正午 丸ビル風景 中原中也
正 午
丸ビル風景
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの眞ッ黑い、小ッちやな小ッちやな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが櫻かな、櫻かな櫻かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの眞ッ黑い、小ッちやな小ッちやな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな
[やぶちゃん注:発表は角川文庫「中原中也詩集」によれば、中原中也自身の死の、昭和一二(一九三七)年十月号『文學界』である。本詩集中では生前初出発表の最後の詩篇となる。私はこれを中原中也の代表的な詩篇の一つとしてよく記憶している。それは教科書の参考詩や幾つかの現代詩人の抄録集で、中也のこの一篇がよく掲げられていたからであるが、実は私は、この一篇、面白い、と思いながらも、どうも、好きになれないでいる。今も同じである。萩原恭次郎の大正一四(一九二五)年刊の詩集「死刑宣告」のクンズホグレツの「日比谷」の詩を〈見た〉時の、ドっとシラケた感じと、実は同じ部類の感じなのである。私の感じ方に異論はあろう。私も、この私の生理的不快感を冷徹に説明してそうした反論に反駁しようとも思うのだが、本電子化は中原中也詩集「在りし日の歌」の正規表現復元版が目的であって、私の感覚的感想を述べるのが目的ではない(私が偏愛すると言った中原中也の詩篇へのそれも逆にまた浅薄で見当違いのものであるかも知れぬことも重々承知の上である)し、後、二篇で終わるものでもあり、ここでこの注の筆は擱くこととする。すまん、中也。]

