諸國里人談卷之一 直會祭
○直會祭(なをへまつり)
尾張國中嶋郡國府宮(こふのみや)【淸洲(キヨス)の近所也。】、每年正月十一日に「直會祭」といふあり。神官、旌旗(せいき)を立〔たて〕て、道の邊〔べ〕に出て、往來の人を一人、捕ふ。さるによつて、其日は諸人、戸出(とで)をつゝしむ。旅人などは旅館にて此事を告〔つげ〕しらせて逗留するなり。斯(かく)恐るれども、自然(しぜん)と、このために捕はれる者、出來〔いでき〕て、其人を沐浴(ゆあみ)をさせ、淨衣(じやうゑ)を著(きせ)て、神前につれ行〔ゆき〕、大きなる爼板(まないた)一器(いつき)、木にて作れる庖丁、生膾箸(まなばし)をまうけ置〔おき〕、又、人形(ひとがた)を作りて、捕はれたる人の代(かはり)として、末那板(まないた)の上に据(すへ)て、その傍(かたはら)に捕はれし人を居(お[やぶちゃん注:ママ。])らしめ、神前に備(そな)へ進ずる事、一夜なり。翌朝(よくてう)、神官來りて、件(くだん)の備物(そなへもの)・人、共に神前よりくだし、土を以〔もつ〕て、大きなる鏡餠(かゞみもち)を作りて、彼(かの)人、背に負せ、靑銅一貫文を首にかけて追放(おいはなつ[やぶちゃん注:ママ。])に、走り行〔ゆき〕て、かならず、倒(たをれ)て絶入(ぜつじゆ)す。少時(しばらく)ありて正氣いでゝ、元のごとし。その倒れたる所に土餠(どもち)を納めて塚を築(つく)なり。此神事、社家の深祕(しんぴ)とす。
眞淸田明神〔ますみだみやうじん〕 祭神 國常立尊〔くにのとこたちのかみ〕 當國の一ノ宮也。
[やぶちゃん注:これは私には、礫川全次氏の編著になる「生贄と人柱の民俗学」(一九九八年批評社刊・「歴史民俗学資料叢書」五)の加藤玄智博士の大正一四(一九二五)年の論文「尾張國府宮の直會祭を中心として見たる人身御供及び人柱」を始めとして、文献上は非常に親しく知っている異祭である。歴史的仮名遣では正しくは「直會祭(なほゑまつり)」である。以上の内容から容易に察することが出来るが、この祭りは古えにあっては明確な人身御供の祭儀であったのであり、恐らくは近世の初期頃までは、ここに記されたよりも、より原型に近い凄惨な一部(犠牲者への暴行・傷害・致死)を色濃く保存していたものと私は推定している。実際に私は、近世後期まで、こうした厄を負わせた浮浪者を生贄に仕立て、祭りの最後に村民全員が石を投げ打ったり、棒で叩いたりして村落境界外へ追放したり、共同体辺縁を意味する橋の上から突き落としたりして半死半生にするという祭儀を、複数、知っている。
「尾張國中嶋郡國府宮(こふのみや)【淸洲(キヨス)の近所也。】」現在の愛知県稲沢市国府宮にある尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。祭神は尾張大国霊神で、これは尾張人の祖先が当地を開拓する中で、自分達を養う土地の霊力を神と崇めたものとされている。開拓神ということから、大国主命とする説もある。尾張国府の設置とともに創建されたもので、尾張国総社とされた。国府は近くにあったことから、一般には「国府宮(こうのみや)神社」或いは単に「国府宮」と呼ばれる。現在も毎年旧暦一月十三日に執り行われる「儺追(なおい)神事」としてこの祭りは生きており、これは通称「はだか祭り」として有名である。この「はだか祭り」では、「籤(くじ)」によって選ばれた「神男」(しんおとこ:或いは単に「シン」と呼ばれる)に触れると厄が落とされるという言い伝えが今なお残っているが、加藤玄智氏の論文によれば『其勢ひは頗る猛烈である爲に、其シンになつた男が、身體の肉を裂かれ血を出して負傷するやうな事もあるから、屈强な男が數名之を護衞して、其シンになつた所の男を』『防禦』する。しかし、これは昼間の儀式で、夜の部の祭(午前二時から払暁まで)では一転してシンに『鏡餅を背負はせ、それに人形を付け』、『神主始め其他の人が、之を鬼として追ふのである。其時にぶつけるものは、桃の枝と柳の枝とを二本合せて』撚つて『結び、一寸ばかりに切つた飛礫を』『ぶつけるのである』。『さうして三囘』シンが『逃廻つた後に、社前約半丁ばかりの一定の土地に逃込んで』(こここそが古えの生贄の殺害場所であり、埋葬地であったに違いない)、『其處に其脊負つて居つた餅を下して土中に埋め』(餅は稲霊であるよりもここでは生身の人の霊魂の代替物である)、『其シンになつた』逆に多くの『厄を脊負つ』てしまった『男は、急いで自分の家へ歸』ることになっていたのである。これは江戸時代の話ではない。論文が書かれた大正末期の様子なのである。それ以前の原型がいかに強烈なものであったかは、この異常な生贄役選別が旅人や公的な飛脚の通行を著しく妨げて問題になった結果、寛保年間(一七四一年~一七四四年)、当時の尾張藩第八代藩主徳川宗勝がこの祭祀を学者に調べさせ、人を捕えて神前に供するという仕儀を「淫祠」と断じて禁じたことからも判る。後に江戸中期の神道家源誠之の書いた「吉見宅地書庫之記」によれば(加藤論文からの孫引き)
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寛保年間本州國府宮正月十三日追儺修法、捕人以充之者、以似淫祀、邦君(註德川宗勝)寬政之餘、思國民之憂、欲止之、使有司問之先生、於是先生考索和漢典籍、審誌勘文、以聞、乃有嚴命、禁止猥捕往來人之淫祀、因下令於國中、不啻使闔國往還安、天下大悅、傳聞之者、無不感嘆邦君之仁政、嗟呼偉哉。
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とあって、実は祭りに参加していた民草自身が、この奇体な祭りが禁止されたことを逆に悦んでいることが判るのである。しかも、本「諸國里人談」の刊行は寛保三(一七四三)年であるから、ここに記された内容は、まさしく旧型の禁止される最後の形を記している貴重な資料なのである。
「旌旗(せいき)」色鮮やかな幟旗。
「戸出(とで)」外出。
「斯(かく)恐るれども、自然(しぜん)と、このために捕はれる者、出來〔いでき〕て」生贄がなければ、直会祭を行えない以上、神主や氏子総代は当然、裏で手を回して、浮浪人や卑賤の大道芸人・知的障碍者などを金銭を以って雇い入れていたものと推測される。
「其人を沐浴(ゆあみ)をさせ、淨衣(じやうゑ)を著(きせ)て」典型的な「一夜神主」=人身御供である。
「生膾箸(まなばし)」「眞魚箸(まなばし)」で魚鳥を礼式に則って料理する際に使う、柄のついた長い木又は鉄製の箸。
「人形(ひとがた)を作りて、捕はれたる人の代(かはり)として、末那板(まないた)の上に据(すへ)て、その傍(かたはら)に捕はれし人を居(お)らしめ、神前に備(そな)へ進ずる事、一夜なり」フレーザーのいう類感呪術の教科書的記述と言える。慄然とするものがある。
「靑銅一貫文」江戸中期だと、一両の四分の一が銭一貫文で、凡そ一両は十万円相当として、二万五千円。これが生贄役のギャラだった。私は安過ぎると思うね。「ハレ」には実際の生贄が何時だって必要なんだ、今だって、ね。
「走り行〔ゆき〕て、かならず、倒(たをれ)て絶入(ぜつじゆ)す。少時(しばらく)ありて正氣いでゝ、元のごとし。その倒れたる所に土餠(どもち)を納めて塚を築(つく)なり」こうしないとエキサイトした参加者の中には、「総ての厄を担った鬼」役を確信犯で実際に撲殺する者が出てくるからである。これは神主から予めその者に謂い含められたシナリオなのだと私は思う。これは「神(シン)」=「鬼」=トランス状態の巫覡(ふげき:男のミコ)の行動としても腑に落ち、失神した(神がかりが落ちた)それに手は出さないのが、こうした際の暗黙の鉄則だからである。それこそ、そうした演出こそが本来のこの祭りの「社家の深祕(しんぴ)」だったのだと私は思う。]