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2018/05/31

諸國里人談卷之一 犬頭社

 

    ○犬頭社(けんとうのやしろ)【犬尾社(けんびのやしろ)は下和田にあり。】

三河國碧海(へきかい)郡上和田村【岡崎にちかし。】に犬頭社といふあり。深更に及〔および〕て、靑銅百疋を長く繫(つなぎ)て口に喰(くわ)へ、鳥井の邊より社まで、四つ這(ばひ)にはひて行けば、かならず、福を得(うる)と、いひつたへたり。人、あつて、此事をなすに、神慮に叶ふ人は行課(ゆきおふ)せ、叶はざるは、何事ともしらず、兩足を跡へ引きて、行〔ゆく〕事、あたはず、となり。○天正年中、領主宇津左衞門五郞忠茂、一時(あるとき)、獵(かり)して山に入〔いり〕、一樹の下にして俄に睡(ねむり)を催しけるに、手飼の白犬、裾(すそ)を咬(くわへ)て行〔ゆく〕に、目を寐(さま)し、又、睡るに、犬、頻(しきり)に枕の上に吠(ほゆ)る。睡眠の妨(さまたげ)を怒(いかつ)て、腰刀(こしがたな)を拔(ぬき)て、犬を伐(きる)。その頭(かうべ)、飛(とん)で、樹(き)の上の※[やぶちゃん注:「虫」+「白」。]蛇(うはばみ)の頭(かしら)に嚙付(くひ〔つき〕)たり。忠茂、これを見て、大きに驚き、卽(すなはち)、※蛇を殺す。彼(かの)犬の忠情(ちうせい[やぶちゃん注:ママ。])を感じ、兩(りやう)和田村に、犬頭・犬尾を埋(うづみ)て、是を祭る。【東君、聞召〔きこしめし〕、甚〔はなはだ〕感ジサセ玉フ。】

[やぶちゃん注:【2018年8月15日追記】clubey氏のブログ 「猫の神様を求めて」の『愛知県の猫神・糟目犬頭神社の「唐猫」中編』で本条を含め、伝承の変遷が詳細に語られてあるのを発見した。是非、読まれたい。
 
「三河國碧海(へきかい)郡上和田村」現在の愛知県岡崎市三上和田町(まち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここで語られる「犬頭社」はかつてこの地区内の「糟目」という場所にあったが、現在はその少し南の愛知県岡崎市宮地町馬場(ここ(グーグル・マップ・データ))に「糟目犬頭神社(かすめけんとうじんじゃ)」として合祀されて現存している。これは「岡崎おでかけナビ」のこちらで判明した。

「犬尾社(けんびのやしろ)は下和田にあり」上和田町の南、現在の糟目犬頭神社の二キロほどの位置(愛知県岡崎市下和田町北浦。ここ(グーグル・マップ・データ))に「犬尾神社」として現存する。読みは調べる限りでは「けんび」「いぬお」「けんぴ」とさまざまである。ご夫婦で作っておられるサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」のこちら(こちらは「けんぴ」)が「犬尾神社由緒」の画像を掲げておられるので、リンクさせて戴く。その由緒書きには(句読点を挿入した)、

   *

祭神 彦火火出見尊 熊野大神

その昔、この地に彦火火出見尊を鎮座し、祭礼を行い、この辺りの開発の神として尊崇する。後、永延元年(九八七)六月二十五日、紀州熊野権現を勧請し、合祀する。承和二年(一三四六)、上和田城主宇都宮泰藤、犬の危急の報を知らず頭首を刀で断ったが、蛇からの難を免がれることができた。

 これは神明の犬によるものであると深く感じ入って犬の霊を犬頭、犬尾の両社に祭って弔う。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

とあって、主人公の名がこことは異なる。

「靑銅百疋」百疋は一貫文であるから、銭一貫文(基準千枚)は前に示したように、江戸中期なら二万五千円。重さは単位同じであるから約三・七五キログラム。

「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。

「領主宇津左衞門五郞忠茂」大久保氏。個人サイト「三河松平(徳川氏)家臣団の城館跡」の大久保氏の記載によれば、『大久保氏は粟田関白藤原道兼五代の後胤、下野国住人宇都宮左衛門尉朝綱の後裔と伝わ』り『朝綱九代の孫泰藤は、新田義貞に従っていたが』、『義貞戦死ののち越前を落ち』、『三河に移り住んだ。泰藤の孫泰道の代に姓を宇津と改め、その孫昌忠以来松平氏に仕えた』とあり、先の犬尾神社の人物が、この大久保泰藤であることが判る。また、その後裔である、この大久保改め宇津忠茂についても、『松平清康と敵対していた岡崎の松平昌安』(?~大永五(一五二五)年)『を討つべく』、『山中城奇襲を提言実行』した人物とする。さらに、筑後守氏の「筑後守の航海日誌」の「長福寺(大久保一族の墓)」に、この忠茂は天文一六(一五四七)年に愛知県岡崎市竜泉寺町前田にある、この寺に葬られたとある。

「東君」あまり見かけないが、東照大権現徳川家康のことであろう。]

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