冬の日の記憶 中原中也
冬の日の記憶
晝、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、
夜になつて、急に死んだ。
次の朝は霜が降つた。
その子の兄が電報打ちに行つた。
夜になつても、母親は泣いた。
父親は、遠洋航海してゐた。
雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。
北風は往還を白くしてゐた。
つるべの音が偶々した時、
父親からの、返電が來た。
每日々々霜が降つた。
遠洋航海からはまだ歸れまい。
その後母親がどうしてゐるか……
電報打つた兄は、今日學校で叱られた。
[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本詩篇の創作は推定で昭和一〇(一九三五)年十二月とし、この死んだ子は四歳の『中也の次弟・亜郎』(つぐろう/通称/あろう)であり、従ってここに出る「兄」が長男であった中原中也自身であるとあり、『亜郎が亡くなったのは』大正四(一九一五)年一月九日で中也八歳の時であったという。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、この時、この次男亜郎の詩を悼んで歌(本詩篇ではない)を作っており、それが中也の最初の詩作であったとする。この詩はそういう意味で、中原中也にとっての近親者の死によるトラウマの起点であったと同時に、彼の文学的出発点でもあったということになろうか。
「父親は、遠洋航海してゐた」事実の文学的虚構。当時、父謙助は金沢の聯隊付から朝鮮の龍山(ヨンサン)(現在の大韓民国ソウル特別市中央部の漢江北岸にある龍山区。ソウル駅がある)聯隊陸軍医長に栄転し、前年大正三年三月から赴任しており、家族は同時に金沢から山口に戻っていた(謙助はその後、上司に申し出て、八月、家族のいる山口の衛戍病院長に転任して帰還した。因みにその二ヶ月後の十月、彼は中原家と養子縁組をし、中原家の戸主となり、ここで初めて中也は柏村から中原姓となったのであった。ここはウィキの「中原謙助」に拠る)。
「つるべ」「釣瓶」。井戸で水を汲み上げる際に用いる、繩・綱を取り付けた桶などの容器を狭義には指すが、後にはそれを引き上げる天秤状の釣瓶竿や滑車など機構全体を指すようになった。井戸は古来、死者の国としての黄泉(よみ)の国や冥界に通底する通路とされたから、ここでそれが何故か音を立てたというところには、民俗的なそうした意識が働いていることを見逃してはなるまい。]