含羞(はぢらひ) ――在りし日の歌―― 中原中也
在 り し 日 の 歌
含 羞(はぢらひ)
――在 り し 日 の 歌――
なにゆゑに こゝろかくは羞ぢらふ
秋 風白き日の山かげなりき
椎の枯れ葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳ちゐたり
枝々の 拱(く)みあはすあたりかなしげの
空は死兒等の亡靈にみち まばたきぬ
をりしもかなた野のうへは
あすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき
椎の枯れ葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳ちゐたり
その日 その幹の隙(ひま) 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
その日 その幹の隙(ひま) 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
あゝ! 過ぎし日の 仄燃えあざやぐをりをりは
わが心 なにゆゑに なにゆゑにかくは羞ぢらふ……
[やぶちゃん注:太字「あすとらかん」は原典では傍点「ヽ」。一九九二年二月発行の『国文学 解釈と教材の研究』の「現代詩を読むための研究事典」内の長野隆氏の「中原中也 含羞――在りし日の歌」(PDF)の解題によれば、初出は『文学界』昭和十一年一月号で、創作『されたのは前年の十一月十三日』を閉区間とし(則ち、本詩の「死兒」のイメージは文也の死を踏まえたものではない)、『その時には副題はなかった。副題は詩集編纂時に添えられたもので、その点から見ても、詩集全体の意置に深く関わっている』とある。
「彳ちゐたり」「たちいたり」と読む。
「あすとらかん」ロシア南部のカスピ海北西岸にあるアストラハン(astrakhan:ヴォルガ川右岸の河口デルタに位置する。ここ(グーグル・マップ・データ))を主産地とし、広く中近東に産するところの、カラクール(karakul)種と呼ぶ羊の腹子(はらご)又は、生まれたての黒い巻き毛の子羊から獲って素材化した毛皮(帽子やコートなどに使う)を本来は言う。しかし、ここはその間合いを幻想の「古代の象」(されば私にはマンモスかナウマンゾウのように視える)が縫うように歩むのであるから、「あすとらかん」はそれを獲る、この世に生を受けて直ちに人に嬲り殺されて皮を剝がれてしまう子羊を指すと考えてよいであろう。前に示した長野隆氏の「研究の展望」によれば、『吉田煕生に依れば、《「あすとらかん」は極めて短命な運命にある子羊であり、「象」の力強さ、長い生命とは対照的な存在であって、やがては「死児」の列に加わる生物》』であるが『ゆえに《この第二連の世界は、不吉な原初的世界としての像を明確にする》』と解釈しているとある。また、池田純溢は、『「あすとらかん」は〈子羊たちの姿をした白い雲〉で、「古代の象」は〈巨大な象の姿に似た山〉でいのではないか。「死児等の亡霊」から目をそらしたときに、〈山〉と〈雲〉がそのような「夢」、つまり〈幻覚〉としてむこうの「野のうへ」に見えたのだ》』『と、平凡だが無理のない見解を提出している』とある。私は前者の吉田氏の説に強く共感する。
最終連「仄燃え」「ほのもえ」と読む。
最終連「あざやぐ」「鮮やぐ」で「色などが際立って見える・鮮やかに見える」の意。]