諸國里人談卷之一 人魚
○人魚
若狹國大飯郡(おゝいごほり)御淺嶽(みぜんがだけ)は魔所にて、山八分(ぶ)より上に登らず。「御淺(みぜん)明神の仕者(ししや)は人魚なり」と、いひつたへたり。寶永年中、乙見(おとみ)村の獵師、漁(すなどり)に出けるに、岩の上に臥(ふし)たる體(てい)にして居るものを見れば、頭(かしら)は人間にして、襟(ゑり)に鷄冠(とさか)のごとく、ひらひらと赤きものまとひ、それより下は、魚なり。何心なく、持〔もち〕たる櫂(かい)を以〔もつて〕打〔うち〕ければ、則(すなはち)、死せり。海へ投入(なげ〔いれ〕)て歸りけるに、それより、大風、起つて、海、鳴(なる)事、一七日〔ひとなぬか〕、止(やま)ず。三十日ばかり過〔すぎ〕て、大地震(だいぢしん)し、御淺嶽の梺(ふもと)より海邊まで、地、裂(さけ)て、乙見村一郷(いちごう)、墮入(おち〔いり〕)たり。是、明神の祟(たゝり)といへり。
[やぶちゃん注:「若狹國大飯郡(おゝいごほり)御淺嶽(みぜんがだけ)」よく判らないのだが、或いは、これは現在の福井県大飯郡高浜町高野にある青葉山(山体全体は京都府舞鶴市に跨っている東峰と西峰からなる双耳峰。標高六百九十三メートル。信仰との関わりが深い山で、舞鶴市側の西中腹には西国三十三所第二十九番札所松尾寺が創建され、高浜町側の東中腹には中山寺が創建されており、両寺はともに山号を「青葉山」とする。また、東峰の山頂には青葉神社、西峰の山頂には青葉神社西権現が祀られている。また、古来より若狭三山(青葉山、多田ヶ岳、飯盛山)の一つとして修験道が盛んに行われていた。ここはウィキの「青葉山」に拠った)のことではなかろうか? ある資料に、この青葉山の別名を「御山」と記しているからで、これは「御淺嶽(みぜんがだけ)」とちょっと似ている気がしたからである。また、その他の大飯郡のピークは(三(み)国岳などまたちょっと似ているものはあるのだが)、概ね内陸で海岸線に近くないので、この話向きでないと考えたからでもある。また、この直後に「乙見村」というのが出るのあるが、この漢字表記では見当たらないものの、この青葉山の東北に先太りで突き出ているのが音海半島(おとみはんとう)だから、この漁師の村もこの音海附近ではないかと思うのである。さすれば、福井県高浜町北西部にロケーションが限定出来る(ここ(グーグル・マップ・データ))からである。また、斉藤喜一氏のサイト「丹後の地名」の「青葉神社」の非常に詳しい考証ページによれば、この青葉山は、古代に於いては、大和朝廷に抵抗した土蜘蛛の陸耳御笠(くがみみみかさ)が領有していたのものでなかったのかと記しておられ、まず、「高浜町誌」を引用されて、
《引用開始》
青葉山の土蜘蛛(青葉山麓)
青葉山は、丹後と若狭との国境にあって若狭富士ともいわれている。
崇神天皇のころ、この山に「土蜘蛛」が住んでいて、その頭を「陸耳の御笠」といった。山から下りて来て田畑を荒らしたり、家にはいって物を盗んだりするので、天皇は御弟の日子坐の王に、討ち捕えるようにとお命じになった。王が青葉山のふもとにお着きになると、地面や山々はごうごうと音をたてて揺れだし、天からは御光がさして、土蜘妹たちは目もあけていられないので、頭の陸耳は驚いて山を下り逃げ出した。王は方々追いかけまわして遂に、これらのものをお退治になったという。
《引用終了》
とあり、次に「丹後風土記残欠」から以下を示しておられるが、こちらは国立国会図書館デジタルコレクションの「丹後資料叢書」(昭和二(一九二七)年刊)にある「丹後風土記殘缺」の画像(こちらとこちら)を確認して、オリジナルに勝手訓読してみた。読みは田の資料も参考にして推定で歴史的仮名遣で附してある。
* * *
甲岩(かぶといは)
甲岩ハ、古老、傳へて曰く、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのみこと[やぶちゃん注:崇神天皇の名。])の御代に當り、當國の靑葉山の中に、土蜘(つちぐも)有り。「陸耳御笠」と曰ふ者にして其の狀(じやう)、人民を賊(そこな)ふ。故(かれ[やぶちゃん注:そこで。])、日子坐王(ひこいますのみこ)、勅を奉(たてまつ)りて來たりて、之れを伐つ。卽ち、丹後國[やぶちゃん注:引用元にはここに『(六字虫食)』とあるが、斉藤喜一氏は『若狹國ノ境ニ到ニ』とされておられる。]堺、鳴動して以つて、光輝を顯はし、忽ちにして、巖岩、有り。形貌、甚だ金甲に似たり。因つて、之れを「將軍の甲岩」と名づくなり。亦、其の地を鳴生(なりふ)と號づく。
*
志託(したか)
以つて「志託」を稱する所以(ゆゑん)は、往昔(そのかみ)、日子坐王、官軍を以つて、將(まさ)に陸を攻伐せん[やぶちゃん注:引用元にはここに『(七字虫食)』とあるが、斉藤喜一氏は『耳御笠ヲ攻伐ノ時、靑』とされておられる。]葉山より墜隨(ちくずい[やぶちゃん注:落ち延びてゆくことと採っておく。])す。之れを遂ひて、此の地に到り、卽ち、陸耳、忽ち、稻中に入りて潛み匿るるなり。王子、忽ち、馬を進み入れ(六字虫食)、將いに殺さんとす。則ち、陸耳、忽ち雲を起こし、空中を飛び走り、南に向けて去れり。(二字虫食)王子、甚(いた)く稻(いね)・粱(あは)[やぶちゃん注:底本は「稻梁」となっているが、これは原典の「粱」(あわ)の誤りであろう。そうでないと意味が通じぬので特異的に訂した。それはおかしいとならば、御指摘戴ければ幸いである。]を侵して、荒蕪(したき)爲(ま)せり。故(かれ)(以下十四行虫食)[やぶちゃん注:斉藤氏はここを『其地ヲ名ツケテ荒蕪』(シタカ)『ト云フ』とされておられる。]
* * *
青葉山が古えの土蜘蛛の根城であったとすれば、これはまさに伝承上、後々まで「魔所」とされるに相応しいではないか。また、若狭は人魚伝承の多い地域であるが、人魚の肉を誤って食べてしまった不老長寿となる、所謂、「八百比丘尼」伝説もある。しかもウィキの「人魚」によれば、『京都府綾部市と福井県大飯郡おおい町の県境には、この八百比丘尼がこの峠を越えて福井県小浜市に至ったという伝承のある尼来峠という峠がある』とあり、この尼来峠は青葉山から十二キロメートルほどと比較的近い位置にある(通常の地図では確認出来ないので。サイト「峠データベース」のこちらを確認されたい)但し、以上の尼来峠を八百比丘尼が越えたとする話には要出典要請がかけられているので判る通り、出典が定かでない。私は以前にこの出典を調べてみたことがあるのだが、いろいろなところにこの記載がありながら、どなたもその一次史料を示していないので怪しい気もする。されば、参考までに記しおくに留める。
「仕者(ししや)」使者。
「寶永年中」一七〇四年~一七一一年。徳川綱吉・家宣の治世。
「獵師」漁師。
「頭(かしら)は人間にして、襟(ゑり)に鷄冠(とさか)のごとく、ひらひらと赤きものまとひ、それより下は、魚なり」男女の区別をしていない。されば、頭部が単に人間らしい印象であったに過ぎないことが判る。その場合、私は「耳」があるかないかが、大きな人面のシミュラクラのポイントの一つになると考えているので、この漁師が沿岸の岩礁上に認めたそれは、目立つ耳介を持つ、哺乳綱ネコ目アシカ科キタオットセイ属キタオットセイ Callorhinus ursinus ではなかったかと推理している。「襟(ゑり)に鷄冠(とさか)のごとく、ひらひらと赤きもの」を纏っていたというのは、紅藻類の海藻が頸の周囲に付着していたと考えても無論、よいが、実はわざわざそんなもので無理に装飾しなくても、実はオットセイの幼体や♀の成獣の毛は腹面が赤褐色を呈するのである。
「一七日〔ひとなぬか〕」一週間。
「大地震(だいぢしん)」宝永年間の大地震は宝永の大地震(宝永四年十月四日(一七〇七年十月二十八日)であるが、これは東海道沖から南海道沖の南海トラフを震源とするもので、小浜附近の推定震度はマグニチュード5~6で(ウィキの「宝永地震」に拠る)、「御淺嶽の梺(ふもと)より海邊まで、地、裂(さけ)て、乙見村一郷(いちごう)、墮入(おち〔いり〕)たり」というような大規模な広域の陥没のカタストロフが起きたような感じではない。なお、この謂いからは「乙見」は「音海」ではなく、青葉山の北方の内海湾湾奧になくてはならぬことになる。不審。]