全く」

 野原は渋うちわで、自分の顔をわさわさとあおいだ。夏炉冬扇(かろとうせん)という言葉があって、辞書で調べると、時にあわぬ無用の事物のたとえとある。しかし野原の冬扇は無用のことでなかった。

「自然に反することは、やはりいけないことですねえ。病身にいい影響を与えない」

「お宅もそんなに暑いかね」

 私は言った。

「スチームの起点だから、こちらだけが暑いのかと思った。どうです。いっぺん遊びに来ませんか」

 と言うようなきっかけから、野原との交際が始まった。ベランダには胸空向さほどの仕切りがあり、そこからの往来は出来ない。いったん廊下に出て、扉をこつこつと叩き、訪問したり訪問されたりするのである。

 それを婦長に見付かった。

「なんですか、野原さん。あなたは安静の身でしょ。よその部屋に遊びに行って、将棋をさすなんて、飛んでもない話です。院長さんに言いつけますよ」

 と婦長に叱られたらしい。彼はがっかりした表情で、私に報告した。

「もう当分将棋はさせませんな。ほんとに残念です」

「いや。ちょっと待てよ」

 と私は腕組みをして、首を傾けた。

「消燈後、便所でやるのは、どうだろう?」

 この病院の消燈は午後九時ということになっている。九時になると自発的に燈を消して眠らねばならぬ。もし燈がついていると、看護婦が回って来て、扉をたたいて注意する。

「消燈の時間ですよ」

 病室と廊下の仕切りの上辺が曇りガラスになっていて、煙がついているかどうか、すぐ判るのだ。ところが共通のバストイレ室は、さらに扉がついていて、その中の電燈の光は洩れないようになっている。だから病室の燈は消し、二人ともそこに入り、洋風便所の上に将棋盤を置く。そこで存分にさせるのではないか。

「それはいい考えですな」

 野原は膝を打って感心した。

「あそこなら看護婦に見つかるおそれはない。今夜からそうしましょう」

 そう相談がまとまって、消燈時が来ると、両方からトイレ室に入って行く。棋力は丁度(ちょうど)いいとこで、勝ったり負けたり、半々というところだ。十二時頃まで指す。スチームは十時頃停めるので、部星の温度も少しは下っている。寝巻を着て、毛布にくるまる。午前七時頃にスチームが復活するので、夜のしらじら明けに寒さが忍び寄って来る。その時の用心のために、蒲団は足のところに置いてある。

 朝、スチームが復活すると、先ず脈取り看護婦が入って来る。

「何か変ったことはありませんか」

 彼女はそう言って脈を取り、体温計をさし込んで、病状を聞く。前日の便の回数などを記入する。こうして病院の一日が始まるのだ。

 食事と診察をのぞくと、あとは暇になる。読書をするか、うとうとと眠るか、それ以外にない。陽があたると、カーテンをかける。私の場合、うつらうつらしているか、夜の勝負にそなえて将棋の本を読むかしている。一日ぼんやりしていることは、私には苦にならない。むしろ望むところだが、それは自発的にぼんやりする場合であって、強制的にぼんやりを押しつけられると、さすがのなまけものの私といえども、うんざりする。野原も同じ思いらしい。

「実際退屈ですなあ。そう思いませんか。先輩。頭がぼけるようだ」

 彼は私のことを先輩と呼ぶ。理由は私が一日だけ早くここに入院したからである。職業や学校の先輩でなく、病人として先輩だというわけだ。

「ぼくもそう思うよ。何しろ暑いからね」

「暑いから? なぜ?」

 なぜ、と開き直られると、私も返答に窮した。南洋の土人たちは暑いから退屈する。退屈してごろごろ寝たり、夜中には踊ったりする。生産への意欲はわかず、そのため文明度が低い。そういうことを言いたかったのだが、めんどうくさいからやめにした。それを言うと、野原にまた食い下られるおそれがあった。

「食事のことも――」

 野原は追究をやめて、話題を転じた。

「不満ですねえ。朝食がすむと間もなく昼飯、そして四時半には夕食でしょう。あのテンポにはついて行けませんや」

 同感である。

 朝が七時半。昼十二時。夕食四時半とは、スケジュールが詰まり過ぎていて、腹の減る間がない。朝食だけはうまくて、むしゃぶり食う。あとの二食はおつき合いで食べるようなものだ。人間は食べたい時に食べるのが理想であり、幸福というものだ。

 その不満を婦長に訴えると、

「組合がありましてね、超過勤務はしないことになっているんです」

 涼しい顔をして答えた。調理人たちの責任であって、看護婦たちの責任ではない、という言い分だ。どちらの責任にしろ、おかげで食事時間は昼間に圧縮され、残りの十五時間は何も食べられない。夜中になると腹が減ってたまらない。ぐうぐうと鳴る。それに私たちは南京虫のように、消燈後に動き出すのだが、どうしても補食としてパンや牛乳を、ベランダに冷やして置かねばならない。必要に応じて、取り出して食べる。それは病院側も黙認していた。それをいいことにして、私はウィスキー一本を、胴体を風呂敷でくるんで、ベランダの隅に安置していた。寝酒としてグラス一杯、水割りにして飲むためだ。人目をはばかって飲むウィスキーは、身に沁みてうまかった。 

 

 燈を消すと、しめし合わせたようにバストイレ室の燈がともる。二人はベッドを降りて、姿をあらわす。平たい将棋盤をトイレの蓋の上に乗せる。おのおの小椅子に腰をおろして、駒を並べ始める。

 最初の中は私の方がいくらか分が悪かった。

 ただで指すのは、張合いがないので、物品を賭けることにした。リンゴやバナナ、クッキーや花束などを賭ける。もちろん決済はその場ではやらない。受渡しは翌日の昼、ベランダの上でやる。到来物であるし、ベランダに冷やしてあるので、かんたんである。生(なま)のパイナップルなどは、何度ベランダの仕切りを往来したか判らない。

 見舞品で、身銭を切ったものでないから、取られてもそうつらくはないが、ベランダの陳列品の山がすこしずつ減り、向うのがだんだん高くなることは淋しく、口惜しかった。ことにパイナッブルは、ここではチャンピオンフラッグになっていた。

 通貨の役目は、大体リンゴが果していた。リンゴは割にくさったり、いたんだりしなかったからである。パイナップルは私への到来もので、初めリンゴ三箇という相場だったけれども、野原の手に渡ると、今度はリンゴ三箇にバナナ一本という値につり上った。脈取り看護婦がまずそれをいぶかった。

「おかしいわねえ。この。パイナップル、昨日は野原さんの床頭台にかざってあったのに。もらったの?」

「うん」

 私はにやにやしながら答えた。

「もらったんじゃなくて、借りたんだ」

 その夜の将棋で、私は負けて、パイナップルは野原の床頭台に逆戻りした。

 こうして夜の将棋だけが、私たちの唯一の愉しみになった。ことに雪隠(せっちん)詰めなどがよかった。なにしろ雪隠(洋式便所だって雪隠だろう)の上で、敵を雪隠詰めにするのは、また格別の趣きがある。敵を雪隠詰めにすると、無条件でパイナップルを取る約束になっていた。

「うわっ。またおトイレ詰めか」

 野原は頭をかかえる。雪隠詰めのことを、おトイレ詰め。桂馬のふんどしのことを、桂馬のパンティ、と彼は呼称する。

「すべて近代的に、スマートに行きましょうや」

 とは彼の言い分だが、桂馬のパンティなどをかけられると、気分的にこちらは腐ってしまう。

 それで私は面会に来た家人に命じて(ここは完全看護になっているので家族の寝泊りは出来ない)将棋の本を一冊買って来させた。昼間それを読んで、手の研究をする。

 最初のころはこちらが押されて、果物だの菓子を持って行かれたが、本を読み始めて以来、逆転して、こちらが押し気味になった。

「おかしいな。どうも先輩は近頃、急に手を上げましたね」

「そうかね。そちらが弱くなったんじゃないかね」

「いや。どうもおかしい」

 そりやおかしい筈だ。昼間研究した新手やハメ手をその夜使うのだから、効果はてきめんである。五日間ほどで敵のベランダの品物は半減し、その分だけ私のはふくれ上った。たまりかねた野原は、掃除の雑役婦に贈り物をして、私の身辺をスパイさせたらしい。

 掃除の間私がベランダに待避していると、掃除婦が手を休めて床頭台の将棋の本をばらばらめくっている。私はとがめた。

「おい。何をしているんだい?」

「えヘヘ。ちょっと」

 雑役婆さんはごまかして、また掃除を開始した。その報告を聞いて、野原はあわてて婆さんに頼み、本を取り寄せた気配がある。二、三日過ぎた頃から、彼の受け手は正確になり、ハメ手にもひっかからなくなった。その時初めて私は掃除婆さんの不審な挙動に思い当ったのだ。

「君も近頃、急に手を上げたようじゃないか」

 何くわぬ顔で私は聞いた。

「そうですか。そっちが弱くなったんじゃないのですか」

 しらばくれている。

「勝負が済んでベッドに戻って、眠ろうとしても眠れないですな。そこでうつらうつらと指し手を考える。明日はどの手で勝ってやろうかとね。きっとそれが腕の上った原因ですよ」

 ぬけぬけとそういうことを言う。

「ねえ。先輩はすぐ眠れますか?」

「眠れるね。寝酒をこつそりとしまってある。ウィスキーだ」

「寝酒?」

 彼はおどろいて声を高くした。

「しっ。誰かに聞えるとまずい。酒の持込みは禁止されてるんだよ」

「そりや知っていますよ。でも、飲みたいなあ。グラス一杯でいいから、飲ませてくれませんか?」

「グラス一杯ねえ」

 私は首をかしげた。

「よろしい。そのかわりリンゴ三箇だよ。でも体にさわりはしないか?」

「ええ。でもグラス一杯ぐらいなら、差支えないでしょう。入院前まではジャカスカ飲んでたんだから」

「では、そういうことにするか」

 それから三四日後、昼間、便所に入ると、婦長のじゃけんな、また聞きようによっては愉しそうな声が、野原の部屋から聞えて来た。あえぐような音がそれに混る。

「野原さん。あんたは男でしょ。男なら辛抱出来ないわけがありません。誰も辛抱してやって来たんだから」

 そして部屋を出て行く婦長の足音がした。そっとのぞいて見ると、野原だけのようだ。私は足を忍ばせ、彼の部屋に入った。他には誰もいない。野原は黒いゴム管を口にくわえて、ベッドに横たわっている。ゴム管の尖端は胃に届いているらしい。

「どうしたんだね?」

 野原は眼をぎろぎろ動かしただけで、声を出さない。出すとよだれが出るので、口をきけないのだ。私は彼の枕もとに近づき、床頭台の上の本をめくった。本は三冊あって『定跡入門書』『詰めの研究』『はめ手のかけ方と破り方』という題だ。私はすばやくその奥付をしらべ、著者と発行元と値段をメモに写し取った。野原は残念そうに足をばたばたさせ、私をにらみつけたが、ゴム管のために手が動かせないし、口もろくにきけない。

 どうせ話しかけても返事出来そうにないので、私はメモをにぎり、トイレ室を経由して、急いで自分の部屋に戻って来た。

 その夜の消燈後、私がトイレ部屋に入って行くと、やがて野原が姿をあらわした。すこしやつれて見える。

「先輩。ずるいよ」

 声がかすれている。

「黙って部屋に侵入して、断りもなく他人の読書傾向を調べるなんて」

「断りもなくと言うが、最初のあいさつの時、君は返事しなかったじゃないか」

 私はきめつけた。

「一体君は黒い管をくわえて、何をしていたのかね?」

「見たから判るでしょう。胃液を採取してたんだ。先輩はやられたこと、ないんですか?」

「胃液はまだ採られたことはないね。バリュウムはのまされたけれど」

 私は答えた。

「バリュウムよりつらいのか?」

「へっ。バリュウムなどとは、くらべものになりませんや」

 バリュウム服用はかなりつらいと、かねてから聞いていたが、私にはそうでもなかった。のみにくいという点では、子供の時のまされたヒマシ油の方がはるかに上であった。バリュウムはどろどろした液体で、果汁か何かで味がつけてある。のんだ後、医師が胃の辺を押したり引っぱったりする。のむことよりその方がよほどつらかった。

「バリュウムはのむだけで済むが、胃液は管を入れて、三時間ぐらいじっとしてなきゃいけないんですよ」

 野原は忌々しそうに説明した。

「管をのみ込む時が、一騒ぎです。自分でのみ込むのが、たいへんむつかしい」

「むつかしいたって、あれは細いゴム管だろう。うどんかマカロニをのむ要儀でいけないのか?」

「うどんやマカロニなどは、終点が、つまり切れ目があるでしょう。ゴム管には終点がないんですよ。終点は試験管につながって、胃液が出るのを待っている。その間よだれが流れ出るし、咽喉(のど)の内部がこすられてヒリヒリするし、呼吸は困難になるしね」

「なぜ胃液をしらべるんだね?」

「入院前に少々吐血したんですよ。コーヒー色のね」

 野原は便器の上の将棋盤に、駒をパチパチと並べ始めた。

「どうもここの婦長や看護婦たちは、サディストじゃないかしら。ことに婦長と来たら、僕の苦しんでいるのを見て、首を長くしてよろこんでる風(ふう)ですよ」

「おい、おい。あの人は生れつき首が長いのだ。君のひがみじゃないか」

 私も駒を並べながら言った。

「しかし驚いたねえ。将棋の本が三冊とは」

「お互いさまでしょ。しかも本を買い込んだのは、先輩の方が先ですよ」

[やぶちゃん注:「雪隠詰め」相手の王将を盤の隅に追い込んで詰め、手を指せなくさせること。

「桂馬のふんどし」「桂馬の両取り」とも呼ぶ。将棋の初歩的な手筋を解説して呉れているこちらによれば、『敵の駒』二『枚、或いはそれ以上の駒が取れる状態にあることで、相手は取られないためには取られそうな駒を逃げることになるが一度に二つの駒を動かすわけにはいかないので必ず一つは取ることが出来る。このような状態に持っていく手を両取りを掛けると言う』とある。恐らくは多くの方には不要な注と思われるが、何せ、私は金と銀の駒の動かし方さえ知らぬ阿呆なれば、自分のためにした注と思われたい。悪しからず。] 

 

 野原の経歴や年齢を、私は知らない。別に知りたいとも思わない。いつか彼は、自分はラジオやテレビのシナリオライターだと洩(も)らしたことがある。忙しい商売で、時には演出もやるので、生活が不規則になり、胃腸や肝臓をいためて、ここに入院したとのことであった。

 年齢は三十から四十の間か。近頃他人の齢が、私には判らぬようになった。昔なら青年は青年らしく、老人は老人らしい風格があって、それと見当がついたが、近頃では、ことに戦後では、それが狂って来ている。分別あるらしい口をきくから、五十代かと思うと三十代だったり、派手な洋服を着て酒場で騒いでいるので若いのかと思うと、六十代の爺さんだったりする。

 野原の場合もそれと同じだ。顔は病気のため色が悪い。しかし笑うと笑くぼができ、童顔になる。額の髪の生え際に、大きなニキビがある。人見知りをしない性質で、押しが強い。楽天家のくせに、小ずるいところがある。それで案外もてるらしいのである。

 私と野原は将棋でつながっているだけだ。いや、深夜のウィスキーの酒宴という秘密を分け合っている。その内に量が殖え、底を尽きかけたから、掃除婆さんに頼んで密輸入することになった。

「飛んでもない。婦長さんに見付かると、病院を追い出されてしまいますがな」

 と言うのをなだめすかして、ウィスキーの内容をシロップ瓶に詰めかえること、値段は市価の二倍を出すという条件で、やっと婆さんに承知させた。シロップ瓶なら、誰もとがめることはなかろう。この手は私が発明して、野原が実行に移したのである。野原だからそれは成功したので、私が頼んだらたちまち拒絶されただろうと思う。

 で、野原が婦長以下をサディズムだと称するが、彼女たちにしては、とっつきやすく、かまいたくなるのである。私はぼさっとして模範患者(?)なので、話してみても面白味がない。その点野原は違う。つき合いやすいし、ついからかいたくなるのだろう。

「君は彼女たちがサディズムだと言うが、けっこうそれを利用してんじゃないのかね」

「飛んでもない。迷惑しています」

 彼は口をとがらせた。

「ぼくをいじめて愉しがっているんですよ。看護婦だけじゃなく、先生も――」

「へえ。先生が君をいじめるんだって、まさか」

「いや。そりや本当です。近頃先生がぼくの腹を断ち割ろうと、そればかりすすめるんですよ」

 将棋が済んで深夜のウィスキーをなめながら、彼は話し出した。話すといっても、ささやくような声だ。うっかり地声を出すと、見回り看護婦なんかに聞えるおそれがある。トイレの宴が見つかると、たいへんだ。

 つまり彼の症状は、採血やその他の検査から、肝臓に重点がおかれるようになった。バリュウムや胃液検査は大体白で、一時的な胃炎であり、潰瘍の徴候はなかったそうである。バリュウムと胃液検査でさんざん苦しい目に合って、彼は少々怒っているようであった。

「何も異状がないから、先生は今度肝臓に眼をつけたらしいですな」

 肝臓検査の結果が面白くない。なにしろ肝臓は大きな臓器で、機能検査ぐらいでは、悪化の状態がつかめない。胸から腹を切り開いて、実体を眺めるのが、一番確実なやり方である。

「病気の治療ならともかく、ただの検査のためですからねえ。腹を断ち割るなんて、むちゃですよ。身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり。孔子さまもそう言っているし、頑張ってるんですがねえ」

「で、先生は何と言った?」

「あえて毀傷するんじゃない。調査のために開いて見るんだから、大義名分はちゃんと立つと言うんですな。どうも医者というのは、切ったり削ったりすることが好きですねえ」

「そうだね。検査のために切り開くというのは、少々乱暴なようだね」

「そうでしょう。ぼくもそう言ったら、切らずに小さな穴をあけて、鏡のついた管を入れて、潜望鏡みたいに内臓を見回す。そんな方法があると言うんです。こちらは切り開くということに反対の重点を置いていたわけでしょう。それが小さな穴になってしまったんで、イヤとは言いにくくなってしまった」

 野原は忌々(いまいま)しそうにグラスをあおった。トイレの酒宴も近頃量が殖え、おのおの二杯ずつになっていた。肴(さかな)はチーズだの南京豆だのだ。

「それを腹腔鏡というんです」

「で、承諾したのかい?」

「いえ。この病院にはその設備がないというんでね、それで一安心しました」

「そりやよかったね」

 私もグラスをあけた。

「そのかわりにね、超音波と言うのがあって、その検査を受けることになりました。こいつは先生の話では、痛く痒くもないとのことで――」

「痛くないのならけっこうじゃないか」

「ええ。けっこうだとは思います。でも、その設備がここにはないんですよ」

「何だか夢みたいな話だなあ」

 私は嘆息した。

「ここにないものばかり勧めるんだなあ。なけりゃ検査出来ないじゃないか」

「だからその設備を持った病院に行けというんです。つまり一時的に委託されるんですな」

「いつ行くんだね」

「明日です」

「明日? そりゃ早いな」

 その日の会話はそれで済み、おのおののベッドに入って眠った。翌朝の十時頃、彼は友人に付添われて、この病院を出て行ったらしい。

 野原にとって都合が悪かったことは、その外出時に大掃除が行われ、れいのウィスキー瓶が発見されたのである。ベランダの品物の下にかくして置けばよかったのに、彼はずぼらをきめこんで、ベッドの下にころがして置いたのがまずかった。ウィスキー瓶やシロップ瓶などは、栓のしめ方がゆるいと、匂いを発散するものだ。掃除中に折悪しく、看護婦が一人入って来た。この看護婦はたいへん嗅覚の発達した警察犬のような女で、廊下からそれを嗅ぎ当てて入って来た。

「おや。へんな匂いがするわ」

 くんくん嗅ぎ回って、ついにベッド下の瓶を探り当てた。

「まあ。坊やがウィスキーをかくれ飲みしてたんだわ。道理で治りが遅いと思ってた」

 私はベランダでその声を聞いた。掃除のため窓があけ放されているので、声は直接に私の耳に届いた。野原は彼女たちに、坊や、と呼ばれているらしい。

「婦長さんに報告してやるわ」

 足音も荒々しく看護婦が出て行ったと同時に、掃除婆さんが大あわてして、トイレ室を抜けて、私の部屋に入って来た。

「旦那さん。旦郵さん。たいへんなことになりました」

 婆さんに聞かずとも、事情はよく判っている。私も大急ぎでシロップ瓶を、リンゴ箱のリンゴをかき分けて、見えないように隠してしまった。

「あたしが持ち込んだことは、内緒ですよ。秘密ですよ。しゃべられたら、あたしゃクビになる」

「判ってる。決してしゃべりやしないよ」

 私はベッドにもぐりながら、約束した。

「野原君もしゃべらないと思うよ。だから平気でふるまいなさい。顔や態度に出すと、かえって怪しまれる」

 やがて隣室に婦長が入って来た。きんきん声が聞える。野原は外出禁止になっているので、どこからこれが持ち込まれたか、議論をしている。掃除婆さんは掃除を終えて、向い側の部星の掃除にとりかかったらしい。やがて婦長が私の部屋に、ことこと足音を立てて入って来た。

「異状ありませんか?」

 婦長は探るような目付きで私を見た。

「あなたの退院は明後日でしたわね」

「ええ」

 何食わぬ顔で、私は答えた。

「この一冬、寒さ知らずに過させていただいて、ほんとにたすかりましたよ」

「あなたはよく指示をお守りになった」

 婦長は椅子に腰をおろしながら、ベッドの下をのぞくようにした。私は聞いた。

「お隣の人、どうかしたんですか。さっきから何かざわざわしてるようだが――」

 私は首を上げた。

「まさか、凶(わる)いことでも――」

「野原さんは今神田のJ病院に、検査に行かれたんです。その隙(すき)に何か――」

「なに? その隙に何か――」

「いや。何でもないんですけれどね」

 婦長は私の部屋をじろじろと見渡した。

「あなたは野原さんとつき合いがありましたか?」

「いいえ」

 私はウソをついた。

「ベランダで顔を合わせる時、あいさつをかわす程度です」

「そう。ベランダでね」

 婦長は立ち上って、ベランダに出た。私も起きてパジャマをまとい、婦長のあとに続いた。天気のいい日で、疎林の彼方に白富士がくっきりと浮び上っている。婦長が言った。

「野原さんの部屋を掃除していたら、ウィスキー入りのシロップ瓶が出て来たんです」

「きれいな富士ですね。あれを見ると心が洗われるような気がする」

 私は眼を細めて、富士山の方を見た。

「シロップ瓶の内容が、ウィスキーに化けてたということですか?」

「そうなんですよ。おとなしい患者(クランケ)だから、油断しているとウィスキーを盗み飲みしたりして――」

「ちょっと待って下さい」

 私は彼女の言葉をさえぎった。

「野原って、どんな人物か知りませんけれどね、あの部屋も暑いでしょう。そこでシロップが醱酵(はっこう)して、酒になったんじゃないですか」

「へえ。そんなことがあるんですか。それは初耳ですわ」

 そこで私は猿酒、猿が果物を醸(かも)して酒をつくるやり方を、うろ覚えながら説明した。

「果実汁に一定の条件を与えると、酒になるし、また違った条件では酢になる。これは常識ですよ」

 婦長はうたがわしそうに、私の顔を見ている。私は富士山の方ばかりを見ていた。

「あんな秀麗な富士の姿を見ていると、下界の人間はこせこせと何をしているのかなあ、と思うね。婦長さんは時にそんなことを考えたり、感じたりしませんか?」

 誤解のないようにつけ加えるが、私は富士山が大嫌いである。形も月並みだし、趣向も単調だし、それに山の上は登山客の捨てた紙屑や空き罐で、足の踏み場もないそうである。しかしこの場合、婦長の心境を変えるために、富士をほめ讃えざるを得なかったのである。

「そうですね」

 仕方がないと言った表情で、婦長は不承々々(ふしょうぶしょう)うなずいた。

「富士山もいいけれど、治療の方も大切ですからね。も一度よく調べて見ましょう」

 午後四時頃、野原は意気揚々と戻って来た。久しぶりに街や人を眺め、気分が高揚したらしい。鼻歌まじりに部屋に入ったところを、待ちかまえた婦長にとっちめられた。

「何です。このウィスキーは!」

 野原はあっと驚いた。

「どこから仕入れて来たんです!」

 感心なことには、彼は掃除婆さんのことを自白しなかった。まして私のことや、トイレ台上の将棋のことなど、ひたかくしにして、自分の友人からの到来ものという風に頑張ったらしい。そして今度だけは院長に報告しない。現物は没収するという軽い処分で終ったのは、彼の人徳によるものだろう。

 その夜消燈後、ひそやかに野原はトイレ室に姿をあらわした。

「ひでえ目に合いましたよ」

 彼はこぼした。

「がみがみ叱られるし、現物は没収されるし、超音波の結果は面白くないし、散々ですよ。こちらはひたすら謝りの一手」

「うん。結果としてはその方がよかっただろうな」

 猿酒のことを教えようと思っていたが、まだ人生経験の浅い野原がそんな小細工めいた言辞を弄(ろう)すると、たちまち見破られてしまうに違いない。婦長の権限は絶対だから、素直に非を認めるのが最上の方法であった。

 しかもその超音波の結果が、凶と出たのである。超音波の検査って、どういうことをやるんだねと訊ねたら、

「何だかジイジイと音を立てる器械があって、それにカメラみたいなのがくっついていて、聴診器をあちこちに当てていましたよ」

 まるで子供の答えである。

「ぼくは器械が嫌いでね」

 検査の間野原は、窓の外の建物や雲の動きばかりを、ひたすら眺めていたらしい。そんな傾向は私にも若干ある。私は注射が好きでない。注射そのものが稚いでなく、見るのが嫌いなのだ。だから注射の時はそっぽ向いている。

「そんなことじゃダメだな」

 私は訓戒を垂れた。

「自分が今何をされているか、どんな具合にあつかわれているか、眼をかっと見開いて見届けるべきだよ。そうしないとひどい目に合うよ」

「そうでしょうか。やはりそうでしょうな」

 野原は頭髪をもじゃもじゃとかき上げながら、へんに光る眼で私に言った。

[やぶちゃん注:「身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」「孝経」(これは永く孔子が曾子に孝について述べたものを曾子の門人が記録した書とされてきたが、近年の研究によれば、戦国時代の作と推定されている)の「開宗(かいそう)明義章第一」の中の一節、「身體髮膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也。」(身体髪膚、之れを父母に受く。敢へて毀傷せざるは、孝の始めなり。)に基づく。

「猿酒」猿が木の洞(うろ)や岩石の窪みなどに蓄えて置いた果実や木の実が自然発酵して酒のようになったものとされる伝説上の酒。「ましら酒」とも呼ぶ。但し、野生の猿が食料を貯蔵する習性はないので、これは虚偽である。] 

 

 その検査とはつまり超音波を発して、肝臓の大きさや形を調べる様式のものらしい。野原の肝臓はそれによると凸凹があり、全体的に畸形(きけい)化している傾きがある。畸形化は先天的なものか後天的なものか判らないから、腹腔鏡などで調べる必要がある。以上のような診断書を持たされて、野原はここに戻って来た。

「超音波の技師というか医師というか、おそろしく非情なものですな。ぼくの肝臓を散々悪く書いたくせに、ぼくには、御大事になさい、との一言も言わないんですからねえ。無表情で診断書を渡して、それっきりです」

「医者としては患者に一々同情しては勤まらないんだろう。あまり気にしなさんな」

 その夜は将棋もささず、ウィスキーもグラス一杯にとどめて、おのおの寝についた。

 結局その翌々日、私の尿も糖が完全に出なくなって退院、野原はQ病院に移ることになり、荷物の整理をした。私のシロップ瓶は中味を便所に捨てて、ごぼごぼと洗い流してしまった。惜しかったが仕方がない。残ったリンゴや菓子類は看護婦たちにプレゼントした。

 野原の荷物は、彼の奥さんがまとめた。奥さんはてきぱきした性格のようで、見たところ野原よりも年長だ。なるほど、野原みたいなのが姉さん女房を持つのかと、私は思ったが、もちろん口には出さない。

 私は野原夫妻をQ病院まで、私の自動車で送り届けることにした。久しぶりにハンドルを握ったので、運転感覚が急に戻らず、病院の門柱をこすったりしたが、あとは用心して操縦したので、無事にQ病院にたどりついた。途中私がシロップ瓶についてしゃべろうとしたら、野原があわてて私の横腹を小突いた。まだ奥さんに知らせてないことが、それで判った。

 Q病院はさすが有名な病院であって、富士見の病院とはおよそけたが違う。車寄せで二人と荷物をおろし、私は言った。

「今度こそへマをやるんじゃないよ。よく病院の規則を守って、早く退院するんだね」

「ええ。今度は個室じゃなく大部屋ですから、我がままはききません。覚悟はしています。時に先輩、名刺を一枚いただけませんか。退院したら一度おうかがいします」

 私は名刺を手渡した。そして彼が姿をあらわしたのが、冒頭の秋の日の暮れのことだ。

[やぶちゃん注:以上の展開と梅崎春生自身の直近の入院経過を見る限り、この野原の肝臓の状態は肝硬変で逝った梅崎春生のそれであり、野原というキャラクターは梅崎春生自身のトリックスターの一面を持つものであることが判る。] 

 

「で、腹腔鏡の検査は、あれから直ぐに受けたんだね?」

「受けましたよ」

 野原は盃をうまそうにあけた。

「でも、直ぐにじゃありません。どうも病院というとこはおかしなところですねえ。富士の見える病院からの所見や診断書を持って行ったんですが、それをそのまま鵜(う)吞みにしないですな。も一度初めから検査をやり直す。バリュウムなどもまた飲ませられた。バリュウムはQ病院の方がうまかったです。Qのにはオレンジ味に、バニラが少し入っていたようです。バリュウムは病院によって味が異う」

「そういうこともあるだろうね」

「採血だって、ずいぶん変ったのをやりましたよ。うちの女房を来させてね、女房と僕のとを同じ時間に採血する。大部屋ですから、皆の眼がこちらを向いている。今に何かおこるぞと、好奇のまなざしがぼくらに集まっている。私のは先生が、女房のには看護婦が取りついていて、針を静脈にさし込み、ヨーイドンの合図で血を吸い上げる。吸い上げると、先生がその二つの管を大切そうに持って、病室を飛び出し、廊下をバタバタと走って行くんです」

「へえ。面白いことをやるんだねえ。それ、どんな意味だい?」

「その血を調べる機械か薬品だか知らないけれど、日によって誤差が出るというんですね。それで健康人のと私のとを比較して、つまり健康人のを基準として、ぼくの血液をはかる。血液中のアンモニアの量を調べるんだと、隣のベッドのヘチマ爺さんが教えて呉れたんですがね、とにかく平素は落着いた先生が、構っ飛びにすっ飛んで行くのは見物(みもの)でしたよ。実際あれは面白かったなあ」

「何故先生が走るんだね?」

「時間が経つと血液が変質したり蒸発したりして、正確な価が出ないということでしょうね。とにかくいろんな検査をして、腹腔鏡もやって、三箇月目に退院してもよろしいと言われた時は、ほっとしましてね。もっとも全快じゃなく、条件つきでしたが――」

「どんな条件だね?」

「ええ。まず高蛋白、高ビタミンの食事をとること。脂肪分はよくないが、とにかく御馳走を食べることですな」

「いい条件だね。うらやましいくらいだ」

「食後はしばらく安静にすること。精神も安定にして、人の言うことに逆らったり喧嘩したりしないこと。やはり精神が大切なんですねえ。それから――」

 彼は言い淀んだ。私はうながした。

「それから?」

「それから、刺戟物、幸子(からし)やワサビを摂(と)らないこと、そして酒なども――」

「酒もだと?」

 私は大声を出した。

「見ていると君はさっきから、がぶがぶ飲んでるじゃないか。辛子やワサビより、酒の方を強く禁止されたんだろ!」

「え。ええ」

 盃を持ったまま野原は横を向き、ごまかすようなせきばらいをした。

「まあそう言うことですがね、先輩はさっきぼくに向って、かけこみ三杯とか何とか、むりやりに勧めたじゃないですか。人の言うのに逆らっちゃ悪いと思って――」

「都合のいいことを言ってるよ。もうごまかされないよ」

 私は彼の盃をもぎ取った。

「酒は出さないから、水でも飲みなさい。台風二十号のおかげで、栓をひねれば水はいくらでも出る」

「意地が悪いですなあ。まるでヘチマ爺さんみたいだ」

 手持無沙汰に彼は手をうろうろさせた。

「富士見の病院じゃ、ウィスキーをたのしく飲み交したじゃないですか」

「あの時はあの時、今は今だ。君は退院後もちょくちょく飲んでいるのかね?」

「いえ。慎しんでいます。大体においてね。甘いもの専門です。禁酒をすると、奇妙なほど甘いものが欲しくなるもんですねえ。ですから今日持参したのも、甘味品です」

「ほんとかね」

 彼が持参した紙包みを、私はごそごそと開いた。中には饅頭が入っている。白い皮が斑(まだら)について、中から饀(あん)が露出している。子供の時私はこれが大好きで、小づかいをくすねて買食いをしたものだ。今は下戸ではないので、食べるチャンスはないが、時々店頭に並んでいるのを見ると、郷愁が湧く。わざわざ銭を出して買おうという気にはならない。

「なるほど。酒をやめると、こんなのを食いたくなるのか」

 私は合点々々をした。

「この駄菓子の名、東京では何というのかい」

「ふぶき、と呼びますね。ぼくの買いつけの菓子屋では」

「ふぶき。なるほど。そう言えば吹雪という感じがする。白い皮がちらちらしているね」

 私はその一箇をつまんで、裏表を調べた。

「おれの故郷ではこれを、やぶれ饅頭と言ったよ」

「やぶれ饅頭?」

 野原は大声で笑い出した。

「そう言えば皮が破れていますね。破れて身がはみ出ている。即物的な名前ですな。田舎人らしい呼び方だ」

「田舎、田舎と、あんまり都会人ぶりはよしなさい」

 少々気を悪くして、私はたしなめた。彼は笑いを収めた。私は話題を戻した。

「で、さっきの爺さんのこと、そんなに意地が悪いのかね」

「ええ。大部屋で、ベッドでその爺さんと隣り合わせてね、顔がヘチマに似てるから、ヘチマ爺さんと皆が呼んでいるんです。病室というところは妙なところで、大部屋では病歴の古いほど威張っている。ま、古いから病院の様子やしきたりをよく知ってるせいでもあるんです。つまり忠臣蔵の吉良上野介みたいにね」

「その爺さん、何病だね?」

「元の病気は知りません。腎臓か何かが悪かったのかな。そんな話も耳にしたけれど、僕が入った時のはもっぱら打撲傷、それに神経痛です」

「打撲傷とは、病院で受けたのか?」

「そうです。ベッドから転がり落ちたんですな。それが一度でなく、三度もです。治りそうになると、また転がり落ちて、肩をいためたり、腰骨を打ったりする。そして退院が伸びる。あの病室では、最古株となりました」

「退院したくないんじゃないか?」

「そりや当然の疑問ですな。皆もその疑問を持っていて、もうそろそろ転がり落ちるよと噂していると、案の定がばと落っこちて、筋や骨をいためる。あんな大病院になるとおうようなもので、爺さん、また落っこちたか、てなもんで手当をして呉れる。その結果退院が伸びて、ヘチマ爺さんはこの部屋の名主になってしまった。それとベッドで隣り合わせたんですからねえ。苦労しましたよ」

 野原はぱくとやぶれ鰻頭に食いついた。

「爺さんは町田市の本町田あたりに自宅があるらしい。病院の風呂に入るたびにこぼしていました。おれんちの風呂は、こんな薄汚ない場所にはない。これじゃまるで牢獄のようだ。おれんちのは広々して、洗い場から山や雲や飛んでいる小鳥が見える、なんてね。これもほんとかウソか判らない」

[やぶちゃん注:「ふぶき」吹雪。昔風の薄皮の田舎饅頭にこの呼称が今も広く使われている。グーグル検索「ふぶき 饅頭」をリンクさせておく。

「やぶれ饅頭」宮崎県延岡市の「延岡観光協会」オフィシャルサイトの「やぶれまんじゅう」によれば、『小麦粉で作った皮(延岡ではガワともいう)のところどころから、中のアンが見える薄皮まんじゅうで、延岡名物のお菓子の』一つとし、他の記載でもここを発祥の地とする。その由来は、慶長一〇(一六〇五)年に『延岡の製菓店が売り出したのが始まりで、中町にあった佐々木磯吉菓子店が受け継ぎ広ま』ったとし、『その由来は、天岩戸に隠れたアマテラスオオミカミをアメノウズメノミコトが木の小枝を持って面白おかしく舞い踊り外の世界へ導いたという神話で、この時の小枝が皇賀玉(おがたま・招霊)の木で、現在でも神事にはこの木が使われていることに基づいて、このオガタマの実を形どって』たのが、この「やぶれ饅頭」で、そこから別に『「オガタマまんじゅう」とも言われ』る、とある。リンク先には製法や「やぶれ饅頭」の写真もある。見れば、「ああ、あれか!」という品物である。梅崎春生は同じ九州の福岡生まれであるから、腑に落ちる。] 

 

 野原は饅頭を吞みこみ、水をぐっとあおった。酒を飲んだあとに、よくそんな芸当が出来るもんだ。

「ぼくがいよいよ決心して腹腔鏡の検査を受ける前の日、ヘチマ爺さんが言いましたよ。テレビの赤穂浪士の滝沢修みたいな言い方でね、あれは痛いもんだぞ、なにしろ穴をあけて、棒で内戚をかき回すんだからな、あれで悲鳴を上げなきゃ人間じゃないと、そんな具合にです。こちらが何も聞きもしないのに、そんないやがらせを言うのが、ヘチマ爺さんの趣味でした。つまりウソツキなんですな」

「いやな爺さんだね」

 私も面白くなって、盃を含んだ。他人の悲話や苦労話は、たしかに洒の味をうまくするものだ。のろけだの幸福話は、決して酒のサカナにはならない。洒とはふしぎなものである。

「それで、案の定、痛かったかね」

「そりや多少は痛かったですよ。でも、悲鳴を上げるほどのものじゃない」

[やぶちゃん注:「テレビの赤穂浪士の滝沢修」これも私には注はいらぬのであるが、若い人のために言い添えておく。これは、この年、NHKで放映された大河ドラマ第二作目の「赤穂浪士」(一九六四年一月五日~十二月二十七日の毎日曜放映)で滝沢修が吉良上野介役を演じたことに基づく(大石内蔵助役は長谷川一夫)。先に野原は「ヘチマ爺さん」を「吉良上野介みた」ような厭味なことを言う奴と表現しており、彼はここでもそれに洒落たのである。因みに、あの作品は私には映像よりも、芥川也寸志作曲のオープニング・テーマの鞭を用いた曲が痛烈な印象を残している。それにしても本小説は最終回放映の前(同月号)に発表されているから、非常な読者サーヴィスとも言えよう。ドラマの詳細データはウィキの「赤穂浪士(NHK大河ドラマ)」を参照されたい。そこに載るキャストを見るだけで、思わず、「懐かしい!」と叫んでしまう還暦過ぎた私がいる。] 

 

 以下は野原の話。

 腹腔鏡の検査はレントゲン室で行われた。台の上に横たわる。裸になる必要はない。着ているものをたくし上げ、ずり下げて、腹部だけを空気にさらす。看護婦が布を顔にかぶせる。野原はそれを拒否した。

「僕は見ていたいんですよ。どういう風に検査されるか」

「そうですか」

 看護婦は布を取る。喜怒哀楽の表情は、全然ない。ただ見おろしているだけだ。自分が材木か何かになったように、野原は感じる。でもまだ手足は動ける。台から降りて、病室に戻ろうと思えば、出来ないことはない。

 下腹部の左側がつめたいもので拭われる。密室なので、しんとしている。聞えるのは人間の息使いだけだ。消毒された部分に、麻酔の注射が打たれる。そして今度は太い注射針が押し込まれる。すでに麻酔しているので、格別痛いとは感じない。

「まるで儀式みたいだ」

 と彼は思う。思いながら、首を少し持ち上げるようにして、それを見ている。

「式次第もうまく行っているようだな」

 下腹の横のすこし高いところに、気腹器がある。それから空気が注射針を通って、腹に入って行く。腹膜と内臓との間に注入させ、空間をつくるためだ。空気は管を通る時、液体を一度通過する。そのためぽこぽこと泡を立てる。もう動けないな、式が始まったんだからなと、彼は考える。

「そのぼこぼこと泡が立つのは、何ですか」

「昇汞(しょうこう)ですよ」

 マスクでくぐもった声で医者が答える。

「空気の消毒をするんです」

 腹がだんだんふくらんで行くのが、目でも見えるし、息苦しい感じでも判る。膜が押し上げられているのだ。レントゲンで空気の入れ方をしらべる。

「もうチョイ」

「もうチョイ」

 測量技師と同じ仕事だな、と彼は思う。もう存分にふくらんだ。看護婦が野原の額の汗を拭いた。

「苦しいですか?」

「いいえ」

 彼と看護婦と医師と、この密室で何か悪事をたくらんでいる。そんな錯覚に彼はとらわれる。それを打ち破るために、彼は誰にともなく話しかける。

「ずいぶんふくらみましたね。殿様蛙のようだ」

「え。ええ」

 空気注入は終った。医師の手が意味ありげに腹を撫でる。短い外国語が振り交される。そしてへソのすぐ上に麻酔が打たれ、メスが切りを入れる。角度の関係で、もう眼では見えない。仕方がないので天井を見ている。空気の注入、それから金属棒を差し込むこと。その順序はあらかじめ知らされていた。知らされるというより、こちらからこまごま質問をして、知っていた。金属棒には豆電燈がついている。深夜のように暗い内臓を照らすためだ。医師が命令する。

「大きく息を吸って」

 彼は吸う。

「今度は吐いて」

 彼は吐く。

「はい。大きく吸って」

 彼は大きく吸う。

「吐いて」

 吐く。

「大きく吸って」

「はい。吐いて」

「はい。大きく吸って」

 彼は吸う。その瞬間にガッという衝撃が来た。棒の先が腹膜を突き抜けたのである。 

 

「あれは計算外でしたなあ。もちろん金属棒を入れるんだから、少しは感じるだろうと思っていたんですがね。衝動が全身にとどろき渡りましたよ。膜といえどもばかにはならんです」

 野原は手真似入りで説明した。

「あれ以来、ぼくは女性に同情を感じるようになったですな」

「なに? 膜と女性と、一体どんな関係があるんだ?」

「いや、なに、それはこちらの話です」

 彼はあわててごまかした。彼は時々突拍子もないことを口走るくせがあって、私は理解に苦しむ。

「で、棒を色々動かして、肝臓の色や形を見るわけですね。ところが先端に豆電球がついている。そいつはかなり熱いのです。直接内臓に触れたら、火傷(やけど)をする。火傷しないとしても、火ぶくれが出来る。そうなったらたいへんですからねえ。熟練した医師でないと、いけないんです」

「君は大丈夫だったのか?」

「ええ。ぼくのはその方の名人と言われるような医師でね、時々棒の動きを止めて、こちらの端にカメラをつけ、パチパチと写真をとりました。これがその一枚です。記念のために、ゆずり受けました」

 彼はポケットから大事そうに、色彩ネガフィルムを取り出した。私はかざして見たが、何だかよく判らない。彼は得意げに説明した。

「こちらの茶褐色のかたまりが、ぼくの肝臓です。ヤキトリのレバーに似てるでしょう。これが悪くなると、豆板みたいに凸凹になる」

[やぶちゃん臨時注:「豆板」は「まめいた」で、炒った豆を並べ、それに溶かした砂糖をかけて固めた菓子。グーグル画像検索「豆板 菓子」をリンクさせておく。]

「ふうん。そう言えば凸凹はないな。しかしぶつぶつして、やぶれ饅頭みたいだ」

「縁起でもない。やぶれ饅頭みたいだなんて」

 彼は興ざめた風(ふう)に、フィルムを取り返し、大切そうにポケットにおさめた。

「そりや若い時にくらべりゃ、すこしはつぶつぶが出来ますよ。先輩のだって切って見れば、必ずつぶつぶが見える筈です」

「何を証拠にそんなことを――」

「いえね、さっきから先輩の胸のはだけたとこを見てたらね」彼は私の胸を指差した。

「その肩甲骨の横っちょに、赤い斑点が見えますね。それ、たしかにバスクラスパイダーです。間違いありません。肝臓が悪いと、それが出来るんですよ」

「なになに」

 こちらの倉に火がついたので、私はあわて声を出し、首を前屈した。

「これのことか」

「そうですよ」

 彼はベルを押すように、その斑点を押して、パッと放した。押されて血の気を失ったそれは、やがてじわじわと血色を取り戻して来た。

「ね。ふつうのニキビなら、押しても白っぽくならないでしょう。だから先輩の肝臓はいたんでいるんです」

 彼は得々として説明した。

「バスクラスパイダー、すなわち蜘蛛(くも)様血管腫は、毛細管がクモの足のようにひろがっている。肝臓の赤信号ですな。すこし酒をつつしんで、やぶれ饅頭でも食べたらどうですか。糖分は肝臓にいいのです」

「なるほど。蜘蛛様血管腫か。イヤな名前だねえ」

 私は自分が腹腔鏡検査を受けている状態を想像した。が、まだ実感はなかった。

「腹に穴をあけたあとを、見せて呉れないかね。まだ残っているか」

「ええ。残っていますよ」

 彼は前をはだけて私に示した。長さ一センチほどの傷あとが、そこについている。眼を彼の胸に戻すと、たくさんの斑点が取りついていた。

「君の胸にはずいぶんスパイダーがいるじゃないか。ひとつ、ふたつ、みっつ。まるで北斗七星みたいだ」

「いえ。なに」

 彼はあわてて胸をかくした。

「これは数ではきまらないんです。その人の体質によって、たくさん出る人と出ない人と――」

「医者がそう言ったのか」

「いえ。あのヘチマ爺さんが言いました」

「そのヘチマ爺さんは、意地悪でウソツキだと、さっき君は言ったね。そんな爺さんの説を信用するのかい?」

「ええ。それよりも――」

 彼は返事に困って、掌をひらひらと振った。

「現在では手術の傷口は、糸では縫わないんですね。針金でちょいと止めちゃうんです。止めてから、そのまま動き出しました」

「傷口が動き出したのかね?」

「傷口が動くわけがありません。ぼくがですよ」

「つまり起き上ったのか?」

「そうじゃないですよ。何も判っちゃねえなあ。動き出したのは、台です」

「君を乗せたままか。それなら判る。台には車がついてんだろ。テレビの医者ものでよく見るよ」

「そうあれです。ガラガラ音をさせてね、廊下を通る。廊下に待っている連中、治療を待っている連中ですな、そいつらが立ち上って、ぼくの顔を見る。ものめずらしさと、お可哀想にという気分が、入り混った顔ですね。そんな表情で見る」

「よく他人の表情が、君に読めるもんだね」

「そりゃ判りますよ。今までぼくもそんな顔で、のぞいていたから」

 野原は舌打ちをした。

「のぞかれる身になると、癪(しゃく)にさわるですなあ。今にお前らもこうなるんだぞと、ぐっとにらみつけると、たいていの患者は狼狽して眼をそらしますね」

「そりやそらすだろう」

「そらさない奴も、中にはいます。それはきまって女です。中年の女。これはにらみつけても、ほとんど効果がないですな。平然としてにらみ返します。ことに付添いの女、これは見慣れているんでしょう」

「なるほど」

「こうして廊下を幾曲りして、元の大部屋に戻りました。やっとこさストレッチャー、ごろごろ車のことです。その車からベッドに移された時、どっと疲労を感じましたねえ」

 野原はそう言いながら、肩を落した。もう夜も更(ふ)けて、風がガラス戸をかたかたと鳴らす。私は盃を口に持って行きながら言った。

「いろいろ苦労したもんだね」

「ええ。苦労はしたが、勉強になったですな。ぼくは軍隊の経験はないけれど、人間がたくさん集まって生きたり、死んだり、その間の感情の起伏、経験しなきゃ判りませんね。たとえばあのヘチマ爺さん、あんな爺さんにめぐり逢い、一緒に生活をすることは、病気にでもならなきゃ不可能でしょう」

「そうだろうね」

 私はしみじみと同感した。

「そのヘチマ爺さんのことは、小説になるね。でも、大部屋というのは、男ばかりだろう。女が恋しくならなかったかい」

「女には女ばかりの大部屋がありますよ」

 彼は坐り直して、にやにやと笑った。

「女については、また別の日にくわしくお話しいたしましょう。もうそろそろ夜が更けましたね。では、また」

 にやにや笑いのまま、彼はやぶれ饅頭を、ぽいと口の中に放り込んだ。


2018/05/17

進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(5) 五 ローマネスとヘルトヴィッヒ

 

     五 ローマネスヘルトヴィッヒ 

 

 所謂新ダーウィン派の説に反對する學者はなかなか大勢あつて、專門の學術雜誌上で之を攻擊した人も餘程澤山にあるが、纏まつた書物を書いて、その中でウォレースヴァイズマン等の説を駁したのは、イギリスローマネスドイツヘルトヴィッヒなどである。また近頃ではヘッケルの後を次いでエナ大學の動物學教授になつたプラーテもその著「淘汰説」の中にヴァイズマンの説を排斥して居る。

[やぶちゃん注:「ローマネス」ジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes  一八四八年~一八九四年)はカナダ生まれのイギリスの進化生物学者・生理学者。ウィキの「ジョージ・ロマネス」によれば、『比較心理学の基盤を作り、ヒトと動物の間の認知プロセスと認知メカニズムの類似性を指摘した。姓は』ローマネスや『ロマーニズとも表記される』。『彼はチャールズ・ダーウィンの学問上の友人の中でもっとも若かった』(ダーウィンより三十九歳歳下)。『進化に関する彼の見解は歴史的に重要である。彼は新たな用語「ネオダーウィニズム」を提唱した。それはダーウィニズムの現代的に洗練された新たな形を指す用語として、今日でもしばしば用いられている。ロマネスの早すぎる死はイギリスの進化生物学にとって損失であった。彼の死の』六『年後にメンデルの研究は再発見され、生物学は新たな議論の方向へ歩み出した』。『ロマネスはカナダのオンタリオ州キングストンで、スコットランド長老派の牧師ジョージ・ロマネスの三男として生まれた。二歳の時に両親はイギリスに帰国し、彼はその後の人生をイギリスで過ごした。当時の英国の博物学者の多くと同様、彼も神学も学んだが、ケンブリッジで医学と生理学を専攻することを選んだ。彼の一家は教養があったが、彼自身の学校教育は風変わりであった。彼はほとんど学校教育を受けず、世間について知識がないまま』、『大学に入学し』、一八七〇年に卒業した。『最初にチャールズ・ダーウィンの注意をひいたのはケンブリッジにいるときであった。ダーウィンは「あなたがとても若くて大変嬉しい!」と言った。二人は生涯』、『友人でありつづけた。生理学者マイケル・フォスターの紹介で、ロマネスはユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのウィリアム・シャーペイとジョン・バードン=サンダーソンのもとで無脊椎動物の生理学について研究を続け』、一八七九年、三十一歳の『時にクラゲの神経系の研究を評価され、ロンドン王立協会の会員に選出された』。『しかしロマネスの、経験的なテストよりも、逸話的な証拠を重視する傾向は心理学者ロイド・モーガンによって警告され』てういる。『青年であった頃、ロマネスは敬虔なキリスト教徒だった。そして最後の病気の間に、いくらか』、『信仰を取り戻したようであるが、彼の人生の半ばはダーウィンの影響によって不可知論者であった』。『彼が晩年に書いた未完の原稿では、進化論が宗教を捨てさせたと述べている』。『ロマネスは死去する前にオックスフォード大学で公開講座を開始した。それはしばらく後にロマネス・レクチャーと名付けられ、現代でも引き続き行われている』。一八九二年の『初回には首相グラッドストンが、第二回には友人のトマス・ハクスリーが講義を行った。テーマは科学だけでなく、政治、芸術、文学など幅広い。チャーチルやルーズベルト、ジュリアン・ハクスリー、カール・ポパーなども講義を行っている』。『ロマネスは』、『しばしば進化の問題に取り組んだ。彼はほとんどの場合、自然選択の役割を支持した。しかし彼はダーウィン主義的進化に関する次の三つの問題を認めた』。『自然の中の種と人工的な品種の変異の量の違い。この問題は特にダーウィンの研究に関連する。ダーウィンは進化の研究に主に家畜動物の変異を扱った』。『同種を識別するために役立つ構造は、しばしばどんな実用的な重要性も持たない。分類学者は分類の目安にもっとも目立ちもっとも安定した特徴を選んだ。分類学者には役に立たなくても、もっと生き残りに重要な形質があるかも知れない』。『自由交配する種がどのようにして分裂するかという問題。これは融合遺伝に関する問題で、ダーウィンをもっとも困らせた問題である。これはメンデル遺伝学の発見によって解決され、さらに後のロナルド・フィッシャーは粒子遺伝が量的形質をどのように生み出すかを論じた』。『ダーウィンはその有名な本のタイトルに反して自然選択がどのように新種を造り出すのかを明らかにしなかったが、ロマネスはこの点を鋭く指摘した。自然選択は』、『明らかに適応を作り出すための「機械」であり得たが、新種を造り出すメカニズムは何か』? という疑問への『ロマネス自身の回答は「生理的選択」と呼ばれた。彼の考えは、繁殖能力の変異が親の形態の交雑防止の主な原因で、新種の誕生の主要な要因である、ということだった』但し、『現在、多数派の見解は地理的隔離が種分化の主要な要因(異所的種分化)で、交雑種の生殖能力の低下は第二以降の要因と考えられている』とある。

「ヘルトヴィッヒ」オスカー・ウィルヘルム・アウグスト・ヘルトウィヒ(Oskar Wilhelm August Hertwig(一八四九年~一九二二年)はドイツの発生学者・細胞学者。イェナ・チューリヒ・ボン各大学で医学・動物学を学び、イェナ大学では先に出たエルンスト・ヘッケルに師事した。一八七五年イェーナ大学講師となり、六年後に教授に就任、その後、ベルリン大学の解剖学及び進化学教授となった(一八八八年~一九二一年)。受精に於いて、精子と卵子のそれぞれの細胞核が合体することを発見し、また、生殖細胞が造られる際の細胞分裂で、染色体の数が半減し、受精によって元の数に戻ることを明らかにした。これらの発見は、形質の遺伝を決定する物質が染色体に存在することを示唆するものであり、遺伝学の形成に大きな影響を与えた。また、発生学での業績も多く、胚を構成する個々の細胞の性質は、その細胞に含まれる物質によってではなく、それが胚全体の中で占める位置によって決定されると主張した。進化に関しては、獲得形質の遺伝を認め、淘汰説を批判している(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、以下は「岩波生物学辞典」第四版・小学館「日本大百科全書」及びドイツ語ウィキ()等を参照に付け加えた。後文で言及されるからである)。彼の弟リチャード・ウィルヘルム・カール・テオドール・リッター・フォン・ヘルトウィヒ(Richard Wilhelm Karl Theodor Ritter von Hertwig 一八五〇年~一九三七年)も動物学者で、兄とともに多くの研究を行った。ケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)・ボン・ミュンヘンの各大学の教授を歴任、兄とともに体腔説を提唱した。また、無脊椎動物の諸類、特に原生動物の研究から細胞学の研究に進んだ他、カエルの性に関する研究なども行っている。一八九一年に書いた動物学の教科書Lehrbuch der Zoologieは名著の誉れが高い。

「プラーテ」ルートヴィッヒ・ヘルマン・プラーテ(Ludwig Hermann Plate 一八六二年~一九三七年)はドイツの動物学者。ヘッケルの後を継いでイェナ大学教授(一九〇九年)となり、ヘッケルの創設した「系統博物館」館長となった。輪形動物・軟体動物及びその他の無脊椎動物の系統論的研究を行い、環境の定向的変化との関係に於ける定向進化に注目、「定向淘汰」の語を作った。但し、彼は一方で優生学や人種(民族)衛生学に強い関心を持ち、これは彼をして、ナチズムの反ユダヤ主義政策を積極的に推し進める役割を担ってしまった。]

 

Romanes[ローマネス]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を明度を上げて補正して使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。] 

 

 ローマネスは今より三十四年ほど前に「ダーウィン及びダーウィン以後」と題する三册續の書物を書いた。その第一册にはダーウィン自身の説いた通りを紹介し、先づ生物進化の證據を列べ、終りに自然淘汰説の大要を述べたもので、圖畫なども澤山に插し入れ、その頃の最も新しい材料を選んで用ゐ、文句も極めて平易に書いてあるから、進化論の一般を知りたい人が始めて讀むには最も適當な書物であらう。實はダーウィン自身の書いた「種の起源」を讀むよりは、先づこの書を讀んだ方がダーウィンの説が明瞭に解る位である。第二册にはダーウィン以後の進化論が述べてあるが、その大部分はウォレースヴァイズマンとの説の批評で、所謂新ダーウィン派の議論の穩當でない所を指摘してその誤れる點を明に示して居る。第三册目はたゞ或る假説を述べてあるだけで、最も重要な部分ではない。ローマネスは今より三十二年前に僅に四十六歳で世を去つた。上述の書物の第三册目は、死後友人の手で纏めたものである。

[やぶちゃん注:「ダーウィン及びダーウィン以後」一八九二年から一八九七年まで五年かけて刊行したDarwin, and after Darwin。] 

 

 ローマネスがこの書の中に書いたことは、たゞダーウィン自身の説を紹介し、ダーウィン以後に出た進化に關する學説を批評しただけで、別に新しい説を發表したのではないから、こゝには改めて述べる程のこともないが、その要點を摘んでいへば、やはりダーウィン自身と同じく生物の進化は自然淘汰と後天的性質の遺傳とによつて起るとの考であつた。ローマネスは特に心理學の方面に興味を持ち、「動物の智惠の進化」・「人間の智惠の進化」・「動物の知力」などといふ書物を著したが、孰れも頗る面白いものであつた。若し長命であつたならば、更に有益な研究が出來たであらうと思ふと、彼が比較的若くて死んだことは實に惜まざるを得ない。

[やぶちゃん注:「動物の智惠の進化」一八八三年刊のMental evolution in animals, with a posthumous essay on instinct by Charles Darwin(「動物の精神上の進化、及びチャールズ・ダーウィンの本能に関する死後に刊行されたエッセイについて」)。

「人間の智惠の進化」一八八八年刊のMental evolution in Man

「動物の知力」以上の著作より前の一八八一年に刊行したAnimal Intelligence(「動物の知能」)。] 

 

 ドイツにはヘルトヴィッヒといふ有名な生物學者が兄弟二人あつて、兄はベルリン大學に、弟はミュンヘン大學に教授を務めて居るが、その中、兄の方は先年初めに「細胞と組織」と題し、後に「生物學通論」と改めた極めて興味ある書物を著し、その中に「生物發生説」といふ假説を掲げた。この假説は實驗上確に知れたことだけを基として、餘り甚だしく想像を加へてない故、ヴァイズマン説の如く細かい所まで完結したものでもなければ、またかの如く著しい特徴もないが、或はそれだけ眞に近いものかも知れぬ。全體、この書は頗る面白く出來て居るが、全く專門的のもの故、一通り組織學・細胞學・發生學等を修めた者でなければなかなか解りにくい。その中の生物發生説も同樣で、その大部分は全く細胞・組織等に關することであるが、ヴァイズマンとは反對で、生物の身體を生殖物質と身體物質とに分ける如きことを爲さず、後に子となる部分も、他の働きを爲す體部も、最初は全く同性質であるが、發生の進むに從い、その間に次第に相違が生じて相別れたものであると論じ、隨つて遺傳に就いての説もヴァイズマンとは正反對で、やはりヘッケルローマネススペンサー等と同じく、親が外界から受けた身體上の影響は確に子孫にも傳はると論じて居る。

[やぶちゃん注:『兄の方は先年初めに「細胞と組織」と題し、後に「生物學通論」と改めた極めて興味ある書物を著し』前者は一八九二年から一八九八年まで五年をかけて刊行したDie Zelle und die Gewebe、後者はそれの第二版に当たる一九〇六年刊のAllgemeine Biologie。] 

 

 またウォレースヴァイズマン等の新ダーウィン派と反對の極端論には、コープオズボーンの等の如き化石學者が主として唱へる説がある。之は所謂新ラマルク派の議論で、生物の進化には自然淘汰位では到底間に合わぬ。寧ろ主として一代每に新に獲た性質が遺傳して進化し來つたのであらうと説いて居る。また之とは別に、生物各種にはそれぞれ進化し行くべき方角が僅め定まつて居て、眞直にその方に向うて進んで行くと論ずる人もある。尚やう々な議論があるが、煩はしいから他は略する。

[やぶちゃん注:「コープ」エドワード・ドリンカー・コープ(Edward Drinker Cope 一八四〇年~一八九七年)はアメリカの古生物学者・比較解剖学者。定向進化論者であり、その仮説「コープの法則(Cope's law)」(同じ系統の進化の過程に於いて大きなサイズの種がより新しい時代に出現する傾向があるとする法則)に名を残している。彼の事蹟はウィキの「エドワード・ドリンカー・コープを参照されたい。

「オズボーン」ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン(Henry Fairfield Osborn 一八五七年~一九三五年)はアメリカの古生物学者・地質学者・優生学論者でもあった。ウィキの「ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンによれば、一八七七年、『プリンストン大学を卒業後』、『イギリスに渡り、動物学者の』『バルフォア』や『ハクスリーらに師事した。帰国後』、一八八三年、『プリンストン大学の比較解剖学の教授に』、一八九一年には『コロンビア大学の生物学の教授に就任し、また』、一八九六年からは『動物学の教授を務めた』。一八九一年には『アメリカ自然史博物館のキュレーター』(学芸員としての専門職と管理職の兼帯職)『に就任し、自らが長を務める古脊椎動物部門を設置』、一九〇八年から一九三三年の『長きに』亙って『館長を務め、在任中には同博物館に世界最高レベルの化石コレクションを収集した』、一八七七年の『コロラド州とワイオミング州を筆頭に、北アメリカ西部をはじめアジア、アフリカに意欲的に化石発掘団を派遣した』。研究の専門は化石哺乳類(サイ、ブロントテリウム、長鼻類、ウマ)で』、『これらの研究から適応放散、平行進化などの概念を立てた。 また、数多くの恐竜類の命名、記載者としても知られ』、『ティラノサウルス・レックス』(爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱 恐竜上目竜盤目獣脚亜目テタヌラ下目 Tetanuraeティラノサウルス上科ティラノサウルス科ティラノサウルス属Tyrannosaurus rex)、『ペンタケラトプス』(恐竜上目鳥盤周飾頭亜目角竜(ケラトプス)下目ケラトプス科カスモサウルス亜科ペンタケラトプス属 Pentaceratops)、『ヴェロキラプトルなど』(テタヌラ下目ドロマエオサウルス科ヴェロキラプトル亜科ヴェロキラプトル属 Velociraptor)は皆、彼の命名になる。『特にデイノドンの可能性があった』『標本に対し、より状態の良い標本に響きもよいティラノサウルス・レックス(暴君竜の王)をあたえ』、『普及させた功績は大きい』。『自身の研究活動や、研究支援活動を通じてアメリカの古脊椎動物学の発展に大きく貢献し指導的立場にあった。本人も大いに自負し』、『時には尊大と思われる行為も行ってはいるが』、『評価は得ている』。『一方で』、『オズボーンの寄与には』、現在は『ほとんど評価を受けていないものもある。化石哺乳類とくに絶滅長鼻類の研究から、今日では疑わしい説とされるラマルキズムに傾倒した定向進化説を支持したことや、そこから派生した優生学に関する活動がこれらに該当する』とある。私は不学にして、かの知られた恐竜の命名者である、この古生物学者を全く知らなかった。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(42ー2[やぶちゃん注:カウントの誤り。]) 大乘佛敎(Ⅰ)

 

  大乘佛敎

  この場合哲學的佛敎の、槪略の考察が必要になる、――二つの理由があつて。第一の理由に、本問題に就いての誤解或は無知識が、日本の知識階級は無神論者であるといふ批難を可能ならしめたからである。第二の理由は、日本の平民――卽ち國民の大部分を占めて居る人々――が熄滅[やぶちゃん注:「そくめつ」。消滅。]としての涅槃[やぶちゃん注:原文は“Nirvâna as extinction”。「消滅たるところの涅槃」という意味にしか採れない。しかし、本書の読者である西洋人一般には「消滅」が判りがいいのだろうが、どうも、ここは本来は「涅槃」そのもののサンスクリット語「ニルヴァーナ」の意、即ち、「煩悩の境地を離れて悟りの境地に入ること」の別表現・形容でないとおかしい。私には「消滅」というのは如何にも完全なる無への帰一のニュアンスがあって、しっくりこない。輪廻から解き放たれた解脱としての現世上の幻化としての存在の消失である。というより、小泉八雲が以下で語るのも、そういう単純な「断絶・滅」という話にならない《致命的誤謬》をしてはいけないと言っているからである。日本人である私(本質的個人としては無神論者であるが)としては邦訳ならば、平井呈一氏の『寂滅としての涅槃』がやはりよいと考える。](事實上から云へば、此の言葉の意味すらも、人民の大多數には、知られて居ないのであるが)の敎義を信仰し、此の敎義が、それから生ずると假定され鬪爭に對する無能力を作り出すが故に、人々は諦めて地上から全然消滅する事を甘んじて居ると、考へて居る人々が多少あるからである。苟も聰明なる人が少しでも眞面目に考へたならば、そんな信仰が、野蠻人でも文明人でもの宗敎となり得たとは考へられない筈である。然るに、多くの西歐人は、何等深く考へる所なくして、かくの如き不可能の記事を常に容認して居る、故に 若し私が、眞に大乘佛敎の敎義が、如何に普通の考へとかけ離れて居るかを、讀者に示す事が出來たならば、それは眞理と常識のために、多少の仕事をつくした事になるであらうと思ふ。なほこの問題に關して述べた以上の理由の外に、此處に第三のしかも特殊なる一つの理由がある、――卽ちこの問題が近世哲學の硏究者にとつて、異常の興味を與へるものの一つであるといふ事である。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。] 

 

 話しを進めるに先き立つて、私は諸君に次の事を御注意したい、則ち重要なる多くの經典は歐洲の各國の國語に飜譯され、且つ未だ飜譯の出來て居ない經典の原文の大部分も、既に編輯され公刊されて居るのであるから、佛敎の形而上學は、日本に於けると同じ樣に、他の如何なる國々に於ても、硏究し得ると云ふ事である。日本佛敎の原文は、漢文である、それ故、ただ漢學の出來る人のみが、本問題の細微な特殊の方面に就いて光明を投じ得るのである。七千卷から成る漢文の佛敎の經典は、これを讀破することすら、一般には不可能の業と考へられるのである――よしそれは、日本に於て、既に成されて居たのではあるが。その上、註釋書や、各宗派のいろいろの解釋書や、後代になりて加はつた敎義やらで、經典は混亂に混亂を重ねる有樣となつた。日本佛敎の複雜は、それこそ測り知られないほどで、それを解いて見ようとするものも、大抵は忽ちにその餘りに細かい途路の中に陷つて、どうも恁うもならなくなつてしまふ。斯樣な事は、今の私の目的として居る處と何等の關係もない事である。私は日本の佛敎が、他の佛敎とどれほど異つて居るかに就いて何も言ふまい、又宗派の區別に關しても全然觸れないつもりである。私は高遠な敎義に關する普通の事實――かかる事實の中から、其の敎義の說明に役立つもののみを選擇して說くつもりである。なほ涅槃の問題は重要であるに拘らず、此處では論じない――此の問題は既に『佛門拾遺』“Gleanings in Buddha-Fields”の中で、出來るだけ詳しく論じて置いたから――ただ、私は佛敎の形而上學的結論と、現代の西洋思想の結論との、或る程度の類似點を論述することにとどめる。

[やぶちゃん注:「『佛門拾遺』“Gleanings in Buddha-Fields”」明治三〇一八九七)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」。但し、正確な原題は“ Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST ”で、訳すと、「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」である。無論、後に総てを電子化注してある。

 英文で書かれた佛敎に關する單行本で、今日迄の所一番良いと云はれて居る書物【註】の中で、故ヘンリイ・クラアク・ヲレン氏は云つてゐる。『私が佛敎硏究中に經驗せる興味の大部分は、私が智的風物の不思議とでも呼ぶ所のものから生じたものである。すべての思想、議論の樣式、假定されたのみで論議されて居ない推定等は、常に不思議に感ぜられ、日頃私が馴れてゐたものとは、全くかけ離れてゐたものであるが故に、私は恰も神仙の國を步いてゐる樣に感じた。東洋の思想と觀念とがもつ多分の魅力は、私の考へでは、それが西洋思想の範疇に合致する處の少いが爲めである、と思はれる』……。佛贈哲學の異常な興味は、これ以上に言ひ現はすことはできない。眞にそれは、『智的風物の不思議』であり、內外と上下との顚倒した世界の不思議さであつて、それが從來主として西洋の思想家達の主なる興味を惹いたのである。併し結局、佛敎槪念の中には、西洋の範疇に合致し、或は殆ど合致せしめ得る槪念の一團があろ。蓋し大乘佛敎は、一元論(モニズム)の一種である。そしてそれは、ドイツ及びイギリスの一元論者の科學的學說と一致する敎義を、驚くべきほどに含んでゐるのである。私の考へる所では、此の問題の最も奇妙な部分竝びにその特に興味の深い點は、此等の一致點に依つて表明されて居る、――特に佛敎の結論は、何等科學上の知識の助けを受けることなく、又西洋の思想の知らない精神上の徑路に導かれて、到達したというふ事實を眼中に置いて見る場合さう考へられる。私は敢て自ら、ハアバアト・スペンサアの學徒と呼んでゐるが、抑も[やぶちゃん注:「そもそも」。]私が佛法の哲學に、ロマンテイツク以上の興味を認めるやうになつた原因は、私が綜合哲學に親しんでゐたが爲めである。抑も佛敎も亦進化の說である、よし吾が科學的進化(同質より異質への進步の法則)の中心となる大思想は、現世の生命に關する佛敎の敎理の內にうまく一致するやうに含まれては居ないとしても。吾々が考へるやうな進化の道程は、ハツクスレイ敎授に從へば、『臼砲から、打ち上げられた彈丸の軌道の樣な線を描くに相違ない、そして彈道の下り半分と同じものであるやうに、進化の道程に於てもその通りである。』 と。彈道の最高點は、スペンサア氏が呼ぶ所の平衡點を示す――それは發展の最高點で、衰退の時期のすぐ前にある、併し佛敎の進化に於ては、此の最高點が涅槃なるものの内に沒してゐるのである。私が最も旨く佛法の地位を說明するには、諸君が彈道線を逆に考へる事を望めば宜い[やぶちゃん注:「よろしい」。]と思ふ。――則ち無窮から降下し來たつて、地上に觸れ、更に再び神祕の中へと上昇する線である……。とは云へ、或る種の佛敎思想は、吾々の時代の進化思想と、驚く可き類似點を持つてゐるのである。而して西洋思想より最も隔絕せる佛法思想さへも、近代科學から借用した例證と言葉との助けによつて、最も要領良く說明される。

註 『飜譯佛敎』ヘンリイ・クラアク・ヲレン著(一八九六年マサチユウセツツ州、ケムブリツヂ)ハアバアト學刊行

[やぶちゃん注:「ヘンリイ・クラアク・ヲレン」アメリカのサンスクリット語、及び、パーリ語学者で仏教学者であったヘンリー・クラーク・ウォーレン(Henry Clarke Warren 一八五四年~一八九九年)。最後の註の原文は“Buddhism in Translations by Henry Clarke Warren (Cambridge, Massachusetts, 1896). Published by Harvard University.”で、これはパーリ聖典から重要な名句集抄出して英訳したもの。

「一元論(モニズム)」“Monism”。世界と人生との多様な現象を、その側面、乃至、全体に関して、ただ一つの(ギリシア語の「モノス」monos)根源・原理・実在から、統一的に解明し、説明しようとする立場を言う。二つ、及び、それ以上の原理、乃至、実在を認める二元論・多元論に対立する。哲学用語としては近世の成立である。一切を精神に還元する「唯心論」、物質に還元する「唯物論」。精神と物質とをともにその現象形態とする第三者に還元する広義の「同一哲学」などがこれに属する(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「ハツクスレイ敎授」「ダーウィンのブルドッグ(番犬)」と異名をとった強烈な進化論支持派として知られる、イギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)。詳しくは私の、ごく最近の仕儀である「進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(3) 三 ハックスレーとヘッケル」の本文と注を参照されたい。]

 思ふに既に述べた理由に因り、涅槃の敎義を除いて――大乘佛敎の最も著しい敎は、次の如きものであると考へられる。

 實在は一ツ在るのみ。

 自覺は眞實の我に非らず。

 物質は、行爲と思想との力に依りて、創造せられたる現象の總和なり。

 一切の客觀的竝びに主我的存在は、業報に依りて生ずるものなり、――現在は過去の創造物にして、現在と過去との行爲が、相結んで將來の境地を決定する……(換言すれば、物質內世界と〔有限の〕精神の世界とは、其の進化の道程に於て、嚴然たる道德的秩序を顯現する)

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

大和本草卷之八 草之四 昆布 (コンブ類)

 

昆布 奥州松前エゾナトノ海中有之石ニツキテ生ス長

 數丈水上ニ浮フ是ヲ以家ヲフク傳ヘテ若狹ニイタリ市

 人コシラヘウル若狹昆布ト云名産トス若狹ノ海ニハ生

 セス京都ノ市ニ昆布ヲ刻ミウル者多シ細麤アリ細ク切

 ル事金絲烟ノコトクナルアリ凡昆布ヲ煮ルハ銅鍋ヨシ

 鐡ナヘヲ用ユヘカラス楊梅瘡ヲ患ル者昆布ヲ食スレハ

 面ニ瘡生セスト云

○やぶちゃんの書き下し文

「昆布」 奥州松前・エゾなどの海中に之れ有り。石につきて生ず。長さ、數丈。水上に浮かぶ。是れを以つて、家を、ふく。傳へて、若狹にいたり、市人〔(いちびと)〕、こしらへ、うる。「若狹昆布」と云ひ、名産とす〔るも〕、若狹の海には生ぜず。京都の市に昆布を刻み、うる者、多し。細麤〔(さいそ)〕あり。細く切る事、金絲烟(きざみたばこ)のごとくなるあり。凡そ、昆布を煮るは、銅鍋、よし。鐡なべを用ゆべからず。『楊梅瘡〔(ようばいさう)〕を患へる者、昆布を食ずれば、面〔(つら)〕に、瘡〔(かさ)〕生ぜず』と云ふ。

[やぶちゃん注:「昆布」は不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceae に属する多数のコンブ類の総称である。ウィキの「コンブ」を見ると、我々が、普段、食する馴染みのコンブ類は以下を記載する。

マコンブ(真昆布) Saccharina japonica

オニコンブ(羅臼昆布) Saccharina diabolica var. diabolica

リシリコンブ(利尻昆布) Saccharina ochotensis var. ochotensis

ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina religiosa var. religiosa

ミツイシコンブ(三石昆布=日高昆布) Saccharina angustata

ナガコンブ(長昆布=浜中昆布) Saccharina longissima

ガッガラコンブ(厚葉昆布)Saccharina coriacea

ネコアシコンブ(猫足昆布) Arthrothamnus bifidus

ガゴメコンブ(籠目昆布) Saccharina sculpera(シノニム:Saccharina crassifoliaKjellmaniella crassifolia

ところが、別なコンブの学術論文をみると、これら上記の馴染みのコンブ類の学名を、総て Laminaria とするものを見出す(例えば、川井唯史・四ツ倉典滋氏の共同論文「北海道産コンブ属植物の系統分類の現状リシリコンブを中心に(PDF・二〇〇五年三月発行『利尻研究』所収)では、マコンブは Laminaria japonica と記載する)。ウィキもよく見ると、以上には概ね「コンブ属」という和名を併記してあり、この辺の分類は確定していないことが分かる。なおこの属名 Saccharina(サッカリナ)はサッカリン(saccharin:但し、これは完全な化学合成による人工甘味料の一つ)と同じで、「砂糖」の意のラテン語“saccharum”由来で、コンブのグルタミンの持つ甘みに由来するものであろうかと思われる。

「數丈」一丈は三・〇三メートル。私の「數」の感覚での一般的不定値は六掛けであるので十八・一八メートルであるが、上記の本邦産コンブ類の中で藻体が最大になるのは、名にし負う「ナガコンブ」で、標準は五メートル程度であるが、最大個体では二十メートルを超すものもあるので、これは誇張とは言えない。世界的には実に五十メートル以上にもなる英名の「ジャイアント・ケルプ」(Giant Kelp)で知られた、コンブ科オオウキモ(大浮藻)属オオウキモ Macrocsytis pyrifera が、コンブ科どころか、既知の藻類の中では最大種とされるが、これはアラスカ半島からカリフォルニア湾にかけての北東太平洋や南半球の高緯度地域に植生するもので、本邦の海域では見られないし、ジャイアント・ケルプそれ自体は近年まで食用に供されることはなかった(恐らく硬い)が、アメリカを中心に同種に含まれる食物繊維の一種アルギン酸(Alginic acid:褐藻類などに含まれる多糖類)がサプリメントなどの材料として持て囃されるようになって乱獲が始まり、沿岸海域の埋立てや水質汚染・海水温上昇などと相俟ってアメリカ沿岸のオオウキモは激減している(ここは主にウィキの「オオウキモ」に拠った)。なお、嘗ての私は、常時、五種類以上のコンブを用意し、それをそのまましゃぶるのを至福としていた昆布フリークである。今も三種はある。

「是れを以つて、家を、ふく」いろいろ調べて見たが、奥州北端や旧蝦夷地で屋根を葺くために昆布を用いていた事例を探し得なかったが、十分にあり得ることと思う。コンブではなく海産顕花性植物の海草であるが、王嶺・坪郷英彦共著になる論文「中国山東省膠東地域海草屋の技術文化研究」(PDFでダウン・ロード可能)によれば、山東省沿岸地域(膠東(こうとう)。ここ(グーグル・マップ・データ))では民家の屋根に海草類である、被子植物門単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ属アマモ Zostera marina(九州から北海道の内湾に植生)・スゲアマモ Zostera caespitosa(同じく北海道・本州北部及び中部)・エビアマモ Phyllospadix japonicus(本州中部・西部)などを用いて屋根を葺いているからである。同論文によれば、『海草屋は冬は暖かく、夏に涼しいという特徴』があり、それらが含む海水の「にがり」成分の効果で、『海草と黄泥で固めてある屋根は』百『年たっても腐乱せず、耐久性にも優れている』上、『海草は燃えにくいので、火事にも強いという』利点から、『威海市では、元・明・清時代には海草屋が最も盛んに作られたとされ』、一九四九年(昭和二十四年相当)『以前は、山東省沿岸部の青島地区、煙台地区、威海地区の農村と漁村の主な住宅の屋根形式であった』(各地域は先のグーグル・マップ・データを拡大すると、山東半島の主要地区にあることが判る)とあるからである。また、「人民網日本語版」の『世にも珍しい中国の「海藻の家」を訪ねて 山東省』でも、現在も立派な住居として実際にそれが使われていることが写真で判る。そこには、『海藻の家は主に山東半島東端にある栄成沿岸一帯の漁村に点在しており、強い地域特性を備えた珍しい中国の伝統家屋である。海藻の家は天然石の塊で壁を築き、近海で生育した海藻で屋根をふいている。また、雨風を凌ぐことができるほか、保温、断熱、防腐、防虫に優れ』、百『年の間、耐久可能だ。今や、栄成市で現存している海藻の家の数は限られており、中でも最古の家は数百年の歴史を持ち、すでに修復保存作業を開始している』。『大勢の村民はボロボロになった海藻の家の修繕にとりかかり、古い家にエアコンなどの電化製品を装備したり、また古い家の部屋にカラオケなどの娯楽設備を設置したりしている』。『観光客は海藻の家の床暖房の上で眠ったり』して、『山東半島東部の小さな漁村で』、『独特な冬の風情を堪能することができる』(中国新聞網伝)とあるのである。昆布もまた然りであろう! 素敵な海草屋の写真が必見! 行って見たくなった!

「若狹昆布」若狭国小浜(おばま)で加工された昆布。小浜は中世以来、近世には北廻り回船による、北海道の宇須岸(うすけし:現在の函館)との間の商船の往来があり、北海道産の「宇賀昆布」(宇賀は室町時代の函館の外海の汐首岬周辺の古称)「蝦夷昆布」がここに運ばれ、小浜で加工されて「若狭昆布」の名で全国に販売された。

「京都の市に昆布を刻み、うる者、多し」所持する宮下章氏の「ものと人間の文化史 11・海藻」によれば、『コンブの需要は、室町末期までは普遍的ではなく、京の都とその周辺に集中していた。その後』、『大坂、堺の町が発展すると、広く近畿地方一帯に拡がってい』き、『京は消費地であると同時に集散地として』、室町時代からコンブを取扱品目としていたという』松前屋などの『コンブ商や加工業者が多く現われる』ことになったのである、とある。

「細麤〔(さいそ)〕」「麤」は「肌理(きめ)が粗い」ことを意味する。

「金絲烟(きざみたばこ)」刻み煙草(莨:たばこ)。

「昆布を煮るは、銅鍋、よし。鐡なべを用ゆべからず」それぞれのイオンに関係するもので、鉄イオンは昆布の成分とは反応せずに発色をしないらしく、実際、昆布を銅鍋で煮ると、色良く仕上がると、現在の昆布製造者の記載にもある。

「楊梅瘡〔(ようばいさう)〕」梅毒の古名。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 ■トダイ (イシダイ?)

 

■トダイ

 

Isigaki2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。またしてもキャプションの名称の頭が虫食いで読めない。頭部や鱗の大きさ及び尾鰭の形状に違和感はあるが、魚体の後半部の形状からみると、

スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus

に似てはいる。同種は典型的な鯛型を呈し、体側にくっきりとした白黒の横縞を有することで一般に知られているが、成長すると、この縞は消え、老成魚では全体に燻し銀或いは、一見、黒っぽい色合いとなって、口の周辺が特に黒くなる。末の「トダイ」で検索して見たが、本種に限らず、「~トダイ」という異名は現在は如何なる種にもないように思われる。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十二年 歌人来訪

 

   明治三十二年

 

     歌人来訪

 

 明治三十二年(三十三歳)[やぶちゃん注:一八九九年。この年の十月十四日で満三十二歳。]の初も比較的平穏であった。盥に飼った鴨を羯南翁の池に放つため、居士も人の背に負われて行って、「鴨の羽ばたき幾度となくしては遂に石の上で安らかに眠って居たのを見とどけて」帰って来た。人の背に負われてにもせよ、元日匇々戸外に出るなどということは、何年にもなかったことであろう。

 一月の『ホトトギス』に居士は「明治三十一年の俳句界」及「俳句新派の傾向」を掲げた。今まで『日本』に掲げていた前年俳句界の総評を『ホトトギス』に移したのは、俳句方面の仕事が大体ここに集中されたためであろうが、三十一年の俳句界について居士の説くところは極めて簡単であった。力を用いたのはむしろ「俳句新派の傾向」の方で、居士はこの一策において「明治二十九年の俳諧」以来の精細な批評を試みた。居士は先ず明治俳句の複雑性を古句に対比して説き、二箇の中心点を有する句とか、人事を詠じた句とか、印象明瞭の句とかいうに及んだが、特に明治の新趣味として挙げたのは、曖昧未了の裡に存する微妙な感を捉えた句で、油画における紫派、小説におけるスケッチ的短篇などと共通する傾向だといっている。例えば虚子氏の「宿借さぬ蠶(かひこ)の村や行き過ぎし」という句の如きもので、これを蕪村の「牡丹ある寺行き過ぎし恨(うらみ)かな」「宿借さぬ火影や雪の家つゞき」などの句に比べれば、その差は自(おのずか)ら明瞭になる。「行き過ぎし恨をいふにもあらず、宿借さぬ時の光景を述ぶるにもあらず、蠶飼(こがひ)に宿ことわられし前の村は既に行き過ぎて、宿借すべき後の村は未だ來らず、過去を顧(かへりみ)ず末來を望まず、中途に在りて步む時、何となく微妙の感興る。芭蕉・其角は勿論、蕪村・太祇もこゝに感得する能はざりしなり」というのである。普通の読者はこの種の句を読んでも、さほどに興味を感ぜず、明治俳句の新趣味がこういう曖昧未了の間に存するなどとは気がつかずに通過してしまう虞(おそれ)がある。居士が力説したのはそのためなので、「俳句新派の傾向」一篇は明治俳句の研究者に対し、多くの示唆を与えるもののように思われる。

[やぶちゃん注:『「明治三十一年の俳句界」及「俳句新派の傾向」』国立国会図書館デジタルコレクションの大正五(一九一六)年籾山書店刊の「合本俳諧大要」の、前者はここで、後者はここで読める。この「合本俳諧大要」は「俳諧大要」に「俳人蕪村」をカップリングした上、子規の俳句論「俳句問答」に始まり、「第五篇 明治三十二年の俳句界」までを附録で収める優れもので、無論、正字正仮名である。

「紫派」(むらさきは)は黒田清輝を中心として形成された明治期の洋画の傾向と、その画家たちを指す。ネットの「徳島県立美術館」の「美術用語集」から引く。フランスの外光派の画家ラファエル・コランに学んで、明治二六(一八九三)年に『帰国した黒田は、印象派の技法と伝統的な主題を折衷したサロン系の外光表現を日本に伝えたが、それまで日本の画壇は脂派』(やには)『と呼ばれる』、『褐色を基調として明暗のコントラストを鳶色と黒で描いた暗く脂っぽい表現が主流となっていたため、黒田の明るく感覚的な外光描写は若い画家たちに清新な感動をもって迎えられた。黒田は久米桂一郎とともに天真動場、次いで白馬会を創立し、また東京美術学校教授として後進の指導にあたり、それらの活動を通じて外光描写は当時唯一の官展であった文部省美術展覧会(文展)の画風を支配するに至った。名称の起りは、陰の部分を青や紫で描いたことを、脂派に対して正岡子規が紫派と揶揄したことによる。ほかに脂派との対比から新派、南派、正則派とも呼ぶ』とある。

「牡丹ある寺行き過ぎし恨(うらみ)かな」「蕪村遺稿」所収。所持する岩波文庫「蕪村俳句集」(尾形仂校注・平成元(一九八九)年刊)では、

 牡丹有(ある)寺行き過しうらみ哉

の表記。安永六(一七七七)年四月十三日の作。

「宿借さぬ火影や雪の家つゞき」「蕪村句集」所収。所持する「新潮日本古典集成 与謝蕪村集」(清水孝之校注・昭和五四(一九七九)年刊)の頭注によれば、句稿では、

 宿借さぬ灯影や雪の家つゞき

と書いて改めている、とある。前記の岩波文庫「蕪村俳句集」によれば、明和四(一七六七)年十一月四日の作。数え五十三歳。また、清水氏は上記頭注で東北行脚の体験に基づく作と推定されておられる。蕪村の奥羽遊歴は巻末の清水氏の年譜によれば、句作から溯る二十五年も前の、二十七、八歳の折り、寛保二(一七四二)年秋か冬に始まり、約一年間と推定されておられる。傍観的言い放ちの写生なんぞではない、溜めに溜めて熟成させた詠句ということになる。個人的には私は正岡子規の賞揚には激しい違和感を感ずる(そもそも私は虚子嫌いであるせいもあるが)。虚子のこの句は面白くもなんともないし、子規の言うような糞のような『微妙の感』など微塵も覚えぬ。比較に出した蕪村のこの二句の方が遙かに名句である。]

 

 この月「俳諧叢書」の第一編として『俳諧大要』がほととぎす発行所から刊行された。

[やぶちゃん注:俳諧叢書第一編。「ほとゝぎす発行所」刊。明治三二(一八九九)年一月二十日発行。同年二月二十五日発行の再版の一部画像が「国文学研究資料館」公式サイト内の「電子資料館」で視認できる。また、先に示したが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、最も古いもの(大正五(一九一六)年籾山書店刊)として、「合本俳諧大要」がここで読める(無論、正字正仮名)。新字旧仮名で良ければ、「青空文庫」のこちらで電子化翻刻が読める。]

 二月は居士が前年「歌よみに与ふるの書」を公にした月である。居士の歌論は一世を聳動(しょうどう)[やぶちゃん注:驚かし動搖させること。恐れ動搖すること。この場合の「聳」は「そびえる」ではなく「おそれて立ちすくむ」の意。]し、居士の作歌も「百中十首」以後引続き『日本』に現れたが、これに呼応して起(た)つ者は存外多くなかった。碧梧桐、虚子、露月らの諸氏の歌は『日本』にも『ホトトギス』にも出ておらぬことはないが、子規庵における歌会が一度開かれたきりで、その後絶えているところを見ると、俳句のような熱はなかったのであろう。然るにこの年の二月になって、機運は俄然到来した。香取秀真(かとりほずま)、岡麓(おかふもと)の諸氏が居士を訪ねるようになったのがそれである。

[やぶちゃん注:「香取秀真」(明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)は千葉県印旛郡生まれの鋳金工芸師で歌人・俳人。明治三〇(一八九七)年に東京美術学校鋳金科を卒業後、東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員を歴任、文化勲章も叙勲されている。「アララギ派」の歌人としても知られ、かの芥川龍之介の田端の家のすぐ隣りに住み、龍之介とは隣人であると同時に、非常に親しい友人でもあった。

「岡麓」(明治一〇(一八七七)年~昭和二六(一九五一)年)は書家で歌人。東京本郷生まれ。本名は三郎。東京府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)中退。この明治三二(一八九九)年に正岡子規に入門している。明治三六(一九〇三)年には短歌雑誌『馬酔木(あしび)』(一九〇三年六月~一九〇八年一月/通巻三十二冊/「根岸短歌会」発行。正岡子規の翌年、その門下生らの機関誌として伊藤左千夫の主唱により始められ、左千夫の他には香取秀真・岡麓・長塚節(たかし)らが初期編集同人で、斎藤茂吉・古泉千樫・島木赤彦・石原純・中村憲吉らを育てた。子規の写生道・万葉主義を受け継いだが、次第に同人が減って衰退しため、明治四二(一九〇九)年に左千夫が新たに『アララギ』を創刊した。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)の編集同人となる。節や茂吉らと交わり、大正五(一九一六)年からは『アララギ』に短歌を発表した。大正一五(一九二六)年に処女歌集「庭苔(にわごけ)」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める)を刊行、戦後に日本芸術院会員となっている。]

 

 香取氏らは前に『うた』という雑誌を出していたことがあり、三十二年一月からは雑誌『こゝろの華』の編輯員に名を列ねてもいた。年に因んで三十二番歌合なるものを作り、山本鹿洲氏を使者として居士の判を乞うたのは、この年の一月中であったが、それが最初の機縁になって、遂に居士を訪うに至ったのである。「歌よみに与ふる書」当時の反響は一時にとどまり、真に歌を作ろうとする仲間を見出しかねていた時分だから、この訪問はひどく居士をよろこばした。自ら師長[やぶちゃん注:師と長上。先生と目上の人。]を以ておらぬ居士は、当時香取氏らのやっていた「新月集」という互選の巻にも直に歌を寄せる、香取、山本両氏が鋳金家であるところから、鋳物に関する話を興味を持って聞く、という調子で直に親しくなった。

[やぶちゃん注:『こゝろの華』歌人佐佐木信綱を中心とする短歌結社「竹柏会」の機関誌として明治三一(一八九八)年二月に創刊された短歌雑誌。現在も続く。現行の『心の花』誌名の方が通りがよい。初期には正岡子規・伊藤左千夫らの「根岸短歌会」や、落合直文・与謝野鉄幹らの「あさ香社」、さらには旧派の歌人たちの寄稿もあって、短歌総合誌の感があった。しかし 明治三六(一九〇三)年からもともと編集人であった石榑千亦(いしくれちまた)が独りで編集担当を始めてからは、純然たる「竹柏会」機関誌となった。温雅な歌風ながら、個性を生かす信綱の指導の下、川田順・木下利玄・片山廣子(芥川龍之介が最後に愛した女性である。私は龍之介と廣子の言わば「追っかけ」である)・柳原白蓮・九条武子らの優れた歌人を育てた(ここは主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。なお、正確には貞光威氏の論文「伊藤左千夫考(上)」(PDFでダウン・ロード可能)によれば、秀真と麓は鶯蛙吟社の発行していた短歌雑誌『詞林』(明治初期短歌界の名家で元官僚の鈴木重嶺が発行)の編集員だったものが、『詞林』が『心の花』に合併し、そのまま移ったものである。

「山本鹿洲」根岸短歌会の初期メンバーとして載るが、詳細事蹟不詳。]

 

 二月の『ホトトギス』に出た「繪あまたひろげ見てつくれる歌の中に」という十首は香取、岡両氏が訪問する以前のもので、この年になって最初の歌であるかどうかわからぬが、とにかくこれ以前に発表されたものは見当らぬようである。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのアルスの全集第六巻の画像のから校訂した。]

 

 なむあみだ佛つくりがつくりたる佛見あげて驚くところ

 もんごるのつは者空三人(みたり)二人立ち一人坐りて楯つくところ

 岡の上に黑き人立ち天の河敵の陣屋に傾くところ

 あるじ馬にしもべ四五人行き過ぎて傘持ひとり追ひ行くところ

 木(こ)のもとに臥せる佛をうちかこみ象蛇どもの泣き居(を)るところ

 うま人のすそごのよそひ駒立てて遠くに人の琴ひくところ

 かきつばた濃きむらさきの水滿ちて水鳥一つはね搔くところ

 いかめしき古き建物荒れはてゝ月夜に獅子の壇登るところ

 星根の無き屋かたの内にをとこ君姫君あまた群れゐるところ

 看板にあべかは餅と書きてありたび人ふたり餅くふところ

 

[やぶちゃん注:「裾濃」同系色で、上方を淡くし、下方をしだいに濃くする染め方や織り方を指すが、ここは上方を白く、次を黄として次第に濃い色に下げて彩どった、甲冑の威(おどし)であろうと私は読む。]

 

 これらの歌は居士の創意に出ずるものであろう。すべてが画の内容を説明する程度でなしに、鮮にポイントを捉えて生々(いきいき)と表現してある。従ってこの歌を誦(よ)むと、まだ見ぬ画が直(ただち)に眼前に繰りひろげられるものの如く感ぜられる。画の内容は一枚ずつ異っているが、全体を貫くもののあることは、「足立たば」「われは」などの歌と同じである。居士の歌として注目すべきものの一たるを失わぬ。

2018/05/16

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 イシワリダイ (イシガキダイ?)

 

イシワリダイ

 石割鯛

 

Isiwaridai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。顔つき・眼球の大きさ・鱗の形状が総て誇張されたものと大胆に考えるなら、背鰭と尻鰭の後部が有意に肥大して異様に突き出るところなどは、「イシワリダイ」の名に近い、

スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシガキダイ Oplegnathus punctatus

ではなかろうか。そういえば、この如何にもでっかいウロコウロコみたようなのは、実は鱗ではなくて、イシガキダイ特有の、灰白色の地に、大小の黒褐色円斑紋、石垣模様のデフォルメなんだと思うと、何だか腑に落ちるのだ。あり得ねー!とか言う御仁のために一言だけ言い添えておこう。この図は前にも出した「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年平凡社刊)の田中誠氏の「栗本丹洲」のパートの図(これは百九十九ページ)にも掲載されており、田中氏は私と同じく、『イシガキダイ?』を推定候補とされておられるのである。そのキャプションで田中氏は『意外にも丹洲の魚図に不正確なものが散見されるのは、実物を写生しないで、他の図を写したものがある』ために拠るもの述べておられ、或いは、これもそうした実物を目の前に置いての写生(彼がしばしば「眞寫」と記すのがそれ)ではなく、下手な写生者が描いたものを元に複写した結果が、こうした漫画チックな各部のデフォルメになってしまったとも言えるのかも知れない。なお、本種がイシガキダイであった場合、腹が白くなっているのは老成個体の特徴だが、そうすると、♂の場合は、斑紋が同時に消えてしまうことと、吻部の周囲が有意に白くなる点(イシガキダイの別称「クチジロ」はそれに由来。但し、♀の老成個体はこれらの特徴を持たない)で、本図とは一致しない。悩ましい。なお、本種は磯釣りで人気の高級魚であるが、二〇〇〇年後半から本邦各地で、かなり重症なシガテラ中毒(ciguatera熱帯亜熱帯・性の海洋に棲息するプランクトンが産生する毒素に汚染された魚介類を摂取することで発症する食中毒。 などの有毒渦鞭毛藻(渦鞭毛虫門渦鞭毛藻綱 Dinophyceae に属する、例えば Gambierdiscus toxicus 等)が原因であることが多い)事例が増えてきているので、注意が必要ではある。但し、本種だけではない他の近縁関係にない複数の種群で発生しており、彼らを取り立てて主犯にするのは間違いである。

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 赤目鯛 キントキ (キンメダイ)

 

赤目鯛 今え戸俗称キントキ

 

Akamedai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いたが、本図は魚体尾鰭の先が僅かに切れて分断されて載っているため、合成した。この合成処理はかなり上手くいった。翻刻部であるが、「え」は「盈」の崩し字としての「え」と採った。「え戸」で「江戸」の意とした。但し、「今え」の二字は経年劣化によるものとは思われない、明らかに上から薄い和紙を貼って叩いて抹消したようなに見える。しかし、だったら、下の「戸」も一緒に消しそうなものだとも思うが、では「戸俗」という熟語があるかというと、ない。不審である。消さなかったとして、

「赤目鯛〔(アカメダイ)〕」 今、江戸〔にて〕、俗〔に〕「キントキ」〔と〕称〔す〕。

と推定訓読しておく。なお、本来、「鯛」の歴史的仮名遣は「たひ」であるが、既に本「魚譜」で丹洲は「タイ」と表記しているのでそれに従った。さても、これはまず、お馴染みの、

キンメダイ目キンメダイ科キンメダイ属キンメダイ Beryx splendens

と同定してよかろうと思う。但し、「キントキ」は「金時」で金太郎(坂田金時)が赤ら顔であったとされること、或いは、坂田金時の幼少時をモデルとした歌舞伎の山姥(やまんば)物に登場する子役「怪童丸(快童丸)」が赤い衣装を着けたことから、広く「赤い色」を意味する言葉として用いられたことによる。また和名の頭の「キンメ」は「金目」で、深海魚であるキンメダイが、眼球の網膜と脈絡膜の間に集光作用を持つ輝板(きばん:英語:tapetum:タペタム)を持っているために、光を受けると、金色に輝いて見えることに由来する。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 紅■■ (イサキ)

 

Isakikansei

 

紅■■ 奇鬣之異品

    日東魚譜ハナ

    キ■■■是ナルヘ

    シ是鰭尾黄色

    因テ黄檣魚

    充ツ

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いたが、本図は魚体が分断されて載っているため、合成したのであるが、それぞれのフィルムが微妙にずれているために上手く合成出来なかった。悪しからず。キャプションは虫食い甚だしく、判読が困難。肝心の冒頭の名前すら読めない。四行目の「是」は当初は「背・脊」或いは「只」と判読してみたものの、前者は意味は腑に落ちるものの、どうも崩し方がおかしく、後者では繋ぎが悪い(というか、意味があんまり感じられない)ので、「是」で採ったに過ぎない。推定で整序してみると、

   *

「紅■■」 奇〔なる〕鬣〔(ひれ)の〕異品。「日東魚譜」にはなき、「■■■」、是れなるべし。是れ、鰭・尾、黄色。因つて、「黄檣魚」に充つ。

   *

となるか。「日東魚譜」は神田玄泉(生没年不詳:江戸の町医。出身地不詳)の著の、全八巻から成る本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもの。魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)。但し、幾つかの版や写本があって内容も若干異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである。「黄檣魚」直前が、そこで同定したスズキ目スズキ亜目ニベ科キグチ属キグチ Larimichthys polyactis ではあり得ない。「最早、お手上げ」と言いたいところなのだが、実はこの図、所持する「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年平凡社刊)の田中誠氏(東京衛生局)の「栗本丹洲」のパートの図(百九十八ページ)に掲載されており、田中氏によって『イサキ(ただし体色は異常)』と同定されてあるので、

スズキ目スズキ亜目イサキ科イサキ属イサキ Parapristipoma trilineatum

としておく。確かに、体色以外はよくイサキに合う。他人の褌相撲であるが、これも悪しからず。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 ヒメ小鯛・黄檣魚 (キグチ?)

 

 ヒメ小鯛

 

黄檣魚■

福州府志云ヽヽヽ

鬣黄色トアリ

此モノ眞ノ黄檣

魚ナルベシ

 

Himekodai2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。先に翻刻について述べておくと、一行目の最後は虫食いと剥離による破損で判読不能であるが、感じとしては(なべぶた)らしき小さな字が右に寄っているように見えるので、割注かもしれない。「檣」は原画では(へん)が「禾」であるが、二つの背鰭を「帆柱」に見立てた名と見て、それで示した。二行目の「ヽヽヽ」であるが、こんな点々は今まで丹洲の記載では見たことがない。不審。原本にあることは覚えていたが、記載時に確認出来なかったものを意識的に欠字様表記したものか?

 さて、これもよく判らぬが、体型と、名及びその鰭の黄色から見て、

スズキ目スズキ亜目ニベ科キグチ属Larimichthys(シノニム:Pseudosciaena

ではないかと踏んだ。同属の本邦産では、

キグチ Larimichthys polyactis

フウセイ Larimichthys crocea

がいるが、両者はよく似ている。ただ、諸記載を見ると、尻鰭はキグチでは、通常、九~十軟条であるのに対し、フウセイは八軟条しかないとあることから、丹洲の描き方が正しいと信ずるなら(ただ、尻鰭の前方部はなんだかちょっとヘン)、九条以上はあると見て、キグチで採ることとした(但し、赤焼けしたような体色は普通ではない。死後の変色かも知れない)。Maruha Nichiro公式サイト「おギャラリの「キグチ」によれば、体長は三十センチメートル(最大で四十センチメートル)、西日本から東シナ海・黄海にかけて広く分布し、『口はわずかに受け口。体色は黄色味の強い銀白色。水深』百二十メートル『以浅の大陸棚上の泥底にすみ、夜になると表層に昇って、オキアミなどの動物プランクトンを食べる』。『中国、朝鮮半島西岸においては、食文化を代表する魚として古くから親しまれており、特に朝鮮では、本種の干物を神事の供え物として用いるほど特別な存在であった。近年、本種の水揚げが激減するに従って』、『その伝統も薄れつつあるようだが、今でも韓国の魚市場に行くと、藁でくくられた干物が店先に下げられているのが目に付く』とあり、さらに『中国では、フウセイとともに「黄魚(ホアンユィ)」、「黄花魚(ホアンフアユィ)」と呼ばれ、最も好まれる魚の一つ』とある。しかし致命的に困った点が実は、ある。尾鰭がこんな風に中央が凹まず、逆に突き出て団扇みたようになってなきゃだめなんだわ……トホホ……「困ったちゃん」だッツ!

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 散文における新天地 / 明治三十一年~了

 

     散文における新天地

 

 『ホトトギス』第二巻第一号は十月に入って発行を見た。色刷の表紙、石版の裏画(うらえ)、写真版の口画、すべて面目一新した上に、紙数も松山時代に比べるとよほど多くなった。居士がこの号のために筆を執ったものは、次のような多種類に上っている。

[やぶちゃん注:「『ホトトギス』第二巻第一号は十月に入って発行を見た」発刊日は十月十日(後掲する同号目次画像内のクレジットに拠る)。

「色刷の表紙、石版の裏画」「ホトトギス」社公式サイトこちら(両画像有り。但し、モノクロームによれば、表紙は下村為山の「月」をモチーフとしたもの裏絵(私はどうも「画」を「え」と読むことを好まない)は中村不折の「螽とり」の絵で、右欄外に「先へ先へ行くや螽の草うつり 樗堂」と印刷されてある洒落たもの(後に示す同サイトの同号目次から、宵曲も後で述べているが、「写真版の口」絵というのも、下村の「豐年」と中村の「菌狩」(「きのこがり」のことであるが、後の子規の作品に合わせて「たけがり」と訓じているようだ。後の本文でもそうルビがある)の絵のそれであることが判る)。この句は松山の酒造業者で俳人であった栗田樗堂(くりたちょどう 寛延二(一七四九)年~文化一一(一八一四)年)の句。樗堂は加藤暁台に学び、近世伊予第一の俳人と讃えられた俳人で、小林一茶・井上士朗らとも親交があり、子規も彼を「過去四國一の俳人」と賞賛したという。樗堂の事蹟はこちらにリンク先の別ページを含めて非常に詳しい。必見。

「紙数も松山時代に比べるとよほど多くなった」上記サイトの「過去の俳誌より」の第一号を見ると(全頁画像閲覧可能)、本文は三十七頁。第一巻二十号の目次を見ると、推定で二十数頁しかない模様である。第二巻第一号は不明だが、目次(以下のリンク先の画像を参照)が上下二段目一杯に亙っていることから推しても、相当なページ数であることは間違いない。なお、以下については、同じ目次画像で表記(作者を含む)を確認してここのみ正字化し、記載されていない別なメンバーの書いたものも、概ね私が【 】に入れて補足してみた。新規まき直しの初号の雰囲気を味わって戴きたいがためである。前後を一行空けた。]

 

 【祝詞(鳴雪)】

  ほとゝぎす第二卷第一号の首に題す(某)

  古池の句の辨(獺祭書屋主人)

 【蕪村句集講義(鳴雪・子規・碧梧桐・虛子・墨水】

  俳諧無門關(俳狐道人前)

 【雜話(坂本四方太)】

  小園の記(子規子)

  土達磨(つちだるま)を毀つ辭(子規子)

 【淺草寺のくさぐさ(高濱虛子)】

[やぶちゃん注:ここに『募集俳句』欄が入り、「蜻蛉」と題した「子規選」・「螽」と題した「四方太選」・「きりぎりす」と題した「霽月選」・「蚯蚓鳴」(みみづなく)と題した「虛子選」となっている。]

 【東京俳况】

 【各地俳况】

 【夜長の欠び(五百木飄亭)】

 【文學美術漫評(白雲・九鳥山人・ねずみ)】

 【新體詩(四篇)(虛子・竹の里人)】

 【和歌(十九首)(碧梧桐・竹の里人)】

[やぶちゃん注:以下の二篇は後の宵曲の記載から、前者「花賣る歌、豐年の歌」(これこれ)が上記の新体詩の、後者「蕈狩」(これ。以上のリンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの「子規全集」第六巻の画像)が和歌の欄のものである。]

  花賣る歌、豐年の歌(竹の里人)

  蕈狩(たけがり)(竹の里人)

  朝顏句合(くあはせ)(子規判【碧梧桐・虛子】)

[やぶちゃん注:以下は「附錄」の部。但し、目次ではただ『俳句分類』とあるのみである。これは先からの分載であるから、宵曲の記すものが、内容的には正確であると思う。]

  俳句分類乙號(獺祭書屋主人)

 

 この外従来の「輪講摘録」を「蕪村句集講義」と改めて、その筆記も居士が書いているし、「文学美術漫評」の中にも「ねずみ」の名で何か書いている。正に三面六臂の働(はたらき)である。居士は最初虚子氏に対して「初(はじめ)は俳句が主になること勿論であるが少くも韻文だけは包含して置きたい、今少し小生をして望ましめば初めから新体詩と歌と俳句と平等にやって行きたい(小説などはあってもなくても善い事として)。しかし俳句さえ困難なのだからとてもその外は覚束ない、やはり俳句八分その他二分位で始めねばなるまい」[やぶちゃん注:ここは引用元が不明であり、以下、「いっていた」とあるから、正字化を見送って、ママとした。]といっていたが、その割合はともかく、文学の範囲はほぼ予定通り備っているといわなければならぬ。

 「古池の句の弁」はかつて「芭蕉雑談」において説いたところを、更に委しく、更に歴史的に述べたものである。古池の句の評論としては最も精到なるものの一であろう。「土達磨を毀つ辞」は題名を見てもわかるように、在来の俳文系統に属するものであるが、「小園の記」は居士の手によって新に生れた美文である。こういう種類の文章は居士の従来書いたものの中には見当らない。二、三カ月前に発表された「十年前の夏」と対比しても、その差は明に看取することが出来ると思う。

[やぶちゃん注:「古池の句の弁」「青空文庫」のこちらで新字正仮名で読める。

「土達磨を毀つ辞」同じく「青空文庫」のこちらで新字正仮名で読める。

「小園の記」同じく「青空文庫」のこちらで新字正仮名で読める。]

 この号の為山氏の口画は「豊年」不折氏のは「菌狩(たけがり)」であった。新体詩「豊年の歌」及「蕈狩(たけがり)」の和歌ほ、いずれもこの口画に因んだものである。「俳句分類」の項目と、その次の募集句の題とは必ず同じものが選んである。「俳句分類」は単に古句を示すにとどまらず、作句者に取っては一種の作例にもなっている。こういう点に関して居士は常に周到の用意を怠らぬ人であった。

 多大の努力を覚悟し、多大の努力を払っただけあって、東遷後最初の『ホトトギス』を手にした時は、居士も愉快を禁じ得なかったらしい。虚子氏に寄せた手紙の封筒に「天氣はよくなる雜誌は出來る快々」と書いて来たほどであった。韻文だけは包含して行きたいという最初の予定も、和歌や新体詩は後援続かずの感があり、居士自身も三号までで新体詩の作を絶つような結果になってしまったが、予定以外に新な天地が開拓されたのは散文の方面である。松山時代の『ホトトギス』には時に紀行とか、随筆とかいう種類の文章が見えるだけで、居士もこの方面には手を著けたことがなかった。然るに東遷後は「小園の記」を振出しにして、「車上所見」「わが幼時の美感」という風に、号を逐うてこの種の文章を掲げた外に、毎号「雲」とか「山」とかいう題を課して短文を募っている。一行乃至数行の短文を主としたものであるが、追々長い文章が加わって来て、従来にない自由な表現を試みることになった。後年単行本にするに当って、「小園の記」風のものを『寒玉集』と名づけ、短文の方を『寸紅集』と名づけた。居士の唱道した写生文なるものは、大体この二つの流から生れたので、その端緒は東遷直後の『ホトトギス』に已に見えている。

[やぶちゃん注:「わが幼時の美感」は「青空文庫」のこちらで新字正仮名で読める。]

 

 新体詩にしても『ホトトギス』所載のものは概ね短く、在来の作品のように一篇の趣向が目に立たなくなって来た。その代表的なものとして、最も短い一篇を掲げるならば次の如きものである。

[やぶちゃん注:以下は、国立国会図書館デジタルコレクションのアルスの「子規全集」第六巻のここからの画像で校訂した。]

 

   芒(すすき)老ゆ

 芒老いて菊はつぼむ

 萩を刈りて菊は開く

 白き薔薇に晴るゝ小雨

 葉雞頭に散る夕榮(ゆふばえ)

 蝶來らず居らざる蜘(くも)

 靜かなるは秋行く園

 くさる落葉うるほふ土

 四十雀はひそかに在り

 病みて三年庭を蹈まず

 窓にもたれ景を弄す

 雲は過ぐる上野の杉

 山氣骨にしみて寒し

 

 押韻の迹はここにも見えるが、眼前小園の風物の外、何者も取入れていない。こういう傾向を更に進めて行ったら、あるいは写生文に併行(へいこう)すべき写生詩が生れていたかも知れぬ。居士がこの辺を限りとして新体詩に遠ざかったのは、そういう野心を捨てたというよりも、病牀筆硯多忙の結果、余力が及ばなくなったものと解すべきであろう。

 この年後半における『ホトトギス』以外の仕事はあまり多くない。歌の調子を論じた「五七五七七」とか、『心の花』の歌を評した「一つ二つ」とか、天長節に因んだ「賀の歌」とかいうものが『日本』に掲げられてはいるが、前半期の歌論の華々しかったのに此べるとやや寂寞の感がある。『日本』に出る歌も九月以後は著しく減少した。上野元光院に月を見、「立待月」百句を『日本』に掲げた時も、俳句ばかりで文章はなかった。『日本人』に寄せた新体詩「菊合せ」は一年ぶりの作品であったが、これ以後『日本人』には何も出なくなっている。他の方面の仕事が減少したのは、『ホトトギス』に精力を傾注したために外ならぬ。

[やぶちゃん注:『天長節に因んだ「賀の歌」』「天長節」と前書した八首のか(国立国会図書館デジタルコレクションのアルスの「子規全集」第六巻の内。前書はこの前のページ末にある)。]

 

 三十一年は多事であったにかかわらず、居士の身辺は比較的無事であった。年末に虚子氏の贈った鴨を室内の盥(たらい)に浮べ、燈下にじっとしている鴨の様子に目を遣りながら、夜遅くまで筆を執ったりするうちに、この年は静(しずか)に暮れてしまった。

[やぶちゃん注:この最後の映像は何かはなはだ印象深い。]

2018/05/15

大和本草卷之八 草之四 龍鬚菜 (シラモ)

 

【外】

龍鬚菜 王氏彙苑曰生海中石上莖如繒長僅尺

 許色始靑居人取之沃於水乃白又名繒菜人頗

 珍之今按備前ニ白藻アリ細絲ノ如ニシテ靑白水ニ

 浸セハ白クナル煮食シ或水ニヒタシスミソニテ食ス潔白ナリ

 若水曰又北土及他州ニモ有之ソウナト云

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

「龍鬚菜(シラモ)」 「王氏彙苑」に曰はく、『海中の石の上に生ず。莖、繒(きぬいと)のごとく、長さ僅かに尺許〔(ばか)〕り。色、始め靑し。居人、之れを取り、水に沃(そゝ)げば、乃ち白し。又、「繒菜(ソウナ)」と名づく。人、頗〔(すこぶ)〕る之れを珍とす』〔と〕。今、按ずるに、備前に「白藻(シラモ)」あり。細き絲のごとくにして靑白。水に浸せば、白くなる。煮て食し、或いは水にひたし、すみそにて食す。潔白なり。若水〔(じやくすい)〕曰はく、『又、北土及び他州にも之れ有り、「ソウナ」と云ふ』〔と〕。

[やぶちゃん注:最近まで、本種は紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属シラモGracilaria bursa-pastoris(属名はラテン語「gracilis」(「細い」の意)由来。種小名は「bursa」が「袋」で、「-pastoris」が「羊飼いの」の意)とされてきたが、鈴木雅大サイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」ページに、『本種はこれまで地中海をタイプ産地とするGracilaria bursa-pastorisと同定されてき』たが、二〇〇八年の研究論文によれば、『日本と韓国』当該種『として報告されてきた種は』、『果皮の細胞の形態とrbcL遺伝子を用いた系統解析の結果から』、『ハワイをタイプ産地とする』、

紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属シラモ Gracilaria parvispora

に相当することが判明した、とあるので、それで示した(当該ページでは上位タクソンが細かに、紅藻植物亜界 Subkingdom Rhodobionta紅藻植物門 Phylum Rhodophyta 紅藻植物亜門 Subphylum Rhodophytina 真正紅藻綱 Class Florideophyceae マサゴシバリ亜綱 Subclass Rhodymeniophycidae オゴノリ目 Order Gracilariales と示されてある)。本種は、水によく溶けて粘性が高いことから食品用の糊料・安定剤・乳化剤として広汎に利用されているカラギーナン(carrageenan)精製の原藻としてよく知られる(なお、英名は、この成分の利用がアイルランドのカラギーン(Carrageen)村で始まり、各国に広まったことに由来する)。現在でも、茹でて、刺身のツマにしたり、酢味噌和えで食されている。但し、「心太(ココロフト=トコロテン)の項で示した通り、オゴノリ類の中毒死亡例が複数あること、それを説明するとされる、prostaglandin E2(プロスタグランジンE2)摂取に始まる人体内機序とは別に、ハワイで発生したオゴノリ食中毒の要因研究の過程では、その原因の一つにPGE2過剰等ではなく、アプリシアトキシンaplysiatoxinという消化管出血を引き起こす自然毒の存在が浮かび上がってきている。これは単細胞藻類である真正細菌 Bacteria 藍色植物門Cyanophyta の藍藻(シアノバクテリアCyanobacteria)が細胞内で生産する猛毒成分である。即ち、本邦の死亡例も、オゴノリに該当アプリシアトキシンを生成蓄積した藍藻がたまたま付着しており、オゴノリと一緒に摂取してしまった、とも考えられるのである以上、本種の種がアプリシアトキシン中毒例のあるオゴノリ属に含まれるかも知れない(そうでなくても「たまたま付着」は同種である条件を必要としない)、ハワイ産種に切り替えられた点と合わせて、別に、本種への安全神話がやや揺らいでくる観は否めない気はするのである。

「龍鬚菜(シラモ)」通常の漢字表記は「白藻」であるが、先の鈴木氏の記載にも『龍髭菜』とあるので、現在でも生きている。

「王氏彙苑」「彙書詳註」の別題。全三十六巻。恐らくは、明代の政治家で学者であった王世貞(一五二六年~一五九〇年)の著になる類書ではないかと思われる。

「繒(きぬいと)」(音「ソウ・ショウ」)圧織りの絹布。また、広く絹織物の総称。

「居人」そこに住む土着の民の謂いか。

「若水〔(じやくすい)〕」医師・本草学者・儒学者であった稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)のことか。「若水」は号。益軒より二十五歳も年少であるが、没しているのは益軒死去の翌年である。ウィキの「稲生若水によれば、『父は淀藩の御典医稲生恒軒、本名は稲生正治。江戸の淀藩の屋敷で若水は生まれた』。『医学を父から学んだ。その後、本草学を大坂の本草学者福山徳潤に学び、京都の儒学者伊藤仁斎から古義学派の儒学を学んだ』。『元禄のころになると、彼の学識は広く知られるところとなり、学問、教育に熱心であった加賀金沢藩主前田綱紀も彼の名声を知り』、元禄六(一六九三)年に『彼を儒者として召抱えられることとなった』。『その際、彼は姓を中国風の一字で稲と称した。前田綱紀に「物類考」の編纂を申し出て採用され、当時における本草学のバイブルであった「本草綱目」を補う博物書である「庶物類纂」の編纂の下命を得た。そのため、彼は隔年詰』(づめ)『という』、『一年おきに金沢で出仕する特別待遇を与えられた。彼はその知遇に応えるべく』、『京都で研究に努め、支那の典籍』百七十四『種に記載されている動植物関係の記述を広く収集し、統合や整理、分類を施して』、元禄一〇(一六九七)年に『執筆を始め』三百六十二巻を書き上げて、『京都の北大路の家で死去した』。『後に八代将軍徳川吉宗の下命で、若水の子、稲生新助や弟子の丹羽正伯らが』六百三十八『巻を書き上げて、計』一千『巻にわたる大著が完成した。稲生若水は漢方、薬物などを中心とした本草学に、動植物全体を対象とする博物学への方向性を備えさせたといえる』とある。益軒は実は壮年の頃に京に遊学しただけで、その生涯の殆んどを福岡藩で送った。従って、この話も若水から書簡で得た情報であろうと推定される。

「ソウナ」「惣菜」ではあまりに芸がない。海藻で惣菜に使い勝手のよい「藻菜」ぐらいにしておこう。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(42) 佛敎の渡來(Ⅴ) / 佛敎の渡來~了

 

 一方、人民は何れの信條によつてその祖先を禮拜するも自由であつた。そして若し大多數の人が佛敎祭典を選んだとすれば、その選擇は佛敎が祖先祭祀に與へた特殊な情味ある魅力から來たものである。細目に至る事以外には、この兩祭式は殆ど異つたものではなかつた。而して古い孝順の思想と、新しい祖先禮拜と一緖になつた佛敎の思想との間には、何等の爭ひもなかつたのである。佛敎は、死者も讀經に依つて救はれ幸福になり得る、そして亡靈の慰めは多く食物供養に依つて獲られると敎へた。亡靈には酒や肉を供へてはならなかつた。併し果物や、米や、菓子や、花や、香を以て、それを悅ばす事は至當な事であつた。その他、極めて粗末な供物でも、讀經の力で、天の神酒や美味に變はらせられた。併し特にこの新しい祖先祭祀が、一般に氣受け[やぶちゃん注:「きうけ」。「受け」に同じ。世間の人がそれに接した際に抱く気持ち。評判。]の良かつた所以のものは、それが古い祭祀の式には見られなかつた多くの美しい、心に感銘を與へるやうな慣習を包有してゐたと云ふ事實に依るのであつた。到る處で人々は直に死者の年每の訪れのために百八つの迎へ火を焚く事を知つた、藁で作つた、若しくは野菜などから作つた小さな人形を、靈に供へ、それで牛や馬の役をさせる事を知つた【註一】――又先祖の靈魂が海を越え冥土へ還るための亡靈の船(精靈船[やぶちゃん注:「しやうりやうぶね」。])を作る事を覺えた。それから又盆踊り、則ち死者の祭の踊りや、墓に白い提燈を懸け、家の門には彩つた提燈をつけ、訪れて來た死者の行きに歸りを照らすといふ習慣が作られた。

註一 茄子に木の切れを四本つけて足の形としたものが通例牛を表はし、同樣に胡瓜に足をつけたのが馬とされる……。人は昔ギリシヤで犧牲[やぶちゃん注:「いけにへ」。]をする場合、異樣な動物の代用物の用ひられた事を思ひ起す。則ちセベスに於けるアポロの禮拜の際、足や角をあらはすため、木切れをさした林檎が羊に代用されて供物とされた事がある。

註二 舞踊そのもの――見て極めて不思議に又面白い――は佛敎よりも遙かに古いものである。併し佛敎はそれを今述べた三日間續く祭の一つの附屬物とした。盆踊りを見た事のない人は日本の踊りの何を意味するかといふ事を了解し得ない、日本の踊りは通例云ふ踊りとは全然異つたものである、――何とも名狀しがたい古風な變なしかも面白いものである。私は踊り通す農夫を終夜[やぶちゃん注:「よもすがら」と訓じたい。]見て居た事が幾度もある。斷わつて置くが日本の踊り子は踊りはしない、只だ身體の姿勢をかへるのみである。併し百姓は踊るのである。

[やぶちゃん注:最後の「註」二つは、底本では、四字下げポイント落ちである。

「死者の年每の訪れのために百八つの迎へ火を焚く事を知つた」旧盆行事の一つである「百八燈(ひゃくはっとう)行事」。最も知られているのは、重要無形民俗文化財指定されている埼玉県児玉郡美里町(みさとまち)猪俣の堂前山(どうぜんやま)の尾根で行われる「猪俣百八燈」であろう。

「セベス」原文“Thebes”で、これは古代ギリシアにあったポリス(都市国家)の一つで、現在の中央ギリシャ地方ヴィオティア県の県都ティーヴァに当たる「テーバイ」(ラテン文字転写:Thēbai)のこと。ウィキの「テーバイ」によれば、アテナイやスパルタと覇権を争った最有力の都市国家の一つで、精鋭を謳われた「神聖隊」の活躍も知られ、ギリシャ神話では「七つの門のテーバイ」として名高く、オイディプス伝説などの舞台となっている。位置はリンク先を参照されたい。

「盆踊り」「佛敎よりも遙かに古いもの」小学館「日本大百科全書」の「盆踊り」を引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、下線・太字は私が引いた)。『盆に踊る民俗芸能。祖霊、精霊を慰め、死者の世界にふたたび送り返すことを主眼とし、村落共同体の老若男女が盆踊り唄(うた)にのって集団で踊る。手踊、扇踊などあるが、歌は音頭取りがうたい、踊り手がはやす。太鼓、それに三味線、笛が加わることもある。古く日本人は旧暦の正月と七月は他界のものが来臨するときと考えた。正月は「ホトホト」「カセドリ」などいわゆる小(こ)正月の訪問者がこの世を祝福に訪れ、七月は祖霊が訪れるものとした。盆棚で祖霊を歓待したのち、無縁の精霊にもすそ分けの施しをし、子孫やこの世の人とともに楽しく踊ってあの世に帰ってもらうのである。こうした日本固有の精霊観に、仏教の盂蘭盆会』『が習合してより強固な年中行事に成長した。盆に念仏踊を踊る例もあるが、念仏踊は死者の成仏祈願に主眼があり、一般に盆踊りとは別個の認識にたつ』。『十五世紀初頭に伏見』『の即成院や』、『所々で踊ったという盆の「念仏躍(ねんぶつおどり)」「念仏拍物(ねんぶつはやしもの)」』(「看聞御記(かんもんぎょき)」の記載に拠る)『は、まだ』、『後の盆踊りというより』、『念仏の風流(ふりゅう)』(平安末期から中世にかけて流行した、祭礼などの際に行われる華やかな衣装の群舞や邌(ね)り物を主体とした芸能)『の色彩が濃いものであったが、同世紀末に昼は新薬師寺、夜は不空院の辻(つじ)で踊られたという「盆ノヲドリ」』(「春日権神主師淳記(かすがごんかんぬししじんき)」に拠る)『は盆踊りの色彩を強めたものであったろう。盆踊りはそのほか』、『伊勢(いせ)踊なども習合することになったらしいが、にぎやかで華やかな踊りで、異類異形の扮装(ふんそう)をしたとあり、まさに風流(ふりゅう)振りである。十六世紀中』頃『には小歌(こうた)風の盆踊り唄がつくられていた』(「蜷川家御状引付(にながわけごじょうひきつけ)」に拠る)。『江戸時代以降』、『いよいよ盛んになり、全国的にそれぞれの郷土色を発揮して、いまに行われている』。今日みる異類異形の盆踊りには、鳥獣類の仮装はなく、秋田県の「西馬音内(にしもない)盆踊」のひこさ頭巾(ずきん)(彦佐頭巾、彦三頭巾とも書く)のように』、『覆面姿が多い。これは亡者の姿といい、また佐渡の「真野(まの)盆踊」のように石の地蔵を背負って踊るものもあり、人と精霊がともに踊ることに意義をみることができる。長野県阿南(あなん)町の「新野(にいの)盆踊」では、最終日に村境まで群行して踊って行き、そこで新盆(にいぼん)の家の切子灯籠(きりこどうろう)を燃やし、鉄砲を撃って踊り』、『神送りをする。精霊鎮送の形がよくわかるが、道を踊り流して歩く形は』『、徳島市の「阿波(あわ)踊」にもよく表れている。新盆の家々を回って踊る例もある』。『八重山』『列島では「盆のアンガマ」といって、老人姿の精霊仮装が出る』とある。なお、私の注附きの『小泉八雲 落合貞三郞譯 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊』((最後の二回は合わせてある)を是非、読まれたい。小泉八雲の盆踊り初体験の幻想的感動がよく伝わってくる絶品である。]

 

 併し佛敎の國民に對する最大の價値は恐らくその敎育にあつた。由來神官は敎育者ではなかつた。古い時代にあつては、彼等は多く貴族、則ち氏族の宗敎上の代表者であつた、故に平民を敎育するなどと云ふ觀念(かんがへ)は彼等には起りもしなかつたのである。然るに佛敎は萬人に對して敎育の利福を與へた――ただに宗敎上の敎育のみならず、支那の藝術や學問についての敎育を與へた。寺院はやがて普通の學校となり、若しくは學校が寺院に附屬して出來た、而してそれぞれ管內の寺で村の子供達は、ほんの名計りの費用で、佛敎の敎義、漢字の知識、手習ひ、繪畫、その他いろいろな事を敎へられた。次第に次第に殆ど全國民の敎育が佛敎の僧侶の支配の下に置かれるやうになつた、そしてその道德上の効果は立派なものであつたのである。武人階級にとつては、素より別に特殊の敎育法が存してゐたのであるが、併しさむらいの學者は、有名な佛敎の僧侶の下にあつてその知識を完うする事を力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]。又皇室そのものが僧侶の侍講[やぶちゃん注:「じこう」。皇帝や主君に対して学問を講じること。また、その人。]を聘用した。通常の人民にとつては、到る處で佛敎の僧が學校の先生であつた、そしてその宗敎上の役目のためからと共に、敎師としてのその職業のために、佛僧はさむらいと同格に置かれたのであつた。日本人の性格に、その最も良い處として殘つてゐるものの多くは――その人を惹きつける優雅な點は―佛敎の訓練の下に發達したものと考へられる。

 佛敎の僧がその敎師としての公務に加へて、公共の戶籍吏たる公務を行つたといふ事は、極めて自然な事であつた。所領奉還の時迄、佛敎の僧は國中に宗敎上竝びに公務上の役人をして居た。彼等は村の記錄簿を預り、必要に應じて、出生、死亡、或は系圖の證明書を交付したのである。

[やぶちゃん注:「所領奉還」原文は“disendowment”。これは「(教会や学校などの持つ)基本財産を没収する・基金を取り上げる」の意である。平井呈一氏は『寺領返上』と訳しておられるが、ピンとこない。江戸時代を通じて、「宗門人別改帳」は現在の戸籍原簿や租税台帳であった。改帳の作成自体は町村毎に名主・庄屋・町年寄が行うことになっていたが、そこには檀徒として属する寺院名が記載されており、これはその寺院がそれが正しいこと証明している点で、その寺が公的な準役人として機能していたことは明白である。さすれば、ここで八雲が言っているのは、そうした戸籍制度が維新によって「寺→藩→幕府」という戸籍の流れが廃されたこと、明治新政府が政治改革の一環として行った、全国の藩が、その所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した「版籍奉還」(明治二年六月十七日(一八六九年七月二十五日勅許)のことを言っているのではるまいか?

 以下、一行空け。] 

 

 佛敎が日本に及ぼした夥しい文化の影響について少しでも正常な考を獲ん[やぶちゃん注:「えん」。得よう。]とする人には、恐らく非常に澤山の書册を要するであらう。唯一般的な事實を述べてその影響の諸〻の結果を槪說するのさへ、殆ど不可能である――何故とならば槪要の敍述では、爲し遂げられたその仕事の全體の眞相を明らかにし得ないからである。道德上の力として佛敎は、その力に依り、もつと古い宗敎が作り得たよりも、遙かに大きな希望と恐怖とを起さして、權威にさらに力を與へ、服從といふ事に人を教養したのである。教師として、それは倫理上に於いても審美上に於いても、日本人の最高のものから最下賤のもの迄を敎育した。日本に於いて藝術といふ名の下に類別されるものは凡て、佛敎に依つて移植れたか又は發達せしめられたものであつた、又神道の祝詞や古詩の斷片を除けば、眞に文學上の價値を有つて居る殆どあらゆる日本文學についても、同樣な事が云はれ得るのである。佛敎は戲曲、詩的作物及び小說、歷史、哲學の高尙なるものを傳へた。日本人の生活の精華はすべて、佛敎の傳へたもので、少くともその娯樂慰安の大部分はさうであつた。今日でさへ、この國で出來たものの內、興味ある物、又は美しい物にして、幾分でも佛敎の力に負ふ處のないものは殆どないのである。恐らくこの恩惠の過程を述べる最善にして又最短の方法は、佛敎に支那文化を全部日本に齎した、そして後にそれを日本人の要求に合ふやうに氣長に作り變へて行つたのであると言へば足りるであらう。この古い文化は日本の社會構造の上に只だ重ねられた計りでなく、うまくそれに適合せしめられ、完全にそれに結合させられたので、その繼ぎ目、接合線は、殆ど全く跡形[やぶちゃん注:「あとかた」。]を失つたのである。

 

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(41) 佛敎の渡來(Ⅳ)

 

 衆生に涅槃を說く代りに、慈悲の得らるべき事と苦難の避けらるべき事、則ち無量光明の王たる阿彌陀の樂土と、等活と稱する八熱地獄、頞部陀(アブダ)といふ八寒地獄の事を人々に說いたのである。未來の罰に就いての敎へは實に恐ろしいものであつた、私は弱い優しい神經の人にはこの日本の、否、寧ろ支那の地獄に就いての話說を讀む事をすすめたくない。併し地獄は極度な惡るいものに對してのみの罰であつて、罰は永遠のものでもなく、惡魔そのものも終には[やぶちゃん注:「つひには」。]救はれるのであつた……。天國は善行の報いであつた、如何にもこの報いはいつまでも殘るの爲めに、幾多のつぎつぎの再生を過ぎ通つて行く間延ばされて居るかも知れない、が併し又一方に、その報いは唯一つの善行に依つて、現世に於て獲られるかも知れないのであつた。その他、この最高の報いの時期に達せざる以前にあつて、つぎつぎの再生每に、その生は聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]道に於ける絕えざる努力に依つて、その前の生よりも幸福にされ得たのである。この有爲轉變の世の中に於ける狀態に關してさへ、德行の諸〻の結果は決して無視すべからざるものであつた。今日の乞食も明日は大名の御殿に生まれ代るかもしれず、盲目の按摩も、その次の世では、一國の大臣になるかも知れないのである。報償はいつも功績の量に比例してゐるのであつた。この下界に於て最高の德を行ふのは困難なことであつた、從つて大なる報いを獲る事は難いことであつた。併しあらゆる善行に對して報償は確にあるものであり、而も功績を得られないといふ人は、一人もないのであつた。

 神道の良心に關する敎義――正邪に關する神與の觀念――をさへ佛敎は否定はしなかつた。併しこの良心は、各人の心の内に眠つて居る佛陀の本來の智慧と解せられた――その智慧なるものは無智に依つて暗くされ、欲望のために塞がれ、のために縛られてゐるのであるが、いづれは十分に醒まされ、且つ光明を以て心を溢れさす運命になつて居るものである。

[やぶちゃん注:太字(「業」)は底本では傍点「﹅」。以下、煩瑣なので、最後まで、原則、この注は省略する

「等活と稱する八熱地獄」これは「倶舎論」「大智度論」等の古代インドの仏典に出はするが、釈迦自身は、地獄の具体性については述べておらず(永く続く闇の世界とはするようである)、バラエティに富んだ地獄思想は主に中国で形成された。「等活と稱する八熱地獄」と八雲は「等活」を「八熱(はちねつ)地獄」の別称として述べているが、これは誤りで、等活地獄は八熱(大)地獄の一つである。パーリ語経典の「長部」(ディーガ・ニカーヤ)に相当する「長阿含経(じょうあごんきょう」によれば、八熱地獄は「想地獄」を第一の地獄として、以下、順に「黒繩(こくじょう)地獄」・「堆圧地獄」・「叫喚地獄」・「大叫喚地獄」・「焼炙(しょうしゃ)地獄」・「大焼炙地獄」とあって最後に「無間地獄」の命数となっているものの、その具体的な内容は記されていない。現行では、この最初の「想地獄」が「等活地獄」とされ、殺生の罪を犯した者が墜ちる地獄とされる。後に形成された八熱(大)地獄の具体的内容はウィキの「八大地獄」を参照されたい。

「頞部陀(アブダ)といふ八寒地獄」八寒地獄(はちかん(はっかん)じごく)は上記の「八熱地獄」とは別に対存在(灼熱の総体地獄に相対化された寒冷に責め苦しめられる八種の氷の地獄)する地獄とされるが、現在ではマイナーである(以下に見る通り、サンスクリット語の漢訳が変化していないことからもそれが窺われる)。ここも八雲の言い方は間違いで、「頞部陀(アブダ)」は「八寒地獄」の異名ではなく、その第一の地獄で、以下、順に「尼剌部陀(にらぶだ)地獄」・「頞唽吒(あせった)地獄・臛臛婆(かかば)地獄・虎虎婆(ここば)地獄・嗢鉢羅(うばら)地獄・鉢特摩(はどま)地獄」・「摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄」があるとされ、これらは八熱地獄のそばにあるとする。具体的内容はやはり、ウィキの「八大地獄」の参考部の「八寒地獄」を参照されたい

 以下、一行空け。] 

 

 あらゆる生物に對し親切なるべき義務と、あらゆる受難に對して憫みを盡つべき義務とに就いての佛の敎は、その新宗敎が世間一般から受納される前に、すでに國民の慣習風俗の土に强大な功果を及ぼしたと考へられる。早くすでに六七五年に、天武天皇に依つて一つの訓令が發布された、それは人民に、『牛や、馬や、犬や、猿や、家禽類の肉』を食ふ事を禁じ、又獲物を捕へるに係蹄[やぶちゃん注:「けいてい」。罠。「わな」と訓じてもよい。]を用ひ、陷穽[やぶちゃん注:「かんせい」。落とし穴のこと。「おとしあな」と訓じてもよい。]作ることを禁じたものであつた【註】。あらゆる種類の肉を禁じなかつたと云ふ事は、この天皇が兩方の信仰を保持するに熱心であつた事に依つて恐らく說明されよう、――蓋し絕對の禁制は神道の慣例を破るものであり、正に神道の傳統と相容れないことであつたらう。併し魚は普通の人の食品の一つとして用ひられて居たとしても、この頃から國民の大部分は、その食事の古い習慣をやめて、佛敎の敎に從ひ、肉食を斷つたと云つて然るべきであらう……この敎へはあらゆる生あるものはみな、一に歸すといふ敎義にその基礎を置いて居るものであつた。佛教はあらゆるこの世の事象をの教義に依つて説明した――その義を一般世人の了解に適應するやうに簡單にして。あらゆる種類の動物は――鳥類も、爬蟲類も、哺乳類も、昆蟲類も、魚類も――のそれぞれ異つた結果を表はしてゐるに過ぎないとしたのである。これ等一々のものの魂魄の生活は一つであり同じものであり、最下等の動物にも、神性のいくらかの片影は存在してゐたのである。蛙も蛇も、鳥も蝙蝠も、牛も馬も、――あらゆるものは何時か過去に於ては人間の(恐らくは又超人間のであるかも知れぬが)形をもつ特權を有つて[やぶちゃん注:「もつて」。]ゐたのであつた。彼等の現在の狀態は昔の過失の結果に過ぎなかつたのである。又如何なる人と雖も、同樣な過失のため、後には口のきけない禽獸の狀態に堕とされるかもしれないのである――爬蟲類か、魚類か、鳥類か、又は荷を負ふ獸類として生まれかはるかも知れないのである、。如何なる動物でも、それを酷使した結果は、その酷使者が同じ獸類となつて再生するやうになり、同じ殘酷な扱ひを受けるやうになるかも知れない。突かれたり剌されたりする牛や、鞭うたれたりする馬や、或は殺される鳥が、以前は近親の一人――祖先か、親か、兄弟か、姉妹か、或は子供でなかつたとは、誰れが斷言出來たであらう。

[やぶちゃん注:「六七五年に、天武天皇に依つて一つの訓令が發布された」天武天皇四年四月十七日(ユリウス暦五月十六日)に発布された、狩猟の規制、及び、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁ずる詔(みことのり)を指す。「日本書紀」原文(巻第二十九の天武天皇四年四月庚寅(かのえとら)の条)は以下。

   *

庚寅。詔諸國曰。自今以後。制諸漁獵者。莫造檻穽及施機槍等之類。亦四月朔以後。九月卅日以前。莫置比滿沙伎理梁。且莫食牛・馬・犬・猿・鷄之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。

(庚寅。諸國に詔(せう)して曰はく、「今より以後、諸(もろもろ)の漁(すなど)り獵りする者を制(いさ)め、檻(おり)・穽(ししあな)造り、及び機槍(ふみはなち)[やぶちゃん注:動物が踏むと、自動的に矢や槍が放たれる機械仕掛けの罠。]等の類ひ、施(お)くこと莫(な)かれ。亦、四月朔(ついたち)以後、九月三十日以前、比滿沙伎理梁(ひまさきりのやな)[やぶちゃん注:よく判らないが、これ全体で一般名詞で、後の網代(あじろ)式の、川の中に足場を組み、木や竹で簀子状の台を作って、魚介類を自動的に一網打尽式に多量に生捕)いけど)る仕掛けを指すものと思われる。]を置くこと莫かれ。且つ、牛・馬・犬・猿・鷄(にはとり)の宍(しし)を食ふこと莫かれ。以-外(ほか)は禁-例(かぎり)に在らず。若し、犯す者有らば、之れを罪(つみ)せむ。)

   *

 この後、何故か、註との間が一行空けになっている。注の後は、なっていない。版組の誤りと採り、註の後も一行空けた。]

 

註 アストン氏『日本紀』の飜譯第二卷三二八頁參照

 

 これ等の事は凡て言葉でのみ敎へられたのではなかつた。神道は何等の藝術をも有つては居なかつたと云ふことを記憶して置かなければならない、則ちその拜殿は、閑寂であり裝飾一つないものであつた、然るに佛敎はそれと一緒に彫刻とか繪畫とか裝飾とかのあらゆる藝術を齎した。黃金の中に微笑む菩薩の御像――佛敎の極樂の保護者[やぶちゃん注:梵天・帝釈天・吉祥天・弁才天といった天部の護法神。]、又地獄の審判者、女性の天使[やぶちゃん注:広義の中国の神仙思想由来の天女、或いは、諸仏の周囲を飛行遊泳して礼讃する飛天。]及び恐ろしい鬼神の姿等は未だ何等の藝術と云ふもののに馴れてゐなかつた人々の想像を驚かせたに違ひなかつた。寺院に懸けられてある大きな繪畫、その壁や天井を彩る大壁畫は、言葉でするよりも以上によく六生の敎へや、未來の賞罰の敎理を說明した。竝べて懸けられてある懸物の中には、靈魂の審判の王國への旅に於ける色々な事件や、種々雜多な地獄のあらゆる恐ろしいことが描かれてあつた。或る者は、何年も何年もの間血の滴る手でもつて、死の泉の邊[やぶちゃん注:「ほとり」。]に生えて居るきざきざした[やぶちゃん注:ママ。]竹の笹葉をむしり取つてゐなければならぬ不貞な妻の亡魂を描き、或る者は人を誹謗したものが、惡魔の釘拔きで舌を拔かれて苦しんでゐる樣を描き、又或る者は色慾の强い男が、火の女の抱擁から逃れんとしてもがき、又は剱の山の急阪を、狂亂して攀ぢ登らうとしてゐる樣を描いたのであつた。その他、餓鬼の世界の種々な圈內の有樣や、饑ゑたる亡魂の苦しみや、又爬蟲類や、獸類の形に生まれ代つたものの苦痛やが描かれてあつた。而もこの初期の繪畫の藝術は――その多くは今尙ほ保存されてゐるが――決して下級な藝術品ではなかつた。吾吾は、閻魔(Yama)則ち死者の審判者の顰蹙した眞紅の顏――又はすべての人にその生涯に於ける非行を反映さして見せると云ふ不思議な鏡[やぶちゃん注:浄玻璃(じょうはり)の鏡。]の幻影――又は『見る目』といふ婦人の容貌を表はして、審判席の前にゐる兩面に顏のある首の恐ろしい想像、又惡事のあらゆる臭ひを嗅ぎ分けると云ふ『嗅ぐ鼻』と云ふ男の幻等が、さういふ事に馴れて居ない人の想像に及ぼした効果の、どんなものであつたかは殆ど考へる事は出來ない……。親としての情愛は、描かれて居た子供の亡靈の世界の說話に深く動かされたに違ひない――その小さな亡靈は、鬼の監督の下に、靈の河の磧で苦難を嘗めなけばならないのである……。然しこの描かれた恐怖と竝んで、一方には慰安が描かれてあつた、――慈悲の白い女神なる觀音の美しい姿――幼見の亡靈の友である地藏の慈愛深い微笑――光彩陸璃[やぶちゃん注:ママ。「陸離(りくり)」の誤り。美しく光りきらめくさま。]たる虹色の翼を以て飛躍する天津乙女の魅力などがそれであつた。佛畫を描いた人は、單純な想像力の人に、天の宮殿を開き、又人の希望を、寶玉の樹の園を通つて、天福を享受した魂が、蓮の花の內に再生し、天使達にかしづかれでゐる湖水の岸に迄も導いたのである。

[やぶちゃん注:「閻魔(Yama)」閻魔は仏教・ヒンドゥー教などに於ける地獄・冥界の主とされる存在で、サンスクリット語、及び、パーリ語の「ヤマ」の漢音写。「ヤマ」は「縛」「雙世」「平等」などと和訳され、「縛」ならば「罪人を捕縛する」の意、「雙世」は「苦楽の二つの報い」の意、「平等」は「罪人を平等に裁く」との意と、ウィキの「閻魔」はある。

「『見る目』といふ婦人の容貌を表はして、審判席の前にゐる兩面に顏のある首の恐ろしい想像、又惡事のあらゆる臭ひを嗅ぎ分けると云ふ『嗅ぐ鼻』と云ふ男の幻」これは「見る目嗅ぐ鼻」と実際に呼ばれる、先の「浄玻璃の鏡」と並んで、地獄の閻魔庁にあるアイテムとしてよく知られる「人頭杖(じんとうじょう)」或いは「人頭幢(にんずどう)」と呼ばれるものを、分割して解説してしまったものである。幢(はたほこ)の上の皿に男女の首をのせたもので、亡者の善悪を判断するとされる。私の偏愛する円応寺の鎌倉国宝館寄託のそれをご覧あれ(リンク先画像は個人サイト「日本初の禅専門道場~鎌倉:建長寺~」内のもの)。私の記憶する限りでは、実は、この女の首の方が亡者の生前の★悪事を総て語り、三つ目の憤怒相の天部の神めいた恐ろしい男の首の方が、却って亡者の数少ない★善行を語るはずである。] 

 更に又、神道ののやうな簡素な建築物に馴れてゐた人々にとつて、佛敎の僧に依つて建てられたこの新しい寺院は、幾多の驚異であつたに相違ない。巨大な立派に守られた壯大な支那式の門、銅や石の唐獅子や燈籠、振り棒で鳴らされる巨大な吊鐘、廣い屋根の蛇腹の下に群がる龍の形、佛壇の目を射るやうな光彩、讀經や。燒香や、異樣な支那樂と共に行はれる儀式――それ等は歡喜と畏敬の念と共に、人々の好奇の念を煽らずには居なかつた。日本に在る初期の佛閣が、今尙ほ西歐人の眼にさへ、最も感銘を與へるものであると云ふのは注意に値する事である。大阪に在る四天王寺――それは一度ならず建て直されたものであるがなほ原型を止めてゐる――は紀元六〇〇年來のものである、が、奈良の近くに在る法隆寺と云ふ、更に著名な寺院は六〇七年頃の建立である。

[やぶちゃん注:「廣い屋根の蛇腹」この前後部分は原文では“the swarming of dragon-shapes under the eaves of the vast roofs”である。但し、戸川の「蛇腹」は変な用法ではなく、建物の軒や壁の最上部などに帯状に巡らした、刳形(くりかた)のある突出部分を指す日本建築の正しい用語で、「胴蛇腹」「軒蛇腹」などがあるが、素人には、よく判らない。平井呈一氏は『切妻』と訳しておられるのだが、これも切妻に限定してしまうと、私にはピンとこない。ここ(「屋根の蛇腹」「切妻」)は「軒下」とした方が、今の我々には通りがいいのではないか? 所謂、軒の一番奥の上の角、建物の垂木(たるき)の端が突き出た部分(隅尾垂木(すみおだるき))や尾肘木(おひじき)等に施された、龍の立体的な彫刻物を指している、と私には、読めるからである。

「四天王寺」聖徳太子の建立した七大寺の一つとされる荒陵山(あらはかさん)四天王寺は、「日本書紀」によるならば、推古天皇元(五九三)年に造立が開始されたことになっている。

「法隆寺」「六〇七年頃の建立」同じく聖徳太子七大寺の筆頭とされる本寺(斑鳩寺(いかるがじ)とも呼ぶ)は、「日本書紀」によるならば、厩戸皇子(聖徳太子)が推古九(六〇一)年に飛鳥から、この地に移ることを決意、宮室の建造に着手し、推古一三(六〇五)年にその「斑鳩宮」に移り住んだとし、現行では一応、寺自体は推古一五(六〇七)年の建立とされるが、種々の疑問点があり、建造はこれよりも後の七世紀後半以降と考えられている。]

 勿論、有名な繪畫や大きな彫像は寺院にだけしか見られなかつた。併し佛師達はやがて最も邊鄙の場處に迄佛陀や菩薩の石像を置くに至つた。かくして始めて、今尙ほ路傍の到る所から旅人に微笑みかけてゐる地藏の像が出來た――又その三匹の表象的な猿と共に公道の保護者である庚申の像――それから百姓の馬を保護する馬頭觀音の像――その他粗笨[やぶちゃん注:「そほん」。大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。]ではあるが印象深きその技術の中に、尙ほ印度の起原を想はせるやうな幾多の像が作られたのである。次第に墓場は夢みるやうな佛陀や菩薩――石の蓮華の上に坐し、眼を閉ぢて崇高なる靜寂の微笑をたたへてゐる聖なる死者の守護者――で以て群がるやうになつた。都會は到る處、佛彫師が店を開き、各種の佛敎宗派の禮拜する本尊の像を敬虔な家庭に備へ附けた。そして位牌、則ち佛敎に於ける死者の標[やぶちゃん注:「しるし」或いは「しるべ」。]なる板牌の製造人は、神棚の製造人等と同じく、その數を增し繁昌したのである。

[やぶちゃん注:「その三匹の表象的な猿と共に公道の保護者である庚申の像」庚申塔のことであるが、「公道の保護者である」とするのは後に、道教由来の唐渡りの庚申信仰とは全く異なる、それ以前からあった「塞ノ神(さいのかみ)」信仰や、豊穣を祈る原型が性神化し、それが道途の地神(ちがみ)となり、道祖神信仰として混淆集合した結果であって、庚申信仰自体には、道や旅人を守るという属性は、ないので、ハーンの誤りである

 以下、一行空け。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(40) 佛敎の渡來(Ⅲ)

 

 佛敎の敎が特に魅力ある所以のものは、その簡單にして巧みな自然に就いての解釋である。神道が嘗て說明せんとしや事もなく、又說明し得なかつた無數の事柄を、佛敎は微細に而も一見矛盾のないやうに解說したのである。 その出生、生命、竝びに死の神祕に關する幾多の說明は、直に純なる心の慰安となり、よく惡念に對する非難となるのであつた。それは、死者が幸福であるか不幸であるかは、生者が死者に對して注意するか、しないかに直接由るのではなく、死者が現世に在る時の過去の行ひに由るのであると敎へた【註】。それは相次いでの再生に關する高い敎義を敎へんとはしなかつた――人々は到底それを理解する事は出來なかつた――只だそれは何人でも理解し得た輪𢌞の簡單な表象的な協議を敎ヘんとしたのみである。死ぬと云ふ事は、自然に融け戾つて終ふ[やぶちゃん注:「しまふ」。]事ではなく、再び他に生を享ける事であつた。この新しい肉體の性質は、その新しい存在の諸條件と共に、現在のこの身體に於けるその人の行ひや考への性質によるのである。あらゆる存在の狀態や事情は悉く過去の行爲の結果なのである。或る男は今や富貴であり威勢をもつて居る。何故ならば前世に於てその男は寬容であり慈愛に富んでゐたからである。又或る男は病を獲[やぶちゃん注:「え」。]、貧困である。何故ならば前世で、その男は肉慾に耽り、利己的であつたからである。或る女はその夫や子供等と共に幸福に暮らして居る。何故ならばその女は以前の生涯の時、愛らしい娘であり、貞淑な配偶者であつたからである。又一人の女は難儀をし子供がない。何故ならばその女は前世で嫉妬深い妻であり殘酷な母であつたからである。『汝の敵を憎むことは、愚な事であると共に誤れる事である。汝の敵に、汝が汝の友たらんと欲した前世に於いて、汝が彼に加へた奸計のためにのみ、今や汝の敵たるのである。汝の敵が今汝に加ふる危害に身を任せよ。それを汝の過去の過誤の償ひとして受けよ……。汝が娶らんと欲した乙女を彼女の兩親が拒んだとせよ、――他人に與へられたとせよ 併し、他生に於て、何時かは、彼女は約束に依つて汝のものたるべし、而して前に與へた契約を破り得るのである……。汝の子供を失ふ事は苦しい事に相違ない。併しその喪失は前世に於て、汝が同情を與ふべき場合に、それを拒んだ報いなのである……。災變に遇つて身を害ひ[やぶちゃん注:「そこなひ」。]、汝は最早以前の如く汝の生活の道を得られない。而もこの不幸たるや、正しく前世に於て、何時か汝が思ふままに肉體上の危害を、人に加へたと云ふ事實によるのである。今や汝自身の行ひの惡が汝に返つて來たのである。汝の罪を悔いよ、而してその業の現在の苦行に依つて償はれん事を祈れ』と佛敎の僧は敎へる……。かくの如くして人間のあらゆる悲哀は說明され慰められた。生命は、無限の旅、――その路の後方は過去の闇夜に、その前方は未來の神祕の中に延びてゐる――その無限の旅の一階段を示すものとしてのみ說明せられた、――忘れられたる永劫から、今後に存在すべき永劫に迄延びてゐる路の一階段である。そして世界それ自身が一旅客の休み場、路傍の一旅宿として考へられるのみであつた。

註 疑ひもなく讀者はどうして佛敎がつぎつぎの再生の教を祖先禮拜の思想と妥協させ得たかを怪むであらう。人の死ぬのはその再生のためだとすれば、その再生する靈に供物を捧げ、祈禱をする必要が何處にあらう。この疑問に對するに、死者は大抵直に再生するのではなく、先づと宙宇[やぶちゃん注:ママ。後注を必ず参照されたい。]と稱する特殊の狀態に入るので、死者は百年間この無形の狀態にとどまり、その後に再生するのであると彼等は敎へた。死者に對する佛敎の奉仕はそれ故百年に限られて居た。

[やぶちゃん注:この原注(底本では三字下げでポイント落ち)は、輪廻転生するための期間を「百年」としたりしていて、本邦独自に広汎に定着している四十九日という今の我々の感覚からすると、非常な違和感を覚えるのであるが、仏教の伝播過程や宗派によって、この期間は本来は異なっており、考えてみれば、現実世界の時間と冥界での時間の経過は全く異なっているのであるからして、そこは問題としないでよいとも思う(しかし、百年はやはり永過ぎる。私がそういう理由は、著名人でない限り、血統宜しき、或いは、家系興隆の者でもなければ、百年も後裔が仏事を営んで供養し続けることなど、不可能だからである。永代供養と宣伝しているのに騙されてはいけない。連絡がとれなくなれば、十数年でも瞬く間に合葬されてしまい、個人としての供養は行われなくなる。墳墓も連絡不達告知広告が成され、あっという間に平地となって、新墓地として売りに出される。核家族化・少子化が進行した現今、墓地管理は被葬者にとっては切実な風前の灯状態なのである。因みに、私は無宗教で献体もしており、自己の墳墓を持たないから、何ら、それを不安に思わぬ)。しかし、実は戸川の訳(漢字表記)に問題があって、本文中の『宙宇』は「中有」のこととしか読めないのだが、こんな表記は少なくとも私は知らない。「宙宇」という言葉がないではない。例えば、私が知っているのは宮澤賢治が晩年(彼は昭和八(一九三三)年没)の昭和二(一九二七)年に出身校である『盛岡中學校校友會雜誌』から寄稿を求められて書き始めたものの、遂に完成に至らず、その稿が残された「一九二七年に於ける盛岡中學校生徒諸君に寄せる」の中に出る。筑摩書房旧校本全集第六巻で『断章六』とする部分の中間の一行で、『宙宇は絶えずわれらに依つて変化する』という表現がある。しかし、これは賢治特有の詩語(或いは彼独自の宇宙間言語)としての変容を受けた「宇宙」の意味として、躓かずに読めるし、ここの使用ケースとは全く異なる(なお、脱線になるが、これは賢治の没後かなり経ってから発見され、戦後の昭和二一(一九四六)年四月号『朝日評論』で初めて公開されたものであるが(公開時の原画像が、私が毎週巡回を欠かさない渡辺宏氏のサイト賢治童話詩 森羅情報サービス」で見られる)、この初出公開版は『朝日評論』の編者が、草稿に恣意的な削除・追加を加えて、明確な校訂法も立てずに整序してしまったものであって、最早、宮澤賢治の作とは言い難いものである。草稿原稿は賢治特有の異常に拘った推敲痕があり、再現自体が難しいものであるが、かなり忠実に整序・再現されたものが、上記サイト内「宮沢賢治作品館」の「資料編」の「その他」にあり、校本全集によれば、この詩の本当の姿は、次のようですとあ以下である(それよりも、より原稿に沿って再現したものは、サイト「宮澤賢治の詩の世界で見られる)。さて、本線に戻る。しかし、この戸川のこの訳は、本邦で「中陰(ちゅういん)」「中有(ちゅうう)」「中蘊(ちゅううん)」と訳すそれ以外には読めないのである。されば、この「宙宇」(ちうう:歴史的仮名遣)は戸川の「中有」(ちゆうう:歴史的仮名遣。これらの言葉は所詮、サンスクリット語の当該語の漢訳に過ぎぬから、荒っぽく言ってしまえば、漢字表記など何でもいいことになるのだが、しかし歴史的仮名遣の表記が、この二つでは、変わってしまうのは非常にマズいと私は思う)」の漢字表記の記憶違いか、誤植であると考えざるを得ないと私は思う。因みに、原注原文は“Chū-U”である。因みに、「中有」は、仏教用語で、衆生(しゅじょう)が死んでから次の縁を得るまでの間の「四有」(しう)の一つ。無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分けて、衆生の生を受ける瞬間を「生有」(しょうう)、死の刹那を「死有」(しう)、「生有」と「死有」の中間を「本有」(ほんう)とし、死後、次の「生有」までを「中有」とする。まんず、あなたは知ってるはずだよ、芥川龍之介の「藪の中」の最後の台詞で!

2018/05/14

明恵上人夢記 64・65

 

64

一、夢に、殊勝なる殿に到る。池等、處々二三ありと思ふ。悦びの意の朋友等、之在り。

[やぶちゃん注:クレジットなし。しかし、「63」夢との連続と採り、承久元(一二一九)年七月十三或いは十四日以降の夢としておく。

「殊勝なる」格別に設計されて手入れも行き届いた。

「之在り」「これ、あり」。]

□やぶちゃん現代語訳

 こんな夢を見た。

 格別に勝れた建築で手入れも行き届いている仏殿に辿りつく。

『心を静謐にさせる池なども、ところどころ、二つも三つも配されているではないか。』

と瞬時に判った。

 傍らには、心底から悦びの思いを湛えている朋友らが、ともにあるのである。

 

 

65

一、夢に、母堂に謁す。尼の形也。常圓房、其の前に在りと云々。

[やぶちゃん注:クレジットなし。しかし、「64」の連続と採り、承久元(一二一九)年七月十三日或いは十四日以降の夢としておく。本記載を持って、一つのパートが終わっており、以下は連続した記載ではない。但し、次の冒頭には「承久二年 同八月十一日」のクレジット記載があるから、時系列上の連続性は問題がない。

「母堂」明恵は治承四(一一八〇)年正月、数え九歳で母を失っており(病死)、八ヶ月後の九月には父平重国(元は高倉上皇の武者所の武士)が上総で敗死している。因みに、「63」で示した、明恵が自身にとって最も安定的で問題のない修法とする「仏眼法」とは、実は密教の女神である「仏眼尊」「仏眼仏母」を観想する修法であり、「仏眼仏母」は般若の智慧を象徴した神格で、仏陀を出生させる母であるともされ、一切諸仏の母とさえされる存在なのである。胎蔵界曼荼羅遍知院中央一切如来知印の北方、並びに釈迦院中央釈迦牟尼仏の北方列第一位に在って、菩薩形で結跏趺坐している。息災延命を祈る修法の本尊とされる。河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」(一九八七年京都松柏社刊)で、この明恵が若き日より強く指向し続けた仏眼仏母との一体感は、強烈にストイックな修行者としての明恵の修行の中にあってさえ、実は『愛人としても体験されたのではないかと思われる。もちろん、ここで愛人といっても、それは母=愛人の未分化な状態であり、性心理學的表現で言えば、母子相姦的関係であったと言える』と述べておられる。この見解に私は激しく共感するものである。ここで明恵の母が尼僧の姿であるのは、実は明恵の永遠の愛人=母=原母=仏眼仏母であることを意味しているのではあるまいか?

「常圓房」底本注に『明恵の姉妹の一人』とある。さて、実は河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」でこの短い夢を明恵の特異点の夢として挙げ、分析しておられる(河合氏はこれら「63・64・65」夢を同一時制内で見たものと捉え、建保七年(一二一九)七月十三日の夢と推定されておられる)。ここでは、それを総て引用させて戴く

   《引用開始》

 常円房は明恵の姉妹である。この夢は数多くの明恵の夢の記録のなかで、唯一つ、彼の母と姉妹が出現している珍しい夢である(父親の夢は一つも記録されていない)。これは非常に珍しいことで、特に明恵のように十九歳という若いときから夢を記録していると、たとえ両親が死亡していても、夢には両親が少しは顔を出すものである。九歳のときに乳母の夢を見ているが、あるいは、十九歳までは彼も家族の夢をよく見たのかも知れない。十六歳で出家したとき、釈迦が父に、仏眼仏母が母になって、肉親としての父母は、彼の内界においてあまり意味をもたなくなったのであろう。ところが、ここでは突如として、母がその娘と共に登場している。

 これは女性との「結合」を経験し、以後のより深い世界へと突入してゆこうとする明恵にとって、一度はその肉親に会うことが必要だったということであろう。遠くに旅立つ人が両親に挨拶に帰るように、このようなことは夢に割とよく生じることである。これは時に妨害的にはたらき、深層への旅立ちや、未知の女性との接触を、何らかの方法で肉親(特に母親)が妨害する夢として生じてくる。

 明恵の場合は、そのような意味でなく挨拶、あるいは、慰めの意味で母に会ったのであろう。母は既に尼になっていて、仏門に帰依している。明恵は安心して深層への旅を志したであろう。

   《引用終了》]

□やぶちゃん現代語訳

65

 こんな夢を見た。

 母上に謁する。

 母上は尼の姿なのである。

 そうして、その場には私の姉(妹)の常円房が、母上の前にいるのである……。

 

明恵上人夢記 63

 

63

一、其の十三日、かの行法の後、□夢想を轉じて見せばやと思ふに、内野(うちの)の如くなる處にて二三丁許りを隔てて上皇を見奉る。□□□□□隱し奉る。卽時に片方へ行きて諭し□□□□□處に到る。今は此(ここ)にとも□□□□□思ふ。隱しおほせつと□□□□□。

[やぶちゃん注:□は判読不能部分。これだけあると、最早、訳しようがないが、一応、逐語的には訳しておいた。

「其の十三日」ここまでの流れと、前の「62」夢の原注に従うなら、「62」夢の翌日、承久元(一二一九)年七月十三日の夢となる。通常の人間の夢は(少なくとも私の場合は)日を続けて見た夢だからといって、それに同一人物が登場したとしても、それが一連の夢(解釈)として連続しているものではない。しかし、明恵のような特異な人物の場合、その連関性を積極的に認めてもよいようには思う(「積極的に認めなくてはならない」というわけではない)。しかし、この場合、同じ「院」=「上皇」=後鳥羽上皇が登場しているのには、かなり強い強連関性のメッセージが表わされている、と夢を見た明恵自身は当然、考えた。だからこそ、書きとめていると言える。

「かの行法」これ以前で彼が自身に課した「行法」について述べているのは「42」であり、十三年前の建永元(一二〇六)年十二月一日より開始している(詳細はそちらを参照)。そこで明恵は、その行法を「宝楼閣法」と「仏眼法」と称しており、「宝楼閣法は二つの刻限に修して、朝と夕、仏眼法も二つの刻限に修し、こちらは後夜(ごや)と」し(私の訳で示す)、「但し、午後の部の始める時刻は孰れも、宵の口を修法の開始としている。これは本修法が基本的には己れ自身のためにする行法であるが故であり、さればこそ、式礼の如く強いて、修するに吉凶の時を占って撰ぶということをしていない。そもそも、これらは遙か以前より私が個人的に行なってきた修法であって、今まで一度たりとも不都合なることはなかったが故である」と述べているから、この午前四時に修めた「仏眼法」の後に一睡した時の夢という風に読める。しかも、この時、明恵はこの「仏眼法」が「遙か以前より私が個人的に行なってきた修法で」、「今まで一度たりとも不都合なることはなかった」私の精神に(即ち、夢にも)活性的な力を持つものであったから、それを修した後に徐ろに夢見すれば、どうも昨日までの夢見の落ち着きが悪いのを、「夢想を轉じて見」ることが出来ると思った=半可通な夢を転じて見てみたい「と思」って、寝に就いた、と読むことが出来るのではあるまいか? 何? 今までだって彼が見た夢は皆、その修法を終えてからの夢だったのではないのかって? それは大きな誤りだ。今までの私の注にも述べているが、彼が見る夢は、休息のごく短い間の観想中のものもあり、時には覚醒時幻覚のようにして見たものも既に含まれているのだよ。そういう半可通なことを言うあんたは、私のこの「明恵上人夢記」を読んできていないことがバレたね……哀しいことに……。

「内野」京都市上京区南西部の旧地名。平安京大内裏のあった所。

「二三町」約二百十八~三百二十七メートル。

「□□□□□隱し奉る」目的語は不詳だか、敬語から後鳥羽院の目から隠したことは判る。

「片方」不詳。少なくとも以下に敬語が全く使用されていない以上、単に後鳥羽院本人の方という意味ではあり得ない

「諭し」補語(誰に)も目的語(何を)も不詳。]

□やぶちゃん現代語訳(丸括弧内は判読不能部。一部は仮想の自然と思われる語を補ってみた)

63

 その翌日の十三日のこと、何時もの通りの仏眼法まで総てを終えた後で、

『(さても。どうも昨日までのすっきりしない)夢想を転じて見てみたいものだ。』

と思って一睡した。その時、こんな夢を見た。

 大内裏の内野(うちの)のようなところである、二、三町ほど隔てて、後鳥羽上皇さまを見申し上げている。

 私は(思わず、(  )を)隠し申し上げた。

 そして、直ちにとある一方へ行って(  )を諭(さと)し、(  )の処(ところ)に到ったのである。

 その時、

『今は此処(ここ)にとも(に(  )であろう)。』

と私は思ったのである。

『よかった。隠し遂(おお)せることができたのだ。』

と(  )。……

 

御伽百物語卷之六 木偶人と談る

御伽百物語卷之六

 

     木偶(もくぐう)人と談(かた)る

 

Mokuguu_2

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを、左右合成し、上下左右中央の枠や雲形の一部を除去して使用した。しかし、原画が中央の分離部で連続性を無視した致命的なミスを犯しているため、よく見ると、足が截ち切れたりしている。しかしまあ、「木偶」(木製の人形)というなら、それはそれでよかろうかい。]

 

 城南(せいなん)壬生(みぶ)の邊に玉造善藏といふものあり。生得の心ばへやさしく、手跡算勘(さんかん)の道に長じ、儒のむねとする所を學びつたえ、佛者のつねに説くの經意(きやうい)を窺ひ、あまねく人のする程の事、學ばずといふ事なく、其(その)道の頤(おきろ)をきはめずといふ事なし。萬(よろづ)につきて才幹なりけるまゝに、近邊の者ども、珍しき人におもひ、此德になつきて馴れむつびけるゆへ、酒宴遊興のむしろに交りをなし、圍碁將棊(いごしやうぎ)の會(くわい)にも、かならずと招かれて、朝暮(てうぼ)たのしみの中(なか)に年月を經(ふ)る身とぞなれりける。

[やぶちゃん注:「城南(せいなん)」通常は「城南の離宮」の略で、現在の京都市伏見区鳥羽にあった白河・鳥羽上皇の離宮「鳥羽殿(とばどの)」を指すが、ここは京都御所(京城)或いは二条城の南の一般名詞の意である。

「壬生」現在の京都市中京区西部の一地区。東は大宮通、西は西大路、北は三条通、南は松原通までの地域(この附近(グーグル・マップ・データ))。地名は、古来より、湧き水が多かったことから「水生」と呼ばれたことの転化。平安京の壬生大路 (現在の壬生川通付近)が東寄りを南北に通る。低湿なため、明治期まではセリ・ミブナなどを産する近郊農村であった。

「玉造善藏」不詳。

「算勘」算木(さんぎ)の占いによって考えること。]

 

 是れに親(したし)く語りける友の内、苗村寸鐵(なむらすんてつ)といひしもの、五十にあまりける迄、子なき事を悲しみ、洛中洛外の神社、いたらぬ隈なく、驗者(げんじや)と聞(きこ)ふる方には、悉く、あゆみをはこび、およびがたき願(ぐわん)など立てて、さまざまと祈りけれども、終に夢ばかりのしるしもなくて、思ひ歎きける折しも、其ころ、東山泉涌寺(せんゆじ)の奧にあたりて、稻荷塚とかやいふ所を見出だし、洛中の貴賤、これ一と足を空にし、心をひとつにして、色々の願ひをかけ、思ひ思ひの望みを乞ひ、あるひは終宵(よもすがら)、法施(ほつせ)をまいらせ、または、七日まいりの志をおこしなど、面々のちからを盡しけるに、みなみな、ねがふ所、かなひて、悦(よろこび)の眉をひらく事、渡りに船を得たる思ひ、商人(あきびと)の主(ぬし)を得たるがごとく也と聞きて、

「いざや、我もそこにあゆみをはこびつゝ、せめて露ばかりの示現(じげん)にもあはゞ、子ありとも、子なしとも、それを此世の思ひ出にせばや。」

の心、おこりけるまゝ、善藏をさそひて、

「道すがらのはなし伽(とぎ)に。」

とうちつれつゝ、まふで初(そめ)ぬ。

[やぶちゃん注:「苗村寸鐵」不詳。

「東山泉涌寺(せんゆじ)の奧にあたりて、稻荷塚とかやいふ所」泉涌寺(現行では「せんにゅうじ」と読まれることが多い)は京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)にある真言宗東山(とうざん)又は泉山(せんざん)泉涌寺。ここ(グーグル・マップ航空写真)。「稻荷塚」は不詳。伏見稲荷はここの南東の少し離れた位置にあるが、「奥」というのは泉涌寺寺域の北・東・南方の後背である山地を指すのであろう。

「商人(あきびと)の主(ぬし)を得たるがごとく」商人(あきんど)が御用達の富貴な顧客を得たように。

「はなし伽(とぎ)」話し相手。]

 

 第七日にあたれる夜は、ことさらに潔齊して例の善藏と共にまふでつゝ、その夜は通夜したりけるに、夜ふけ、月かたぶき、松ふく風も心ぼそく、子をおもふ猿の叫ぶ聲、梢にひゞき、いつとなく、馴れこし故郷(ふるさと)のそらなつかしう、過ぎし月日の數はおほふれど、徒(いたづら)に積みし頭(かしら)の雪は、富士のみねにさへ殘さぬといふ水無月の照(てり)にも消(きえ)ゆかで、いやまさるものは身のねがひ、疎(うと)くなり行くは後の世のいとなみなど愚(おろか)に暮(くら)し、身のあやまり迄、つぶつぶと胸にうかび、人しらぬ淚、袖に落ちて物がなしう覺えしまゝ、善藏も袂なる念珠とり出で、靜(しづか)におし摺(す)り、我(われ)も寶前にむかひて、しばらく法施を參らせ、咤枳尼天(だきにてん)の咒(じゆ)など繰り出でたるに、此庵(いほ)のまへに、忽然と、人の來て立てるあり。

[やぶちゃん注:「咤枳尼天(だきにてん)」枳尼天は仏教の天部の神で夜叉の一種とされる。サンスクリット語のダーキニー(神格としての原型はヒンドゥー教或いはベンガル地方の土着信仰に於ける魔女で、裸身で虚空を駆けて人肉を食べるとされた)を音訳したもの。本邦では稲荷信仰と混同されて習合し、一般に「白狐に乗る天女の姿」で表わされ、性的な意味での信仰を受けた。

「我(われ)も寶前にむかひて」善蔵はただの付き添いであるが、苗村の切願に心打たれて、この日は一緒に徹宵の祈願をしたのである。]

 

 年の程八十ばかりにもやあらんと見ゆるが、二尺ばかりの脇指をよこたへ、括頭巾(くゝりづきん)に八德の袖、すこし、しぼりあげたり。善藏きつと見とがめ、

『あやしき有樣かな。とがめばや。』

と思ひけるが、

『まて、しばし。是れも、のぞみある人の、宵より籠り居たるが、曉のつとめせんとて出で來たるにや。』

とさしのぞくに、此老人、善藏にむかひていふやう、

「餘り、此ほど、心ざしを違へず、あれなる寸鐵にいざなはれ、何の望(のぞみ)もなきに、此さびしき山中迄まふで給ふが、いとおしければ、あれなる休み所より招き給ふ人あり。こなたへ來たり給へ。」

といふに、善藏は、何心なく、よき事とおもひて、不圖(ふと)たちけるを、彼(か)の老人、かろがろと善藏をかきおひて、此宮の後(うしろ)のかたへ行くとおもへば、大きなる屋形(やかた)有り。

[やぶちゃん注:「括頭巾(くゝりづきん)」頭の形に合わせて丸く作り、縁を絞った頭巾。老人・隠居などが被った。大黒頭巾。

「八德」俳諧の宗匠や画工などが着用した胴服(どうぶく)。羽織の古称或いは原型であるが、ここは羽織でよかろう。]

 

『こはいかに。此(この)ほど、かゝる所ありとも覺えぬに、如何なる人の住みけるにか。』

と思ふに、表門と覺しき所は、いと強くさしかためて、入るべくもなければにや、少し北の方に、いとひきく、ちいさき穴門(あなもん)のあるより、二人ともに、はい入れば、右につきて、道あり。

[やぶちゃん注:「ひきく」「低(ひき)く」。

「穴門」築地塀(ついじべい)や石垣などを刳り抜いて設けた低い小さな門。埋(うず)み門。]

 

 十間ばかりも行くむかふは玄關なりける。是れよりいらんとするに、さはやかに出でたちたるさぶらひども、七、八人なみ居しが、善藏を見て、みな、ばらばらと數臺におりて敬ひ居たり。

[やぶちゃん注:「十間」十八・一八メートル。]

 

 かくて、奧の間に立ちいれば、あるじとおぼしき人は女にて、したには白き御衣(おんぞ)に唐綾(からあや)の裝束(さうぞく)、しおん色の大褂(おほうちぎ)、くれなゐのはかま、めされたるが、木丁(きてう)のほころびより、はれやかに見とをされたるを、少しそばみて、桧(ひ)あふぎをさし隱してより、臥し給へり。その外、なみ居たる女郎(ぢやらう)たち、みな、いろいろの袖口ども、そよめきかさなりて、帳(ちやう)のかたびらより、こぼれ出でたるも、いとなまめかしくなつかし。

[やぶちゃん注:「しおん色」紫苑色。薄紫。

「大褂(おほうちぎ)」「褂」(「うちき」と清音でも呼ぶ)平安時代の女房装束で、唐衣(からぎぬ)の下に着る衣服。多くは袷(あわせ;単衣(ひとえ))仕立てで、色目(いろめ)を合わせて何枚も重ねて着た。普段でも上着しても用いた。ここはその裄(ゆき:着物の背縫いから肩先を経て、袖口までの長さ。肩ゆき)・丈などを大きく仕立てたもの。

「木丁(きてう)」「几帳」。

「ほころび」「綻び」。几帳の掛け布の(後に出てくる「かたびら」)、縫い合わせずに間を透かせてあるところ

「桧(ひ)あふぎ」檜(ヒノキ)の細長い薄板を重ねて、上端を糸で、下端を要(かなめ)で留めた扇。近世の板数は、公卿が二十五枚、殿上人は二十三枚、女子は三十九枚と決まっていた。男子用は白木のままとするが、女子用は大翳(おおかざし)・衵扇(あこめおうぎ)とも称し、表裏ともに美しく彩色して親骨に色糸を長く垂らして装飾とした。

「なつかし」心が引かれる。]

 

 やゝありて、奧より、御めのと[やぶちゃん注:「乳母」。]を出だして、善藏に仰(おほ)せありけるは、

「此度、寸鐵が願ひをかけ、あゆみをはこびつる心ざしさへ、たぐひなく哀(あはれ)とおもふに、今、善藏が何のねがふ事もなきに、寸鐵が心ざし、遂げさせん事をおもひ、もろともに我が前に來たり。夜もすがら、他念なくおこなひすましたる心ばへのうれしければ、寸鐵がねがひをもかなへ、善藏にも貴人となるべき子だねを授けさせ給ふ也。」

とて、御かはらけ[やぶちゃん注:素焼きの盃。]をたびけるなり。

[やぶちゃん注:「かはらけ」素焼きの盃(さかづき)。]

 

 善藏、

『さては。此塚の神叱棋尼天の御示現にこそ。』

と、ありがたくて、淚もそゞろにこぼるゝばかりなれば、數多度(あまたゝび)、盃をかたぶけて醉を催しけるに、最前の老人、

「つ。」

と立ちていで、

「今宵の客人(まろうど)に珍しき放下(はうか)して見せ申さん。」

と、後なる障子をおしあくれば、庭のてい、美をつくしてさまざまと作りなしたるに、山あり、川あり、入海のけしきあり、民の家、軒をならべ、市の店をかざり、繁花なる町の體(てい)もあれば、棟門(むねかど)美々(びゝ)しく、つなぎ馬・乘馬、ひまなく立ちつどひ、いかさま故ありと見ゆるかたもありて、

『目のおよぶ所、心にうかぶ風景、繪にかけりとも、よも、かくは寫さじ。』

とながめ居たるに、程なく、いりあひのかねたそがれの空に音づれ、ねぐらもとむる鳥のね、いそがしく、やゝ暮過ぐる宵の月、ひがしのみねにすみのぼれば、木がらしの風に木々の葉のこりなく吹きつくし、山のすがたやせたりと、いにしへ人の詠(なが)めつるおもかげまで、つくづくと移り來る目のまへに、はやふけ過ぐるにやあらん、遠近(をちこち)の里に打ちつるきぬたの音もしづまり、野寺のかねもひゞきをおさめ、辻の火(ひ)のひかりも、寢入る色、ほそくなりわたるに、何とはしらず、旗指物、袖しるし一やうに鎧ひたる武者五十騎ばかり、いづれも、そのたけ、壹尺四五寸ばかりもやあるらんとおもふ兵ども、つき山の陰より、こなたさまにおしかけたり。

[やぶちゃん注:「放下(はうか)」室町から近世にかけて見られた大道芸の一つで元は田楽法師の伝統を受け継いだ雑芸。曲芸や奇術の類い。

「壹尺四五寸」四十二・四二~四十五・四五センチメートル。]

 

「あれはいかに。」

と見る程に、泉水の橋のもとにて後馳(をくれはせ)の士卒を待ちあはせ、五十騎を二手にわけ、彼(か)の屋形を目にかけ、しのびやかにおしよせ、大手の門に着くとひとしく、

「曳(ゑい)や。」

聲(こえ)を出だし、責め皷(つづみ)を打ち、大手搦手(おほてからめて)もみあはせ、鑓・長刀(なぎなた)・打ちかたな、おもひおもひの得物をおつ取り、

「われ、一。」

と込みいりけるに、屋形の内には動轉の氣色にて、

「すは、夜討(ようち)こそ入りたれ。」

と、上を下へと周章騷(あはてさは)ぎて、弓をとるものは矢を忘れ、太刀はとれども、鞘ながら討ちあひ、

「火をあげよ。」

といへども、誰(たれ)聞きわくべきもあらねば、炬火(たいまつ)のひとつをも、さし出ださず。相詞(あひことば)を辨(わきま)へざれば、何(いづ)れ味方と議(はか)りがたくて、只、おなじ所に、同士うちするばかりなる内、寄手(よせて)は兼て心をひとつにし、筒(とう)の火さしあげ、あい詞(ことば)をつかいて、奧のかたにみだれ入る、と見えしが、何とはしらず、しばしが程に悦びの鯨波(とき)をあげ、手々(てんで)に分捕(ぶどり)の首、かずあまた、さしつらぬき、いさみすゝみて表に出で、行列をほぐさず、もとの道にかへるよ、と見えしが、早、あけわたる星のひかりも、あかねさす日のかげにしらけて、ありつる庭も殘りなく、霧、たちかくし、

『跡なごりおし。』

と見かへりたるに、ありし老人も、たちまち、うせ、稻荷塚のうしろ、とおもひしも、いつの間に歸りけん、寺町誓願寺の地藏堂に、あまたの人形を枕とし、その夜の夢はさめたりとぞ。

[やぶちゃん注:「後馳(をくれはせ)の士卒」後から徒歩(かち)で走ってくる配下の兵卒。

「彼(か)の屋形を目にかけ」「目にかけ」は「目がけて」であるが、ここの鷺水の上手さは、「彼の屋形」というのが、その盆景のような庭にある豪家の屋形であると同時に、それは恐らくは、この屋形のミニチュアと善蔵には見えたのに違いない。則ち、ここで時空間の現実と非現実が善蔵の意識の中で境がなくなっていってしまうのであると私は思う。いわば、幻想的非現実が善蔵の(儒教的な堅固であるはずの)現実世界を侵すところに本話の面白さがあるのではないかと私は思うのである。

「筒(とう)の火」江戸時代に発明された携帯用の特殊な提灯の一種である龕灯(がんどう)の灯であろう。金属製又は木製で桶状の外観をしており、内部は二軸ジンバル(英語:Gimbal:一つの軸を中心として物体を回転させる回転台の一種)構造によって、二本の鉄輪が回転し、内側の鉄輪の中央に固定された蠟燭は龕灯をいかなる方向に振り回しても、常に垂直に立って、火が消えないような構造になっている。正面のみを照らし、持ち主を照らさないことから、強盗が家に押し入る際に使ったとか、逆に目明かしが強盗の捜索に使ったともされることから「強盗提灯(がんどうちょうちん)」とも書かれ呼ばれた(以上はウィキの「龕灯に拠った)。

「寺町誓願寺の地藏堂」中京区新京極通三条下ル桜之町にある浄土宗誓願寺。(グーグル・マップ・データ)。この西直近を南北に走る通りは寺院が多く、現在も寺町通と現在も呼ぶ。地蔵堂は現存するようであるが、「あまたの人形」というのはよく判らない。夭折した児童を弔うための簡素な木造彫像であろうか。しかしだったら、「木偶」とは言わないようにも感じられる。或いは早世した子らの玩具として遺族が供物として捧げた玩具の人形で、ここには当時、そうした供物をすることが盛んであったものか? 識者の御教授を乞うものである。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 姫小ダイ (ウミヒゴイ)

 

猩々鯛ノ類

俗ニ姫小ダイ

 

Himekodai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。左上部に出る鰭は、前のこの上に描かれた「赤目魚」(コバンヒメジに同定)の腹鰭で、無関係である。これは、まず間違いなく、

スズキ亜目ヒメジ科ウミヒゴイ(海緋鯉)属ウミヒゴイ Parupeneus chrysopleuron

と思う。サイト「WEB魚図鑑」の「ウミヒゴイには、本邦では『千葉県以南の太平洋岸、山口県以南日本海岸、九州西岸に普通に』棲息し、『まれに青森県、琉球列島、小笠原諸島』でも見られるとし、『体色は赤っぽく、眼から後ろに』一『本の黄色・橙色・赤色の縦帯があることが特徴。腹部、頭部、尾部に青い斑紋が見られることも特徴』とある。本図でも黄色の縦帯がはっきり描かれている。解説後半の青い斑紋は見られないが、リンク先の複数の写真を見ても、有意は斑紋は見られない。或いはホウボウのように死亡後に速やかに褪色してしまうのかも知れない。なお、「姫小」鯛は、現行ではスズキ目スズキ亜目ハタ科ヒメコダイ亜科ヒメコダイ属ヒメコダイ Chelidoperca hirundinacea の標準和名であるが、本図とは似ても似つかない。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 赤目魚 (コバンヒメジ)

 

Akameuo

 

赤目魚

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。下部の尻鰭の直下に突き出た背鰭と、右端の「俗」とあるキャプションはこの図の下に貼り付けられた別な魚の図の一部で、本図とは無関係である。「赤目魚」では、スズキ目スズキ亜目アカメ科アカメ属アカメ Lates japonicus がいるが、下顎の鬚及び尾鰭の形状、及び紅色を呈する鰭から見て、本図はそれではない。鬚が最大の特徴で、他に頭頂部が尖らずに鈍角であること、尾鰭の根のくびれ(尾柄部)の上部に有意な黒斑紋があることから、私はこれは、

スズキ目スズキ亜目ヒメジ科ウミヒゴイ属コバンヒメジ Parupeneus indicus

ではないかと思う。サイト「WEB魚図鑑の「コバンヒメジを見ると、体側の第一背鰭下から第二背鰭下にかけて楕円の黄色斑見られ(この図では、その辺りの後ろに黒い斑点が描かれているのとやや一致を見る)、尾柄部に見られる一個の黒色斑が特徴とあり、しかも『体色は淡い灰色や茶色から赤色や緑色までと幅広く変化する』とあって、さらにリンク先にある複数の個体の写真を見ると、多くの眼の黒目の周囲が有意に赤く見える(遊泳する生体写真でも)のである。本種は『八丈島、千葉県以南の太平洋岸、山口県以南の日本海沿岸。琉球列島』及び済州島、インド~太平洋に広く棲息する、とある。]

明恵上人夢記 62

 

62

  
七月十二日か

一、夢に、將に史廳を出でむとす。然るに、心に任せて怖畏無し。其の夜、院之中に見參に入らむと思ふ。

[やぶちゃん注:「60」夢を私は建保七年二月二十九日とした。これがそれに繋がるものとすれば、承久元(一二一九)年七月十二日の夢となる。この年は建保七年であったが、四月十二日(ユリウス暦一二一九年五月二十七日)に改元している。因みに、前にちょっと述べたが、この年は年初の建保七年一月二十七日(一二一九年二月十三日)に鶴岡八幡宮社頭にて第三代鎌倉幕府将軍源実朝が公暁に暗殺されている。或いは少なくとも「55」以下の夢の意味には、この事件の影が潜んでいる(分析の際の解釈素材としての潜在性がある)可能性もないとは言えないとは私は考えている。

「史廳」(してう(しちょう))はよく判らぬが、これは直後に「然るに、心に任せて怖畏無し」というのだから、出たその「史廳」なる場所は、通常の人なら怖れ畏まってすごすごと退出する場所と採って初めて文意が(そことは)繋がると思う。とすれば、私はこれは、検非違使(京都の犯罪や風俗取締りなどの警察・裁判業務を統括担当した長官)が執務を行う役所を略称する「使廰」ではないかと読んだ。但し、初めは左右衛門府内(後に左のみ)に置かれていたが、それも、ウィキの「検非違使によれば、『平安時代後期には』『検非違使庁における事務は』検非違使別当(検非違使庁長官。同疔を統括するものの、実務の責任者である検非違使ではない。ここはウィキの「別当に拠った)『の自宅で行われるようになった』。『平安時代末期になると』、『院政の軍事組織である北面武士に取って代わられ、更に鎌倉幕府が六波羅探題を設置すると』、『次第に弱体化し』た、とある。さても、六波羅探題は、ご存じの通り、この二年後の承久三(一二二一)年に後鳥羽院が起した「承久の乱」の後に、幕府がそれまでの京都守護を改組して、京都六波羅の北と南に設置した出先の警察・裁判機関(但し、「探題」と呼ばれた初見は鎌倉末期で、それまでは単に「六波羅」と呼ばれていたであり、まさにこの夢の前後の時制が、京の武装警護集団や刑事警察・裁判機構が幕府側の管理主体へと大きく移行される過渡期の前史に当たっていることが判る(ここではウィキの「六波羅探題も参照した)。

「院」この時制が正しいならば、後鳥羽上皇の院政期である。明恵は建永元(一二〇六)年に後鳥羽院から栂尾山高山寺の別所を賜わっており、先の「56」夢では、自身の自信作「摧邪輪」を後鳥羽院に進上しようとしている点から見ても、彼が後鳥羽院と親しみ、直接に接触する機会が多かったことが判る。とすれば、この夢は実は、明恵が何かを後鳥羽院に奏するために、確信犯の覚悟を持って(それが現実の朝廷方懲罰機関である「史庁」がシンボルするものである)、後鳥羽院に「見參」しようとしていると読め、私はそれは、後鳥羽院へある諫言するためであったのではないか、と読む。即ち、後鳥羽院が近い将来、鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げようとしていることを、明恵は感じ取り、それを諫めるための「見參」ではないと読むのである。「承久の乱」の発生は承久三(一二二一)年五月十四日は後鳥羽上皇による北条義時追討の院宣に火蓋を切る。わずか二年後である。そもそも、この年初の実朝暗殺以降、幕府と朝廷の関係は急速に悪化し、幕府からの宮将軍の要請も後鳥羽上皇の拒絶にあっているのである。しかし、明恵にそれを後鳥羽院が明かしたり、口を滑らすことは考え難い。しかし、聡明にして鋭い明恵はそれを第六感的には漠然と感知し得た。されば、この夢は、おぞましき朝廷方の完敗と三上皇らの配流に終わる「承久の乱」の予知(警戒)夢なのではないか? と私は思うのである。]

□やぶちゃん現代語訳

62

  
(承久元年七月十二日のことか)

 こんな夢を見た。

 今しも、私は大きな覚悟を持って、世間に怖れられている検非違使庁の門を胸を張って出ようとしているのである。しかし、私は心にまかせて、そうした朝廷の武威に対し、何らの畏怖も、これ、全く感じていないのである。

 歩きながら、

『今夜、後鳥羽院の御殿の中(うち)に、拝謁するために入ろう。』

と強く思っていた。……

 

2018/05/13

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 猩々鯛 (同定不能)

 

猩々鯛

 

Syoujyoudai2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。

 判らん。体色がえらい黒ずんでいるが、通名が「猩々鯛」(前の、この図の真上に描いてある「猩々鯛 肥後熊本方言」は私としては、かなり自信を持ってヒメジ科ウミヒゴイ属ホウライヒメジ Parupeneus ciliates に同定したが、これは同じ名でも全然、魚体が異なる)ならば、これは死後の体色変化ととって、鮮やかな朱紅色にして想像してみたところでは、

スズキ目スズキ亜目フエダイ科フエダイ属ヨコフエダイ Lutjanus malabaricus

が似ているようにも思えたが(一応、「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」のヨコフエダイ」をリンクさせておく)、この魚、背鰭(後端)と尻鰭の根元がシーラカンスみたように不気味に突き出ているのが奇怪で、如何ともし難い。或いは、この魚、赤いのはそれこそ猩々の髪だけ、則ち、胸鰭を除く総ての鰭が赤く、本体はもともと、くすんだこの暗い葡萄色なのだろうか? お手上げ。識者の御教授を乞う。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)

Kuhina

くひな   鼃鳥

水雞

      【和名久比奈】

 

△按水雞大如鳩而頭背翅皆有蒼黑斑帶淡黃赤色眼

 上有白條觜蒼而長頷胸之間白有白黑斑尾短脚長

 淡黃夜鳴達旦聲如人敲戸蓋在水邊告晨故名水鷄

  拾遺たたくとて宿の妻戸を明たれは人もこすゑのくひななりけり

赤水雞【又名緋水雞】 頭背黃赤色胸腹脚皆赤觜黑其肉味

 淡不美夏月焼食之

鼠水雞 形色畧似而有黑斑見人則竄岸塘之間如鼠

 逃竄故名之乎八九月出

大水雞 形大而似鶉以上三種俱無敲戸之聲

 本綱秧雞【肉甘溫】大如小雞白頰長嘴短尾背有白斑多

 在田澤畔夏至後夜鳴逹旦秋後卽止【蓋是此云大水雞乎】

 一種 雞 秧雞之類也大如雞而長脚紅冠雄大

 而褐色雌稍小而斑色秋月卽無其聲甚大【本朝未見如此鳥】

 

 

くひな   鼃鳥〔(あてう)〕

水雞

      【和名、「久比奈」。】

 

△按ずるに、水雞、大いさ、鳩のごとくにして、頭・背・翅、皆、蒼と黑き斑有りて、淡黃赤色を帶ぶ。眼の上に白條有り。觜、蒼くして長し。頷〔(あご)と〕胸の間、白くして、白黑〔の〕斑有り。尾、短かく、脚、長し。淡黃にして、夜、鳴きて、旦〔(あした)〕に達す。聲、人の戸を敲(たゝ)くごとし。蓋し、水邊に在りて、晨〔(あさ)〕を告ぐる故に「水鷄」と名づく。

「拾遺」

 たたくとて宿の妻戸〔(つまど)〕を明けたれば

    人もこずゑのくひななりけり

赤水雞(あかくいな)【又、「緋水雞〔(ひくひな)〕」と名づく。】 頭・背。黃赤色。胸・腹・脚、皆、赤くして、觜、黑。其の肉味、淡く、美ならず。夏月、焼きて之れを食ふ。

鼠水雞(ねずみ〔くひな〕) 形・色、畧ぼ似て、黑斑有り。人を見るときは、則ち、岸・塘〔(つつみ)〕の間に竄(かく)るゝこと、鼠、逃(に)げ竄(かく)るがごとし。故に、之〔(これ)〕、名づくるか。八、九月、出づ。

大水雞〔(おほくひな)〕」 形、大にして鶉〔(うづら)〕に似たり。

以上の三種、俱に戸を敲くの聲、無し。

「本綱」、「秧雞〔(あうけい)〕」【肉、甘、溫。】大いさ、小さき雞〔(にはとり)〕のごとし。白き頰、長き嘴、短き尾、背、白斑有り。多く、田澤の畔に在り。夏至の後は、夜、鳴きて、旦(あした)に逹し、秋の後、卽ち止む【蓋し、是れ、此〔(ここ)〕に云ふ「大水雞」か。】。

一種 「雞〔(とうけい)〕」 「秧雞」の類なり。大いさ、雞のごとくして、長き脚、紅-冠(〔と〕さか)。雄は大にして褐-色(きぐろ)、雌は、稍や小にして斑〔(まだら)〕色。秋月は、卽ち、無し。其の聲、甚だ大なり【本朝、未だ此くのごとき鳥を見ず。】

[やぶちゃん注:現行の生物種としてのクイナは、

鳥綱ツル目クイナ科 Rallidae クイナ属クイナ Rallus aquaticus

であるが、本邦で見られるのは、

亜種クイナ Rallus aquaticus indicus

で(朝鮮半島・日本(本州中部以北)・シベリア東部などで繁殖し、冬季に本州中部以南へ南下して越冬)、最後の「本草綱目」の叙述に出るのは、

亜種 Rallus aquaticus korejewi

(イラン東部・インド北部・中華人民共和国北西部(新疆・甘粛・青海・四川等)で繁殖し、冬季にアフガニスタン・イラク・中華人民共和国中部へ移動して越冬)となろうかと思ったのであるが、しかし、ところがどっこいウィキの「クイナ」を読むと、『日本の古典文学にたびたび登場する「くひな」「水鶏」は、別属のヒクイナを指していることが多い』(太字やぶちゃん)とあるから、結果、ここは本文に出る「緋水雞」、

クイナ科ヒメクイナ属ヒクイナ Porzana fusca

をまず挙げておいて、それから、やおら、クイナ Rallus aquaticus indicus としておくのが、少なくとも前の良安の叙述部に限っては、よいようである。ヒクイナは幸い、中華人民共和国東部・台湾。日本などで繁殖し、冬季になると、インドシナ半島・中華人民共和国南部・日本(本州中部以南)へ南下し、越冬するとあるから、問題なく、一種とする「雞〔(とうけい)〕」の「紅-冠(〔と〕さか)」という、頭部が有意に赤味を帯びるところとも一致するから問題ない。

 先にウィキの「ヒクイナ」から引いておくと、全長十九~二十三センチメートルで、翼開張は三十七センチメートル、体重百グラム程度。『上面の羽衣は褐色や暗緑褐色』、『喉の羽衣は白や汚白色』、『胸部や体側面の羽衣は赤褐色』、『腹部の羽衣は汚白色で、淡褐色の縞模様が入る』。『虹彩は濃赤色』。『嘴の色彩は緑褐色で、下嘴先端が黄色』。『後肢は赤橙色や赤褐色』。『卵の殻は黄褐色で、赤褐色や青灰色の斑点が入る』とあり、『湿原、河川、水田などに生息する』。『和名は鳴き声(「クヒ」と「な」く)に由来し、古くは本種とクイナが区別されていなかった』。『食性は動物食傾向の強い雑食で、昆虫、軟体動物、カエル、種子などを食べる』。『古くは単に「水鶏」(くひな)と呼ばれ』、『連続して戸を叩くようにも聞こえる独特の鳴き声』『は古くから「水鶏たたく」と言いならわされてきた』。『「水鶏」は「敲く」とするから「扉」の縁語になって』おり、『夏の季語』とするとあり、以下の例が掲げてある。

   *

「くひなのうちたたきたるは、誰が門さしてとあはれにおぼゆ」(紫式部「源氏物語」「明石」)

たたくとも誰かくひなの暮れぬるに山路を深く尋ねては來む(菅原孝標女「更級日記」)

「五月、菖蒲ふく頃、早苗とる頃、水鷄の叩くなど、心ぼそからぬかは」(卜部兼好「徒然草」)

此宿は水鷄も知らぬ扉かな(芭蕉)

   *

鳴き声はこれは確かに少し離れていれば、戸を叩く音に聴こえる

 次にウィキの「クイナも引いておく。全長二十三~三十一センチメートル、翼開長三十八~四十五センチメートル。体重百~二百グラム。『上面の羽衣は褐色や暗黄褐色で、羽軸に沿って黒い斑紋が入り縦縞状に見える』。『顔から胸部にかけての羽衣は青灰色』。『体側面や腹部の羽衣、尾羽基部の下面を被う羽毛は黒く、白い縞模様が入る』。『湿原、湖沼、水辺の竹やぶ、水田などに生息』し、『半夜行性で』、『昼間は茂みの中で休む』。『和名は本種ではなく』、『ヒクイナの鳴き声(「クヒ」と「な」く)に由来し、古くは本種とヒクイナが区別されていなかった』。『驚くと』、『尾羽を上下に動かし、危険を感じると茂みに逃げ込む』。『食性は雑食で、昆虫、クモ、甲殻類、軟体動物、魚類、両生類、小型鳥類、植物の茎、種子などを食べる』。『虹彩は赤』く、『嘴は長い』。『嘴の色彩は褐色で、基部は赤い』。『後肢は褐色や赤褐色』。『卵の殻は黄褐色で、赤褐色や青灰色の斑点が入る』。『繁殖期は嘴が赤い』とある。鳴き声サイトサントリーの愛鳥活動の「クイナ」がよい。「ヒクイナ」とは間違えようがないほど、違う。しかし、半夜行性なのはこっちだ。夜っぴいて鳴くのは寧ろ、こっちだ。私まで混乱してきたわい。

 なお、良安が特異的に先に自分の解説を持ってきて、「本草綱目」を後に回したのは、恐らく、「秧雞」「」が、今までのように、巻四十七の「水禽部」ではなく、巻四十八の「原禽類」に入っていること、彼から見て、雞」は本邦の「くひな」とは全く思われなかったこと(「とさか」と訓ずると、形状が甚だ異なり、雄鶏みたようになる)、しかもそれが「秧雞」の一種というならば、実は「秧雞」も「くひな」とは異なる鳥を指しているのではないかという強い疑義を持ってしまったからではなかろうか? しかし言っておくと、現代中国語ではクイナ科は今でも「秧鷄科」なのである。

 しかし、私は本邦で混同されていた「クイナ」と「ヒクイナ」が、中国でも永く同じように混同されていたと考えるなら、「本草綱目」の記載もそれらを指していると読めるし、そもそもが、良安が総論で「水雞(くひな)」という一種を挙げ、他に「赤(緋)水雞」と「鼠水雞」の二種、都合、三種の「くひな」がいるかのように書いているのも、種の混同に加えて、繁殖期の色彩変化をまで別種と見てしまった結果ではなかったかとも思うのである。

「たたくとて宿の妻戸〔(つまど)〕を明たれば人もこずゑのくひななりけり」「拾遺和歌集」の巻第十三「戀三」に載る「よみ人知らず」の一首(八二二番)、

 叩くとて宿の妻戸〔(つまど)〕を開けたれば人もこずゑの水鷄(くひな)なりけり

謂わずもがな、「梢」と「人も來ず」を掛ける。]

進化論講話 丘淺次郞 第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマン

 

     四 ウォレースヴァイズマン

 

Wores

[ウォレース]

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を明度を上げて補正して使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。(以下のヴァイズマンも同前)。]

 ウォレースダーウィンと同時に自然淘汰說を發表した人で、後にまた「ダーウィン說」と題する書を著して生物の進化を通俗的に論じたから、進化論の歷史に於ては最も有名な一人であるが、その說く所はダーウィンに比べると、甚だしく違つた點が幾つもある。その主なるものを擧げれば、ダーウィンは自然淘汰以外にも尙生物進化の原因があると明言して、後天的性質の遺傳をも認めて居るが、ウォレースは全く後天的性質の遺傳を否定し、自然淘汰以外には生物進化の原因はないやうに說いて居る。またダーウィンは人間も他の獸類と同じ先祖から起り、同じ理法に隨つて進化し來つたもので、身體の方面に於ても精神の方面に於ても、他の獸類と同じ系統に屬すると論じたが、ウォレースは進化論は他の生物には一般に適するが、人間には當て嵌まらぬ、人間だけは一種特別のもので肉體の方は他の獸類と共同の先祖から降つたが、精神の方は全く別の方面から起つたものであると說いて居る。その他、動物の彩色の起源、雌雄淘汰の說などに就いても、種々意見の違ふ所があるが、こゝにはたゞ自然淘汰に關することだけを述べて見るに、ウォレースの考では、生物の進化し來つたのは全く自然淘汰のみの働による。それ故、動植物の有する性質は、如何に些細な點でも、必ず今日生存上に必要であるか、或は昔一度必要であつたもので、一として生存競爭上に無意味なものはない。たとひ一個の斑點、一本の線と雖も、自然淘汰の結果として今日存するのであるから、必ず競爭上有功であつたものに違ひないとのことであるが、之は實際如何であらうか。我々は今日の不十分な生態學上の知識を以て、動植物の或る性質を捕へて、之は生存競爭上確に無益なものであるとの斷定は勿論出來ぬが、如何に些細な點でも必ず生活上有益なものであるといひ切ることもまた決して出來ぬ。昔何の役に立つか解らなかつた構造・彩色等も、生態學上の硏究が進むに隨つて、その功用が知れた例は澤山にあるが、さりとてこれらより推して、總べての構造・彩色は悉く生存競爭上に一定の意味を有するものであると論ずる譯には行かぬ。ウォレースの著したダーウィン說といふ書物は、野生動物の變異性のこと、動物の彩色のことなどに關しても、種々面白い事項が載せてあつて、確に硏究者の一讀を價する書ではあるが、前に掲げた二點に就いては、議論が頗る怪しいやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「ウォレース」アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)については一度注しているが、再掲し、少し補足しておく。以下、ここで丘先生が言及している点をウィキの「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」に拠って補ったが、詳しくはリンク先を通読されんことを強く望む。『イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を行った。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした』十九世紀の『主要な進化理論家の一人である。その中には自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる』。『心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させたが、ピルトダウン人』捏造『事件の際は、それを捏造を見抜く根拠ともなった』。『イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は』「マレー諸島」( The Malay Archipelago 1869)として出版され、十九世紀の『科学探検書としてもっとも影響力と人気がある一冊だった』。『ダーウィンはウォレスの論文が基本的に自分のものと同じであると考えたが、科学史家は二人の差異を指摘している。ダーウィンは同種の個体間の生存と繁殖の競争を強調した。ウォレスは生物地理学的、環境的な圧力が種と変種を分かち、彼らを地域ごとの環境に適応させると強調した。他の人々はウォレスが種と変種を環境に適応させたままにしておく一種のフィードバックシステムとして自然選択を心に描いているようだと指摘した』。一八六七年に『ダーウィンは、一部のイモムシが目立つ体色を進化させていることについて自身の見解をウォレスに話した。ダーウィンは性選択が多くの動物の体色を説明できると考えていたが、それがイモムシには当てはめられないことを分かっていた。ウォレスはベイツと彼が素晴らしい色彩を持つ蝶の多くが独特の匂いと味を持つことに気付いたと答えた。そして鳥類と昆虫を研究していたジョン・ジェンナー・ウィアーから、鳥が一部の白い蛾は不味いと気付いておりそれらを捕食しないと聞いたことも伝えた。「すなわち、白い蛾は夕暮れ時には日中の派手なイモムシと同じくらい目立つのです」。ウォレスはイモムシの派手な色は捕食者への警告として自然選択を通して進化が可能であると思われる、と返事を書いた。ダーウィンはこの考えに感心した。ウォレスはそれ以降の昆虫学会の会合で警告色に関するどんな証拠も求めた』。一八六九年に『ウィアーはウォレスのアイディアを支持する明るい体色のイモムシに関する実験と観察のデータを発表した。『警告色は、ウォレスが動物の体色の進化へ行った多くの貢献のうちもっとも大きな一つである。そしてこれは性選択に関してダーウィンとウォレスの不一致の一部でもあった』。一八七八年の『著書では多くの動植物の色について幅広く論じ、ダーウィンが性選択の結果であると考えたいくつかのケースに関して代替理論を提示した』。一八八九年に刊行した「ダーウィニズム」(“ Darwinism: An Exposition of the Theory of
Natural Selection, with Some of Its Applications 
(「ダーウィニズム:自然淘汰理論の解説、及びその適用例」)。ここで丘先生が「ダーウィン説」として示しているものである)では、『この問題を詳細に再検討している』。この「ダーウィニズム」では『自然選択について説明し』、『その中で、自然選択が二つの変種の交雑の障害となることで生殖的隔離を促すという仮説を提唱した。これは新たな種の誕生に関与するかも知れない。このアイディアは現在ではウォレス効果』(Wallace effect)『として知られている。彼は』一八六八年という『早い時点で、ダーウィンへの私信で自然選択が種分化に果たす役割について述べていたが、具体的な研究を進めなかった。今日の進化生物学でもこの問題の研究は続けられており、コンピューターシミュレーションと観察によって有効性が支持されている』。一八六四年には「人種の起源と自然選択の理論から導かれる人間の古さ」“ The Origin of Human Races and the Antiquity of Man Deduced from the Theory of 'Natural Selection )という論文を発表し、『進化理論を人類に適用した。ダーウィンはこの問題についてまだ述べていなかったが、トマス・ハクスリーはすでに』「自然の中の人間の位置」(既注済み。一八六三年に刊行した“ Evidence as to Man's Place in Nature (「自然界に於ける人間の位置に関する証拠」)のこと)を『発表していた。それからまもなく』、『ウォレスは心霊主義者となった。同時期に彼は数学能力、芸術能力、音楽の才能、抽象的な思考、ウィットやユーモアは自然選択では説明できないと主張した。そして結局、「目に見えない宇宙の魂」が人の歴史に少なくとも三回干渉したと主張した。一度目は無機物から生命の誕生、二度目は動物への意識の導入、三度目は人類の高い精神能力の発生であった』。『また』、『ウォレスは宇宙の存在意義が人類の霊性の進歩であると信じた。この視点はダーウィンから激しく拒絶された。一部の史家は自然選択が人の意識の発達の説明に十分でなかったというウォレスの信念が直接心霊主義の受容を引き起こしたと考えたが、他のウォレス研究家は同意せず、この領域に自然選択を適用するつもりは最初から無かったのだと主張した。ウォレスのアイディアに対する他の博物学者の反応は様々だった。ライエルはダーウィンの立場よりもウォレスの立場に近かった。しかし他の人々、ハクスリー、フッカーらはウォレスを批判した。ある科学史家はウォレスの視点が、進化は目的論的ではなく、人間中心的でもないという二つの重要な点で新興のダーウィン主義的哲学と対立したと指摘した』。以下、「進化理論史におけるウォレスの位置」の項。『進化学史ではほとんどの場合、ウォレスはダーウィンに自説を発表させる「刺激」となったと言及されるだけであった。実際には、ウォレスはダーウィンとは異なる進化観を発展させており、彼は当時の多くの人々(特にダーウィン自身)から無視することのできない指導的な進化理論家の一人と見なされていた。ある科学史家はダーウィンとウォレスが情報を交換し合って互いの考えを刺激し合ったと指摘した。ウォレスはダーウィンの』一八七一年の「人間の由来」(The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex(「人間の由来と、性に関連した選択」))で、『もっとも頻繁に引用されているが、しばしば強く同意できないと述べられている。しかしウォレスは残りの生涯を通して自然選択説の猛烈な支持者のままであった』。一八八〇年までに『生物の進化は科学界に広く受け入れられていた。しかし』、『自然選択を進化の主要な原動力と考えていた主要な生物学者はウォレスとアウグスト・ヴァイスマン、ランケスター、ポールトン、ゴルトンなどごく少数であった』とある。彼はしばしばダーウィンによって埋もれさせられた(貧乏籤を引いた)と同情されるが、私はこれは、多分に彼の心霊主義への執拗な偏頗が齎した自業自得であると考えている(次段以降で丘先生も指摘しておられる)。彼に就いては、「ナショナルジオグラフィック」(二〇〇八年十二月号)の「特集:ダーウィンになれなかった男」が詳細にして核心を突いており、お薦めである。なお、私は個人的にはウォレスに強い博物学的親和感を持ってはいる。]

 

 尙ウォレースの說に就いて不思議に感ずるのは、その結論である。ダーウィン說の最後の章を讀んで見ると、「生物の進化し來る間に自然淘汰で說明の出來ぬことが三つある。卽ち第一には無機物から生物の生じたこと、第二には生物中に自己の存在を知るものの生じたこと、第三には人類に他の動物と全く異なつた高尙な道德心の生じたことであるが、これらは如何に考へても自然の方法で發達したものとは思へぬ。必ず物質の世界の外に靈魂の世界があつて、そこから生じたものに違ひない」と書いてあるが、かやうな論法は事物を理解しようと勉める科學の區域を脫して、最早宗敎的信仰の範圍に蹈み込んだものと見倣されねばならぬ。さればこの書は表題に「ダーウィン說」とあるが、その内容はダーウィンの說とは大に異なり、人類の進化に關することに就いては、全くダーウィンとは反對の說が載せてあるから、この書を先に讀む人は彼此[やぶちゃん注:「かれこれ」。]相混ぜぬやうに注意せねばならぬ。

 

 ウォレースはまた先年「宇宙に於ける人類の位置」と題する書を著して、奇怪な說を公にした。その大要をいへば、我が太陽系は宇宙の中心に位する。地球は宇宙の中心の特別の位置にあるから、他の星とは異つて、靈魂を有する人類の發生すべき特殊の條件を具へて居たのであらうといふやうな意味であるが、太陽系を以て宇宙の中心にあるものとは、何を基にして考へたか。現今天文學で知れて居る星の在る所だけを以て、宇宙と見做せば、太陽系がその中央に位するは無論であるが、之は五里までより見えぬ望遠鏡を用ゐて四方を見れば、自身は直徑十里ある圓形の宇宙の中央に位するやうな心持がするのと同じで、實は少しも意味のないことである。往年南アメリカインド諸島を探險し、「島の生活」、「動物の地理的分布」などを著した人が、老後斯かる論文を公にするやうになつたのは、實に惜しむべきことである。ウォレースは先年九十一歲の高齡で世を去つたが、死ぬときまで絕えず著作に從事して、數多くの書物を公にした。倂し老後の著作は槪して平凡なもので、新進の壯年學者の著書に比しては、遙に劣つたやうである。最後に著した「社會的周圍と道德の進步」と題する書物の如きも、現代文明の缺陷を竝べた所は聊か痛快であるが、その救濟の考案に至つては頗る幼稚なやうに感じた。宗敎家はウォレースが靈魂を說くのを見て大に悅び、進化論の泰斗、自然淘汰の發見者でさへ靈魂の存在を唱へるから、之は確であるなどというた人もあるが、晩年のウォレースは餘程不思議な方面へ傾いたから、ダーウィンと竝べて論ずることは到底出來ぬ。

[やぶちゃん注:「宇宙に於ける人類の位置」一九〇四年刊の“ Man's Place in the Universe 

「島の生活」一八六九年刊の“ The Malay Archipelago (「マレー諸島」)のことであろう。

「動物の地理的分布」一八七六年刊の“ The Geographical Distribution of Animals 

「社會的周圍と道德の進步」没年の一九一三年刊の“ Social Environment and Moral Progress 

ウォレースは先年九十一歲の高齡で世を去つた」ウォレスは一九一三年没で、本書は東京開成館から大正一四(一九二五)年九月に刊行されたものである。今までは、いちいちこの注をつけていたが、煩瑣になってきたので、本書の一九二五年刊行をここで覚えて戴きたい。以下ではこうした注は省略する。悪しからず。

 

 

 

Wizman

[ヴァイズマン]

 ウォレースの如く自然淘汰を以て生物進化のたゞ一の原因と見倣す人々のことを、今は「新ダーウィン派」と名づけて居るが、その最も有名な代表者は、近頃までドイツフライブルグ大學の動物學敎授を勉めて居たヴァイズマンである。この人は若いときから進化論に心を注ぎ、先に「進化論の硏究」と題する有益な書物を著し、今より二十四年前にまた「進化論講義」といふ一部一册の立派な本を書いて、大に進化論を鼓吹したが、嘗て「自然淘汰全能論」といふ小册を公にしたこともある位で、自然淘汰以外には生物進化の原因は決してないとの極端な說を取つて居る。而してかやうな說を取る論據は何であるかと尋ねれば、全く自分の考へ出した一種の遺傳說で、その大要は略々次の如くである。

[やぶちゃん注:「ヴァイズマン」ドイツの動物学者(専門は発生学・遺伝学)でフライブルク大学(正式には「アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)。(グーグル・マップ・データ))ドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウにある国立大学)動物学研究所所長であったフリードリヒ・レオポルト・アウグスト・ヴァイスマン(Friedrich Leopold August Weismann 一八三四年~一九一四年)。十九世紀、ダーウィンに次いで重要な進化理論家であり、同時に自然選択を実験的に検証しようとした最初の一人とされる以上はィキの「アウグスト・ヴァイスマンに拠る)。以下は「岩波生物学辞典」第四版の記載に拠る(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。『ゲッティンゲン大学で医学を修め、のち』、『ギーセン大学で』『動物の発生学および形態学を学んだ。フライブルク大学の準教授』(一八六六)年、同大教授(一八七一)年となる。『諸種の無脊椎動物の発生を研究したが、眼疾のため』、『主として理論家として遺伝・発生・進化などに関する理論を展開するに至った。彼の考察には遺伝・発生の染色体学説を予見するものが多くある。粒子説(デテルミナント)』(determinant:「決定子」とも称する。ヴァイスマンが生物の遺伝と発生を支配する細胞内の基本の粒子的単位として仮定したもの。彼は単位的構造が順次に「いれこ」となって構成されると考えた。則ち、最小の単位は「ビオフォア」(biophore)であり、これが組み合わさって「デテルミナント」となり、次いで後者が集合して「イド」(Id)となり、さらに「イド」が集って、これが現在の遺伝子概念に対応するが、異なる「デテルミナント」が各種分配されることにより、細胞の分化が起こると考えた点で、遺伝子の同じ組合せが全身の全細胞に配られるという事実と異なっている。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『的見解に基づいて生殖質の連続を主張し、獲得形質の遺伝を否定した。進化に関して自然淘汰の理論を拡張適用し』、自説を「ネオダーウィニズム」(neo-Darwinism/ドイツ語:Neodarwinismus)と称した、とある。「ネオダーウィニズム」は丘先生の言われる「新ダーウィン派」と同義で、同辞典によれば、『ダーウィンの学説内容のうち』、『生存闘争の原理だけを強調し』、『変異とその遺伝に関するダーウィンの見解を根本的に改めた』ヴァイスマン『の考え。すなわち、彼は生殖質の独立と連続の思想にもとづき、獲得形質の遺伝、つまり、いわゆるラマルキズム的要因を絶対的に否定した。これがネオダーウィニズムとよばれたが,現代の自然淘汰説も』、『その観念の発展の上にあると見て同様の名でよばれ、現在では主にそれを指す』とある。

 

「進化論の硏究」一八七五年刊の“ Studien zur Descendenz-Theorie. I. Ueber den Saison-Dimorphismus der Schmetterlinge (「進化論に関する研究:蝶の季節的二型性に就いて」)及び翌年の“ Studien zur Descendenztheorie : II. Ueber die letzten Ursachen der Transmutationen (「進化論に関する研究:変異の最後の要因に就いて」)であろう。

「進化論講義」一九〇二年にフライブルク大学で行われた講義に基づく“ Vorträge über Deszendenztheorie 

「自然淘汰全能論」一八九三年刊の“ Die Allmacht der Naturzüchtung : eine Erwiderung an Herbert Spencer。著名なイギリスの社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)への回答という形式を採っている。]

 ヴァイズマンが始めて遺傳に關する考を公にしたのは、今より四十年[やぶちゃん注:単純計算すると、一八八五年頃になるが、ヴァイスマン]ほども前のことであるが、その後屢々説を改めたゆえ、前のと後のとを比べると、餘程違つた所がある。細胞學上の細い硏究に關する學說は暫く省いて、その全部を摘んで述べて見るに、ヴァイズマンは生物の身體をなしてゐる物質を生殖物質と身體物質との二種に分ち、後に子孫となつて生まれ出ずべき物質を生殖物質と名づけ、その他身體の全部をなせる物質を身體物質と名づけて、この二者を區別した。而して生殖物質といふものは、一個體の生涯の中に新に出來るものではなく、生れるときに既に親から承け繼いで來て、子が孫を生むときには、またそのまゝに孫に傳はつて行く。卽ち親が子を生むときには、親の身體の內に在つた生殖物質が親から離れて獨立の個體となるのであるが、その際、親の生殖物質の一部は變じて子の身體となり、一部は變ぜずして、そのまゝ子の生殖物質となる。それ故、今日生物の有する生殖物質といふものは、皆各々その先祖の有して居た生殖物質からそのまゝ引き繼いで來たものである。生殖物質は生物の初から連綿として存するもので、代々生れたり死んだりするのは、たゞ身體物質の方だけであるとの說故、これを「生殖物質繼續說」と名づけた。この考によると、生物の身體は恰も前の代から引き繼いだ生殖物質を後の代に讓り渡すために、暫時これを保護する容器の如きもの故、一生涯の間に如何に身體が外界から直接の影響を被つても、その子は先祖代々の生殖物質から出來るのであるから、之には少しも變化を起さぬ。恰も重箱に傷が附いても、その中の牡丹餅(ぼたもち)に變化が起らぬ如くに、身體物質に起る變化は生殖物質に對して何の影響も及ぼさぬから、親が一生涯の間に得た身體上の變化は、決して子には傳はらぬとの理窟になるが、之が卽ちヴァイズマン說の徽章(はたじるし)とも見るべき「親の新に得た性質は子に遺傳せぬ」といふ考の根據である。

[やぶちゃん注:「ヴァイズマンが始めて遺傳に關する考を公にしたのは、今より四十年ほども前のことである」本書刊行から単純計算すると、一八八五年頃になる。ィキの「アウグスト・ヴァイスマンの「進化生物学への貢献」の一八八二年から一八九五年のパートの記載よれば、『ヴァイスマンが獲得形質を最初に否定したのは』一八八三年に『行われた「遺伝について」と題された講義で』、それ以降、彼は『強固な選択万能論者に転向した。彼は生物の全ての特徴が自然選択によって形作られると宣言した』とある。]

 斯く生殖物質といふものが、生物の初から今日まで直接に引き續いて居て、代々の個體がその生涯の中に得た新しい性質は少しも生殖物質の方に變化を起さぬとすれば、生物は如何にして今日の有樣までに進化し來つたか、生物には變異性といふものがあるから、自然淘汰も行はれ得るのであるが、この變異性は如何にして生じたかとの問が、是非とも起らざるを得ぬが、之に對するヴァイズマンの答は卽ち雌雄生殖說である。ヴァイズマンの考によれば、雌雄生殖の目的は甲乙二個體の生殖物質を種々に合せて無限の變化を起し、以て自然淘汰に材料を供給することであるが、その論據とする所は、近年急に發達した細胞學的硏究、特に生殖作用に關する顯微鏡的硏究の結果で、なかなか複雜な議論である。先づヴァイズマンの說を摘んでいへば、「生物の進化し來つた原因は全く自然淘汰ばかりで、淘汰が行はれるためには、生存競爭をなす多數の個體の間に多少の相違が無ければならぬが、この相違は雌雄生殖により、異なつた個體の生殖物質が種々の割合に混ずるによつて生じたものである。生殖物質と身體物質とは常に分かれて居るから、身體物質に生じた變化は生殖物質には關係せず、隨つて子孫に傳はらぬから、生物進化の原因とはならぬ」とのことである。

 右の說を實際に照して見ると、なかなか之によつて說明の出來ぬ場合、若しくは之と反對する場合などが澤山にあるが、ヴァイズマンは自分の說を維持し、且これらの場合をも解釋するために、更に種々の假想說を考へ出しては追加した。それ故、之まで人の考へた生物學上の學說の中で、凡そヴァイズマンの說ほど假説の上に假說を積み上げた複雜なものはない。本書に於ては到底その詳細な點までを述べるわけには行かぬが、以上掲げた大體のことだけに就いて考へて見るに、第一身體物質と生殖物質とを判然と區別するのが既に假說である。生長した生物の體內には特に生殖のみに働く物質のあることは事實であるが、この物質が先祖から子孫まで直接に引き續くとのことは、實物で證明することも出來ねば、また否定することも出來ぬ全くの想像である。素より學術上には假說といふものは甚だ必要で、或る現象の起る原因のまだ十分に解らぬときに當り、先づ假說によつて之を說明することは、その方面の硏究を促し、隨つて眞の原因を見出す緖ともなるもの故、學術の進步に對して、大に有功な場合もあるが、假說はどこまでも假說として取扱はねばならぬ。而して假說の眞らしさの度は之を以て說明し得べき事項の多少に比例するもの故、若し一の假説を以てそれに關する總べての事項を説明することが出來る場合には、差當り之を眞と見倣して置くが至當であるが、それを以て說明の出來ぬ事項が過半もある時には、之を誤と見倣して棄てるの外はない。ヴァイズマンの說の如きは事實と衝突する點も少からぬやうで、今日の所、尙幾多の論者が之に反對を表して居ること故、直に之を取つて推論の根據とするわけには行かぬ。蛙や鷄の發生を調べて見るに、最初の間は生殖の器官もなければ他の器官もなく、全く何の區別もないが、發生の進むに隨ひ、身體の各部が漸々分化し、腦も出來れば、肺も出來、胃も心臟も追々現れ、それと同時に生殖の器官も生ずる。之だけは眼で明に見えること故、確な事實であるが、かやうに分化せぬ前にも生殖物質と身體物質とは全く分れて居て、後に生殖の器官となるべき部には、初から特別な生殖物質が存して居るといふのは單に想像に過ぎぬ。

 また雌雄生殖を以て無限の變異を生ずるための手段と見倣すことも頗る受取り難い說である。ヴァイズマンは「雌雄生殖によれば、二個の異なつた個體の生殖物質が組み合つて子の生殖物質が出來るから、斯くして生じた子が自分と同樣な相手を求めて孫を生めば、孫の代には父方の祖父母と母方の祖父母と都合四個の生殖物質が組み合ひ、三代目には八個の個體の生殖物質が組み合ひ、代々益々多數な個體の生殖物質が組合つた結果、生殖物質の種類が無限に出來るが、子孫の身體は總べてその親の體內にあつた生殖物質から生ずるもの故、生殖物質に斯く無限の種類があれば、生れる子孫にも無限の變異が現れる。而してこれ等のものが生存競爭をして、その中最も適するものだけが生き殘るから、その生物の種屬は漸々進化する」と論ずるが、若し個體間の變異が單にかやうにしてのみ生ずるものならば、その變異は如何に多くても、決して一定の範圍を超えることは出來ぬ。先祖の性質を種々に組み合せれば、幾らでも變異を造ることは出來るが、先祖の性質以外のものが新に生ずることがないから、この中から代々どれが選ばれようとも、先祖に見ぬやうな全く別な性質が發達する望はないやうである。尙ヴァイズマンの說に對する批評は、別に後の章に述べるから、こゝには略するが、同說は前にも論じた通り、生物の身體は生殖物質と身體物質との二部より成り、生殖物質の方は先祖より子孫へ直接に繼續し、身體物質の方は一代每に新に生殖物質から分かれ生ずるものであるとの假定を根據とし、この假定を護るために必要に應じて樣々な假說を附け加へたものであるから、若しこの根本の假定が誤であつたとすれば、他の部分は皆これとともに不用と成るべき性質のものである。またヴァイズマンは前以て幾度も論文を發表して、如何なる種類の後天的性質でも子に遺傳する如くにいうた傳來の俗說を見事に敗り終つた後に、生殖物質繼續說を著して、更に理論上から後天的性質の遺傳を否定したから、その功果は著しく現れ、多數の學者は之に化せられて、ラマルク說を全く度外するに至つた。今日親が新に獲た性質は子に遺傳せぬと論じて居る學者は隨分澤山にあるが、皆ヴァイズマンの說を採つて居るのであるから、この說は、ダーウィン以後の學説の中で、確に最多數の人に對して最大な影響を及ぼしたものであらう。

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(39) 佛敎の渡來(Ⅱ)

 

 佛敎には多くの形式があり、近代の日本には十二からの主なる佛敎の宗派がある、併し今爰處[やぶちゃん注:「爰處」で「ここ」。]では、最も槪括的に、一般的な佛敎に就いて話せば足りるであらう。一般的な佛敎は哲學的な佛敎と區別されるものであるが、それに就いては次の章で觸れる事にする。大乘佛敎は、何時如何なる國でも、多數の信奉者を獲る事が出來なかった。その特有の敎義――涅槃の敎への如き――が普通の人に敎へ込まれたと想ふのは誤りである。人々に敎ヘ込ま込まれたのは只だ極めて素朴な心にも解るやうに、又好かれるやうに說かれた敎義の種類に渦ぎない。『人見て、法を說け』と云ふ佛敎の諺がある――その意味は敎を聽者の能力に適應させよと云ふのである。日本では、支那でもさうであるが、佛敎はその敎を、未だ抽象的觀念に馴らされてゐない大きな階級の人々の心意の能力に順應させなければならなかつた。現在でさへ、民衆は涅槃と云ふ言葉の意味をよくは知らない、彼等は宗敎の極簡單な形式だけしか敎へられてゐない、これ等の事を考へて見れば、宗派とか敎義とかの相違は考へる必要はないと思ふ。

[やぶちゃん注:「近代の日本には十二からの主なる佛敎の宗派がある」小泉八雲は最後で「宗派とか敎義とかの相違は考へる必要はないと思ふ」と述べているが、例えば、藤井正治著「仏教入門」に拠るとする個人サイト内の日本仏教宗派一覧表では、法相宗・華厳宗・律宗(以上は奈良仏教(教学系))・天台宗・真言宗(以上は密教系)・融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗(以上は浄土教)・臨済宗・曹洞宗・黄檗宗(以上は禅宗)・日蓮宗の十三宗を挙げている。この中から八雲が数えなかったのは、融通念仏宗であろうか。私は少なくとも名数に入れない。]

 佛教の教が一般民衆の心に及ぼした直接の影響を了解するには、神道には輪𢌞の敎へがないと云ふ事を記憶して置かなければならない。前にも云つたやうに、死者の靈魂は、日本の古い考へに從へば、つづいて世の中に存在して居るのである。死者の靈魂は、どうかして自然の目に見えない力と混じり合ひ、且つ自然の力を通じて働いて居るのである。一切の事がこの靈魂の――善惡兩樣の――仲介に依つて起るのである。生存中惡るかつたものは、死後も尙ほ惡であり、生存中善良であったものは、死後も善神になる、併しいづれにしても兩者共に奉祭を受けるのである。佛敎の渡來前は、未來で賞罰を受けるといふ思想はなかつた。何等天國とか地獄とか云ふ觀念はなかった。亡靈や神々の幸福は、生きて居る者の禮拜と供物とに懸かつてゐると考へられてゐたのである。

 これ等の古い信仰に對して、佛敎は僅にそれを敷衍し、說明する事に依つて、それに關する事を企てた――それを全然新しい知識の下に解釋する事に依つて、則ち變形は成就し得た。併し抑壓は出來なかつた。佛敎は古い信仰の全體を受け入れたとさへ云つていい位であつた。この新しい敎へは云つた。死者は視界の外に存在を績けると云ふのは眞實だ、それは萬人皆晩かれ早かれ佛――神の狀態――の路に入るべき運命にあるもの故、神になつたと考へるのは誤りではないと。佛敎は神道の大なる神々を、その性質や位と共に、認めた――而して言ふ、それは佛陀若しくは菩薩の權化であると、かくて太陽の女神は大日如來 Tathâgata  Mahâvirokana と同一に視られ、八幡宮は阿彌陀 Amitâbha とに同一に視られた。又佛教は妖魔や惡神の存在をも否定はしなかつた、それ等は  Pretas(餓鬼)や Mârakâyikas(魔)と同じに視られた、妖魔則ち Goblin に當たる日本の普通の言葉で言ふ、魔といふ言葉は、今日この同一視された事を想ひ起させる。惡靈に就いては、前世の惡業に依り自業自得で、永遠の饑餓の圈內に追ひ込まれる運命にある Pretas――餓鬼――として考へらるべきであつた。昔いろいろな惡疫の神――熱病、疱瘡、赤痢、肺病、咳、風邪の神――に供せられた生贄は、佛敎の是認する所となつて存續した。併し改宗した者はかかる害あるものを Pretas(餓鬼)と看倣し、且つ Pretas に捧げられるやうな食物の供物のみを、それ等の神々に供へる事を命ぜられた――それは贖罪のためではなく、亡靈の苦しみを救ふ目的のためであつた。この場合は、祖先の霊魂の場合と同じく、讀經は寧ろ亡靈のために唱へられるので、亡靈に向つて唱へられるのではないと佛敎は定めたのである……。讀者はロオマの舊敎が、同じ條件をつけて、昔のヨオロツパの祖先禮拜を、今尙ほ實際に存續さしてゐると云ふ事實を想ひ起すであらう。而して西歐諸國の何處でも、農夫達は尙ほその死者を萬靈節の夜に祭つでゐるのであるから、吾々は何處にもその禮拜が絕滅して居るとは考へ得ないのである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。サンスクリット語のラテン文字転写のそれらの綴りは、総て原典で確認したが、「Mârakâyikas」は「Mârâyikâs」と、「Goblin」は「Gobliw」となっていたので、特異的に原典で訂した

「大日如來 Tathâgata Mahâvirokana 」現行の大日如来の原語「マハーヴァイローチャナ」(「一切を照らし出す、偉大なる存在」(前の「マハー」が「存在」の意)。ラテン文字転写では「Vairochana」或いは「Mahāvairocana」である。頭にある「タターガタ」(「至上の尊者」の意)で現行では「tathāgata」と転写され、「如来」の意である。

「阿彌陀 Amitâbha」現行の阿弥陀(如来)の原語「アミターバ」(「量り知れぬ光を持つ存在」の意)は「Amitābha」に、或は別に「アミターユス」(「量り知れぬ寿命を持つ存在」の意)とも称し、そちらは「Amitāyus」と音写する。

Pretas(餓鬼)」原語「プレータ」の転写「peta」の複数形。現行では「六道の内の餓鬼道に生まれた者」の意。本来の意味は広く「死者の霊」を指したが、仏教で輪廻転生の六道に組み込まれた結果、かく変容した。

Mârakâyikas(魔)」「マーラ(Māra)」は、釈迦が悟りを開く禅定に入った際に、その瞑想を妨げるために現れたとされる魔神の名で「破壊者」の意である。英文サイトでは「マーラ」の正規表現として、この文字列を見る。

Goblin」ゴブリン。西欧で信じられている、森や洞窟に住むという醜い小人の姿をした悪戯好きの精霊。ドイツで「コボルト」(Kobold)、フランスでは「ゴブラン」(Gobelin)と呼んだりする。映画で有名になったグレムリン(gremlin)もゴブリンの一種である。]

 併し佛敎は舊い奉祭を存續した以上の事を爲したのである。佛敎はその奉祭を更に立派なものに仕上げた。その敎の下に、新しい麗はしい形式の家庭的祭祀が生まれた。そして近代日本に於ける祖先禮拜の、感動させるやうな詩情は、佛敎の傳道者の敎化に依つて得られた事を知る事が出來る。日本の佛敎に改宗した者達は、その死者を古い意味での神と看倣す事は止めたけれども、努めてその存在分信じ、尊敬と情愛とを以てそれに呼びかけることはした。Pretas の敎義が昔の家庭的奉祭を怠る事を恐れる感情に、新しい力を與ヘたと云ふ事は注意に値する。一般に嫌はれたる亡靈は、神道で用ふる言葉の意味での『惡神』ではないかも知れない。併しながら惡念のある餓鬼は惡神よりも確に恐れられたのである――と云ふのは佛敎は餓鬼の加害力を凄じいものと定めたからであつた。各種の佛敎の葬式に於て、死者は實際に今でも餓鬼として呼びかけられてゐる――それは憐むべきものであるが、又恐るべき名ものである――これは人間の同情と救濟とを大いに要するものであるが、併し又靈力に依つて供養者に恩返しをする事の出來るものなのである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。以下、底本は一行空け。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 『ホトトギス』東遷

 

     『ホトトギス』東遷

 

 三十一年後半の出来事として、特筆すべきものは、『ホトトギス』の東遷であろう。『ホトトギス』は創刊以来一年たったところで、巳に一度停頓の状を示したことがあった。極堂氏が多忙のため『ホトトギス』の仕事に鞅掌(おうしょう)[やぶちゃん注:忙しく立ち働いて暇のないこと。「鞅」は「担う」の意。]することが出来ず、編輯を他人に任そうかといって来た時である。居士はこれに対して種々の意見を具陳し、「何にもせよ小生はたゞ貴兄を賴むより外に術なく貴兄もし出來ぬとあれば勿論雜誌は出出來ぬことと存候」といい、また「一時編輯を他人に任すはよろしけれど到底それは一時のことにして再び貴兄の頭上に落ち來るは知れたことと存候」ともいっている。同じ手紙の中に「然れども東京にて出すには可なり骨が折れて結果少くと存候。畢竟松山の雑誌なればこそ小生等も思ふ存分の事出來申候」ということがある から、東遷の事は多少問題に上ったのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「極堂」正岡子規の同年の友人で、当時、海南新聞社員であった柳原極堂。既出既注。『ほとゝぎす』(創刊時はひらがな表記。カタカナ書きの『ホトヽギス』への改名は四年後の明治三四(一九〇一)年十月からで、則ち、この明治三十一年時点では『ほとゝぎす』であるので注意が必要)は明治三十年 『ホトトギス』生るに出た通り、明治三一(一八九七)年一月十五日に彼が松山で創刊した。]

 

 居士が『ホトトギス』の第四巻第一号に書いた文章によると、それから半年ほどたって、何分にも忙しくて困るが、雑誌は東京で引受けてやらぬか、ということを極堂氏からいって来た、東京でやるなどということは思いもよらぬので断ったが、当時帰郷中であった虚子氏が引受けてやることを思い立ち、居士に相談して来た、という経緯が述べてある。『ホトトギス』東遷の事はこの時決定したのである。

 二十六年の『俳諧』二十七年の『小日本』、居士の関係した新聞雑誌は皆早く挫折した。居士の念頭には常にこの事があったから、三度目の『ホトトギス』が出なくなるということについては、居士は人知れぬ苦痛を感ぜざるを得なかった。虚子氏に答えた長文の手紙にはこういう一節がある。

[やぶちゃん注:底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。底本の本表記は口語文の書簡であるため、歴史的仮名遣が総て現代仮名遣に書き換えられてしまっている。何時もの通り、原本「子規居士」に拠って正字化を含めて復元した。]

 

今一つ氣になつて居るのは『俳譜』といひ『小日本』といひ小生の關係した物は盡く失敗に終つた、尤も小生が自ら發起した者は無い。小生自ら發起した事があるならそれは小生の生命と終始すべきものであるけれ小生はなかなか發起などせぬ、併し幾ら他人に誘はれたものでも三度となると少しは小生の男にもかゝる。『ホトトギス』は三度目ぢやけれ代りの雜誌が出來りや格別、さうでなければどうかして倒さぬやうにと心がけて居る。それであるから今度の計畫に就いても二の足を蹈む次第ぢや。併し男ぢや、只貴兄の決心次第ぢや。

[やぶちゃん注:「小生自ら發起した事があるならそれは小生の生命と終始すべきものであるけれ小生はなかなか發起などせぬ」「けれ」以下の繋ぎはママ。已然形の逆説用法だが、不全。当時の松山方言かも知れぬが、後の方の順接法の「ぢやけれ」はすんなり読めるので、私には不審。]

 

 居士は『ホトトギス』の存続について異常な執著を持っている。しかし自分でやって行くという段になると、幾多躊躇逡巡すべき理由がある。虚子氏に念を押すのはそれがためで、「つまり貴兄と小生と二人でやって行かねばならぬ、若し小生病氣したら貴兄一人でやらねばならぬ、貴兄病氣したら小生一人でやらねばならぬ」その決心がついているかどうか、というのである。春以来此較的工合がいいといっても、居士の状態はそう平穏なわけでほない。「數日前寒暖計が九十五度に上つた、暑いのはそれ程苦まぬ小生も餘り苦し過ぎると思ふて驗溫器を取ると卅八度七分あつた。卅八度七分の熱を熱と知らないで天気の熱いと間違へて居る位ぢやけれ平生いかに苦に馴れて居るかは分るであらう、苦に馴れるといふほいつも苦んで居るといふ事ぢや」という位であった。極堂氏に発行を続けるように賴んだだけでも、一種の責任を感じて前より原稿を書くのに努力する居士としては、この病体を提げて絶対責任の地位に立つことを躊躇するのは、むしろ当然といわなければならぬ。

[やぶちゃん注:検温器の方の彼の体温三十八度七分は摂氏であるが、寒暖計の方は華氏。華氏「九十五度」は摂氏三十五度。]

 

 けれども『ホトトギス』の東遷は遂に実行された。はじめはこの機会に雑誌の名も改め、面目一新するつもりであったらしいが、結局いい思いつきもないため、『ホトトギス』[やぶちゃん注:くどいが、正しくは『ほとゝぎす』。]の名を継続して、松山で出た間の二十号までを第一巻とし、東遷後を第二巻と改むることに落着いた。

[やぶちゃん注:「『ホトトギス』の名を継続して」くどいが、正しくは『ほとゝぎす』。後の改題が『ホトヽギス』というただのカタカナ変更である以上、私はここは正しく書かなければ意味をなさぬと思うのである。残念なことに原典の「子規居士」でも同様に処置してしまっており、「ゝ」「ヽ」も正字化されてしまっているから、同俳誌の標題変遷過程を事前に全く知らない読者は困る。これは私にとっては下らない指摘ではなく、重大な疑義なのである。]

 

 『ホトトギス』東遷の事が決してから、居士が各方面に発した手紙を見ると、殆どどれにも『ホトトギス』に関することが記されている。「死地に踏み込む心持」といい「死を決し申候」というような言葉が見えるのも、居士にあっては決して誇張の言ではない。それだけ将来の責任を予想してかかったので、軽々に著手せず、一大決心を要した所以もここに存するのである。一度決心した以上は、雑誌の体裁から原稿の取捨に至るまで、悉く居士自身当らなければならぬ。中村不折、下村為山(いざん)(牛伴(ぎゅうはん))両氏の口画(くちえ)が意に満たぬため、画き直しを頼んだりする事件もこの間に起っている。何事もいい加減に配すことの出来ぬ居士は、不折氏の書いてくれた広告の文字まで、自分で書き改めたものに替えるほどの熱心さであった。

[やぶちゃん注:「中村不折」既出既注

「下村為山(牛伴)」(慶応元(一八六五)年~昭和二四(一九四九)年)は洋画家・俳人。後年は俳画(近代南画)へ転身して、その第一人者となった。松山藩士の次男として松山城下に生まれ、明治一五(一八八二)年に上京し、本多錦吉郎・小山正太郎(彼の起した不同舎では後輩に前の中村不折がいた)に洋画を学び、同郷の正岡子規と知りあって俳句を嗜むようになり、俳諧研究に手を染め、彼の絵画に於ける写生論が、逆に子規の俳句革新に大きい影響を及ぼしたとされる。中村不折とは同門の双璧と讃えられた。]

2018/05/12

北條九代記 卷第十二 相摸守高時出家 付 後醍醐帝南北行幸

 

      ○相摸守高時出家 付 後醍醐帝南北行幸

嘉曆元年三月に、高時、既に剃髮し、法名をば宗鑒(そうかん)とぞ號しける。舍弟左近大夫泰家を鎌倉の執權として、金澤修理大夫貞顯と連署せさせんとしける所に、長崎新左衞門尉高資、同心せず、押(おさ)へて泰家を出家せしむ。泰家、大に憤妬(いきどほりねた)みて、貞顯を殺さんと計る。貞顯、思ひけるは、『枝葉(しえふ)の職に居て、身を苦め、心を惱(なやま)し、人の嘲(あざけり)を蒙(かうぶ)らんは、偏に世の亂根となり、家門の爲、然るべからず』。これとても、俄に入道して、相摸守守時と北條左近太郎維貞(これさだ)と兩人を以て執權とす。泰家は、鎌倉、亡びて後に還俗し、西園寺の家に忍びでありけるが、刑部卿時興(ときおき)と名を替へて、謀叛しける人なり。維貞は、翌年十月に病死せられたりければ、自(おのづから)遺恨も止みて、別事(べつじ)なく成りにけり。元德二年二月に、主上、思召立ちて、南都に行幸ましましけり。同月の末に及びて、還御あり、又、北嶺に行幸(ぎやうかう)あり。是(これ)、更に佛法信心の爲にあらず、東夷(とうい)征伐の評議を以て衆徒の心を傾けられん謀(はかりごと)とぞ聞えし。當時、山門の貫主(くわんしゆ)は、主上第六の皇子、御母は大納言公廉(きんかど)卿の娘にて、梨本(なしもと)の門跡に御入室あり。承鎭(しようちん)親王の御門弟となり、圓頓止觀(ゑんとんしかん)の窓の前に、實相眞如(じつさうしんによ)の月を弄(ろう)し、荊溪(けいけい)玉泉(ぎよくせん)の流(ながれ)を汲んで、本有常住(ほんうじやうじう)の德を澄(すま)しめ給ひし所に、主上、思召立つ事有りてより、行學修道(ぎやうがしゆゆだう)の勤(つとめ)を捨てて、勁捷武勇(けいせふぶよう)の稽古の外、他事(たじ)なし。大塔宮護良(だいたふのみやもりなが)親王とは、この御事を申すなり。主上は男女に付きて、皇子(みこ)九人、皇女十九人までおはしける。その中にも、大塔宮は殊に武勇智謀に長じ給ひ、主上の御爲、柱礎爪牙(ちうそさうげ)の猛將にて渡らせ給ひける所に、運命、空(むなし)く閉ぢて、後に關東に引下され、直義(なほよし)が爲に殺せられ給ひけるこそ口惜(くちをし)けれ。同五月、二階堂下野〔の〕判官、長井遠江守、二人、關東より上洛す。法勝寺(ほふしようじの)圓觀(ゑんくわん)上人、小野文觀(をのゝもんくわん)僧正、南都の知教(ちけう)、教圓(けうゑん)、淨土寺の忠圓僧正を六波羅へ召捕りたり。是は去ぬる比、主上中宮、御産の御祈(いのり)に事寄せて、鎌倉調伏の法を行はれしと聞えければ、猶、主上御謀叛の子細を尋ねられん爲なり。又、二條中將爲明(ためあきら)は主上の近臣なりとて、六波羅へ召捕りて、拷問・水火(すゐくわ)の責(せめ)に及ばんとせし所に、

   思ひきや我が敷島の道ならで浮世のことを問(とは)るべしとは

常盤(ときは)駿河守範貞、この歌を見て、關東の兩使と共に感淚を流し、卽ち、許されて、過(とが)なき人になりたり。忠圓、文觀、圓觀の三僧は、關東へ倶せられて、主上御謀叛の事、具(つぶさ)に白狀せられければ、後に遠流(をんる)に所(しよ)せられけり。君の御隱謀、今は疑ふ所なしとて、同七月、俊基朝臣、重ねて鎌倉へ召下され、粧坂(けはいざか)にして斬れ給ふ。日野中納言資朝〔の〕卿は、佐渡の配所にして、本間山城〔の〕入道に仰せて、斬せられしかば、資朝の子阿新殿(あにひどの)、本間を殺して、父の仇(あだ)を報ぜられけり。資朝、俊基兩人は、殊に隱謀密策の張本(ちやうぼん)なる故とぞ聞えし。

[やぶちゃん注:和歌は前後を一行空けた。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、後半の後醍醐帝行幸と俊基・資朝の処刑は「太平記」巻第二の一項目の「南都・北嶺行幸(ぎやうがうの)事」から六項目の「俊基被ㇾ誅(ちうせらるる)事 付(つけたり) 助光(すめみつが)事」が利用されている。

「嘉曆元年三月」十三日。一三二六年。正確には正中三年である。正中三年は後の四月二十六日に嘉暦に改元するからである。

「舎弟左近大夫泰家」第九代執権北条貞時四男で第十四代執権北条高時の同母弟である北条泰家(?~建武二(一三三五)年頃?)。ウィキの「北条泰家」より引く。『はじめ、相模四郎時利と号した』。ここで『兄の高時が病によって執権職を退いたとき、母大方殿(覚海円成)と外戚の安達氏一族は泰家を後継者として推すが、内管領長崎高資の反対にあって実現しなかった。長崎氏の推挙で執権となった北条氏庶流の北条貞顕が』第十五『代執権となるが、泰家はこれを恥辱として出家、多くの人々が泰家と同調して出家した。憤った泰家が貞顕を殺そうとしているという風聞が流れ、貞顕は出家してわずか』十『日で執権職を辞任、後任は北条守時となり、これが最後の北条氏執権となった(嘉暦の騒動)』。正慶二/元弘三(一三三三)年、『幕府に反旗を翻した新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に侵攻してきたとき、幕府軍を率いてこれを迎撃し、一時は勝利を収めたが、その勝利で油断して新田軍に大敗を喫し、家臣の横溝八郎などの奮戦により』、『鎌倉に生還。幕府滅亡時には兄の高時と』は『行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びている』。『その後、京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗』(彼が関東申次で親幕派であったことによる)『の屋敷に潜伏し』、建武二(一三三五)年六月に『公宗と共に後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図って挙兵しようと計画を企んだが、事前に計画が露見して公宗は殺害された。ただし、泰家は追手の追跡から逃れている』(高時の遺児時行が御内人の諏訪頼重らに擁立されて幕府再興のために挙兵した「中先代(なかせんだい)の乱は、この二ヶ月後の七月)。その後、建武三年二月、『南朝に呼応して信濃国麻績御厨』(おみのみくり)『で挙兵し、北朝方の守護小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。一説には』建武二年末に『野盗によって殺害されたとも言われて』おり、「太平記」でも建武二年の『記述を最後に登場することが無いので、恐らくはこの前後に死去したものと思われる』とある。

「金澤修理大夫貞顯」北条(金澤)貞顕(弘安元(一二七八)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日))はここに出る通り、第十二代連署となり、そのままそれに続けて、第十四第執権高時が病気で職を辞したのを受けて、形の上で、たった十日間だけの第十五代執権(非得宗:在職:正中三年三月十六日(一三二六年四月十九日)~正中三年三月二十六日(一三二六年四月二十九日))となった。父は金沢流北条顕時(実時の子)。「卷第十二 金澤家譜 付 文庫」に一部を注したので、それに続けて、ウィキの「北条貞顕」から引く(一部、前の「舎弟左近大夫泰家」の注とダブる)。正和五(一三一六)年七月に『北条高時が執権になると、病弱な高時を補佐することになった』。この時、『高時が病気で執権職を辞職して出家すると、貞顕も政務の引退と出家を望むが、慰留を命じられる。後継を定めない高時の出家は次期執権に高時の子の邦時を推す内管領の長崎氏と高時の弟の北条泰家(後の時興)を推す外戚の安達氏が対立する得宗家の争いに発展する』。三月十六日、『貞顕は内管領・長崎高資により、邦時成長までの中継ぎとして擁立されて』第十五『代執権に就任する。このとき』、『貞顕は「面目、極まりなく候」と素直に喜び、執権就任の日から評定に出席するなど』、『精力的な活動を見せた』。しかし、『貞顕の執権就任に反対した泰家は出家し、それに追従して泰家・安達氏に連なる人々の多くが出家し』ている。『これにより』、『貞顕暗殺の風聞まで立ったため』、『窮地に立たされた貞顕は』十『日後』『に執権職を辞職して出家した(法名は崇顕)』。『そして新たな執権には』、四月二十四日に『北条守時が就任した』(嘉暦の騒動)。『出家後の貞顕は息子の貞将・貞冬らの栄達を見ることを楽しみにしていたとい』い、『六波羅探題南方として在京する貞将に鎌倉の情勢を伝えたりする役目も勤めている。なお、金沢流は貞顕の出世のため、貞将・貞冬の時代にも幕府の中枢を担うようになっていた』。元徳二(一三三〇)年閏六月頃、『貞顕は眼病を患っており』、閏六月三日付の『書状では子の貞将宛にそれを』伝えている。『新田義貞が上野で挙兵して鎌倉に攻め寄せ』た時には、『貞顕の嫡子の貞将と』、『その嫡男の北条忠時ら金沢一族の多くは』、『巨福呂坂を守備して新田軍と戦い』、『奮戦したが討死にした。そして』五月二十二日、『崇顕貞顕は高時と共に北条得宗家の菩提寺である鎌倉・東勝寺に移り最後の拠点として北条一族の多くと共に新田軍と少し戦った後、自刃した(東勝寺合戦)』享年五十六であった。

「相模守守時」第六代執権北条長時の曾孫にあたる北条(赤橋)守時(永仁三(一二九五)年~正慶二/元弘三年五月十八日(一三三三年六月三十日)。ウィキの「北条守時」によれば、『父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる』。徳治二(一三〇七)年十月一日、僅か十三歳で『従五位下左近将監に叙任されるなど』、『その待遇は得宗家と変わらず、庶流であるにもかかわらず、赤橋家の家格の高さがうかがえる』(『赤橋流北条氏は、北条氏一門において』、『得宗家に次ぐ高い家格を有し、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが』、『元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた』)。応長元(一三一一)年六月には、『引付衆就任を経ずに』、『評定衆に任命され』ている。この『嘉暦の騒動の後、政変に対する報復を恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人にあった守時が』第十六代執権となったが、『実権は、出家していた北条得宗家(元執権)の北条高時(崇鑑)や内管領・長崎高資らに握られていた』。正慶二/元弘三(一三三三)年五月に『姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し、高時から謹慎を申し付けられ』ている。五月十八日、『一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため』、『新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り』、『新田勢の糸口貞満と激戦を繰り広げて一昼夜の間に』六十五『合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず』、『洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)で自刃した』。『一説に北条高時の思惑に配慮して退却せずに自刃したともいわれる』。『子の益時も父に殉じて自害した』。享年三十九。

「北條左近太郎維貞(これさだ)」第十一代執権北条(大仏(おさらぎ))宗宣の子で大仏流当主となった北条維貞(弘安八(一二八五)年或いは翌年?~嘉暦二(一三二七)年)。朝直の曾孫。ウィキの「北条維貞」より引く。嘉元二(一三〇四)年に『引付衆に任じられる。以後は小侍奉行、評定衆、引付頭と順調に出世を重ね』正和四(一三一五)年には『六波羅探題南方に任じられて西国・畿内の悪党の取り締まりに尽力した』が、元亨四(一三二四)年に『探題職の辞任を命じられ、鎌倉への帰還を命じられたが、このときに後任の北条貞将への引き継ぎ、さらに空白の合間をぬって後醍醐天皇一派によって』、九月には「正中の変」が『引き起こされている。そ』の『変後の』十月三十日には『評定衆に返り咲い』ている。正中三(一三二六)年四月二十四日に『連署となり、第』十六『代執権の北条守時を補佐した。しかしこれは同年の嘉暦の騒動』を受けての、『内管領として幕政を主導していた長崎高資らによる融和策の一環として維貞が利用されたものとされる。そしてほどなくして病に倒れ、出家して』亡くなった』。『家督は嫡子の高宣(たかのぶ)が継いだが』、翌年に『早世し、弟の家時(いえとき)が家督を継いだ。大仏一族はのち、家時が鎌倉幕府滅亡時に自決し、貞宗、高直らが降伏後に処刑されている』とある。

「維貞は、翌年十月に病死せられたり」誤り維貞の逝去は嘉暦二年九月七日(一三二七年九月二十二日)である。

「元德二年二月」誤り三月。「元德二年」は一三三〇年。

「南都」東大寺と興福寺。

「北嶺」延暦寺。

「山門の貫主」ここは延暦寺の貫主、天台座主(ざす)のこと。

「主上第六の皇子」これは最後に「大塔宮護良(だいたふのみやもりなが)親王」とするので、かの悲劇の後醍醐天皇の皇子護良親王(延慶元(一三〇八)年~建武二(一三三五)年七月二十三日鎌倉:「もりよし」とも読む)ということになる。「ブリタニカ国際大百科事典」から引く(コンマを読点に代えた。『母は権大納言源師親の娘親子』。『鎌倉幕府追討のため』、『有力社寺との連絡を考慮した後醍醐天皇の意を受け、梶井門跡の大塔に入室』、嘉暦元 (一三二六) 年、落飾して尊雲法親王と称し、世に大塔宮といわれた。同』二年には『天台座主となり、関東調伏の祈祷をし、山門衆徒の収攬に努めた』元徳三 (一三三一) 年の「元弘の乱」が起こると、翌年、『還俗して護良と改名、吉野に兵をあげた。楠木正成の赤坂城が落ちてからは』、『幕府の追及を逃れて十津川。吉野。熊野などに転じ、各地の武士や社寺に反幕府の決起を促した。元弘三/正慶二(一三三三) 年後醍醐天皇の京都還御とともに入洛して征夷大将軍となり、兵部卿に任じられたが、まもなく足利尊氏との反目が起り、その勢力削減をねらって楠木、新田、名和氏らと画策したが』、『失敗』、『一方、成良親王の皇太子が廃止されるのを恐れた後醍醐天皇の後宮藤原廉子 (のちの新待賢門院) の讒言もあって』建武元 (一三三四) 年には『鎌倉に流されて幽閉され、同』二年七月に「中先代の乱」が『起ると、足利直義の命を受けた淵辺義博に弑殺された』。なお、彼が『大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと見られることからである』とウィキの「護良親王」にある。

「大納言公廉(きんかど)卿の娘」そうなると後醍醐天皇の室の一人、二条為子を指すであるが、これは誤り二条為子の父は二条為世(ためよ)である(「大納言公廉」とは阿野(藤原)公廉で、その娘は後醍醐天皇の別な寵妃で後村上天皇(義良親王)などを産んだ阿野廉子である)。そもそもが、為子は尊良親王や宗良親王の母であって、護良親王の母ではない。ここは、北畠師親(村上源氏中院流)の娘で後醍醐のやはり別な室であった北畠親子でなくてはおかしいのである。因みに、どうしてこんな混乱が筆者に起こったのかを推理してみると、後醍醐天皇には室が大勢おり、皇子もさわにあって、しかも、それらの名が皇族であるから仕方がないのだが、「~良親王」という一字違いの名であること、護良親王と同じような働きをした皇子がおり、それがまた天台座主を勤めていたからではないかと思うのである。それが直前に出した、第百二十世・第百二十三世天台座主で後醍醐天皇の皇子で還俗した宗良親王(むねよし/むねながしんのう 応長元(一三一一)年~元中二/至徳二(一三八五)年?)なのである。彼は、当初、妙法院に入室し、出家して尊澄法親王と称し、同門跡を嗣ぎ、さらに天台座主となった(就任は元徳二(一三三〇)年)。父である後醍醐天皇が討幕活動を開始すると、行動をともにし、「元弘の変」(一三三一年)後、幕府方によって讃岐へ流されたが、幕府の滅亡と建武の新政で京に戻り、天台座主に還任した。しかし、南北朝内乱が始まると、また還俗して宗良と名乗り、父天皇の軍事面の一翼を担った。まず、伊勢に赴いて、その後、遠江井伊城に入った。一時、吉野に戻って、暦応元/延元三(一三三八)年九月には北畠親房らとともに、船で伊勢大湊から東国を目指したが、台風によって親王の一行のみ、遠江に漂着、再び井伊城に入り、以後、信濃を中心に北陸・関東に転戦した。南朝勢力が下降すると、信濃小笠原氏に押され、同国伊那地方に籠もったが、その間、何回か南朝行宮(あんぐう)に赴いている。和歌に秀で、歌集「李花集」があるほか、南朝関係者の和歌を集め、勅撰集に準ぜられた「新葉和歌集」を編集している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)という人物だ。これはどちらにも悪いが、何とも紛らわしいのである。

「梨本(なしもと)の門跡」増淵氏の割注に『現在の大原三千院。天台三門跡(皇子などの居住する特定の寺』で、後の二つは青蓮院と妙法院である)『の一』つ、とある。ウィキの「護良親王」によれば、六『歳の頃、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入院した』とあり、この叙述と一致する。六歳というと、正和二(一三一三)年頃となる。

「承鎭(しようちん)親王」増淵氏の割注に『後宇多院養子、岩倉宮の子』とある。

「圓頓止觀(ゑんとんしかん)の窓の前に」「圓頓止觀」は通常「えんどんしかん」と濁る。人格を完成させた完璧な悟りの境地を指す語で、総ての真存在の理法を完全に具備し(あらゆる存在がそのまま全体(円)として直ちに真実の法則に合致すること)、雑念なく、直ちに悟りに到る境地のこと。主に天台宗で「漸次止観」「不定止観」と合わせて「三種止観」と呼ばれる。「窓の前に」は、それを学ぶことの比喩。以下も同じ。

「實相眞如(じつさうしんによ)」「實相」と「眞如」は同じ存在体を異なる立場から名づけたもの。万有の本体。永久不変にして平等無差別なもの。即ち、涅槃・法身・仏性(ぶっしょう)を指す。

「荊溪(けいけい)」中国の天台宗の第九祖で天台中興の祖とされる湛然(たんねん 七一一年~七八二年)のこと。「荊渓尊者」「妙楽大師」と称された。初祖智顗(ちぎ)の著述の研究とその教学の宣揚に努めた。「溪」や「湛然」という名(「湛然」は一般名詞で「静かに水をたたえているさま・静かで動かないさま」の意)から、「玉」露の「泉」の比喩を成したのである。

「本有常住(ほんうじやうじう)」現行では諸宗派は「ほんぬじょうじゅう」と読んでいる。本来固有にして生滅変化することがなく、三世に亙って常に存在すること。仏性が一切の有情非情に本来的に平等に備わっており、無始無終の存在であることなどを意味する。

「勁捷武勇(けいせふ)」強靱にして素早いこと。

「主上は男女に付きて、皇子(みこ)九人、皇女十九人までおはしける」後醍醐の子女は、ウィキの「後醍醐天皇」のデータで数えてみると、実に二十一人の皇子と二十三人の皇女がいる

「柱礎爪牙(ちうそさうげ)」ある対象(事物・行動)の大黒柱や土台石、重要な基本部分や根幹となるもの、また、外部からの攻撃や抵抗勢力に対する、爪や牙のような非常に強力な武器となることを言う。

「直義(なほよし)」足利直義(あしかがただよし 徳治元(一三〇六)年~観応三/正平七年二月二十六日(一三五二年三月十二日))足利貞氏の子で兄尊氏とともに建武政権樹立に貢献、建武二年の「中先代(なかせんだい)の乱」に際し、護良親王を殺害したことから、建武政権と決別、室町幕府創設後は尊氏を補佐したが、後、執事高師直(こうのもろなお)と対立し、兄尊氏とも不和となってしまう(観応の擾乱)。一時は和睦したが、再び尊氏と戦って降伏、鎌倉で四十七歳で死去した。兄による毒殺とされる(概ね、講談社「日本人名大辞典」を参照した)。

「同五月」叙述からは元徳二(一三三〇)年になってしまうので、誤り元弘元(一三三一)年

「二階堂下野〔の〕判官」二階堂時元(?~暦応元/延元三(一三三九)年)。二階堂元重の孫で行元の子。サイト「南北朝列伝」のこちらの記載によれば、『二階堂一族の一員として鎌倉幕府の政務官僚をつとめていた』。「太平記」ではこの『「元弘の変」の際に幕府の使者として「二階堂下野判官」』『時元が長井遠江守と共に上洛したと書かれているが、史実ではこの時の幕府の使者は別の二人と確認されており、時元が実際に上洛したかは不明である』とある。その後、正慶元/元弘三(一三三三)九月には『畿内の討幕派鎮圧のために派遣された幕府軍に参加(同族の二階堂道蘊もいた)。恐らく吉野や千早城の攻撃に参加し、そのまま幕府の滅亡を迎えて後醍醐側に投降したと思われる。他の二階堂一族と同様にその政務能力を買われていたはずである』とし、『足利幕府が発足するとこれに参画し、建武四/延元二(一三三七)年には『幕府の内談衆メンバーにその名がみえる』とある。調べてみると、二階堂氏の中には足利氏に転じて命脈を保った流れが結構あるようである。

「長井遠江守」不詳。サイト「南北朝列伝」のこちらの記載によれば、『鎌倉幕府の実務官僚を多く出した長井氏の誰かと思われるが』、『実名不明』とある。

「法勝寺」(ほっしょうじ)は平安時代から室町時代まで平安京の東郊白河(現在の岡崎公園・京都市動物園周辺。この附近(グーグル・マップ・データ))にあった六勝寺(同時代に建立された「勝」の字を持つ勅願寺六ヶ寺)の筆頭とされた寺。白河天皇が承保三(一〇七六)年に建立した。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後に衰微廃絶した。

「圓觀(ゑんくわん)上人」弘安四(一二八一)年~延文元/正平一一(一三五六)年)は南北朝時代を代表する天台宗の高僧で、「太平記」作者説もある人物。サイト「南北朝列伝」のこちらに詳しく、『皇室の帰依も受け、後伏見・花園・後醍醐に円頓戒を授け、とくに後醍醐の信任を受け嘉暦元年』(一三二六年)『の中宮安産祈願にかこつけた倒幕の祈祷に文観とともに参加している』。ここにあるように、その一件が露見して『捕えられ』、六『月に取り調べのため』、『鎌倉に送られた』が、『「太平記」によれば』、『鎌倉についた円観は北条一門の佐介越前守に預けられ、文観・忠円が拷問にかけられ』、『白状したあと』、『円観も拷問にかけられようとしたが、北条高時が夢に比叡山の神獣・猿たちが円観を守ろうとする光景を見て、さらに佐介越前守が円観の様子を見に行ったところ』、『障子越しの円観の影が不動明王の姿に見えた。これらの奇跡を見て恐れをなした高時は円観の拷問を中止させ、当初遠流に決定していたところを奥州・白河の結城宗広に預けるという軽い処分で済ませた』とある。後に『幕府が滅ぼされ』、『建武政権が成立すると、円観は』『京に戻った』。『法勝寺住持に返り咲いた円観は、同じく流刑地から戻った文観と共に後醍醐から厚く遇せられ』、『「権勢無双」と称され、「法勝寺の僧」と聞いただけで関所の兵士たちが弓を伏せうずくまったと伝えられる』とある。

「小野文觀(をのゝもんくわん)僧正」(弘安元(一二七八)年~延文二/正平一二(一三五七)年:「もんがん」とも)は、やはりサイト「南北朝列伝」のこちらに詳しい。冒頭に『後醍醐天皇の腹心となった僧侶。邪教とされる「真言立川流」の大成者とされ、その人脈と存在感から「南北朝動乱の影の演出者」「怪僧・妖僧」とまで呼ばれる』とある。「小野」は京都市山科区小野(ここ(グーグル・マップ・データ))にある真言宗小野随心院。小野小町所縁の寺としても知られる。珍しく私も行ったことがある。

「南都の知教(ちけう)」尊鏡(そんぎょう 文永二(一二六五)年~?)のこと。やはりサイト「南北朝列伝」のこちらに詳しい。冒頭に『後醍醐天皇の討幕計画に参加した律宗僧。『太平記』では「知教」、花園天皇の日記では「智暁」、『鎌倉年代記裏書』では「智教」と表記されているが、その正体は西大寺の智篋房(ちぎょうぼう)尊鏡であることが近年研究者により解明されている』とある。

「教圓(けうゑん)」これは「太平記」に記載する名で、サイト「南北朝列伝」のこちらを見るに、慶円(ぎょうえん 文永元(一二六四)年~暦応四/興国二(一三四一)年)である。冒頭に『後醍醐の討幕計画に関与した唐招提寺の僧』とある。

「淨土寺」かつて銀閣寺(正式名称は慈照寺)の場所にあった天台宗寺院か。

「忠圓僧正」は生没年不詳。サイト「南北朝列伝」のこちらを参照されたいが、それによれば、「太平記」『では忠円自身は呪詛には参加していなかったが、後醍醐に近い立場にあって仏教界に顔が広く、陰謀について知らないはずがないというのが逮捕の理由であったとされる(』『実際には呪詛に関与した可能性が高い)』。『忠円は円観・文観と共に鎌倉に送られ、足利貞氏(尊氏の父)の屋敷に預けられた』が、「太平記」によると、『忠円は元来』、『臆病な性格であったため拷問されそうになると』、『たちまち後醍醐の陰謀についてすべて白状してしまったという。幕府は忠円を越後国へ流刑にしたというが、その後の消息は不明である』とある。また「太平記」巻二十五では、『「観応の擾乱」の前触れとして仁和寺に護良親王ら南朝方の怨霊が集まり世を乱す陰謀を語る逸話があり、ここで忠円は峰僧正春雅・智教上人(尊鏡)と共に天狗の姿になって登場、怨霊たちがそれぞれに幕府の有力者にとりついて世を乱そうと提案している。忠円自身は高師直・高師泰兄弟の心にとりついて足利直義と争わせたことになっている。こうした描写からすると、忠円は配流先の越後で死去したということだろうか』と記しておられる。

「主上中宮」後醍醐天皇の中宮西園寺禧子(きし 嘉元元(一三〇三)年~元弘三(一三三三)年)。太政大臣西園寺実兼の三女。

「御産の御祈に事寄せて、鎌倉調伏の法を行はれしと聞えければ」ウィキの「西園寺禧子」に、『禧子は』正和四(一三一五)年に『第二皇女、懽子内親王(のちの光厳上皇妃、宣政門院)を出産しているが、その後は自身の上臈であった阿野廉子に天皇の寵愛を奪われたこともあってか、子女を産むことはなかった』。『なお、天皇がしばしば中宮御産の祈祷を行ったとされ、通説ではこれを「関東調伏」の祈祷の口実とするが』、歴史学者『河内祥輔は関東申次として幕府にも強い影響力を及ぼした西園寺家を外戚とする親王が誕生すれば、将来の皇位継承から除外された後醍醐天皇の皇子といえども』、『鎌倉幕府がこれを無視することが困難になるため、禧子所生の親王の誕生を必要としたとする説を提示している』とある。

「二條中將爲明(ためあきら)」二条為明(永仁三(一二九五)年~貞治三/正平一九(一三六四)年)。二条為藤の子で、歌壇の中心人物として活動し、後光厳天皇から「新拾遺和歌集」の撰集を命じられたが、撰の途中で死去した。歌は「続(しょく)千載和歌集」などにあり、勅撰入集数は計四十五首ある。

「思ひきや我が敷島の道ならで浮世のことを問(とは)るべしとは」水垣久氏のサイト「やまとうた」の「千人万首」の「二条為明」に「太平記」所収として、本歌を載せ、「補記」で、

   《引用開始》

太平記巻二「僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事」。元徳三年=元弘元年(1331)、後醍醐天皇の討幕計画が漏れた際、為明は側近の歌人として六波羅に捕われた。拷問にかけられようとした時、硯を所望し、料紙にこの歌を書いた。幕府の使者たちはこれを読んで感涙し、為明はあやうく責を遁れたという。和歌としてすぐれた作ではないが、南北朝の政争に翻弄された歌人為明の人生を象徴するという意味では彼の代表作となろう。為明の歌人としての名声はこの一首によって高まったという(近来風体抄)

   《引用終了》

「常盤(ときは)駿河守範貞」北条範貞(?~正慶二/元弘三(一三三三)年)。北条氏極楽寺流の支流常盤流の当主。父は北条時範、重時の曾孫である。北条貞時が得宗家当主であった期間内(一二八四年~一三一一年)に元服し、「貞」の偏諱を受けたと見られる。正和四(一三一五)年に引付衆に任ぜられて幕政に参画。元応二(一三二〇)年には評定衆に補充された。元亨元(一三二一)年、六波羅探題北方に任命されて上洛、元徳二(一三三〇)年、北条仲時と交替するまで九年間、務めた。同年、帰還した鎌倉で三番引付頭人に就任した。元徳元(一三二九)年に駿河守に任ぜられている。「太平記」によれば、新田義貞による鎌倉攻めに際し、他の北条一族と共に自害して果てた(東勝寺合戦)とする。同じく「太平記」では北条貞将とともに六波羅探題留任の要請を謝絶したこと、謀叛の廉で捕らえられた二条為明への尋問を行い、為明の披露した歌を聞き、無実であると裁定を下して釈放したことなどが記されている。彼は歌人でもあり、勅撰集に三首収録されている(以上はウィキの「北条範貞」に拠った)。

この歌を見て、關東の兩使と共に感淚を流し、卽ち、許されて、過(とが)なき人になりたり。「所(しよ)せられけり」処罰された。

「同七月」これも前が元弘元年なので誤りで、月も違う日野俊基の処刑は元弘二(一三三二)年六月である。

「俊基朝臣」日野俊基(?~元弘二/正慶元年六月三日(一三三二年六月二十六日))刑部卿日野種範の子。既出既注であるが、再掲しておく。文保二(一三一八)年の後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となり、後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受けて、討幕のための謀議に加わった。諸国を巡り、反幕府勢力を募ったが、六波羅探題に察知され、正中の変で同族の日野資朝らとともに逮捕された。彼の方は処罰を逃れ、京都へ戻ったが、この「元弘の乱」の密議で再び捕らえられて、得宗被官諏訪左衛門尉に預けられた後、鎌倉の葛原岡(ここでは「化粧坂(けはいざか)」とするがこの切通しは葛原岡の南の上り坂口ではあるものの、そこで処刑されたのではないから、やはりおかしい)処刑された。

「日野中納言資朝」(正応三(一二九〇)年~元弘二/正慶元(一三三二)年)日野俊光の子。やはり既出既注であるが、再掲しておく。後醍醐天皇の信任を得て、元亨元 (一三二一) 年に参議となり、院政をやめて親政を始めた天皇が、密かに計画した討幕計画に同族の日野俊基らと加わり、同三年、東国武士の奮起を促すために下向した。しかし、翌正中元 (一三二四) 年九月に討幕の陰謀が漏洩し、六波羅探題に捕えられ、鎌倉に送られ、翌二年に佐渡に流された (正中の変) 。その後、この後醍醐天皇の再度の討幕計画の発覚 (元弘の乱)した際、配所で処刑されている。

「本間山城〔の〕入道」(?~正慶元/元弘二(一三三二)?)は佐渡守護代。サイト「南北朝列伝」のこちらによれば、『本間氏は北条氏大仏流の家臣。佐渡守護の大仏家に代わって守護代として佐渡支配にあたっていた。実態としては守護代というより』、『現地地頭と言った方がいいとの意見もある』。『本間山城入道は』「太平記」巻二に登場し、『「正中の変」で佐渡へ流刑となった日野資朝を預かっていたが、「元弘の乱」が起こったために幕府の命を受けて資朝を処刑する役回りである』。「太平記」では元徳三/元弘元年の『うちに処刑される展開になっているが、史実では乱がひとまず鎮圧され』、『後醍醐天皇が隠岐へ流された後の』正慶元/元弘二(一三三二)年六月二日に『処刑が執行されている』。「太平記」では『処刑直前に資朝の子・阿新丸が佐渡までやって来て、本間山城入道は哀れには思って丁重に扱いつつも』、『父子の面会は許さぬまま』、『処刑する。そのために阿新丸に父の仇として命を狙われるが』、『代わりに息子の本間三郎が殺されてしまうという展開になっている』。『雑多系本間氏系図では』、『この山城入道に該当しそうな人物として「泰宣」がいる。この系図では彼が「山城兵衛尉」であったとしているためだが、「正慶元年六月十日死」と注記されており、これが事実であれば』、『資朝処刑の直後に死去したことになる』。しかし『一方』では新田の『鎌倉攻めで、大仏貞直に従って極楽寺切通しで奮戦した本間山城左衛門と同一人とする見方もある』とある。ともかくも、このサイト「南北朝列伝」の人名録は感服するほど素晴らしい!

「資朝の子阿新殿(あにひどの)」増淵氏の訳では、この「阿新殿」に対して『くまかわどの』のルビが振られており、平凡社「世界大百科事典」でも「阿新丸」として「くまわかまる」と訓じている。それによれば(コンマを読点に代えた)、元応二(一三二〇)年生まれで正平一八/貞治二(一三六三)年没とし、『鎌倉時代末の公家日野資朝の子。資朝は後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、事が漏れて捕らえられ、佐渡に流された』十三『歳の阿新は従者』一『人をつれて佐渡に渡り、守護本間入道に父子の対面を願ったが』、『許されず、父は殺されてしまった。復讐の機をねらう阿新は、ある夜』、『本間の寝所に忍び込んだが、入道は不在で果たせず、父を斬った本間三郎を殺して巧みに逃げ、山伏に助けられて都に帰った話が』「太平記」『にくわしく記されている。その後』、『阿新は邦光と名のって南朝の忠臣となり、中納言に任ぜられた』とある。] 

御伽百物語卷之五 人、人の肉を食らふ

 

     人 食人肉

Jinnnikuwokuu

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを、左右合成し、上下左右中央の枠や雲形の一部を除去した。これは、またしても左右の絵が上手く繋がらないものであったからである。標題は「人(ひと)、人の肉(にく)を食らふ」と訓じている。なお、本章はハンセン病患者が登場するが、同病に対する当時の誤った激しい差別認識(それは今現在も潜在的に続いている)に基づく、驚くべき展開(但し、この猟奇的な内容は後で注するように、一部で信じられ続け、明治・昭和に至っても実際の殺人事件や死体損壊として起こっている)をする。くれぐれもそうした誤りと差別意識に対して批判的視点を忘れずにお読み戴きたい。また、それとはまた違った次元での、中国史での猟奇的嗜好としてのカニバリズム(人肉食:英:cannibalism:スペイン語「Canibal(カニバル)」に由来し、「Canib-」は「カリブ族」のことを指しており、十六世紀頃のスペイン人航海士達の間では西インド諸島に住むカリブ族が人肉を食べると信じられていた。但し、これは隣接して生きていた別部族アラワック族からの伝え聴きであったともされ、好戦的なカリブ族をそのように風聞誤認した可能性が強い)の記載が出る。私の注ではそれについて、やや具体的な原典表示と訳ものせているので、その手のものに耐性のない方は、注は飛ばして読まれんことをお勧めしておく。]

 およそ、人として、人を食ふ事、おほく年代記などに載せしるして、飢饉の年を斷(ことは)る物あり。

 しかれども、元來、もろこしの書にも記して後代に殘せる所によれば、好(このん)で食ひたる人も、ありしなるべし。陶九成が「輟畊錄」には「想肉(さうしゝ)」と記(しる)し、唐(たう)の世には「啖醉人(たんすいじん)」と名づけたる。其外、「五雜組」「朝野僉載(てうやせんさい)」「雜説」などあげてかぞふるも、くだくだしき説なるべし。

[やぶちゃん注:『陶九成が「輟畊錄』元末明初の学者で文人の陶宗儀(生没年未詳:台州黄岩の出身。「九成」は字(あざな))が元末の一三六六年に書いた随筆。正式には「南村輟耕錄」(「畊」は「耕」の異体字)。全三十巻。既に記した通り、鷺水は同書から「宮津の妖」(翻案原典は「鬼臟」)・「恨はれて緣を結ぶ」(同「釋怨結姻」)・「繪の婦人に契る」(同「鬼室」)をインスパイアしている。

「想肉」原文は「中國哲學書電子化計劃」のこちら、或いは「漢籍リポジトリ」のここで読める。ある軍人は「食嗜食人。以小兒爲上、婦女次之、男子又次之。」(人の肉を好んで食った。小児のそれを以って上となし、婦女、これに次ぎ、男子はまた、これに次ぐ味わいであると。)として、以下、具体的な調理法を載せ、『總名曰、「想肉」。以爲食之而使人想之也。』(それら、人肉を総名して曰わく、「想肉」と呼んだ。何とならば、これ食らうと、人をして、その人肉が、これまた、いろいろなことを想像させて呉れるからである。)とある。以下、人肉食嗜好者の名とその事例を具体的に各書から引用して挙げ、飢饉や戦乱の世ならばある種、仕方がないとしても、この連中は「當天下宴安之日、而又身爲顯宦、豈無珍羞美膳、足以厭其口腹。顧乃喜啖人肉、是雖人類而無人性者矣。」(天下太平の時にあって、しかも高位高官の身分でありながら、珍味・美味なる料理を腹いっぱい食べられないことなどないにも拘わらず、人の肉を食らい味わうことを喜んだのであり、こいつらは人の姿をしていながら、根っからの人非人の魂を持った者どもなのである。)からして、「終至於誅斬竄逐而後已。天之報施、不亦宜乎」(遂には誅伐され、斬殺され、追放・放逐される末路しかないのである。そのおぞましい行いに天の報いが下ること、これは至極、当然のことである。)と結んでいる。

「啖醉人(たんすいじん)」人肉食嗜好者の称。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになったという数奇な経緯を持つ書物である。巻五の「人部一」に『隋、麻叔謀、朱粲嘗蒸小兒以爲膳。五代、萇從簡好食人肉、所至多潛捕民間小兒以爲食。嚴震、獨孤莊皆有此嗜。至宋邕智高之母阿儂者、性慘毒、嗜小兒肉、每食必殺小兒。噫、此虎狼所不爲、而人爲之乎。』とある。麻叔謀が小児の肉を好んで食ったことは、かなり知られている。

「朝野僉載(てうやせんさい)」「遊仙窟」の作者として知られる唐の文人張鷟(ちょうさく)の伝奇小説集。先の「輟耕錄」の「想肉」の例に『唐張新「朝野僉載」云、『武后時、杭州臨安尉薛震、好食人肉。有債主及奴詣臨安、止於客舍、飮之醉、並殺之、水銀和煎、並骨銷盡。後又欲食其婦、婦知之、躍墻而遁、以告縣令。令詰之、具得其情、申州錄事奏、奉搬杖一百而死。』と挙げてある。人を酔い潰した上で殺し、水銀を混ぜて煎り、骨まで溶かした上で食った、とある。

「雜説」唐の盧言の撰になる「盧氏雜説」。やはり、先の「輟耕錄」の「想肉」の例に、『「盧氏雜説」云、『唐張如爲節鎭、頻吃人肉、及除統軍到京、班中有人問曰、「聞尚書在鎭好人肉、虛實。」。笑曰、「人肉腥而且韌、爭堪吃。」。』とある。唐の徳宗・憲宗期の重臣張茂昭は人肉を食うことを好み、それが流言として知られていた。ある人がそれは「本当か?」と問われ、「人肉は腥(なまぐ)さい上に非常に硬い筋があって、とても食えたものではない」と否定したつもりが、人肉食をしていることを図らずも暴露してしまってオチ附きの話となっている。

「くだくだしき」本来は「煩わしい・くどい」の意だが、ここは「数え上げれば、胸が悪くなるようなおぞましい」のニュアンスである。因みに、この手の中国史に限った学術的なものとしては、桑原隲藏の「支那人間に於ける食人肉の風習」(『東洋學報』(第十四卷第一號・大正一三(一九二四)年発行)が「青空文庫」で読める。また、汎世界的であった現象としての広汎な概観は手っ取り早く読もうなら、ィキの「カニバリズム」がある。但し、それは各国・各地域の叙述の歴史的記述部分はかなり杜撰である。書籍としては、私は十数冊のカニバリズム論を所持しているが、第一に文化史的視点から極めてストイックに解析したフランスの思想家ジャック・アタリ(Jacques Attali)の著になる、金塚貞文翻訳「カニバリスムの秩序 生とは何か・死とは何か」(L'ordre cannibale, vie et mort de la médecine(「カニバルの秩序、治療としての生と死」(か?)・一九八〇年/訳本・一九八四年みすず書房刊)を強くお薦めする(恐らく、過去未来に亙って真摯なカニバリズム論はこれを越えることは難しいと私は思う)。ちょっと危険がアブナい系(但し、集成としては手頃)では、百科事典単項目型の好きな(というか、この「図説」「全書」というシリーズ的書名は多分に偏奇な出版社原書房の売り戦略)フランスのマルタン・モネスティエ(Martin Monestier)の大塚宏子訳「図説 食人全書」(Cannibales. Histoire et bizarreries de l'anthropophagie hier et aujourd'hui(カニバル/食人慣習に於ける過去と現在の歴史と奇怪性」(か?))・二〇〇〇年/訳本・二〇〇一年原書房刊)辺りか。]

 こゝに、江州伊香立(いかたち)の里の邊(ほとり)に住みける淸七とかやいふなる者は、所壹番の富貴者(ふうきしや)也けるが、前世の宿業は遁れがたきものにて、黑癩(こくらい)といふ病(やまひ)ありて、しかも祖父の代より相續き、是非に[やぶちゃん注:必ず。]壹人(ひとり)づゝは、此やまひに染(そ)むものありけるが、此度(このたび)は此(この)淸七にや渡りけん、生まれてより廿五、六に及ぶまでは、何の病といふ事もなく、剩(あまつさ)へ、器量骨體(こつがら)[やぶちゃん注:体格。]も他に勝れ、美男の取沙汰にも預りける程のものなりしが、何(いつ)となく睫(まつげ)の薄らぎそめけるより、例の惡病の相(さう)、ひとつひとつ顯はれしかば、妻子を始め、たれたれも、明暮れ、これのみを悲しき事におもひ、もとより、淸七は、此病にそみけるより、我ながら、我が身の疎しくなりて、人にも逢はず引きこもりつゝ、

『此病(このやまひ)、何(なに)とぞして治する人あらば、たとひ萬金の費(つゐへ)ありとも、おしむべき道にあらず。哀れ、換骨(くわんこつ)の神醫(しんい)もがな。』

と、あるとある名醫を招き、さまざまの藥を用ひ、あるひは、神ほとけに願(ねがひ)を立(た)て、すまじき難行をつとめなど、二、三年も手をつくし、金銀を惜まず療治しけれども、猶いやましにつのり行くのみにて、露ばかりの驗(しるし)もなければ、

『今は是非なき事。』

と思ひさだめながら、流石、死なれもせぬ命とて、面(おもて)つれなく、人を四方(ほう)に馳せ、あまねく所緣をもとめても、絶えず、治療の術(てだて)を尋ねける所に、都(みやこ)北山大原の里、野中村といふ所に利春(りしゆん)といひて惣堂を守る出家なりとかや、名乘りて、淸七が家に尋ね來たり、

「此病を治する事、おそらく、我ならで傳(つた)へたるものなく、今まで多くの人に逢ひて治するに速効を見せずといふ事なし。」

など、種々の荒言(くわうげん)に辯をかざりて、淸七を、

「治すべし。」

と語るに、淸七、大きに悦び、殊の外にもてなしなどして、師か親かと思ふ程の傅(かしづき)きをなして、

「此難病を治して給(た)べ。」

と、他念なく願ひけるに、利春も彼が二心(ふたごゝろ)なく賴み尊敬しつる心ざしを感じ、身命(しんめい)をも惜しまず、晝夜、工夫をつゐやし、さまざまと手を盡して醫療をくわへ[やぶちゃん注:ママ。]けれども、曾て露ばかりの功をも顯はさゞる事を歎き、ある時、ひそかに淸七を招きて私語(さゝやき)けるは、

「今、君が此難病に苦しむがゆへを以て、我(われ)ごとき貧乏の賤(いやし)き身を敬ひ崇(あが)めても、猶あきたらざるが如くするは、是れ、ひとへに我が湯藥(たうやく)の功をうけて、今の痼疾(こしつ)を治し、身を安樂にせんがため也。我もまた、此心ざしを知り、この惠(めぐみ)を請けながら、いたづらに尋常の藥方をもつて、驗もなき日月を送らん事、もつとも深き恥なり。されば、我が家に祕し、一子に傳へて、代々最極(さいごく)の妙方とする藥あり。およそ、是れを用ゆるに、いかなる極重惡(ごくぢうあく)の報(むくい)を受け、日本大小(につぽんだいせう)の神祇(しんぎ)に白癩黑癩(しらひとこくみ)と儺(やらは)れ、多千億(たせんおく)の佛菩薩に憎まれたる定業(ぢやうごう)の病といへども、一たびは治せずといふ事なき神仙不測の靈藥なり。我、このほど、さまざまと心を盡し、配劑、手をくだきて、數貼(すふく)の藥餌(やくじ)を用ふるといへども、さらに其功を見る事、なし。かるが故に、今、此(この)神方(しんぽう)をもちひ膏肓に入るの沉痼(ちんこ)を驅(か)り出だし、永く快氣の効驗(かうげん)を見せ申すべし。しかしながら、此神方、今まであたへざりし事は、我、かつて惜みたるにあらず、藥味の内の一色(ひといろ)、大切にして尤(もつとも)得がたき物あり。此(この)ゆへに服せしめず。君、もし、丁寧に望みて万金(まんきん)をもおしまじとならば、我、君がために身命を捨てても、速かに治し參らせつべし。」

と、念比(ねんごろ)に語るを、淸七も彼(かれ)が心ざしの無二なるを見て、淚を流し、

「迚(とて)も、世にながらへ、人に面をも合はさん身ぞならば、たとひ、田宅所領に替へても、五體不具ならずしてこそとおもふなり。いかにもして御恩には、只(たゞ)疾(とく)この病を救ひたび給へ。」

と、ひたすらに賴みけるに、利春、いふやう、

「さらば、此藥味の料(れう)に金(きん)千兩ほどの貯へをなし給へ。そのゆへは、何をか、かくし申すべき、彼(か)の大切なる藥味といふは、年の程、十、八九ばかりなる女(をんな)の生膽(いきぎも)を取りて藥につかふ事なり。今の世、久しく靜謐に治(おさま)り、殊に佛法の代(よ)となりて、生(しやう)ある類(たぐひ)といえば、慈(いつくし)みの心を犬・猫にだに及(およぼ)すの時節なれば、人を殺害(せつがい)し、生膽をとらん事、たやすかるべからず。是れをもとむるには、金銀を湯水の如くつかひ、下愚(かぐ)の貧人(ひんにん)の心をやしなひて、心ざしを奪ひ、恩のために命(いのち)を乞(こふ)より、外の術(てだて)は、あるまじくこそ。」

といふに、淸七、つくづくと此事を聞きおはり、利春が袖をひかへ、小聲になりて、いふやう、

「されば、爰(こゝ)に、幸ひの事あり。我が家にめしつかひて、既に三代におよぶ、すゑの子あり。今、めしつかふ所の小女郎(こめらう)、これなり。彼(かれ)が父母(ちゝはゝ)は彼が生(むま)れて三才の年、傷寒(しやうかん)といふものに命を失ひて同じ月に死しぬ。彼は兄と共に孤(みなしご)となりて、路頭に立つべき所を、あはれみ拾ひて、流石に、

『家の子の末なるを。』

と、母が情(なさけ)にて生長させ、彼が兄は此(この)西なる村に奉公に出だしつ。彼は女なれば、心やすく、母が手まはりに遣ひて、はや、十九才なるべしとおもふ。何とぞ是れをすかして使に出だし、貴殿と心をあはせて殺させば、餘多(あまた)人の知るべきにもあらず。金銀の費(つひへ)もなくて、大切なる藥を得んは究竟(くつきやう)の事ならずや。尤(もつとも)、人の命をとるは科(とが)の程もいかゞしけれども、小の蟲を殺して我が大の身(み)をたすかるためなれば、死しても亡魂の恨(うらみ)、うすかるべし。」

など、欲に移りやすき人心(ひとごゝろ)。利春と淸七とのみ談合しめて、然るべき時節を窺ひける。

[やぶちゃん注:「江州伊香立(いかたち)の里」現在の滋賀県大津市伊香立の各町の域内。このマーキングの附近(グーグル・マップ・データ)。

「淸七」不詳。

「黑癩(こくらい)」「癩」は現在はハンセン病と呼称せねばならない。抗酸菌(マイコバクテリウム属 Mycobacterium に属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種である「らい菌」(Mycobacterium lepraeの末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから(病変にはさまざななタイプがあり、皮膚が焼け爛れたように見える斑紋状の赤褐色或いは灰褐色を呈する場合を「黒癩」などと称し(人々は地獄の業火に焼かれているととった)、逆に斑紋状に白くなるもの後に出る「白癩」(びゃくらい)と呼んだりした)、洋の東西を問わず、地獄の業火に焼かれているとして「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「らい予防法」が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し、私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても、意識の変革なしに差別はなくならない)。現在、ハンセン病には完治させる有効な薬物があり、隔離治療する必要もない。ハンセン病への正しい理解を以って本の話柄を批判的に読まれることを望む。江戸時代の百科事典、寺島良安の「和漢三才図会卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇」(マムシ)の項では(リンク先は私の古い電子化注)、この病について『此の疾ひは、天地肅殺の氣を感じて成る惡疾なり』と書いている。これは「この病気は、四季の廻りの中で、秋に草木が急速に枯死する(=「粛殺」という)のと同じ原理で、何らかの天地自然の摂理たるものに深く抵触してしまい、その衰退の凡ての「気」を受けて、生きながらにしてその急激な身体の衰退枯死現象を受けることによって発病した『悪しき病』である。」という意味である。ハンセン病が西洋に於いても「天刑病」と呼ばれ、生きながらに地獄の業火に焼かれるといった無理解と同一の地平であり、これが当時の医師(良安は医師である)の普通の見解であったのである。因みに、マムシはこの病気の特効薬だと説くのであるが、さても対するところ、この「蝮蛇というのは、太陽の火気だけを受けて成った牙、そこから生じた『粛殺』するところの毒、どちらも万物の天地の摂理たる陰陽の現象の、偏った双方の邪まな激しい毒『気』を受けて生じた『惡しき生物』である。」まさに、「毒を以て毒を制す」式の誤った論理である。これ自体も、また、本話で人肉が癩の特効薬とするように、如何にも貧弱で底の浅い類感的でステロタイプであり、しかもグロテスクな発想で、私には実は不愉快な記載でさえある。いや、実はしかし、こうした似非「論理」や似非「科学」は今現在にさえ、私は潜み、いや逆に蔓延ってさえいる、とも思うのである。

「換骨(くわんこつ)」元来、この語は「凡骨」を取り去って、永遠不滅の「仙骨」に取り替えるという意で、ここはそれに非常に近い意味(瞬時に病毒の箇所を人体から悉く抜き去って、健全な身体に改造すること)で用いている。

「死なれもせぬ命とて」世をはかなんで自害する覚悟も勇気も微塵もなく、の意でとっておく。私はハンセン病とは無関係に、この清七という人物の性格や考え方が嫌いだからである。なお、ハンセン病は重篤化するケースが殆んどなく、余命や死亡率のデータさえない。そいう意味では、悪化して死ぬことはまずない病気ではあるから、ここもそのような意味である可能性もあるとは言える。

「面(おもて)つれなく」恥ずかしがって遠慮する様子もなく。諸療法が全く効かなかった以上、『今は是非なき事』と思ったのだから、どこかで諦めてよさそうなところを、という筆者の批判的な物謂いか。

「都(みやこ)北山大原の里、野中村」現在の大原地区内の、京都府京都市左京区静市野中町(しずいちのなかちょう)附近か(グーグル・マップ・データ)。

「利春」不詳。

「惣堂」公的・準公的な仏堂ではなく、村人たちが共同で出費し、建てた仏堂で、村の集会所的な役割も担った。中世以降に始まり、阿弥陀仏を祀ることが多かったようである。

「荒言(くわうげん)」無責任に大きなことを言い散らすこと。

「治すべし。」直してみせましょう。

「湯藥(たうやく)」煎じ薬。

「痼疾(こしつ)」長引いて、何時までも直らない病気。

「最極(さいごく)の」至上の。これ以上ない。

「白癩黑癩(しらひとこくみ)」前に注した通りだが、この読みは「白人黑身」という当て訓であろう。

「儺(やらは)れ」追い払われ。

「數貼(すふく)」「數服」の当て訓。ハンセン病は皮膚病変が顕著であるから、実際に貼付薬を処方したであろうから、この漢字表記は腑に落ちる。

「藥餌(やくじ)」薬と病気に対応した治療用の食事・献立。

「膏肓」底本には「こうもう」とルビするので、わざと読みを振らなかった国書刊行会本、ゆまに書房版は孰れも『膏盲』とするので話にならない原典を見たところ、ルビは『こうもう』であるが、幸い、「膏肓」とある。言わずもがな、「かうくわう(こうこう)」が正しい。「膏」は心臓の下部、「肓」は隔膜の上部を指す漢方用語で、これは臓器ではなく、身体の中心の最も奥深い場所を指し、ここに病気が入ると治らないとされた。

「沉痼(ちんこ)」永く治らない重い病。「沈痾」「宿痾」に同じ。

「人に面をも合はさん身ぞならば」表現が不全であるが(「人に面を合はさんことも出來ざる身にてあれば」ぐらいであろう)、藁をも摑む思いの清七の台詞と考えれば、問題にするには及ぶまい。「人に顔を合わすことも憚られる病態の身にてあればこそ」。

「五體不具ならずしてこそ」「幸ひなれ」。

「彼(か)の大切なる藥味といふは、年の程、十、八九ばかりなる女(をんな)の生膽(いきぎも)を取りて藥につかふ事なり」人の肉が「業病」として医師も見放した癩病や、当時は確実に死に至る宿痾であった結核の特効薬であると考えられていた恐るべき事実が、民間にかなり広く流布していた、少なくとも、本記載から江戸中期にはかなり知られていた(全く知られていないのでは、本話は事実らしさを含んだ噂話としての都市伝説足り得ないのである)ことが判ると言える。このおぞましい民間療法認識が近代まで生き残って事実は、「野口男三郎(のぐちおさぶろう)事件」(別名・「臀肉(でんにく)事件」)がそれを物語っているこれは明治三五(一九〇二)年三月二十七日に東京府東京市麹町区下二番町(現在の東京都千代田区二番町)で発生した未解決殺人事件で、少年が何者かに殺され、臀部の肉を切り取られるという猟奇事件である。野口男三郎は、この少年殺害と他の二件の殺人事件(彼の義兄で漢詩人として知られた野口寧斎の殺害、及び、薬局主人殺害)の容疑者であったが、裁判の結果、少年と義兄殺し(こちらは病死と認定)については証拠不十分で無罪とされたが、薬局主人殺し及び文書偽造で有罪となり、死刑に処された。彼の義兄野口寧斎はハンセン病に罹患しており、同居していた彼の妹婿であった野口男三郎は妻にも兄寧斎のハンセン病が遺伝するのでは(兄妹の父はやはりハンセン病で他界していた。無論、ハンセン病は感染症であって遺伝などしない)と怖れて、「人肉はハンセン病に効く」という当時の噂を真に受け、十一歳の少年を殺し、その肉を何も知らない妻と寧斎に振舞ったという嫌疑(少年殺人の嫌疑)で逮捕されていたことから、明治三八(一九〇五)年五月十二日に僅か満三十八歳の若さで亡くなった寧斎も病死を装った殺人ではないかとする嫌疑がかかったのであった。この野口男三郎の絡んだ複数の殺人事件はかなり複雑であるので、かなりよく纏められているウィキの「臀肉事件」を参照されたいが(私の所持する数冊はこの事件を扱っているが、このウィキの記載はその孰れよりも詳細である)、二十世紀の始まりにまさかの人肉薬餌(説)は衝撃的である。なお、昭和に入ってからも、日本統治時代の朝鮮の京畿道京城府で昭和八(一九三三)年五月十六日に発生した「京城府竹添町(たけぞえちょう)幼児生首事件」もあるウィキの「京城府竹添町幼児生首事件」によれば、ここは現在の大韓民国ソウル特別市中区忠正路内に当たり、そこで『乳幼児の生首が発見された。後頭部は割られ、脳髄を掻き出した痕跡があり、辺り一帯に脳髄が散乱していた。京城帝国大学医学部による検死の結果』、一『歳くらいの乳幼児で、性別は恐らく男だろう、と結論づけた』。『朝鮮の民間療法によると、「人間の脳味噌を生で食う」というのが』、『ハンセン病や脳疾患などの特効薬として言い伝えられており、犯人はハンセン病や脳疾患の患者であろうと推測した』。『当初、警察は、生きている乳幼児を殺害して脳髄を得ようとしたものと推理していたが、既に死亡した乳幼児の遺体を盗んだのではないかという可能性が浮上し、死亡届が出ていた乳幼児を徹底的に調査した』結果、六月五日、『遂に身元が判明し』、五月十日に脳膜炎で死亡した一歳の『H氏の』『女児であった。女児を葬った墓を掘り返したところ、案の定、首無しの遺体が出て』、『先に見つかった首と照合したところ、同一人物であると結論付けられた』。六月七日になって『被害者H一家の隣人Pとその友人Y一家が容疑者として逮捕された』。『Yの長男はハンセン病の持病があり、漢方薬を服用していたが効果がなかった。そこで、Yはハンセン病の特効薬と言い伝えられている「人間の脳味噌」を入手できないかと、友人のPに打ち明けたところ、Pは隣人のH氏の次女(被害者)がこの前』、『死亡したので、そこから手に入れようということになった』五月十五日の『夜、女児を埋葬した墓を暴き、その場で首を切断した。そして首をY宅に持参して、脳髄を掻き出して、Yの長男に食べさせたという』但し、『却って病状が悪化したという』とある。

「千兩」江戸中期の換算の一例では一両は現在の十万円から十二万円相当とするから、一億円ほどになる。

「生(しやう)ある類(たぐひ)といえば、慈(いつくし)みの心を犬・猫にだに及(およぼ)すの時節なれば」第五代将軍徳川綱吉(正保三(一六四六)年~宝永六(一七〇九)年:将軍宣下は延宝八(一六八〇)年五月)の「生類憐れみの令」は、概ね、天和二(一六八二)年頃から貞享二(一六八五)年頃にかけて政策的には通達されたものらしく、今、現在では、貞享二年七月十四日に、将軍の御成の際には犬や猫を繋ぐ必要はないという法令が最も支持されているようである。因みに、本「御伽百物語」は宝永三(一七〇六)年に江戸で開版したものである。本書の際立った特色である直近のアーバン・レジェンドという体裁が、よく利いている

「傷寒(しやうかん)」漢方では、広義には、体外の環境変化によって経絡が侵された状態を、狭義には現在の「腸チフス」の類を指すとされる。

「究竟(くつきやう)」ここは、「お誂え向き」の意。]

 此折りしも、秋の田の借庵(かりいほ)も露たまらず、夜な夜な、猪の出でて、田畠をあらしけるによりて、仰木(あふぎ)・伊香立(いかたち)・龍華(りうげ)村など、其邊(そのへん)近在の百姓ら、心をあはせ、日どりを極(きは)め、明ぼのゝ空より猪狩(しゝかり)を思ひたち、責皷(せめづゝみ)、うちたて、手鑓(てやり)・突棒(つくばう)、おもひおもひの得ものを持ちて、こゝかしこより、狩り出だし、猪(しゝ)・猿・狸の數を盡し、おつ詰め、おつ詰め、切りとり、突きたふし、谷峰をいはず分けいりける所に、伊香立の村より大原の方(かた)へ打ち越(こゆ)る峠あり。その麓は殊さらに木立茂り、枝さしおほひて、大かたは晝さへも暗き所なりけるが、ふしぎや、此森のおくにあたりて、何とはしらず、白きもの見ゑしかば、人々、さしのぞき、

「何ならん。」

と見れども、動くにもあらず、只、丸(まろ)く白き切木口(きりこぐち)のやうに見えしかば、斥候(せこ)の者をいれて、驅(か)らせしに、新しき棺桶にて、縱橫(たてよこ)に繩をかけたるが、桶の底より蓋のめぐり迄、鐵(てつ)の細金物(ほそかなもの)を透間(すきま)なく打ちて、たやすく開かざるやうに仕(し)たるなりけり。

[やぶちゃん注:「秋の田の借庵(かりいほ)も露たまらず」「後撰和歌集」に載る天智天皇御製とする一首(三〇二番)で「小倉百人一首」の巻頭にも置かれて知れ渡った、

   題しらず

 秋の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ我が衣手(ころもで)は露にぬれつつ

に基づく。但し、この一首は天智天皇の作なんぞではなく、「万葉集」巻第十の「秋雜歌」にある(二一七四番・詠み人は記されていない)、

 秋田刈る刈廬(かりほ)を作り我が居(を)れば衣手寒く露そ置きにける

の改作或いは異伝である。流石に、この和歌に注釈はいるまい。これを元にしつつ、実った稲を警護する粗末な仮小屋の藁葺にさえ夜露が溜まる余裕もないほどに、猪や猿や狸や狼が田畑を荒し廻って、と洒落たのである。

「仰木(あふぎ)」現在の滋賀県大津市仰木町(おおぎちょう)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。滋賀県であるが、地図を見てお判りの通り、西で京都府の大原地区と接しており、県境付近は山間部である。

「龍華(りうげ)村」現在の、京都市左京区大原小出石町(おおはらこでいしちょう)と滋賀県大津市伊香立(いかだち)途中町(とちゅうまち)の境に位置する峠、「途中越(とちゅうごえ)」があり、この峠は「栃生越(とちゅうごえ)」「竜華越(りゅうげごえ)」「途中峠」とも呼ばれる。参照したウィキの「途中峠」によれば、峠の標高は三百八十二メートルで、『峠の名称は、延暦寺の僧侶で千日回峰行を創始した相応和尚(そうおうかしょう)がそれぞれ開山した無道寺』(八六五年開山・延暦寺山内にある)と葛川明王院(八五九年開山)の『中ほどに位置する「龍花村」を「途中村」と命名したことから』(下線やぶちゃん)、『途中越と呼ばれるようになったと伝えられている』。『また、龍華越または橡生越』『とも称されたほか、朽木にあった橡生村と区別するため』『に龍華橡生とも称された』とある。峠は、この中央附近(グーグル・マップ・データ)であるが、以上の記載(下線部)から、この龍華村はその滋賀県側である現在の途中町(ここ(グーグル・マップ・データ))であることが判る。

「切木口(きりこぐち)」ここは「木を加工材木用に根元の方を切って転がしたもの」の謂いと採る。

「斥候(せこ)」「せこ」の読みはママ。これは「せきこう・せつこう(せっこう)」の略なのではなく、鳥獣の狩猟に於いて獲物を狩り出したり、逃げるのを防いだりする人夫「かりこ」「せこ」、「勢子」「列卒」などと漢字表記するそれを当て訓したものと採る。]

 百姓ども、いよいよ怪しみおもひて、鍬の刃・手鑓などを取りのべ、

「打ちわらん。」

とひしめきけるを、彼(か)の孤(みなしご)の兄久(きう)六、さいかく者にて、「刄(は)なし鑿(のみ)」といふ物を尋ね出だし、先づ金物を引きはなして蓋をあけたれば、内より彼の淸七が方に育立(そだちた)つる我が妹を、生ながら、高手小手(たかてこて)に縛りあげ、口は「ねぢわら」といふ物をこめて、おしいれたる也。

[やぶちゃん注:「さいかく者」「才覺者」。

「刄(は)なし鑿(のみ)」鏨(たがね)のことであろう。鏨自体には刃はあるが、鑿(のみ)ようには鋭くないから、この謂いは腑に落ちる。

「高手小手」手を後ろに回させて、首から肘・手首に繩を掛け、厳重に縛り上げること。

「ねぢわら」「捩ぢ藁」と採っておく。当初は、声を立てることができないように、藁の束を大きく丸めたものをただ口の中に捻じ込んだものと思っていたが、図を見ると、女の口から後頭部の項(うなじ)にかけて、縛った紐が見えるから、これはそうした丸状の藁玉に藁紐を通し、口に含ませた上、吐き出すことが出来ないように、その藁紐を後ろに回して縛ったものと推定される。]

 久六、大きにおどろき、

「こは、何(なに)といふ事にか。」

と、先づ、繩をほどき、樣子を聞くに、淸六が惡行、利春が術(てだて)、ひとつひとつ、顯はれしかば、

『ちか比(ごろ)、憎き仕業(しわざ)、いかゞせん。』

とおもへど、譜代の主(しう)といひ、殊に厚恩の程をおもへば、自(みづか)ら敵(かたき)となりて主人を罪せんもいかゞ也(なり)、又、恨みざらんも本意(ほい)なく、

「吃(きつ)。」

と案じ出だし、件(くだん)の棺桶に生捕(いけど)りにしたる狼、二疋を入れ、もとの如くからげ、森の中に投げすてゝかへりぬ。

 かくとはしらず、利春と淸六の兩人、手々に相口(あいくち)のねたばをあはせ、夜に入りて、此森に來たり、件の桶をかきて、そのあたり近き宮の森に行き、神輿(みこし)部屋のありしを、鎖(でう)、捻(ねぢ)きりて、押入(おしい)り、内より扉を釘づけにして、よくかため、扨(さて)、彼の桶を打ちくだきけるに、おもひの外なる獸(けだもの)二疋、棺桶より飛び出で、二人のものをさんざんに喰(くひ)ちらし、窓をつきやぶりて逃げさりける。

 此騷動の音を聞きつけ、田の水落さんと思ひて、野に出あひたる百姓ども、われ一〔いち〕とかけつけ、戸びらを打ちやぶり、こぢはなしなどして、漸(やうやう)亂れ入りけれども、はや、二人のものは跡かたなく狼の餌(ゑ)となし、うで・くび・骨のあまりなど、血にまみれて殘りたるを、急ぎ、地頭に注進し、そのゆへをたづねさぐりけるにぞ、惡事、紛(まぎれ)なく顯はれ、終に跡をぞ絶れける。 

 

御伽百物語卷五終

[やぶちゃん注:「相口(あいくち)のねたばをあはせ」「相口」は「匕首」。正しい歴史的仮名遣は「あひくち」。鍔(つば)のない短刀。長さから「九寸五分(くすんごぶ)」(二十九センチメートル弱)とも称した。「合口」とも書き、これは鞘の口と柄(つか)の口が直接、合うことに由来する。「ねたばをあはせ」は「寢刃を合はせ」で、研ぎ澄まされた刃先に砥石などをかけて、刀剣類の切れ味をよくさせることを指す。山盛りにした砂の中に何度も刃を差し込んだりするのも、その一方法である。]

2018/05/11

甲子夜話卷之四 31 西金居士極の事

 

4-31 西金居士極の事

畫家狩野氏、古畫の鑑札を出すに、西金居士と稱する者あり。西金と云人西土に有るを聞かず。無稽の言なりと洞齋語れり【佐竹侯の畫臣菅原氏。畫學に通ぜり】。後又、住吉内記が【廣尚】云しは、西とは漢土をさし、金とは金代のこと、居士は廣く其人と云如し。狩野家の所鑑を傍觀するに、畫趣と筆旨とを以て、西金と稱して必一人にあらずと云ふ。今試に狩野家鑑札の文を載す。曰、許魯齋像致一覽候所、西金居士正筆に而候畢。辰十一月四日、養川院惟信押と。是ますます可ㇾ笑は、許衡は元人なるに金人の畫あるべきや。餘り文盲なることなり。

■やぶちゃんの呟き

「西金居士極の事」「せいきんこじきはめのこと」。ここに書かれているように、「西金居士」というのは、中国には実在しなかった、日本人が捏造した架空の中国画家である。しかし、ここにあるように捏造は念が入っており、恰も過去に於いて、しかも本邦で生きていて、書画を描いたかのように「印章」まで作られ、印譜(但し、とんでもない偽書)にまで収録されているのである。「東京国立博物館」公式サイト内の東洋室研究員塚本麿充氏の『江戸時代が見た中国絵画(3)いくつもの「中国絵画史」へ―江戸の中国絵画研究―』という記事を読まれたい。いや、それどころか、近代以降、現在でも実在を信じている人が、日本のみならず、中国にもいるらしい。大村西崖編になる大正一〇(一九二一)年巧芸社刊「西金居士眞蹟十六羅漢」なるものが国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るし、中文の「百度百科」にも西居士」があり、南宋の画人で、寧波の出身であり、日本に絵が流れて残るとか、「浙江古代画家作品集」という図録に載る、というようなことが書かれてあるのである。これ、本当に架空の人物であるなら、国際的に、相当、罪作りなことである。「極」(きはめ)は見極め、鑑定のことらしい。

「狩野氏」室町幕府御用絵師狩野正信を始祖とする日本絵画史上最大の画派狩野(かのう)派。室町中期(十五世紀)から江戸末期まで約四百年に亙って、常に画壇の中心にあった専門画家集団。後の鑑定文に「養川院惟信」と出るから、これは狩野惟信(これのぶ 宝暦三(一七五三)年~文化五(一八〇八)年)で、木挽町(こびきちょう)家狩野派第七代目絵師である。因みに、筆者松浦静山清(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜である。

「鑑札」鑑定書。

「云人」「云ふ人」。

「西土」後にも出るが「漢土」、中国のこと。

「洞齋」「佐竹侯の畫臣菅原氏」菅原洞斎(すがわらどうさい 宝暦一二(一七六二)年~文政四(一八二一)年)は江戸後期の狩野派の絵師。思文閣の「美術人名辞典」では(生没年もそれ)、江戸生まれで、『仙台侯に仕え、鑑定家としても知られる』とあるが、別なネット記載では、秋田佐竹藩士で名絵師谷文晁の妹(紅藍)の婿となった人とあった。よく判らぬ。滝沢馬琴の書簡の来信に同名がある。

「住吉内記」「廣尚」住吉広尚 (天明元(一七八一)年~文政一一(一八二八)年)は江戸後期の住吉派を起した画家。土佐絵の絵師住吉広行の長男で、父の跡を継いで幕府御用絵師となった大和絵の鑑定に優れていた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「金代」ここは一一一五年から一二三四年にかけて、中国の北半分を支配した女真族の征服王朝である金(きん)であろう。そうでないと最後の「可ㇾ笑は」(「わらふべきは」。失笑せざを得ないのは)が生きてこないからである。

「居士は廣く其人と云如し」これは「居士とは広く、ある人を指して「その人」と言うような汎称二人称のようなものに過ぎない」の意であるようだ。但し、本来は「居士」と言った場合は「処士(しょし)」と同義で、「学徳がありながら、官に仕えず在野にある人」への敬意を含んだ呼称である。

「所鑑」鑑定文書。

「必」「かならず」。

「一人にあらず」一人の絵師ではあり得ない。一応、そこは見抜いていたらしい。

「許魯齋像致一覽候所、西金居士正筆に而候畢。辰十一月四日、養川院惟信押」書き下すと、

 許魯齋の像は一覽致し候ふ所、「西金居士」が正筆にて候-畢(さふら)ひぬ。辰十一月四日。養川院惟信押(あふ)

最後は養川院惟信の花押であろう。「許魯齋」は後に出る許衡(きょこう 一二〇九年~一二八一年)で、彼は元初の学者(「魯斎先生」とも称した)である。「辰」狩野惟信の没年は文化五(一八〇八)年戊辰の一月五日であるから、寛政八年丙辰(一七九六)年か、それ以前の辰年であろう。

 

譚海 卷之二 相州鎌倉賴朝公墓所薩摩侯修造の事

 

相州鎌倉賴朝公墓所薩摩侯修造の事

○安永八年夏、薩摩家、公儀へ願(ねがひ)ありて、相州鎌倉の鄕(がう)右大將賴朝卿の墓所を修覆あり。石碑をたて墓誌など建られしなり。石工梓匠(いしくししやう)等數人薩州より下し、鎌倉へ下(くだ)し經營專らなり。此時の薩摩殿重豪(しげひで)朝臣と號す。彼(か)の家の先祖賴朝卿なるゆゑかく結構ありと聞えたり。遺跡絕(たえ)て年代を歷(ふり)しに、再興めづらしき事也。又翌年品川の別邸に孟宗竹といふを植られたり、此竹琉球國の産にして冬月筍(たけのこ)を生ずるゆへかく名付たり。竹の𢌞(めぐ)り小口(こぐち)にて壹尺五六寸三尺に及べるもの也。りうきうより土を俵にして十萬俵とりよせられ、土手を築き植へられ、竹の子夥しく生(はえ)たりとぞ。又芝牛町(しばうしまち)に薩摩家の菩提寺あり、その寺の飯つぎ・湯とうまで、みな此(この)孟宗竹也。めしつぎ指渡(さしわたし)壹尺八寸あり、ふしは一重にて皮は甚だうすけれ共(ども)丸きまゝなり、内をば黑きうるしにてぬりたるもの也、みな薩摩より取(とり)よせられたるものなりとぞ。

[やぶちゃん注:これは私が「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」源賴朝墓」でも述べた通り、薩摩藩第八代藩主島津重豪が建てた供養塔というか、勝手に創り上げた偽物の墓である。諸本はそれ以前からの墳墓を「整備」したなどと称しているが、私はこれは一種のでっち上げに近い部類のトンデモ仕儀と考えている。だいたい、ちゃっかり、入口の扉や香には○に十の字の島津家の家紋さえ入れてあるのである。頼朝の真の墓所は、現在の頼朝墓に登って行く手前左側の公園になっているところに古えにあった法華堂という建物である(もともと原墓所には墓石などはなかった)。詳しくは、やはり私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」法華堂」及び、そこにリンクさせてある私の「新編鎌倉志卷之二」の電子化と注を参照されたい。この「頼朝の墓」の東方約八十メートルの、大倉山中腹には「やぐら」が三つ並んでおり、それぞれ「毛利季光の墓」・「大江広元の墓」(これらも偽物の可能性が高い。そもそも現在のような法華堂)及び島津忠久の墓(後述)となっているが、これらから「頼朝の墓」へのルートは、総て、島津重豪がこの時に一緒に整備したもので、「島津忠久」の墓自体が、この時に一緒に造立したものである。それについてはここに「彼(か)の家の先租賴朝卿なるゆゑかく結構あり」とある通り、島津家の祖とされる島津忠久(?~嘉禄三(一二二七)年)は鎌倉幕府御家人(当初は摂関家に仕える都の武者であったが、彼の実母丹後内侍(比企氏)が頼朝の乳母子であったことから頼朝に重用されるようになった。実父は官人惟宗広言(これむねのひろこと:養父か?)又はの摂関家藤原北家に仕えた武士で広言の同族の惟宗忠康かとされる)。初期は後に亡ぼされる母方の比企能員の配下にあった。従って、建仁三(一二〇三)年九月に北条氏が画策した謀略比企能員の変では縁者として連座となり、大隅・薩摩・日向の守護職を解任・没収されれいる。但し、事件当時、忠久は、守護として任地の大隅国で起こっていた寺院絡みの紛争解決のために当地へ出向いていて不在であった。その後は暫く在京していたと推定されるが、建暦三(一二一三)年二月、第三代代将軍実朝の学問所番として御家人に復帰している。彼には丹後内侍の産んだ頼朝落胤説があるが、これは頼朝を異様に崇敬した後の島津家自身が後に意識的に流言させたデマである。そのような事実は資料をひっくり返しても、微塵もない。しかし、まさにこの「頼朝の墓」の造立や始祖島津忠久の墓の造立(事実、忠久は鎌倉で没してはいる)から周辺の整備は、まさにそうした蜚語を現実化して、家康が崇敬した頼朝との関係を捏造し、外様としての島津家を闡明しようとする目的があった

「安永八年」一七七九年。

「梓匠」「梓」は「家具職人」で「匠」は「大工」。

「島津重豪」(延享二(一七四五)年~天保四(一八三三)年)蘭癖大名として知られた薩摩藩第八代藩主。

「孟宗竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属モウソウチク Phyllostachys heterocycla。但し、ここでは「冬月」に「筍(たけのこ)を生ずる」とするが、実際には他のタケ類と変わらず、四月頃に生えるので、この叙述は不審ではある(後注参照)。ただ、ウィキの「モウソウチク」によれば、本種は『中国江南地方原産で』、『日本では栽培により』、『北海道函館以南に広く分布する』が、延暦二〇(八〇一)年に、現在の『京都府長岡京市の海印寺、寂照院の開山・道雄上人が唐から持ち帰った』とか、安貞二(一二二八)年に『曹洞宗の開祖・道元禅師が宋から持ち帰った、など諸説ある』ものの、『全国へ広まったのは薩摩藩による琉球王国経由の移入によってと考えられている。「南聘紀考 下」によると』、享保二一(一七三六)年三月に薩摩藩第四代藩主。島津吉貴(よしたか)が、『琉球在番として琉球行きを命じられた物頭野村勘兵衛良昌に孟宗竹を輸入するように命じ、勘兵衛は琉球滞在中に清より輸入』、元文三(一七三八)年に帰国した際、『吉貴のいる仙巌園』(通称の磯庭園で知られる)『に孟宗竹を献上したという』のは事実のようである(下線やぶちゃん)。

「冬月筍(たけのこ)を生ずるゆへかく名付たり」ウィキの「孟宗」によれば、中国三国時代の呉の出身の官人で、「二十四孝」の一人に数えられる孟宗(?~二七一年)が、『母が筍を好んだため、冬で筍が採れる季節ではない時、孟宗が竹林に入って哀嘆したところ、筍が生えてきたため』、『母に食べさせる事ができたという。これがモウソウチク(孟宗竹)の名前に孟宗が使われる由来とされる』とある故事に基づく。或いは、中国の呉の自然環境では早くに発芽したのかも知れない

「壹尺五六寸三尺」四十六~四十八センチメートルから九十一センチメートルほど。底本、対校本では「三尺」を「二尺」(約六十一センチメートル弱)と注する。

「りうきう」「琉球」。

「芝牛町」正式名は芝車町(しばくるまちょう)。旧高輪牛町(たかなわうしまち)のこと。現在の東京都港区高輪二丁目内。附近(グーグル・マップ・データ)。この直近の現在の品川駅西南直近の「SHINAGAWA GOOS(シナガワグース)」の辺りには薩摩藩中屋敷があった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「薩摩家の菩提寺」伊皿子にあった曹洞宗泉谷山大圓寺。中央附近(グーグル・マップ・データ)にあった。現在は杉並区和泉に移転している。

「飯つぎ」飯櫃(めしびつ)。おはち。

「湯とう」「湯桶」。湯を入れるのに用いる木製の器。桶(おけ)の形をしおり、注ぎ口と柄があって通常は漆塗り。湯注(ゆつ)ぎ。

「指渡」直径。

「壹尺八寸」五十四・五四センチメートル。]

大和本草卷之八 草之四 海藻類 海苔(アヲノリ)

 

【外】

海苔 綠色如亂絲生海泥中閩書出タリ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

「海苔(アヲノリ)」 綠色。亂〔るる〕絲のごとし。海泥の中に生ず。「閩書〔(びんしよ)〕」に出でたり。

[やぶちゃん注:本電子化の最初の私の注で記しているが、そろそろ再掲しておくと、この「外」というのは、本書が主に拠るところの李時珍の「本草綱目」には載せないが、「外」(ほか)の中国の本草書には載る種(対象物)という謂いである。

 さて、「海苔(アヲノリ)」という和名の種は存在しない(アオノリ属という属名としてはかつては存在し、現在でも使用されており、人によっては旧アオノリ属とも、アオサ属のシノニムとする場合もある。しかしどうも今もあるとした方がいいような気がする。後述する)。「あおのり」は「青海苔」で、日本に於いて食用として利用される数種類(科レベルで異なる)の海藻の総称である。但し、短いながら、ここに書かれた、藻体が全体に緑色を呈し、乱れた糸のような形状をなす、海の泥が混じったような浅瀬(河口附近とも読める。とすれば、汽水域でも植生出来る海藻と読める)に植生する海藻としての「青海苔」となると、これはもう、

緑藻植物門アオサ藻綱アオサ目アオサ科Ulvaceae のアオサ属スジアオノリUlva prolifera(以上はBISMaLBiological Information System for Marine Lifeったが、前に述べた通り、アオノリ属スジアオノリ Enteromorpha prolifera はシノニムとされる。しかし問題がある。後述)

である。田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)によれば(なお、田中先生は、Enteromorpha proliferaで記載されておられ、先生は同じ仲間のウスバアオノリ(Enteromorpha linza)の記載で、『以前はアオサ属に所属していたが、藻体の基部が管状なのでアオノリ属とされる』という記述が出てくる。これは寧ろ、アオノリ属は旧なのではなく、新たにアオノリ属が提唱されたと読める。或いはアイソザイムやDNA解析で十四年間のうちに元に復してアオサ属に戻されたのか? ちょっと不思議である)日本各地に分布し、生育場所は『潮間帯の岩や海藻の上』で、藻体の長さは十~三十センチメートル、幅は〇・五~一センチメートル。『河口付近の淡水が混じる海域に生育することが多』く、『直径や長さ、枝分かれの数など』、『個体ごとの形態の変異が大きい。ボウアオノリ』(Ulva intestinalis)『に似るが、藻体全体、とくに下部からの小枝が多く出ていることが識別点である』。『本種はアオノリのなかでも最も美味とされ、食用として重要種である。徳島県吉野川や高知県四万十川での養殖が有名である』とある。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 「足立たば」「われは」

 

    「足立たば」「われは」

 

 七月の何日であるかわからぬが、居士は夕方から車に乗って出遊を試みた。「日頃のつれづれを慰めんとある夕車に載せられて兩國向嶋などうちめぐるに見る者皆珍らかなる心地しければ」という前書で、八首の歌が七月三十日の『日本』に出ている。越えて八月八日「夕涼み」という題で『日本』に掲げた文章は、この時の事を記したものである。歌と文章と相俟って見ると、その時の様子の思いやらるるものが多い。居士は両国を渡って川沿に吾妻橋の方へ向いながら、「上げ汐溢れんとして夕風波だつ中を人のぬき手きつて泳ぐを見るに、物おそろしき心地に先づ肝潰るゝは我ながら氣の衰へたるよ」といっている。「風起る隅田の川の上げ汐に夕波かづき泳ぐ子等はも」という歌はこの事を詠んだので、足立たぬ身を車で運ばれる居士にして、はじめて「物おそろしき心地に先づ肝潰るゝ」という心持が起るのであろう。

 向嶋は明治二十一年に居士が一夏を過し、「七草集」を草した処である。月香楼は依然としてそこにあり、昔の人もそこに住んでいる。居士はこの帰途、今戸の灯の近くつらなり、大きな三日月の入らんとして駒形堂にかかっているのを見、十年前の自己を顧みて懐旧の情に堪えなかった。

 

 我昔住みにし跡を尋ぬれば櫻茂りて人老いにけり

 月細き隅田の川の夕間暮待乳(まつち)を見ればむかし偲ばゆ

 

 「十年前の夏の三日月此夕」というのはこの時の懐旧の句であるが、やはり歌の方がよく情懐を現しているようである。

[やぶちゃん注:この折りの全八首はこれ(国立国会図書館デジタルコレクションのアルス版「子規全集」第六巻(短歌)の画像。以下、無記のリンクはそれ)。

「待乳」現在の東京都台東区浅草にある、浅草寺の子院の待乳山本龍院(ほんりゅういん)(元は天台宗。第二次世界大戦後に本山の浅草寺が独立して聖観音宗の総本山となったため、本院も現在は同宗)。ここ(グーグル・マップ・データ)。本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音で、江戸の昔から「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」と称され、隅田川河畔の小高い丘である待乳山にあることから、曾ては周囲が見渡せ、江戸時代には多くの文人墨客がこの地を訪れている。この寺には浅草名所七福神の内の毘沙門天が祀られてある。参照したウィキの「本龍院」によれば、『待乳は、真土とも書き、この辺り一帯は泥海だったが、ここだけが真の土であったことを由来とする説がある』とあり、「待乳」は単なる洒落た当て字の可能性が高い。]

 

 八月中は歌を作ること最も多く、『日本』に発表した回数も十二回に及んでいる。「戯道・種竹(しゅちく)・不折諸氏黑田侯に倶して富士へ登ると聞えければ」とか、「わが庭」とか、「日暮里諏訪神社の茶店に遊びて」とか、「灼くが如き暑き日に雪の圖をかけて」とかいう風に、一(ひとつ)の場合なり光景なりを詠んだものが多くなったこと、「讀杜詩(としをよむ)」の題下に「石壕吏」「秋興八首」「新婚別」などの詩を歌に移したことなども、従来といささか趣を異にしているが、それよりも更に注意すべきものは、猟官熱(りょうかんねつ)を嘲った「蒼蠅の歌」とか、「足立たば」とか、「われは」とかいう種類のものである。これまで『日本』に掲げられた居士の歌は、俳句における一題十句と同じく、或題目によって起る連想を片端(かたはし)から歌にしたので、むしろその変化をよろこぶ傾向が多かったから、一首一首の間に連絡がないのみならず、全体として見ても別に纏ったものがあるわけではない。然るに「蒼蠅(さうよう)の歌」以下のものに至っては、連想の赴くままに歌をつらねることは同じであっても、そこに小環を貫く大環の如きものがあり、全体が或一つのものになっている。前後して『日本』に出た「雲の峰」とか、「團扇」とかいう歌に比べて見れば、その点は明(あきらか)になることと思う。

 

 足立たば箱根の七湯七夜寐て水海(みづうみ)の月に舟うけましを

 足立たば不盡(ふじ)の高嶺(たかね)のいたゞきをいかづちなして蹈み鳴らさましを

 足立たば二荒(ふたら)のおくの水海にひとり隱れて月を見ましを

 足立たば北インヂヤのヒマラヤのエヴエレストなる雪くはましを

 足立たば蝦夷の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを

 足立たば新高山(にいたかやま)の山もとにいほり結びてバナヽ植ゑましを

 足立たば大和山城うちめぐり須磨の浦わに晝寐せましを

 足立たば黃河の水をかち渉り華山(かざん)の蓮の花剪(き)らましを

 

[やぶちゃん注:短歌はもとより、ここでは前文中の歌の前書も特異的に正字化した。単に私の気まぐれである。

「戯道・種竹(しゅちく)・不折諸氏黑田侯に倶して富士へ登ると聞えければ」『猟官熱(りょうかんねつ)を嘲った「蒼蠅の歌」』はで読める。「戯道」ジャーナリスト末永純一郎(鉄巌)。既出既注。「種竹」漢詩人で官僚であった本田種竹。既出既注。「不折」画家中村不折。既出既注。三氏ともに子規の友人。「黑田侯」恐らく、政治家の侯爵黒田長成(ながしげ 慶応三(一八六七)年~昭和一四(一九三九)年:父は筑前福岡藩最後藩主黒田長知。妻は公爵島津忠義の娘清子。黒田長政から数えて福岡黒田家十三代目当主。明治一七(一八八四)年に侯爵を授けられている)と思われる。「猟官」とは官職を得ようとして多くの者が争うことを指すが、思うに、これはこの明治三一(一八九八)年夏の八月十日に行われた第六回衆議院議員総選挙のことを指しているものと思われる。

「わが庭」複数ある。か、これ。叙述の時系列から見て、宵曲の指しているのは後者であろう。

「日暮里諏訪神社の茶店に遊びて」これ

「灼くが如き暑き日に雪の圖をかけて」これ

「讀杜詩(としをよむ)」ここから三部立てで、全二十二首に及ぶ。

「足立たば」これは以下に引かれた八首と読めるが、以下で宵曲が述べる通り、これらの前書は「足立たば」ではないこれで、前書は以下の通り。後に宵曲が示す冒頭の一首とともに示す。正直、宵曲のこうした演出的引用法は私は好かない。この前書と巻頭歌あってこその歩けぬ子規の歌群だからである(自明のそれを後で種明かし風に示すのは厭らしい仕儀としか私には思えないからである)

   *

   徒然坊箱根より寫眞數葉を送りこしける返事に

 三寸の筒を開けばたまくしげ箱根の山はあらはれにけり

   *

「徒然坊」は川柳作家阪井久良伎。既出既注

「われは」

「雲の峰」これ

「團扇」これ

「新高山」台湾のほぼ中央部に位置する標高三千九百五十二メートルの、台湾の最高峰玉山(ユイシャン/ぎょくざん)の日本統治時代(日清戦争後の下関条約によって台湾が清から日本に割譲された一八九五年(光緒二十一年/明治二十八年)四月十七日から第二次世界大戦後のポツダム宣言によって台湾が日本から中華民国に編入された一九四五年(民国三十四年/昭和二十年)十月二十五日まで)の旧称。台湾原住民ツォウ族の言葉では「パットンカン」(「石英」の意)と呼ぶ。標高から判るが、この統治時代の五十年間、富士山は日本の最高峰ではなかったのである。当時、大日本帝国の学校に於いても「日本一の山」として「新高山」が教えられていた事実を認識している現代人は殆んどいないであろう。ここは主にウィキの「玉山(台湾)」に拠ったが、それによれば、『日本統治時代には、明治天皇により』、『富士山よりも高い「新しい日本最高峰」の意味で』「新高山」『と名づけられた。しかし皮肉にも、台湾で最も遅くまで日本に抵抗したのは、新高山の周囲に住むブヌン族の「郡蕃」と呼ばれる一群であり、新高山南面の荖濃渓上流部は』一九三三年に『なって』、『ようやく』、『日本の実質統治下に入ったが』、その前年には『南方の大関山駐在所が襲撃され、日本人警察官』三『名が殺害され』ており(大関山事件)、一九三四年には『東方のラクラク渓上流部で、日本人警察官が殺害され』、『(玉里事件)。また』、一九四一年にも、『遥か南方の北糸䰗』(「ホクシキュウ」と読んでおく)『渓畔の駐在所が襲われ、日本人警察官ら』三『名が殺害された「内本鹿事件」が発生するなど、新高山周辺では終戦に至るまで、日本人側からは「蕃害」と呼ばれたブヌン族による抵抗運動が多発した』。昭和一六(一九四一)年十二月二日に『発令された日米開戦の日時を告げる、大日本帝国海軍の暗号電文『ニイタカヤマノボレ一二〇八』の「ニイタカヤマ」とは、当山のことである』とある。正直、私でさえ、小学生の頃、この暗号の「にいたかやま」とは富士山の暗号だと思っていた。

「華山」現在の西安の東、中国陝西省華陰市にある中国五名山の一つで「西岳」とも呼ばれるホワシャン。標高二千百五十四メートル。ウィキの「華山によれば、『花崗岩が露出した険しい山肌が続く景勝地として知られ』、『道教や仏教などの修行地として利用され』た『歴史的な建造物が点在する』とある。(グーグル・マップ・データ)。この山の東北直下で黄河は直角に折れて北上する。]

 

 阪井久良伎氏が箱根から数葉の写真を送って来た。それに対して「三寸の筒を開けばたまくしげ箱根の山はあらはれにけり」と詠んだことからこの連想ははじまるのであるが、足の立つ望(のぞみ)を失った居士が「足立たば」という空想をつらねるところに、普通の空想と異った響がある。「二荒のおくの水海」は居士が「中禪寺の湖は一たび余が目に觸れしより後、再び忘るべからざるの地なり」といったところであり、「晝寐せましを」という須磨はかつて療養に日を送つた馴染の地である。新領土の台湾を思いやるにつけても、「バナ、食はましを」という希望を述べているのは居士の居士たる所以であろう。「われは」の方は更に一層強く居士の境涯が現れている。

[やぶちゃん注:「中禪寺の湖は一たび余が目に觸れしより後、再び忘るべからざるの地なり」引用元不詳。識者の御教授を乞う。

 以下の「われは」は先に示した。]

 

 世の人は四國猿とぞ笑ふなる四國の猿の子猿ぞわれは

 ひんがしの京の丑寅杉茂る上野の陰に晝寐すわれは

 いにしへの故里人のゑがきにし墨繪の竹に向ひ坐すわれは

 人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵に籠りて蠅殺すわれは

 富士を蹈みて歸りし人の物語聞きつゝ如き足さするわれは

 吉原の太鼓聞えて更(ふ)くる夜にひとり俳句を分類すわれは

 昔せし童遊びをなつかしみこより花火に餘念なしわれは

 果物の核(さね)を小庭(さには)に蒔き置きて花咲きる年を待つわれは

 

 「富士を蹈みて歸りし人」というのは、黒田侯に供して登山した末永鉄巌、本田種竹、中村不折の諸氏のうちであろう。あるいは蔵沢の竹の画に向い、あるいは病牀に蠅を打ち、あるいは夜更くるまで俳句分類に従事する。居士の姿もいろいろであるが、余念なく線香花火に興じたり、果物の核を庭に蒔いて遠い将来を待ったりしているのは、特に子供のような天真に触れる思(おもい)がある。

[やぶちゃん注:「蔵沢の竹の画」松山生まれの松山藩士で南画家であった吉田蔵沢(ぞうたく 享保七(一七二二)年~享和二(一八〇二)年):松山藩士としては風早郡・間野郡代官や者頭役などを勤めた功労者であり、長く、藩士の鑑と讃えられた。二十歳ぐらいから南画を趣味として精進し、晩年は画材を竹に絞り、「竹の蔵沢」として知られ、その墨竹画は古今独歩の神品とも称された。正岡子規には、

 

 冬さびぬ蔵澤の竹明月の書

 

という句もある。サイト「吟行ナビえひめ」のを参照されたい。]

 

 第一句乃至第五句に同じ言葉を用いて何首も歌をつらねるのは、古人にも例があり、必ずしも居士の創意を以て目すべきでないが、その内容に至っては余人の容易に窺うを許さぬものがある。居士の作品としてのみならず、当時の歌として一新生面を開いたものと見るべきであろう。

 

 

2018/05/10

私は

正直、言おう――

僕は「メメクラゲ」などという在り得そうなクラゲでない「××クラゲ」に刺されて、生死を彷徨って、そうしてつげ義春が描いたような生温い形では生きない、別な次元の「生死」を生きる夢を見たかった「蛮人」である――

脳性痙攣薬服用中止記念 大和本草卷之八 草之四 海藻類 心太 (ココロフト=トコロテン)

 

【外】

心太 心太ハ國俗ノ所稱之名也コヽロハコヾル也フトノ反ハホ

 ナリホトモト通スコヽルモナリ閩書云石花菜生海石上

 性寒夏月煮之成凍今按ニ是心太ナルヘシ但綱目ノ

 石花菜ヲ説ケルハ異リ今心太ヲ國俗トコロテント稱ス

 蠻語ノ如シ煮テ凍ルモノ也細ニサキテ麪條ノ如ニシテ食ス

 性寒病人虛人不可食庭訓ニ西山ノ心太ト云シハ昔

 嵯峩邊ニコレヲ製シテ賣シカ名物ナリシニヤ○海髮順

 和名抄ニノセタリ是亦心太ノ類煮テ凍トシ食ス毒ア

 リ往々殺人不可食又ウケウトヽ云物アリ紫色ナリ

 一種別種ナリ是等漢名未詳非佳品不可食

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

「心太(〔ココロ〕フト)」 心太は國俗の稱する所の名なり。「ココロ」は「こごる」なり。「フト」の反は、「ホ」なり。「ホ」と「モ」と通ず。『こごる「モ」』なり。「閩書〔(びんしよ)〕」に云はく、『石花菜は海石の上に生ず。性、寒。夏月、之れを煮て凍(こほり)と成す』〔と〕。今、按ずるに、是れ、心太なるべし。但し、「綱目」の「石花菜」を説ける〔と〕は異〔(い)な〕り。今、心太を、國俗、「トコロテン」と稱す。蠻語のごとし。「煮て凍るもの」なり。細かにさきて、麪條(きりむぎ)のごとくにして食す。性、寒。病人・虛人、食すべからず。「庭訓〔(ていきん)〕」に『西山の心太』と云ひしは、昔、嵯峩〔(さが)〕邊〔(あたり)〕に、これを製して賣しが、名物なりしにや。

○「海髮(イギス)」、順が「和名抄」に、のせたり。是れ亦、心太の類。煮て凍とし、食す。毒あり、往々、人を殺す。食ふべからず。又、「ウケウト」と云ふ物、あり。紫色なり。一種、別種なり。是等、漢名、未だ詳かならず。佳品に非ず、食ふべからず。

[やぶちゃん注:最初は現在の加工食品である「心太(ところてん)」であるが、本「大和本草」の書式から考えると、これを益軒は特定の藻類を指す語として強引に分析しようとしているようで、その結果として袋小路に入ってしまった観がある。そもそもが、「ところてん」の原料は単一種ではない。天草(テングサ)類(紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae の総称であり、テングサという種は存在しない)やオゴノリ(於胡苔)類(紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科Gracilariaceae 或いはオゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla)などの広汎な寒天原藻である紅藻類を茹でて煮溶かし、そこに生じた寒天質を冷まして固めたものを「ところてん」、それを戸外で凍結乾燥させたものを「寒天」と呼ぶ。テングサ類などの食用海藻類は古くは「こるもは」(「凝(こ)る藻葉(もは)」て、水中に生える草を指す「藻」の古名。既に祝詞の中に出ており、それは「靑海(あをみ)の原」「の邊(へ)つ」「に住む物」とあるかから海産藻類の本種群を既にして限定していたと考えてよい)或いは「こころふと(心太)」と称した。小学館「日本大百科全書」には、これから製した食品「ところてん」も、初めは「こころふと」であったのが、「こころてい」「こころてん」「ところてん」に転訛したものであろうといわれていると記す。但し、ウィキの「ところてん」では、その説を示した後で、『古くは正倉院の書物中に』「心天」『と記されていることから』、『奈良時代にはすでに』、「こころてん」又は「ところてん」と『呼ばれていたようである』ともあって読者を惑わす。

 「その程度なら知ってるよ」とうそぶく方のために(言っておくが、私はネットから引いても、私のフリークな対象については、必ず、所蔵する書籍や論文で確認をとっている。ただのサンピンのコピー・ペースターなんぞでは、ない)それでは、所持する一九七四年法政大学出版局刊の、食物文化史を研究されてきた宮下章氏の著になる「ものと人間の文化史 11・海藻」の『大凝菜(オオゴルモハ) 凝海藻(コルモハ)』から引用しておこう(以下の太字はやぶちゃん)。大凝菜(オオゴルモハ)は概ね「テングサ」類では最も一般的な種テングサ科テングサ属マクサ Gelidium elegans を指し、凝海藻(コルモハ)は「延喜式」に出るが、これは大凝菜より小型で、トコロテンの材料として貴重なものとされた、後でも出る「海髮(イギス)」、紅藻綱イギス目イギス科イギス連イギス属イギス Ceramium kondoi 指すと考えてよい。『晒して煮ればどろどろに溶け、後に凝結する。つまり凝(こご)る藻(もは)だから、「コルモハ」の語が生まれた。ただし』、この「コルモハ」という音は『「凝海藻」の漢字を』当時の訓で詠んだ『ものであって』、その当時の本当の『和名は明らかではない』(民間では別にあったはずである)。『この製品を「心太(こころぶと)」といったが、「心(こころ)」は「凝(ここ)る」が転訛したもので、やはり日本名ではなかった』とあり、さらに『おそらく仏教の伝来』(五三八年(宣化天皇三年))と同時に、『精進料理の導入にともなってトコロテン製法が伝えられ、その主原料が凝海藻または大凝菜であることを教えられたのであろう。そこから』「コゴルモハ」『の日本名が生まれ、その製品を』「ココロフト」『と呼び』「心太」『の字を宛てたものとみられる』とされる。『「太」の字が問題だが、これについては』、「小」凝菜(先に示した種としての「イギス」)に対する「大」凝菜の『製品だからという説が多い(小凝菜は葉が細いが、大凝菜は葉体がやや多い)』。「太」という字は『呉音では「テイ」と読む』ことから、「ココロフト」が「ココロテイ」に『変る(中世には両方が使われた)、さらに江戸期になると、トコロテンに変わるのである』とある。『トコロテンの名称が定着した後世、海藻名の方は、大凝菜がすたれて「石花菜」という別の漢字に変わる』。花を咲かせたような珊瑚と似て『見えるところから付けられた文字である。この文字にはトコロテンの原草の意味で「テングサ」があたえられた、が、こ唸ったのは古代から数百年を経てののちのこと』だったのである。

 因みに、テングサ科 Gelidiaceae の中でも「ところてん」原藻としての糊分の多い順では(田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)に拠る)、

テングサ属オニクサ(鬼草)Gelidium japonicum(これだけを素材として煮出すと非常に固い寒天が出来る)

同属オオブサ(大房)Gelidium pacificum(生殖器官を附けた枝が房状になるのが一番の特徴で、和名もそれに由来するのであるが、時期的にそれがないと、マクサなどとの区別は難しい。藻体はマクサよりやや固く、大型になり、小枝が枝の一個所から纏まって生えることなどが識別のヒントにはなるようである)

同属マクサ(真草)Gelidium elegans(「テングサ」類では本種が最も一般的な種。「真草」の「真」はそれを意味していよう)

ユイキリ属ユイキリ(結切)Acanthopeltis japonica(別名「トリノアシ」。本種の枝状部が鶏の脚の脛(すね)に似ていることに由来する。寒天原藻であるが、他に比べると品質が劣る)

ヒラクサ属ヒラクサ(平草)Ptilophora subcostata(高さ二十~三十センチメートル、枝幅五ミリメートルあり、「テングサ」類中、最も大きくなる。藻体の質がかなり硬い)

であるが、実は本邦にはテングサ属 Gelidium だけでも十六種が知られている

 

『「フト」の反は、「ホ」なり』。「反」は漢字の音を表わす反切(はんせつ)法(漢字二文字で当該漢字の音を表わす方法)のことであろうが、「太」の反切は「廣韻」では「他蓋切」で「ホ」ではないし、以下の『「ホ」と「モ」と通ず』も判ったようで判らない。ハ行とマ行の同じオ段だなんて判ったようなことを言って、転訛し易いなんて安易千万なことを言うんじゃないだろうな?

『こごる「モ」』既に示した通り、煮ることで「煮凝る藻」の意である。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

『「綱目」の「石花菜」を説ける〔と〕は異〔(い)な〕り』李時珍の「本草綱目」の巻二十八の「菜之四 水菜類」に、

   *

石花菜【食鑑】

釋名璚枝【時珍曰並以形名也】

集解【時珍曰石花菜生南海沙石間高二三寸狀如珊瑚有紅白二色枝上有細齒以沸湯泡去砂屑沃以薑醋食之甚脆其根埋沙中可再生枝也一種稍粗而似雞爪者謂之雞脚菜味更佳二物久浸皆化成膠凍也郭璞海賦所謂水物則玉珧海月土肉石華卽此物也】

氣味甘鹹大寒滑無毒主治去上焦浮熱發下部虛寒【寗原】

   *

とある。益軒はこれは「閩書」のトコロテン原藻の記載とは異なっているとするのであるが、そうだろうか? 私は全く以って「天草」類の記述だと思うぞ! 「一種稍粗而似雞爪者謂之雞脚菜」なんて、モロに別名「トリノアシ」のユイキリ属ユイキリじゃあないか! 益軒先生、私は大いに反論致します!!!

「蠻語のごとし」未開僻地の土人の語のようである(が、しかし)、「煮て凍るもの」の転訛した語なのである、と言いたいようである。

「麪條(きりむぎ)」漢語としては「麺」に同じい。「きりむぎ」は「むぎきり」(麥切(麦切り))で、大麦の粉を練って延ばし、短い饂飩(うどん)のように切ったもの。まあ、ウドンである。しかし、形状や食感から言えば、「葛切り」の方が遙かに近いと思うのだが。葛切りは当時でも高級食だから、無理ないか。

「虛人」虚証の激しい状態、体温が低下した衰弱傾向にある人。

「庭訓」室町時代の往来物(平安末期に生まれた一種の初等教科書様の書物の総称。当初は手紙の模範文例集の体(てい)を成していたが、近世には項目が多様化して寺子屋の教科書となった)として知られる「庭訓往来」。全一巻。玄恵(げんえ)著と伝えられるが、未詳。応永年間(一三九四年~一四二八年)頃の成立か。一年各月の消息文を集めた初学者用書簡文範集。擬漢文体で書かれ、武士・庶民の生活上必要な用語を網羅している。江戸時代には寺子屋の教科書として広く用いられた。「西山の心太」は、その中の、地方の名産品を並べた、物尽くしの一段に出る(下線太字やぶちゃん)。

   *

……次に大舍人綾、大津練貫、六條染物、猪熊紺、宇治布、大宮絹、烏丸烏帽子、室町伯樂、手島莚、嵯峨土器、奈良刀、高野剃刀、大原薪、小野炭、小柴黛、城殿扇子、仁和寺眉作、姉小路針、鞍馬木芽漬、醍醐烏頭布、東山蕪、西山心太。此外、加賀絹、丹後精好、美濃上品、尾張八丈、信濃布、常陸紬、上野綿、上總鞦、武藏鐙、佐渡沓、伊勢切付、伊豫簾、讃岐圓座、同檀紙、幡磨杉原、備前刀、出雲鍬、甲斐駒、長門牛、奧州金、備中鐵、越後鹽引、隱岐鮑、周防鯖、近江鮒、淀鯉、土佐材木、安藝槫、能登釜、河内鍋、備後酒、和泉酢、若狹椎、宰府栗、宇賀昆布、松浦鰯、夷鮭、奧漆、筑紫殿。……

   *

「西山」は清滝から「嵯峩〔(さが)〕」(嵯峨嵐山)から松尾大社辺り(この附近(グーグル・マップ・データ))の広域を指す通称呼称のようである。芭蕉の没年の元禄七(一六九四)年の嵯峨にあった折りの句にも(「泊船集」の形に拠る)、

 

 淸瀧の水汲ませてやところてん

 

と出る。因みに、貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年松尾芭蕉(寛永二一(一六四四)年~元禄七(一六九四)年)は同時代人である。

「これを製して賣しが、名物なりしにや」トコロテンは海産加工物であるが、清冷水で食してこそ美味であったし、寒天はまさに海浜ではなく、運ばれて、内陸の気温差の激しい(凍結乾燥=フリーズ・ドライが自然状態で出来る)盆地や山間地で製される。現在でも、長野県諏訪地方が寒天製造では日本一である

「海髮(イギス)」紅藻綱イギス目イギス科イギス連イギス属イギス Ceramium kondoi。藻体は糸状で、樹枝状に分枝し、暗紫色を呈する。十数種の近縁種があり、各地の磯の潮間帯の岩上や他の海藻上に生える。寒天の混和物でもあり、刺身のツマや糊(のり)の原料とする。また、山陰や瀬戸内地方で食される生大豆の粉に本藻を入れて煮溶かし、醤油などで味をつけて冷やし固めた「いぎす豆腐」はとみに有名である。なお、困ったことに「海髪」は全くの別種である紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla の異名でもあるので注意されたい。オゴノリは潮間帯付近の岩場に植生し、単に「オゴ」「ウゴ」などとも呼ばれる。テングサなどとともに寒天原藻にも混入し、食用としては刺身のツマなどに用いられるが、これは石灰処理をして茹でると、藻体が青色になるので、とても紅藻類(紅色植物門 Rhodophyta 紅藻綱 Rhodophyceae)とは思われない。これは本種のフィコビリン(Phycobilin:藻類に分布するビリン色素(bilin:ビラン・胆汁色素)のサブ・グループで、タンパク質と共有結合してシアノバクテリア(cyanobacteria:かつての「藍藻(らんそう:blue-green algae)」のこと。藍色細菌)や真核藻類(灰色藻・紅藻・クリプト藻(遊泳性の単細胞藻類でクリプト藻綱 Cryptophyceae に属する淡産及び海産藻類の総称)に於ける光合成の主要な集光色素とし働いている色素である)系の赤い色素が変成した上に、葉緑素の色が同じく変成したものの、緑色としてそこに残ったためである(田中次郎著「日本の海藻 基本284」他に拠る))。そう、あの青いツマである。だが……(以下に続く)

「毒あり、往々、人を殺す」前に注したオゴノリ Gracilaria vermiculophylla に代表されるオゴノリ科Gracilariaceae には、本邦産だけでも、オオオゴノリGracilaria gigas・ミゾオゴノリGracilaria incurvata・フシクレオゴノリGracilaria salicornia・シラモGracilaria bursa-pastoris・カバノリGracilaria textorii・シンカイカバノリGracilaria sublittoralis等、実に二十種が知られており、普通に刺身のツマとして使用され、食べている(私も好んで総て食う)のであるが、実は、オゴノリと言えば、本邦ではオゴノリ類によると疑われる中毒が数例報告されている。しかも死亡例も複数あり、それらは総てのケースが血圧低下によるショック死で、全員、女性である。それらはみな、オゴノリ類の生食(記載によっては真水につけて刻むともある)によるもので、現在ではその中毒機序は一応、まずは――オゴノリの脂質に含まれるPGE2prostaglandin E2プロスタグランジンE2)摂取が行われ、次に、このPGE2を更に増殖させる酵素の摂取、即ち、刺身などの魚介類の摂取=魚介類に多く含まれる不飽和脂肪酸であるアラキドン酸(Arachidonic acid)の多量供給により、PGE2が摂取者の体内で過剰に生成されたのが原因ではないか――と疑われている。さらに、プロスタグランジン類には主に女性に対して特異的限定的薬理作用を持つものがあり、その子宮口軟化・子宮収縮作用から産婦人科で分娩促進剤として用いられており、更に血圧低下・血管拡張作用等を持つ。低血圧症であったり、若しくは、逆に、高血圧で降圧剤を服用していた女性に、そうした複合的条件が作用し、急激な低血圧症を惹起させたのではないかという推定がなされている。但し、市販されているオゴノリは青色を発色させるために石灰処理を行っており、その過程で以上のような急性薬理活性は完全に消失しているので、全く危険はない。しかし、そうした中毒原因の推理の一方で、その後にハワイで発生したオゴノリ食中毒の要因研究の過程では、その原因の一つにPGE2過剰等ではなく、アプリシアトキシンaplysiatoxinという消化管出血を引き起こす自然毒の存在が浮かび上がってきている。これは単細胞藻類である真正細菌 Bacteria 藍色植物門Cyanophyta の藍藻(シアノバクテリアCyanobacteria)が細胞内で生産する猛毒成分である。即ち、本邦の死亡例も、オゴノリに該当アプリシアトキシンを生成蓄積した藍藻がたまたま付着しており、オゴノリと一緒に摂取してしまった、とも考えられるのである。ネット上の情報を縦覧する限り、本中毒症状は、未だ十分な解明には至っていないという印象を受けるのである。それにしても、この益軒の記載がそうした極めて数少なかったはずの死亡例の江戸前・中期の記録警告であるとすれば、非常に貴重な記載と言えると私は思うのである。

「ウケウト」これは「おきうと」のことであろう。「おきゅうと」として、最近はスーパーでも普通に見かける全国区となった海藻加工食品であるが、元は福岡県福岡市を中心に食べられてきたもので、私の好物でもある。ウィキの「おきゅうと」から引くと、漢字では「お救人」「浮太」「沖独活」などとも表記されるそうで、『江戸時代の『筑前国産物帳』では「うけうと」という名で紹介されている』。『もともとは福岡市の博多地区で食べられていたようだが、その後福岡市全体に広がり、さらには九州各地に広がりつつある。福岡市内では、毎朝行商人が売り歩いていた』。『作り方は、原料のエゴノリ(「えご草」、「おきゅうと草」、博多では「真草」とも呼ばれる)』(紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides前に出した紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla と酷似した和名であるが、全くの別種であるので注意が必要)『と沖天(イギス、博多ではケボとも呼ばれる)』(前注参照)『やテングサ』(紅藻綱テングサ目テングサ科Gelidiaceae に属する海藻類の総称であるが、最も一般的な種はテングサ属マクサ Gelidium elegans)『をそれぞれ水洗いして天日干しする』(状態を見ながら、干しは一回から五回ほど繰り返したりする)。この時の歩留まりは七割程度であるが、『この工程を省くと』、『味が悪くなり』、『黒っぽい色の』「おきゅうと」になってしまう『ため、手間を惜しまない事が重要である(ただし、テングサは香りが薄れるので』、『自家用の場合は洗う回数を減らすことがある』)。『次に天日干しした』エゴノリと同じく天日干ししたイギス(或いはテングサ類)を、凡そ七対三から六対四の割合で混ぜて、よく叩く。『酢を加えて煮溶かしたものを裏ごしして小判型に成型し常温で固まらせる』。『博多では、小判型のおきゅうとをくるくると丸めたものが売られている』。『おきゅうとの良し悪しの見分け方として、あめ色をして、ひきがあるものは良く、逆に悪いものは、黒っぽいあめ色をしている。また、みどり色をしたものは、「おきゅうと」として売られているが』、全くエゴノリが『使われていないものもあり』、テングサ類が『主原料の場合は「ところてん」であり』、『「おきゅうと」ではない』(これは絶対で、舌触りも異なる)。『新潟県や長野県では』、エゴノリのみを『原料とした』殆んど「おきゅうと」と『製法が同じ「えご(いご)」「いごねり(えごねり)」が食べられている』。「おきゅうと」との『製法上の相違点は』、エゴノリを『天日干しせず、沖天を使用しないところである』。食べ方は、五ミリから一センチの『短冊状に切り、鰹節のうえに薬味としておろし生姜またはきざみねぎをのせ生醤油で食べるか、または芥子醤油やポン酢醤油やゴマ醤油などで食べるのが一般的である。もっぱら朝食の際に食べる』。この奇妙な『語源については諸説あり』、『沖で取れるウドという意味』・『キューと絞る手順があるから』・『享保の飢饉の際に作られ、「救人(きゅうと)」と呼ばれるようになった』・『漁師に製法を教わったため、「沖人」となった』、『などが挙げられる』とある。]


――2年8ヶ月飲み続けてきた
脳性痙攣薬から解放された。左内頸動脈の動脈瘤も問題なかった。――

2018/05/09

明日は

明日は早朝の脳MRI(7:20)なれば随分御機嫌よう――

進化論講話 丘淺次郞 第十五章 ダーウィン以後の進化論(3) 三 ハックスレーとヘッケル

 

      三 ハックスレーヘッケル

 

 「種の起源」が出版になるや否や、直に之に賛成し、廣くこの考へを普及せしめやうと盡力したのはイギリス國ではハックスレードイツ國ではヘッケルである。この二人は孰れも有名な動物學者であるが、或は演說により、或は雜誌上の論說により、幾度となく通俗的に進化論を敷衍して述べたので、比較的短い間に一般の人民の間にも、進化論の大要が廣く知れ渡るやうになつた。進化論の普及上には最も功績の著しい人等である。尚兩人ともに宗敎上の迷信を遠慮なく攻擊し、その上僧侶の墮落を激しく罵つた故、宗敎界からは惡魔の如くに言はれて居る。

[やぶちゃん注:「ハックスレー」生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)。小学館「日本大百科全書」より引く。『ロンドンで医学を修めたが、もともと物理学に関心があったために、生体機能の物理・化学的側面を扱う生理学に興味をもった。生計をたてるために海軍の軍医となり、ラトルスネーク号でオーストラリア方面に航海し』(一八四六年から一八五〇年まで)、とくにクダクラゲ類』(刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目 Siphonophorae)『について優れた研究を行った。帰国後、王立鉱山学校教授となり、化石の研究や生理学、比較解剖学に従事。王立学会員となり』、一八八三年からは『同会長を務めた。腔腸』『動物の内・外胚葉』『が、高等動物の内・外胚葉と相同であることを示し、また』、従来の『頭骨は脊椎』『骨の変形したものであるとする「頭骨脊椎骨説」の誤りを正した』。『ダーウィンとは、航海から帰国後まもなく知己となり、終生』、『親交を結』び、彼の「種の起原」(一八五九年)が『出版されるや』、『ただちにダーウィン説に賛同し、ダーウィン自身にかわってこの説の普及者となることを決意し、「ダーウィンのブルドッグ」とよばれた。とくに』一八六〇年に『イギリス学術協会において、ダーウィン説の反対論者であった』司教サミュエル・ウィルバーフォース(Samuel Wilberforce 一八〇五年~一八七三年)を『論破したことは、その後の進化論の受容に大きな影響を与えた。しかしハクスリーは、ダーウィン説を無批判に受け入れたわけではなく、その欠陥も鋭く指摘し、またダーウィンが避けた人間の起源の問題にも言及した』とある。

「ヘッケル」何度か注している、生物学者で哲学者でもあったエルンスト・ハインリッヒ・フィリップ・アウグスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel 一八三四年~一九一九年)。「ブリタニカ国際大百科事典」より引く(コンマを読点に代えた)。『父は行政官。ウュルツブルク、ベルリン両大学で医学を学ぶ。ベルリン大学で当時教授であった』ヨハネス・ペーター・ミュラー(Johannes Peter Müller 一八〇一年~一八五八年)の『影響を受け、海産動物の研究に関心を』持ち、一八六一年には『イェナ大学より動物学の学位を取得、同年員外教授』、一八六五年からは正教授となった。ダーウィンの「種の起原」が『出版されると、それを支持し、進化論の普及・啓蒙に努めた。彼は自然界全体を一元的に説明することを志し、そのための基礎理論としての役割を進化論に求めた。また』、『無生物界から生物界への連続的な移行を想定し、両界をつなぐものとしてモネラという原始的な生物を仮想』し、『それは蛋白質から成る無構造の塊とされ、これに物理法則が働いて単細胞生物へ、さらに多細胞生物へと進化すると考えた』(但し、『この仮説を一時裏づけていたモネラの発見は、誤りであることが』後に判明している)。生物を物理法則で説明しようとする基本姿勢は、遺伝に関する理論においても』採『られており、原形質をつくっている分子の運動で遺伝の仕組みを説明』、『理論的考察のみに基づいてではあるが、核が遺伝に関係していることを』、一八六六年という『早い時期に示唆した。また、有名な反復説』(「個体発生は系統発生を繰り返す」)『を定式化し、「生物発生原則」とも呼んで重視した』とある。] 

 

Haksuri

[ハックスレー]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。(以下のヘッケルも同前)。] 

 

 ダーウィンは「種の起源」の中には、たゞ動植物ともに互に相似た種屬は共同の先祖から進化して分かれ降つたといふ一般に通ずる論を述べただけで、人間は如何なる先祖から進化し來つたものであるかといふ特別の論は、全く省いて掲げなかつた。之はそのときの世の有樣を考へて、人間の先祖のことを第一版に直に書いては、そのため世人の反對を受け、肝心の生物進化論や自然淘汰の說までが、世に弘まらぬ恐があるから、ダーウィンが態々略して置いたのである。倂し文句にこそ書いてはないが、この書の中に書いてある一般の論を、人間といふ特別の場合に當て嵌めて考へれば、是非とも人間と他の獸類とは共同の先祖より分かれ降つたとの結論に達せざるを得ぬことは誰にも明に知れる。然るにハックスレーは早くもその翌年に處々で人間と猿とは同一の先祖より降つたものである、人間の先祖は獸類であると明に斷言して演說し、尙後にこれらを集め、書き直して、「自然に置ける人類の位置」と題する書を著した。之は從來人間は神が態々自分の形に似せて造つた一種特別のもので、天地萬物は皆人間に役に立つために存在するなどと說き込んで居た耶蘇敎に對しては、非常に大きな打擊であつたから、宗敎家からは無暗に嫌はれ、彼等の攻擊の的は殆どハックスレー一人の如き有樣となつた。餘程前のことであるが、或る耶蘇敎の雜誌を開いて見たのに、その中に「進化論の本家であるダーウィンは神を尊敬する人である。たゞその取次をするハックスレーといふ男が無神論を主張して、世に害毒を流すのである。けしからぬは實にこの男である」といふやうなことが書いてあつた。倂し實際ハックスレーの述べたことは、ダーウィンの說と少しも違つた所はない。たゞダーウィンが生物全體に就いて論じた所を、人間といふ特殊の場合に當て嵌めただけで、その主張する點は全く同一であつた。ダーウィンもその後「人の先祖」と題する書を著して、進化論を特に人間に應用し、人間も他の獸  類と先祖をともにするもので、猿の類から分れ降つたものに相違ないとの說を明に述べた。この書は今より五十五年前の出版故、その後に發見になつた澤山の面白い事實は載せてないが、その頃までに知れて居た材料だけは、十分に集め、且議論も餘程鄭重にしてあるから、かの「種の起源」と共に進化論を硏究しやうとする人の、一度は必ず讀まねばならぬ本である。ハックスレーがその著書の中に述べた最も著しいことは、人間と猿類との比較解剖によれば、人間と高等の猿類との相似る度は、高等の猿類と下等の猿類との相似る度よりも遙に優つて居るとの論である。同じく猿類といふ中には、猩々もあれば狒々もあり、南アメリカには長い尾を樹の枝に卷き附けて身を支へる類があり、又鼠猿(ねづみざる)というて殆ど、鼠のやうな類もある。これらは皆四肢ともに物を握ることが出來るから、從來は總べて合せて四手類と名づけて居た。また人間が哺乳類に屬することは如何なる動物學者も疑ふことが出來ぬが、猿と違つて手が二つよりないといふ所から、別に二手類といふ目を設けて、猿類とは離してあつた。然るにハックスレーの硏究によると、この區別は解剖上少しも根據のないことで、猿の後肢と人間の足とは骨骼・筋肉ともに全く一致して居るから、決して一を手と名づけ、一を足と名づくべきものでない、若し猿類が前後兩肢ともに人間の手と同じ構造を有するならば、眞に四手類の名に背かぬが、實は後肢の方は人間の足と解剖上同一の構造を有するもので、單に之を以て物を握るだけであるから、この點を以て猿と人間とを別の目に分つのは無理である。特に猿類の中でも、猩々の如きものと、南アメリカの尾を卷く猿などとを比べて見ると、その間の相違は人間と猩々との間の相違よりは遙に著しいから、若しかやうなものを同じ目の中に編入して置くならば、無論人類もその中に入れなければならぬ。現今の動物學書を開いて見れば、孰れもこの考を取り、人類と猿類とを合して靈長類と稱する一目として、哺乳類中に置いてあるが、之は比較解剖上の明な事實に基づくこと故、動物學上では誰も異議の出しやうがないからである。

[やぶちゃん注:「自然に置ける人類の位置」ハックスリーが一八六三年に刊行した“ Evidence as to Man's Place in Nature (「自然界に於ける人間の位置に関する証拠」)。

「人の先祖」ダーウィンが一八七一年に刊行した“ The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex (人間の祖先、及び生殖に関わるところの淘汰)。

「今より五十五年前」本書は東京開成館から大正一四(一九二五)年九月に刊行された『新補改版』(正確には第十三版)。数えとすれば問題ない。

「猩々」オランウータン(哺乳綱霊長目直鼻亜目Simiiformes 下目 Catarrhini 小目ヒト上科 ヒト科オランウータン属 Pongo で、現生種はスマトラオランウータン Pongo abelii ・ボルネオオランウータン Pongo pygmaeus ・ Pongo tapanuliensis (二〇一七年にスマトラオランウータンのトバ湖以南の個体群が形態や分子系統解析から分割・新種記載されたもの)の三種)の別名(漢名)。

「狒々」直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属 Papio

「長い尾を樹の枝に卷き附けて身を支へる類」直鼻猿亜目広鼻下目オマキザル上科オマキザル科オマキザル亜科オマキザル属 Cebus としておく。オマキザル類の上位タクソンでもよい。

「鼠猿(ねづみざる)」マダガスカル島の林に広く分布するサル目コビトキツネザル科ネズミキツネザル属ネズミキツネザルMicrocebus berthae 辺り(或いは同属の近縁種)を指しているものと思われる。] 

 

 ハックスレーの專門學上の功績はなかなか夥しいもので、その中に進化論の材料となるものも決して少くはないが、この人はその外に理科の敎育、進化論の普及に盡力して、澤山な論文を公にした。而してその文句は總べて極めて平易で、學者の通弊ともいふべき、むずかしい字をわざと竝べたやうな形迹は少しもないから、誰も明瞭に著者の意を解することが出來る。それ故、特に生物學に志す人でなくても、一般の敎育ある人は、誰が讀んでも利益があるが、英語を學ぶ人などにはまた最も善い手本として見るべき價値があらう。

 

Hekel

[ヘッケル]

 

 ドイツ國で盛に進化論を主張し、通俗的に之を普及せしめたのは、有名なヘッケルである。この人は近頃までエナ大學[やぶちゃん注:現在のドイツ・テューリンゲン州のイェーナにあるフリードリヒ・シラー大学イェーナ(Friedrich-Schiller-Universität Jena)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の動物學教授を勤めて居たが、動物學者兼哲學者ともいふべき人で、生物學上確に知れて居る事實を基とし、之に自分の理論上の考を加へて、一種の完結した宇宙觀を造り、進化論を說くに當つても常に自說を附け加へて吹聽した。それ故ヘッケルの著書を讀んで見ると、どこまでが學問上確に知れて居ることで、どこからが想像であるか、その境が判然せぬ樣な感じが起るが、斯くては一般の讀者を誤らしめる虞があるというて、動物學者の中にも之に不賛成を表する人が澤山にある。倂し兎も角も事實の間を想像で繫いで、始から終まで纏まつた考が貫いて居るから、讀んで解り易いことはこの上はない。この人の著書は專門の動物學の方にも非常に多くあるが、通俗的の方で最も有名なものは「自然創造史」と「人類進化論」との二册で、兩方とも大抵の國語には飜譯せられてある。またその後「世界の謎」及び「命の不思議」と題する面白い書を二册著したが、之も早速大評判となり、忽ちイギリス語・フランス語等に譯せられた。

[やぶちゃん注:「自然創造史」一八六八 年刊の“ Natürliche Schöpfungsgeschichte 

「人類進化論」一八七四年刊の“ Anthropogenie oder Entwicklungsgeschichte des Menschen 

「世界の謎」一八九九年刊の“ Die Welträtsel 

「命の不思議」恐らくは、一九〇四年に刊行された、先の“ Die Welträtsel に補足する形で書かれた“ Die Lebenswunder. Gemeinverständliche Studien über Biologische Philosophie (「生命の不思議/生物哲学についての分かり易い研究」)であろう。] 

 

 「自然創造史」といふのは、既にその名前で知れる通り、今日我々の見る天地間の萬物が神といふやうな自然以外の者の力を借らず、たゞ自然の力によつて漸々出來上つた有樣を書いたものである。その大部分は素より想像に過ぎぬが、今日知れてあるだけの科學上の知識を基礎としたもの故、全く空に考へ出した想像とは違つて、多少眞に近いものと見倣さねばならぬ。倂し事實上の知識の足らぬ所を餘り奇麗に推論で補つてあるため、この書を讀むと恰も今日既に天地間の事物が悉く解釋せられ盡したかの如くに思はれ、かの「講釋師見て來たやうな虛言をつき」といふ川柳などを思ひ出して、却つて全體を疑ふに至り易い。ヘッケルも素よりこの書の中に書いてあることを悉く確乎たる事實と見倣しては居ないが、進化論を通俗的に述べて、一般の人民間に普及せしめるには、科學上確乎たる事實だけを掲げ、他に如何に眞らしいことがあつても、事實上の證據の出るまでは尙疑を存して置くといふやうな愼重な遣り方では、なかなか間に合はぬ。それよりは寧ろ多少の想像を加へて、生物進化の有樣を具體的に造り上げて、所謂「中(あた)らずと雖も遠からず」といふ位の所を示した方が、功力が多いとの考から、恐らくかやうに書いたのであらう。「人類進化論」も之と同樣で、人類の進化し來つた徑路をその出發點から說き起し、初め何の構造もない簡單な生物から漸々進化して、終に今日の複雜な人間になるまでの歷史を詳[やぶちゃん注:「つまびらか」。]に書いてあるが、之も無論大部分は想像で、その中には隨分眞らしからぬ點も少くない。一言で評すれば、餘り明瞭過ぎるのである。今日我々の不完全な知識を以て、既に人間の進化の徑路を、始から終まで到底斯く明に說けるわけのものではないが、このことはヘッケル自身も承知で、たゞ當時知れて居た人間の發生學上の事實を基として推し考へた想像を、具體的に書き綴つて、やはり「中らずと雖も遠からず」と思つた所を公にしたに過ぎぬ。以上二種ともに解り易く書いた本であるから、進化論を研究したい人は一度は讀んで見るが宜しい。こゝに述べたことを心得て讀みさへすれば、別に誤解するやうな憂[やぶちゃん注:「うれひ」。]はなからう。また「世界の謎」と「命の不思議」とは生物學を基礎としてヘッケル流の宇宙觀ともいふべきもので、讀む人によつて無論批評も違ふであらうが、哲學的の趣味を有する者には至極面白い書物である。

 ハックスレーヘッケルもともに初期の進化論者であるから、主として生物進化の事實を世に弘める方に力を盡したが、理論の方は先づダーウィンの說と同じであつた。特にヘッケルは明にラマルク說をも主張し、その著書の最新版にも後天的性質の遺傳を認めなければ、生物進化の原因は到底說明が出來ぬと斷言して、次に名を揚げたウォレースヴァイズマンの學說を頭から攻擊して居る。ヘッケルは已に數年前に亡くなったが、從來の議論から見ると、自然哲學的見地から常に生物進化の全局面を普く考へて論を立て、一局部の現象を重く見過ぎて、その方に偏する如きことはなかつたやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「ウォレース」「ヴァイズマン」は次の章で注する。

「ヘッケルは今年の二月に既に滿八十歳に達した」ヘッケルは一九一九年八月八日に没している。本書は既に示した通り、大正一四(一九二五)年九月に刊行された版である。] 

 

 序にいうて置くことは、ヘッケルの著書にはドイツ國の詩人ゲーテを非常に尊重し、恰もゲーテを以て生物進化論の首唱者の如くに說いてある。ゲーテの大詩人であつたこと、及びその生物學に非常な興味を持つて居たことは、誰も疑ふものはないが、彼を以て進化論の首唱者と見倣すのは殆どヘッケル一人だけで、他の生物學者は之に同意を表するものはないやうである。またヘッケルは機會さへあれば、口を極めて耶蘇舊敎を罵り、その僧侶の不品行を攻擊して、往々必要のない所に之を引合(ひきあひ)に出すこともあるが、これらは單に癖とでも見て置くが宜しかろう。

 兎に角イギリスではハックスレードイツではヘッケルといふやうな人等が「種の起源」の出版後、直に進化論を普及せしめようと大いに盡力したから、この二國では忽ち下層の人民までも進化論といふ題位[やぶちゃん注:「だい」「くらゐ」。]は知るやうになつたが、そのため反對論もまた盛に起り、一時は何雜誌を見ても、進化論に關する記事が必ず掲げてあるやうな有樣であつた。フランスその他の國々では、ハックスレーヘッケルに比すべき人がなかつたから、たゞその著書を飜譯しただけで、隨つて進化論の普及することも幾分か遲かつたやうである。

紅玉   北原白秋

 
 
かかるとき、
海ゆく船に
まどはしの人魚(にんぎよ)か蹤(つ)ける。
美くしき術(じゆつ)の夕(ゆふべ)に、
まどろみの香油(かうゆ)したたり、
こころまた
けぶるともなく、
幻(まぼろし)の黑髮きたり、
夜(よ)のごとも
わが眼(め)蔽(おほ)へり。
 
そことなく
おほくのひとの
あえかなるかたらひおぼえ、
われはただひしと凝視(みつ)めぬ。
夢ふかき黑髪の奥(おく)
朱(しゆ)に喘ぐ
紅玉(こうぎよく)ひとつ、
これや、わが胸より落つる
わかき血の
燃(もゆ)る滴(したたり)。
 
 
[やぶちゃん注:北原白秋「邪宗門」中の「靑き花」より。底本は易風社明四二(一九〇九)年刊の「邪宗門」を用いた。太字「ひし」は底本では傍点「ヽ」。]

つげ義春風「人魚橋」伝説夢(少々長めの昨夜見た夢)

 
 

晩春であった。
その橋は山間(やまあい)の深い溪谷に架かっていた。
見下ろすと、碧色の溪水の両岸に新緑の木々が茂っていた。

僕はこの四月から、この近くにある高校に赴任しているのだった。
[やぶちゃん注:これは夢を見ている僕の認識であって、学校自体は夢に出てこない。]
この学校には生徒の「遅刻カード」の提出が定められていた。
手札大の紙に遅刻理由を書いて、教員の捺印を受け、授業をしている教師に出すというものであった。
[やぶちゃん注:これに酷似したシステムは、僕が曾て七年間務めた高校で実際に行われていた。裏表で四十回分ほどの枠が発注されたピンク色の用紙に印刷されてあり、捺印は職員室にいる一時間目の授業のない教員が捺印することになっていた。やや辺鄙な場所にある高校で、遅刻する生徒は非常に多く、僕は一時間目の空いている日が憂鬱で仕方なかった。理由も書かさねばならず、遅刻がさらに長引き、その在り方に、僕は大いに疑問もあった。因みに、その学校は僕の家から遠く、朝六時起きで、二時間近くかけて通勤しなくてはならぬのであった。]

ところが、この学校、こうした教師の捺印方式にとっくに音を挙げたものか、登校には誰もがそこを必ず渡らねばならない、その橋のたもとに小屋を設け、そこで遅刻常習者の最大回数の者に印鑑押しの仕事を強制させているのであった。

この橋は「人魚橋」という名であった。
そうして――ご多分に漏れず、その橋に纏わる、とある「学校の怪談」が囁かれていたのであった。

……それは……

『――人魚族の血を引く生徒がこの番人役に当たると、その生徒を愛する生徒が出て来て「好きだ」と告げた時、その者に呪いをかけて、自身の身代わりと成すことができ、自分はほんとうの人間になれる。……もし――誰もその人を愛さなければ――未来永劫――その人は「人魚橋」の番人をしなければならない。……それから、その人魚の呪いを少しでも邪魔した者があった時は、やはり、その邪魔した者を身代わりとして呪うことで、人間への転生が成就する……』

というものだった。
僕は、赴任早々、教え子の女子生徒から、その話を聴いて、覚えていたのであった……

ある早朝、通勤で、橋の手前まで通じているバスに乗っていると、番人の女子生徒が僕の横に座っていた。
すぐ後ろに、新入生の男子生徒がいた。
すると、その後ろの男子が番人の女子に、僕の右肩越しに話しかけ始めた。僕は寝ている振りをしながら、しかし、聴いていた。
そのうちに、どうもこの男の子は入学するや、この番人の彼女に一目惚れしたらしいことが話し振りから判ったのだった。

彼はそれからそれへと彼女の気を引こうとする話をしているのが、よく判った。
横に僕がいるのも気にせず、大きな声で彼女に話をし、今にも「好きなんです」と言いかけそうな雰囲気になってきた。
僕は余りの五月蠅さに、彼の方を徐ろに振り返ると、

「君ね、まだ、新入生だから知らないかも知れないがね、この橋にはね、とある伝説があるんだ……」

と言いかけた――言いかけた途端――僕の右に座っていた番人役の彼女が真っ青になって――いや――形容ではなく――その溪谷の深い碧玉色の谷水のようになって――怖ろしい顔で僕を睨んだのであった……

……翌日……僕はその「人魚橋」の番小屋にいた。
僕はもう、そこに住むことに決めていた。
何の悲壮感もなかった。
あの女の子は人魚族の末裔であったのだ。
「だから、僕が、これから遅刻カードに捺印する役を背負わねばならぬだけのことだ」と妙に達観しているのであった。

僕は何十個もの印鑑を用意していた。三文判数本に、実印に、「心朽窩主人」や似顔絵附きのもの、何故か「國立國会圖書館之印」という四角なドデカいものもあった。
[やぶちゃん注:これは僕が実際に『毛利梅園「梅園魚譜」人魚』で同図書館の人魚図の画像を使用させて貰っていたりするからであろう。]

遅刻した生徒がたくさんやってきた。
僕は黙って笑って挨拶すると、片っ端から紙に印鑑を捺して配ってやる。
彼らに人気なのは「國立國会圖書館之印」なのであった。
それを黒インクでズンと捺した遅刻カードを、髪を紫色に染めた女子生徒が喜んで受け取っては、「チョーカッコいい!」と頭の上で振りながら、楽しそうに橋を渡って行くのであった。

気がつくと、橋のたもとの少し離れたところには、一軒の古い駄菓子屋があった。
そこでは、若い一人の美しい少女が店番をしているのであった。
彼女は、僕に向かって、「ご飯はこれから私が届けるのであります」と、はにかんで笑みを浮かべながら、声をかけてきた。
何か、嬉しくなった。
[やぶちゃん注:これはもう、つげの「紅い花」のキクチサヨコか、「もっきり屋の少女 」のコバヤシチヨジである。但し、ワンピースであって、浴衣ではなかった。]

ところが――
その瞬間――
番小屋の中の僕の右肩を、誰かの手が「グイ」と摑んだ――

……それは……あの、昨日までこの役を務めていた女子生徒であった。
黙ったまま、一寸咎めるような顔つきをしたが、すぐに僕の横に座ると、次から次へと入ってくる遅刻生徒のカードに、色々な印を楽しそうに捺しては、「はいはい! 遅刻してはいけません!」と言いつつ、笑っているのであった……

僕は悟った――
『彼女は人間にならずに――なれたのに――ここへ戻ってきたのだ……』……

え? 僕は今、どうしてるかって?

「今も――二人で仲良く――人魚橋の番小屋で――遅刻カードに印を捺しているのです――」

[やぶちゃん注:エンディグは、つげの「李さん一家」のそれの台詞のインスパイアに違いないのだが、寧ろ、僕には「やなぎ屋主人」で主人公が幻のように見る、仮想された、「やなぎ屋」の娘と夫婦になって年老いた二人の映像に近いものであった。並んで印を捺している二人のセピア色になった静止画像で終わっていたからである。
 ここからは蛇足で、覚醒後の感想なのだが、この夢の中の僕は、人魚族の末裔の彼女の体の一部を食べたのに違いないと思うのである。でなくては、番人として未来永劫、その仕事を全うすることは出来ないからである。

 言っておくが、以上は僕が昨夜見た夢を可能な限り、忠実に再現したものである。作り物? 創作する能力など、今の僕には殆んど枯渇しているのである。]

2018/05/08

北條九代記 卷第十二 後醍醐帝御謀叛

 

      ○後醍醐帝御謀叛

天皇は近代の明君、當時の賢王にて、仁慈德澤(とくたく)の普(あまね)き事、一天四海、その恩恵を蒙り、禮讓道義の正しき事、四民六合(りくがふ)[やぶちゃん注:上下と東西南北の六つの方角。天下。世界。六極(りっきょく)。]、かの餘陰(よいん)に託す。然るに近年、鎌倉の有樣、政道、邪(よこしま)に行はれて理非の決断、明(あきらか)ならず、奢侈、甚(はなはだ)盛(さかり)にして、庶民の愁歎を知らず。睿慮萬端、違背して恐れず、勅命諸事、蔑如(べつじよ)[やぶちゃん注:蔑視に同じい。]して守らず。往初(そのかみ)、後鳥羽上皇、御心輕々(かろがろ)しく、遠き慮(おもんぱかり)おはしまさず、天下の權(けん)を武門に奪はれ、王道、漸々(ぜんぜん)衰敗して、今に至りて本(もと)に復(かへ)らず。是(これ)に依(よつ)て、君、大に憤(いきどほり)を含み給ひ、遠くは承久の宸襟(しんきん)[やぶちゃん注:後鳥羽上皇の無念な胸の裡。]を休(きう)し、近くは朝議の陵廢(りようはい)[やぶちゃん注:増淵勝一氏の訳では『朝廷の会議が軽んぜられている』ことと訳されておられる。]を歎き思召(おぼしめ)し、『何如(いか)にもして、東夷高時が不義を討(うつ)て、天下安泰の風(ふう)に皈(き)[やぶちゃん注:「歸」に同じい。]せばや』と思召立ちけるこそ忝(かたじけな)き。相摸守高時が行跡(かうせき)、奉行頭人(とうにん)の政斷、偏(ひとへ)に天道の明德に弛(はづ)れ、佛神の冥眦(みやうし)[やぶちゃん注:現代仮名遣「みょうし」。神仏が怒って睨むことを言う。]に罹(かゝつ)て、人望に背きしかば、諸氏、是を疎果(うとみは)てて、世の亂れん事をのみ願ひける所に、渡に舟を得たるが如く、諸卿(しよきやう)、近侍の輩(ともがら)、君、この御志のましきす事を悦び、一度天下を覆(くるがへ)し、高持を亡(ほろぼ)し、政道を王家に皈(かへ)さんと、内々、主上を勸め奉りければ、主上も睿智を囘(めぐ)らし給ひ、深慮智化(ちくわ)[やぶちゃん注:知力をよく働かせることが出来ること。]の老臣にも、猶、憚り思召して、先(まづ)、日野中納言資朝(すけともの)卿、藏人右少辨俊基、四條中納言隆資、尹(いんの)大納言師賢(もろかた)、平(へい)宰相成輔計(ばかり)に潛(ひそか)に仰合(おほせあは)され、然るべき兵を召(めさ)れけるに、錦織(にしごりの)判官代、足助(あすけ)次郎重成、南都北嶺の衆徒等(ら)、少々、勅命に應じけり。夫(それ)、『衆愚(しゅぐ)の愕々(がくがく)は一賢の唯々(ゐゝ)に如かず』と云へり。何ぞ智慮謀略の輩(ともがら)に勅して異見をも問ひ給はざる。世を愼み給ふ御事はさもあるべし、この大事に臨みて、器量を選び給はざる、是(これ)未(いま)だ時の至らざる所なり。爰に土岐(ときの)左近藏人賴員(よりかず)は六波羅の奉行人齋藤太郎左衞門尉利行が婿なりしが、六波羅へ返忠(かへりちう)して、主上御謀叛の事を告げたりければ、六波羅、大に驚き、元德元年九月十九日に小串(をぐし)三郎左衞門尉範行、山本〔の〕九郎時綱を大將として、軍兵三千餘騎を遣し、多治見が宿所錦小路高倉、土岐が宿所三條堀河へ押寄せ、賴貞、國長を討取りて、關東に飛脚を立ててぞ告げたりける。高時、聞きて、評定、様々なり。「先(まづ)、その密計の張本(ちやうぼん)を召して問はるべし」とて、同二年五月に關東の使、長崎四郎左衞門尉泰光、南條〔の〕次郎左衞門尉宗直、二人、上洛して、權中納言賢朝(すけともの)卿、蔵人右少辨俊基を召捕(めしとつ)て、鎌倉に歸りけり。この兩人は、主上御謀叛の御事を勸め奉りし張本なりと聞えたり。既に關東に下著せしかども、朝廷の近臣なり、才覺優長(いうちやう)[やぶちゃん注:学才に優れていること。]たりしかば、世の誹(そしり)、君の御憤(おんいきどほり)を憚りて、拷問の沙汰にも及ばず、侍所に預置(あづけお)きたり。同七月七日、主上、已に吉田中納言冬房卿を召して、一紙(し)の御告文(おんがうぶん)[やぶちゃん注:「告文」(現代仮名遣「こうぶん」)は自分の言動に虚偽のないことを神仏に誓ったり、相手に表明したりするために書く文書を言う。]を草せしめ、萬里(までの)小路大納言宣房卿を勅使として、關東に差下し、武家の憤(いきどほり)を宥(なだ)め給ふ一策にぞ擬(ぎ)せられける。高時、卽ち、秋田(あいだの)城〔の〕介を以(もつ)て御告文(おんがうぶん)を請取(うけと)り、二階堂出羽入道道蘊(だううん)が申す旨(むね)に依(よつ)て、齋藤太郎左衞門尉利行(としゆき)[やぶちゃん注:底本「後行」であるが、原本に当たって「利行」に訂した。]に讀(よま)しむるに、睿心(えいしん)僞(いつは)らざる處、天の照覽(せうらん)に任(まか)すと遊(あそば)されたる所を讀みける時に、利行、俄に目眩(めくるめ)き、衂垂(はなぢた)りければ、讀果(よみは)てずして退出し、七日の中に、血を吐きて、死ににけり。高時、天慮を憚りけるにや、「御治世(おんぢせい)の御事は朝議に任せ奉る上は、武家、綺(いろ)ひ[やぶちゃん注:口出しをし。]申すべきにあらず」と勅答申して、告文を返し、宣房、上洛あり。俊基は免(ゆるさ)れて皈京あり。資朝卿は佐渡國へ流されたり。

[やぶちゃん注:湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この辺りから、有意に「太平記」が参考元資料として使用され始める。本項では巻第一の六項目の「中宮御産御祈之事 付(つけたり) 俊基僞(いつはつて)籠居事」から九項目の「資朝・俊基關東下向〔の〕事 付 御告文(ごかうぶんの)事」が利用されている。

「日野中納言資朝(すけともの)卿」(正応三(一二九〇)年~元弘二/正慶元(一三三二)年)日野俊光の子。後醍醐天皇の信任を得て、元亨元 (一三二一) 年に参議となり、院政をやめて親政を始めた天皇が、密かに計画した討幕計画に同族の日野俊基らと加わり、同三年、東国武士の奮起を促すために下向した。しかし翌正中元 (一三二四) 年九月に討幕の陰謀が漏洩し、六波羅探題に捕えられ、鎌倉に送られ、翌二年に佐渡に流された (正中の変) 。その後、元弘元/元徳三(一三三一)年の後醍醐天皇の再度の討幕計画の発覚 (元弘の乱)した際、配所で処刑された。

「藏人右少辨俊基」(?~元弘二/正慶元(一三三二)年)刑部卿日野種範の子。文保二(一三一八)年の後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となり、後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受けて、討幕のための謀議に加わった。諸国を巡り、反幕府勢力を募ったが、六波羅探題に察知され正中の変で同族の日野資朝らとともに逮捕された。彼の方は処罰を逃れ、京都へ戻ったが、「元弘の乱」の密議で再び捕らえられて、得宗被官諏訪左衛門尉に預けられた後、鎌倉の葛原岡で処刑された。

「四條中納言隆資」(正応五(一二九二)年~正平七/観応三(一三五二)年)大納言四条隆顕の孫。正中・元弘(げんこう)の二度の討幕計画に孰れも関わり、建武政権では有力公卿となった。南北朝分裂後も後醍醐天皇に従って吉野に赴き、南朝で従一位権大納言に昇った。観応三/正平七年の五月、男山八幡で足利義詮軍と戦い、戦死した。

「尹(いんの)大納言師賢(もろかた)」(正安三(一三〇一)年~正慶元/元弘二(一三三二)年)は花山院師信の子。参議・権中納言を経て、大納言となる。「元弘の乱」では後醍醐天皇の身代わりとなって比叡山に登ったが、発覚、笠置で幕府方に捕らえられて出家、後に下総の千葉貞胤にお預けとなり、三十二で病死した。

「平(へい)宰相成輔」平(たいらの)成輔(正応四(一二九一)年~正慶元/元弘二 (一三三二)年)。父は権中納言惟輔。嘉暦二(一三二七)年に参議となり翌年には丹波権守を兼任。後醍醐天皇の討幕運動に参加し、元徳二(一三三〇)年四月一日には瀬尾兵衛太郎に検非違使大判事中原章房を暗殺させている(討幕の秘計の漏れることを恐れた天皇の命令によるされる)。しかし討幕計画が漏れ、元徳三/元弘元年八月二十五日、皇居の中で万里小路宣房とともに六波羅の兵に捕縛され、翌年五月に鎌倉へ護送されたが、その途中、相模早河尻に於いて処刑された。

「錦織(にしごりの)判官代」錦織俊政(にしごりとしまさ ?~元徳三/元弘元(一三三一)年)は朝廷方の武士。院の判官代を務めた。後醍醐天皇の笠置挙兵に加わり、六波羅方の包囲軍七万と戦った(元弘の乱)が、九月二十八日の六波羅の奇襲により、行宮(あんぐう)が陥落した際、自刃した。特異な姓から見て、「承久の乱」に際して上皇方に加わり、六波羅の北条泰時の陣営に討ち入って死んだ錦織義継(にしごりよしつぐ ?~承久三(一二二一)年:近江出身で後鳥羽上皇の母七条院の家司(けいし)であった)の後裔ではないかとも思われる。

「足助(あすけ)次郎重成」足助重範(あすけしげのり 正応五(一二九二)年~正慶元/元弘二(一三三二)年)の父で、三河国加茂郡足助庄を拠点とした武家足助氏の六代目惣領の足助六郎次郎貞親(重成)ウィキの息子の方の「足助重範」によれば、『飯盛山城主であった父貞親が、後醍醐天皇の倒幕に参加するために京都に入ったが、共謀者の土岐頼員が事を漏らしたため』、『六波羅探題に露見』、『父は土岐頼兼、多治見国長らとともに少数の軍勢で交戦したが』、『戦死、あるいは自刃して果てた(正中の変)』とある(太字下線やぶちゃん)。折角だから、続けて息子の方も記しておく。『弓の名手としても知られ』た『重範は、父の後を継いで』、「元弘の乱」の際には、前に出た『錦織俊政らと共に後醍醐天皇方に味方した』同年九月の「笠置山の戦い」では、『天皇の元へ最初に馳せ参じ、幕府方の大軍を相手に強弓を以』って『荒尾九郎・弥五郎兄弟を討ち取るなど』、『奮戦したが、笠置山の陥落後』、『捕縛され』翌二年五月三日、『京都六条河原で処刑された』とある。

「衆愚(しゅぐ)の愕々(がくがく)は一賢の唯々(ゐゝ)に如かず」増淵氏の訳文では『多くの愚か者がやかましく述べたてることは、一人の賢人が静かに『はい』と答えることに及ばない』とある。この故事成句は一般には「太平記」の巻第十六で、新田義貞に楠正成が用いる戦さの覚悟の要諦として語り諭す語として知られるものであるから、ちょっと筆者は筆が早って滑っている感じがする。「北條九代記」の終りが近いところで、まさに「衆愚の愕々」的な焦りででもあろうか?

「土岐(ときの)左近藏人賴員(よりかず)」(生没年未詳)は別に舟木頼春(とふなきよりはる)とも称した武家土岐氏一門の舟木氏当主。ウィキの「土岐頼員」によれば、元亨四(一三二四)年九月、『鎌倉幕府に反発していた後醍醐天皇の倒幕計画を妻に漏らしたことで露見し』、「正中の変」を引き起こした人物。「太平記」の巻一の「賴員囘忠(かへりちう)事」に『よると、頼員も同族の多治見国長らと共に倒幕計画の参加者であり、無礼講という体裁で幾度も開かれた倒幕密議に加わっていた。ある夜、妻との別離を惜しみ、倒幕計画を告白する。妻は六波羅探題評定衆の奉行であった父・斎藤利行へ事の次第を告げ、利行が六波羅探題へ急報したことにより』、九月十九日には、驚愕の倒幕謀議が『幕府の知るところとな』った(下線太字やぶちゃん。この章では頼員が確信犯で漏らしたことになっているのと、微妙に違う)。『幕府は機先を制し、小串範行・山本時綱に軍を率いらせ、上洛していた土岐惣領家に属する従子、もしくは従兄弟の土岐頼兼(従兄、もしくは伯父の土岐頼貞の十男)や多治見国長』及び『足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)を討伐させた。国長らは寡兵で奮戦したが、討ち死に、あるいは自害したという』とある。

「「齋藤太郎左衞門尉利行」斎藤利行(?~嘉暦元(一三二六)年)は六波羅探題奉行人。先に注した通り娘は土岐頼員(舟木頼春)の妻であった。以上の没年はウィキの「斎藤利行によるものであるが、とすると、後に出る後醍醐天皇の告げ文を読んで一週間後に死んだというのは、嘘ということになる

「返忠(かへりちう)」主君に背いて敵方に通じること。裏切り。なお、一旦、背いた者が再び忠義を尽くすことにも用いる。無論、ここでは筆者は前者で用いている。

「元德元年九月十九日」正中元年の誤り。というより、元亨四年という方が正確。元亨四年は十二月九日に改元して正中となるからである。因みに元亨四年九月十九日はユリウス暦一三二四年十月七日である。

「小串(をぐし)三郎左衞門尉範行」(生没年未詳)は当時、六波羅探題北方を担当していた北条範貞の家臣。

「山本〔の〕九郎時綱」生没年不詳であるが、個人サイト「南北朝列伝」のこちらの最後に彼の解説が載り、『詳細は全く不明だが、恐らく「正中の変」時点での六波羅探題常葉範貞』(前注の北条範貞のこと。彼は北条氏極楽寺流の支流常盤流の当主で常葉範貞とも呼ばれた)『の被官(家臣)ではなかったかと推測される』とあり、元亨四(一三二四)年九月、『後醍醐天皇とその側近らによって進められていた倒幕挙兵計画が発覚、六波羅探題は悪党討伐のためとして兵を集め、』十九『日早朝に兵を動かして計画に参加していた土岐頼兼・多治見国長の京屋敷を急襲した。「太平記」によると』、『三条堀川の土岐頼の屋敷を襲撃したのが山本時綱だった。時綱は大軍で押し寄せては逃げられることもありうると考え』、『軍勢を三条河原に待機させ、中間二人だけを連れて自ら土岐邸に侵入、起床したばかりで整髪をしていた頼兼を』、『いきなり』、『襲った。時綱は頼兼と切り結んで庭に誘い出したが、そこへ軍勢も駆けつけてきたため、頼兼は部屋に逃げ込んで切腹』、『時綱は頼兼の首を刀の先に貫いて六波羅に帰還したという(以上、「太平記」による。ただし「太平記」では「土岐頼貞」となっている)』。『ただし』、『花園上皇の日記によると』、『いきなりの襲撃ではなく』、『事前に何度か出頭を求めたが、やがて土岐側から矢を射かけてきたため』、『攻撃にかかったとされている』。なお、ネット上の情報によれば、武田信玄に仕えた山本勘助は、伝によれば、この九郎時綱を子孫ともされるらしい。

「多治見」多治見四郎二郎国長(正応二(一二八九)年~元亨四(一三二四)年)はは土岐氏(美濃源氏)の流れを汲む饗庭氏一門で、美濃国土岐郡多治見郷(現在の岐阜県多治見市)を本拠としていた武士団。ウィキの「多治見国長」によれば、『惣領家の土岐頼貞の子の頼兼、一族の頼員(舟木頼春)、足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)らとともに』、『後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加し、日野資朝の招きにより』元亨四年に『京都に入った』が、『頼員がその計画を六波羅探題の奉行の斎藤利行の娘である妻に漏らしてしまったことから事前に露見し、六波羅探題の配下である小串範行によって夜中に急襲を受け』た。先にも引かれていた「太平記」巻一「賴員囘忠事」に『よれば、無礼講による終夜の酒に酔っていたが、この急襲の声に驚いて慌て騒いだ。無防備であったが、共に寝ていた物馴れた遊女の機転により』、『鎧兜を身につけ、寝入っている者を起こすことができたという。国長は頼兼とともに少数の手勢を率いて奮戦したが、最終的には館の裏手を突破されたことから観念し、一族郎党とともに自害して果てた(正中の変)』とある。

「錦小路高倉」現在の京都府京都市中京区中魚屋町高倉通附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「土岐」土岐頼貞(文永八(一二七一)年~延元四/暦応二(一三三九)年)は、清和源氏の流れをくむ美濃を地盤とする有力御家人美濃源氏で、鎌倉幕府から重んじられ、北条氏とも縁を結んでいた土岐光定の七男。母は鎌倉幕府第九代執権北条貞時の娘。後、室町幕府の初代美濃守護となった。参照したウィキの「土岐頼貞」によれば、『母が北条氏出身であったことから、頼貞は若年時は鎌倉で過ごし、そこで禅宗の高僧たちに帰依し、特に夢窓疎石と親交を結んだ。夢窓疎石は美濃に永保寺(多治見市)を開いている。騎射をよくし』、『優れた歌人で』もあった。正中元(一三二四)年に、同じ『美濃源氏の足助貞親(加茂重成)と土岐氏の一族(頼員(舟木頼春)など)が後醍醐天皇の最初の討幕計画(正中の変)に関与し、六波羅探題に察知されて、十男の頼兼、頼員、多治見国長ら土岐一族は追討を受け、自刃して果てて、土岐氏惣領の頼貞も幕府から関与を疑われている』。「太平記」では『頼貞は六波羅探題の兵を相手に奮戦して自害することになっているが』、これは誤りで、『頼貞は生き延び』、『その後の戦乱で活躍し』、『美濃守護となっている』。元弘三(一三三三)年、『後醍醐天皇の詔を受けた頼貞は討幕の挙兵をして、足利尊氏の軍に加わった。後醍醐天皇の親政(建武の新政)では美濃守護に任じられた。以後』実に二百年に亙って、『美濃の守護は土岐氏が継承する』こととなった。『失政が続いた建武新政府に対して尊氏が挙兵すると、頼貞は六男の頼遠と共に尊氏に従い』、『南朝との戦いで数々の戦功をあげた。土岐氏は美濃一帯に一族の支流を配して「桔梗一揆」と呼ばれる強力な武士団を形成し、幕府軍を支える戦力となり、頼貞は「御一家(足利氏)の次、諸家の頭」と呼ばれ』、『室町幕府内で重きを置いた』。『また、禅宗に深く帰依し、美濃国内に数々の寺院を開基させたことでも知られる。八幡神社も頼貞の開基である』とある。

「三條堀河」京都府京都市中京区橋西町堀川通附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「同二年五月」増淵氏の訳注によれば、正中元年十月の誤りとする。

「長崎四郎左衞門尉泰光」長崎泰光(生没年未詳)は内管領を輩出した長崎氏の一族で、得宗被官(御内人)として北条貞時・高時に仕えた人物。参照したウィキの「」より引く。「系図纂要」の『長崎氏系図によれば、長崎光綱の弟・長崎高泰の子であるが、同系図の信憑性は決して高くなく、確証はない』とする。『「泰光」という実名は』「御的日記」や「太平記」で『確認ができる。後者は軍記物語という性格上、創作の可能性もあり得るため、これだけで直ちに泰光の存在を認めることは難しいが、一次史料と言える前者でも』、徳治元(一三〇六)年『正月に幕府弓始射手を勤めた人物として「長崎孫四郎泰光」の名が見られるので、実在が認められるとともに通称が「孫四郎」であったことが分かる』。とすれば、延慶二(一三〇九)年正月二十一日の『北条高時の元服』『に際し』、『「なかさきのまこ四郎さゑもん」(長崎孫四郎左衛門)が馬を献上している』『が、これも泰光に比定される』。なお、『通称の変化から恐らく』、『この間に左衛門尉に任官した可能性が高い』。「太平記」では『「長崎四郎左衛門泰光」と表記している箇所がある』『一方で、別の箇所で登場する「長崎孫四郎左衛門」』『については実名を明記していないので、同じく四郎左衛門()の通称を持つ長崎高貞と混同されがちだ』『が、前述の史料からいずれも泰光を指すと考えられる』。『前者は泰光が南条次郎左衛門宗直とともに上洛し、日野資朝・日野俊基を捕縛したと伝えるものだが、実際には』、これは正中元(一三二四)年九月の、所謂、「正中の変」であって、『東使として派遣されたのも別の人物であり』、この両名は元徳三/元弘元(一三三一)年五月五日の「元弘の変」の際に上洛し、『俊基と僧の文観・円観を捕縛した人物』『を挙げたものである』。後者は元弘三/正慶二(一三三三)年に『長崎孫四郎左衛門(泰光)が長崎高重とともに、桜田貞国を大将とする幕府軍に属し』、『新田義貞率いる軍勢と戦った、久米川の戦いの様子を伝える記事であり、鎌倉幕府滅亡の頃までの存命が確認される』、なお、「梅松論」に『よれば、同年の段階で上野国守護代に在任していたという』。建武二(一三三五)年九月、『朝廷は北条氏一門の旧領であった安楽村・原御厨等を伊勢神宮領とする太政官符を発給しているが、その中に泰光の領地であった伊勢国大連名芝田郷・深瀬村が含まれている』『ことから、幕府滅亡後まもなくして泰光の領地は収公されたことになる。幕府滅亡に殉じた』(一三三三年から一三三五年の『間に死去した)可能性は高いが、死の詳細については不明である』とある。

「南條〔の〕次郎左衞門尉宗直」詳細事蹟不詳。

「同七月七日」前の誤りがあるので、正中元年である。

「萬里小路大納言宣房」(正嘉二(一二五八)年~貞和四/正平三(一三四八)年?)は従三位の万里小路資通の子。ウィキの「万里小路宣房によれば、父が『閑職にあったため、若年のうちは官職に恵まれなかった。大覚寺統の後二条天皇に属して、五位蔵人・弁官を経て蔵人頭・参議を歴任するが』徳治三(一三〇八)年の『天皇崩御後に参議を辞』している。文保二(一三一八)年の『大覚寺統の後醍醐天皇即位を機に、権中納言に復帰』し、正中元(一三二四)年、『後醍醐天皇の討幕計画が発覚した正中の変においては、自ら鎌倉へ赴いて』、『天皇に対する弁明を行い、その後』、『権大納言に昇進』している。元徳三年の「元弘の変」では、二人の『息子(藤房・季房)が討幕に関与したとして六波羅探題に拘束されたが』、翌年四月には『許されて、新帝である持明院統の光厳天皇のもとに出仕するよう命じられた』。『鎌倉幕府滅亡後の建武の新政下では、従一位に叙せられ』、『雑訴決断所の頭人を務め』ている。建武三(一三三六)年一月には『若年の千種忠顕とともに出家しており、新政への不満が集まる中での詰め腹を切らされたものと考えられている』、『後醍醐天皇に従って吉野に赴くこともなく、次男・季房の遺児仲房』『も京都に残ったため、それまで大覚寺統の重鎮であった万里小路家は』、『以後』、『持明院統(北朝)方について活動することになった』。『その後の宣房の消息は明らかでないが、玄孫・時房の日記である』「建内記」の文安四(一四四七)年十月十八日の条には『宣房の遠忌』(おんき:五十回忌以上の年忌をかく呼び、百回忌以上になると五十年ごとに遠忌を行う)『を修する記事が見えるので』、貞和四/正平三(一三四八)年『のこの日に没したと見られて』おり、とすれば、享年九十一であった。『後世、後醍醐天皇の信頼が厚い賢臣として、同じく後醍醐天皇の近臣であった北畠親房・吉田定房とともに「後の三房」と並び称された』。『また、日記として』「万一記」(「万里小路一品記」「宣房卿記」などとも呼ぶ)を『残しており、写本が断片的に現存している。日記を記すことは、当時の公家が政務を円滑に行い、子孫が家名を維持するために必要不可欠な行動であったが、閑職に終わった父・資通が日記を残していないので、万里小路家の公家としての諸規範は宣房に由来するものとされ、宣房は歴代の万里小路家当主の崇敬の対象となった』とある。

「秋田(あいだの)城〔の〕介」幕府の有力御家人であった安達時顕(?~元弘三/正慶二(一三三三)年七月四日)。安達氏の一族で、父は弘安八(一二八五)年の「霜月騒動」で討たれた安達宗顕(むねあき:顕盛の子)である。ウィキの「安達時顕によれば、『霜月騒動で父宗顕をはじめ』、『一族の多くが滅ぼされたが、幼子であった』彼『は乳母に抱かれて難を逃れた。その後は政村流北条氏の庇護下にあったようであり』、徳治二(一三〇七)年までには、『その当主・北条時村を烏帽子親に元服』、『「時」の字を賜って時顕を名乗ったとされている』。永仁元(一二九三)年の「平禅門の乱」で『平頼綱が滅ぼされた後に安達一族の復帰が認められると、やがて時顕が安達氏家督である秋田城介を継承したが、これを継承できる可能性を持つ血統が幾つかある中』、『時顕が選ばれたのも』、『政村流北条氏、すなわち』、『この当時政界の中枢にあった北条時村の影響によるものとされている』。『史料で確認できるところでは、時顕の初見は』「一代要記」の徳治二(一三〇七)年一月二十二日の条であり、翌徳治三年(後に延慶元年に改元される。その時はユリウス暦は一三〇八年)』『の段階では秋田城介であったことが確実である』。応長元(一三一一)年、第九代『執権北条貞時の死去にあたり、時顕は貞時から長崎円喜と共に』、九『歳の嫡子高時の後見を託された』。文保元(一三一七)年に「霜月騒動」で『討たれた父宗顕の』三十三『回忌供養を行』っている。正和五(一三一六)年には、十四歳で『執権職を継いだ高時に娘を嫁がせて北条得宗家の外戚となり、また時顕の嫡子高景は長崎円喜の娘を妻に迎え、内管領とも縁戚関係を結んで権勢を強めた』。元亨四(一三二四)年九月に『後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、関与した公家らが六波羅探題によって処罰され、弁明のために後醍醐天皇から鎌倉に派遣された万里小路宣房を長崎円喜と共に詰問し、困惑する宣房が時顕を恐れる様が嘲弄を招いたという』。正中三(一三二六)年三月、『高時の出家に従って時顕も出家し』、『法名の延明を称する。高時の後継者を巡り、高時の妾で御内人の娘が産んだ太郎邦時を推す長崎氏に対し、高時の舅である時顕と安達一族が反対して高時の弟泰家を推す対立が起こり、北条一門がそれに巻き込まれる事態となっている(嘉暦の騒動)。最終的には邦時が嫡子の扱いとなっている』。東勝寺合戦での『幕府滅亡に際し、東勝寺で北条一門と共に自害し』ている、とある。

「二階堂出羽入道道蘊(だううん)」二階堂行藤の子で後に幕府政所執事となった二階堂貞藤(さだふじ 文永四(一二六七)年~建武元(一三三五)年)。ウィキの「二階堂貞藤より引く。『甲斐国山梨郡牧荘主で』、嘉元三(一三〇五)年には『鎌倉から夢窓疎石を招き』『浄居寺』(じょうごじ)『を再興し』ている。ここに書かれているように、『後醍醐天皇の倒幕計画が露見した正中の変において』は、「太平記」に拠れば、『鎌倉へ送られた後醍醐天皇誓書の判読を止めたという』(「天子が臣下に対して誓書を渡した例は我が国でも中国でも未だ聞いたことがない。軽率に開けてご覧になると、神仏の罰を受けるかもしれない。文箱(ふばこ)は開けずに返すべきである」とした。ここには後醍醐への処罰の寛容を含めた彼の思惑が働いていると私は読む)。元徳元(一三二九)年、『京都では後醍醐天皇と』、『量仁』(かずひと)『親王への譲位を求める持明院統の間で対立が発生し、双方が鎌倉へ働きかけており』、三月には『道蘊(貞藤)が使者として上洛』、『道蘊は持明院統側に有利な独自の調停案を提示しており、北条貞顕は道蘊を批判し』、「太平記」で『は「朝敵の第一」と道蘊評を記している。道蘊の独断に関しては、同年』二『月には政所執事の二階堂行貞が死去し、後任と目されていた道蘊の上洛中に行貞の子貞衡が補任されたことに対しての不満を示したものであるとする指摘もある』。元徳二(一三三〇)年に『引付頭人、守護となっていた甲斐において』、『再び夢窓を招き』、『庄内に恵林寺』『を創建』、翌年には『後醍醐天皇の譲位を促す使者として安達高景と共に上洛し、宮方の楠木正成が挙兵した千早城攻めに参加した』。正慶元(一三三二)年には『政所執事を務め、得宗・北条高時を補佐』した。彼は『鎌倉幕府滅亡後も建武政権に赦されて』、『これに参加し、雑訴決断所所四番衆で北陸道を管轄した。しかし、西園寺公宗による北条氏再興の陰謀に加担したとされ』建武元年十二月二十八日(一三三五年一月二十三日)に『六条河原において処刑され』ている、とある。

「申す旨(むね)」増淵氏は割注で『天皇が武臣に直接告げ文を下された先例はないので、みづから御覧になってはいけません』と主旨を申し上げたと訳しておられる。

「衂垂(はなぢた)りければ」鼻血が垂れてきたので。

「皈京」「歸京」。]

北條九代記 卷第十二 渡邊右衞門尉 竝 越智四郎叛逆



      ○渡邊右衞門尉 竝 越智四郎叛逆

同四月に、後宇多〔の〕院より、大納言定房卿を勅使として、關東へ仰せ遣されけるは、「世の中の事共、小大となく當帝(たうてい)に任せ奉り、その身は早く世を遁ればや」とありしかば、高持、「子細にや及び候べき。兎も角も睿慮(えいりよ)に任せ給ふべし」と勅答致しけり。是に依(よつ)て、嵯峨野大覺寺に引籠り、閑居行道(ぎやうだう)の素懷を遂げ給ひしが、正中元年六月二十六日聖算五十八にて崩御し給ふ。蓮花峰寺(れんげぶじ)に葬送し奉りけるとかや。この比、攝津國の住人渡邊右衞門尉と云ふ者、野心を起し、鎌倉を背き、六澱羅の政道に隨はず、近隣を犯して、狼藉を致す。日比、治れる世の中とは云ひながら、上下困窮して、難義に及び、鎌倉には奢侈(しやし)を專(もつぱら)として、人の歎(なげき)を知らず、點役賦斂(てんやくふれん)を滋く行うて、奉行頭人(たうにん)、邪欲に陷りければ、怨(うらみ)を含む者、世に多しといへども、大身なるは愼みて色にも出さず、小身なるは力足(たら)ずして月日を送る所に、『あはれ、何事もあれかし、世、新(あらた)に、國改(あらたま)りて、緩(ゆるやか)なる時を待得ん』と思ふ族(やから)、爰彼處(ここかしこ)より集り、與力同心に叛逆を企てしかば、四、五百人にも及びけり。高時、卽ち、河内〔の〕國住人、楠多門(くすのきたもん)兵衞正成に仰せて對治せしむるに、不日(ふじつ)に伐平(うちたひら)げたり。これのみならず、紀伊國安田莊司(やすだのしやうじ)といふ者、逆心あり。楠正成、推寄(おしよせ)て攻干(せめほ)しければ、安田が領知を正成に與ふ。大和國越智四郎、謀叛(むほん)す、六波羅より軍兵を遣して、攻むれども叶はず。楠正成に仰せて、打亡(うちほろぼ)さる。皆、是、關東の政理、正しからず、上の勢(いきほひ)、盛にして、侈(おごり)を以て下を苦(くるし)め、德、磷(ひすろ)ぎ、威(ゐ)、輕(かろ)く、武命(ぶめい)を恐るゝ事を忘れ、只、私(わたくし)の遺恨を思ふ。是、未(いま)だ時を待つて、變を伺ふ事を知らず、機分(きぶん)の逸(はや)るに任せて、功を立てずして、滅亡せし、智略の至らざるこそ、淺ましけれ。

[やぶちゃん注:「同四月」前章冒頭の時制ならば、正しい。元亨元年で一三二一年である。

「大納言定房」吉田定房(文永一一(一二七四)年~延元三/暦応元(一三三八)年)。ウィキの「吉田定房」によれば、『早くから亀山上皇に仕え』、『その信任を得た』。正安三(一三〇一)年に『後二条天皇の即位で皇位が大覚寺統に戻ると』、『院評定衆及び伝奏に任ぜられて重用され』、徳治元(一三〇六)年には『後宇多上皇の院使として鎌倉へ派遣されている。また、後宇多上皇の子である尊治親王の乳父を務め』、文保二(一三一八)年に『親王が後醍醐天皇として即位すると側近として仕え、北畠親房、万里小路宣房と合わせて「後の三房」と呼ばれた。その信任は後醍醐天皇の子である尊良親王の乳父を引き続き務めたほか』、後宇多法皇や後醍醐天皇が『定房の邸宅に行幸していることからも伺える。更に』、元亨元(一三二一)年には、ここに出る通り、『宇多法皇が院政を停止して後醍醐天皇が親政を行うことを鎌倉幕府に申し入れる使者として鎌倉に派遣され、幕府の了承を得ることに成功している』。後の正中元(一三二四)年の「正中の変」の際には、『後醍醐天皇の勅使として鎌倉に下向して、幕府に後醍醐天皇が無関係であると主張し、その後は討幕のための密議を行う後醍醐天皇を諌め』、元徳二(一三三〇)年六月二十一日、『後醍醐天皇から諸卿に対して意見を求められた際に』は、『定房は徳政の推進と倒幕を諌める意見書を提出し』ている。『醍醐寺三宝院に所蔵されていた文書の』一『つがその意見書(「吉田定房奏状」)の写しであると言われている』。「元弘の乱」の初期の、元弘元/元徳三(一三三一)年四月二十九日には、『二度目の討幕の密議』が行われたことを『六波羅探題に密告し、後醍醐天皇が隠岐に流された後に』は、『持明院統の後伏見上皇に請われ』、『院評定衆に加わっているが』、元弘三・正慶二(一三三三)年三月、『各地で発生している討幕の動きを鎮めるために後醍醐天皇の京都帰還を求める意見書を幕府に対して提出していること』、『鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においても後醍醐天皇に重用されている事などから、これは後醍醐天皇の身を案じた行動であると解釈されている』とある。『建武政権において』、『定房は内大臣や民部卿に任ぜられて恩賞方や雑訴決断所の頭人を任されるなど、要職を歴任した。だが』、延元元・建武三(一三三六)年に『建武政権は足利尊氏によって倒され、後醍醐天皇は同年暮れに吉野に逃れる。後醍醐天皇の吉野行きから半年余り後の』延元二・建武四(一三三七)年七月、『北朝では定房が吉野の南朝へ出奔したことを理由に民部卿を解官されているが、この間の経緯に関しては』、『一旦』、『北朝に仕えた後に南朝に出奔したとする考えと、後醍醐天皇の吉野行きに同行もしくは直後に天皇の後を追って吉野に向かったもので』、『解官は定房が南朝に仕えて京都に戻る見込みが無い現状の追認に過ぎないとする考えがある。同年』九『月に後醍醐天皇が吉野行宮で開いた賞月歌会に定房が参加して』おり、その和歌が「新葉和歌集」に『採録されている。だが、この歌会から』四『ヶ月後に吉野にて』六十五『歳の生涯を閉じ』ている、とある。

「當帝(たうてい)」言わずもがな、後醍醐天皇。

「嵯峨野大覺寺」現在の京都府京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗嵯峨山大覚寺(だいかくじ)。(グーグル・マップ・データ)。

「正中元年六月二十六日」日付は「二十五日」の誤り。一三二四年。元亨四年は十二月九日に正中に改元する。

「蓮花峰寺(れんげぶじ)」右京区北嵯峨朝原山町にある後宇多天皇蓮華峯寺陵。大覚寺の東北一キロメートル圏内にある。(グーグル・マップ・データ)。

「渡邊右衞門尉」摂津国渡辺から起こった嵯峨源氏流の渡辺党の一人、摂津国の要衝であった淀川河口付近を根城としていた。

「日比、治れる世の中とは云ひながら」増淵勝一氏は例の教育社新書で、『(その原因というのは)常日頃(表面は)治っている』ように見える『世の中とはいいながら』といった風に言葉を添えて訳しておられる。

「點役賦斂(てんやくふれん)」「點役」は古代末期から中世にかけて、田地を対象として賦課された臨時税の総称。本来は朝廷の特別行事・寺社造営などの費用捻出のための便法であったが、この後の室町中期以降になると、守護大名が領内の百姓に臨時に課す夫役・公事をいうようになった(本作が江戸期の著作である以上、以後に形成された実情であっても、それを押さえておく必要がある)。「賦斂」租税の(きっちりとした厳重な)取り立て。

「楠多門(くすのきたもん)兵衞正成」言わずと知れた大楠公、元河内の土豪であった楠木正成(?~延元元/建武三(一三三六)年)。元弘元/元徳三(一三三一)年に後醍醐天皇の召しに応じ、笠置山の行在所に参向、河内赤坂城にて挙兵し、六波羅勢の攻撃を防いだが、落城。翌年、千早城を築いて籠城し、幕府軍の猛攻に耐え、諸国の反幕勢力の挙兵を促した。建武中興の際その功により、河内・和泉の守護及び河内の国守に任ぜられた。建武二 (一三三五)年に足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと、新田義貞らとともにこれを討ち、一旦は撃退したが、翌年、尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際、摂津湊川にこれを迎撃して敗死した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「安田莊司(やすだのしやうじ)」湯浅氏。「安田」は「保田」とも書く。この一族のについては私は不詳であるが、日本兵法研究会会長家村楠木正成の初陣~攻守逆転の謀には、この時の安田攻略について、極めて詳細な記載が載る。

「越智四郎」大和国高市郡越智荘を支配した豪族。ウィキの「越智氏大和国によれば、『古代日本に存在した伊予国の豪族である物部姓越智氏と関係があるという説や河野氏の末裔説もあるが、実際は伊予国と同じ地名がある大和国に拠点を置いた源頼親(清和源氏の始祖である源経基の孫で源満仲の次男)の末裔という。家系図では出自説が複数あることもあって若干の混乱もあり、複数存在している。しかし、複数の家系図も源親家の末裔という点では共通している』。『鎌倉時代には大和国内の北部では興福寺の力が非常に強く、興福寺の寺僧である衆徒と春日大社の神人である国民が中心として分かれていた。南北朝時代には両方で南朝と北朝に分裂し、越智氏は「散在党」と呼ばれる首領として連合をまとめあげて勢力を拡大していった』とあるから、末裔はしっかり残ったわけだ。

「磷(ひすろ)ぎ」既出既注であるが、再掲しておく。「擦り切れて薄くなる」ことである。「磷」(音「リン」)は「流れる・薄い・薄らぐ」の意。

「機分(きぶん)」は「生まれつきの性質や才能・気質・器量」或いは「時の勢い・機運」の意であるが、ここは機の熟すを判ずるの沈着冷静さを欠いた前者(生来の気質)の謂いと採るべきであろう。]

 

大和本草卷之八 草之四 海藻類 ツルモ

【外】

ツルモ 其大サ箸ヨリ少ナリ長キ事數尺ヤキテモ煮テモ

 食ス味ヨシ越後ニアリ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

ツルモ 其の大いさ、箸より少〔(せう)〕なり。長き事、數尺。やきても、煮ても、食す。味、よし。越後にあり。

[やぶちゃん注:褐藻植物門褐藻綱コンブ目ツルモ(蔓藻)科ツルモ属ツルモ Chorda filum。属名「Chorda」は「紐・弦」、種小名「filum」は「糸・糸のように細いもの」の意。本邦産のツルモ属 Chorda は本種のみである(本種は中国でも産し、同属は世界的にも広く分布する)。田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)によれば、『円筒状の藻体は小さな石などの基質に付着して、波の静かな内湾などに生育する。基部以外の下部から上部まで』は『ほぼ同じ直径で』、体『表面には長い半透明の毛が密生している。内部に空気が溜まることで、』蔓状の主藻体が『垂直に立ち上がり、水面に先端が浮かんでいる』とあり、最後に『佐渡地方では重要な食材である』とある(私も大好きだ)。サイト「神戸の海藻」の「ツルモ」によれば、『コンブ類の原始的な仲間で』、コンブ類と同様に、『組織内部には陸上植物の師管のような栄養分を輸送する構造(トランペット形細胞糸)がある』とある(同ページに顕微鏡写真有り)。]

鴾(松森胤保「両羽博物図譜」より)

 

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[やぶちゃん注:画像は酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」のものを用い、トリミングや補正は一切行っていない。この図の前頁に松森胤保による解説が載る(リンク先は同図書館の当該頁の画像)ので、本図の上部の箇所も含め、以下に翻刻した。但し、同サイトでは前頁部分については、新字で電子化翻刻がなされているので、それを加工用(口幅ったいが、私には私なりの電子化ポリシーがあり、訓読も私の解釈に従って行っている)に使用させて貰った。]

 

□翻刻1(原典のまま。【 】は二行割注。「霍」の字は「鶴」の異体字で、原典表記に一番近いと判じてそれで示した。最初の標題は原典では第一行は二字下げであるが、ブログのブラウザの不具合を考えて三行は引き上げてある)

鴾屬【鴾ハ古ノ俗字トス】 鸛霍部屬別之第三屬

 鴾類   鴾(トキ)屬類別之其一類

 (トキ)種   鴾類種別之其一種

鴾屬朱鷺ニ作テ通用ス大サ大鷺ノ如シ然トモ

嘴翼大ニ其法ヲ異ニシ鷺觜直鋭(トキ)觜弯弱鷺羽

大重(トキ)羽小捷且霍ハ飛時首足ヲ延ヘ鷺ハ足ヲ

テ首ヲ疊ミ首ヲ延ベテ足ヲ疊ム啼声ダ

ヲーダヲート云カ如シ故俗又ダヲ又ドート云

春初百鳥ニ先テ來松樹ニ巢冬初去若鳥羽白ク

後ニ美ナリ肉血腥【或紅霍又(チヤウ)又鴾又唐鳥(トウカラス)又ドウカラス

又桃花鳥又私記(トキ)又豆木(トキ)又登木等ニ作】

 

《改頁(上記画像部)》

(トキ《右ルビ》/ドウ《左ルビ》)【明治十二年四月十三日】

一見而㒵怪物ノ如シ

田畔ニ遊ヒ丘蚓等ヲ

獲レハ洗テ食フト云フ

水田ニ獵シ山林ニ宿シ松樹

ヲ好ンテ之ニ巢フ

 

 

□翻刻2(概ね、カタカナをひらがなとし、句読点・記号等を添え、送り仮名の一部を推定で本文に出し、一部に推定で〔 〕で読みを歴史的仮名遣で附し、一部に読み易さを考えて[ ]で語句を添え、一部を連続させた。「如し」は漢文訓読法に従い、平仮名とした)

鴾屬【鴾は古〔いにし〕への俗字とす。】 鸛霍〔こふづる〕部屬別の第三屬

 鴾類   鴾(トキ)屬類別の其の一類

 (トキ)種   鴾類種別の其の一種

鴾屬、朱鷺に作りて通用す。大いさ、大鷺〔おほさぎ〕のごとし。然れども、嘴〔くちばし〕・翼、大いに其の法を異にし、鷺、觜、直鋭[なるも]、(トキ)[は]、觜、弱く弯〔(まが)れり〕。鷺、羽、大重[なるも]、(トキ)、羽、小[さくして]捷〔はや〕し。且つ、霍〔つる〕は飛ぶ時、首・足を延べ〔れども〕、鷺は足を延べて首を疊み、[この]は、首を延べて足を疊む。啼き声、「ダヲーダヲー」と云ふがごとし。故、俗、又、「ダヲ」、又、「ドー」と云ふ。春の初め、百鳥に先だつて來たり、松樹に巢くふ。冬の初め、去る。若鳥、羽、白く、後に美なり。肉、血腥さし【或いは「紅霍」、又、「(チヤウ)」、又、「鴾」、又、「唐鳥(トウカラス)」、又、「ドウカラス」、又、「桃花鳥〔トキ〕」、又、「私記(トキ)」、又、「豆木(トキ)」、又、「登木」等に作る。】。

《改頁(上記画像部)》

(トキ《右ルビ》/ドウ《左ルビ》)」【明治十二年四月十三日。】

重さ

長さ

一見して、㒵[かほ]、怪物のごとし。田の畔〔あぜ〕に遊び、丘蚓〔みみず〕等を獲れば、洗ひて食ふ、と云ふ。水田に獵し、山林に宿し、松樹を好んで、之れに巢くふ。

 

[やぶちゃん注:鳥綱新顎上目ペリカン目トキ科トキ亜科トキ属Nipponia Reichenbach, 1853種トキ Nipponia nippon (Temminck, 1835)。既に電子化した和漢三才圖會第四十一 水禽類 朱鷺(トキ)や、トキの美麗な図森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「とき」も参照されたい。

「鸛霍〔こふづる〕部」これは「鸛」(こうのとり)の別名である。現在の上記の通り、トキはペリカン目 Pelecaniformes に属すが、実は近年までコウノトリ目 Ciconiiformes に入れられいたので、当時としては松森の認識は正しいのである。

「其の法」形状や生態上の機能。

「明治十二年」一八七九年。

「重さ」以下、「足」までは後の実測を期しての欠字となっているものと思われる。

「丘蚓〔みみず〕」ママ。蚯蚓。ミミズ。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 猩々鯛 (ホウライヒメジ)

 

猩々鯛 肥後熊本方言

 

Syoujyoudai_2

以上メジナノ類ナルベシ


[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。左上のキャプションは虫食のために「メジナ」は判読不確定であるが、一応、それで採っておいた。しかし、この魚は色形、どうみても、スズキ目スズキ亜目イスズミ科メジナ亜科メジナ属メジナ Girella punctata ではあり得ないので、このキャプションは無効である。吻部下顎の先端付近から体後に伸びる二本の鬚(ひげ)からみて、

条鰭綱スズキ目スズキ亜目ヒメジ科Mullidae

の一種と考えられる。同科のヒメジ類は概ね、海底を這うように泳ぎ、この顎鬚は感覚器となっており、これで砂底を探りながら、そこ潜んでいる端脚類(甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目 Amphipoda)やエビ類などの小型の甲殻類を捕食している。問題は強い紅色を呈していることで(それが「猩々鯛」の謂れと考えられる)、これは、

ヒメジ科アカヒメジ属アカヒメジ Mulloidichthys vanicolensis

ヒメジ科ウミヒゴイ属オキナヒメジ Parupeneus spilurus

ヒメジ科ウミヒゴイ属ホウライヒメジ Parupeneus ciliates

などが相当するものの、意想外であるが、ネット上の画像を見ると、和名のそれらしい、アカヒメジは、実はこのように全体が鮮紅色を示す個体は極めて殆んどいないようであり、同定のターゲットは魚体全体が鮮やかな紅色を呈する下の二種に限定出来ると思われる。この二種は非常によく似ており、関東ではウミヒゴイ属の総てを、その鬚から「オジサン」と呼称し、オキナヒメジとホウライヒメジを区別せずに流通させている(「ぼうずコンニャク」の「市場魚貝類図鑑」のホウライヒメジを参照した)。次に着目すべき点は、尾部のくびれの上部にある黒い斑紋で、「ぼうずコンニャク」の「市場魚貝類図鑑」のオキナヒメジ」に拠れば、実にこの斑紋で二種が区別出来るとし、『オキナヒメジは斑紋が中心を走る測線の上まで、測線を超えない』のに対し、『ホウライヒメジは斑紋が測線を超え』て背部に達しているとある(リンク先の対照画像を参照)。本図の黒斑は明らかに背部まであることから、私は本図は、

ヒメジ科ウミヒゴイ属ホウライヒメジ Parupeneus ciliates

と同定するものである。なお、福井でキントキダイ(スズキ亜目キントキダイ科キントキダイ属キントキダイ Priacanthus macracanthus)の異名として「ショウジョウダイ」と呼ぶという記載がネット上にあったが、魚体がまるで違うので、本図はキントキダイではあり得ない。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 計里 (ケリ)

Keri

けり  正字未詳

計里

    【万葉集用梟

     字爲歌助語

     然梟者不孝

     鳥之名與此

     大異

     者也】

 

△按計里鳥大似鳩而頭背灰黑而胸腹共白色翎末黑

 尾短而有黑斑觜黃赤而末黑脚脛長而黃常鳴水邊

 能捕魚其肉味甘美秋月賞之能治膈噎

山計里 狀似計里而頭背翅共青黑而翅裏帶淡赤色

 胸腹白嘴黑脚赤黑

 

 

けり  正字、未だ詳らかならず。

計里

    【「万葉集」、「梟」の字を用ひて、

     歌の助語と爲〔(な)〕す。然れ

     ども、「梟」は「不孝」の鳥の名

     〔にして〕、此れと、大〔いに〕

     異なる者なり。】

 

△按ずるに、計里の鳥、大いさ、鳩に似て、頭・背、灰黑にして、胸・腹、共に白色。翎の末、黑く、尾、短かくして黑斑有り。觜、黃赤にして末は黑し。脚・脛は長くして黃なり。常に水邊に鳴きて、能く魚を捕る。其の肉味、甘美にして、秋月、之れを賞す。能く膈噎〔(かくいつ)〕を治す。

山計里〔(やまけり)〕 狀、計里に似て、頭・背・翅、共に青黑にして、翅の裏、淡赤色を帶ぶ。胸・腹、白く、嘴、黑。脚、赤黑なり。

[やぶちゃん注:鳥綱 Avesチドリ目 Charadriiformesチドリ亜目 Charadriiチドリ科 Charadriidaeタゲリ属ケリ Vanellus cinereus漢字では「鳧」「水札」などとも表記する。現代中国語では「灰頭麦鳩」である。ウィキの「ケリより引く。『モンゴル、中国北東部、日本で繁殖する。冬には東南アジア、中国南部などに渡るものもいる。日本においては留鳥として、かつては主に東北地方に分布していたが』、『分布が拡大し』、『中部地方、関西地方を中心とした近畿以北の本州に』も広がっているらしく、『中国地方・北部九州など西日本でも繁殖が確認され始め』ているとする。全長は約三十四センチメートルで、『雌雄同色。くちばしは短く、黄色で先端が黒い。足は長くて黄色。目は赤橙色で黄色のアイリングがある。また。嘴の付け根には黄色い肉垂がある』(これも雌雄同色である)。『翼の小翼羽付近には爪があり、爪の大きさや色から雌雄の見当をつけることができる。成鳥の夏羽は頭部から胸上部が灰青色で、体上面は灰褐色で、体下面は白い。胸上部と体下面の境目には黒い胸帯がある。翼は先の方が黒く、基半部は白色と灰褐色で、飛ぶときこれらのコントラストが目立つ。尾は白色で黒い帯が入る。冬羽は頭部からの灰青色がやや褐色を帯びている。雛は淡褐色の綿羽に覆われている。若鳥は頭部からの胸部にかけて灰色でやや褐色を帯びる。胸帯は薄い。また目は褐色で、アイリング・肉垂とも小さく目立たない』。『水田、畑、河原、干潟、草原などに』棲息し、『食性は主に動物食で、昆虫類、ミミズ、カエルなどを捕食する。稀に穀類も食べる』。『繁殖期は』三月から七月で、抱卵は三月『初旬から中旬に始まり、抱卵・』雛養育は、それぞれ約一ヶ月ほど『かかる。クラッチサイズ』(clutch size:一回当たりの生産繁殖体数。「一腹卵数」「一巣卵数」等とも言う)は四卵で、時には三卵、稀に一卵から五卵が確認されている。『巣は水田内や畦などの地面に藁を敷き作る。よって』、『農作業による影響が著しく大きい。繁殖期中は時にテリトリーを変えるなどして最大』三『回営巣を試みる。非常に警戒心が強く、テリトリーにトビやカラス、人間などの外敵が近付くと、鳴きながら激しく威嚇し、追い払う。その為、夜でも鳴き声が聞こえてくる場合がある』。『非繁殖期には小群で行動する』。『甲高い声で鳴き、「キリッ、キリッ」、「ケリッ」、「ケケッ」というふうに聞こえる。この鳴き声からケリという名がついたといわれる』とあり、また、『「けりをつける」、「けりがつく」の“けり”は助動詞の“けり”から来た語だが、「鳧」の字を宛てることがあ』り、「鳧を付ける」というふうに当て字で今も使用する。鳴き声を含む動画はを。

 

『「万葉集」、「梟」の字を用ひて、歌の助語と爲〔(な)〕す。然れども、「梟」は「不孝」の鳥の名〔にして〕、此れと、大〔いに〕異なる者なり』良安は「梟」という字を「鳧」と勘違いをしているとしか思われない。まず以って「万葉集」は「梟」の字を助字になど使用していない。というよりも、「万葉集」にはフクロウ(フクロウ目 Strigiformesフクロウ科 Strigidae 或いは同科フクロウ属 Strixに相当する鳥をさえ詠みこんだ歌がないように思われる(中西進編「万葉集事典」(昭和六〇(一九八五)年講談社文庫刊)の「動物一覧」には「ふくろう」も「みみづく」も載らない)。東洋文庫の訳本の注にも、『助動詞「けり」に當てられている漢字は、「鳧」であって「梟」ではない。ただし『萬葉集』で「けり」に用いられている漢字は、計里・弗里・家里・來・異梨などで、「鳧」はむしろ巻七、一一九〇の歌のように「かも」と訓(よ)む用字となっている』とある。一一九〇番歌は、「覊旅作」(覊-旅(たび)にして作れる)歌群の中の一首で、

 

舟盡 可志振立而 廬利爲 名子江乃濱邊 過不勝鳧

舟泊(は)てて杙(かし)振り立てて廬(いほり)せむ名子江(なごえ)の濱邊過ぎかてぬかも

 

である(「杙(かし)」は舟を係留するための杭(くい)。「廬」は旅宿。「名子江」は位置不詳。「名児(なご)の海の入り江」としても住吉(現在の大阪湾)辺りとも、越中(富山県)ともされ、最早、確定不能である)。この「かも」詠嘆的疑問を示す係助詞で、係助詞「か」に係助詞「も」が付いて一語化したものである)。また、鳥としての「ケリ」は、巻第二十の四三三九番歌(防人歌で作者は刑部(おさかべの)虫麻呂。天平勝宝七(七五五)年二月作)で、

 

久尒米具留 阿等利加麻氣利 由伎米具利 加比利久麻弖尒 已波比弖麻多禰

國巡(めぐ)る猲子鳥(あとり)鴨(かま)鳧(けり)行き巡り歸り來(く)までに斎(いは)ひて待たね

 

詠われている。この「國」は筑紫国。「猲子鳥(あとり)」はスズメ目アトリ科アトリ属アトリ Fringilla montifringilla。「鴨(かま)」はカモの訛り。「斎(いは)ひてひて待たね」は「身を慎んで私の帰るのを待っていておくれ」の意。

「膈噎〔(かくいつ)〕」漢方では「噎」は「食物が喉を下りにくい症状」を指し、「膈」は「飲食物を嚥下出来ないこと」「一度は喉を通っても後で再び嘔吐する症状」を指す。精神的な嚥下不能から喉の炎症、アカラシア(achalasia:食道アカラシア。食道の機能障害の一種で、食道噴門部の開閉障害若しくは食道蠕動運動の障害或いはその両方によって飲食物の食道通過が困難となる疾患)や咽頭ポリープによるもの、更には食道狭窄症や逆流性食道炎、重いものでは咽頭癌・食道癌や噴門部癌や胃癌も含まれると思われる。

「山計里〔(やまけり)〕」これはケリの異名であって、別種ではない。]

大和本草卷之八 草之四 海藻類 石帆 (×海藻ではない刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱ツノサンゴ(黒珊瑚)目Antipathariaの仲間) 

 

石帆 本草綱目載之又事言要玄曰此海樹也紫

 黑色其根株著實其枝柯如鐡綆相勾聯高一二

 尺許以其扁薄如帆故呼爲石帆今人取置花盆

 中以爲玩漳州府志ニモノセタリ○本邦處々海中ニ

 アリ事言要玄ニイヘルカ如シ其色丹ヲヌリタル如クナルモア

 リ或黑白褐色アリ其根石ニツキテ生ス異物ナリ人工

 ニテワサト作リナセル物ノ如シ丹色モ亦人乄ヌリタルカ如シ

○やぶちゃんの書き下し文

「石帆(ウミマツ)」 「本草綱目」、之れを載す。又、「事言要玄」に曰はく、『此れ、海樹なり。紫黑色。其の根株、實を著け、其の枝柯〔(しか)〕、鐡綆〔(てつこう)〕のごとし。相ひ勾聯〔(こうれん)〕す。高さ、一、二尺許り。其れ、扁〔たく〕薄〔くして〕、帆のごときを以つて、故に呼んで、「石帆」と爲す。今、人、取りて、花の盆の中に置き、以つて玩と爲す。「漳州府志」にも、のせたり。

○本邦、處々の海中にあり。「事言要玄」にいへるがごとし。其の色、丹〔(に)〕をぬりたるごとくなるも、あり。或いは黑・白・褐色あり。其の根、石につきて生ず。異物なり。人工にて、わざと作りなせる物のごとし。丹〔(に)〕の色も亦、人〔を〕して、ぬりたるがごとし。

[やぶちゃん注:「海藻類」に入って早々、現代生物学では「海藻」でない動物が出てきてしまった。私は既に十年前、寺島良安「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「うみまつ 水松 石帆〔(せきはん)〕」でこれを考証した。その冒頭での私の注を元に、以下、同定過程を示す。まず、振仮名の「ウミマツ」という呼称からは、即座に「海松」の表記が浮かび、これは本邦では古代から食用海藻として知られて租税としても納められ(「大宝律令」には既に「調」(正確には正規の税としての「正調」が納められない場合の雑物)として食用の「海松」が記載されており、その献納の事実を証明する木簡も出土している)、「みる」の呼び名が当てられており、「万葉集」にも出る。仮にそれだとするならば、

植物界緑色植物亜界緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミルCodium fragile

ということになる。が、この益軒の叙述は、あの独特の黒みがかった黄緑色(日本固有の色名として、まさに「海松(みる)色」と呼ぶ)の、ふにゃとした感じの(実際には枝は結構丸く太く、ビロード状を呈し、触れてみるとザラついている)、二叉分岐を繰り返して松の木のようになった、あの海藻の「ミル」の叙述では、全く、ない。実は、寺島良安「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「水松」を読んでいただければ、よく判るのであるが、実は「本草綱目」では時珍自身が(彼は「石帆」と「水松」を似ているとしつつ、別項として立てている)、全く異なる生物種を一緒くたにして解説している(ように見える)のである。益軒がここで「本草綱目」は書名だけを示し、全く引いていないのは、そうした疑義を感じていたからかも知れない。益軒は「本邦」でもこの種は「處々の海中にあり」、そ「の色」は「丹」(に)を塗ったように真っ赤な個体もあり「或いは」黒色のもの、白色のもの、褐色のものもあって、バラエティーに富んでおり(こんな色彩変異はミルCodium fragile では絶対にあり得ない)、「其の根」は海中の岩礁や岩に付着して生じた、稀に見る「異物」であると言っている(海松(みる)は本邦の人間にとっては馴染みの食用海藻であり、「異物」などとは決して表現しない)。しかも「人工」で、「わざと作り」成した「物の」ようにさえ見えるもので「丹」(に)「の色も」これまた「人」が恣意的に塗りたくったように見えるほどだ、と言っているのである。さらに前の箇所では「鐡綆〔(てつこう)〕(スチール製の細い鉄条を束ねた井戸の釣瓶(つるべ)の綱(つな))のようであるともあり、「今、人、取りて、花の盆の中に置き、以つて」賞翫する飾り物「と爲す」というのだ。ミルを乾燥させても、潮臭さはなかなか抜けず、だいだいからして、黒ずんで汚なく、盆の上に飾るような代物にはならないさてもさて、これらの属性を全てカバー出来る「石帆」とは何であろう? 既に多くの方はお気づきであろうが、これは海藻ではなく、珊瑚の一種である可能性が非常に高いのである。特にその中でも、通称をずばり「ウミマツ」と呼ぶ

刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱ツノサンゴ(黒珊瑚)目Antipathariaの仲間

ではないかと私は思うのである。勿論、同目に属する、

ウミカラマツ科ウミカラマツ属ウミカラマツ Antipathes japonica

ウミカラマツ科 Cirripathes 属ムチカラマツ Cirripathes anguina

等を候補として挙げても構わない。ツノサンゴ類の「ブラック・コラール」と呼称されるものは、現在も装飾品とされる

また、現代中国語で「石帆」は“sea fan”に英訳されるのであるが、これは別名が「海団扇」であり、これも海藻ではなく、

刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱ヤギ目角軸(全軸/フトヤギ)亜目トゲヤギ科ウミウチワ属ウミウチワAnthogorgia bocki

若しくは、その仲間を指すと思われるのである。その場合、同形態を示す同じヤギ目の、

イソバナ科イソバナ属イソバナMelithaea flabellifera

等の仲間も同定候補となろう。

 ともかくも、同じような形状を有する(但し、遙かに小さい)海藻類はあるが、私は、少なくとも、益軒のこの叙述は、海藻類のそれらではなく、悉くが、枝状を成す珊瑚類であると断言するものである。

「事言要玄」明の陳懋学(ちんぼうがく)の撰になる類書(事典)。全三十二巻。泉州の地誌「泉南雜志」を書いた陳懋仁(ちんぼうじん)のごく近しい後裔の縁者であろう。

「枝柯〔(しか)〕」枝。「柯」は「木の枝」「草の茎」の意。

「勾聯〔(こうれん)〕す」曲がりながら、相互に絡まっている。

「漳州府志」清の乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌。

2018/05/07

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(38) 佛敎の渡來(Ⅰ)

 

  佛敎の渡來 

 

 日本の古代の宗敎が、あらゆる他の敵對異國の信仰の移入に對して反對を示した。その反對の如何なるものであつたかは、今や明らかに解つた事であらうと思ふ。家族が祖先禮拜の上に基礎を置き、村邑が祖先禮拜に依つて治められ、氏族又は部族團體も祖先禮拜に依つて支配せられ、又最高の支配者が、他のあらゆる祭祀を一つの共通な傳統の中に結合する所の祖先祭祀の、高い神官であり又同時に神であるとすれば、根本的に神道に反對する如何なる宗敎の宣布も、社會組織全體に對する一つの攻擊と見做されるのは當然の事でなければならない。これ等の事情を考へて見れば、佛敎が、初期の幾つかの鬪爭の後(その一つは流血の戰ひであつたが)、第二の國民的信仰として受け入れられたのは不思議に思はれるかも知れない。併し佛敎の根本義は本質的に神道の信條と相容れないものではあるが、佛敎は、印度、支那、朝鮮、その他隣接諸國に於て、如何にしたら執拗な祖先禮拜を支持してゐる諸國民の精神的必要に合致し得られるかを知つて居たのである。然らざれば、頑固な祖先禮拜は疾うの昔に佛敎の潰滅を果たしてゐたであらう、と云ふのはその廣大な幾多の征服は凡てソ連禮拜の人種の間に行はれたものであつたからである。印度に於ても、支那に於ても、朝鮮に於ても、――又暹羅[やぶちゃん注:「シンラ」。タイ王国の旧称。]に於ても、緬甸[やぶちゃん注:「メンデン」。ミャンマー(旧ビルマ)のこと。]に於ても、安南に於ても――佛敎は祖先禮拜を驅逐しようとは力めなかつた[やぶちゃん注:「つとめなかつた」。]のである。何處でも佛敎は自分を社會上の習慣の敵としてでなく、友として受け入れさせた。日本でもそれは大陸諸國でその發展を確實にしたと同じ政策を採つたのである。それで日本の宗敎狀態について、多少でも明確な觀念を得ようと思ふならば、この事實を心に止めて置かなければならない。

 日本の書物で現存して居る最も古いものは――恐らく神道の祭典(祝詞)に關するものを除けば――第八世紀以來のものであるから、祖先禮拜以外に宗敎の形式のなかつた古い時代の社會狀態は、臆測に依つてそれを知るの他はない。支那朝鮮の影響が全然無かつた事を想像して始めて、吾々は所謂神代に存した物の狀態の漠然たる考をつくり得るのである、――そして何れの時代にこれ等支那朝鮮の影響が働き始めたかと云ふ事を決定するのは困難な事である。儒敎は佛敎に先んずる事可成り前であつたらしい。そしてその發展は、組織力として、遙かに急速であつた。佛敎は、紀元五五二年頃、始めて朝鮮から傳つて來た。然しその傳道はあまり多くの功果をあげなかつた。第八世紀の終り頃に、日本の政治の全體の組織は、儒敎の影響を受けて、支那式に改められた。然し第九世紀に入らぬ中に、佛敎は事實全國に擴がり始めたのであつた。そして結局それは國民生活を蔽ひ、あらゆる國民思想にその色彩を與へた、而も尙ほ、古代の祖先祭祀の異常な保守思想――他と融合する事を阻むその固有の力――は、一八七一年の佛教廢止の際に、この二つの宗教が容易に分かれたと云ふ事で例證される。凡そ千年の間も、文字通りに佛敎に壓倒された後、神道は忽ちにその昔の素朴に戾り、その最も古い奉祭の不變の形を再建したのである。

[やぶちゃん注:「一八七一年の佛敎廢止」明治新政府が神道を国家統合の基幹にしようと意図し、一部は神道の国教化をも目論んだ(神祇官を再興し、古代の祭政一致の制度を復元しようとしたが、結局これは頓挫した)が、その中で行われた、旧来、永く行われていた神仏習合を改めるために、神仏分離を強行、その中で一連の法令が出され、神社に付属していた多くの寺院が分離・廃絶を余儀なくされた。それはさらに狂気的な廃仏毀釈運動を引き起こし、仏教寺院や付属建物(墓石を含む)・仏像(石仏を含む)・仏具が取り壊されたり、廃棄されたり、二束三文で売却され、優れた作品が海外に多数、流出した。地域差があるが、県知事や地区管理の役人の中には成果を上げて政府の受けを狙い、苛烈に行った連中も多く、私が調べた、ある島嶼部では、寺院が放火されて焼失、寺僧も暴行を受けて殺されそうになって追放されていたりしている。鎌倉の鶴岡八幡宮でも多数の別当寺の仏教関連の大きな建築物が破壊され、貴重な仏像類も多数、流出してしまっている。細かく見ると、慶応四年三月十七日(一八六八年四月五日)に神祇事務局は、諸国神社に仕える僧形の別当・社僧に復飾(=還俗)を命じており、これが神仏判然令(神仏分離令。狭義には、ここから明治元年十月十八日(一八六八年十二月一日)までに出された太政官布告・神祇官事務局達・太政官達など一連の通達を総称する)の始まりとされ、ついで同月二十八日太政官令で、権現などの仏語を神号とする神社の調査と、仏像を神体とすることの禁止を全国に布告している。これ以後、全国の神仏混淆の神社から仏教色が総て排除されることとなり、明治三年一月三日(一八七〇年二月三日)に出された詔書「大敎宣布の詔」(たいきょうせんぷのみことのり:天皇に神格を賦与し、神道を国教と定めて大日本帝国を祭政一致の国家とする国家方針を示したもの)が出てより、過激な廃仏棄釈の騒擾は明治七(一八七四)年頃まで続いた。小泉八雲が言っている、この「一八七一年の佛教廢止」というのは、よく判らぬ。また、ウィキの「廃物希釈によれば、この明治四(一八七一)年には『全体としては大きな反抗もなく』、「神仏分離」は『終息した』としており、また、同年一月五日附の太政官布告では、境内を除いた寺や神社の領地を国が接収して管理するという「寺社領上知令」の布告が出されてはいる。なお、本邦で、太陰暦を廃して太陽暦(グレゴリオ暦)を採用することの詔書が発せられ、太政官布告により公布されたのは、明治五(一八七二)年十一月九日のことで、具体的には旧暦明治五年十二月三日を新暦明治六年一月一日とした。]

 

 併し神道を併呑せんとした佛敎の企ては一時は殆ど成功したやうに思はれた。この併呑の方法は、八〇〇年頃、眞言宗の有名な宗祖、空海則ち『弘法大師』(一般にかう呼ばれてゐる)が考へたものだと云はれてゐる。が、この空海は始めて神道の高い神々は佛の化身であると稱したのであつた。併し、勿論、弘法大師は佛敎政策の從來の例に倣つたまでの事であつた。兩部神道【註一】の名の下に、この神道と佛敎との新しい複合は、帝室の承認と支持とを獲た。爾後到る處で、この二つの宗敎は同一の境內に置かれた――時には同一の建物の內にさへ置かれ、二つは眞に融合したかに見えた。が、その實、眞の融和はなかつたのである――かかる接觸の十世紀もつづいた後、再び二つのものは一度も接したことがないかの如く手輕に分かれてしまった。佛敎が實際永久的な變化を與へたのは、僅に家庭に於ける祖先祭祀の形式に於いてであつたが、それでさへ尙ほ根本的なものでなく、一般的なものでもなかった。或る地方では、それ等の變化も爲されなかつた。そして殆ど到る處で、人民の大部分は神道の祖先祭祀の形式に從ふ方を選んだ。又佛敎に改宗した人の一大階級も、なほ古い信條をつづいて表明して居た。そして佛式によつて彼等の祖先禮拜を實行しながら、別に家庭的に古い神々の禮拜を行つて居た。今日日本の大抵の家には、神棚と佛壇との雙方が見受けられるが、二つの祭祀が同一の屋根の下に行はれるのである【註二】。……然し私がこれ等の事實を記して居るのは、神道の保守的活力を說明するためであつて、決して佛敎宣傳の薄弱な事を指示せんとするのではない。勿論、佛敎が日本の文化に及ぼした影響は夥しいものであり、深大なものであり、また多樣であり、無限でもある。唯、驚くべき事は、永久に神道の息をとめる事の出來なかつたと云ふ點である。多くの著述家達が不注意に言つてゐる事であるが、神道は公式の宗敎として殘つてゐるだけで、一般の宗敎となつたものは佛敎であると言ふのは、全然誤想である。事實、佛敎も神道と同じやうに公式の宗敎となつた。そして貧民の生活と共に上流階級の生活を支配したのである。佛敎は幾多の天皇を僧侶にし、その皇女を尼にした。佛敎は政治家の行動を、法令の性質を、そして法律の執行を左右した。各村邑に於ける管内の佛敎の僧侶は、精神上の敎訓者であると共に、公許の役人であつた。彼は管内の登記簿を預り、且つ地方の重大な事件を當局に報告して居たのである。

註一 兩部といふ言葉は『二つの部門』若しくは『二つの宗敎』の意である。

註二 若しその家が佛敎徒であれぱ、祖先禮拜や葬式は原則として佛式である、併し神道の神々は、眞宗[やぶちゃん注:浄土真宗。]に屬する家を除けば、大槪の佛敎徒の家で祭られてゐる。併し眞宗の信奉者でも多くは同じやうに古い宗敎を奉じてゐるやうである、そして彼等は自分の氏神を有つてゐるのである。

[やぶちゃん注:「兩部神道」(りやうぶしんたう(りょうぶしんとう))は真言系の仏教家によって説かれた神道説で、密教の金剛界・胎蔵界両部の中に神道を組み入れて解釈しようとする神仏習合の思想。その思想的萌芽は行基・最澄・空海に見られ、神祇に菩薩・権現の名称を付すに至った。所謂、本地垂迹説の濫觴である。「仁和寺(にんなじ)流」・「野山(やざん)流」・「三輪流」・「立川(たちかわ)流」・「雲伝(うんでん)神道」等の派もあったが、林羅山が「本朝神社考」(寛永一五(一六三八)年から正保二(一六四五)年にかけて編纂された)で批判して以来、種々の排撃を受け、江戸初期に急速に退潮し、明治以降には完全に禁止され、衰退した。

「眞宗に屬する家を除けば」浄土真宗では「弥陀一仏」に帰依することを信条とする故に、神を祀る必要を認めないからである。現行の浄土真宗各派の公式サイト内で、神棚があれば処分すべき旨を記し、神棚は明治以降の国家方針によって齎された誤りであるというような、トンデモ解説が成されてあるが、無論、浄土宗・浄土真宗草創以前に、各家庭に神棚は遠い昔からあった。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 ベニシマダイ (クルマダイ)

 

ベニシマダイ   刺鬣一種名

 

Benisimadai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。前の「ハナシマダイ」の下方に張られたもので、本図の魚体の高さは巻子の縦幅の三分の一ほどしかなく、貼り交ぜ帖のように、下部貼り付けで、中間は貼り付け台紙の地が現われてしまっている。則ち、前の二種のような大きさでは描かれていない。キャプションは下部の擦れがあるが、以上でいいと思われる。「刺鬣一種名」は「刺鬣(きよくれふ)の一種の名」で「棘鬣」は「棘鬣魚」(キョクリョウギョ)で鯛の異称。背鰭が「刺(とげ)」の「鬣(たてがみ)」状になっていることに由来する。しかし、本種は明らかに狭義の鯛類(条鰭綱スズキ目タイ科 Sparidae)の仲間とは思われない。というより、底本の磯野先生の解題にも、この巻子本「魚譜」(「軸1」と呼称されている)は「鯛」の名がつく魚を計七十九品所載するのであるが、『本物のタイの類は少なく、コブダイ(ベラ科)やイシダイ(イシダイ科)などが大半を占める』とあり、本魚譜の種同定は困難を極める。しかも、前の「ハナシマダイ」同様、この「ベニシマダイ」という名も異名としても残っていない模様で、困るのである。しかし、やはり前回同様、この死語となった異名もヒントとなる。これは「紅縞鯛」であろう。さすれば、紅・朱色の強い魚体色で、しかも「縞」を有し、この場合は図から、背部から腹部への真っ直ぐな横縞(朱色と有意に薄く褪色したものの帯縞でそれが尾鰭基部まで続いている)であることが判る。魚体の頭部周辺の剥離欠損が著しいものの、左目がかなり大きいこと、口吻が有意に大きく、死後に大きく上下に開いている状態、釣り上げた直後から恐らくそうなるような性質を持つ魚、の写図と判断できる。さらにキャプションを問題にするなら、「棘鬣」から本種の背鰭は、図では畳んでペタンとなってしまっているけれども、実は強い棘状を示しているのではないかとも疑われるのである。以上の点を踏まえると、私は本種は、やや小振りの幼魚かとも思われる、

スズキ目スズキ亜目キントキダイ(金時鯛)科クルマダイ属クルマダイ Pristigenys niphonia

に同定したくなるのである。キントキダイ(金時鯛)科 Priacanthidae の魚は眼球が非常に大きいことが最大の特徴であり、現代中国語でも「大眼鯛科」と称する。和名「車鯛」は車の「輪」のように丸い体型の「鯛」に似た形状や色をした魚の謂いで、成体は二十センチメートル前後まで大きくなり、側扁して左右から見ると有意に丸みを帯び、でかいギョロ目、背鰭は激しい棘状を成すトゲトゲのそれであって、ディズニーの「ニモ」に出そうなキャラクタライズされた如き形状なのであるが(グーグル画像検索「Pristigenys niphoniaを見よ)、英文サイト「Fishes of Australia」の本種のページWhiteband Bigeye, Pristigenys niphonia (Cuvier 1829)の右コンテンツの「Species Image Gallery」の三枚目(右端)の本種の画像などは、そのように強く丸くもなく、縞も比較的薄く、背鰭も寝た状態で棘条が全く目立たず、本図とよく一致すると私は思う。本種は口が大きく、死後に下顎が下がって開いてしまい、このようにカッパと開いている画像が釣りサイトなどで多く見られる。]

2018/05/06

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 俳人のみの歌会

 

     俳人のみの歌会

 

 三月二十五日、はじめて子規庵に歌会を開いた。会する者居士をはじめ、碧梧桐、虚子、露月、墨水、秋竹、遠人(把栗)の諸氏で、秋竹氏の外は悉く「百中十首」の選に当った人ばかり である。十題を課して作歌を試みたが、この記事はどこにも発表されなかった。漱石氏宛の手紙に「先日はじめて歌の會を催し候。會するものは矢張俳句の連中のみ」とあるのはこの事である。居士の企てた最初の歌会であり、何か期するところがあったのかも知れぬが、一回催したきりであとが続かなかった。

 『日本』紙上には引続き歌が掲げられた。これらの歌の中には「百中十首」当時に已に出来ていたものもないではなかったが、多くは季節の進むに従って新に詠んで行ったもののようである。一回分の歌が八首に限られているのは、多分『日本』の原稿紙が十八行であった関係であろう。俳句において一題十句を試みたと同じく、同題の下に変化を求め、和歌の内容を豊富ならしめようとした迹が認められる。

 

 故郷の梅の靑葉の下陰に衣浣(あら)ふ妹の面影に立つ

 綠立つ庭の小松の末低み上野の杉に鳶の居る見ゆ

 夕顏の苗賣りに來し雨上り植ゑんとぞ思ふ夕顏の苗

 神鳴のわづかに鳴れば唐茄子(とうなす)の臍とられじと葉隱れて居り

 うたゝ寐(ね)のうたゝ苦しき夢さめて汗ふき居れば薔薇の花散る

 

 「百中十首」時代よりも更に自然に近づき、題材を自己の身辺に求めようとする傾向が見える。「神鳴」の歌は「狂體」とあるが、こういう滑稽味は在来の歌人の多く関知せざるところであった。俳諧より脱化し来ったものであろう。

 歌論の方も「人々に答ふ」で一段落を告げたらしく、その後暫くの間『日本』に何も由ていない。厄月の五月も無事通過することが出来た。五月二十九日漱石氏宛の手紙に「此頃は庭(には)前に椅子をうつして室外の空氣に吹かるゝを樂み申候」とある通り、天気がよければ庭に出ることを楽(たのしみ)にしていたようである。「椅子を置くや薔薇に膝の觸るゝ處」「若葉陰袖に毛蟲をはらひけり」などとも詠んでいる。一年前の五月とは大変な相違である。

 歌に没頭しているように見えた時代といえども、居士は俳句を抛擲(ほうてき)しているわけではなかった。『ホトトギス』には「試問」「輪講摘録」「俳句分類」などを続載する外、「卜筮(ぼくぜい)十句集を評す」とか、「拝啓」などという文章を掲げたこともある。「拝啓」は後の『ホトトギス』によく書いた「消息」の類で、消息文の体を以て近況を伝えたものである。居士が私信以外に病状を細叙したのは、この一篇がはじめであろう。足の立たぬ病牀で仕事を続ける苦痛と不便は少くないが、「物に負けてしまふ事は大嫌ひて、此苦しさに苦しめられながら全く負けてはしまはず、苦しさの中にて出来るだけの仕事を致し居候」ともいっている。「其仕事と申すは固より俳句のみにあらざれども、縱(よ)し俳句ばかりとするも小生の一生(縱令(たとひ)長生するとも)に餘る程の仕事を控へ居候。俳句を作り俳論を草する外に俳句分類に従事致居候。常の人ならば今日の仕事もすんだからこれから人の内へ話しに行かうとか、寄席に行かうとか、散步に行かうとか、酒飮みに行かうとかいふ場合に小生は俳句分類に取り掛り候。今日は日曜だから一日遊んでしまふといふ處ならば、今日は一日分類をやつて遊べといふやうな事に相成候」ともある。歌及歌論を連載する間も、『日本』の俳句は常のように出ていた。一月に「明治三十年の俳句」を掲げた以来、俳論が『日本』に出なくなっただけのことである。

[やぶちゃん注:「卜筮(ぼくぜい)十句集」不詳。]

 

 『ホトトギス』の「試問」は四月に至って「或問(わくもん)」となった。人の問に答えたもので、前の「俳句問答」後の「随間随答」と同じ形式であるが、問の短く答の長いのを特色とする。「或問」は二回で止んだけれども、『ホトトギス』誌上に最も多く筆を執る者は、他の健康者でなしに病牀の居士であった。

 『日本』『ホトトギス』以外にも、居士はいくつか書いたものを発表している。雑誌『韻文学』に出た「曝背間話(ばくはいかんわ)」(三月)[やぶちゃん注:「曝背」は「日向ぼっこ」の意。]、『中学新誌』に出た「すゞし」(七月)、『反省雑誌』に出た「十年前の夏」(同)などがそれである。歌に関して『日本』に活動を続ける外、俳句方面の仕事を大体『ホトトギス』に集中し、なおかつ余力を他の雑誌に及ぼす居士の精力は驚歎の外ないが、縦横にその筆を揮(ふる)い得ただけ、この年の居士は健康状態がよかったものと見なければならぬ。

 

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(37) 死者の支配(Ⅴ) /死者の支配~了

 

 恐らく支那の刑法の入つて來た前にも後にも――所謂明淸の法典で、將軍の下に、それに依つて國は治められて居たのであるが――國民の全部は文字通り笞[やぶちゃん注:「しもと」或いは「むち」。後の「笞刑」の熟語からみて、「むち」でよかろう。]の下にあつたのである。普通の人民は極めて些細な罪のために殘酷な笞刑の罰を受けた。重大な犯罪に至つては、苛責して殺すのが普通の刑であつた。甚だしい野蠻な或は野蠻に近い刑罰に至つては、吾が中世紀に行はれたやうなものもあつた――火刑、十字架、八裂き、生きながら油で煮ると云つたやうな類であつた。村民の生活を規定した文書には、法律上の規律の嚴しさを示すやうなものがない。組帳に、かくかくの行爲は罰せらるべしとあるその宣言は、古の法典を知らない讀者には別に何の恐ろしさをも思はせないであらう。事實日本の法律上の文書の內にある『罰』といふ文字は、些少の罰金から、上は炮烙の刑[やぶちゃん注:ここは火刑、火あぶりの刑のこと。]に至るまでの、すべての刑をいふのである……。家康の時代に至るまで、爭ひを鎭壓するために用ひられた懲罰の證據は、一六一三年に日本へ來たカピタン・サリスの不思議な手紙の內に見られる。艦長は恁う書いた『七月の一日に、吾々の仲間の內の二人が互に爭を始め、野外に行きさうになつて(則ち決鬪を演じさうになつて)結局吾々のすべてのものを危險に陷れた。といふのは、怒つて刀を拔くものは、よしそれに依つて別に何等の害をも爲さなかつたとは言へ、そのものは直に切り裂かれる、そして少しの害でも爲せば、自分が死刑に處せられるのみならず、またそのものの全一族が同じ刑に處せられるのである……』『切り裂かれる』といふ事の文字上の意味を、艦長はその同じ手紙の內に、自分の目擊した死刑の事を語つで、その說明をして居る――

[やぶちゃん注:「カピタン・サリス」イギリス船として初めて日本に来航したイギリス東インド会社の貿易船「クローブ号」の指揮官ジョン・セーリス(John Saris 一五七九年或いは一五八〇年~一六四三年)。ウィキの「ジョン・セーリス」によれば、ロンドン生まれ。一六〇四年に『サー・ヘンリー・ミドルトン率いる東インド会社の東アジア方面第二次航海(Second Voyage)に参加し、ジャワのバンタンに赴く。一行が帰国後もバンタンに留まり、東インド会社の商務員として働』いた(後、帰国)。一六一一年四月十八日、日本との『通商を求めるイングランド国王ジェームズ』『世の国書を持って貿易船「クローブ号」』他二隻の船団長として』『ロンドンを出港』、一六一三年六月十日(慶長十八年四月二十二日)に『肥前国平戸に到着』(他の二隻は途中で帰還している)、『徳川家康より貿易を許可する朱印状を得て、平戸にイギリス商館を開設し、リチャード・コックスを商館長として残して帰国した』。『日本から帰国したのちはアジアに戻ることはなく、イギリスで暮らす。ロンドン市長を務めたサー・トーマス・キャンベルの孫娘アンと』一六一五年に『結婚したが』一六二二年に死別し、その二十一年後に『亡くなるまで』、『ロンドンのフルハムで静かに余生を送』った、とある。彼の航海日誌「ジョン・セーリス日本航海記」の自筆本が残されているが(東洋文庫所蔵・国重要文化財指定)、幸いなことに、その村川堅固による現代日本語訳「日本渡航記」(昭和一九(一九四四)年十一組(といちぐみ)出版部刊)が国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める(これは後にアーネスト・サトウが編集校注した“ The voyage of Captain John Saris to Japan, 1613 ”である)以上に記された内輪の決闘未遂の一件は、一六一三年七月一日(慶長十八年五月十四日相当。これらの航海日誌の日付はグレゴリオ暦であるから、本邦のパートは旧暦換算が必要)の平戸での条で、ここである。また、以下の引用に当たる部分も同じく平戸での、ここである。リンク先には注(原日誌の訳。八雲の原引用は原日誌のであることが判る)もある。是非、対照されて読まれたい。

 以下は底本では全体が一字下げで、前後に一行空けが施されてある。] 

 

 『八日[やぶちゃん注:一六一三年七月八日。慶長十八年五月二十一日。]に三人の日本人が死刑に處せられた、則ち男二人女一人。理由は恁うである。――女は甚だ宜ろしからざるものであつたが、(その夫は旅行して家に居なかつたので)二人の男を時を定めて自分の許に來るやうに極めた後に來た男は前の男を知らなかつたが、その定められた時刻より早く來たので、第一の男を見、怒つて、刀をぬき、ひどく二人を傷つけた――男の背筋を二つに切るほどに傷つけた。『然るに第一の者も自分のあかり[やぶちゃん注:「自分の身の証(あか)し」。と言ってもこいつも間男なんだから「あかし」も何もあったもんじゃなく、先の「航海記」の訳文を見る限りでは、流石にそんなことは言っていないようだ。なお、原著は古い英語で読み難いものらしい。]を立てるために、刀を取つて、第二の者を切つた。往來ではこの爭を知つて、三人の者を捉へ、これを別處に置き、國王フオイン(松浦公法印の事[やぶちゃん注:元肥前国平戸藩初代藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ 天文一八(一五四九)年~慶長一九(一六一四)年)。晩年に出家して法印にまで昇ったことから「式部卿法印」・「平戸法印」と呼ばれた。当時は藩主は孫の第三代藩主松浦隆信に譲っていたが、未だ満二十一であった彼の後見人として、事実上の藩政を仕切っていた。])にその事を知らし、人を以て王の意向を伺はした(それは國王の意志に依つて、人は死刑に處せられたのであつたから)、王は直に三人の首を切るやうにとの命を發した。それが行はれると、見て居た各人は(多くのものが見て居たが)その死体の上に自分の刀の銳さを試みて見るためにやつて來た。爲めにそれ等の人々の立ち去るまでに、三人は切れ切れに小さく人間の手程の大きさに切られてしまつた。――がそれでもまだそのままにはして置かれず、その切れ切れの屍を積み重ね、人々は刀の一打ちを以て、その幾個を切り得るかを試みるのであつた。その上で切れぎれの身體は棄てられ禽鳥の食ふにまかせられてしまつた』……。 

 

 言ふまでもなく、この場合、死刑は、爭をしたといふ犯罪よりもつと重大な理由のために命ぜられたのである、併し爭ひが固く禁じられ、嚴しく罰せられたのは事實である。

 下級の『慮外もの』を切り棄てる特權をもつて居たが、武家階級そのものも、そのもつて居た特權よりも遙かに酷しい規律に從はなければならなかつた。人の機嫌を害つた[やぶちゃん注:「そこなつた」。]やうな言葉或は顏附に對する罰、若しくは務を果たす際に陷つたる些細な過失に對する罰は、則ち死刑となる事もあつた。大抵の場合、侍は自分から自分に死刑を加へる事をゆるされて居た。則ち己を殺す權利は、特權と考へられて居たのである。併し短刀を深く左の脇腹に刺し、それからその刀身を徐に且つ確かりと[やぶちゃん注:「しつかりと」。]右の方へ引き、腸を悉く切り去るといふのは、普通の磔刑、則ち兩脇を突き通される罰と同じく確に殘虐なものである。 

 

 個人の生活の事に關する一切の事柄が、法律に依つて規定されて居たと丁度同樣に、個人の死に關する一切の事柄――個人の棺の性質、埋葬の費用、葬式の順序、墳墓の形等も規定されて居た。第七世紀に法律が發布されて、何人でも埋葬に不相應な費用をかけてはならぬといふ事になりつた。これ等の法律は、位置階級に從つてその葬式の費用を定めたのであつた。その後の布令は、棺の大きさと材料竝びに墳墓の廣さをきめた。第八世紀には、王侯より百姓に至るまであらゆる階級のために、葬式の細目が法令を以てきめられた。後代になつて、なほ別の法律及び法律の修正が、この問題の上に施された。併しいつも葬式の事に就いては、一般に立派にするといふ傾向があつたらしい――この傾向は甚だ强かつたので、幾代の間も奢侈禁制法の行はれたに拘らず、今日なほ社會の危險として存在して居る。これは死者に對する義務に就いての信仰、竝びにその信仰から生じた、一家を貧困に陷らしても、靈を重んじ、靈を悅ばさうとの願望のある事を考への內に置いて見れば、容易に了解される事である。 

 

 以上すでに述べた處の法律は、近代人の考へには、多くは暴政と見えるに相違ない。規定の內には吾々から見れば、異樣に殘酷と考へられるものもある。のみならず、かくの如き法律慣習の義務を避け免れる道は一つもないのである。それを果たし得なかつたものは、死ぬか或は流浪の身となるより外に道はなかつた。有無を言はぬ服從のみが生存の條件であつた。かくの如き規定の傾向は、自然[やぶちゃん注:ここには読点が必要。]精神上竝びに道德上の意見の相違を抑へ、個性を麻痺せしめ、一定不變の型にはまつた性格を作るにあつた。而してその實際の結果として、かくの如きものが得られたのである。今日に至るまで、日本人の考へは、みな依つて以てその祖先の考へが抑へつけられ制限さて居た、その古い型の跡を示して居る。さういふ型をつくるに與つて力のあつた――むしろ抑壓の下にさういふ型を結晶さした法律の事を知らなくては、日本人の心理を了解する事は不可能である。

 併しながらまた一方から言へば、この冷酷鐡の如き規律の倫理上に於ける効果は、言ふまでもなく勝れたものであつた。卽ちこれはつぎつぎ代々のものをして祖先の儉約を實行せしめたが、その强制は日本の非常な貧困といふ點から考へて正當な事とされたのである。この强制は生活費を引き下げ、それをして西洋人の考へから言つた必要缺くべからざるものといふ程度よりも、遙かに下らしめたのであつた。かくしてそれは節制、質素、經濟の念を養ひ、淸潔と、作法と、强健とを勵行した。而も――異樣な事實と考へられるが――それは人民を不幸に陷れはしなかつた。人民は自分達の困難のあつたに拘らず、世界を美しく見た。事實昔の生活の幸福は、古い日本の藝術の內に反映されて居た。それは丁度ギリシヤ生活の樂しさが、その名も知れない畫家の手になつた花瓶の意匠の間から、吾々に向つてなほ笑顏を呈して居るのと同じである。

 而してその說明は難しくはない。吾々はこの共生が只だ外から働かされたのでなく、實際內部から維持されたものである事を記憶しなければならない。日本人の規律は自ら進んで課したものであつた。人民は徐に自分自身の社會狀態を作り出したのである、そして法律はその狀態を保持したのである。則ち彼等日本人は、その法律を以て出來得る限り最上なるものと信じて居たのである。彼等はその法律が自分自身の道德上の經驗に立脚して居たといふ立派な理由から、それを出来得る限り最上のものと信じて居たのである。そして彼等はさういふ信仰を持つて居たが故に、大いにそれを忍び得たのである。宗敎に依つてのみ、人々はかくの如き規律を受け、なほ且つ去勢者、臆病者に墮する事なくして居られ得たのである、日本人は未だ曾て去勢者臆病者には墮ちなかつた。克己服從を强いた所の傳統は、また勇氣を養ひ快活ならん事を强いたのであつた。統治者の權力は無制限であつた。それはすべての死者の權力が統治者を支持して居たからである。ハアバアト・スペンサアは言つて居る『法律はその成文なると、不成文なるとを問はず、生ける者の上に於ける死者の統治を公式を以て示したものである。過去の時代がその性質を後に傳ヘ――身體上にも道德上にも――かくて現代の上に有して居るその力に加へて――また過去の時代が、習慣や、生活の樣式を後に傳へて以て現代の上に及ぼすその力に加へて――なほ一つの力がある。それは過去の時代が、口傳に依り或は文書に依つて殘されたる、公共の行爲に對するその規定に依つて働きを爲す力である……。余はこれ等の眞實を力說する』と――なほ又スペンサアは恁う附加して言つて居る、――『それ等が默々の內に祖先禮拜を包含して居る事を示すために』と。人文の歷史中の他の法律にして、舊日本の法律以上に、スペンサアのこの說の眞なる事を示すものはあるまい。日本の法律は尤も明らかに『生ける者の上に及ぼす死者の支配を公式に示したものである』而して死者の手は重かつた。それは今日なほ生けるものの上に重くかかつて居る。
 

大和本草卷之八 草之四 海藻類 始動 / 海帶 (アラメ)

大和本草卷之八 草之四

   海藻類

海帶 本草載之出登州圖經云似海藻而粗且長

 登人取乾之柔靱可以繫束物醫家用之下水速

 於海藻昆布之類○今按海帶ハ海中ノ石ニ附テ生

 ス黑ク乄タテ皺アリ性冷利ナリ虛人食スレハ泄利ス袪

 瘀血消腫毒治痔疾壯實人食之無害虛冷人勿

 食煮ルニ醋ヲ加フレハヨクニユル○アラメヲ煮テ雨水ヲソヽケ

 ハ大蛭トナル順和名抄曰滑海藻和名阿良女○俗ニ

 是ヲ竿頭ニ多ツケテ火ヲケス帚トス

 

○やぶちゃんの書き下し文

「大和本草」卷之八「草之四」

   海藻類

海帶(アラメ) 「本草」も之れを載す。「登州圖經」に出でて云はく、『海藻に似て、粗くして、且つ、長し。登人、取りて之れを乾(ほ)し、柔靱〔(じうじん)〕にして、以つて、物を繫束すべし。醫家、之れを用ひ、水を下すこと、海藻より速かなり。昆布の類。

○今、按ずるに、海帶は海中の石に附きて生ず。黑くして、たて皺(しは)あり。性〔(しやう)〕、冷利なり。虛人、食すれば、泄利す。瘀血〔(おけつ)〕を袪〔(さ)〕り、腫毒を消す。痔疾を治し、壯實の人、之れを食ひて、害、無し。虛冷の人、食ふ勿れ。煮るに、醋〔(す)〕を加ふれば、よくにゆる。

○「アラメ」を煮て雨水〔(あまみづ)〕をそそげば、大蛭〔(おほひる)〕となる。

 順が「和名抄」に曰はく、『滑海藻。和名「阿良女」』〔と〕。

○俗に是れを竿の頭に多くつて、火をけす帚〔(ははき)〕とす。

[やぶちゃん注:不等毛植物門 Heterokontophyta 褐藻綱コンブ目レッソニア科 Lessoniaceae アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis。付着部から葉状体頂点までの全長は一メートルから一・五メートル、時に二メートルにも達する。以下はまず、ウィキの「アラメ」から引いておく。『二股に分かれた茎部の先に』、『はたきのような側葉を持つ(種小名も「二輪の」という意味である)』。水深二~三メートルの『岩礁上に密な群落(海中林)を形成する。アワビなどの貝類を含む無脊椎動物や魚類の生育場所や餌として重要な位置を占める海藻である』。『古くは大宝律令や正倉院の文書にも登場し、現在でも薬品原料、肥料、食料品などとして用いられている。日本では主に本州太平洋沿岸北中部に分布する。アラメの名は、ワカメ(若布)』(コンブ目チガイソ科ワカメ属ワカメUndaria pinnatifida)に対して、『肉が厚く』、『荒い感じがするところからつけられた』。『同じレッソニア科のカジメ』(カジメ属カジメ Ecklonia cava)『に似るが、アラメは茎部が枝分かれする(カジメは分岐しない)点、及び側葉の表面が波打つ点などが異なる』。『海水につけて渋を抜き、茹でてから乾燥させる。使用時はしばらく水につけてふやかし』、『味噌汁に入れたり』、『佃煮にするなどして食用にする』。大変、美味い! 私の愛読書である(私は極度の海藻フリークでもある)田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊。この図鑑は写真(かの優れた海洋写真家中村庸夫氏!)も優れており、何より凄いのは総ての学名(種小名は総て!)の由来が記されてある点である)によれば、分布は太平洋沿岸北中部の潮下帯(低潮線画下から水深五メートル附近まで。大きな群落は水深二~三メートル附近に出来る)に植生し、同属は本邦では二種が知られる(いつも学名確認でお世話になっているBISMaLBiological Information System for Marine Life)で調べてみたところ、サガラメ Eisenia arborea であった)。『四~五年生』で、コンブ類同様、『アルギン酸』(多糖類。乳化安定剤として食品・医薬・化粧品等、用途が広い)『を精製する原藻や肥料として利用されることが多い』とある(無論、食用の記載もある)。但し、益軒のアラメ認識には混乱が見られる、というより、現在でも漁業関係者や一般人もアラメでない複数のものを含めて、十把一絡げに「アラメ」と呼んでいる実態があるので、注意が必要である。それについては、後の大和本草卷之八 草之四 カヂメ(カジメ(但し、アラメ・クロメ・サガラメ・ツルアラメも同定候補に含む)の私の注を必ず参照されたい。

『「本草」も之れを載す』巻十九の「草之八 水草類」の「海帶」であるが、非常に短い。

   *

海帶【宋嘉祐】

集解禹錫曰海帶出東海水中石上似海藻而粗柔靭而長今登州人乾之以束器物醫家用以下水勝於海藻昆布

氣味鹹寒無毒主治催生治婦人病及療風下水【嘉祐】

水病癭瘤功同海藻【時珍】

   *

「登州圖經」「登州」は「としゅう」或いは「としゅう」で、山東半島北側にあった港湾都市のこと。現在の山東省煙台市蓬莱市登州附近。ここ(グーグル・マップ・データ))。「圖經」は「ずけい」で、中国全土のに及ぶ地理書を「総志」と呼ぶのに対し、後漢以降に簡単な地図等を伴った限定された郡や国の地方地誌を「図経」と称したから、これは山東半島の登州の地誌である。

「登人」言わずもがなであるが、登州の土地の人。

「柔靱〔(じうじん)〕」しなやかであると同時に、しかも強くて折れないことを指す。

「繫束すべし」繩のように用いて物に繫いだり、縛ったりすることが出来る。

「水を下すこと」漢方で悪しき体内物質を含んだ汚水を下瀉させることか。所謂、デトックス(detox)作用(体内に滞留した毒物や不要物を排出させる作用)であろう。

「昆布」褐藻綱 Phaeophyceaeコンブ目 Laminariales に属する広汎な海藻類。なお、「コンブ」という和名種は存在しない。例えば「真昆布」なら、コンブ科 Laminariaceaeカラフトコンブ属マコンブ Saccharina japonica である。

「冷利」漢方の五性の「寒(=「冷」)性の作用(=「利」)」の言い換えであろう。「寒性」は体温を速やかに有意に下げ、消炎作用を有する性質で、代表的食材として昆布が挙げられるからである。

「虛人」漢方で明白に「虚証」を示している人或いは病人。慢性的に虚弱で体力がない体質の人や、疾患によって機能が低下したり、生理的物質が有意に不足した、ある種、病的状態にある人を指す。

「泄利」下痢。

「瘀血〔(おけつ)〕」鬱血や血行障害などの血の流れの滞り、或いはそれによって引き起こされる症状や疾病を指す。

「袪〔(さ)〕り」「去り」。「袪」は「取り除く」の意。

「腫毒」諸毒を原因とした腫れ物。化膿性皮膚疾患で、重い腫瘍などは指さないのが普通。

「壯實の人」健康な人。

「虛冷の人」先に示したように、虚弱体質、或いは、体温が有意に低下するような疾患に罹っている人、或いは、消化器系疾患等によって衰弱している人。

『「アラメ」を煮て雨水〔(あまみづ)〕をそそげば、大蛭〔(おほひる)〕となる』益軒もこんな阿呆臭い化生説を信じていたんだなあ!

「滑海藻」「まなかし」と読み、「延喜式」に既に「あらめ」の異名として出るとするもの。しかし文字列を見るに、恐らくは非常に古くは、広汎な海藻類を指す語であったものと私は思う。

「俗に是れを竿の頭に多くつて、火をけす帚〔(ははき)〕とす」「帚」は箒(ほうき)に同じ。納得!]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 ハナシマタイ

 

ハナシマタイ

 

Hanasimadai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。本図の魚体の高さは巻子の縦幅の三分の一ほどしかなく、貼り交ぜ帖のように、上部貼り付けで、中間は貼り付け台紙の地(本図左上部の紙の欠損で出ているのがそれ)が現われてしまっている。則ち、前の二種のような大きさでは描かれていない。

 さて。困った。まず、「ハナシマタイ」(ハナシマダイ)という和名の魚はいない。「花縞鯛」か? しかし何となく、見たことがあるような、釣ったことがあるような魚だが、にも拘わらず、ピンとくるものがいないのだ。それでも、釣ったことがあるという微かな認識を私は一番大事にしたい気はした。その観点から見てみると、背鰭・尻鰭・尾鰭(やや赤い色を帯びている)の形状と体側の鱗が細かくて滑らかな感じ、さらに上部と腹部辺りの紅色の斑点、さらに一番気になるのは頭部の複雑な形状である。黒い枝状のそれや眼下の部分は立体的な内部構造の表出したもののように見えるが、しかし、これらは実は複雑な模様なのではないかと推定できるよう思われる。そして「ふん!」とした特徴的な尖った口吻である。これらから、私は、

条鰭綱スズキ目ベラ亜目ベラ科 Labridae の広義のベラの仲間

であろうと思った。因みに、私は中・高校生の頃、住んでいた富山県で、よく、華やかな色彩は婦人然としつつ、どことなく冷たいツンとした面つきの、ベラ科カンムリベラ亜科キュウセン属キュウセン Parajulis poecilopterus を釣り上げたものだった(関東では好まれないが派手な色の割には結構、美味い魚である)。本図は色彩から本種ではないが、その記憶が蘇って、魚体は私はかなり近いように思ったのであった。もっと限定したいところだが、これでやめておく。ベラ科は世界で四亜科六十属五百種ほどがおり、本邦でも四亜科百二十六種が知られている。所持する、ある魚類図鑑(本邦産種中心だが、南方性の外国産の魚も一部に含む)は全体の九分の一がベラ科であり、同一種でも色彩や縞や紋に変異が多いから、とても私の手には負えぬからであり、また、あまり言いたくないが、冒頭注で示した磯野直秀先生の解題にもある通り、丹州は他の図からの転写が思った以上に多く、本巻子本魚譜の有意な数の図が他の人物が描いた魚図の転写であることが判っており、特に転写の場合、有意に正確でないからである。則ち、ここに描かれた実際の魚の実体は或いは意想外に異なるものであるかも知れぬからである。そこで翻って、聴いたことがない「ハナシマダイ」だ。――「花」(華やかな)「縞」(模様を持った)「鯛」のような魚――これはベラやキュウセンに私は相応しいとも思うのである。]

山口達也君へ

山口達也君――

僕は君が好きだ。「一家に一人、こんな頼もしい男が欲しいもんだ。」と思ってきたのだ。

自分を改めて見直して、頑張れ!

君にはやらねばならないことがあるじゃないか。

自分で宣言した「DASH村」の再開と再建だ。

その時は、老耄ながら、僕も手伝うよ!

画像検索の悲哀

最近、時々、やや失望に似た何とも言えぬ妙な気持ちになることがある。

例えば、今、栗本丹洲の「魚譜」の種同定の困難さに呆然としているところなのだが、そこでいろいろなワードやフレーズで画像検索かけては、藁にも縋る思いで手掛かりを求めることになるわけだが、例えば、グーグル画像検索で「栗本 魚譜 ベラ」というフレーズを入れて展開すると――
 
そこに出る内の100枚以上の画像は――
 
……実は私がアップした記事の画像なのである。ページ単位検索だから、中には私が描いた「こゝろ」の「先生」の下宿の推定見取り図まで見せられるのだ。
 
「そんなお目出度いことをやっている奴は、そうそういないぜ。」
 
と暗に嘲笑されているようにも思えてくる、というわけでもないが、呆然は確実に二乗になるのであった……


「私は最後に先生に向つて、何處かで先生を見たやうに思ふけれども、何うしても思ひ出せないと云つた。若い私は其時暗に相手も私と同じ樣な感じを有つてゐはしまいかと疑つた。さうして腹の中で先生の返事を豫期してかゝつた。所が先生はしばらく沈吟したあとで、「何うも君の顏には見覺がありませんね。人違ひぢやないですか」と云つたので私は變に一種の失望を感じた。」(夏目漱石「こゝろ」より)

2018/05/05

大和本草卷之十四 水蟲 介類 津蟹(モクズガニ) / 大和本草卷之十四 水蟲 介類 ~了

 

【和品】

津蟹 山中ノ石川ニ多シ大サガザメノ如シ黑褐色ナリ

 足ニ毛多シ八月川上ヨリ下ニクタル山中ノ人笱ヲ流水

 ニツケ兩方ヲセキトヾム一夜ノ内ニ一笱ニ多ク入ル山人煮

 食ス又肉ヲアツメツキクダキ布袋ニ入汁ヲシホリ出シ肉

 餻トシ煮テ食シ炙リクラフ事カマボコウケイリト云法

 製ノ如ニス微毒アリ病人不可食平原ノ末流ニハ無之

 金瘡筋斷タルヲツグニツガニノ殻ニ黃肉ツケルヲ取テ土

 器ニ入陰乾ニシ爲細末乳汁ニ和シ疵ノ側ニ付ヘシ疵ヲ洗

 フゴトニツクヘシ○或曰此蟹河下ヨリ上ラス山中ノ谷水ニ

 生乄秋ハ下流ニ下ル鰷ノ如ク春ハ河下ヨリ上ラス

 

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「津蟹(ツガニ)」 山中の石〔ある〕川に多し。大いさ、「ガザメ」のごとし。黑褐色なり。足に、毛、多し。八月、川上より下にくだる。山中の人、「笱(うけ)」を流水につけ、兩方を、せきとどむ。一夜の内に、一笱〔(ひとうけ)〕に多く入る。山人、煮て食す。又、肉をあつめ、つきくだき、布袋〔(ぬのぶくろ)〕に入れ、汁をしぼり出し、肉の餻〔(もち)〕とし、煮て食し、炙りくらふ事、「かまぼこうけいり」と云ひ、法製のごとくにす。微毒あり。病人、食ふべからず。平原の末流〔(すゑなが)れ〕には之れ、無し。金瘡〔(かなそう)〕、筋(すぢ)を斷〔(た)〕ちたるをつぐに、「ツガニ」の殻に黃肉つけるを取りて、土器〔(かはらけ)〕に入れ、陰乾〔(かげぼし)〕にし、細末と爲〔(な)〕し、乳汁に和し、疵の側〔(そば)〕に付くべし。疵を洗ふごとに、つくべし。

○或〔(あるひと)〕の曰はく、「此の蟹、河下より上〔(のぼ)〕らず。山中の谷水に生じて、秋は下流に下る。鰷〔(ハヤ)〕のごとく、春は河下より上らず」〔と〕。

[やぶちゃん注:以上を以って「大和本草」(最後の頁には『大倭本草』と表記している)の「卷之十四」は終わっている。

 本種も「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蟹(カニ類総論)」に既出既注の、

短尾下目イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica

である。ここでも特異的に料理法が詳しく書かれるほどに美味い(上海ガニ=チュウゴクモクズガニ Eriocheir sinensis は同属のごく近縁種)のであるが、リンク先でも述べた通り、肺吸虫(扁形動物門吸虫綱二生亜綱斜睾吸虫目住胞吸虫亜目住胞吸虫上科肺吸虫科Paragonimus 属ウェステルマンハイキュウParagonimus westermani・ベルツハイキュウチュウ Paragonimus pulmonalis:後者を前者の三倍体群として同種と見做す立場もあるが、採らない)がいるため、生食或いは十分に火や熱を通さない調理法はかなり危険である。本記載の「微毒あり」はそうした寄生虫症の可能性を経験から古人が知っていたのかも知れない。詳しくは私の「谷の響 二の卷 五 蟹羽を生ず」の「澤蟹」の注を参照されたいが、しかし、ここに書かれた「かまぼこうけいり」(「蒲鉾受け煎り」?)はその処理と調理方法から見ると、肺吸虫への感染リスクは意想外にかなり低いように思われるウィキの「生活史」の部分を以下に引いておく。『秋になると』、『成体は雌雄とも川を下り、河川の感潮域の下流部から海岸域にかけての潮間』帯から潮下帯で『交尾を行う。雄は海岸を放浪する習性が強く、交尾相手の雌を探して数』キロメートル『以上移動することも可能である。しかし』、『雄は繁殖可能な雌を識別することはできず、視覚でのみ相手を確認して求愛行動もなく接近し、雌に抱きつき』、強引に『交尾を挑む。相手をよく確認できないため場合によっては未成体の雌や雄、他種に抱きつくことさえある』。鉗脚の『毛は配偶行動において使われるという説があるが、モクズガニの交尾のプロセスを見る限り』、『全く関係が認められない。カニの中にはワタリガニ類など』で、『雌が脱皮直後の外骨格の軟らかい状態でのみ交尾をする種類がいるが、モクズガニの雌は外骨格が硬い状態で交尾をする。しかし』、『雌は産卵可能な程度に卵巣が発達していないと交尾を受け入れない。海域に出現する雌は必ずしも卵巣が発達していないため、雄を拒絶し、拒絶された雄が諦めて離れるのがしばしば観察される。放卵中の雌も雄を拒絶し、孵化させた後は次の産卵の直前でないと交尾を受け入れない。雌が雄を受け入れた場合は、数十分程』、『交尾が続く。交尾を解いたあと、雄は雌を抱きかかえ』、『他の雄に奪われないよう』、『交尾後ガードを行う。通常ガードは』一『日以内で終わる。大きな』鉗脚を『持った大きな雄ほど配偶成功率は高く、他のペアから雌を奪い交尾することや、ガード中に他の雄を追い払いながら雌をしっかりと捕まえておくことができる』。『雌は交尾後直径』〇・三~〇・四ミリメートル『程度の卵を産卵して腹肢に抱え、孵化するまで保護する。生涯産卵数は雌のサイズに応じて』二十万個から百万個の『幅がある。このような産卵生態は、海産の他のイワガニ類同様の小卵多産の傾向であり、海域へ多数の幼生を放出し分布域を拡大させる繁殖戦略であるといえる。胚発生に要する期間(抱される期間)は、水温に応じて』二『週間から』二『ヶ月以上の幅がある』。『孵化したゾエア幼生は』〇・四ミリメートル『たらずで、遊泳能力の乏しいプランクトン生活を送るが、この時期は魚などに多くが捕食され、生き残るのはごくわずかである。しかし』、『一方で』、『この時期の幼生は、浮力を調節したり』、『垂直方向に移動することで潮流に乗り、広く海域を分散すると考えられる。そのため』、『各河川に分布する個体群はそれぞれが孤立しているわけではなく、海域の幼生を通じてつながっているメタ個体群構造を成していると考えられる。それを裏付けるように、日本列島内では南西諸島を除くと』、『遺伝子レベルの差異が非常に小さく、実際に河川どうしの交流が盛んであることが明らかになっている』。『ゾエア幼生は』十『月や』六『月の水温の高い時期は』二『週間程度、冬の』十二月から二月にかけては、二~三ヶ月で五回の『脱皮をし、エビに似た形と遊泳法(腹肢による積極的な遊泳)を持つメガロパ幼生へと変態する。一般に完全に淡水適応したカニ類では幼生期間の欠落や短縮がみられるが(たとえばサワガニ類』『など)、モクズガニのゾエア』五『期、メガロパ』一『期という脱皮齢数は、他の海産のイワガニ類と比べても短いわけではなく、同様に浮遊幼生の期間を過ごしているということができる』。『遊泳能力の増したメガロパ幼生は、大潮の夜満潮時に潮に乗り、一気に海域から河川感潮域へ遡上する。メガロパ幼生は淡水に対する順応性が備わっており、満潮時以外』、『ほとんど淡水の流れる河川感潮域の上部に着底する。また』、『メガロパ幼生は流れに対し』、『正の走性があるため、瀬や魚道の直下に集中して着底する傾向がある』。『メガロパ幼生は』十『日前後で甲幅』二ミリメートル『程度の』一『齢稚ガニに変態する。着底時期は秋』(十月~十二月)『および晩春から初夏』(五月~六月)の二つの『ピークがある』。『稚ガニは変態後しばらく成長したのち、甲幅』五ミリメートル『程度になると』、『上流の淡水域へ遡上分散を開始し、おもに甲幅』一センチメートル『台の未成体が』、『成長しながら』、『かなり上流まで分布域を拡げる。このサイズの未成体は歩脚の長さが相対的に長く、移動するのに適した形態を持っており、垂直な壁もよじ登ることができる。そのため』、『遡上の障害になる河川に作られた横断工作物(堰など)も、ある程度の高さまではたやすく越える事ができ、魚道の護岸壁を水面から上がった状態で移動している個体も各地で目撃されている。いくつかの河川の魚道では、このようなカニが移動しやすいように、漁協や河川工事事務所により』、『麻などでできた太い綱が水面近くに垂らされている。また』、『この分散中の未成体は淡水魚に捕食される可能性が高く、ニゴイでは胃袋を大量のカニで満たしたものも確認されている。未成体は河川で成長し、冬季の低水温期を除き脱皮を続ける。変態後』一『年で甲幅』一センチメートル台、二年で二センチメートル『台に達し、多くは変態から』二~三『年経過したのち』、『夏から秋に成体になる』。『成体は』、『おもにその年の秋から冬にかけて川を下るが、地域によっては』、『春になってから下るものがいる。雨が降り』、『増水した時にカニの動きが活発になるので、下る個体が多い。堰のある川では、秋になると』、『しばしば川を下る成体が堰の直下の護岸壁にへばりついているのが観察される。しかし』、『滝や堰を下るカニには水に流されて落下するものも多く、落差の大きな堰やダム、堰の直下にコンクリート製のたたきがある川では、叩きつけられて死んでいるカニがみつかることもある。また』、『川を下る行動のピークは』十一『月頃であるが、感潮域ではこの頃になると、環境の変化に耐えられず』、『繁殖に参加する前に死んだと思われる成体の死骸が多数みられるようになる。また』、『この頃』、『陸上を移動する個体が観察されることもある』。『河口域から海域では』九『月から翌年』六『月にかけてのほぼ』十『ヶ月、繁殖に参加する成体が観察される。雌は』四~五『ヶ月の間に』三『回の産卵を行い、回を経るごとに産卵数は減少する。繁殖期の終わりになると雌雄とも疲弊してすべて死滅し、河口付近の海域では多数の死体が打ち上げられる。死骸はウミネコなど海鳥にとっては』、『よい餌となる。一度川をくだり』、『繁殖に参加すると、雌雄とも脱皮成長することなく』、『繁殖期の終わりには死亡するため、二度と』、『川に戻ることはない。寿命は産卵から数えると、多くは』三『年から』五『年程度と考えられ』ている。『これまで、モクズガニは祖先が海域から河川へと分布を拡げ、淡水環境での成長という形質を獲得したものの、歴史が浅く』、『サワガニ類のような完全な淡水環境での繁殖能力を獲得できていない、「まだ進化の途上にある種」とみなされることも多かった。しかし繁殖戦略や幼生の発生と分散から明らかなように、実際にはそうではなく、河川淡水域での成長と海域での繁殖による分布域拡大という、両方向の環境への適応を活用している種であるということができる』とある。この記載、非常に優れたもので、いたく感服した。

「ガザメ」短尾下目ワタリガニ科 Portunidae のガザミ属ガザミ Portunus trituberculatus。先行する「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蝦魁(ガザミ)」を参照。しかし、甲羅の左右が有意に異なり、全く似ていない

「笱(うけ)」竹で編んだ、魚を捕まえるための靫(うつぼ)形(縦長のとっくりのような形)の籃で、魚が中の餌につられて入ると、出られなくなる仕掛けになっている。

「兩方を、せきとどむ」笱を置いた位置から少し離れた上下の川底を堰き止めて、笱の周囲の流れを緩やかにし、餌の匂いが滞留するようにしているように私には思われる。

「又、肉をあつめ、つきくだき、布袋〔(ぬのぶくろ)〕に入れ、汁をしぼり出し」「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蟹(カニ類総論)」で書いた、私が飲んでみたい超危険なズガニ汁は、この汁なんである!

「肉の餻〔(もち)〕」肉団子。殻も入っているから、成形はそれほど大変ではない気がする。

「法製のごとくにす」これはその一連の「法製」(製法)は以上「のごとくにす」るのであるという、ややダメ押しの感のある結語である。

「金瘡〔(かなそう)〕」刀や包丁などの金属製の刃物による切り傷。しかし、以下の「筋(すぢ)を斷〔(た)〕ちたるをつぐ」という謂いと、本種の「ツガニ」(漢字表記は「津蟹」で棲息域から腑に落ちるのだが)という呼称を見ていると、これは実際に効能があるというより、傷や断裂した筋(すじ)を「つぐ(接ぐ)」と、名の「つがに(接(つ)ぐ蟹)」という掛詞的(フレーザーの類感呪術的)呪(まじな)いレベルの民間療法のような気がして仕方がないのであるが。或いは、蟹味噌の黄色い脂が「金瘡」の「金」を連想させるからかも知れん(それでも同前である)。如何なもんであろう? 本当に効果、あるのかしらん?

「土器〔(かはらけ)〕」完全に私の趣味の当て訓。

「此の蟹、河下より上〔(のぼ)〕らず。山中の谷水に生じて、秋は下流に下る」私がウィキを長々引いたのは、このある人の観察が、実は非常に正しいことに驚いたからである。

「鰷〔(ハヤ)〕」複数の種の川魚を指す。ハヤ(「鮠」「鯈」などが漢字表記では一般的)は本邦産のコイ科(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科 Cyprinida)の淡水魚の中でも、中型で細長い体型を持つ種群の総称通称である。釣り用語や各地での方言呼称に見られ、「ハエ」「ハヨ」などとも呼ばれる。呼称は動きが速いことに由来するともされ、主な種としては、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

コイ科 Oxygastrinae亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

などが挙げられる。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 鬼蟹(ヘイケガニ属他)

 

【外】

鬼蟹 蟹譜曰背殻若鬼狀者眉目口鼻分布明白

 常寶翫之○本邦ニモ有之人ノ口鼻耳目ノ形ソナハレ

 リ異物ナリ和俗稱スル名諸州ニテカハル攝州ニテシマム

 ラカニ又武文ガニト云豐前長門ニテ。キヨツネガニ平家ガ

 ニト云皆一物ナリ一説武文蟹ハ鱟魚也ト云未知何是

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

「鬼蟹〔(きがに)〕」 「蟹譜〔(けいふ)〕」に曰はく、『背の殻、鬼の狀〔(かたち)〕のごとき者。眉・目・口・鼻、分布、明白なり。常に寶として之れを翫〔(もてあそ)〕ぶ』〔と〕。

○本邦にも、之れ、有り。人の口・鼻・耳・目の形、そなはれり。異物なり。和俗、稱する名、諸州にて、かはる。攝州にて「シマムラガニ」、又、「武文(〔タケ〕ブン)ガニ」と云ひ、豐前・長門にて、「キヨツネガニ」・「平家ガニ」と云ふ。皆、一〔つの〕物なり。一説〔に〕、「武文蟹」は「鱟魚〔(カブトガニ)〕」なりと云ふ。未だ何〔(いづ)〕れか是(ぜ)なるを知らず。

[やぶちゃん注:大和本草卷之十四 水蟲 介類 蟹(カニ類総論)に既出既注の、

短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ属 Heikeopsisに属する鬼面様の背甲を持つカニ

の総称。一般に知られている種としては

ヘイケガニ Heikeopsis japonica

であるがこれは謂わずもがな、単に内臓の形状が殻上に現われ、それがたまたま、人面のシミュラクラを起しただけで、実は、同じように人の顔に見えるカニ類は本ヘイケガニ科 Dorippidae 以外でもかなり見られる。詳しくはそこでもリンクした、私の「生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 四 忍びの術(3)」の詳しい注を、是非、参照されたい。

「蟹譜」前注冒頭のリンク先で既出既注であるが、再掲しておくと、宋の蟹フリークであったらしい傅肱(ふこう)の著した蟹の博物学書。全二巻。古文献まで溯って蟹で渉猟した一種の「蟹の民俗学」である。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで全篇が読める。

「シマムラガニ」は戦国武将島村貴則(?~享禄四(一五三一)年)に、「武文(〔タケ〕ブン)ガニ」は後醍醐天皇の皇子尊良(たかなが)親王(延慶三(一三一〇)年?~延元二/建武四(一三三七)年)の妻を守って入水したとされる忠臣秦武文(はたのたけぶん)に、「キヨツネガニ」はナーバスになって入水自殺した平家一門の武将で笛の名手であった平清経(長寛元(一一六三)年~寿永二(一一八三)年四月四日)にそれぞれ因んだ名である。それぞれの人物の事蹟については、私の毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)の詳細注を参照されたい

「鱟魚〔(カブトガニ)〕」節足動物門鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属カブトガニTachypleus tridentatus。先行する大和本草卷之十四 水蟲 介類 鱟 附「大和本草諸品圖」の「鱟」の図 参考「本草綱目」及び「三才圖會」の「鱟」の図 一挙掲載!を参照されたい。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 寄居蟲(カミナ/ヤドカリ)

 

寄居蟲 順和名加美奈王世懋閩疏曰寄居有

 四足兩螯又似蟹類本草綱目ニノセタリ海邊斥地

 ニ多シ小螺ノカラニ入テ寄居ス故ニ俗ニヤドカリト云首

 ハ蜘蛛ニ似テ身ハ蝦ノ如シカラヲ負テユク海人多クヒロヒ

 テ一所ニ集メ泥水ヲニコラセハ殻ヲ出ツ是ヲ取集メテシ

 ホカラニス又異邦ヨリ來ル大なるあり其殻バイノ如シ或

 曰山間ニアリ海潮ノ通スル處ニナシト云ハ非ナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

「寄居蟲(ガウナ《右ルビ》/カミナ《左ルビ》」 順が「和名」に、『加美奈(かみな)』。王世懋〔(わうせいぼう)〕が「閩疏〔(びんそ)〕」に曰はく、『寄居、四足、有り。兩の螯〔(はさみ)〕、又、蟹類に似る』〔と〕。「本草綱目」に、のせたり。海邊・斥地に多し。小螺〔(せうら)〕のからに入りて寄居〔(ききよ)〕す。故に俗に「ヤドカリ」と云ふ。首は蜘蛛に似て、身は蝦(えび)の如し。からを負ひてゆく。海人、多くひろひて、一所に集め、泥水をにごらせば、殻を出づ。是れを取り集めて「しほから」にす。又、異邦より來たる大なる、あり。其の殻、「バイ」のごとし。或〔(あるひと)〕の曰はく、『山間にあり、海潮〔(うみしほ)〕の通ずる處に〔は〕なし』と云ふは、非なり。

[やぶちゃん注:甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目 Pleocyemata まではカニと同じであるが、以下で異尾(ヤドカリ)下目Anomura に分かれ、そのヤドカリ上科 Paguroidea に含まれる種群が、ここで語っている所謂、我々が「ヤドカリ」と呼称しているものである(但し、カニ類との類縁性は近く、「Meiura」と称する単一の系統群に入れられる。しかし、これは亜目と下目の間にあるタクソンで分類上の階層としては設けられていない)。ウィキの「ヤドカリを引いておくと、『体は頭胸部と腹部に分かれる。胸脚の第一対は太く発達した』鉗脚だが、『多くの場合左右不対称で、大きい方の鋏は、体を殻に引っ込めた時に入り口に蓋をするのに使われる。歩脚として使われるのは』第二対及び第三対の二対『であり、残りの』第四脚と第五脚(胸脚)は短くなってしまって、単に『貝殻を保持するために使われる』(益軒の言う「四足」の意味がこれでお判り戴けるはずである)。『腹部は長く柔らかい袋状で、巻き貝の殻に合わせて螺旋状となる。腹部の関節は不明瞭で、付属肢は左側だけが残り、右側は退化している。尾脚は鉤状で、貝殻内部に体を止める役割を担うが、種類によっては欠くものもいる』とある。

 なお、言っておくと、この異尾(ヤドカリ)下目には、一応、巨大な殼なしヤドカリには見える、かの陸棲節足動物中の最大種でもある、

「ヤシガニ」(ヤドカリ上科オカヤドカリ科ヤシガニ属ヤシガニ Birgus latro 

の他にも、今も蟹だと誤認している人が多い、

「タラバガニ」(ヤドカリ上科タラバガニ科タラバガニ属タラバガニ Paralithodes camtschaticus 

や、海浜でよく見かけ、素人には蟹にしか見えない、

「カニダマシ」(ガラテア上科 Galatheoidea カニダマシ科 Porcellanidae

とか、やはり砂浜でよく目にする、名に「カニ」を持つ卵形の小型種、

「スナホリガニ」(スナホリガニ上科スナホリガニ科スナホリガニ属 Hippa marmorata 

及び、エビ(というよりザリガニ)によく似た(本邦種は総て海産)、

「コシオリエビ」(コシオリエビ上科 Galatheoidea

などが含まれる。

「ガウナ」「カミナ」本書の作者貝原益軒著になる語源辞書「日本釈名」(全三巻・元禄一二(一六九九)年成立・翌年刊)の「介(かい)の類 十四」の冒頭に出る「寄居蟲(カミナ)」には、

   *

「かにみな」也。其の形、「かに」の如くにして、「みな」のからの内にやどる物也。又、「借(かる)」也。「みな」のからを「かり」て、やどるもの也。俗に、「がうな」共(とも)、「やどかり」共云ふ。

   *

とあり、益軒は「かに」と腹足類(巻貝)を表わす古名「みな」を合字を略したもの、また「借(か)りみな」の略としたものとしている。「言海」もこれを採り、小学館の「日本国語大辞典」もその説を挙げ(というか、他を挙げていない)。孰れも「がうな(ごうな)」の方は「かみな」の転訛と断定している。思うに、孰れもその濫觴は益軒の以上の説のようにしか見えない。

『王世懋〔(わうせいぼう)〕が「閩疏〔(びんそ)〕」』明の政治家王世懋(一五三六年~一五八八年)の著になる「閩部疏」。「閩」は福建省を指し、その地誌と読め、原文では中國哲學書電子化計劃にあのだが、こんな「寄居有四足兩螯又似蟹類」という文字列はそこには出て来ない。他の中文サイトの同書の電子テクストでも見たが、やはり、ない。ところが、一連ではないものの、酷似する文字列が清の胡世安の撰になる「異魚圖贊補 卷下」のヤドカリのパート(「寄居」)に出現するのを発見した(引用は「維基文庫」の「自由的圖書館。下線太字やぶちゃん)。

   *

寄居名蠣奴居蚌腹按孫愐云寄居在[やぶちゃん注:ここに欠損有り。]殻中者名曰則寄居亦非一種 王敬美閩部疏前人於海味最重鱆魚及寄生鱆魚卽浙之望潮也形雖不雅而味美於烏賊寄生最竒海上枯嬴殻存者寄生其中戴之而行形味似蝦細視之有四足兩螯又似蟹類得之者不煩剔取曵之即出以肉不附也炒食之味亦脆美天地何所不有

   *

益軒のそれはこれが元か?

「斥地」干潟。

「海人、多くひろひて一所に集め、泥水をにごらせば、殻を出づ」こんなことをしても、ヤドカリは貝殻から抜け出ない。不審。以前に見た観察実見映像では、水中で、手強い大型の同類が目星をつけて、一定で鉗脚で以って「コツコツ」と殻を叩き、それが暫く続くと、叩かれた方のヤドカリが今いる殻を放棄する行動を見たことはあるが、それも人間がやったのではうまく行かない(私は実際に何度かやってみたのだが、全くだめであった)。

『是れを取り集めて「しほから」にす』これは前に書いたシオマネキの肥大鋏の塩辛「がん漬け」から連想すれば、かなり美味いであろうと想像される。巻貝に混じって一緒に茹でられてしまったものを何度か食したことはあるが、それなりに美味かった。

『異邦より來たる大なる、あり。其の殻、「バイ」のごとし』このバイは大きい必要があるから、腹足綱前鰓亜綱新生腹足目新腹足亜目エゾバイ科エゾバイ属エッチュウバイ(シロバイ)Buccinum striatissimum を指しているように思われる。現在、日本海で漁獲される「ばい貝」の大型のものは概ね、本種である。但し、「バイ」は広義の「巻貝」の意でも現在よく用いられるから、これで「大型の巻貝」という意味で採ってもよいと思われる。本邦の「大きなヤドカリ」となれば、異尾下目ヤドカリ科オニヤドカリ属ホンドオニヤドカリ Aniculus miyakei であるが、これは実は中型種で殻長五センチメートルほどである。それでもサザエの殻を背負うくらいだから、大きいといえば、大きい。或いは「異邦」と言っているからにはオニヤドカリ属 Aniculus の大型種か。学名からだと、コガネオニヤドカリAniculus maximus は画像を見ても、弩級にデカく、ダイバーの記載を見ると、背負う貝殻は直径二十センチメートルもあるものばかりとするものもあった。但し、コガネオニヤドカリは本邦にもいる。

「山間にあり、海潮〔(うみしほ)〕の通ずる處に〔は〕なし」益軒先生のおっしゃる通り、これは誰かに騙された人の空事である。但し、殻を担わない同類のヤシガニならば(それをヤドカリの仲間だと正しく見破ったとすれば、かなりの観察者ではある。なお、ヤシガニは幼生期や稚ヤドカリ(実際に貝を背負う)の時のみ海水中に棲むが、陸上に上がると、水中生活出来る機能を総て失ってしまう)、『ほぼ陸上生活に適応しているため、海岸線から』六キロメートル『以上も離れたところで発見されたこともある』とウィキの「ヤシガニにはある。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 ホーマーもプラトーも如何ともする能わず

 

     ホーマーもプラトーも如何ともする能わず

 

 三十年後半から三十一年へかけて、居士の健康は此較的無事であった。「歌よみに与ふる書」を草し、「百中十首」の歌を作るあたりは、毎夜二時、三時頃まで起きており、時には徹夜もするというような勢で、遂に血痰を見るに至ったが、その後格別の事もなしに済んだのは、全く健康状態がよかったためであろう。三月十七日には好時に乗じて門を出で、人力車の郊外逍遥を試みた。足は相変らず立たぬから、単に乗るにも人の背を借らなければならず、車の上でも背骨が痛くて困ったが、一年ぶりの外出だけに居士は非常に愉快だったらしい。「太刀佩きていくさに行くと梅の花見てし年より病みし我かも」「車して戸田の川邊をたどりきと故郷人にことつげやらん」と詠んだのはこの時である。居士が梅の花を見たのも、二十八年従軍の春以来ということになるのであった。

[やぶちゃん注:「ホーマー」前八世紀後半頃のギリシャの盲目の吟遊詩人ホメロス(ラテン文字転写:Homēros)のこと。小アジア西岸地方に生まれとされ、ギリシャ各地を遍歴したと伝えられる。二大英雄叙事詩「イリアス」「オデュッセイア」の作者とされ、古来、最高の詩人と称されてきている。その二大詩は古代ギリシャの国民的叙事詩として、文学・教育・宗教・美術などに多大の影響を与えた。

「プラトー」古代ギリシャの哲学者でソクラテスの弟子であったプラトン(ラテン文字転写:Platōn 紀元前四二七年頃~紀元前三四七年)のこと。アテナイ郊外に学園(アカデメイア)を創設し、現象界とイデア界、感性と理性、霊魂と肉体とを区別する二元論的認識論に於いて、超越的なイデアを「真実在」とし、ヨーロッパ哲学に大きな影響を残した。彼の主張する「イデア」は、人間の理想であるところの、それぞれが学問・道徳・芸術が唯一の追求目標とすべき三つの価値、「真善美」の根拠を成すものであった。

「戸田の川邊」戸田川は荒川或いは荒川流域の古名。本河川本流は現在、埼玉県南部の戸田市の南(一部は貫流)を南東へと流れ、それを境として南が東京都になり、戸田の辺りは古く「戸田の渡し」で知られた。但し、子規が人力車で行ったのは距離(戸田の渡しは子規庵から北西へ十二キロはある)見て、四キロほど北上した、荒川と隅田川が並流する千住附近であったかと思われる。]

 

 「歌よみに与ふる書」に関する非難、質問に対しては、三月六日に先ず「あきまろに答ふ」の一文を掲げ、次いで「人々に答ふ」の題下に一括して『日本』に連載した。「人々に答ふ」の冒頭に「歌の事に就きては諸君より種々御注意御忠告を辱(かたじけの)うし御厚意奉謝(しやしたてまつり)候。猶又或る諸君よりは御嘲笑御罵詈を辱うし誠に冥加至極に奉存候。早速御禮旁々(かたがた)御挨拶可申上之處(まうしあぐべきのところ)、病氣にかゝり頃日來(けいじつらい)机離れて橫臥致居候ひしため延引致候。幾百年の間常に腐敗したる和歌の上にも特に腐敗の甚だしき時代あるが如く、吾等の如き常病人(じやうびやうにん)も特に病氣に罹る事有之(これあり)、閉口の外無之(これなく)候」とある「病氣」は、血痰を見ることを指すものと思われる。

[やぶちゃん注:「あきまろに答ふ」国立国会図書館デジタルコレクションの大正一一(一九二二)年アルス刊の正岡子規歌論集の画像のこちらで視認出来る。新字であるが、電子化したものなら、「青空文庫」のこちらで読める。

「人々に答ふ」国立国会図書館デジタルコレクションの上と同じ画像のこちらで視認出来る。新字であるが、電子化したものなら、「青空文庫」のこちらで読める。

「頃日」近頃。この頃。]

 

 「人々に答ふ」は飛び飛びではあったが、三月から五月にわたり、回を重ぬること十三に及んだ。居士の答は快刀乱麻を断つが如く、一として遅疑(ちぎ)するところがない。十回の「歌よみに与ふる書」の説いて尽さざるところを補って余(あまり)あるのみならず、その他の問題についても、問わるるに従って直(ただち)に解決を与えている。質疑というよりは論難に近いものが多いだけに、「俳句問答」などに比べると、居士の答も鋭くかつ強い。

[やぶちゃん注:「遅疑」疑い迷い、直ぐには決断しないこと。ぐずぐずと躊躇(ためら)っているさま。]

 

 或(ある)人は「古來、歌といひ來たるは子の作る所の如き者に非ず。されば子の作る所は一種特別の者なれば、歌といはずに何とか外の名を用ゐては如何」といった。居士はこれに答えて「面白き事を承る者かな。吾等は歌といふ語を拝借しても宜しからんとの考にて歌と言ひ來りたるも、それが惡しとならば如何にも名づけ給はるべし。俳詩歌となりと狂歌となりと味噌となりと糞となりと思ふやうに名づけられて苦しからず。吾等は名稱などに拘らざるなり。されど言葉の遊びを主とする『古今集』の俳諧歌と、趣味を重んずる吾等の作とは根柢に於て同じからざるを忘れたまふな。地ぐちシヤレを喜ぶ所謂狂歌と、地ぐちシヤレを擯斥(ひんせき)する吾等の作と立脚地を異にする事を忘れたまふな。それを承知の上でなら何とでも名づけ給はるべし」と一矢酬いている。

[やぶちゃん注:以上の引用は「人々に答ふ」の「其九」の冒頭部。先に指示した国立国会図書館デジタルコレクションで校合・校訂した。

「俳諧歌」和歌の一体で、滑稽味を帯びた和歌を指す。「古今和歌集」巻十九に「誹諧歌」として多数収録されて以来、以後の勅撰集にしばしば取り上げられた。

「地ぐち」(歴史的仮名遣は「ぢぐち」)は「地口」で、世間でよく使われる諺や成句などに、発音の似通った語句を当てて、作りかえる言語遊戯のこと。上方では「口合い」と称する。

「擯斥」排斥に同じい。]

 

 或人は「詩聖ホーマーの如きも單に美を愛せりとするか、美にして善なるものを愛せしにあらざるか」と搦手(からめて)から肉薄した。これは居士が前に普通の場合教訓的の者は文学の範囲外とし、「一般にいへば歌は倫理的善惡の外に立つ處に妙味はあるなり。俗世間の渦卷く塵を雲の上で見て居る處に妙味はあるなり」云々と述べたことに対する反駁であろう。古来の伝統を金科玉条とする一面、泰西の文豪の説を根拠とする説が出て来るのは、当時の世の中をよく現しているように思う。居士はこれに対してこう答えた。

[やぶちゃん注:これも「人々に答ふ」の「其十」の一節。但し、「一般にいへば歌は倫理的善惡の外に立つ處に妙味はあるなり。俗世間の渦卷く塵を雲の上で見て居る處に妙味はあるなり」は「人々に答ふ」に先行する「其六」の最終段落に出る言葉。これらは『日本』への連載であるから、即応して疑義が子規に伝わるのである。なお、校合した国立国会図書館デジタルコレクションで見ると、この「詩聖ホーマーの如きも單に美を愛せりとするか、美にして善なるものを愛せしにあらざるか」という問いを示した人物を丸括弧割注であるが、『稻城子』と示してある。これは恐らく、元教員でジャーナリストの千葉稲城(ちばいなしろ 明治六(一八七三)年~昭和九(一九三四)年)ではないかと思われる。「青森県近代文学館」公式サイト内のこちらによれば、南津軽郡花巻村(現在の黒石市)に生まれ、明治一三(一八八〇)年、『花巻小学校に入学。翌年、青森県庁から一等賞下賜があり、成績抜群で神童の名が高かった』。明治二十三年、『黒石小学校を卒業後、青森県立中学校二年に編入学したが』、中途退学し、明治二十四年に上京、『国学院国文科入学』したが、『一年で病気退学』して『帰郷』後、明治二十六年には『小学校準訓導として採用される。以後、三つの小学校の訓導を経』、明治三〇(一八九七)年、『再上京し、東京帝国大学文科大学教授で文学博士物集高見方に寄寓、書生として直接薫陶を受けながら、早稲田専門学校文科一年に入学』したが、翌年(これが本章の時制と重なる時期である)には再度、『帰郷し、二つの小学校を経て』、明治三十六年、『大湊小学校に校長として赴任』し、二年間、在職した。その後、『教職と本州を離れて渡道し、函館毎日新聞社に入社後、新聞記者として活躍し』始め(明治四十年十一月)、『主任記者として「北海史談」を連載、好評を博し』、明治四十三年には「北海史談」第一集を『刊行、主著とな』った。翌年の『「東宮殿下行啓記念、函館奉迎記」』や、後の「最近富之北海道」北海道名旧蹟」等の著作もある。『主著「北海史談」の序文に、遠藤隆吉文学博士が「昨年夏偶函館に赴き留まる事旬日、函館毎日新聞紙連載する所の、北海史談なる者を見るに、北海の史蹟を詳述し、蝦夷の風俗神話に及び、文章流暢にして記事亦豊富」「人の知らざる所に向ひ綿密なる注意と、博厚なる知識とを以て此書を編せらる」と述べている』。『また、稲城は「散逸せる史料を以て完璧を望むは実に一朝一夕の業にあらず唯予の期する所は荊棘蓬々たる本道歴史の研究に一條の径路を拓き後の学者として其奥を窺ひ」「倶に研究の歩を進めて史実を闡明せらんことを敢へて江湖に愬ふ」と「編者の告白」で結んでいる』とある。『社内にては主筆、相談役として重きをなし、対外的にも広範囲に活動し、その後、北海水産新聞社嘱託を昭和』六(一九三一)『年に退職し』、逝去した。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

美にして善なるも善し。美にして善惡の外に立ちたるも善し。吾等はホーマーの詩を知らず、果してホーマーの詩は終始「善」を離れざるか。ホーマーの詩「善」を離れずとするも、吾等はホーマーに倣はんと思はず、吾等は善惡の外に美を認むればなり。吾等はプラトーが眞善美とやらを説いたからとて、それに從はざるべからずとは思はず。吾等の美と信ずる所は、ホーマーもプラトーも如何とする能はざるなり。

 

 この答は実に胸のすくような思(おもい)がある。居士は『古今集』以下の悪歌の盲拝を嘲ると同じ意味で、泰西の学説に盲従するのを陋(ろう)[やぶちゃん注:心や見識が狭いこと。精神的に賤しいこと。]とした。それも国粋論者のような偏見に立つわけではない。自己の信ずる標準に照して、可なるものを可とし、非なるものを非とするのみである。「吾等の美と借ずる所はホーマーもプラトーも如何ともする能はざるなり」というのは、居士のあらゆる場合に通ずる態度であった。確立した自己を有する者でなければ、所詮この言を吐くことは不可能である。

 「人々に答ふ」の内容は『日本』を通じて未知の人に答えるばかりでなく、直接居士に書を寄せた知己先輩に対する答も自(おのずか)ら包含されている。「ものゝふの八十氏川」の歌に関する答の中には、愚庵和尚に対するものも交っているらしいが、鳴雪翁の「和歌が古来より人を感動せしめたる例少しとの説は誤れり」という反駁に対してもまた『日本』紙上で答えた。感動せしめたという例はいくらもあるけれども、その歌があまりつまらぬものだから考慮に入れなかったのである、こういう感激は感動する相手とその場合に因ることが多い、猛きもののふの心を和げなどというが、猛きもののふなどは大抵趣味の卑しい者だから、彼らを感動せしめた歌も趣味卑く取るに足らぬものである、贈答送別などの場合に感ずるということもあるが、これもその場合に適切なるがために感ずるので、必ずしも価値の標準にならぬ、というのが居士の論旨である。

[やぶちゃん注:『「ものゝふの八十氏川」の歌に関する答』は「人々に答ふ」の「其七」「其八」。これは「万葉集」巻三の「歌聖」柿本人麿の一首(二六四番歌)、

 

  近江國より上り來し時に

  宇治河の邊(ほとり)に至りて

  作れる歌一首

もののふの八十氏川(やそうぢがは)の網代木(あじろぎ)にいざよふ波のゆくへ知らずも

 

である。正岡子規は「四たび歌よみに與ふる書」で、この歌を挙げ、

   *

といふが屢〻引きあひに出されるやうに存候。此歌萬葉時代に流行せる一氣呵成の調にて少しも野卑なる處は無く字句もしまり居り候へども全體の上より見れば上三句は贅物に屬し候。「足引の山鳥の尾の」といふ歌も前置の詞多けれどあれは前置の詞長きために夜の長き樣を感ぜられ候。これは又上三句全く役に立ち不申候。此歌を名所の歌の手本に引くは大たわけに御座候。總じて名所の歌といふは其の地の特色なくては叶はず此歌の如く意味無き名所の歌は名所の歌になり不申候。併し此歌を後世の俗氣紛々たる歌に比ぶれば勝ること萬々に候。且つ此種の歌は眞似すべきにはあらねど多き中に一首二首あるは面白く候。

   *

と難じたことへの批判に対する反論である。この一首、「もののふの八十氏」が「氏」から「宇治河」を引き出すためだけの序詞であり、さらにそこから、宇治川の風物として知られた「網代木」(木や竹を組んだ川漁の設置型漁具)を連想させておいて、「そんな宇治川の網代木に儚く漂い続ける波」をやっと読者に示し、やおら、自身の「そんな波のような」漂泊の旅の「行く末の知れぬことだ」と歎くという、和歌嫌いの私に言わせれば、卓袱台引っ繰り返しの「だからだんだってんだ!」というトンデモ和歌以外の何物でないのである。だからここは大いに私も子規に共感するものである。

『鳴雪翁の「和歌が古来より人を感動せしめたる例少しとの説は誤れり」という反駁に対してもまた『日本』紙上で答えた』は「人々に答ふ」の「其十三」。]

 

 こういう特別な背景を離れて、何時でも誰でも感動する歌を見ても、多くはこれを浅薄と認めざるを得ない、という見地から居士は「しきしまのやまと心を人問はば朝日に匂ふ山櫻花」の歌を例に引き、その欠点を指摘した末、「余も曾てこの歌に感じたる時代あり。されど數年間文學專攻の結果は余の愚鈍をして半步一步の進步を爲さしめたりと信ず」といっている。居士の言は常に率直である。宣長の山桜の歌をつまらぬというだけの見識が立った者は、恐らくは自分もかつてこの歌に感じたという事実を告白せぬであろう。妄(みだり)に生知安行(せいちあんこう)の人を装わぬところに居士の面目は窺われる。

[やぶちゃん注:宣長のそれ(但し、一首の表記は『敷島の大和心を人問はゞ朝日に匂ふ山櫻花』である)を論じたのも「人々に答ふ」の「其十三」。私は昔も今も、未来永劫、この歌は、おぞましいまでに『淺薄拙劣』(「人々に答ふ」の「其十三」の正岡子規自身の評言)であると感ずるものである。

「生知安行」生まれながらにして人の踏み行うべき道をよく知り、考えあぐんで躊躇することなく、心のままにそれを行う、聖人の境地を指す語。「生知」は「学ぶことなく、生まれながらにして人の道を知っていること」(アプリオリな絶対の倫理を有すること)を、「安行」は「心のままに行うこと。強いた努力や苦労をすることなく直ちに人の道を行うこと」(完全にして絶対の自由自在な倫理行使が出来ること)を意味する。

 なお、以下も同じ「其十三」(これが「人々に答ふ」の最終回である)から。]

 

 居士は更に語を次いでいう。「少しく文字ある者は都々逸(どどいつ)を以て俚野(りや)唾(だ)すべしとなす。しかも賤妓冶郎(やらう)が手を拍つて一唱三歎する者は此都々逸なり。苟(いやしく)も詩を作る者は雲井龍雄、西郷隆盛らの詩を以て淺薄露骨以て詩と小するに足らずとなす。しかも書生が放吟し劒舞し快と呼び壯と呼び彼等をして怒髮天を衝かしむる者は西郷・雲井等の詩ならざるべからず。やや美文を解する者は、ヽ山(ちゆざん)居士の拔刀隊の歌を以て粗雜鹵莽(ろまう)取るに足らずとなす。しかも兵士が挺身肉薄敵城を乘り取らんとする時、彼らの勇氣を鼓舞する者は拔刀隊一曲の歌ならざるべからず。大喝采的の作は概ねかくの如し」佐多くの人が感心するという一事は、歌のために重きをなすに足るものではない。居士は「多數素人(しろうと)へのあてこみは少數玄人[やぶちゃん注:先に示した国立国会図書館デジタルコレクションのアルス版正岡子規歌論集では『黑人』であるが、ここは特異的に底本のままにした。]の最も厭忌(えんき)する方法を取らざるべからず」といい、「余は寧ろ大喝采的の作といふ一事を以て其卑俗を證せんとす」と断言した。大喝采的詩歌の要素を解析して遺憾なきものである。

[やぶちゃん注:「都々逸」俗曲の一つ。寛政(一七八九年~一八〇一年)の末期から文化(一八〇四年~一八一八年)初期の頃、「潮来節(いたこぶし)」や「よしこの節」を原型として成立した歌謡。天保(一八三〇年~一八四四年)末期に、江戸の都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)が寄席で歌ってから、特に流行することになった。七・七・七・五から成る二十六文字で、主に男女の情趣やその機微を表現したものが多い。

「俚野(りや)唾(だ)すべし」「俚野(りや)」はここでは世俗・世間・日常生活(空間)の意。「唾(だ)すべし」軽率に道に唾を吐き捨てるように、何の重い思いや考えもなくして、ただ面白半分に歌えばよい。

「冶郎」遊冶郎(いうやらう(ゆうやろう))の略。酒色に溺れて身持ちの悪い男。放蕩者。道楽者。

「雲井龍雄」(天保一五(一八四四)年~明治三(一八七一)年)は幕末から明治初期にかけての特殊な佐幕系志士。本名は小島守善(もりよし)。ウィキの「雲井龍雄」によれば、『壮志と悲調とロマンティシズムに溢れた詩人とも評されている。雲井龍雄という名は明治元年』(一八六八年)『頃から用いたもので、生まれが辰年辰月辰日から「龍雄」とし』、『「龍が天に昇る」との気概をもってつけたといわれる』とある(以下、「ブリタニカ国際大百科事典」の引用を挟む)。『米沢藩士中島惣右衛門の次男で』、後に『同藩士小島才助の養子となった』。慶応元(一八六五)年に『江戸に遊学して安井息軒に師事』し、『朱子学』・『陽明学を修め』、後、『藩の依頼で公武合体に奔走』した。慶応四(一八六八)年四月』には『新政府の貢士として議政官下局に名を連ね』、『徳川氏の立場を弁護』した。『官軍東征の動きを知ると』、『帰東して迎撃の態勢を整えるよう』、『奔走』、『「討薩の檄」を作成して薩長間の離間を策した。奥羽越列藩同盟の結成に尽力して策謀を練り』、『敗戦とともに米沢に謹慎した』が、明治二(一八六九)年七月には『東京に出て再挙をはかり』、『長州』・『土佐系高官と通謀して新政府の転覆を策した』。『雲井の思想は佐幕』・勤王・攘夷・封建で、つまりは、『公武合体のうえに立った攘夷論』という『きわめて特異なものであった』という(ここから以下、ウィキの「雲井龍雄」に戻る)。なお、『新政府は』彼の明治二年の上京の折りに『龍雄を衆議院議員に任じた』のであるが、『薩長出身の政府要人と繋がりがある議員が多くあるなか』、『幕末期での薩摩批判や、その一たび議論に及べば徹底的に議論を闘わせた振る舞いが災いし、周囲の忌避に遭い』、『わずかひと月足らずで議員を追われ』ているとある。『一方、戊辰戦争で没落したり』、『削封された主家から見離された敗残の人々が龍雄の許に集まるようになり、龍雄は』明治三(一八七〇)年二月、『東京・芝の上行、円真両寺門前に「帰順部曲点検所」なる看板を掲げ、特に「脱藩者や旧幕臣に帰順の道を与えよ」と』四『回にわたり嘆願書を政府に提出した。これは参議・佐々木高行、広沢真臣らの許可を得たものであったが、実は新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が集まっていた。これが政府転覆の陰謀とみなされ』、『翌年』四月、『謹慎を命ぜられ』、『米沢藩に幽閉ののち』、『東京に送られ、深く取り調べも行われず』、『罪名の根拠は政府部内の準則にすぎない「仮刑律」が適用され』、同年十二月二十六日(一八七一年二月十五日)に『判決が下り、龍雄は判決』の二『日後に小伝馬町牢獄で斬首刑に処され』、『小塚原刑場で梟首された』。享年未だ二十七であった。遺体の『胴は大学東校に送られ』、『解剖の授業に使用されたという。なお、龍雄を葬った政府は威信を保つため』、『その真蹟を』、後に『覆滅し、龍雄の郷里・米沢でも』、『その名を口にすることは絶えて久しくタブーとされていたという。また、同志の原直鉄、大忍坊ら』十三名も斬首され、江秋水ら二十二名も獄死している、とある。『雲井龍雄の漢詩は、明治初期には広く読まれ、自由民権運動の志士たちに好まれ』、『若き日の西田幾多郎も雲井龍雄の墓を訪れ』て、

『去る二十日、雲井龍雄に天王寺(谷中の墓地)に謁し、その天地を動かす独立の精神を見て、感慕の情に堪えず、(中略)予、龍雄の苦学を見て慚愧に堪えず。然れども遅牛、尚千里の遠きに達す。学、之を一時に求むべからず。要は、進んで止まざるあるのみ。』

『と記している。(明治二十四年、山本良吉宛書簡)』。また、かの『幸徳秋水も、死刑執行を目前に控えた獄中で綴った未完の「死刑の前に」という一文の中で』、

『木内宗五も吉田松陰も雲井竜雄も、江藤新平も赤井景韶も富松正安も、死刑となった。』

『と記し、自らの運命を受けいれるために思い浮かべる先人の一人として、雲井の名を挙げている』。『漢詩が徐々に一般的に読まれなくなった頃から、雲井の記憶は一般的には薄れていったようであるが、戦後においては藤沢周平が』「檻車墨河を渡る」(昭和五〇(一九七五)年文藝春秋刊。後に「雲奔(はし)る 小説・雲井龍雄」と改題)『という雲井龍雄を主人公とした中篇小説を描いている』とある。

「ヽ山(ちゆざん)居士」明治一五(一八八二)年八月に出版された「新体詩抄」(この詩も「抜刀隊の詩」として同書に所収されている)の作詩者の一人として知られる、社会学者で文学博士であった外山正一(まさかず 嘉永元(一八四八)年~明治三三(一九〇〇)年)の号(現代仮名遣では「ちゅざん」)ウィキの「抜刀隊軍歌によれば、西南戦争最大の激戦となった「田原坂の戦い」では、官軍側としては予想外の白兵戦が発生、西郷軍に対抗するために「別働第三旅団」の隊号を持つ、帝国陸軍隷下として投入されていた、士族出身者が多かった警視隊の中から、特に剣術に秀でた者を選抜して「抜刀隊」が臨時編成され、戦闘を行なったが、この軍歌「抜刀隊」は、その抜刀隊の活躍を歌ったもの。『外山正一の歌詞に、フランス人』で、お雇い外国人であったシャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルー(Charles Edouard Gabriel Leroux 一八五一年~一九二六年):音楽家でフランス陸軍大尉。明治一七(一八八四)年に第三次フランス軍事顧問団の一員として来日、草創期の日本帝国陸軍軍楽隊を指導し、明治二二(一八八九)年に帰国)『が曲をつけたもので、鹿鳴館(元の日比谷の華族会館)における大日本音楽会演奏会で』明治一八(一八八五)年に『発表された』。『最初期の軍歌であり本格的西洋音楽であったことから、後の様々な楽曲に影響を与えた。また完成度が高く庶民の間でも広く愛唱され、 西洋のメロディーによる日本で最初の流行歌となった』。『楽曲は転調を多用しており、当時の日本人の感覚からすると、やや歌いづらいもの』であったが、『西洋音楽が珍しかった時代、小学校初等科音楽として使用されている』。『後に兵部省の委嘱で行進曲に編曲され、兵部省が陸軍省と海軍省に改編されてからは』、『帝国陸軍の行進曲として制定された(陸軍省制定行進曲)。現在も陸上自衛隊、そして抜刀隊ゆかりの警視庁を含む各道府県警が使用している』とある歌詞は先の外山のウィキに載る。曲は結構知られたものであるが、

「鹵莽」(現代仮名遣では「ろもう」)元来は「塩分の多い土地と草茫々の野原・荒蕪地」の意であるが、転じて「お粗末なこと・粗略・軽率」の意となった。]

2018/05/04

大和本草卷之十四 水蟲 介類 蝤蛑(タカアシガニ)

 

蝤蛑 大蟹也手ノ長三尺有節ハサミノ長四寸北國ニ

 アリシマガニト云手甚大也本草ニモ載タリ

○やぶちゃんの書き下し文

「蝤蛑」 大蟹なり。手の長さ、三尺。節〔(ふし)〕、有り、はさみの長さ、四寸。北國にあり、「シマガニ」と云ふ。手、甚だ大なり。「本草」にも載せたり。

[やぶちゃん注:蟹」(総論部)で注した、「縞蟹」。深海性の巨大な蟹で、現生の節足動物では世界最大とされ、カニ類の中では系統的に古い種であることから、「生きている化石」とも呼ばれる、

短尾下目クモガニ科タカアシガニ(高足蟹)属タカアシガニ Macrocheira kaempferi

の異名である。

「蝤蛑」音なら「シュウボウ」(現代仮名遣)か。但し、現在、辞書ではまさに「蝤蛑」の文字列で載り、しかしガザミ()とする。これは注をつけている私としては甚だ困りものである。]



これを以って、フライングしていた「鱟(カブトガニ)」までの部分を総て終えた。

大和本草卷之十四 水蟲 介類 蝦魁(ガザミ)

 

【外】

蝦魁 嶺表錄異曰前兩脚大如人指長尺餘上有

 芒刺銛砍手不可觸腦殻微有錯身彎環熟之鮮

 紅一名龍蝦漳州府志○順和名ニ擁劒ヲガサメト訓

 ス本草曰一螯大一螯小者名擁劒文選呉都賦ニモ

 擁劒ヲノセタリガザメ長五六寸甲ノ左右ニ各刺一アリ

 前ノ兩足大ナリ左右ニ小足各三其後ニ水カキ各一ア

 リ或曰カサメ一月ノ中上旬下旬ハ肉多ク中旬ハ肉少シ

 

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

「蝦魁(カザメ)」 「嶺表錄異」に曰はく、『前の兩脚、大にして人の指のごとく、長さ尺餘り。上に芒-刺〔(とげ)〕有り。銛〔(もり)〕にて、手で砍〔(たたきき)〕る。觸るるべからず。腦〔ある〕殻、微かに、錯〔(もやう)〕、有り。身、彎環〔(わんくわん)〕。之れを熟〔(じゆく)〕すれば、鮮紅〔たり〕。一名、「龍蝦」。』〔と〕。「漳州府志」

○順が「和名」に「擁劒」を「ガサメ」と訓ず。「本草」に曰はく、『一〔つの〕螯〔(はさみ)〕、大に〔して〕、一〔つの〕螯、小なる者、「擁劒〔(ヨウケン)〕」名づく』〔と〕。「文選〔(もんぜん)〕」の「呉都賦」にも「擁劒」をのせたり。「ガザメ」、長さ、五、六寸。甲の左右に各〔(おのおの)〕刺〔(とげ)〕一つあり。前の兩足、大なり。左右に小さき足、各〔(おのおの)〕三つ、其の後ろに、水かき、各〔(おのおの)〕一つあり。或いは曰はく、「ガザメ」、一月〔(ひとつき)〕の中〔(うち)〕、上旬・下旬は、肉、多く、中旬は、肉、少なし〔と〕。

 

[やぶちゃん注:前項「蟹」で出した、「渡り蟹」の通称で知られる、

短尾下目ワタリガニ科 Portunidae のガザミ属ガザミ Portunus trituberculatus

である。前項の私の「中夏には、海味、稀少なる故、此れを以つて、佳味〔(かみ)〕と爲〔(な)〕す」の注をも参照されたい。

「嶺表錄異」唐の劉恂が記した中国南方地方の奇聞集。原文は見つけた。「巻中」の以下。少し前から引く。

   *

二巨蝦殻頭尾鉗足具全各七八尺首占其一分嘴尖如鋒刃嘴上有鬚如紅筯各長二三尺前雙脚有鉗云以此捉食鉗麄如人大指長三尺餘上有芒刺如薔薇枝赤而銛硬手不可觸腦殻烘透彎環尺餘何止於盃盂也【案太平廣記巻四百六十五引此條云北戸錄云滕恂爲廣州刺史有客語恂曰蝦鬚有一丈者堪爲拄杖恂不信客去東海取鬚四尺以示恂方伏其異凡九句爲此書所無又案海錄碎事引此書云海中有大蝦鬚可爲杖長丈餘與此書所云鬚如紅筯各長二三尺二語不同】

   *

「砍〔(たたきき)〕る」この訓には自信はない。ないが、こう読みでもしないと、前のも後にも続かぬのである。現代中国語では「砍」(音「カン」)は「たっき切る・ぶった切る」、方言え「物を投げつける」とある。識者の御教授を乞う。

「腦〔ある〕殻、微かに、錯〔(もやう)〕、有り」この訓読も自信がない。ないが、繋げるためにはこう読むしかなかった。識者の御教授を乞う。

「彎環〔(わんくわん)〕」彎曲して環のようになっていること。ガザミの甲羅の前縁・後縁をよく表している。

「熟〔(じゆく)〕すれば」(水に入れて)火にかけ、十分に熱を加えれば。

「漳州府志」清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌。

「擁劒」「劒(つるぎ)」で「擁する」(周りを取り囲む)は甲羅の前縁にギザギザになった刺が並び、左右にも大きな刺が突出しており、鉗脚が、これまた、小型のを、合わせたようで、しかも頑丈な上に、これにも沢山の刺がある。ガザミに相応しい漢名ではないか。

「文選」梁の昭明太子蕭統(しょうとう)の編になる詩文集。六世紀前半に成立。周から梁までの約千年間の代表的文学作品七百六十編を三十七のジャンルに分けて収録。元は全三十巻であったが、唐の李善が注をつけた結果、全六十巻に膨れ上がった。中国古代文学の主要資料で、本邦にも天平以前に渡来し、平安時代に「白氏文集」と並んで広く愛読された。

「呉都賦」西晋の文学者左思(生没年不詳:一説には二五二年~三〇七年頃)が。魏・呉・蜀三国の首都を題材にした「三都賦」の一つ(「賦」は韻文の一体で、対句によって構成されることが多いが、押韻法・句の字数・一編の句数等には規定がない。長編が多い)。

「五、六寸」十五~十八センチメートル。

『一月〔(ひとつき)〕の中〔(うち)〕、上旬・下旬は、肉、多く、中旬は、肉、少なし』月齢に合わせた迷信。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 蟹(カニ類総論)

 

蟹 本邦ニハ海味多シ故不爲佳品中夏ニハ海味稀少

 ナル故以此爲佳味蟹ノ事ヲ云シ傅肱カ蟹譜アリ文

 士ノ詩賦不少凡蟹類多シ。ガサメ。シマガニ。ツマシロ。ツガニア

 リ又田ウチガニアリ是本草所謂沙狗ナリ斥地ニアリ

 人ヲ見テ走ル不可食蜞ハ陂地田港ノ中ニ多キ蟹

 ナリ不可食谷カニアリ山谷ノ石間ニ生ス小ニ乄赤シ是

 亦不可食野人ハ食フ本草ノ集解ニ石蟹ト云是ナル

 ヘシコブシガニハ形小ナリ大者不滿寸圓ニ乄如鱉背半

 ニ有縱筋而高起如縫甲硬シ。ハサミ二アリ足左右各

 五アリ可食海濱ニ生ス鬼蟹アリ赤蟹アリ不可食

 亦蛤蠣ノカラノ内ニモ小蟹アリ凡蟹久シク泥沙ノ内ニ

 アレハ化シテ石トナル又石中ニモ石蟹アリ是沙土化乄

 石トナリ其中ニアリシ蟹モ化乄石トナルナリ潛確類書

 石蟹生於崖之楡林港内土極細膩最寒但蟹久

 則不能運動人獲之則曰石蟹○凡蟹ハ殻外腹ノ

 下ニ子ヲ生ス卵ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

「蟹」 本邦には、海味〔(かいみ)〕、多し。故に、佳品と爲〔(せ)〕ず。中夏には、海味、稀少なる故、此れを以つて、佳味〔(かみ)〕と爲〔(な)〕す。

 蟹の事を云ひし、傅肱〔(ふこう)〕が「蟹譜〔(けいふ)〕」あり、文士の詩賦、少なからず。

 凡そ、蟹類、多し。「ガサメ」・「シマガニ」・「ツマジロ」・「ツガニ」あり。

 又、「田ウチガニ」あり。是れ、「本草」に謂ふ所の「沙狗〔(サク)〕」なり。斥地にあり、人を見て走る。食ふべからず。

 「蜞〔(ほうき)〕」は陂地〔(はち)〕・田・港の中に多き蟹なり。食ふべからず。

 「谷カニ」あり、山谷の石間に生ず。小にして赤し。是れも亦、食ふべからず。野人は食ふ。「本草」の「集解」に「石蟹」と云ふは、是なるべし。

 「コブシガニ」は、形、小なり。大なる者〔も〕寸に滿たず。圓〔(まどか)〕にして鱉〔(すつぽん)〕のごとし。背の半〔(なかば)〕に縱の筋〔(すぢ)〕有りて、高く起こる。縫ふごとく、甲、硬(かた)し。はさみ、二つ、あり。足、左右、各(おのおの)五つあり。食ふべし。海濱に生ず。

 「鬼蟹〔きがに〕」あり、「赤蟹」あり、食ふべからず。

 亦、蛤〔(はまぐり)〕・蠣〔(かき)〕のからの内にも小さき蟹あり。

 凡そ、蟹、久しく泥沙の内にあれば、化して石となる。又、石中にも「石蟹」あり。是れ、沙土、化して石となり、其の中にありし蟹も化して石となるなり。「潛確類書」に、『石蟹は崖の楡林・港内に生ず。土、極めて細膩〔(さいじ)〕〔にして〕最も寒し。但し、蟹、久しければ、則ち、運動すること、能はず。人、之れを獲りて、則ち、「石蟹」と曰〔(い)〕ふ。

○凡そ、蟹は殻の外の腹の下に子を生ず。卵なり。

 

[やぶちゃん注:蟹類(節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目
Brachyura
)の総論部。

「海味〔(かいみ)〕」海産の食用生物で味の良いものという意味で採ればよかろう。

「中夏には、海味、稀少なる故、此れを以つて、佳味〔(かみ)〕と爲〔(な)〕す」この認識はやや意外である。現行は一部の北方種の例外を除いたカニ類(但し、この場合は十脚目異尾(ヤドカリ) Anomura に属する狭義のカニ類(短尾(カニ)下目 Brachyura )ではないタラバガニ科タラバガニ属タラバガニ Paralithodes camtschaticus やハナサキガニ Paralithodes brevipes が含まれてしまう)の旬は秋から冬・初春にかけてである。但し、江戸時代、夏真っ盛りには遠隔地からの流通が無理になり、赤潮・青潮などの発生などからも、新鮮な海産物の供給はぐっと低下したはずだから、沿岸漁業による漁獲がメインになり、さすれば、カニ類がその時期に時期限定の珍味(普段は見向きもしないのだから正しく珍味である)として好まれたというのは判らないではない。また、江戸時代、その主な漁獲対象となったであろう種を考えると、比較的浅海の砂泥域に棲息し、相応に事実、美味いのは、次で項立てされる「渡り蟹」の通称で知られる短尾下目ワタリガニ科 Portunidae のガザミ属ガザミ Portunus trituberculatus が想起されるのであるが、まさにガザミの漁期は晩春から始まり(秋から初冬まで)、他のカニ類よりも有意に手前の夏に旬はスライドすると言える(実際に私も中・高校生時代、富山で釣ったり、食ったりした、それはすこぶる美味であった)。しかも、ガザミの産卵期は春から夏であるから、卵を持ったは珍味となろうか。但し、抱卵したは卵に栄養を与えてしまっているので、身自体は実は痩せて美味くない

『傅肱〔(ふこう)〕が「蟹譜〔(けいふ)〕」あり』宋の、蟹フリークであったらしい傅肱の著した蟹の博物学書。全二巻。古文献まで溯って蟹で渉猟した一種の「蟹の民俗学」である。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで全篇が読める。

「ガサメ」二つ前の注に既注。

「シマガニ」縞蟹。深海性の巨大な蟹で、現生の節足動物では世界最大とされ、カニ類の中では系統的に古い種であることから、「生きている化石」とも呼ばれる、短尾下目クモガニ科タカアシガニ(高足蟹)属タカアシガニ Macrocheira kaempferi の異名とされる。

「ツマジロ」端(褄)白蟹。短尾下目ワタリガニ科ヒラツメガニ属ヒラツメガニ Ovalipes punctatus の異名。鉗脚の先端が白いことに由来する。

「ツガニ」津蟹。短尾下目イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica のかなり広汎に見られる異名。これは美味い(上海ガニ=チュウゴクモクズガニ Eriocheir sinensisは同属のごく近縁種)ものの、肺吸虫(扁形動物門吸虫綱二生亜綱斜睾吸虫目住胞吸虫亜目住胞吸虫上科肺吸虫科 Paragonimus 属ウェステルマンハイキュウ Paragonimus westermani・ベルツハイキュウチュウ Paragonimus pulmonalis:後者を前者の三倍体群として同種と見做す立場もあるが、採らない)がいるため、生食はかなり危険である。詳しくは私の「谷の響 二の卷 五 蟹羽を生ず」の「澤蟹」の注を参照されたい。なお、私は実は、モクズガニを擂鉢で丹念に擂り潰して水に晒した上、その上澄みの汁を、熱を通さずに食すという郷土料理を知っており、是非、食べたく思ってもいるのであるが(場所は敢えて言わない)、これは肺吸虫への感染リスクが極めて高い処理とは考えている

「田ウチガニ」田打蟹。短尾下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ亜科シオマネキ属 Uca のシオマネキ類の古い異名。謂わずもがなであるが、本種の成体のは体格も大きいだけでなく、片方の鉗脚が甲羅と同じくらいまで大きくなり、極端な性的二形のため小さく鉗脚も普通のとは容易に区別出来る(鉗脚は個体によって「利き腕」が異なり、孰れが大きいかは決まっていない。はこの巨大な鉗脚を振ることで求愛行動を取り、これを「ウェービング(waving)」と呼ぶ。この「タウチガニ」も、この動作を春に田植えの準備のために田を鋤(す)き返す「田打ち」の動作に擬えたものである。因みに、英名“Fiddler crab” の「フィドラー」とは「ヴァイオリン弾き」のことで、同じくウェービングをそれに譬えたものである。

『「本草」に謂ふ所の「沙狗〔(サク)〕」なり』「本草綱目」巻四十五「介之一」の「蟹」に載るが、『蜞大於生於陂池田港中故有毒令人吐下似蜞而生於沙穴中見人便走者沙狗也不可食似蜞而生海中潮至出穴而望者望潮也可食』とあって、「沙狗」は確かに食ってはならないであるが、この原文の真正のシオマネキ類は、実はこの最後の部分であり、そこでは食ってよいとある。また、私は思うに、「沙狗」とは、その行動様式から見て、短尾下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ属スナガニ Ocypode stimpsoni ではないかと思う(現代中国語では「痕掌沙蟹」)。彼らには毒はないが、甲殻幅三センチメートルほどしかないから、思うに、この「不可食」というのは(原典では「蜞」が有毒とするのに連なるので、ついそう読みたくはなるのであるが)、食に当てるほどの大きさではないから食えぬ、と言っているように思われてならない。因みにシオマネキ類は、食える。嘗て贅沢にも、有明海のシオマネキ Uca arcuata の大型の鉗脚だけを採り千切ってシオヅケにした「がん漬け」があった。

「斥地」干潟。

蜞〔(ほうき)〕」現行中国語では、狭義に短尾下目イワガニ上科ベンケイガニ科ベンケイガニ属ベンケイガニ Sesarmops intermedium を指すことがあるようだが、別にイワガニ科 Grapsidae の種の総称ともするようだ。「陂地〔(はち)〕」は堤で、前者ベンケイガニは確かに海浜からかなり溯った川辺にもおり、田に入って畦を壊す害虫とされもした。問題は淡水域を遡上する点で、これは「ツガニ」のモクズガニと同じく、肺吸虫類の中間宿主である可能性があると考えてよく、やはり生食は危険であるので「食ふべからず」は正しい。

「谷カニ」短尾下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani。やはり、肺吸虫の中間宿主であるから、生食は危険。養殖物でも衛生管理の悪い所での養殖物から感染して立派に肺吸虫症になった患者が実際にいるから笑っていられない。だから、この「食ふべからず」も極めて正しいのである。但し、しっかり油で揚げたものであれば、問題はないのでご安心あれ。

『「本草」の「集解」に「石蟹」と云ふは、是なるべし』以下。『生溪澗石穴中小而殻堅赤者石蟹也野人食之』。

「コブシガニ」狭義には短尾下目コブシガニ上科コブシガニ科コブシガニ亜科Euclosiana属コブシガニ Euclosiana obtusifrons であるが、ここはコブシガニ科Leucosiidae のコブシガニ類である。コブシガニ Euclosiana obtusifrons は甲長・甲幅ともに三センチメートルほどの半球形を成し、橙赤色を呈し、陶器のような光沢を有する。東京湾以南からインド洋東部までの水深五十~百メートルの砂泥底に棲息する。コブシガニ科は一般に甲幅〇・五~二センチメートルほどで、丸みを帯びた美しい色をした種が多い。歩脚の断面も丸く、砂泥底を蟹に似合わず専ら、前に前進して歩く。本邦産は約八十種を数える。私の好きな蟹である。ただ、益軒は「背の半〔(なかば)〕に縱の筋〔(すぢ)〕有りて、高く起こる。縫ふごとく、甲、硬(かた)し」とあるのは、もしかすると、コブシガニ亜科Leucosia属タテジマコブシ Leucosia craniolaris を言っているのかも、とも思われた。にしても、ちっこい彼らをして益軒先生! 何故に「食ふべし」とおっしゃるか?! はなはだ以って気に入りません!!!

「鬼蟹〔きがに〕」短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ属 Heikeopsis に属する鬼面様の背甲(普通に知られている種はヘイケガニ Heikeopsis japonica であるがこれは謂わずもがな、単に内臓の形状が殻上に現われ、それがたまたま、人面のシミュラクラを起しただけで、実は、同じように人の顔に見えるカニ類は本ヘイケガニ科 Dorippidae 以外でもかなり見られる)を持つカニの総称。詳しくは私の「生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 四 忍びの術(3)」の注を参照されたい。

「赤蟹」短尾下目イワガニ上科ベンケイガニ科アカテガニ属アカテガニ Chiromantes haematocheir。海岸・川辺の岩場はおろか、土手・石垣・森林・湿地等に棲息し、カニ類の中でも乾燥にかなり適応した種として知られ、しかも幼生期以外には海水を必要としない。しかし、生息域が先のモクズガニ・ベンケイガニと重なり、肺吸虫の中間宿主がやはり疑われるから、「食ふべからず」は正当である。ウィキの「アカテガニ」を見たら、『食用にはしないが、一部地方では脳膜炎や発熱の薬としてアカテガニをすりつぶして絞った汁を飲む民間療法が行われていた』とあったが、これはもう、最もヤバい危険な行為である。

「蛤〔(はまぐり)〕・蠣〔(かき)〕のからの内にも小さき蟹あり」これは所謂、隠れ蟹、斧足類(二枚貝類。但し、実際には腹足類(巻貝類)・腕足類・ナマコ類などの外套腔や排泄腔なども対象となる)へ寄生(貝には利益全くないから共生ではないし、私は「片利共生」は「共生」でなく立派な「寄生」でしかないと考えているし、カクレガニが寄生して都合が悪くないとする学者とは是非ともその証拠を聴かせて貰いたく思っているぐらいである。明らかに宿主の発育は妨げられているではないか)する短尾下目カクレガニ上科カクレガニ科Pinnotheridaeのカクレガニ類である。

「蟹、久しく泥沙の内にあれば、化して石となる」少なくとも、この部分は古生物としてのカニ類の化石である。

「潛確類書」「潜確居類書」とも。明代の学者陳仁錫(一五八一年~一六三六年)が編纂した事典。以下の引用部は、中國哲學書電子化計劃潛確居類書で発見できたが、以下の文字列である。

   *

石蟹石曙棠妙崖之倫仆港内聘里誰上極細肺最襄但蟹谷則本能運勁片時卽成眉奕人稷之則曰石蟹

   *

どうも、原文を見てもよく判らぬのだが(正直、「中國哲學書電子化計劃」の翻刻も完全ではないことは既に他のケースで確認済みではある)、にしても、益軒は判って訓読しているとも思えない。原文の「倫仆」も判らんが、益軒の「崖の下の楡林」もチョー変だろ! 「土、極めて細膩〔(さいじ)〕〔にして〕最も寒し」の原文は「誰上極細肺最襄」だろうが、やっぱりどっちも判らんゾイ!(「膩」は「細やか」の意) しかし、何となく判ることはある。この「石蟹」は化石化したカニなんかじゃなく、生きた蟹であり、しかし石のように硬いのだ! しかし、それが何故か、運動性能が落ちてしまう時期があるらしく、それを狙って人はかく捕える、というのは、当然、食うためだろ! とすればこれは、本邦で言えば、ガザミに近縁で、同様に美味い、カニ下目ワタリガニ科イシガニ属イシガニ Charybdis japonica が非常によく当て嵌まるのである。ウィキの「イシガニから引いておく。『食用として出荷され、地域によってはガザミなどとの混称でワタリガニと呼ばれる。地方名としてガネ』(「金」でやはり硬いことを意味しているように思える)『イシガネ、トビツキガニなどがある』。『甲幅は』八センチメートル『ほどだが、甲幅が』十センチメートル『を超える大型の個体もいる。甲羅は六角形で、前縁にたくさんの棘があり、太くがっちりした』鉗脚 にも、『たくさんの棘がある。第』五『脚は遊泳脚になっており、海中をすばやく泳ぐことができる。小型の個体は全身に細かい毛が生えており、青と白の模様がはっきりしているがこの毛は大きくなるにつれ抜け落ち、模様も目立たなくなる』。『体色にはやや個体差があるが、背側の体色は青灰色や緑灰色をしている。腹側は白いが、個体によっては縁の部分や腹部が背側と同じ色をしている。また、特に大型の個体では緑黒色が強くなるのも特徴である』。『外見はガザミに似ているが、甲羅の左右に大きな棘がないこと』鉗脚が、『やや太くて短いこと、全体的に丸っこい体型をしていること、腹側にも細かい毛が生えていることなどで区別できる。ただし』、『甲幅』二~三センチメートル『くらいの稚ガニは、ガザミやベニツケガニ』(ガザミ科ベニツケガニ属ベニツケガニ Thalamita pelsarti)『などの稚ガニとよく似ていて区別がつけにくい』。『北海道南部から九州、韓国、中国までの浅い海に分布する。岩礁海岸の潮下帯に生息し、海中の岩石のすき間や、海藻の間にひそむが、適応力は強く、岩礁近くの砂泥底、防波堤、河口の汽水域、海中に浮かぶブイ、干潟中に立つ杭の周囲、潮溜まり(タイドプール)など、生息域は広範囲にわたる』。『海藻なども食べるが、食性は肉食性が強く、小魚、ゴカイ類、貝類など、いろいろな小動物を捕食する。いっぽう敵は沿岸性のサメやエイ、イシダイ、タコなどであり、タコ釣りの餌にも用いられる。敵に襲われた時は』鉗脚を『大きく振り上げて威嚇するが』、鉗脚や歩脚を摑まれた『時は自切して逃げる。自切の痕は小さな丸い袋ができ、その中で脚の再生が進む。数回の脱皮のあとに脚が再生する』。『ガザミよりは小型だが食用になる。岩礁海岸や防波堤などの、人の手が届く場所に生息しているので、タモ網や釣りなどで誰でも手軽に漁獲できる。刺し網などでもよく漁獲されるが、激しく暴れて網をもつれさせるので』、『漁業者には嫌われる。はさむ力はかなり強く、強引に放そうとすると』、『怪我をすることが必至であり、生体の扱いには注意を要する』。『肉と中腸腺(カニミソ)、メスの卵巣(内子)を食用にし、塩茹でや味噌汁などで食べられる』『甲羅は簡単に剥がせるが、ガザミよりも殻が厚くて硬い。はさみなどは噛み割ろうとしても』、『なかなか割れないうえ、割れた拍子に棘が口内に刺さって痛い思いをすることもある。ただし、身自体は締まっていて、味はガザミ以上である。小さな個体では硬い殻のわりに身が少ないので、できるだけ大型の個体を捕獲するのが望ましいが、前記のように強力な鋏には注意』しなくてはならぬ、とダメ押しする。しかし、その通りなのだ。高一の夏の終り、親友と富山の伏木の国分のテトラポッドの上で釣りをした。私が引きの入った釣竿を引き上げと、十センチメートルを遙かに超えた大型のこいつだったのだ。親友が「オッツ!」と叫んで、素手で摑んだら、親指を鋏まれた。私はその時の彼の痛みの叫びを忘れない。彼は片足のサンダルを脱ぐと、それで蟹をこれでもかと叩き続け、やっと魔の鋏の手から脱したが、親指はかなり深く切れて出血も酷かった。しかし、彼は笑って、「いい釣果になっやないけ!」と言った。その夜、母が作ったそいつの味噌汁は、激しく、しみじみと、美味かったのを覚えている。親友の笑顔の思い出とともに、である。彼は矢田浩一郎と言う。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 龜(イシガメ)

 

龜 イシカメ西州ニテコウズト云背ニ文アリ春水邊ノ土

 中ニ子ヲウム龜肉ハ食フヘカラス龜甲龜板ハ一物

 ナリ二物ニアラス藥ニ用ユ古ノ龜卜ハ腹ノ板ヲ用ヒ

 以荊ヤク其文ニヨリテ吉凶ヲ知ル法アリ○今按龜

 甲ハ石カメノ腹下ノ版ヲ用ユヘシ背上甲ヲ不可用本

 草又稱敗龜板龜甲モ龜板モ同物也大明曰卜龜

 小而腹下曾鑽十遍者名敗龜版入藥良龜ノ背

 腹上下共ニ甲ト云然𪜈龜甲ハ卽龜板腹下ノ板ナ

 リ敗龜板トハ龜卜ニ久ク用タル腹下ノ板ヲ云板モ亦

 甲ト云背ノ殻ニハ非ス蘓頌曰殻圓版白者陽龜也

 是殻ハ背ノ甲ナリ版ハ腹ノ甲ナリ時珍曰厴ハ可供卜

 殻可入藥則古者上下甲皆用之至日華始用龜

 板而後人遂主之矣今按本草主治ニモ殻ト板トヲ

 ワカツ丹溪曰下甲補陰主陰血不足綱目附方曰

 補陰丸丹溪方用龜下甲蒙筌云只取底版是皆

 腹ノ板ヲ可用也○本邦藥鋪往々以龜背上甲爲

 龜甲今考數書決可以腹下版爲龜甲也○龜尿

 ヲ用テ石ニ文字ヲ書ケハ墨石中ニ疾ク入リテ數百年ヲ

 歷テモ不滅尿ヲ取法朱ニテ塗タル平折敷ニ龜ヲ置其

 影朱折敷ニウルヲ見レハ尿出ル又時珍食物本草註

 ニ龜ヲ荷葉ノ上ニ置鏡ヲ見スレハ尿ス草木子曰龜尿

 可以和墨寫字入石

○やぶちゃんの書き下し文

「龜」 「イシガメ」。西州にて「コウズ」と云ふ。背に文あり。春、水邊の土中に子をうむ。龜の肉は食ふべからず。龜の甲・龜の板は一物なり、二物にあらず。藥に用ゆ。古〔(いにしへ)〕の「龜卜(〔き〕ぼく)」は、腹の板を用ひ、荊〔(いばら)〕を以つて、やく。其の文〔(もん)〕によりて吉凶を知る法あり。

○今、按ずるに龜甲〔(きつかう)〕は「石ガメ」の腹の下の版を用ゆべし。背の上の甲を用ゆべらず。「本草」、又、「敗龜板〔(はいきばん)〕」と稱す。龜甲も龜板も同物なり。大明、曰はく、『卜龜(ぼくき)、小にして、腹の下、曾〔(かつ)〕て鑽〔(さん)〕すること、十遍なる者は、「敗龜版」と名づく。藥に入るるに良し』〔と〕。龜の背腹・上下共に、「甲」と云ふ。然れども、龜甲は、卽ち、龜板、腹の下の板なり。「敗龜板」とは龜卜に久しく用ひたる腹下の板を云ふ。板も亦、甲と云ひ、背の殻には非ず。蘓頌、曰はく、『殻、圓〔(まる)〕く、版、白き者は「陽龜」なり』〔と〕。是〔の〕殻は背の甲なり。版は腹の甲なり。時珍、曰はく、『厴〔(へた)〕は卜〔(ぼく)〕に供〔(きよう)〕すべし。殻は藥に入るるべし。則ち、古〔(いにしへ)〕は上下の甲、皆、之れに用ふ。日華に至りて、始めて龜板を用ふ。而して後人、遂に之れを主(しゆ)とす』〔と〕。今、按ずるに、「本草」が「主治」にも、殻と板とをわかつ。丹溪、曰はく、『下甲は陰を補し、陰血の不足を主〔(つかさど)〕る。「綱目」が「附方」に曰はく、『「補陰丸」。丹溪の方〔は〕、龜の下の甲を用ふ』〔と〕。蒙筌、云はく、『只だ、底の版を取る』〔と〕。是れ、皆、腹の板を用ふべきなり。

○本邦の藥鋪、往々〔にして〕龜の背上の甲を以つて龜甲と爲す。今、數書を考ふるに、決して、腹の下の版を以つて龜甲と爲すべき〔もの〕なり。

○龜の尿〔(いばり)〕を用ひて石に文字を書けば、墨、石中に疾〔(と)〕く入りて、數百年を歷〔(へ)〕ても滅(き)えず。尿を取る法は、朱にて塗(ぬ)りたる平折敷〔(ひらをしき)〕に龜を置き、其の影、朱折敷にうつるを見れば、尿、出づる。又、時珍、「食物本草」の註に、龜を荷葉〔(はすのは)〕の上に置き、鏡を見すれば、尿す。草木子、曰はく、龜の尿、可以つて墨に和し、字を寫して、〔これ、〕石に入るべし〔と〕。

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、最初に一言言い添えておくと、「介類」パートなのに前の「鼈」(スッポン)といい、この「龜」といい、何で? と思われる方がいるかも知れぬ。そもそもが今までこの「大和本草」にしてからが「介類」パートに入ってからも、頭足類の「タコブネ」(これはタコが入っている貝という誤認だから違和感はない)や腕足動物の「メクハジヤ」(シャミセンガイ。これも未だに普通の貝類の仲間だと勘違いしている人も多いから問題ない)どころか、棘皮動物の「海膽(ウニ)」に、広義のエビの仲間である蔓脚類である「石蜐(カメノテ)」、或いは、真正のそれである節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目の「ワレカラ」だって、既にして「貝」類ではない。言っておくが、「介」と「貝」は微妙に違うのである。「貝」は現行では斧足類(二枚貝)・腹足(巻貝)と、せいぜい後鰓類(ウミウシの仲間)の中の有殻保有生物(陸生を含む)までであるが、僕らが小さな頃の「魚貝の図鑑」にイカ・タコの頭足類・蟹や蝦といった甲殻類、ヒトデやウニ・ナマコといった棘皮動物が載っていても何らの違和感がなかったように、「魚貝」類は元は「魚介」類なのであり、「貝」の原義は「水中に棲息する介虫(かいちゅう)類」であって、「介」の方はもっと広く「外側から覆って中身を守るもの」を指し、鎧状の甲殻物質や器官を指す語なのであり、されば、貝でないが、甲羅を持つカメや甲殻(或いはヤドカリのように防禦用の異物を取り入れる)を有するエビ・カニ、棘や骨片で形成された身体を持つヒトデもナマコも「介」類なのである。頭足類は今も体内にそれやその痕跡を有する種もある通り、元はちゃんとした甲殻を持っていた連中なのであり、そもそもが軟体であっても、それを蔽う外套膜は「外套」なのであって、内臓を守る立派な遮蔽防禦器官なのである。

 閑話休題。「大和本草」である以上はここに記された「イシガメ」は日本固有種(本来の分布は本州・四国・九州・隠岐諸島・五島列島・対馬・淡路島・壱岐島・佐渡島・種子島。東北地方でも記録があるが人為移入によるものとされ、本来の分布の北限は関東地方と考えられている。ここはウィキの「イシガメ」に拠った)である、

カメ目イシガメ科イシガメ属ニホンイシガメ Mauremys japonica

としてよい。但し、以下の「本草綱目」に出るそれは、本種ではない。それらは、イシガメ属 Mauremys というより、私はその上のイシガメ科 Geoemydidae 或いは、その上のカメ目 Testudines に留めておくべきかと考えている(後注「厴〔(へた)〕」を参照)。

「「龜卜(〔き〕ぼく)」平凡社「世界大百科事典」によれば、中国ではそれ以前に、山東省城子崖(竜山文化)などの新石器時代後期の遺跡から、既に羊・牛・豚或いは猪及び鹿の肩甲骨(これは本邦にも移入されて「鹿占」(ろくぼく/まにぶと)と呼んだ)を占いに用いたものが出土しており、灼(や)く個所を、あらかじめ、彫りくぼめた「鑽(さん)」をもつものもある(本文にも出る。「鑽」は「穴を空ける・穿つ」の意である。全く割れ目が入らないのでは占いの判じようがないので、プラグマティクに割れ易くするために、特定箇所をごく薄くするのではないかと私は思う)とあり、河南省安陽の殷墟からは、国事の決定を占うために用いた卜甲(ぼっこう:カメの甲羅を用いた亀卜。ここで益軒が拘っているように、事実、出土したものは背より腹の甲の方が多いとわざわざ注がある)や、牛・羊などの肩甲骨を材料とする鑽のある卜骨が大量に発掘されており、その数は何と十万点を超えるという、とある。

「大明」宋の本草学者。後に出る「日華」は「日華本草」で、彼の書いた本草書。「本草綱目」にはよく引かれている。

『曾〔(かつ)〕て鑽〔(さん)〕すること、十遍なる者は、「敗龜版」と名づく。藥に入るるに良し』思い至らなかったのであるが、亀卜も実は結構、発祥地である本家本元の中国でも、ごく倹約的な使用が、則ち、実用的な使い回しがなされていたことがこれで明らかになる。私などは、御大層に華々しく燃やした焚火の中に、カメの甲羅を投げ入れて占う、一回使い切りかとずっと思っていたが、確かに、勿体ない。割れ目は実はでっかくなくていいんだ。だから、大きなカメの甲羅のごく一部に割れ目を生じさせるための小さな鑽、窪みを作って薄くし、荊(茨)のごく小規模な焚火の中に入れて、たいして時間を経ずして取り出し、その鑽の箇所の小さな割れ目を見て占い、その後も何度も使い回しをしていたのだろう。「敗龜板」の「敗」は十数回も使用して、甲羅一面が罅(ひび)割れ、各所に孔が開いて敗れて=破れてしまった腹の下の甲の板を指すのであった。

「蘓頌」(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)は北宋の博物学者・機械学者(科学技術者)で宰相。ウィキの「蘓頌によれば、第七代皇帝『哲宗の命を受け、世界最初の天文時計「水運儀象台」を設計し』、一〇九二年『に工事が完成』すると、『蘇頌は丞相に任ぜられた』とある。

「厴〔(へた)〕」総てのカメではないが、カメの中には、首及び四肢を収縮させた上、手足のある当該部分の甲ハコガメ(イシガメ科 Geoemydidae のハコガメ属 Cuora。インド・東アジア・中国南部・台湾等に分布し、日本では石垣島・西表島のみに棲息する)の仲間は腹甲に、セオレガメ(リクガメ上科リクガメ科リクガメ亜科セオレガメ属 Kinixys。但し、総てアフリカ産熱帯種で本邦にはいない)の仲間は背甲に蝶番(ちょうつがい)があるを曲げて、完全に蓋をすることが出来る種がいる。ここはその蓋に相当する部分を「へた」(貝の「へた」と同じ)と称したものであろう。ここからも「本草綱目」のカメを私がカメ目 Testudines に留めておくべきだと考えたことが正しかったことが判る。ニホンイシガメは画像や動画を見る限り、それは出来ないようだからである。

「陰血不足」「陰血」は漢方で広義の血を指す。血は陰気に属するので、かく呼ばれる。

「丹溪の方」朱震亨(しゅしんこう 一二八一年~一三五八年:元代の医師。丹溪は号。初め、儒学を学んだが、後に医学に転じ、李杲(りこう:号は東垣)の系統の医学を学んだ。後に李杲と併称されて「李朱医学」と呼ばれた。著書に「局方発揮」「格致餘論」「丹溪心方」などがある)の処方。或いは前に出した「丹溪心方」のことかも知れない。

「蒙筌」明の本草学者陳嘉謨の撰になる実用を主眼とした本草書「本草蒙筌」。一五六五年成立。

「藥鋪」薬種屋。

「龜の尿〔(いばり)〕を用ひて石に文字を書けば、墨、石中に疾〔(と)〕く入りて、數百年を歷〔(へ)〕ても滅(き)えず」これについては、貴族院議員・衆議院議員を務め、美食家としても知られた木下謙次郎(明治二(一八六九)年~昭和二二(一九四七)年)が大正一四(一九二五)年に啓成社から出した「美味求真」の中で考証されており、木下氏は本「大和本草」のこの記載も紹介している。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから原典を視認出来るが、実に幸いなことに現代語訳原典擬古文)上に、では河田容英氏によって詳細を極めた解説考証がなされてある! 必見!!!

「平折敷〔(ひらをしき)〕」角(かど)を切らない折敷。現在の四角な盆と同じい。

『時珍、「食物本草の註」に、龜を荷葉〔(はすのは)〕の上に置き、鏡を見すれば、尿す』これは「本草綱目」を調べてみると、「水龜」の項に出る次の部分(太字下線はやぶちゃん)である。

   *

頌曰按孫光憲北夢𤨏言云龜性妬而與蛇交惟取龜置瓦盆中以鑑照之龜見其影則發失尿急以物收取之又法以紙炷火以其尻亦致失尿但差緩耳時珍曰今人惟以猪鬃或松葉刺其鼻卽尿出似更簡

   *

しかし、「食物本草」は元の李杲(りこう)著とされるが、刊行は明代の一六二〇年のもので、上記の冒頭の部分は前に注した宋の蘓頌の記載だからおかしい。さらにそこで蘓頌が引く「北夢𤨏言」は五代宋初の学者孫光憲の著作である。

「草木子」元末明初の葉子奇の撰になる、旧元の諸制度・見聞した事件の風聞及び、北宋の邵康節の自然哲学に基づいた天文地理学・生物学に関する記述などを記した、一種の随筆風評論。]

栗本丹洲巻子本「魚譜」 アマダイ (シロアマダイ)

 

豫州

 アマダイ

 

Amadaisei

Oosikou

             大洲侯■圖

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いたが、本図は魚体の頭部の尖端部分が切れているため、合成を施してある(今回の場合、二枚の画像の明度に微妙な差があるために、合成部がはっきり判ってしまうが、画像調整をすると、却って他の部分の色彩に変化が起こって、原画の色調バランスを損なうことから、補正は行っていない)。

 伊予国(愛媛県)産の、

条鰭綱スズキ目スズキ亜目キツネアマダイ科
Malacanthidae(アマダイ(甘鯛)科 Branchiostegidae)アマダイ属 Branchiostegus

の一種であるが、真写(原物の描画)でなく、転写の可能性も高いものの、頭部の形状と色彩から見て、

シロアマダイ Branchiostegus albus

と思われる。本邦で水揚げされるアマダイ類を比較するには、「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」のアマダイからスタートするのが手っ取り早いが、画像は小さいものの、当該ページ五種のアマダイ種(総て別種)を見ても、本図がシロアマダイに最も近く、シロアマダイがそれらの中でも有意に形状と色が異なることが判るウィキの「アマダイによれば、「シロアマダイ」は体長六十センチメートルにも達する大型種で、和名通り、『体が白っぽく、「シラカワ」とも呼ばれる』。また、尾鰭には不透明な淡い黄色の横縞(横帯)が入る本図では死んで時間が経っているからか、残念ながら全く描かれていない。言わずもがなであるが、魚の横縞とは頭を横にして魚体に対して縦方向、則ち、ここでは上から下に「垂直」が「横」である)。『本州中部からフィリピンまで分布し』、水深四十~六十メートルの砂泥底に生息する』。本邦産アマダイ類の代表種であるアマダイ三種、本種とアカアマダイ(Branchiostegus japonicus)及びキアマダイ(Branchiostegus auratus)の中では最大種にして、また最も美味とされ、珍重され、国内産では最も高価で取引される。「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」のシロアマダイによれば、『国産は少なく』、『超高級魚』『であり、卸値でキロあたり』一『万円を超えることがある』ともある。なお、同ページによれば、「アマダイ」という和名は『肉に甘みがあるから』とされる一方、「尼鯛」とも漢字表記し、アマダイ類の『横顔が頬被をした尼僧に似ているから』とある。実は私はアマダイを実際に食べたのは、二十代の半ばで、それまで魚類図鑑でしか、見たことがなかった彼女らを、まともに「尼鯛」だと思い続けていた。確かに私には尼さんに見えたのである。なお、ウィキの「アマダイによれば、アマダイ類は『オキツダイ(静岡)、グジ(京都・舞鶴・大阪』『)、クズナ(大阪・福岡・壱岐)、コビリ、コビル(山陰地方)、スナゴ(愛媛)等』の地方名を有する。【2018年5月5日補正・追記】公開後、原画像を改めて見たところ、次の図版との繋ぎ目の左下端に文字列があることが判った(気がつかなかったために、私の画像では誤ってカットしてしまった。国立国会図書館スケールセンチメートル二十九センチメートル)。合成をやり直すことも考えたが、合成は結構、神経を使い、現在、わけあってその作業をする余力がない。そこで、ここは追加で当該箇所を大画面で取り込み、そこだけをトリミングして翻刻の中に挿入して示すことにし、翻刻も追加した。三字目は潰れて判読不能できないが、「藏」か「寫」か、前者の方が自然のようには思われる。「大洲候」の「大洲」とは大洲(おおず)藩で伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)を中心に南予地方北東部から中予地方西部の伊予郡(現在の伊予市を中心とした地域)などを領有した藩であり、丹州の生没年から考えると、同藩第十代藩主加藤泰済(やすずみ 天明五(一七八五)年~文政九(一八二六)年)か、その長男で第十一藩主を継いだ加藤泰幹(やすもと 文化一〇(一八一三)年~嘉永六(一八五三)年)の孰れかである(丹州は天保五(一八三四)年没)。


 

2018/05/03

大和本草卷之十四 水蟲 介類 鼈(スッポン)

 

鼈 順和名曰加波加米今ノ俗ダウガメト云又スホント

 云○鼈肉能外提於下陷氣故久瀉ヲ止メ下血ヲ

 治シ脱肛ヲ收ム夏月土用捕テ鹽藏歷久者增佳

 如此之功本草不載之只其頭ヲ陰乾ニ乄脱肛陰

 脱ヲ治スル方アリ是雖水物有溫補性本草以爲性

 平或爲冷者何乎只別錄曰補中益氣補不足ト云

 者爲得之春ハ陸ニ上リ穴ヲホリ卵ヲ多クウム雀卵ヨ

 リ大ナリ食ヘシ本草ニ鹽ニヲサメ煨シ食フ止小兒下

 痢夏ニ至リテヒトリカヘワレテ小鱉トナル藥ニ用ル鱉

 甲ハ卽ダウガメノ甲也然ルニ近世本邦醫師ノ作レル書ニ

 海中ニアル大ガメノ甲トス藥肆ニモ海中ノ大龜ノ甲ヲ用

 ユアヤマリ也○按本草鼈身有異者皆能害人且本

 草ニ合食之禁多可省觀○俗ニスホント云ハ出没ノ

 轉訛ナルヘシト云能出沒于水中○本草云薄荷煮

 鼈能害人

 

○やぶちゃんの書き下し文

「鼈〔(ベツ)〕」 順の「和名」に曰く、『加波加米(カハガメ)』。今の俗、「ダウガメ」と云ひ、又、「スホン」と云ふ。

○鼈の肉、能く、下陷〔(かかん)〕の氣〔(き)〕を外提〔(ぐわいてい)〕す。故に久しき瀉を止〔(とど)〕め、下血〔(げけつ)〕を治し、脱肛を收む。夏月の土用、捕つて鹽藏し、久しきを歷(ふ)る者、增々〔(ますます)〕佳し。此くのごときの功、「本草」に之れを載せず。只だ、其の頭を陰乾にして、脱肛・陰脱を治する方、あり。是れ水物〔(すいぶつ)〕と雖も、溫補〔(をんほ)〕の性〔(しやう)〕有り。「本草」、以つて『性、平』と爲し、或いは『冷』と爲〔(す)〕るは何んぞや。只だ、「別錄」に曰く、『中を補ひ、氣を益し、不足を補ふ』と云ふは、之れを得〔(とく)〕と爲〔(な)〕す〔なり〕。春は陸に上り、穴をほり、卵(かいこ)を多く、うむ。雀の卵より、大なり。食ふべし。「本草」に鹽にをさめ、煨(う〔ゑ〕い)し、食ふ。小兒の下痢を止〔ましむ〕』〔と。〕夏に至りて、ひとり、かへ〔り〕、われて、小さき鱉〔(べつ)〕となる。藥に用ふる。鱉甲〔(べつかう)〕は、卽ち、「ダウガメ」の甲なり。然るに、近世、本邦の醫師の作れる書に、海中にある「大がめ」の甲とす。藥肆にも海中の大龜の甲を用ゆ。〔これ、〕あやまり、なり。

○「本草」を按ずるに、鼈の身〔には〕、異〔なる〕こと有る者、皆、能く人を害す〔と〕。且つ、「本草」に合食〔(くひあはせ)〕の禁、多し。省〔(かへ)り〕觀るべし。

○俗に「スホン」と云ふは、「出没(しゆつぼつ)」の轉訛なるべしと云ふ。能く、水中に出沒す〔ればなり〕。

○「本草」に云はく、『薄荷〔(はつか)〕〔にて〕鼈を煮る〔は〕、能く人を害す』〔と〕。

 

[やぶちゃん注:爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis(本邦産種を亜種Pelodiscus sinensis japonicusとする説もある)。

「ダウガメ」多くの本や記載では、現在の「スッポン」は江戸時代には「ドロガメ」と読んでいたと書かれてある。確かに水底の泥の中に潜んでいることが多いから、それで無批判に信じそうになるが、「泥龜」は淡水産カメ類なら、汎用的であるし、「荘子」の昔から、カメは尾を泥中に曳いているのであって、私はどうもこれは食用とし得るスッポンに代表される中・大型のカメ類の総称の方がしっくりくる。寧ろ、ここで益軒の記す「ダウガメ」の方がそれらしくて気になるのである。まず、これは決して書き誤り足り得ぬ文字列であるから、「ドロガメ」の誤記説は退ける。そこでやおら、私は、正規の歴史的仮名遣上では違う(違っても、江戸の庶民は歴史的仮名遣をかなり間違えていたから問題にはならない)のだが、これは私は「胴龜」(歴史的仮名遣「ドウガメ」)ではないかと推理する。スッポンは標準的最大甲長で三十八・五センチメートル、ごく稀れには六十センチメートルもの巨大個体も存在するから、「胴」染みた小型・中型の酒樽みたような感じになること、しかも甲羅表面が他のカメと異なり、角質化せず軟らかく、甲羅と体の主要部が強い一体性を持っている感じを与え、それはカメ以上に胴状の甕か樽から手足が妖怪の如く、ニョッキリと、出たり、入ったりするように見える。されば私は断然、「胴龜」で採りたくなるのでる。大方の御叱正を俟つ。

「スホン」「す」と「ほ」は続けて発音するには口唇が同形になるので、難しいから、私は江戸時代に、このまま発音していたとは、私は考えにくく、これで既に「すぽん」「すっぽん」と読んでいたのではないかと推理する。

「下陷〔(かかん)〕の氣〔(き)〕」漢方で内臓の下垂や慢性の下痢(本文の「久しき瀉」)などを意味する。

「外提〔(ぐわいてい)〕」不詳であるが、恐らくは外部から投与したものによって、有る症状を抑制して統(す)べる、という意味のような気がする。

「下血」内臓性或いは消化器系疾患による肛門からの出血。

「脱肛」痔疾の一つで、肛門の粘膜や直腸下端の粘膜が肛門外に出てしまう症状。

「夏月の土用」「土用」は陰陽五行説に基づく節期で正式には「土旺用事(どおうようじ)」と呼ぶ。春・夏・秋・冬をそれぞれ五行の木・火・金・水に当て、土を各季節の終わりの十八日間に該当させたもので、立春・立夏・立秋・立冬の前の十八日間の季節の変化時期を「土用」としたものであるが、現行では一般的に立秋前の十八日間の「夏土用」を指し、この期間を別に「暑中」とも呼ぶのである。例えば、今年二〇一八年の夏の土用は八月七日が立秋であるから、七月二十日から八月六日となる。

「陰脱」女性生殖器の膣脱・子宮脱を指す。

「水物〔(すいぶつ)〕と雖も、溫補〔(をんほ)〕の性〔(しやう)〕有り」漢方では薬材や食材を「熱」・「温」・「平」・「涼」・「寒」の五性(ごしょう)に分け、「熱」と「温」は身体を温める性質で「温」は穏やかに体を温め、「熱」は「温」よりも強く温める性質を指す。「平」はフラットな中間的性質、体を温めも冷やしもしないことから、長期に服用・摂餌しても偏りを生じないものを指し、「寒」「涼」は体の熱を冷ます性質で「涼」は「温」のい対、「寒」は「熱」の対となる。但し、水産生物だからと言って、体温より低い「寒」「涼」の性を持つものではないから、この益軒の「水物と雖も」という謂いは、或いは、そういう風に単純に五性を考えてしまう素人へ向けての注意喚起かも知れぬ。

『「本草」、以つて『性、平』と爲し、或いは『冷』と爲〔(す)〕るは何んぞや』本草書のバイブル的存在である明の李時珍の「本草綱目」の記述に益軒先生、かなりムッときて、反論しているのである。「本草綱目」の「鼈」の記載は非常に長いものであるが、確かに益軒の言うように「鼈」の肉の「性」を「平」「冷」としている。

「別錄」中国で、三~四世紀に成立したと推定される「名醫別錄」。七百三十品以上の薬物を記述したものと思われ、「本草綱目」にはしばしば引かれているが、散逸して、原本は現代には伝わらない。

「中を補ひ、氣を益し」漢方で「中」は現在の「胃腸」相当を指し、「益氣」は正常な気の流れを生み出させるという意。胃腸の消化吸収を整えて正常な気の流れを生み出す。漢方に於ける最も代表的な基本処方である。

「之れを得〔(とく)〕と爲〔(な)〕す〔なり〕」スッポンは薬餌として絶大な効果が得られる有益な薬剤であり、食材である、と規定している。

「春は陸に上り、穴をほり、卵(かいこ)を多く、うむ」スッポンの産卵期は五月中旬から九月初旬までと長く、通常時はスッポンは陸に上がらないが、産卵時は陸に上がって地面を掘り、土の中に卵を産む。こちらで上野不忍池に於けるスッポンの産卵の様子が動画で見られ、そこで卵の大きさも概ね、判る。

『「本草」に鹽にをさめ、煨(う〔ゑ〕い)し、食ふ。小兒の下痢を止〔ましむ〕』「本草綱目」「鼈」に時珍の言として『卵主治鹽藏煨食止小兒下痢』とある。「煨」は本邦では見かけない漢字ではあるが、「大辞林」に「煨(ウェイ)」として載り、中国語とし、『中国料理の調理法の一』つで、『ごく弱火で長時間煮込むこと』とある。

「ひとり、かへ〔り〕、われて」原文のままでは意味が採れない(私には)ので、かく処理し「(親が温めたりしないでも土中で)自然に孵(かえ)り、殻が割れて」と訓じた。誤りがあるならば、御教授あられたい。

「藥に用ふる」これは生まれたばかりの子スッポンをの意であろう。

『近世、本邦の醫師の作れる書に、海中にある「大がめ」の甲とす。藥肆にも海中の大龜の甲を用ゆ。〔これ、〕あやまり、なり』「藥肆」は薬種屋。この「本邦の醫師の作れる書」は不詳。但し、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」(リンク先は私の古い電子テクスト注。良安の当該百科事典は益軒の死の二年前の正徳二(一七一二)年に完成している)の「瑇瑁(タイマイ)」の項には、はっきりと『俗に龜甲を以て鼈甲と名づくは甚だ誤りなり』と記している(益軒先生は流石に同書を見てないだろうな。ちょっと残念な気がする)。そこの注で書いたのだが、実は私も何で「鼈」=スッポン(潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科Trionychinaeの仲間)の甲羅が「鼈甲」なのか、長く疑問なのであったが、「鼈甲」は、実は中国では確かに「スッポンの背甲」を指し、工芸品の「鼈甲」を指さないのである。文字通りの真正の「スッポンの甲羅」である「鼈甲」は乾燥させて粉末にし、漢方で「土鼈甲」と呼んで薬用としていたのである。我々の知る海産ウミガメのタイマイ(潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科タイマイEretmochelys imbricata)の甲羅を煮詰めて作った材料からの工芸品としての「鼈甲」はそもそもがこれ、国字であったのである。実は江戸時代、寛文八(一六六一)年の贅品輸入禁止令及び倹約令のお達しは、鼈甲の原料の玳瑁にも及んだが、それ以後も実際には取り引きされた。その際、これは瑇瑁ではなくスッポンの甲羅ですと言いくるめたところが、「鼈甲」の由来という。益軒が憤激している、この「大和本草」は宝永七(一七〇九)年に刊行されたものである。実はそこにこんなバレバレの真っ赤な鼈甲、じゃない、嘘が背景が隠れていたのである

『「本草」を按ずるに、鼈の身〔には〕、異〔なる〕こと有る者、皆、能く人を害す〔と〕』ここには決定的ではないが、益軒のやや読み違いがあるように思われる。「本草綱目」には「能鼈」というスッポンの異物、別名を「三足鼈」三本足(四肢の一本が欠損)のカメを挙げており、そこに『肉氣味大寒有毒』とし、『食之殺人』(之れを食へば、人を殺す)とあるのがそれだ。この能を「鼈」から切り離してしまい、副詞として誤読した結果、「名無しの毒ガメ」ということになってしまったのではなかろうか? なお、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」でもこれ「みつあしのかめ 三足龜」を「賁龜」(ふんき)として項立てしている。但し、そこでは良安は殺人毒の話をせず、専ら、本邦の奇形カメやアルビノ(白化個体)の白ガメの古記録を掲げていて、奇瑞収集記の体(てい)に傾斜してしまっていて、ちょっとヘンである。

「合食〔(くひあはせ)〕」本邦の「食い合わせ」と同義で採ってかく訓じておいた。

「省〔(かへ)り〕觀るべし」省察してみる価値はあろう。

『俗に「スホン」と云ふは、「出没(しゆつぼつ)」の轉訛なるべしと云ふ。能く、水中に出沒す〔ればなり〕』「スッポン」の語源については幾つかあり、「言海」ではポルトガル語であるとする説があると記し、また、それは見た目から男性器に関わるポルトガル語「スボ」由来とするちと怪しげなもの、さらに江戸後期の元商人で歌人・文筆家であった伴蒿蹊(ばん こうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年:生家は近江八幡出身の京都の商家であったが、八歳で本家の近江八幡の豪商伴庄右衛門資之の養子となり、十八歳で家督を継ぎ、家業に専念、三十六歳で家督を譲って隠居・剃髪、その後は著述に専念した)の享和元(一八〇一)年刊の随筆「閑田耕筆」の「巻之三 物之部」に『鼈をすぽんといふ』は『其鳴聲によれり。是は間遠(マドホ)に「すぽんすぽん」といふ。夜に』『及びて聞』けり、などと記すが、スッポンに発声器官はないから、何らかの他の動物の鳴き声の誤認であり信用出来ない。スッポンが川に飛び込んだ際の音を表わしたという擬音説もあるけれど、産卵期以外はあまり陸に上がりたがらない(但し、上がると意想外に早く走るし、そのままズッポンと水には入る)から、これもなんだかな、という気はする。しかしこの「出没」→「すっぽん」転訛説というのも、ちょっと苦しそうだ。私はつるんペロンとした体表と、あのファルス的な頸部から「すっぽんぽん」の丸裸かな? なんて考えてはいたのだがね。お後がよろしいようで……

大和本草卷之十四 水蟲 介類 チシヤコ(キサゴ)

 

【和品】

チシヤコ 小螺ナリ殻薄シ赤白ノ紋アリ海ニアリ形扁

 シ蝸牛ノ狀ニ似テ小ナリ殻ニ斑文アリ有紅有白小兒

 其カラヲツラヌキアツメテ玩トス

○やぶちゃんの書き下し文

「チシヤゴ」 小〔さき〕螺〔(にな)〕なり。殻、薄し。赤・白の紋あり、海にあり。形、扁(ひら〔た〕)し。蝸牛の狀〔(かたち)〕に似て、小なり。殻に斑文あり。紅〔(くれなゐ)〕有り、白有り。小兒、其のからをつらぬきあつめて、玩〔(ぐわん)〕とす。

[やぶちゃん注:これは、殻上面に赤色・褐色・暗褐色・黄色などのバラエティに富んだ色を有する個体が有意に多い、

腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科キサゴ亜科キサゴ属キサゴ Umbonium costatum

或いは、

キサゴ属イボキサゴ Umbonium moniliferum

や、上記種などよりも青灰色・藍がかった黒色の斑紋に白い部分が有意に多く認められる、

サラサキサゴ属ダンベイキサゴ Umbonium giganteum

が挙げられる。しかし、広義の

キサゴ亜科Umboniinae

のキサゴ類も含むと考えねばならない。例えば、キサゴ亜科 Monilea 属ヘソワゴマ Monilea belcheri であるとか、キサゴ亜科Ethalia キサゴモドキ Ethalia guamensis などは非常によく似ていて、一緒に並べたら、素人には全く区別がつかないと思われる。但し、キサゴ類は他にも「シタダミ」「ゼゼガイ」などの異名が多いが、その分だけ、上記以外の、巻き方に扁平性が有意にあり、同一域に棲息する似たような他種も多いことから、それらをも広く包含して称して(いた)いる可能性は現在でも非常に高いので、これらだけに限定するのは考えものではある。

 

 なお、「チシャゴ」は「小さき子(かひ)」の意ととるよりは、「キサゴ」の転訛とするのが良いと思うし、通汎の「きさ」とは古語に「橒(きさ)」があり、これは「樹の木目(もくめ)」の意であるから、これらの貝類の表面の模様から見ても、それが語源の可能性が高いように私には思われる。ダンベイキサゴ(本集中部以南に分布)の成貝は殻幅四・五センチメートルを越える個体も珍しくない、日本産キサゴ類の最大種であるが、漢字では「団平喜佐古」と書き、この「団平(團平)」は、昔、荷を運んんだ頑丈な川船を指す名であるから、腑に落ちる。キサゴ類は、古く(縄文時代)から食用とされ、また、その殻が子どもの「おはじき」の原材料とされたことでも知られるが、特に私の住む三浦・湘南や関東地区では「シタダミ」という呼称は、明らかに現在も普通に食用とするダンベイキサゴを専ら指す。

 吉良図鑑(教育社昭和三四(一九五九)年改訂版)では、キサゴとイボキサゴ(本集中部以南に分布)の殻形状上の明瞭な判別法はないとしつつ、吉良先生の永年の観察記録から、キサゴは三・五センチメートル以上に大きくなるが、イボキサゴは二センチメートル以下が通常個体である。キサゴは棲息深度がやや深く外洋性であるのに対し、イボキサゴは甚だ浅く、内湾性である(ということは、死貝のビーチ・コーミングは別としても、我々が海浜域で見かける生貝は多くがイボキサゴであるということになる)。キサゴは臍の領域が狭いのに対して、イボキサゴはキサゴの約二倍と広い。キサゴは『その色斑紋が殆ど一定して単に濃淡』の差がある』『のみである』のに対し、『イボキサゴは斑紋』に『多くの変化』『があり、且つ、『地色も赤褐色』から『藍黒色まで雑多である』という違いがあると推定される、と記しておられる。]

写真画像夢

 

ブラック・バックの画面――モノクロームの写真である――

奥の祭壇に肩を出した真っ白なウェデイング・ドレスを着た若い女性が笑顔で立っている――彼女は今しも祭壇から降りようとしている――その彼女の右手を初老の燕尾服を着た彼女の父らしき人物が左手で支えている――

その写真を――私は実に――就寝してから今朝未明に目覚めるまで――ただ八時間余り――凝視し続けていた……

こんな静止画像の夢は初めてだった。
その女性には、どこか見覚えがあるのだが、どうして思い出せないでいる。
ただ、私はその画像を夢見ながら、
『その女性は今は離婚している』
と感じていたのであった。

そうして目醒めた時――ひどく哀しい気持ちになったのを確かに覚えている。……

栗本丹洲自筆巻子本(国立国会図書館所蔵・第1軸)「魚譜」始動 / マンダイ (アカマンボウ)

 

[やぶちゃん注:栗本丹洲の自筆になる軸装「魚譜」を始動する。これは以前に本カテゴリ「栗本丹洲」で最初に電子化注した、エイ・サメ・ギンザメを主体とした巻子本の「魚譜」とは、全く異なるものである。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像を用いた。磯野直秀先生の解題によれば、巻子本は『「鯛」の名がつく魚』の合計七十九品の図譜であるが、『本物のタイの類は少なく、コブダイ(ベラ科)やイシダイ(イシダイ科)などが大半を占める』。但し、このうちの『約半数』は実物をそのまま写したもの(真写)ではなく、先行する讃岐高松藩第五代藩主で博物学でもあった松平頼恭が作らせた「衆鱗手鑑(てかがみ)」(原本は行方不明となり、目録のみが残っていたが、その関係する一部(献上本残欠或いは転写本の一部)が現代になって発見されている)や「衆鱗圖」から『の転写である』とある。

 虫食いや汚損がかなり見られるが、上下左右のトリミングは行ったが、原サイトの写真が魚体を分離している場合の合成以外は、補正は加えていない。大きな魚体では25%で、他は概ね50%の表示画像を使用した。

 本巻子本の図のキャプションは極めて簡便であるので、総て、図の前に電子化して配し、必要な場合は直後に《 》で推定訓を添えて整序(一部に読みも推定で歴史的仮名遣で添えた)したものを示した。例えば、今回の例を見よ)。原典の表記のママとし、正字か略字かに迷ったものは正字で示した。二行割注っぽいものは【 】で同ポイントで示した。【2018年5月3日始動 藪野直史】]

 

 

万年ダイ 又 マンダイ 又云萬寳ダイト云   栗瑞見手寫㊞

《「万年ダイ」。又、「マンダイ」。又、云(い)はく、「萬寳(まんばう)ダイ」と云(い)ふ。   栗瑞見(りつずいけん)手づから寫す㊞》[やぶちゃん注:丹洲は養父を継いで江戸幕府奥医師四代目栗本瑞見を名乗った。㊞は「丹州」と読める。]

 

Manendai

 

[やぶちゃん注:やや滑稽で可愛らしく見えるものの、これは間違いなく、

条鰭綱アカマンボウ目アカマンボウ科アカマンボウ属アカマンボウ Lampris guttatus

(英名:opah(オゥパー))を写したものである。アカマンボウ(赤翻車魚)という名であり、ちょっと魚体がマンボウに似て見える(私はマンボウの形状上の最大の特異点である舵鰭、及び、背鰭・腹鰭・胸鰭の伸び様の相違に着目すれば、似ているとは決して思わない)ものの本種は、条鰭綱フグ目フグ亜目マンボウ科マンボウ属マンボウ Mola mola 及びその仲間(マンボウ属の種の問題は丹洲の「翻車考」のオリジナル翻刻注(ここから連続で全十回)以前から、さんざん述べてきたので、ここでは繰り返さない。例えば、最初にそれを注した『栗本丹洲 単品軸装「斑車魚」(マンボウ)」』の私の注を参照されたい)とは全く別種であるので注意されたい。実は、一見、似ても似つかない、長大な長さで知られる神秘的な深海魚、リュウグウノツカイ同種はまさにアカマンボウ目 Lampriformes に属す、リュウグウノツカイ科リュウグウノツカイ属リュウグウノツカイ Regalecus glesne なのである)に近い仲間なのである。以下、ウィキの「アカマンボウ」より引いておく。全長は二メートル、体重二百七十キログラムほどにも『なる大型魚である。体は円盤形で、左右から押しつぶされたように平たい。口は前に少し突き出ていて、歯がない。体はタチウオのように銀色で、白いまだら模様があり、小さくて剥げやすい鱗に覆われる。ひれと口元、目の周りは鮮やかな赤色で、胸びれ、背びれの前端部、腹びれが鎌状に長く発達する。側線は胸びれの上で背中側に大きく曲がっている』。『外見や生態は和名のとおり』、『マンボウにも似ているが、分類上はまったく別の魚である。マンボウと違って尾びれをもち、胸びれ』もマンボウのように萎縮した丸いものではなく、『水平に長く発達している。なお、ラテン語での目名、科名、属名は、「輝かしい」「明確な」という意味のギリシャ語 lampros に由来し、名のとおり』、『鮮やかな外見の魚といえる』。『世界中の熱帯・温帯の海に広く分布し、外洋域の水深』五百メートル『までの表層・中層に生息する。ただし人目に触れない環境に生息しているため、生態についてはほとんどが不明である』。『マグロなどと同様に、胸びれと尾びれを使って泳ぎながら生活していると考えられている。食性は肉食性で、クラゲ、イカ、オキアミ、小魚などを捕食する。いっぽう、敵はアオザメやホホジロザメといった外洋性の大型のサメである』。『稚魚は細長く、リュウグウノツカイの稚魚に似ているが、背びれと腹びれが長く伸びないので区別される。やがて体が円盤状になり、成魚の姿へと変わってゆく』。二〇一五年五月に、『アメリカの海洋大気庁の研究チームにより、アカマンボウには魚類で唯一、血液の温度を保つ機能があることが確認された。アカマンボウには、心臓とえらの間に特殊な血管の絶縁網があり、心臓から送られた温かい血液が、えらが取り込んだ海水によって冷やされた血液を温めなおす体の作りをしている。これにより、アカマンボウは周辺の海水よりも』五『度ほど高い体温を保つことができるようになっており、深海でも活発な活動が可能とされ』、『これは哺乳類や鳥類と』、『ほぼ同じ体温維持の方法である』。『味がよく、食用にされ、ハワイや沖縄などでは珍重されている。アカマンボウは需要が低く、またその特異な体型から運搬、調理の際に一般的な規格(発泡スチロールやまな板の大きさなど)が通用しないため、専門に漁獲されることはないが、延縄などでマグロに混じって漁獲され』、『マグロのような赤身で食味も似ている』ことから、『日本ではマグロの代用魚として利用されている』。『調理については、腹側を刺身で、背側をムニエルなどの加熱調理用とすると良い』。『マンダイ、マンボウ、ヒャクマンダイ、金魚とも呼ばれている』。『南半球には Lampris immaculatus(英名:southern opah)という種類が分布している。全長』一メートル『ほどで、アカマンボウより小型である』。『アカマンボウ目には多くの魚が分類されるが、その中のアカマンボウ科には』一属二種』『しかいない』とある。

 なお、丹洲の「栗氏魚譜」にも本種の図が載る。優れた写本は旧澁澤敬三(渋沢栄一の嫡孫で日本銀行総裁を務めた)蔵品で、現在、国文学研究資料館蔵の「祭魚洞文庫旧蔵水産史料」のそれで、人間文化研究機構国文学研究資料館」「電子資料館」の「収蔵歴史アーカイブズデータベース」にある「栗氏魚譜 九」の「50・51・52」画像で閲覧でき、その人間文化研究機構国文学研究資料館データベース利用規程(PDF)に従えば、「オープンデータのタイトル」(上記太字部分)及び「人間文化研究機構国文学研究資料館」(上記太字リンク部分)と、「クリエイティブ・コモンズ表示 4.0 ライセンスCC BY-SA」(https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.jaをクレジットすることで、非営利での画像の使用が可能であることから、以下に示すこととする。本図は巨大魚であり、それを示すために已む無く(以下のキャプション翻刻を参照)特殊なレイアウトとなっており、三組の見開き図からなっている。さらに、その余白箇所にはモノクロームで小型の全体図が示されているという、驚きの優れものである。まず、画像を示す。

 

0319_353

 

0319_354

 

0319_355

 

本図には、実は「52」の後、「53・54・55」で本「マンダイ」についての詳細にして厖大な解説が載るが、これは将来的に「栗氏魚譜」の電子化で翻刻することとして省略し、その最初のページのキャプションのみを以下に翻刻しておく。

 

□翻刻1(「栗氏魚譜 九」の「マンダイ」の冒頭にあるキャプション。原典そのまま。【 】は赤字で、写した人物が附したものと思われる。翻刻は本巻子本「魚譜」に準じた)

マンダイ 又名錦ダイ 又萬寳ダイト呼フ

又名萬年鯛ト云【三卷ニモ圖アリ】

 

脊ヒレ立テ上ニ向ヒ腹下ノ両鰭モ下ヲ指テ

彎曲セス此巻紙ナキユヘニ彎曲シテ図セ

リ全体ニモ丸ミアリ其状方ナルヤウニモ見

 

 

□翻刻2(概ね、カタカナをひらがなにし、句読点や記号・濁点、及び、推定で送り仮名や語句を添えて整序した)

「マンダイ」。又、「錦ダイ」と名づく。又、「萬寳ダイ」と呼ぶ。又、名づけて「萬年鯛」と云ふ【三卷にも圖あり。】。

脊びれ、立ちて、上に向かひ、腹下の両鰭も下を指して彎曲せず。此の巻、紙なきゆへに、彎曲して図せり。全体にも丸みあり。其の状、方(はう)なるやうにも見ゆ。

 

キャプション割注の「三卷にも圖あり」というのは、同じく、国文学研究資料館蔵の「祭魚洞文庫旧蔵水産史料」の人間文化研究機構「国文学研究資料館」の「電子資料館」の「収蔵歴史アーカイブズデータベース」にある「栗氏魚譜 三」先の私の記載で利用条件はクリアーされていると判断する)に載る「ベニダイ」と冒頭標題するもので、以下の画像である。左の別な魚の尾鰭と腹鰭の一部が出るが、トリミングをすると、加工要件を示す必要が発生するので、そのまま示した。

 

0319_138

 

このキャプションも電子化しておく。

 

□翻刻1(前に同じ。但し、「トモ」の約物は正字化した。【 】は同前でやはり原典は赤字)

ベニダイ【九卷ニモ図アリ】

 萬(マン)ダイトモ云極大ナ

 ルモノ長サ四尺許

 アリ百万ダイト云

 人誤テ百万歳ト呼

 瑞物トシテ珍賞ス

 ルモノ也

 

 

□翻刻2(前に同じ。〔 〕は私の添え字で、「也」は平仮名化した)

「ベニダイ」【九卷にも図あり。】。

「萬(マン)ダイ」とも云ふ。極大なるもの、長さ、四尺許りあり。「百万ダイ」と〔も〕云ふ。人、誤りて、「百万歳」と呼び、瑞物として珍賞するものなり。

 

なお、本図は荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(一九八九年平凡社刊)の二一二~二一三ページに見開きで美しく載るので、機会があれば是非、ご覧戴きたい。そこで荒俣氏は『この人工的図像は西洋バロックの奇想をはるかに超越して』おり、『永遠の傑作といえよう』と絶賛されておられる。全く以って同感である。]
 

2018/05/02

大和本草卷之十四 水蟲 介類 河貝子

 

河貝子 河螺ナリ順和名曰和名美奈俗用蜷字非

也小ナル長螺ナリ本草ニ蝸蠃一名螺螄別錄曰蝸

螺生江夏溪水中此類ナルヘシ山谷溪水溝渠ノ内或

大木ノ傍ニ付テ有之形長ク頭口大ニ末小ナリ土人

煮食フ海水ニモ長螺アリ溪水ニアルト形同シ藥ニ入ニ

ハ河水ニアルヲ用ユ河螺ニハ田螺ノ形ナル圓ハナシ三才

圖繪云蠃生溪澗中者絶小食苔而潔蠃今作螺

○天蛇毒ト云瘡アリ手足ノ指ノ本末ニ生ス

ルヲ俗ニウラブトヽ云本ニ生スルヲ本ブトヽ云早ク治セサレハ

指クサリ切ルヽ事アリ河貝子ヲ燒テ存性爲末ウスノリ

ニ和シハレタル指ニコトコトクヌリ上ニ紙ヲオホフヘシ口未ミエ

スハノコラスヌルヘシ口スデニ見エハ口ニナル所ヲアケテヌルヘシ

此藥大ニ驗アルコト餘藥ニ甚マサレリシハシハ驗ヲヘタリ

海螺及潮入地ニ生スル螺ハ不可用右ノ方亦和方ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

「河-貝(みな)子」 河-螺〔(かはにな)〕なり。順〔したがふ〕が「和名」に曰はく、『和名、「美奈」。俗に「蜷」の字を用ふるは非なり』〔と〕。小なる長螺〔(ながにな)〕なり。「本草」に、『蝸蠃(〔くわ〕ら)。一名、螺螄(らし)。「別錄」に曰はく、『蝸螺、江に生ず。夏、溪水中〔にあり〕』〔とあるは〕、此の類なるべし。山谷の溪水・溝渠の内、或いは、大木の傍(かたはら)に付きて、之れ、有り。形、長く、頭口(とうこう)、大に〔して〕、末(すゑ)、小なり。土人、煮て食ふ。海水にも長螺あり。溪水にあると、形、同じ。藥に入るるには、河の水にあるを用ゆ。河螺〔(かはにな)〕は田螺〔(たにし)〕の形なる〔やうな〕圓(まる)きは、なし。「三才圖繪」に云はく、『蠃は溪澗の中に生ずる者は絶〔(はなは)〕だ小なり。苔を食つて潔し。蠃、今、「螺」に作(な)す』〔と〕。

○「天蛇毒」と云ふ瘡〔(かさ)〕あり、手足の指の本・末に生ずるを、俗に「ウラブト」と云ひ、本に生ずるを「本ブト」と云ふ。早く治せざれば、指、くさり、切るる事、あり。河貝(みな)子を燒きて性〔(しやう)〕を存し〔たるままに〕末〔(まつ)〕と爲し、うすのりに和し、はれたる指に、ことごとくぬり、上に紙をおほふべし。口、未だみえずば、のこらず、ぬるべし。口、すでに見えば、口になる所をあけて、ぬるべし。此の藥、大いに驗〔(しるし/げん)〕あること、餘の藥に甚だまされり。しばしば、驗、をへたり。

海螺及び潮の入る地に生ずる螺〔(にな)〕は用ふべからず。右の方〔(はう)〕、亦、和方なり。

[やぶちゃん注:ここ以降の訓読では、読解上、あった方がよいと思われる語句を〔 〕で本文に組み込むこととした。

 これは複数の別種をひっくるめている。まずは「河貝子」(これは「河貝」にのみ「みな」とルビを振っている以上、「みなご」或いは「みながひ」と訓じているように私は思う)は通常、現代では狭義の、

軟体動物門腹足綱吸腔目カニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina

を指す語なのであるが、しかし、ここでは比較的近縁な、

カワニナ科 Pleuroceridae 及びトウガタカワニナ(トゲカワニナ)科Thiaridae

の尖塔螺旋型の同形状をしたものも当然、含まれることになる。ところが、益軒はここで「山谷の溪水・溝渠の内」以外に、「大木の傍(かたはら)に付きて、之れ」がいる、と述べているのが、大問題なのであって、これは、明らかにそれらとは全く別種である陸生貝類、則ち、カタツムリやナメクジと同類の、尖塔螺旋形状を成すところの、

腹足綱有肺目キセルガイ科 Clausliidae

辺りをも含めているのである。しかも、「海水にも長螺〔(ながにな)〕あり」とあるから、ここには、当然の如く、

カニモリガイ上科ウミニナ科ウミニナ属ウミニナ Batillaria multiformis

を代表とする、

ウミニナ科 Batillariidae

の貝類が含まれることになり、さらに面倒なことに、実はそれらとは別種でありながら、やはりよく似た尖塔螺旋形状を成す海産腹足類までも挙げておかなくてはならないということになるである。

『順〔したがふ〕が「和名」』平安中期に源順(したごう)によって編せられた辞書「倭名類聚鈔」。

『和名、「美奈」。俗に「蜷」の字を用ふるは非なり』この決定的な根拠は不明であるが、少なくとも順は「みな」と「にな」(「蜷」は巻貝の意)は語源的に全く異なるものだという立場に立っているように私には思われる。

「本草」明の本草学者李時珍の「本草綱目」完成は一五七八年であるが、十八年後の板行されたのは時珍の亡くなった三年後の一五九六年。

「別錄」中国で、三~四世紀に成立したと推定される「名醫別錄」。七百三十品以上の薬物を記述したものと思われ、「本草綱目」にはしばしば引かれているが、散逸して、原本は現代には伝わらない。

「蝸螺、江に生ず。夏、溪水中〔にあり〕」正確には「本草綱目」(巻四十六の「蝸蠃」)では『別錄曰蝸螺生江夏溪水中小于田螺上有稜』である。

「溝渠」(こうきょ)は給水や排水のために土を掘った溝(みぞ)のこと。

「頭口(とうこう)」巻貝の口辺部、筍状を成す上記の貝類では確かに「頭」に見え、貝殼の「口」ではある。

「三才圖繪」通常は「三才圖會」。明の王圻(おうき)と、その次男王思義によって編纂された、絵を主体とした中国の類書(百科事典)。一六〇九年出版。全百六巻。

に云はく、『蠃は溪澗の中に生ずる者は絶〔(はなは)〕だ小なり。苔を食つて潔し。蠃、今、「螺」に作(な)す』〔と〕。

「天蛇毒」一般には漢方では毒蛇や毒虫などの毒による全身性の潰瘍性皮膚疾患を指すようだが、以下を見ると、「ブト」という疾患名が気になる。これは本邦の「根太」(ねぶと)と酷似した呼称だからである。根太は、主に背中・大腿部・臀部などに生ずる腫れ物を広く指す語で、多くは黄色ブドウ球菌の感染によって毛包が炎症を起こし、膿んで痛む毛嚢炎が相当する。別に「固根(かたね)」とも呼ぶのであるが、これは江戸時代、別に性感染症によるリンパ節腫脹などもかく呼んでいるはずである。実際に、ニナ類は潰して「おでき」に塗るとよいという民間療法が、古くから本邦には(まさしく益軒の言う「和方」である)あった。

「うすのり」穀粒を潰して水を加えて伸ばした薄糊であろう。]

悲しみは終りがなく、幸せはそうじゃない。

 

Tristeza não tem fim, Felicidade sim.

ヴィニシウス・ヂ・モライス(Marcus Vinícius da Cruz e Mello Moraes 1913年~1980年)作詞の映画「黒いオルフェ」(ポルトガル語:Orfeu Negro/マルセル・カミュ監督作品/フランス・ブラジル・イタリア合作/1959年公開)の曲として知られるこの「フェリシダージ」(“A Felicidade”)であるが、この冒頭、私はポルトガル語がよく判らぬのであるが、“sim”は肯定を表わす「はい」の意で、「短い」の意ではないようである。そこで私は考えたのであるが、これは「徒然草」の「かげろふの夕を待ち」と同じような対偶中止法であって、前句の否定詞“não”が後の文に及んで、――「幸せは、『そう』ではない」=「幸せは悲しみのように『終わりがない』ものでは『ない』」=「幸せは短い」――という意味になっているのではないか? と考えてみた。識者の御教授を乞うものである。

 

 

進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(2) 二 理論の比較的に進まぬこと

 

     二 理論の比較的に進まぬこと

 

[やぶちゃん注:前章末尾で注した通り、この冒頭部は底本はページが一枚分、欠損している。そこで、一番近い次に新しい版である、同じ開成館の大正三(一九一四)年発行の初版修正版十一版と、講談社学術文庫版を校合し、今までの丘先生の癖などを参考に電子化こととする。]

 

 生物進化の事實はダーウィン以後の研究によつて益々確となり、最早疑ふべからざるものと成つたが、生物各種は如何なる原因により、如何なる法則に隨つて、進化し來つたものであるかといふ問に對する説明理論の方は、今日と雖もダーウィンの時に比べて餘り著しい進步は無い。近來種々の相反する新説が出たために、却つて渾沌たる狀態に戾つた如くに見える。前にも述べた通り、ダーウィンは生物に變異性のあること、及び生れる子孫の數の非常に多いことを事實と認め、之を基として生物種屬の進化は主として自然淘汰によると論じたが、變異性や遺傳性の詳細な點までは説き及ばなかつた。勿論其の頃には今日の如き實驗的の變異・遺傳の研究は全く無かつたから、詳しいことは何も知れて居なかつたのである。ダーウィン以後の生物進化に關する理論の變遷を述べるには、先づダーウィン自身は變異や遺傳に就いて、如何に考へて居たかを明にして置くことが必要であるから、次に其の要點を簡單に紹介する。

 自然淘汰の行はれるには、生物各種ともにその個體の間に若干の變異のあることが、第一の條件で、若し總べての個體の性質が皆同じであつたならば、無論如何なる淘汰も行はれる筈がない。所で、出來上つた生物個體の有する性質の中には二種類の區別がある。卽ち一は生れながら有する性質で、一は生れてから後に外界よりの影響を蒙つて新に[やぶちゃん注:ここで欠損ページは終わるので。以降は底本に戻る。]獲た性質である。例へば黑奴[やぶちゃん注:「こくど」。黒人奴隷或いは黒人の蔑称。孰れも明白な差別漢語である。後に「黑人」と使っているから、ここは「漁夫」に対してガレー船を漕いだ前者の可能性が強いが、それでも差別用語であることに変わりはない。]の色の黑いのは、生れながらに具はつた性質であるが、日本人の漁夫の色の黑いのは、生れてから後に日に燒けて新に獲た性質である。隨つて變異にも二種の區別があつて、黑人と白人との色の違ふのは、生れながらの性質に基づくが、呉服屋の番頭と濱の船頭との色の違ふのは、生れてから後の生活狀態の相違によつて起つたことである。使宜上前者の如きものを先天的の性質、後者の如きものを後天的の性質と名づけて置く。さて先天的の性質が親から子に遺傳することに就いては、疑を抱くものはないが、後天的の性質が子に遺傳するか否かは大に議論のあつたことで、ダーウィン以後に起つた生物學上の大議論は、殆どこの問題を中心とした如き觀がある。後天的の性質が遺傳するとは、曾てラマルクの主張した所であるから、恰も自然淘汰説をダーウィン説と呼ぶ如くに、後天的性質の遺傳を認める學説をラマルク説と名づけるが、ダーウィン自身は如何に考へたかといふに、素より自然淘汰に重きを置いたが、それと同時にラマルク説をも容れて、後天的の性質も往々子孫に傳はるものと假定して論を立てた。この事は「種の起源」の緒言の終に明に書いてあるが、ダーウィン説に反對する人の中には、ダーウィンは生物進化の原因は自然淘汰以外にはないと論ずるやうに誤解し、往々或る事實を捕へ來つて、之は自然淘汰では説明が出來ぬではないかというて、駁擊の材料としたものも多勢あつたので、後の版には更に第十五章結論の中に、かやうに誤解せられては實に迷惑であるとの文言を新に加へてある。

 斯くの如くダーウィン自身は自然淘汰を主とするダーウィン説と、後天的性質の遺傳を認めるラマルク説とを倂せ採つたが、ダーウィン以後、化石學・細胞學、または變異・遺傳の實驗的研究の進むに隨ひ、奇妙にも兩方の極端説が唱へ出された。卽ち一方ではダーウィン説を排斥して、自然淘汰は生物進化の原因と認めるに足らぬと考へ、ラマルクの唱へた如くに後天的性質の遺傳のみによつて、總べての進化を説明せんと試みる者が出來、また他の一方では、その正反對にラマルク説を全然拒絶して、後天的性質は決して遺傳するものにあらずと斷定し、生物進化の原因はダーウィンの唱へ出した自然淘汰以外には決してないと主張する者が出來た。素よりこの兩派の孰れにも屬せぬ學者も澤山にある。されば、最近五十年間に發表せられた種々の説を集めて見ると、互に相反對したものが多數にあるが、之を大別すれば、先づ次の三組に分けることが出來るやうに思ふ。卽ち第一には、生物進化の原因は主として後天的性質の遺傳であつて、自然淘汰の如きは著しい力はないといふ説、第二には、生物の進化はたゞ自然淘汰のみによることで、後天的性質の遺傳は決して之に與らないといふ説、第三には、生物の進化は自然淘汰と後天的性質の遺傳とに依つて生ずるといふ説である。右の中、ダーウィン自身の説は卽ち第三の組に屬するが、本書の著者の考へる所によれば、今日と雖も最も無理の少いのはやはりこの組の説である。

 生物進化の原因に關する議論は今日の所、大別しても右の三組になるが、各組の中の議論がまた樣々で論者によつて主張の點が著しく違ふから、たゞ喧しいばかりで、如何に決著するやら殆ど見込みが立たぬ。倂しダーウィンの唱へた自然淘汰説が既に倒れたなどといふことは決してない。この説の勢が幾分か下火になり來つたことは明であるが、之は一時無暗にこの説を有難がり過ぎた反勤とも見るべき現象で、自然淘汰説の眞の價値は、當今と雖も靜に考へる多數の學者の十分認めて居る所である。またラマルク説の方も斷然之を排斥する學者がなかなか多くあり、隨つて近來の書物には之に關して恰も既に議論が決定したかの如くに書いてあるものも尠くないが、實際は決してさやうなわけではなく、最近の實驗研究によると、更にこの説の證據とも見るべき新事實が幾つも確められた。これ等に就いての著者の意見は、後の章に改めて述べるから、こゝでは一先づ切り上げて置く。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(1) 序/一 事實の益々と確となつたこと

 

    第十五章 ダーウィン以後の進化論

 

 以上第三章より第十四章までに於て、生物進化の事實及び之を説明するための自然淘汰の説を述べるに當り、事實に關する例は現今知れて居るものの中から、著者が隨意に選び出したのであるが、理窟の方は殆ど全くダーウィン自身の考へた通りに説いた。ダーウィン以後に、生物進化の尚一層巧な説明を案出しようと骨を折つた學者は、隨分多數あり、その人等の發表した假説も相應に澤山あつて、互に相駁擊して何時果てるか分からぬやうであるが、著者の見る所によれば、今日に於ても最も無理の少いのは、やはりダーウィン自身の説いた通りのことだけで、その後に出た種々の説は孰れも之に比べると、或は事實上の論據が遙に弱いか、または論法に謬[やぶちゃん注:「あやまり」。]があるもののやうに思はれる。而して本書に於ては、著者の最も適切であると信ずる所に隨つて記述したから、自然ダーウィンの論じた通りを紹介することになつたのであるが、ダーウィンが「種の起源」を公にしてから、今年は最早六十七年目であつて[やぶちゃん注:Charles Robert Darwin が通称「種の起原(起源)」、正確にはOn the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life(「自然選択の方途、或いは生存競争に於いて有利な種族の存続することに基づく種の起原」)は一八五九年に刊行されたもので、本書「進化論講話」初版は明治三七(一九〇四)年一月(東京開成館)刊行であるが、本テクストは同じ東京開成館から大正一四(一九二五)年九月に刊行された、その『新補改版』(正確には第十三版)である。数えであるから正しい。]、その間に於ける生物學の進步は實に驚くべき程であるから、本章よりは更にダーウィン以後の進化論の有樣を簡單に述べて、この論の現在の狀況を明にして置かうと思ふ。

 生物進化の事實と之を説明するための理論とは、全く別に分けて論ぜねばならぬことは前にも述べたが、本章以後に於ても素よりこの區別が必要で、事實の方面と理論の方面とでは大に模樣が違ふ。一言でダーウィン以後の進化論の經過をいへば、生物進化の事實は年々多數の新規な證據が發見せられ、益々確乎となつて、今日の所では全く動かすべからざるものとなつたが、之に對する理論の方は比較的進步が遲く、澤山に考へ出された新説も、之を大別すると、相反する二組に分けることが出來て、この二組が今日まで互に鎬[やぶちゃん注:「しのぎ」。]を削つて議論を鬪はして居たに過ぎぬ。その有樣を讐へていふと、恰も體操の時間に一隊の學生が「左り右、左り右」と唱へながら足蹈をして居るやうな姿で、響を蔭で、聞くと、丸で進行して居るようであるが、實は同じ所に止まつて、少しも進まずに居たのである。

     一 事實の益々と確となつたこと


 「種の起源」出版以後に於ける生物學の進步は實に非常なもので、解剖學・發生學・古生物學・生態學等の各方面に於て、新に發見になつた事實は頗る夥しい。本書に例として擧げたものの中にも、ダーウィン以後の發見にかゝるものが過半を占めて居る。特に發生學・生態學・下等の海産動物の研究の如きは、殆ど進化論によつて新しく始まつた學科というて宜しい位であるが、その研究によつて、發見せられた事實は、如何なるものかといへば、大部分は皆進化論の證據とも見倣すべきものばかりである。また古生物學の如きも、以前よりあつたには違ひないが、五六十年以來の進步は特に著しいもので、本書に掲げた古生物學上の例の如きは、殆ど悉く近來の發見にかゝるものである。ダーウィンが「種の起源」を著した頃には、生物進化の證據となるべき事實が、尚比較的少數であつたから、生物學者中にも之を疑ふ人が隨分あつて、中には進化論は夢の如き空想であると嘲つた人まであつたが、その後年々新しい事實の發見になる每に、進化論の證據が增して行くので、忽ち誰もその眞なることを信ぜざるを得ぬやうになり、現今では生物學を修めながら、尚進化論を疑ふ人は一人もない有樣となつた。されば今日の如く生物進化の事實が確になつたのは、全く十九世紀の半以後、生物學上の知識が著しく進步した結果に外ならぬが、斯く生物學の研究が盛になつて、比較的短い年月の間に夥しい新事實を發見するに至つたのも、「種の起源」の出版が大に與つて[やぶちゃん注:「あづかつて」。]力あることを思へば、生物學の發達に對するダーウィンの功績は、實に空前のものといはねばならぬ。

 今、生物進化の事實は最早確乎として動かすべからざるものというたが、それに就いて斷はつて置くべきことは、確といふ字の意味である。元來進化論とは、生物各種屬は如何なる往路を過ぎて今日の有樣に達したかを論ずるもの故、素より一種の歷史であつて、その研究の方法も、歷史學の研究法と大差はない。卽ち兩方とも、第一には古代の遺物を研究して、その時代の有樣を探り、次には現今の事情を調査し、之を基として往古のことを察するのである。古物・古蹟・古文書が人間の歷史の材料となる如くに、地層の中に保存せられて今日まで殘つた古生物の化石は、進化論の最も重要な材料となる。また現今の口碑・儀式等が歷史研究の參考となる如くに、現今の生物の身體内にある各器官の構造・發生等は、大に進化論の參考となるものである。されば進化論の説く所が確であるか否かは、全く歷史上の事項の眞否を判斷するのと同一な標準に隨つて判斷せねばならぬ。物は疑ひ始めると限りのないことで、考へやうによつては隨分自分の目の前にあり、自身の手で觸れることの出來る机や書物などが、眞に存在して居るか否かを疑へぬこともないが、腦髓の餘り狂つて居ない人ならば、楠正成が湊川で自殺したとか、光秀が信長を討つたとか、德川家康が關が原の戰で勝つたとかいふ如き、歷史上のことを總べて事實として信じて居る。進化論の説く所も之と同樣の性質のもの故、同樣の證明のある以上は、一は之を信じ、一は之を信ぜぬといふ理窟は決してない。たゞ普通の歷史が僅々二三千年間の事蹟を論ずるのと違つて、進化論の方は何萬年とも何億年とも解らぬ遙昔のことを調べるのであるか

ら、材料の不十分なのは無論のこと、必要な證據も大部分は湮滅した有樣で、到底詳細な點まで悉く調べ上げることは出來ぬ。ダーウィン以後生物進化の事實が益々確になつたといふのは、卽ち古文書に比すべき化石が續々發見せられ、傳來の口碑や古代の遺風とも見倣すべき解剖學上・發生學上の事實が、夥しく見出されたためであるが、凡そ次に述べるだけのことは、最早決して動かされることはないであらう。

 先づ第一には動植物の各種は永久不變のものでなく、皆漸々變化することである。之は人の飼養する動植物の種類に就いては目前に證據のあることで、毫も疑ふことは出來ぬが、尚各種の動植物の身體の構造・發生を調べて見ると、漸々進化し來つたものと見倣さなければ到底説明の出來ぬ點が頗る多い。彼の牛や羊の胎兒の上顎に、一度前齒が生じ後に消え失せるのを見ては、牛・羊の先祖には斯かる齒が發達して居たものと信ぜざるを得ぬ如き、また大蛇の腰に脚の痕跡のあるを見ては、蛇も四足を具へた蜥蜴の如きものより進化したと信ぜざるを得ぬ如き、各種屬の進化の間接の證據とも見倣すべき事實は、最近半世紀間の研究によつて、殆ど際限なく殖えた。古生物學の方面でも、前に掲げた馬の系圖の外に、近來の化石發掘の探檢によつて、進化の徑路の餘程完全に知られるに至つたものが、獸類・貝類などに幾種類もある。

 次に、初め一種の先祖から次第に數種の子孫の分かれ生ずることも、動かすべからざる事實である。同じ組に屬する數種の生物の發生を調べると、初は殆ど互に區別することの出來ぬ程に相似て居るのはその證據であるが、この方面の研究はダーウィンの時代には極めて少かつた。倂しその後は非常に盛になつて、今では殆ど幾らでも選み出すことが出來る、前に本書に掲げた例の如きも多くはダーウィン以後の研究に屬する。化石の動植物に二組以上の性質を倂せ具へて、その共同の先祖である如くに見ゆるものの多くあるのも、またこの事實の證據であるが、その大多數はやはりダーウィン以後の發見にかゝるものである。

 一種の先祖から數種の子孫が生ずるものとすれば、その先祖もまた他の種類と共同の先祖より起つたものなるべく、更に溯つて考へれば、現今の生物種屬は總べて一種の共同の先祖から分かれ降つたもので、その系圖を表に造れば、恰も一本の樹の幹から澤山の枝が分れ、枝は更に細かく數多くなつて、終に無數の梢に終る如き形を示すに違ない。この事も今日では最早疑ふべからざることであるが、ダーウィンの頃には事實上の證據がまだ不十分であつたから、一の假説に過ぎなかつた。今日斯く斷百の出來るやうになつたのは、皆ダーウィン以後に非常に多くの新事實が發見せられた結果である。特に動物に關する方面では、人間・鳥・獸を始め、蚯蚓・「ごかい」・水母・珊瑚の蟲に至るまで、總べてその發生の[やぶちゃん注:以下、底本はページが一枚分、欠損している。そこで、一番近い次に新しい版である、同じ開成館の大正三(一九一四)年発行の初版修正版十一版と、講談社学術文庫版を校合し、今までの丘先生の癖などを参考に電子化こととする。]初には、同じ體形を有する時期があつて、如何にも皆共同の先祖から降つたものと考へねばならぬことが明になつた。また生物各種が悉く一大樹の末梢に當るものとすれば、如何なる生物も皆たゞ一つの系統に屬して、互の間には必ず親類の關係があり、緣の遠いと近いとの相違はあるが、一種として別に離れて、他と無關係のものは決して無い筈である、これもダーウィン以後の研究の結果として、確に知り得た事實の一つである。

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 「百中十首」

 

     「百中十首」

 

 「歌よみに与ふる書」は忽に多くの反響を生じた。旧派の俳人よりも歌よみの側に文字のある人が比較的多かったため、未知の人からの駁論も続々居士の机辺に到ったが、反響は固よりこれにとどまらなかった。三月二十八日漱石氏宛の手紙に「歌につきては内外共に敵にて候。外の敵は面白く候へども内の敵には閉口致候。内の敵とは新聞社の先輩其他交際ある先輩の小言に有之候。まさかにそんな人に向(むき)て理窟をのぶる譯にも行かず、さりとて今更出しかけた議論をひつこませる譯にも行かず困却致候。併シ歌につきてはたびたび失敗の經驗有之候故、今度ははじめより許可を出願して而後に出しはじめしもの、此上は死ぬる迄ひつこみ不申侯候」とある通り、歌論に対する反対者は存外居士の近くにあったのである。

[やぶちゃん注:「文字のある人」私が馬鹿なのか、意味が判らない。「子規居士」原本もこうなっている。「文句」の誤植ではないらしい。「文學」でもおかしい。「文字」文章で説かれた「文学評論」を読み解く知識を持った人の謂いか? よく判らぬ。しかしどうも「文字(もんじ)を用いて相応に文学的な雰囲気のあるもの、それらしく見えるもの(贋物を含む)を拵える人間」の謂いであるらしい。

 

 俳句の問題に関しては全然居士に一任し、何の異見も挿まなかった羯南翁も一朝歌の話になると、自ら加納諸平(かのうもろひら)の歌を好み、一個の意見を懐いているだけに、居士の歌論を頭から肯定するわけに行かなかった。万葉調の歌をよくし、居士の所論に同感するところ多かるべきはずの愚庵和尚も、論調の急激なのに驚いたものか、書を寄せて居士の注意を促した。当時の居士の手紙には羯南翁宛のものが二通、愚庵和尚宛のものが二通伝わっているが、いずれも歌に関する意見の異同を弁じたものである。こういう先輩の意見については居士も予(あらかじ)め慮(おもんぱか)る所があったから、掲載に先(さきだ)って羯南翁の諒解を得たのであろうが、その羯南翁が驚くほど、居士の歌論は激烈だったのである。

[やぶちゃん注:「加納諸平」(文化三(一八〇六)年~安政四(一八五七)年)は江戸後期の国学者で歌人。ウィキの「加納諸平」によれば、『国学者夏目甕麿』(みかまろ)『の子として遠江国で生まれ』た。十八『歳で紀伊国和歌山の医師・加納家の養子となる。本居大平に国学を学び、後に紀州藩の命で『紀伊続風土記』『紀伊国名所図会』の編纂にあたった。また、自身や実父の歌をはじめとする当代の優れた和歌を収めた『類題和歌鰒玉集』を』文政一一(一八二八)年に『刊行、以降日本全国から優れた和歌を募集して『類題和歌鰒玉集』の続編の編纂にあたり』、安政元(一八五四)年までに第七編までを『刊行、地方における歌人・歌壇の振興に尽くした』。安政三(一八五六)年に『紀州藩が国学所を創設すると、その総裁となっ』ている。]

 

 愚庵和尚が羯南翁に与えた手紙を見ると、「餘り言過ぎては所謂口業(くごふ)を作る者にして其德を損する事多からんを恐るゝ也」といい、居士が従来博し得た盛名を累(るい)することになりはせぬかということを憂慮している。居士の得能秋虎氏宛書簡に「自分左程危險には思はねども周圍の人(俳人は除け)が甚だあやぶみ居候處如何にも面白く候。小生如何に愚(おろか)なりとも將(は)た病體なりとも今の歌よみどもには負け申間敷候」とあるのが、当時の空気をよく伝えているように思う。居士は周囲の人の懸念する如く憂慮せず、周囲の人は居士の自ら信ずる如く、その歌における力量を信ぜぬというのが当時の実際であったらしい。

[やぶちゃん注:「得能秋虎」哲学者得能文(とくのう ぶん 慶応二(一八六六)年~昭和二〇(一九四五)年)は哲学者。越中国(富山県)生まれ。明治二五(一八九二)年、東京大学文科大学哲学科選科修了後、第四高等学校・東洋大学・日本大学・東京帝国大学講師を勤め、東京高等師範学校教授となった。秋虎(しゅうこ)は俳号。彼は金沢での『新俳句』一派を牽引した人物であった。]

 

 「歌よみに与ふる書」の内容以上に先輩を懸念せしめたものは、歌における居士の作品であった。居士が和歌の革新を思立(おもいた)ってから、はじめて『日本』に歌を掲げたのは二月二十七日、「六たび歌よみに与ふる書」と「七たび歌よみに与ふる書」との中間である。この歌を発表するに先ち、居士は歌の草稿を知友先輩の間に廻して、百首ばかりの中から十首を選まんことを依頼し、各人の選に成るものをそのまま「百中十首」と名づけて発表した。選者十一人のうち、竹柏園(佐佐木信綱)、徒然坊(つれづれぼう)(阪井久良伎(くらき))、某(陸掲南)、戯道(末永鉄巌)の四氏を除く外は、皆俳人ばかりである。従ってその選むところも何ら縄墨(じょうぼく)にかかわらず、時に突飛に見えるものまでも構わず取入れている。

[やぶちゃん注:「百中十首」国立国会図書館デジタルコレクションのアルス版「子規全集」第六巻のここから、画像で全歌を視認出来る。また、makochi 氏のブログに『「百中十首」解説』としてから三回に亙って、何と、全歌に簡潔な解説を加えたものが読める。「百中十首」の選者は「其一」の俳人白雲(五百木瓢亭)に始まり、「其二」が徒然坊、「其三」が某(なにがし)、「其四」が河東碧梧桐、「其五」が高浜虚子、「其六」が内藤鳴雪、「其七」が俳人梅沢墨水、「其八」が戯道、「其九」が竹柏園、「其十」が俳人石井露月「其十一」が俳人遠人(福田把栗(はりつ)である。しかし、気になるのは、「百中十首」は十一人の選になる全百十首にダブりが全くないということである。これは寧ろ、不自然と言わざるを得ない。宵曲の叙述から見ると、唯一の自筆短歌原稿を回覧し、しかも前の選者が選んだものは外して選ぶとしたとしか考えられず、とすれば、後に廻って来た選者はいい面の皮ではないか。私が最後なら、この選ばれた奇体な短歌群の性質から見て、残りから十首は選べない気がする。十一に分割した歌稿を回したとしても、私は恐らく十首は選べない。この時の選はどのように行われたものか、私には頗る不思議にして大不審なのだが、どなたか御存じの方はお教え願いたい。なお、以下、掲げられる選歌については、本文注に【 】太字で、選者の名を挿入する特別の仕儀を採ったことをお断りしておく

「阪井久良伎」(明治二(一八六九)年~昭和二〇(一九四五)年)は川柳作家。ウィキの「阪井久良伎」によれば、『神奈川県久良岐郡野毛(現在の横浜市中区野毛町)に生まれる。本名、辨(わかち)、父は税関役人であった。共立英語学校、高等師範国文科在籍中より、石城、徒然坊の筆名で漢詩・和歌の投稿を行った』。明治二九(一八九六)年、『報知新聞に入社、翌年新聞『日本』に入社する。『旧派歌人十余家の自賛歌十首』を連載し、この記事は正岡子規の反発を受け、子規の『歌よみに与ふる書』が執筆される機縁となった』。明治三六(一九〇三)年には『『日本』の川柳壇の選者を務め、『川柳梗概』を執筆し川柳の革新運動を始める。同年、井上剣花坊が『日本』に入社し、新川柳を担当したため、『電報新聞』(後に毎日新聞に買収される)で川柳壇を担当した』。明治三七(一九〇四)年には「久良岐社」を創立し、『川柳誌『五月鯉』を創刊した。『五月鯉』は』明治四〇(一九〇七)年に『刊行にゆきづまるが、その後、川柳誌『矢車』の序文に寄稿』、『獅子頭』や『川柳文学』を創刊している。『江戸期の川柳・狂句が滑稽・風刺に偏ったことを改め、風俗詩としての川柳を主張した』。『代表句としては「一寸粋なミッスの通る薔薇垣根」「トタン葺き春雨を聞く屋根でなし」などがある』とある。

「末永鉄巌」既出既注。]

 

 「百中十首」を通覧して著しく眼につくのは、字余りの多いことと、漢語の多く用いられていることであろう。字余りについては「九たび歌よみに与ふる書」にも説があるが、四、五の句、殊に五の句の字余りが多いのは居士が後に歌を評するに当ってしばしば用いた「頭重脚軽」の弊を防ぐためと思われる。漢語を取入れたのは在来の歌のなだらかな調子に対し、むしろ佶屈な強い調子を用いようとしたもので、これには俳句における蕪村の影響――漢語の多かった当時の俳壇の傾向を考慮しなければならぬ。しかし「夜を守る砦の篝(かがり)影冴えて荒野(あらの)の月に胡人胡笳(こか)を吹く」【虚子】「城中の千戸の杏(あんず)花咲きて關帝廟下人市(いち)をなす」【虚子】「官人の驢馬に鞭うつ影も無し金州城外柳靑々(せいせい)」【墨水】[やぶちゃん注:この一首は「百中十首」では『金州戰後』の前書がある。]というようなのになると、いささか漢語調に偏し過ぎた嫌があり、漢詩畠の桂湖村(かつらこそん)氏なども「山里に蠶飼ふなる五畝(せ)の宅麥はつくらず桑を多く植う」【白雲】とか、「こゝろみに君がみ歌を吟ずれば堪へずや鬼の泣く聲聞ゆ」【徒然坊】[やぶちゃん注:の一首は「百中十首」では『金槐和歌集を讀む』の前書がある。]とかいう位ならいいが、あまり沢山用いては困るという注意を与えたほどであった。漢語の問題は字余り以上に先輩の首を傾けしめたに相違ない。

[やぶちゃん注:「胡笳」古く中国北方の異民族胡人が吹いた葦の葉の笛。哀調深いものとして詩文に詠み込まれることが多い。

「桂湖村」既出既注。]

 

 用語を離れた内容の問題についても、「百中十首」の中には、居士がかつて「文学漫言」 の中で述べた「三十一字の俳句」に近いものが少からずある。「後夜(ごや)の鐘三笠の山に月出でて帝大門前雄鹿群れて行く」【白雲】「ゐのしゝはつひに隱れし裾山の尾花が上に野分(のわき)荒れに荒る」【白雲】「餠あげて狸を祭る古榎(ふるえのき)紙の幟(のぼり)に春雨ぞふる」【露月】「朝な朝な掃きあつめたる落椿紅(くれなゐ)腐る古屋の隅に」【戯道】「小鮒取るわらはべ去りて門川の河骨(かうほね)の花に目高群れつゝ」【虚子】というような歌は、このまま直(すぐ)に俳句に移し得るかどうかは第二の問題として、俳諧的要素に富んでいることは事実である。居士の歌が用語の区域を広くし、趣向の変化を求めた点を認められないで、俳人の余技という風に見られがちだったのは、居士が俳壇に盛名を得ていたからに外ならぬ。

[やぶちゃん注:「後夜の鐘」は一日を晨朝(しんちょう)・日中・日没・初夜・中夜・後夜の六つに分けた内の最後の、夜半から朝までの間をいう。その時刻の到来を告げるために撞く鐘。ほぼ現在の午前二時から六時頃に相当するが、鐘を撞いたのは午前四時頃であろう。

「紅(くれなゐ)腐る」「腐る」の読みは「くたる」であろう。

「門川」は「かどかは」(岩波文庫版土屋文明編「子規歌集」で確認)。家の門前の小流れであろう。]

 

 けれども「百中十首」が歌壇の寂寞(せきばく)を破り、清新な空気を注入した点は何人も認めざるを得なかった。

 

霜防ぐ菜畑の葉竹はや立てぬ筑波嶺(つくばね)おろし雁(がん)を吹く頃【白雲】

 人も來ず春行く庭の水の上にこぼれてたまる山吹の花【徒然坊】

 榛(はん)の木に鴉芽を嚙(か)む頃なれや雲山を出でゝ人畑を打つ【虚子】

 病みて臥す窓の橘(たちばな)花咲きて散りて實になりて猶病みて臥す【戯道】

 寐靜まる里のともし火皆消えて天の川白し竹藪の上に【竹柏園】

 風吹けば蘆の花散る難波潟夕汐滿ちて鶴低く飛ぶ【遠人】

 武藏野の冬枯芒婆々に化けず梟(ふくろふ)に化けて人に賣られたり【戯道】[やぶちゃん注:この一首は「百中十首」では『庭先にぶらさげたものを』の前書がある。]

   金州戰後

 山陰に家はあれども人住まぬ孤村の柳綠しにけり【遠人】

 

こういう歌は居士在来の作品に比して新生面を開いているのみならず、自然の趣に富んでいる点において、当時の新派の歌とも色彩を異にする。「百中十首」の出現は、明治歌壇に取っても忘るべからざる事柄であった。

[やぶちゃん注:以上の柴田宵曲が採った短歌の選者を見てみると、面白いことに気づく。それは、宵曲が「某」(陸掲南)と河東碧梧桐の選んだ歌を一首も採用していないということである。確かに、両者の採ったものに、あまりピンとくるものはないが、例えば、羯南が第一に挙げた、

 里川の流れにかけし水車汲みてはこぼす山吹の花

は子規らしい、しかも写生のいい歌と思うし、碧梧桐の採った、

 紅梅の咲けども鎖す片折戸狂女住む宿と聞くはまことか

などは私の好みだ。そうである。この選句にこそ、子規の尻からげの短歌革新のそれよりも、より筆者宵曲の好みの方がよく現われていると言えるのである。]

 

2018/05/01

北條九代記 卷第十二 安藤又太郎叛逆

 

      ○安藤又太郎叛逆 

元亨元年十二月、相州高時が計(はからひ)として、常盤駿河守範貞を京都に上洛せしめ、六波羅に居(す)ゑて守らしめ、北條英時を鎭西の探題とす。高時が管領、長崎入道圓喜、既に老耄(らうまう)の氣(け)あるに依て、子息新左衞門尉高資に管領を讓りて[やぶちゃん注:底本は「讓」は「護」であるが、特異的に訂した。]隠居しけり。高資、大に奢(おごり)を極め、國家の政道を雅意に任せ、萬民の愁憂を思計(おもひはか)らず、重欲無道なるを以て、諸將、請侍、恨(うらみ)を含み、憤(いきどほり)を懷き、その逆威(ぎやくゐ)を振ふ事を、目覺しく思はぬ人はなし。爰に前代義時の世に、奥州津輕に居置(すゑお)かれし安藤八郎が末葉に、五郎三郎某(なにがし)と、同名又太郎助淸(すけきよ)と云ふは、從父昆弟(いとこ)にて、門族を相續し、鎌倉の命(めい)を守りける所に、領地に付きて、境目を論じ、互に怒を起し、中、不和になりければ、雙方、是を鎌倉に訴へ、長崎新左衞門尉に賄(まひなひ)を入れて、下知を待つ所に、高資、過分の財寶を雙方より取りければ、是に依(よつ)て、理非の決斷、更に日を重ね、月を越えたり。かの兩人、中々、退屈して、訴論を捨てて津輕に歸り、一味與黨の溢者(あぶれもの)を招集(まねきあつ)め、兩家、相別れて、軍(いくさ)に及び、關八州の騷動となる。高時、聞きて、使を遺し、雙方を宥(なだ)めらるゝに、其令命をも用ひず、終に五郎三郎は討たれたり。郎從、家人等は散々になる。又太郎助淸、年來の本望は遂げたりけれども、鎌倉の仰(おほせ)を背きける上は、行末、然るべからず。又、「如何樣(いかさま)にも子細あるべし。」と聞えければ、又太郎、思ひけるやう、『鎌倉より、討手を下され、手籠(てごめ)になりて死なんよりは、運に任せて、世の中を騷(さはが)し、重欲不道の長崎高資に、年比の恨(うらみ)を散じて死なばや。』と思ひければ、一味同心の輩を語(かたら)ふに、鎌倉に恨ある者、我も我もと馳集(あせあつま)り、七、八百人になりしかば、我が館(たち)に要害を構へ、近郷の土民・百姓等が貯へ置きたる米穀を奪捕(うばひとつ)て、館に運入(はこびい)れければ、兵粮(ひやうらう)は卓散(たくさん)[やぶちゃん注:「澤山」。豊富にあること。]なり、要害は嚴かりけり。鎌倉より討手を下して攻めらるれども、寄手の軍勢のみ、多く亡びて、仕出したることもなく、退屈してぞ覺えける。城中に強きを見て、山林嘯聚(せうじゆ)の惡黨共、四方より來て、寄手の陣に夜討(ようち)を致し、打立て、追拂(おひはら)ひける程に、鎌倉へ使者を遣し、加勢を請うひけれども、高資は、「何程の事かあるべき。」とて、取合(とりあ)はず、是ぞ、天地の命(めい)を革(あらた)むべき危機の始(はじめ)なる。『北條家の元祖義時の世より、數代相續して、四海八方、鎌倉の下知を守りて、忠義をこそ存じけれ、背く者は無(なか)りしに、長崎高資が政道、邪(よこしま)なる故に、武威、忽ちに輕(かろ)くなりける驗(しるし)なり。』と、古老、深慮の諸將諸士は、歎き思ふも多かりけり。

[やぶちゃん注:「元亨元年十二月」元亨元年は一三二一年。但し。「十二月」は「十一月」の誤り

「常盤駿河守範貞」北条範貞(?~正慶二/元弘三年五月二十二日(ユリウス暦一三三三年七月四日))は極楽寺流の支流の常盤流の当主。父は、北条重時の曾孫である時範。ウィキの「北条範貞」によれば、『北条貞時が得宗家当主であった期間内』(一二八四年~一三一一年)『に元服し、「貞」の偏諱を受けたとみられる』。正和四(一三一五)年、『引付衆に任じられ』、『幕政に参画』、翌五年に従五位上に昇進し、元応二(一三二〇)年には『評定衆に補充され』ている。この元亨元年から『六波羅探題北方に任命され』て『上洛し』、元徳二(一三三〇)年に『北条仲時と交替するまで』、九『年間』、『務めた。同年、帰還した鎌倉で三番引付頭人に就任し』ている。なお、彼が駿河守に任ぜられたのは、これより八年後の元徳元(一三二九)年である。「太平記」によれば、『新田義貞による鎌倉攻めに際し』、『東勝寺合戦』で『他の北条一族と共に自害して果てた』。同じく、「太平記」では『北条貞将と共に六波羅探題留任の要請を謝絶したこと、謀叛の廉で捕らえられた二条為明への尋問を行い、為明の披露した歌を聞き、無実であると裁定を下して釈放したことなどが記されている』とある。

「北條英時」北条(赤橋)英時(?~正慶二/元弘三年五月二十五日(一三三三年七月七日)。父は、北条長時の曾孫北条久時。幕府最後の執権となった北条守時の弟。ウィキの「北条英時」によれば、この時、阿曾随時の後を受けて鎮西探題に任じられて博多に赴』いた。『鎌倉幕府討幕運動が九州にまで及ぶと、その鎮圧に努め』、正慶二/元弘三(一三三三)年三月十三日には、『後醍醐天皇の綸旨を受けて攻めてきた菊池武時を』、『少弐貞経や大友貞宗らと共に返り討ちにして敗死させ、さらに英時の養子で肥前守護の規矩高政に』、『菊池氏や阿蘇氏をはじめとする反幕府の残党勢力の追討』を『務めさせ』、三月二十六日には、『松浦氏に大隅・野辺・渋谷などの反幕勢力を攻めさせた』。『しかし』、『このため』に『博多の防備が極めて手薄になり』、四月七日に『安芸の三池氏らを招集』、『博多防衛に当た』らせることとなった。五月七日、『京都で六波羅探題が足利尊氏らによって陥落させられた情報が九州にまで届くと、それまで従順であった貞経や貞宗、さらには島津貞久らが離反して攻め』寄せ、『英時は懸命に防戦したが敗れ』『525日に博多にて金沢種時』『をはじめ』、一族二百四十名(三百四十名ともする)『と共に自害した』。『得宗の北条高時など主だった北条一門が鎌倉で自害して滅んだ』三『日後のことであった』とある。『英時は和歌に優れた教養人でもあり、『松花和歌集』や『続現葉和歌集』、『臨永和歌集』などには多くの作が収められ、鎌倉時代末期の九州二条派の和歌界の中心だったという』。『作家の吉川英治は『私本太平記』中で「難治の地である九州で』十『年以上も探題職を務めた英時の能力・人望は余人に秀でていた。後日、足利尊氏が九州で勢いを盛り返した際にも、英時の義弟(尊氏の正室・赤橋登子は英時の妹)であるという点が九州諸豪族の心を動かす一因となったのではないか」と考察している』ともある。

「長崎入道圓喜」既出既注

「子息新左衞門尉高資」長崎高資(?~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日))は、北条氏得宗家の被官である御内人・内管領で、その先代であった長崎円喜の嫡男。ウィキの「長崎高資」により引いておく。『幕府の実権を握って父と共に権勢を振るった』。ここで記されている時制より少し前、正和五(一三一六)年頃には、父『円喜から内管領の地位を受け継ぎ』、『幕府の実権を握っ』ていたものと思われる。「保暦間記」によれば、元亨21322)年頃に発生した、この『奥州安藤氏の内紛に際し、当事者双方から賄賂を受け取り、その結果紛争の激化(安藤氏の乱)を招いたという』。嘉暦元(一三二六)年には、『出家した執権北条高時の後継をめぐり』、『得宗家外戚の安達氏と対立し、高資は高時の子邦時が長じるまでの中継ぎとして北条一族庶流の金沢貞顕を執権としたが、高時の弟泰家らの反対により』、『貞顕はまもなく』(執権就任から僅か十日後であった)『辞任して剃髪、赤橋守時を執権とした(嘉暦の騒動)。嘉暦元年時点で、それまで御内人が就任する事はなかった幕府の評定衆となっている』。元弘元(一三三一)年には『高資の専横を憎む高時』が、『その排除を図ろうとしているという風説が広まり、高資の叔父とされる長崎高頼等、高時側近が処罰される。高時は自らの関与を否定し』、『処分を免れたが、権力を極めた高資に対しては』、最早。『得宗家』『も無力であった』。元弘三/正慶二(一三三三)年五月、『新田義貞に鎌倉を攻められた際、子の高重や北条一族と共に鎌倉東勝寺にて自害して果てた』。

「奥州津輕に居置(すゑお)かれし安藤八郎」「安藤太郎」或いは「安藤太」の誤り義時の代官として蝦夷管領となったことを指す。ウィキの安藤氏の「蝦夷管領」の項によれば、「保暦間記」によれば『北条義時の頃、安藤五郎』『が東夷地の支配として置かれたとされ』るが、「諏方大明神画詞」では、奥州『安倍氏の後胤である安藤太が蝦夷管領となったとされている。これらの史料から安東氏は、鎌倉中期頃から陸奥に広範囲の所領を有した北条氏惣領家(得宗)の被官(御内人)として蝦夷の統括者(蝦夷沙汰代官職)に任ぜられ』、『北条氏を通じて』、『鎌倉幕府の支配下に組み込まれていったものと考えられている』とある『なお、得宗被官としての「階層」は得宗家より送り込まれた津軽曾我氏らより』、『下位であるとする見解』『 がある』とし、また、「日蓮聖人遺文」の「種種御振舞御書」には建治元(一二七五)年)のこととして、『「安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ。」との記載がある。これを、真言宗に改宗したため』、『アイヌに殺害されたとする意見』『もあるが、この頃』、『元が樺太アイヌを攻撃したことが元史に記録されていることから、ここでいう「ゑぞ」』は、『アイヌではなく広く北方の異民族と解し』、永仁五(一二九七)年五月に、『安藤氏がアイヌを率いて黒龍江流域に侵攻』、『キジ湖付近で交戦となり』、『元に討たれたのではないかと推察する説』『もある。しかし、安藤氏のアイヌに対する支配関係には疑問も出されている』とある。また、『安藤五郎と安藤太の史料から、元来の惣領家であった五郎家と太郎家が並立していたと想定する見解がある』ともあり、『また、西浜安藤氏と外の浜安藤氏の並立を前提に、安藤氏の乱の前に「蝦夷管領」の座が』、『外の浜安藤氏から西浜安藤氏に一時移っていたとする説もある』と記す。

「五郎三郎某(なにがし)」安藤季久(生没年未詳)のこと。鎌倉末期の武将で北条得宗家御内人。ウィキの「安藤季久によれば、『安藤宗季と同一人物とする見解が有力』だが、『別人とする説もある』。『本姓は安倍』。『従兄弟とも従兄弟の子とも伝わる安藤季長と蝦夷代官職を争い、安藤氏の乱を引き起こした』。『季長との争いは』、文保二(一三一八)年『以前から続いていたと見られている。ここにあるように元亨二年には、『得宗家公文所の裁定にかけられた』ものの、『内管領の長崎高資が双方から賄賂を受け』、『双方に下知したため』、『紛糾したと』される。『季久は、得宗家により』正中二年六月六日(一三二五年七月十六日)に『蝦夷代官職を与えられたが、このこともあり』、『安藤氏の内紛から』、『季長の得宗に対する反乱に繋がったと見られている』。「諏訪大明神絵詞」には『両者の根拠地が明確には書かれていないが、同時代文書によれば』、『季長は西浜折曾関(現青森県深浦町関)、季久は外浜内末部(現青森市内真部)に城を構えて争ったと見られている』一方、『季久の本拠地を西浜とする説』『もある』という。『季長は得宗家の裁定に服さず』、『戦乱は収まらなかったため』、嘉暦元(一三二六)年に『御内侍所工藤貞祐が追討に派遣された』。同年七月、『貞祐は季長を捕縛し』、『鎌倉へ帰還したが、季長の郎党季兼や悪党が引き続き蜂起し』、同二(一三二七)年には、『幕府軍として宇都宮高貞、小田高知、南部長継らが派遣され』ている。翌三年に至って、漸く『安藤氏の内紛は和談が成立し』ている。

「同名又太郎助淸(すけきよ)」安藤季長(生没年未詳)のこと。鎌倉末期の武将で北条得宗家御内人。一部、内容がダブるが、ウィキの「安藤季長を引いておく。『別名を宗季とする説があるが、多数説は宗季を後述の安藤季久の別名とする』。『父は安藤堯秀(季盛・貞季)や安東季俊とする系図があるが』、『信憑性に乏しく』、『詳細は不明。本姓は安倍』。『蝦夷代官職として津軽地方を中心として宇曾利郷などの地頭代職として得宗領の管理等を行ったが、蝦夷の反乱を抑えきれず、従兄弟とも父の従兄弟とも伝わる安藤季久と蝦夷代官職などを争い、安藤氏の乱を引き起こした』。『季長と季久の内紛と、それが泥沼化したことは、鎌倉幕府に騒乱を平定する力がないことを内外に示し、その威信を低下させることに繋がった』。『安藤氏の内紛は御内人の内紛であり、これを幕府の力だけでは処理しきれず、御家人の助力を得なければならなかったことは、得宗専制の崩壊を象徴するものであったと指摘される』とある。まさに本章で最後に「古老」(幕府古参の老臣)や諸将・諸侍の言っていることそのものである(しかし正直、こちらも、また、引かなかったウィキの「安藤氏の乱も、結局、同一人物がそのウィキを主に執筆しているようで、内容も表現も三つで甚だダブっていて、一本読めば、それでこと足りる感じではある)。

「從父昆弟(いとこ)」「いとこ」は四文字へのルビ。

「一味與黨の溢者(あぶれもの)を招集(まねきあつ)め、兩家、相別れて、軍(いくさ)に及び、關八州の騷動となる」教育社新書の増淵勝一氏訳の割注では、従兄弟同士の両者の戦闘開始を元亨二(一三二二)年春とする。また、「關八州」は『陸奥五十二郡』の誤りとされておられる。

「子細」ここは「具体的な処罰」の意。] 

 

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(36) 死者の支配(Ⅳ)

 

 勿論對話の事項も態度も制限を受けて居た。そして言語の自由に關する制限の性質は、動作の自由の上に加へられた制限の性質から推斷される次第である。動作は非常に細かく、少しの容赦もなく規定されて居た。それは單に男女とか、階級とかに依つて變化する無數の程度を有する敬禮に關しての事のみならず――また顏の表情、笑ぴ方、息の仕方、坐り方、立ち方、步き方、起き方等に關しての事であつた。人はみな幼少の頃から、表情と行狀との、この作法の訓練を受けた。上長の前にあつて、樣子若しくは身振りに依つて、悲痛若しくは苦痛の感をあらはす事が、どういふ時期に始めて不敬の標[やぶちゃん注:「しるし」。]となるものか、吾々には解らないが、この點について尤も完璧なる自己抑制が、有史以前の時代から勵行されて居たといふ事を信ずるだけの理由はある。併し行狀に關しての極めて細かい法規は、單に受動的にそれに服從するといふ事以上を要めた[やぶちゃん注:「もとめた」。]のであるが、それは徐に――恐らく一部は支那の敎への下に、發達したものであつた。その要めた處は、單に怒りや苦痛の感を外面の表情にあらはしてはならないといふのみならず、その人の顏竝びに態度は却つて反對の感を示すやうにしなければならないと云ふのである。不承不承の服從は惡るい事であり、單なる自動的從順では不十分であつた、服從の眞實の程度は、樂しさうな微笑に依り、また快い聲の調子に依つて示されなければならないのであつた。が、その微笑にも亦規定があつた。微笑の性質についても注意しなければならぬ、たとへば上長に對してものを言ふに際し、奧齒の見えるやうな微笑をするのは非常に失禮な事であつた。武家階級にあつては、この種の動作の法規は少しも容赦する處なく勵行された。侍の婦人はスパルタの婦人のやうに、自分の夫若しくは子息が戰死した事を聞いても、喜びの樣子を示すやうに要められて居た。さういふ事情の下にあつて、少しでも自然の感情を出す事は、重大な禮節上破壞であつた。あらゆる階級に於ける動作は嚴しく規則を以て定められ、爲に今日に於てさへ、人々の態度は到[やぶちゃん注:この「到」は底本では印刷不鮮明(殆んど脱字に近い)で推定。]る處に昔の規律の如何なるものであつたかを示して居るのである。尤も不思議な事は、この昔の態度は、それが習練して得られたといふよりも、自然に人に備はつて居たやうに思はれ、訓練に依つて爲されたといふよりも、本能的であるやうに見えるといふ事である。お辭儀――頭を下げ、また神々に祝禱をする時に行はれる靜かに音を出して息を內へ引く事――人を迎へまたは別かれる時、床の上に兩手を置くその位置――客の前で、坐り、立ち上り、また步くその仕方――もの受け取り又は捧げるその樣子――すべて恁ういふ普通の行爲も、只だ敎へただけでは、出來さうにも思はれないやうな、一見自然らしい魅力をもつて居る。これは一層高い作法になるといよいよさうなる、――則ち修養ある階級に於ける昔の訓練から生ずる精巧な作法に於ては左樣である――特に婦人に依つてそれが示された場合には。吾々は、さういふ態度を習得する能力は遺傳に依る處著しいと思はなければならない――規律の下にあつた人種の過去の經驗に依つてのみ作られ得たものであると考へなければならない。

 上品といふ事に關してかくの如き規律が、一般の人民に取つて、どういふ風な意味をもつて居たかといふ事は、家康が粗暴な事を爲した三階級(農、工、商)の何人をも殺害して宜いといふ權利を、侍に與へたその條例から推測する事が出來る。但し注意すべき事は、家康が『粗暴』といふ字の意味を注意して限定して居る事である。粗暴なものに就いての日本語は『慮外もの』を意味する――それ故死を値するやうな犯罪をなしたといふのには 、意想外、則ち『慮外な』行を爲したといふ事が要件であつた、言ひかへれば、定められたる作法に反いたといふ事が要件であつたのである――

[やぶちゃん注:以下の英文は底本では全体が日本語で一字分下げである。]

 

“The Samurai are the masters of the four classes.  Agriculturists, artizans, and merchants may not behave in a rude manner towards Samurai.  The term for a rude man is ‘ other-than-expected fellow ’ and a Samurai is not to be interfered with in cutting down a fellow who has behaved to him in a manner other than is
expected. The Samurai are grouped into direct retainers, secondary retainers, and nobles and retainers of high and low grade ;
 but the same line of conduct is
equally allowable to them all towards an other-than-expected fellow.”―
Art. 45

[やぶちゃん注:恒文社版(一九七六年刊)の平井呈一氏訳「日本――一つの試論」の訳文を、ここに引用させて貰う。

   《引用開始》

「サムライは、四つの階級のうちの長である。農耕者、工匠、商人は、サムライに対して不礼な態度・行ないをしてはならない。慮外者ということばは、『考慮する以外の人間』ということばである。サムライは、そういう慮外な行ないをした者を斬って捨てても、どこからも干渉されない。サムライは直臣、予備の家来、また貴族、身分の高いもの低いものなど、いろいろあるけれども、慮外者に対して許されている行為は、すべて同列である。」

   《引用終了》

 以下は訳者戸川氏の参考注であるが、底本では全体がポイント落ちで四字下げ。]

士者四民の司農工商之輩對ㇾ士不ㇾ可ㇾ致無禮之働無禮者今云慮外者也對士慮外者也對士慮外いたす者は士於ㇾ誅ㇾ之不ㇾ妨ㇾ之士又直臣陪臣上下君臣之品有於慮外者其筋可ㇾ爲同前事(第四十五條)

[やぶちゃん注:一応、条文を自己流で訓読しておく。「對士」はレ点の落ち。国立国会図書館デジタルコレクションの「德川禁令考」卷七(司法省・明一一(一八七八)年~明治二三(一八九〇)年刊)のここで確認した(左丁四行目以下)。

『士は四民の司(つかさ)、農・工・商の輩(やから)、士に對し、無禮の働(はたらき)、致すべからず。無禮」は、今、云ふ、「慮外者」なり。士に對し、慮外いたす者は、士、之れを誅するに於いては、之れを妨げず。又、直臣(ぢきしん)・陪臣・上下君臣の品(ひん)、有り。慮外に於いては、其の筋(すぢ)、前と爲(な)すべき事。』

 併しながら家康が殺害の新しい特權を作りたと考へるのは少し無理である。恐らく家康は永くすでに行はれて居た武家の權利を律令として確定したに過ぎないのである。上長に對する下級の行爲についての嚴格な規則は、武家の權力の勃興以前に疾く用捨なく勵行されて居たと考へられる。第五世紀の終りに雄略天皇が、その侍臣の、言葉をかけられたに拘らず、恐れて默つて居たといふ過失のために、それを殺したといふ事を聞いて居る。なほこの天皇は一杯の酒をもつて來た官女を打ち倒したといふ事、竝びにその婦人が非常な落ち着きをもつて居て、慈悲を求める一句の歌をもつてうたひ出したので、首を刎ねられるのを免れたといふ事も聞いて居る。この婦人の過失といふのは、酒杯をもつて來る時、その內に木の葉の落ち込んだのを氣づかずに居たといふに過ぎなかつたのである――恐らくそれは宮中の習慣で、その中に息の入らないやうにして、杯をもつて行かなければならなかつた爲め、氣がつかなかつたのであらう。また天皇や位の高い貴族は神々のやうな奉仕を受けて居たので、そんな風にして杯を捧げられたのである。雄略天皇には、些細な過失のために、人を殺す風のあつたのは事實である、併し今のべたやうな場合に於ける過失は、長く定められて居た禮節を破壞するものと考へられたのである。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

御伽百物語卷之五 百鬼夜行

 

   百鬼夜行(きやぎやう)

 

Hyakkiyagyo

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを、左右合成し、上下左右の枠を除去し、清拭した。最初に断わっておくと、本篇は妖怪の「百鬼夜行」とはかなり異なる話柄である(確かに眷属の絵はカラステングなんだが……ネタバレを避けるために詳細は言わないが、それを過度に期待して読むと失望するので言い添えておく)。なお、本作は明代に王世貞によって書かれた武辺小説集「剣俠傳」中の「僧俠」の翻案であるが、それ自体が唐代段成式の撰になる伝奇小説集「酉陽雑俎」の巻九にある「盜俠」から引いたものである。「酉陽雑俎」俠」原文(中文サイト「中國哲學書電子化計劃」)。現代日本語訳は、優れた中国文学サイト「寄暢園」の僧」がよい。]

 

 富田無敵とかやいひて、丹後より京都にのぼり、劍術の師をする人ありけり。術はもと陰流(かげりう)にして、烏戶大權現(うとだごんげん)、かりに顯はれ、僧慈音(じおん)といひしものに傳へ給ひたりし妙手なりとぞ。是れによりて德をしたひ、業(わざ)を羨みて門葉につらならん事を願ひ、祕受に預からん事を思ふ人も、すくなからず。日夜に一道の繁榮をあらはし、朝暮(てうぼ)、劍術の稽古、やむ事なかりしかば、これひとへに摩利支天・毘沙門の冥慮なりとおもひ、月に一たび宛(づゝ)は稽古のひまを窺ひ、日暮れてより、鞍馬に參詣し、夜(よ)の内に、僧正(そうしやう)が谷(たに)を經て、貴船(きふね)に下(くだ)り、夜あけにはかならず京なる宿に歸り着くを例の事とせり。

[やぶちゃん注:「陰流」室町時代の文明一五(一四三八)年頃に伊勢愛洲(あいす)氏の一族であった愛洲久忠(愛洲移香斎 享徳元(一四五二)年~天文七(一五三八)年)が編み出した武術の流派で兵法三大源流の一つ。「猿飛陰流」などとも呼ぶ。ウィキの「愛洲久忠」によれば、愛洲久忠は『室町・戦国時代の兵法家。陰流の始祖。伊勢国(現在の三重県)出身』で『惟孝』・『勝秀』『と書かれる場合もある』。『剣聖・上泉信綱は弟子と伝えるが、久忠の子・小七郎の弟子とする説もある』。『子孫である秋田県の平澤家』『に伝わる文書・『平澤家伝記』(久忠の』九『世孫・平澤通有の著)によると、本名は愛洲太郎久忠、また左衛門尉や日向守と称したという。移香斎は法名である。幼少より剣術の才能があったため、武者修行をもって生業とし、諸国を巡ったり』、『上洛したりしたと伝わる』。下川潮著「剣道の発達」(大正一四(一九二五)年刊)によれば、『「足利季世記五」の「伊賀国に日置弾正忠豊秀と云者出来て、當流を射初め、故流の射形異形なりとて日本弓修行して江洲(滋賀県)に来り、佐々木高頼・同定頼二代に仕え弓の師と成り、入道して瑠璃光坊と号す。以徳遍く日本を廻り弓の弟子を尋ぬる、云々」とあるのが』、『彼の武者修業の初見としており、また』、『修業地域も近畿地方に限定されている』という。『平澤家が伝えていた「平沢氏家伝文書」によると、久忠は若い頃に九州や関東、明まで渡航したとい』い、三十六『歳のとき』、『日向国鵜戸の岩屋(現・宮崎県日南市鵜戸村)に参籠して霊験により開眼し、陰流を開いた。晩年は日向守と称し日向に住』み、『家は子の小七郎宗通(元香斎)が継いだ』とする。『一方』、『日向国鵜戸の修行について、秋田市の武道史家・青柳武明は「日本剣法の古流陰流と愛洲移香」』(『歴史公論』昭和一〇(一九三五)年十月号・収録)『のなかで』、『新陰流外の伝えであって』、『信用に足りないとし、尾張柳生流の柳生厳長は』「剣道八講」(島津書房・一九九八年)では、『正統伝書にないとして』、『これを否定している』とある。『小七郎宗通は』永禄七(一五六四)年に『常陸の佐竹義重に仕え』、天正三(一五七五)年に『猿飛陰流と流派を改名したともいわれる。ただし、平澤家の文書では陰流となっているようである』。『一説には久忠は若いときに各地へ渡航し、明にまで行ったとされる。このことに対し』、「武芸流派大事典」(綿谷雪編・昭和五三(一九七八)年)では、『海外での貿易・略奪にかかわるものではないかとしている。また、久忠の出身とみられる伊勢愛洲氏がこれに従事したと考えられるため』、『久忠も関係があったとされている。また』、『晩年の日向に住んだことについて、綿谷』氏は「武芸小伝」(昭和四六(一九七一)年で『鵜戸明神神職になったことを意味するのでは』、『としている』とある。

「烏戶大權現、かりに顯はれ、僧慈音(じおん)といひしものに傳へ給ひたりし妙手なりとぞ」現在の宮崎県日南市宮浦にある、日向灘に小さく突き出した鵜戸﨑に、海幸彦・山幸彦伝承が残されている鵜戸神宮があるが(主祭神は、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと:山幸彦)と海神の娘豊玉姫の間にできた日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。珍しく私は行ったことがある)、この神社は、足利時代、日本最初の剣豪とされた相馬四郎義元(正平五/観応元(一三五〇)年?~?:法名「慈恩」)が「念流」を、また、愛州移香が「陰流」を、孰れもこの地において創始したと伝えられており、そのため、「日本剣法発祥乃聖地」と呼ばれている。サイト「発祥地コレクション」のこちらを見られたい。ウィキの「念阿弥慈恩」によれば、『日本の南北朝時代から室町時代にかけての剣客、禅僧。剣術流派の源流のひとつである念流の始祖とされる。俗名、相馬四郎、諱は義元。法名、奥山慈恩または念阿上人』。『奥州相馬(福島県南相馬市)の生まれで、相馬左衛門尉忠重の子。弟に赤松三首座がいる。父忠重は新田義貞に仕えて戦功があったといわれるが、義元が』五『歳の時に殺され、乳母に匿われた義元は武州今宿に隠棲した』。七『歳のときに相州藤沢の遊行上人に弟子入りし、念阿弥と名付けられる。念阿弥は父の敵討ちをめざして剣の修行を積み』、十『歳で上京、鞍馬山での修行中、異怪の人に出会って妙術を授かったという』。十六『歳のとき、鎌倉で寿福寺の神僧、栄祐から秘伝を授かった。さらに正平二三/応安元(一三六八)年五月には『筑紫・安楽寺での修行において』、『剣の奥義を感得した。このとき』、未だ十八歳で、『京の鞍馬山で修行したことから、「奥山念流」あるいは「判官流」といい、また、鎌倉で秘伝を授かったことから「鎌倉念流」ともいう』。その後、『念阿弥は還俗し』、『相馬四郎義元と名乗り、奥州に帰郷して』、『首尾良く』、『父の仇敵を討つと』、『再び禅門に入り、名を慈恩と改めた。こののち』、『諸国を巡って剣法を教え、晩年の』応永一五(一四〇八)年に『信州波合村(後の浪合村、現阿智村浪合)に長福寺を建立、念大和尚と称した』。彼の門人に「猿御前」という人物がおり、その人物が「陰流」を創始したとするようであるが、この「猿御前」は正体不詳で、通常、既に述べた通り、『陰流開祖は愛洲久忠とされており』、この『猿御前との関係は不明である』といった叙述が記されている。] 

 

 比(ころ)は元祿十年の秋八月十四日の暮れ、月のおもしろきにいざなはれて、例の參詣をおもひたち、二條堀河なる家を出て、暮かたよりと、心かけゝるに、遁れざる用の事さしつどひ、初夜のかねとゝもに、只ひとり、北をさして行くに、月は、はなやかにひかりをおしまず、東の峰をわけ、弓杖(ゆんづえ)二たけばかりもや、さしのぼりけん。あすの夜をこよひになしてとなげきしは、小町がねがひなりしぞかし。そのよは、いかばかり、雲おほひけん、けふの今宵にあはましかは、などゝ思ふにつけて、

 月みればなれぬる秋もこひしきに

     われをばたれかおもひいづらん

などいへる古きながめさへ、おもひつゞけられつゝ行くほどに、車坂(くるまざか)のほとり迄は、いつとなく來たり。

『誠に世はなれたる人の、山ふかく入りすみて、泉を枕にし石に口そゝぎなど、明(あく)れば雲鳥(くもとり)の心なき交りをながめ、暮れて月のくまなきにうそぶきしとかいひ傳へしも、かく里遠く、山ふかきかたの、ものさびてしづかなるをぞ愛したりけん。』

と、そこら見まはせば、木草のたゝずまひも、人の作ると心なしに、木だち、茂りあひ、谷の水音、ほそくひゞきわたるに、蟲の音(ね)、所せくうちあはせたるは、世のさはがしきよりは、心すみて、おろかなる袂をもしぼるべく、こしかたの事もさりげなくしたはしくて、

「そなたの空よ。」

と見あぐれば、蛾媚山の月の秋にあらねど、半輪(はんりん)にくだけたるか、あかあかと峯の木ずゑをぞ照らすなる。

[やぶちゃん注:和歌は前後を一行あけ、ブラウザの不具合を考え、上句と下句を分離させた。この歌(叙述上は古人の歌とする)は不詳。識者の御教授を乞う。

「元祿十年の秋八月十四日」グレゴリオ暦一六九七年九月二十八日。

「二條堀河」現在の二条城の東直近。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「初夜のかね」「寝よとの鐘」とも言った。人々に寝る時刻であることを知らせる鐘。亥の刻、午後十時頃に寺で打った。

「弓杖(ゆんづえ)二たけ」「弓杖」は弓を杖代わりにすること。「二たけ」がよく判らぬが、七尺三寸(約二メートル二十一センチ)の弓を「並寸」と称し、そこから二寸(約六センチ)長い弓を「伸び寸」と言うことから、七尺五寸(約二メートル二十七センチ)の高さの弓のことを指すか。識者の御教授を乞う。

「車坂」現在の京都府京都市北区西賀茂中島町のこの附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。

「人の作ると心なしに」よく判らぬが、人が、わざとらしく、あざとく植え込んだりしたのではない、自然が無心に造化した、の謂いか。]

 

 先づ高山(かうざん)を照らすとかや佛のおしへのむねをさへ觀(くわん)じそへて行くに、我よりさきへ、たゞ一人、行くものあり。

『こはいかに。今まで、我のみ、此道をわくると思ふに、あやし。』

と、さしのぞきて見れば、世すて人と見えて、墨の衣のいとやつれたるを、すそ短かにからげ、種子(しゆじ)とかやいふめる袈裟念珠と共に首にかけたるが、旅のすがたにもあらで、

『是れも、よのつねのまじらひにまぎれ、遠かなる里に逮夜(たいや)の説法などつとめたるが、月にうそぶきつゝ山へかへるなるべし。』

とおもふに、此僧、たかだかと聲うちあげて、

「如日月光明能除諸幽冥(によじつげつくわうのふじよしよゆうめう)。」

と打ち誦(ず)したるが、たふとくおぼえて、無敵(むてき)、はしり近づき、道すがらの友とかたらひけるに、僧も心をく氣色なく、うちとけて語りつゝ、ともに鞍馬寺にまふでたり。

[やぶちゃん注:「如日月光明能除諸幽冥」「法華経」で説かれた菩薩の姿の表現で、

 如日月光明能除諸幽冥 斯人行世間能滅衆生闇

(日月の光明の諸(もろもろ)の幽冥を能(よ)く除くがごとく、斯(こ)の人、世間に行(ぎやう)じて能く衆生の闇を滅す)

「太陽や月の光が、暗い所を遍く除くがごとく、修行者は、これ、それぞれの立場を以って衆生の闇を照らす」の意。] 

 

 扨、心ゆくばかり念誦も終はりければ、別れて例の僧正が谷にとおもふに、此僧、なごり惜しげに無敵が袖をひかへ、

「不圖(ふと)したる道づれより、なかなかおもしろき人にも出あひたるかなと思へば、何となく名殘りこそおしけれ。足下には武道の譽(ほまれ)をあらはし給ふべき相のおはしますなり。我が庵(いほ)は此山陰にあり、くるしかるまじくば、しばしおはせよ。猶問ひまいらせたき事もあり。」

など、馴々しくかたるに、無敵も心とけて、

「さらば、步み行き給へ。我も月にうかれつる身ぞかし。ともに庵の月見ん。」

などたはぶれて、もとの道にくだるに、僧は大門をおりて、少し北へすゝみゆく。

 無敵も尻にたちてあゆみけるに、とある家のうしろより、鞍馬川を渡り、細き道しばをふみわけて、また山ふかく入る也けり。

「こはいかにぞや。」

と、心もとなくて問ひけるに、

「たゞこゝぞ。」

とばかりいひて委しくいはず。

[やぶちゃん注:「僧正が谷」鞍馬山の北西、貴船神社との間にある谷で、牛若丸が大天狗(鞍馬天狗)より武術を習って修行したと伝えられる地。ここ(グーグル・マップ・データ)。私も珍しく妻とこの山越えをしたことがある。] 

 

 なを山ふかく道もなき方に分け入りけるに、無敵、いよいよ不審晴れがたく、

『何(いか)さま、是れは只ものにあらじ。當山の天狗の我が膽氣(たんき)をためすか、又は山賊の糧に飢へて、伐り取りの場にたぶらかし行くなるべし。おのれ、何にもせよ、餘(あま)さじもの。』

と、懷より「彈丸(だんぐわん)」といふ物を取りいだし、彼の僧の頭のはち、碎けよ、と打ちかけしに、此僧、事もなげなる氣色して、しとしとと步み行く程に、

『慥(たしか)にねらひたりとおもふが中(あた)らざりけるよ。』

と、無念さ、勝りて、

「ひた。」

と、續けうちに同じ坪(つぼ)を打ちて、すでに彈丸の數(かず)、五たびにおよぶ時、此僧、手をあげて、首自筋をさすり、ふりかへりていふやう、

「さのみ、な邪興(じやけう)したまひそ。」

と、尋常(よのつめ)の詞つかひに、無敵も興をさまし、

『扨は名におふ僧正坊とかやいふめる天狗御ざんなれ、いかにもして一道の奧義を學びてん。』

とおもふ心になりて、其後は手むかひもせず、只、心中に摩利支天の冗(じゆ)をとなへつゝ行きける所に、とある山あひの、木立、殊に茂りあひたる中(なか)より、炬火(たいまつ)のひかり、數多(あまた)むらがりて、こなたにむかひあゆみ來たるを、

『あれは、いかに。』

と見るに、彼の僧を迎ひに出でたるなりけり、いづれも究竟(くつきやう)の男どもにて素襖(すあう)の肩、しぼりあげ、袴のくゝり、高く結ひたるが、數十人、敬ひたる體(てい)にて、みなみな、僧の前に跪座(かしこまり)ける時、僧、この無敵を指さし、

「此御客は、吾がため、本走(ほんさう)すべき事あるが故、かく導き申しつる也。みな、御供つかまつれ。」

と、前後うちかこませて、此並木の中を行く事、十町[やぶちゃん注:一キロ九十一メートルほど。]ばかりして、大きなる屋敷に着きたり。

[やぶちゃん注:「彈丸」小鳥などを捕らえるために「はじき弓」につけて飛ばしたたま。はじきだま。中国古代から用いられた。ここは恐らく鉄製のかなり大きなものであろう。

「さのみ、な邪興(じやけう)したまひそ。」そのような、馬鹿馬鹿しいお遊びはお止めなされよ。

「摩利支天」仏の守護神である四王天(持国天・増長天・広目天・多聞天)配下の護法善神の一神。詳しい名数は私の「北條九代記 賴朝腰越に出づる 付榎嶋辨才天」の私の注を参照されたい。

「究竟」ここは「屈強」の意。

「素襖」(現代仮名遣「すおう」)は素袍とも書く。平凡社「世界大百科事典」によれば、室町時代に直垂(ひたたれ)から派生した垂領(たりくび)の上下二部式の衣服で、専ら武士が常服として用いた。形は直垂と殆んど同じで、地質は麻。普通は背及び袖つけのところに家紋を附ける。一名「革緒(かわお)の直垂」とも称した。これは胸紐や菊綴(きくとじ:和服の飾りの一種で、袖付け或いは襟付けの縫合せ目の綻(ほころ)びを防ぐために要所に組紐を通して結び、紐の余りを捌いて菊の花の形に似せたものを指す。激しい動作を予期して着用する衣服(水干・直垂・素襖などに施された)が革で出来ているからで、服装の格からは、直垂や大紋(だいもん)よりも一段低く、江戸時代には無位無官で将軍御目見以上の平士・陪臣の礼装であった。

「本走」奔走。] 

 

 そのさま、大國(たいこく)の守(かみ)にひとしき住居(すまひ)して、僧は、やがて、此あるじと見えたるが、先づ入りて、無敵を稱じいれ[やぶちゃん注:呼び入れ。「招じ入れ」。]、上座(かみざ)になをし、後(うしろ)なる屛風、すこしおしのけしを見かへせば、美しき女房の、年ごろ、十八、九ばかりなるが、二、三人、居ならひを[やぶちゃん注:「居ならびしを」の脱字か。或いは「居ならぶを」か。]、

「今宵の客人(まれびと)はくるしからぬ御(お)かたぞや。出でてもてなし參らせ給へ。奥は、いまだ寐ね給ずや。」

と、さしのぞく。

 是れ、此僧が妻と見えて、一間(ひとま)へだたる方(かた)に、三尺の几帳(きちやう)、一よろひに、屛風、引(ひき)そへたるを、やおらおしたゝみて、木丁(きてう)[やぶちゃん注:几帳。]のかたひら、半(なかば)しぼり、あげたれば、女は、ものふかく思ひわづらひたる體(てい)にて、机(おしまつき)[やぶちゃん注:脇息(きょうそく)のこと。]によりかゝり、何やらん、手まさぐりして居たるが、無敵が方を少し見おこせて、淚をおしのごひ、しばしためららひたるを、僧の、ひたすらにすかし招きける程に、すこしこなたさまに、いざりよりつゝ、うちそばみて居たるは、『此僧の妻なるべしと、心得らるれど、いかにぞや。』と、いぶかしき折ふし、僧、かさねて無敵に語りけるは、

「愚僧は、もと、此谷に住みて、年久しく山賊强盜を業(わざ)とする身なり。さるによりて、日夜に我も、此やつれたる僧の姿に、本心を僞り隱し、ある時は、都に出で、ある時は、丹波・若狹・江州の地をふみ、おほくの旅客(たびゞと)または女子(によし)、富貴(ふつき)の家の若年(じやくねん)などをあざむきつれて、衣服・太刀・かたな、何によらず、剝取(はぎと)り、奪(うばひ)ひとりて、身命(しんめう)の糧(かえ)とす。今、吾、君をともなひ來たりしも、元來、その心ばせなりつれども、君が武勇、人に超へ、あつぱれの手きゝなるが故、惡念をひるがへし、今宵は、もろともに、月を翫(もてあそ)ぶの友とせんとおもふ也。恐らく、我なればこそ、命をたもちつれ、尋常の人、君が武勇に逢ひなば、よもや、命を全くする者、あらじ。今は心をゆるし給へ。我もまた、君を害する心なし。前に君が打ち給ひし彈丸、ことごとくこゝにあり。すは、返し參らするぞ。」

と、手をあげて、『首筋を拂ふよ。』とおもへば、彼(か)の、最前、打ちかけたる彈丸、五つともに、

「ばらばら。」

と出でたり。

 無敵、是れを見て、大きに驚き、

「扨は。ことごとくあたりけるよな。然らば、この彈丸、よもや和僧の腦を疵つけずしてあらんや。今、僧の頭(かしら)を見るに、一處(ひとゝころ)も疵なきは、いかに。」

といふに、又、こたへけるは、

「我、もとより、請身(うけみ)[やぶちゃん注:受け身。]に妙を得たり。劍術、また、人に超へたるがゆへに、終に一度も疵をかうぶる事、なし。」

とかたりて後、ほどなく、料理出來たるよしにて、膳部を持ち出で、無敵が居たる前より、次第にすゑならべて、數十膳、はこび据へたり。

 押しつゞきて、此おくの間より、衣服、美を盡くして着かざり、直垂(ひたたれ)に大口(おほくち)[やぶちゃん注:「大口袴」(おおくちばかま)。裾の口が大きい下袴で、平安以降、公家が束帯の際に表袴(うえのはかま)の下に用いた。紅又は白の生絹(すずし)・平絹(ひらぎぬ)・張り帛(はく)などで仕立てた。鎌倉以後は武士が直垂や狩衣などの下に用いた。]したる男、數十人、出できたり、みなみな、膳につきて居ながれたるを、僧、また、此人らに引き合せていはく、

「是れ、みな、我が黨の義弟ども也。汝ら、この客人(まれびと)に武勇をあやかるべし。知らずして、若し、我がごとく此人に出合ひたらましかば、定めて、今ほどは手と足と所をかへて、骨は狼の腹にあるべきぞ。隨分と、もてなし候へ。」

といひつけ、酒、二、三こん、まはり、興趣やゝすゝみける比(ころ)、僧、また、無敵に語りけるは、

「我、最前もいひしやうに、此業をつとむる事、四十年に過ぎたり。今、我、年老ひ、ちから、撓(たゆ)みたれば、向後(けうこう)は、此みちを止めて、後生の罪もおそろしくおもへば、一遍のつとめ[やぶちゃん注:回向。出家して仏門に入ること。]もなさばや、とおもふ也。されば、我に一子あり。劍術・請身・輕業、みな、我よりは勝りたりと覺ゆ。しかしながら、我、つくづく思ふにかゝる事を業とせんは、人たるものゝ道にそむけり。然れども、我、年ごろ、此みちに長じける事は、昔往(そのかみ)、何某(なにがし)と名乘りて、仕官せし比(ころ)、さる子細ありて劍術の妬(ねたみ)と號(がう)し、我を恨みける人ありしを、返討(かへりうち)ちして、立退きたる身なりければ、世渡る便(たより)なくて飢に及べども、二たび出て、仕ふべき奉公もなりがたく、心より發(おこ)らざる盜人となりたり。世忰(せがれ)は、又、人の知りたるにもあらねば、何方(いづかた)にも出(だ)し、あはれ、武藝の家をも發させてんとおもふに、惡事にはすゝみやすく、盜賊のかたに、ひたすら鍛練し、なかなか我が手にも及びがたく、恐しきもの也。今、君が手を假(かり)て、彼(か)のわつぱを手討ちにせばやと、おもひ侍る也。此事、君ならで賴むべき器量の人、なし。」

と、二心(ふたごゝろ)なげにいひければ、無敵も、

「實(げ)に。世、はなれ、跡を隱しても、身を全くし、時節を待つとならば、誰(たれ)もかくこそ有るべけれ。さすが、武士たるものゝ世に零落(おちぶれ)たりとて、賤(いやし)きものゝ業(わざ)もならねば、辻伐(つじぎり)・追剝などもするならひなるを、其(その)子として、此道を好きたしなまんは、又、人の道にあらず。足下(そこ)の心ざし、さこそと察したれば、如何樣とも御心に任すべし。」

と請合(うけあ)ひける程に、僧も世に嬉しげにうちゑみ、扨(さて)、

「林八、林八。」

と呼びしに、答へして出でるものを見るに、年のほど、いまだ、十六、七には過ぎずと見ゆるが、髮かたち・物ごし・手足のはづれまで、美しく、白くあぶら付きたる事、玉をきざみて人にしたるやうにおぼえて、無敵も、人しれず、心をうごかす斗(ばかり)なり。餘りたえかねけるまゝに、

「此器量ありて、殊に劍術の妙に得たらん人を、いかにおもふやうならずとて、我にあつらへ、殺さしめんとは、心底の程、はかりがたし。他人の身としてだに惜しまるゝを、まして、父の身なり。實(じつ)に憎みて殺さんとおもはゞ、惡の道をいかゞせんとか、おもひ給ふ。」

といふに、僧、わらひて、何とも答へず、

「只、殺し給へ。」

とばかりいひける内、はや、無敵が前に、彼(か)の彈丸五つと、二尺ばかりなる腰のものを指出(さしい)だし、扨、林八を招きていはく、

「汝、この客人(まれびと)に御相手となり、隨分と身を遁れよ。自(おの)れ、仕損ぜば、恥なるべし。」

といひ付け、兩人をつれて、纔かなる一間に入れ、外より鎖(でう)をおろしたる音す。

 その内は、たゞ二間四面の板敷にして、四方に聖行灯(ひじりあんどう)といふ物をかけたるばかりなり。

[やぶちゃん注:「二間四面」三メートル六十四センチ四方。

「聖行灯(ひじりあんどう)」掛け行灯の一種。料亭や旅館のエントランスなどで今も見かける。高野聖の笈の形に似ているところからとも、また、聖窓(箱形の格子付きの出窓。江戸時代、町屋の入り口の脇或いは遊郭の局見世(つぼねみせ)などに設けた)に掛けたところからとも言う。「ひじりあんどん」とも称する。] 

 

 林八は、手に馬の鞭一本を取りたるばかりにして、刃物をもたず。

 無敵は、あまり心やすき事におもひ、常に鍛練せし彈丸をもつて、只、一ひしぎに、と打ちかくるに、鞭をあげて、あやまたず、敲き落し、そのまゝ飛びあがりて、たちまち、梁のうへにあり。

『こは。いかに。』

と、

「はた。」

と打てば、飛びちがへて、無敵が後(うしろ)にあり。

 拂へば、前、くゝれば、右手(めて)、あるひは、戶のさんを走り、鴨居に立ち、壁をつたふ事、蜘(くも)よりもはやく、手もとにも、眼(まなこ)にも、遮りとゞむべきためらひもなければ、徒(いたづら)に、五つの彈丸、ことごとく打ちつくし、今は腰の物をぬいて飛びかゝり、

『眞(ま)二つに。』

「丁(てう)。」

と討つを、鞭に請けて、はらふ事、さながら、神か、鬼か。

 通力を得たる人のごとく、無敵が身をはなるゝ事、纔かに二尺にたらずして、付きめぐるに、幾度か手を盡し、切れども、突けども、只、鞭にあひしらはれて、いさゝかの疵をだに見ず。

 無敵も、あまり、機(き)をのまれ、いきほひぬけて、十死一生に極め、富田(とんだ)一流の極意、四目刀(がたな)四重劍(ぢうけん)より、飛ぶ當(あて)みの高上(かうしやう)迄も、心をつくし、祕術をくだき、縱橫無盡に働きけれども、なかなか薄手の一つをも、おほせず。

[やぶちゃん注:「富田(とんだ)」「流」現行では富田流(とだりゅう)と読む。中条流から派生した剣術の一派。ウィキの「富田流」によれば、『越前国(福井県)において朝倉家に仕える富田勢源(とだせいげん)が創始した剣術。富田重政(富田越後守)らによって広まった。小太刀術で非常に有名な流派であり、その点のみが知られているが、実際は戦国期の流派でもあることから、薙刀術や槍術、棒術、定寸の打刀、三尺を超える大太刀等も含まれており、柔術も含まれていたとの説もある。ただし、富田家は「中条流」を名乗っており、富田流の流れを汲む流派で中条流を名乗っていることが少なくない』。『目が不自由でありながらも』、『小太刀術の達人であった創始者の富田勢源が有名で』、『彼は、美濃の朝倉成就坊のもとに寄寓していたおり、神道流の達人、梅津某に仕合を挑まれ、皮を巻いた一尺二、三寸の薪を得物とし、一撃の元に倒したと伝えられている』。『また、富田勢源の弟子である鐘捲自斎、自斎の弟子で後に一刀流を創始する伊藤一刀斎などの有名な剣豪を生んだ流派であり、畿内における剣術に大きな影響を与えた』。『冨田流、及びそこから生まれた一刀流は江戸時代に隆盛し、さらに幕末の動乱において』、『多くの剣客を生む事とな』った。『また、九州の小城藩の納富家が、戸田清玄清方を祖と伝える戸田流剣術を伝えていた。納富家は多くの達人を輩出したため、江戸時代後期以降、多くの廻国修行者が訪れた』という。『富田流の流れを汲む流派には、戸田流、外他流、當田流(とうだりゅう)など多くの変字がある。現存の武術流派としては、青森県に當田流剣術・棒術が、関東に戸田派武甲流薙刀術、気楽流柔術(戸田流と称することもあった)が、広島県に富田流槍術の流れを汲む佐分利流槍術が現存している。また、宮崎県高千穂に戸田当流杖が祭りの棒術として残る』とある。

「四目刀四重劍」不詳。極意なんだから、私ふぜいに判るわけない。

「飛ぶ當(あて)みの高上」不詳。「當み」は「当身」のことであろうが、同前。]

 

 あぐみて、しばし、扣(ひか)へたる所に、僧、おもてより、聲をかけ、

「兩方、たがひにひき候へ。」

と鎖(でう)をあけて、兩人を出だし、僧も、しばらく、愁へたる色にて、無敵にむかひ、

「さてさて、比類なき働(はたらき)。おそらく、此道の奧義を得給ひたりと見ゆ。しかしながら、今、しばらく、戰ひたまはゞ、御身の程、恙なき事、あたはじ。尤(もつとも)、彼(かれ)が事は、我が子ながら、かゝる妙手は得たり。人がらも他(た)に異(こと)なれば、不便(ふびん)と思はざるにもあらざれども、ひたすら、盜賊の業を悅ぶがゆへに、所詮、なき物と思ひ、貴殿のはたらきを願ふといへども、夫(それ)さへ、及ばざるうへは、是非なき事なり。今は休み給へ。」

と、酒をすゝめ、終宵(よもすがら)、兵法の口傳祕術など、いまだ聞かざる所を委(くはし)く傳へける内、はや夜(よ)は七つの比(ころ)[やぶちゃん注:不定時法で採り、午前三時半過ぎとする。]にもやなりけん、月のひかりもやゝ薄らぎ、鳥の聲かすかにおとづれわたるまゝに、無敵は急ぎ歸らんとす。

[やぶちゃん注:「月のひかりもやゝ薄らぎ」一六九七年九月二十九日当日の月没は四時七分(何時もお世話になっている「こよみのページ」で計算して貰った)。] 

 

 僧もまた、名殘おしげに立ちて、しばらくが程、見おくりて入りぬとぞ見えしが、跡は朝霧のふかく立ちかくして、二、三町[やぶちゃん注:二百十九~三百二十七メートル。]も過ぎぬらんと思ふに、はや、棟門(むねかど)たちならびたる屋敷も見えず。

 茫然と踏みしらぬ山道を分けつゝ、そこともしらであゆみけるに、漸(やうやう)と人里に逢ひたり。いそぎ、近づきて、都への道、たづねなどしけるにて、知りぬ。靜原(しづはら)より大原にかよふ山みちなる事を。せめて、おぼえ歸りぬ。扨も、猶、そのほとり不審(いぶかしく)て、二、三日も過(すご)して、また、彼の山道を尋ねけるに、道の違(たが)ひたるにや、終に、二たび、逢ふ事なしとぞ。

[やぶちゃん注:「靜原」現在の京都府京都市左京区静市静原町(しずいちしずはらちょう)。(グーグル・マップ・データ)。鞍馬山の東方。「大原」は左京区大原で、その東側に当たる。]

人魚(松森胤保「両羽博物図譜」より)

人魚(松森胤保「両羽博物図譜」より)

 

006

 

Ninngyokanzanti

 

[やぶちゃん注:画像は酒田市立図書館公式サイト内の「両羽博物図譜の世界」のものを用いた。最初に掲げた画像はそのままで、トリミングや補正は行っていないが、二枚目のそれは、図に示された各部のサイズ(これではよく判らぬので)をメートル法に換算した数値を、私が印刷した当該画像に手書きで書き入れたもので、かなりの補正(汚損除去)をしてある

 翻刻は上記の「両羽博物図譜の世界」の「兩羽魚類圖譜」の「海魚部」の「人魚部」「人形屬」「人魚類」「人魚種」に分類された、この(①とする。以下同じ)・この頁(②・上記の一枚目の画像頁)・この頁(③)・この頁(④)から人魚について記した部分を採り上げた(記述のみの頁は画像として掲げないので、対照されたい方は、上記リンク先を別ウィンドウでそれぞれ開かれたい)。上記「両羽博物図譜の世界」では、かなりの図について電子化翻刻がなされて付随してあり、本図についてもそれがなされている。但し、カタカナがひらがなに直されており、しかも多くの漢字が新字であるので、加工用に使用させて戴いたものの、一字一句について、総て、一から私が判読し直したものであることを最初にお断りしておく。また、当該の電子化された判読には従えない部分が複数箇所あり(読み易さを考えて確信犯で変えてある箇所が殆んどであり、私の判読では同じようにした箇所も多い)、独自に読み変えた箇所もある。しかし、それは私の判読の趣味嗜好からなのであって、当該判読に異論を唱えたり、批判する意図は全くないので、その異同については特に述べていない。なお、松森は「魚」を「𩵋」と書いているのであるが、この異体字、私自身が生理的に非常に気持ち悪く感じるので、勝手乍ら、総て「魚」とさせて戴いた

 

□翻刻1(原典のまま。【 】は割注様の二行表示)

〈①〉

【兩羽】魚類圖譜第一

 海魚部

  人魚屬

予人魚ノ事ヲ略論スルニ漢土ニ於テハ秦ノ始

皇カ驪山ノ陵ニ其油ヲ以テ火ヲ點セシト云フ

ヲ始トシテ我カ國ノ雜書俗談ニ掛ルモノ一ト

シテ不經ノ妄説ニ係ラサルモノヲ知ラス從テ

其物ヲ見ルヿ一ニシテ止ラスト雖皆擬物タル

ニ過キ洋人ハ烏有ノ物トナスモ眞ニ故アリ然

ルニ独リ此ニ圖スル所ノ原物ハ毫モ人造ノ跡

ヲ踪スヘキナク殊ニ人面ニシテ隱然トシテ獣

相ヲ備ヘ縱令人造ナラシムルモ決シテ看過ス

可キモノニ非ス依テ暫ク此ニ列ス

 

 

〈②〉[やぶちゃん注:「一腰ヨリ下」と「此圖ノ如ク」の間の★部分には、その下に示した画像が入る。原画像から当該部をトリミングしてそのまま示した。縦書であるので、この画像だけは正立画像である。

      人魚類

          人魚種

一腰ヨリ下★圖ノ如ク左ニ曲レリ

Ningyokasinokatati_6

一靣ノ長サ二寸二分

一肩巾四寸

一腹巾二寸五分

ヨリマテ四寸五分

ヨリマテ二寸五分

ヨリマテ二寸

ヨリマテ寸欠

ヨリマテ一寸六分

ヨリマテ二寸

ヨリマテ一寸

ヨリマテ寸一

[やぶちゃん注:「寸一」はママ。但し、右に何か記号(上下入れ替え?)のようなものがあるようも見える。孰れにせよ、他のサイズと比較して「一寸」でよいと思われるので、「翻刻2」では特異的に「一寸」に代えた。

ヨリマテ二寸

ヨリマテ一寸七分

ヨリマテ三寸

ヨリマテ三寸

ヨリマテ二寸五分

ヨリマテ一寸五分

ヨリマテ二寸

ヨリマテ一寸

[やぶちゃん注:「ヲ」に相当するものが判別しにくいが、見開き頁中央の右頁の「ロ」の下方の魚体部の右胸鰭らしきものの生えている根元にある三画目の左払いがないために「ニ」に見えるが、これが「ヲ」である(松森は描いた絵のそこに皺(或いは鰓蓋か)があり、それが「ヲ」で見えにくくしてしまうのを恐れて最終画を記さなかったのだと思う)。「ニ」は順に脂鰭(あぶらびれ)らしきものの右端(頂点)に既に打たれている。]

 

人魚【干燥物ノ写眞】

[やぶちゃん注:これは図のキャプション標題。]

 

 

〈③〉

此ノ人魚ハ安政三年寫眞スル所ヲ明治十六年一月

八日ニ覆寫スルモノナリ其産所ハ詳ナラスト

雖モ其頃ヨリ我カ庄内ノ物トナレリ初メテ見シ

時ハ圖ノ如ク顏靣及指間胸骨ノ邊ニモ薇綿(ゼンマイ)ノ

如キ毛アリシガ二十七年カ程ヲ歴テ昨年再タ

ヒ之ヲ見シ時圖ニ在ル所ノ細毛ハ剝脱殆ト尽ク

ルニ至レリ

又云自然ノ物ニシテハ独不都合ナルモノアリ

人ノ胸尽キタランニハ魚ノ腹之ニ屬スベキノ理

ノ如シ然ルニ否セス人胸尽テ魚胸次ク理果シ

テ如何ントス

一明治十六七月二十六日ノ郵便報知新聞ヲ見ル

[やぶちゃん注:上の「一」は原文では本文全体より一字分飛び出ている。]

ニ云神奈川縣下久良岐郡根岸本牧村ノ漁父田

沼九十郎カ三四日跡金澤沖ニ於イテ漁業ノ際綱

[やぶちゃん注:「綱」はママ。「網」の誤りであろう。「翻刻2」では特異的に「網」とした。]

ニカケテ引キ揚ケタル魚ハ體ノ長サ二尺五寸ニ

テ頭ハ猿ノ如ク顏靣ノ模樣ハ人ニ彷彿トシテ

全身ニ黒キ短毛ヲ生ジ尾ハ疊針ヲ十二本列ヘ

種タルガ如クニシテ【胤保案スル是レ全ク尾ノ骨ヲ云フナル可シ】蹼ニモ

【胤保案スルニ鰭ト云ハスシ蹼ト云フヲ見レハ通常ノ鰭ニ非ルコトヲ知ヘシ】中本ノ

大針アル異形ノ魚ナレハ怪シトテ其ノ趣キヲ戸長役

場ヘ屆ケ出シト云フ胤保案スルニ亦此人魚ノ

一ナルヘシ頭ハ猿ノ如ク顏靣ノ模樣人ニ彷彿

トシテト有ルハ尤要所ナリ人靣ニシ蓋シ獣相

[やぶちゃん注:「要所」は初め「腰所」と書いたものを、「月」の上をごちゃごちゃとして消してあるので、かく表記した。]

ナルモノナルヘシ予カ此ニ圖スル所ノモノモ

 

 

〈④〉

則前ニ誌スカ如ク隱然トシテ獣相ヲ備ヘ天造

ノ妙人工ノ及ハサル所ヲ有ス

因ニ云フ橘ノ南溪カアラワス所ノ西遊記ニ日

向ノ國カノ山中ニ於テ兎路(ウチ)弓ヲ以異物ヲ斃ス

全体全ク女ニシテ裸体色白ク髮黒ク人間ニ異

ナラスト雖獣相アリ之ヲ山女トスルヨシ見エ

タレト人悉之ヲ疑フモ予ハ其ノ獣相ノ字アルヲ

以テ其眞物ヲ見シコト有ルモノニ非レハ知ルヿ

能ハサル所ト信シ倂セテ其ノヿノ虚談ニ非ルヲ

信スルナリ

 

 

□翻刻2(カタカナをひらがなにし、諸記号を加え、一部に読み易さを考えて( )で歴史的仮名遣で読みを添え、送り仮名や語を添えた整序版)

〈①〉

「【兩羽】魚類圖譜」第一

 海魚部

  人魚屬

 予、人魚の事を略論するに、漢土に於いては、秦の始皇が驪山(りざん)の陵に其の油を以つて火を點ぜしと云ふを始めとして、我が國の雜書俗談に、掛るものを、一つとして不經(ふけい)の妄説に係らざるものを、知らず。從つて、其の物を見ること、一(いつ)にして止(とど)まらずと雖(いへ)ど、皆、擬物(まがひもの)たるに過きず。洋人は、烏有(ういう)のものとなすも、眞(まこと)に故あり。然るに、獨り、此(ここ)に圖する所の原物は、毫(がう)も人造の跡を踪(のこ)す[やぶちゃん注:本字には「あと・あしあと」などの意しかなく、このような意味はないが、こう読むしかない。]べきなく、殊に人靣(じんめん)にして、隱然として、獣相(じうさう)を備へ、縱令(たとひ)、人造ならしむるも、決して看過(くわんか)すべきものに非ず。依つて、暫く、此に列す。

〈②〉[やぶちゃん注:サイズは、それぞれの下に《 》でメートル法換算値を示した。]

       人魚類

        人魚種

一 腰より下、「★」、此の圖のごとく、左に曲れり。

Ningyokasinokatati_7

一 靣(かほ)の長さ、二寸二分。《67㎜弱》

一 肩巾(かたはば)、四寸。《約12㎝》

一 腹巾(はらはば)、二寸五分。《76㎜弱》

一 よりまで四寸五分。《136㎜》

一 よりまで二寸五分。《76㎜弱》

一 よりまで二寸。《6㎝》

一 よりまで寸欠(たらず)。《3㎝未満》

一 よりまで一寸六分。《48㎜》

一 よりまで二寸。《6㎝》

一 よりまで一寸。《3㎝》

一 よりまで一寸。《3㎝》

一 よりまで二寸。《6㎝》

一 よりまで一寸七分。《約5㎝》

一 よりまで三寸。《約9㎝》

一 よりまで三寸。《約9㎝》

一 よりまで二寸五分。《76㎜弱》

一 よりまで一寸五分。《45㎜》

一 よりまで二寸。《6㎝》

一 よりまで一寸。《3㎝》

 

「人魚」【干燥物の写眞。】

 

〈③〉

 此の人魚は、安政三年、寫眞する所を、明治十六年一月八日に覆寫するものなり。其の産所は、詳かならずと雖(いへど)も、其の頃より、我が庄内の物となれり。初めて見し時は、圖のごとく、顏靣及び指の間、胸骨の邊りにも、薇綿(ぜんまい)のごとき毛ありしが、二十七年が程を歴(へ)て、昨年、再び、之れを見し時、圖に在る所の細毛は、剝げ脱け、殆んど尽くるに至れり。

 又、云はく、自然の物にしては、獨(ひと)り、不都合なるものあり。人の胸、尽きたらんには、魚の腹、之れに屬すべきの理(ことわり)のごとし。然るに、否せず。人、胸、尽きて、魚、胸、次ぐ理(ことわり)、果して如何んとす。

一、明治十六年七月二十六日の『郵便報知新聞』を見るに、云はく、『神奈川縣下久良岐(しもくらき)郡根岸本牧(ほんもく)村の漁父田沼九十郎が、三、四日跡(まへ)、金澤沖に於いて漁業の際、網にかけて、引き揚げたる魚は、體の長さ、二尺五寸《約62㎝》にて、頭は、猿のごとく、顏靣の模樣は人に彷彿として、全身に黒き短毛を生じ、尾は疊針を十二本列(なら)べ種(し)きたるがごとくにして【胤保、案ずるに、是れ、全く尾の骨を云ふなるべし。】、蹼(みづかき)にも【胤保、案ずるに、「鰭」と云はずして「蹼」と云ふを見れば、通常の「鰭」に非ざることを知るべし。】中本(ちうほん)の大針(おほばり)ある異形の魚なれば、「怪し」とて、其の趣きを戸長役場(こちやうやくば)へ屆け出でしと云ふ。胤保、案ずるに、亦、此れ、人魚の一つなるべし。頭は、猿のごとく、顏靣の模樣、人に彷彿として、と有るは、尤も要所なり。人靣にして、蓋(けだ)し、獣相なるものなるべし。予が、此に圖する所のものも、〈以下、④〉則ち、前に誌すがごとく、隱然として、獣相を備へ、天造の妙、人工の及ばざる所を有す。

 因みに云ふ、橘の南溪があらわす所の「西遊記」に、『日向の國、かの山中に於いて、兎略弓(うぢゆみ)を以つて、異物を斃(たふ)す。全体、全く女にして、裸體、色、白く、髮、黒く、人間に異ならずと雖も、獣相あり。之れを「山女(やまをんな)」とする』よし、見えたれど、人、悉く、之れを疑ふも、予は、其の「獣相」の字あるを以つて、其れ、眞物(しんぶつ)を見しこと有るものに非ざれば、知ること、能(あた)はざる所と信じ、倂(あは)せて、其のことの虚談に非ざるを信ずるなり。

 

[やぶちゃん注:一九八八年八坂書房刊の磯野直秀先生の解説になる「博物図譜ライブラリー 2 鳥獣虫譜 松森胤保[両羽博物図譜の世界]」に載る本図について、磯野先生は、『この「人魚」図は、サルの頭骨とスズキ型の魚の骨格を継いだものらしい』(これは当該書の巻末に「文献」として挙げてある、一九八八年発行の『ミクロスコピア』五巻三号に載る「松森胤保『両羽博物図譜』、その一 海の魚」に拠る見解と思われる)『が、よほど精巧にできていたとみえて、多くの「人魚」を偽物と否定した胤保も、これは本物と受け取った。人魚の実在を信じていたのは胤保の古さを示すが、彼独特の分類体系』『にとって不可欠の存在だからでもあったことを理解する必要があ』り、『「二つの種類のあいだには必ず中間の種類が存在する」というのが彼の根本理論で、したがって人間と魚との間に人魚が存在することが、彼の理論にとっては重要な証拠だったのである』と述べておられる。無論、狭義の意味での「人魚」は存在しないから、彼の認知は決定的な誤りではあるのだが、これはある意味、ダーウィンの進化論的な系統的変遷の認識に繋がる〈ミッシング・リンク〉の捉え方としては面白いものだと私は思う。但し、磯野先生のスズキ型の魚というのには疑問がある。図を見ても判る通り、下半身の魚体部には、明白な脂鰭が見られるからである。脂鰭はサケ(サケ目 Salmoniformes)及び同じサケ目のマス類やアユ(キュウリウオ目 Osmeriformes)などの背鰭と尾鰭との間にある肉質状の特殊な鰭で、多くの海水産魚類や河川遡上性のそれらである、条鰭綱棘鰭上目スズキ目 Perciformes の魚類には見られない鰭だからである。捏造したとして、わざわざ脂鰭を附けたとしても、長い年月の間には、それは容易に脱落してしまう可能性が極めて高いと思われ、私は寧ろ、脂鰭を持つサケ・マスの大型個体の乾燥個体を猿の木乃伊(ミイラ)に繫いだと考えるのが妥当であると考える

「秦の始皇」中国最初の秦の皇帝である始皇帝(紀元前二五九年~紀元前二一〇年/在位:紀元前二二二年~紀元前二一〇年)。

「驪山」中国、西安の東、陝西(せんせい)省臨潼県城の東南にある山。標高千三百二メートル。山麓に温泉があり、秦の始皇帝はここで瘡を治療し、即位して直ぐに、ここに自身の陵墓建設に着手している。その規模は格段に大きく、「史記」によれば、始皇帝の晩年には、同地区への阿房宮の建築とともに、その作業のため、徒刑者七十万人が動員されたともされる。ウィキの「始皇帝」によれば、『木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が』百『本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたと』され、『珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた』。『これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間』八十『里は閣道で結ばれた』。一九七四年に『井戸掘りの農民たちが兵馬俑を発見したことで、始皇帝陵は世界的に知られるようになった』。『ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される』。『現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約』百『倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された』とある。なお、ここは唐の玄宗皇帝が楊貴妃のために華清宮を建てたことでも知られる。

「其の油を以つて火を點ぜし」これもよく知られた伝承であるが、これは海産の大型哺乳類(クジラやジュゴン等)等から得たものであろうと私は推測する。

「不經(ふけい)」常軌を逸し、道理に外れていること。

「烏有」(うゆう:現代仮名遣)は「烏(いづく)んぞ有らんや」の絶対反語の意で、全くないこと。何も存在しないことを指す。

「獨り」副詞。一つだけ。

「人靣」「人面」に同じい。

「隱然」表面にははっきりとは表われないが、陰では強い実在性や影響力を持っていることを指す。

「縱令(たとひ)、人造ならしむるも、決して看過(くわんか)すべきものに非ず」仮にこれが人の手によってでっち上げられたものであったとしても、だからと言って決して(人魚の存在を)否定してよいものではない。

「列す」書き綴る。

「安政三年」一八五六年。

「寫眞」実物を写生すること。

「明治十六年」一八八三年。

「覆寫」複写。再度、写し直したもの。

「庄内」出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)。既に述べた通り、安政三年当時、松森は庄内藩支藩の出羽松山藩付家老(就任は文久二(一八六二)年)であった。

「薇綿(ぜんまい)」薇(ぜんまい)。シダ植物門シダ綱ゼンマイ科ゼンマイ属ゼンマイ Osmunda japonica

「獨(ひと)り」決定的な一点に於いて。

「人の胸、尽きたらんには、魚の腹、之れに屬すべきの理(ことわり)のごとし。然るに、否せず。人、胸、尽きて、魚、胸、次ぐ理(ことわり)、果して如何んとす」私には、よく意味が判らない。「呼吸を掌る胸部が究極に於いてヒトの進化の結果であるとすれば、その以前は魚類の腹部(鰓を指すか?)が元であるはずであるのが理窟というものであろう。ところが、そうではない、則ち、必要でないはずのものが、あるではないか? 胸が人の進化の結果であるはずであるのに、魚類の胸が、それに繋がっているという、この「人魚」の生態的構造の理窟に合わない状況、これは、さても、果たしてどう考えたらいいのか?」という謂いか? より正確な真意を読み取れる方は、是非、御教授あられたい。

「郵便報知新聞」現在の『スポーツ報知』の大元の前身。明治五(一八七二)年七月十五日に前嶋密らによって創刊された新聞。ウィキの「報知新聞」によれば、『草創期には旧幕臣の栗本鋤雲が主筆を務め、藤田茂吉・矢野龍渓(文雄)らの民権運動家が編集に携わったり、寄稿を行ったりした』。明治十年に『西南戦争が勃発すると、当時記者であった犬養毅による従軍ルポ「戦地直報」を掲載し』た。明治一四(一八八一)年に『矢野龍渓は大隈重信と謀って同社を買収』、『犬養毅・尾崎行雄らが入社し、立憲改進党の機関紙となった』。なお、『当時』、『記者だった原敬はこれに反発して退社している』。『政論新聞(大新聞)は自由民権運動の退潮とともに人気が低下』し、明治十九年に『同社に迎えられた三木善八は漢字の制限や小説の連載などを行い、新聞の大衆化を図』ったとあり、その後、明治二七(一八九四)年、『三木善八が社主に就任』し、同年十二月二十六日に『報知新聞』と改題したとある。

「神奈川縣下久良岐(しもくらき)郡根岸本牧(ほんもく)村」現在の神奈川県横浜市中区本牧。この附近(グーグル・マップ・データ)。私はこの近くの神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校に最も長く勤務した。私の教員生活の中で、一番、幸せな時代であった。

「三、四日跡(まへ)」「まへ」は推定訓。「前」。

「金澤沖」旧久良岐郡金沢村(現在の神奈川県横浜市金沢区)の沖合。現在の横浜港の南方で、浦賀水道を抜けた狭義の東京湾の湾口の西方海域。

「種(し)き」「敷き」に同じ。

「中本(ちうほん)の大針(おほばり)」不詳。中ぐらいの太さを持った大きな針状の部位を指すか。哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae の尾部が疾患などによって腐敗し、骨が露わになったものを指すようは思われ、松森もそのようなものとして捉えているように思われる

「戸長役場」明治初期に区・町・村に設置された行政事務責任者である戸長が戸籍事務などを執った役所のこと。現在の町村役場の前身。

『橘の南溪があらわす所の「西遊記」』医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行。南谿は本名宮川春暉(はるあきら)で、伊勢久居(現在の三重県津市久居)西鷹跡町に久居藤堂藩に勤仕する宮川氏(二百五十石)の五男として生まれた。明和八(一七七一)年一九歳の時、医学を志して京都に上り、天明六(一七八六)年には内膳司(天皇の食事を調達する役所)の史生となり、翌年には正七位下・石見介に任じられ、光格天皇の大嘗祭にも連なって医師として大成した。諸国遍歴を好み、また文もよくしたため、夥しい専門の医学書以外にも、「東遊記」やこの「西遊記」(併せて「東西遊記」と称する)等の紀行類や、随筆「北窓瑣談」等で知られている。ここに出る「山女」は「西遊記」の巻二に載る日向国(宮崎)での聞書き。所持する東洋文庫本で示す(気持ちの悪い新字新仮名であるが)。

   *

 日向国飫肥(おび)領の山中にて、近き年菟道弓(うじゆみ)にてあやしきものを取りたり。惣身女の形にして、色殊の外に白く、黒き髪長くして赤裸なり。人に似て人にあらず。猟人も是を見て大いに驚きあやしみ、人に尋ねけるに、山の神なりというにぞ、後のたたりもおそろしく、取すてもせず其ままにして捨置きぬ。見る人も無くて腐り果てけるが、何のたたりも無かりしとなり。又、人のいいけるは、是は山女というものにて、深山にはまま有るものといえり。惣(すべ)て彼(かの)辺にては、菟道弓というものを作りて獣を取る事也。けものの通う道をウジという。其道を考え知りて、其所へ弓をしかけ置き、糸を踏めば弓発して貫く機関(からくり)なり。狼、猪なども皆此弓にて多く取得るとぞ。誠に辺国には種々の怪敷ものも有りけり。

 但し、九州には天狗の沙汰甚だ稀なり。薩州鹿児島辺にはたえてきかず。四国には天狗多しという。伊勢の辺には別して多し。皆高山には是有る様子なり。かかるたぐいも国々の風土によりて多少あるか。

   *

「飫肥」は現在の宮崎県南部日南市中央部にある地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。「菟道弓(うじゆみ)」は本文に出る「兎略弓(うぢゆみ)」で、この引用で最早、注する必要はなくなったと考える。

 なお、私はご多聞に漏れず「人魚フリーク」で、古くは、

南方熊楠「人魚話」やぶちゃん注

に始まり、

寺島良安和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚の「人魚」の項

でも考証した。そこではモデル論としては、哺乳綱のジュゴン目(海牛目)Sirenia

ジュゴン科 Dugongidae のジュゴン亜科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon(一属一種)

を真っ先に挙げ、以下、同じジュゴン目のマナティー科 Trichechidae マナティー属に属する三種

アマゾンマナティー Trichechus inunguis

アメリカマナティー Trichechus manatus

アフリカマナティー Trichechus senegalensis

も挙げねばならないとし、更に、近代に人類が絶滅させたジュゴン科ステラーカイギュウ亜科 Hydrodamalinae

ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas

も、その我々の愚かな行為を忘れないために、掲げた。ステラーダイカイギュウについては、南方熊楠「人魚話」やぶちゃん注の私の注13を是非お読み頂きたい。但し、本邦本土にやって来るとなれば、やはり

食肉(ネコ)目 Carnivora のアシカ科 Otariidae のアシカやオットセイ

鰭脚(アシカ)亜目アザラシ科 Phocidae のアザラシ

等もモデル生物として挙げておいた、松森は魚類とヒトの中間型生物の措定を真面目に考えていたのであるが、アーバン・レジェンド(都市伝説)としての人魚伝説は今も頗る健在である。調査捕鯨の関係者の間で噂されると言い、映像にも撮られたとする謎の生物「ヒトガタ」「ニンゲン」「人型物体」……流石に、フリークの私も呆れて物が言えぬ。博物図譜では、非常に優れたものとして、

毛利梅園「梅園魚譜」の「人魚

を電子化注している。未見の方には、特にこれをお勧めする。古典で記事の古さから言えば、

「今昔物語集」の「卷第三十一 常陸國□□郡寄大死人語 第十七

も見逃せない(これは私の訳注附き)。最近の私の仕儀では、

柳田國男「一目小僧その他」附やぶちゃん注「物言ふ魚」

がある。因みに、私は勝手に、

動物界脊椎動物門哺乳綱正獣下綱サル目(霊長類)サル亜綱サル下目(狭鼻猿類)ヒト科ヒト属ニンギョ(人魚)亜種 Homo nostosalgos sapiens Yabunovich Tadasky,2008

という学名もつけている。]

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