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« 蛙聲   中原中也 | トップページ | 子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十二年 「曙覧の歌」 »

2018/05/25

詩集「在りし日の歌」 後記   中原中也 /   中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版) ~了

 

    後  記

 

 茲に收めたのは、「山羊の歌」以後に發表したものの過半數である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序でだから云ふが、「山羊の歌」には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを收めた。

 詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出來れば、私の詩生活も既に二十三年を經た。もし詩を以て本職とする覺悟をした日からを詩生活と稱すべきなら、十五年間の詩生活である。

 長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは少くない。今その槪略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確實に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも云つてをきたい。

 私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に託し、東京十三年間の生活に別れて、鄕里に引籠るのである。別に新しい計畫があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潛しようと思つてゐる。

 扨、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。

 さらば東京! おゝわが靑春!

        〔一九三七、九、二三〕

 

[やぶちゃん注:最後のクレジットは下二字上げインデントであるが、ブログのブラウザの不都合を考え、ずっと上に引き上げた。

「山羊の歌」昭四五(一九七〇)年麥書房刊の第一詩集。中原中也は生前、これと本「在りし日の歌」の二詩集しか出していない。

「大正十四年」一九二五年。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「むなしさ」の解説冒頭で「月」「春」夏の夜」などがそれに当たる(但し、創作時期であって発表ではないので注意)と述べておられる。

「昭和十二年」一九三七年。「永訣の朝」の後半の幾つか。これは、概ね、注で述べた。

「私の詩生活も既に二十三年を經た」クレジットの昭和一二(一九三七)年から二十三年前は数えとしてみると、大正四(一九一五)年、中也八歳となるが、これは冬の日の記憶の注で述べた、その年の一月、弟亜郎の死を悼んで歌を作った、という事実と合致する。

「詩を以て本職とする覺悟をした日からを詩生活と稱すべきなら、十五年間の詩生活である」同じように計算すると、大正一二(一九二三)年、中也十六歳となる。立命館中学へ転校した年である。ゆきてかへらぬ――京 都――の注で引用して述べたように、この年の秋、高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉の詩」を読んで感激し、ダダ風の詩を作るようになり、有意な詩篇をものしたとする(四十編ほどが現存)という事実と合致する。

「小林秀雄に託し」残念ながら、本詩集「在りし日の歌」は没後半年後の刊行となった。

「東京十三年間」中也の上京は大正一四(一九二五)年三月であるから、数えで一致する。

「鄕里に引籠る」遂にこれは成らなかった。墓は郷里の山口県吉敷(よしき)村長楽寺(現在の山口市吉敷佐畑。浄土宗。(グーグル・マップ・データ)。墓は地図画面の右端の経塚墓地内にある。注で述べたが、メルヘンのロケーションとされる吉敷川畔である)にあるが、葬儀は自宅の表にある鎌倉の寿福寺で行われている。

「それを思へば茫洋とする」小林秀雄の「中原中也の思い出」(昭和二四(一九四九)年『文芸』八月号「特輯中原中也」)でよく知られる。新潮文庫「作家の顔」(昭和四五(一九七〇)年改版)から引用しておく。小林秀雄は「大々」がつくぐらい大嫌いだが、このエピソードには今もしみじみする。ロケーションが私の好きな鎌倉の妙本寺から始まるせいだからであろう。

   *

 晩春の暮れ方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直(す)ぐに間断なく、落ちていた。樹蔭(こかげ)の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひらと散らすのに、きっと順序も速度も決めているに違いない、何んという注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺(おれ)達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果てしなく、見入っているときりがなく、私は、急に厭(いや)な気持ちになって来た。我慢が出来なくなって来た。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変らずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化(どうけ)た様な笑いをしてみせた。

 二人は、八幡宮の茶店でビールを飲んだ。夕闇(ゆうやみ)の中で柳が煙っていた。彼は、ビールを一と口飲んでは、「ああ、ボーヨー、ボーヨー」と喚(わめ)いた。「ボーヨーって何だ」「前途茫洋(ぼうよう)さ、ああ、ボーヨー、ボーヨー」と彼は目を据え、悲し気な節を付けた。私は辛(つら)かった。詩人を理解するという事は、詩ではなく、生まれながらの詩人の肉体を理解するという事は、何んと辛い想いだろう。彼に会った時から、私はこの同じ感情を繰り返し繰り返し経験して来たが、どうしても、これに慣れる事は出来ず、それは、いつも新しく辛いものであるかを訝(いぶか)った。彼は、山盛りの海苔巻(のりまき)を二皿平げた。私は、彼が、既に、食欲の異常を来(きた)している事を知っていた。彼の千里眼は、いつも、その盲点を持っていた。彼は、私の顔をチロリと見て、「これで家で又食う。俺は家で腹をすかしているんだぜ。怒られるからな」、それから彼は、何とかやって行くさ、だが実は生きて行く自信がないのだよ、いや、自信などというケチ臭いものはないんだよ、等々、これは彼の憲法である。食欲などと関係はない。やがて、二人は茶店を追い立てられた。

   *

因みに、以上は没した年の晩春である。

 以下、奥附となっているが、死後の刊行なので復元しない。因みに、『版元』は創元社、印刷は昭和一三(一九三八)年四月十日、発行は同年四月十五日である。定価は一円五十銭(但し、満州・朝鮮・台湾・樺太等の外地定価は一円六十五銭)とある。
 

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     亡き娘アリスの靈に捧ぐ


【2018年5月25日 藪野直史】]

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