初夏の夜 中原中也
初 夏 の 夜
また今年(こんねん)も夏が來て、
夜は、蒸氣で出來た白熊が、
沼をわたつてやつてくる。
――色々のことがあつたんです。
色々のことをして來たものです。
嬉しいことも、あつたのですが、
囘想されては、すべてがかなしい
鐵製の、軋音さながら
なべては夕暮迫るけはひに
幼年も、老年も、靑年も壯年も、
共々に餘りに可憐な聲をばあげて、
薄暮の中で舞ふ蛾の下で
はかなくも可憐な顎をしてゐるのです。
されば今夜(こんや)六月の良夜(あたらよ)なりとはいへ、
遠いい物音が、心地よく風に送られて來るとはいへ、
なにがなし悲しい思ひであるのは、
消えたばかしの鐵橋の響音、
大河(おほかは)の、その鐵橋の上方に、空はぼんやりと石盤色であるのです。
[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本篇もまた、創作年月日がはっきりしており、昭和一〇(一九三五)六月六日とあって、初出は『文學界』同年八月号である。
「軋音」新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」に『きつおん』とルビするが、「軋」の字は「キツ」という音は持たない。呉音で「エチ」、漢音で「アツ」である。ここは「あつおん」と読んでおく。「軋(きし)み音」である。
「顎」上記新潮社版では『あぎと』とルビする。「可憐な」の形容を考えると、この読みを私は支持する。
「良夜(あたらよ)」「可惜夜(あたらよ)」で、「明けるのが惜しいほどに素晴らしい夜」の謂い。
「響音」「きやうおん(きょうおん)」と読んでおく。汽車が鉄橋を渡って行く、その反響音である。
「石盤色」英語の色名「スレート・グレイ」(slate grey)の訳語。濃い灰色。「スレート」は屋根を葺くのに用いる粘板岩の薄板のこと。]