菊岡沾凉「諸國里人談」始動 / 諸國里人談卷之一 和布刈
[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集」に於いて菊岡沾凉の怪奇談集「諸国里人談」を始動する。
「諸国里人談」は作家菊岡沾涼(せんりょう)が寛保三(一七四三)年に刊行した怪奇談への傾きが有意に感ぜられる百七十余話から成る俗話集。半紙版二冊本で全五巻で、神祇部に始まり、釈教・奇石・妖異・山野・光火(こうか)・水辺(すいへん)・生植(せいしょく)・気形(きぎょう[やぶちゃん注:本文ルビは「ききやう」。])・器用部の類別部立てとする。後発の諸怪奇談集には本書を引用するものが頗る多く、そうした意味で、江戸後期の諸怪奇談蒐集本や創作怪談集の形成に大きな影響を与えた随筆作品の一つと言ってよい。
菊岡沾凉(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)は江戸中期の俳人で作家。伊賀上野の生まれ。諱は房行、通称は藤右衛門、別号を米山(べいさん)・南仙などと称した。ウィキの「菊岡沾凉」によれば、『祖父伝来の婦人薬女宝丹』(「にょほうたん」と読むか)、『二日酔い薬清酲散』(せいていさん)『を販売して生計を立てる傍ら、内藤露沾門』(陸奥磐城平藩の世嗣であったが、奇体な家内のごたごたによって父から廃嫡された(一時は幽閉されている)。第六代藩主(後に日向延岡藩の初代藩主)内藤政樹の実父。俳人としては芭蕉や其角らと親しく交遊した)『下で俳諧を学び、江戸座で精力的に俳諧活動を行った。しかし、露沾の死後』、『俳壇で孤立し、後世には寧ろ』、「江戸砂子」(享保一七(一七三二)年五月刊)を始めとする地誌(「江戸砂子」はムック本のような江戸観光案内書として非常な好評を得、享保二〇(一七三五)年にはそれを追補する形の第二弾「続江戸砂子」が「新板江戸分間(ぶんけん)絵図」(測量に基づくデータに絵画的表現を取り入れた地図)附き(総て沾凉自身の手に成る)を板行している)と、本書や「本朝世事談綺」(享保一九(一七三四)年)といった『説話集の著者として名が知られる』。『伊賀国阿拝郡』(あはいぐん/あえぐん)『上野城下本町筋中町(三重県伊賀市上野中町)』で『造り酒屋清洲屋飯束瀬左衛門政安(法号三悦)の四男として生まれた。飯束家時代は勘左衛門と名乗った。まもなく、嫡子がいなかった母方の親戚にあたる福居町菊岡行尚の養子となり、名を房行とした。『元禄一二(一七九九)年、『行尚に実子が生まれると、分家して江戸に下り、藤右衛門と名乗った。住所は神田鍛冶町一丁目藍染川北側で、現在の千代田区鍛冶町二丁目』二『番地北部及び』六『番地に当たる』。『元禄年間の内に、芳賀一晶に師事したが、間もなく一晶は俳壇から離れたため、内藤露沾に師事し』、享保二(一七一七)年)『初冬、絵俳書』「百福寿」に参画、『三世立志とも接近し、江戸座において歳旦集に入句し』ている。享保五(一七二〇)年『頃、露沾から一字を賜り』、『沾涼と号した』。享保一二(一七二七)年三月十七日には『湯島天満宮で万句興行を主催し、 宗匠として立机した』。しかし、享保一八(一七三三)年の『露沾の没後、後継者貴志沾洲が譬喩』(ひゆ)『俳諧を行ったため、枯淡を基調とする』彼の『俳風から』、『江戸座の中で孤立していった』。享保十七年五月に「江戸砂子」を刊行、『これが評判を呼んだ』。この間、沾洲グループと激しい論争を繰り返し、孤立化は深刻となった。『晩年は俳諧紀行の旅で得た見聞を基に地誌や綺談説話集を著して過ごした。沾洲派の譬喩俳諧が批判され、松尾芭蕉回帰の運動も起こったが、これにも参画することはなかった』。『辞世は「葉は茎はよし枯るとも薄の根」』である。
底本は「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」内の三種の同書があるが、この内、最も古いものが寛保三(一七四三)年版(版本)(こちら。①とする)、次が同じく版本の寛政一二(一八〇〇)年版(こちら。②とする)なのであるが、原本の経年劣化と撮影の諸条件から、画像自体が甚だ暗く、私には判読し辛い。ところが、最も新しいが、安政五(一八五八)年の山本氏による写本は保存状態がよく、明度が非常に高い(こちら。③とする)。そこで③を基礎底本とし、①(必要ならば②とも)と校合しつつ、本文を電子化することとする。因みに、私は活字本を昭和五〇(一九七五)年吉川弘文館刊「日本随筆大成」第二期第二十四巻で所持している(底本は奥書から②の版と同一のものである)。しかし、これは漢字が新字体であるので、この本文をOCRで取り込み、加工用の基礎データとして利用させて戴いた。
①~③を校合した際、原典の崩し字で字体に迷ったものは正字で表記した。原典にはかなりの量の読み(ルビ)が附されているが、私が必要と判断したものだけに留めて何時も通り、( )で後に附した。送り仮名が含まれているもの(例えば、以下の「門司(もじが)關早靹(はやともの)明神」の「が」「の」)は必ず採った。また、原典にないが、読みを補った方がよいと私が判断した箇所には、私が歴史的仮名遣で推定の読みを〔 〕で補った(因みに、吉川弘文館随筆大成版はルビが全くない、非常に不親切なものである)。なお、読み易さを考えて句読点や諸記号を附した。それは吉川弘文館随筆大成版を一部で参考にさせては貰ったが、基本、私のオリジナルである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。
今までのブログ・カテゴリ「怪奇談集」の今までの仕儀通り、私のオリジナル注を附す。序と目次(原典では各巻冒頭にそれぞれの巻の目次が置かれてある)は最後に電子化する。【2018年5月29日始動 藪野直史】]
諸國里人談 卷之一 菊岡米山翁著
㊀神祇(じんぎの)部
○和布刈(めかり)
豐前國門司(もじが)關早靹(はやともの)明神の宮前(きうぜん)は海なり。是〔これ〕に石の階(きざはし)あり。常に二十階(かい)ほどは水中に見えて、その先はしらず。每年十二月晦日の子〔ね〕過〔すぎ〕、丑の剋(こく)の間に社人、宮殿の寶劔(ほふけん)を胸にあてゝ、石階(せきかい)をくだりて海中に入る。其時、潮(うしほ)、左右へ「颯(さつ)」とひらけり。海底の和布〔め〕を一鎌、かりて、歸るなり。もし、誤(あやまつ)て二鎌かれば、潮に溺るゝの難あり。此時は社頭・民家の燈(ともし)火、海上、掛り舩〔ぶね〕の火、ことごとく、これを消(けす)なり。その剋限の前〔まへ〕、半時ばかり、浪、大きに立〔たち〕て、海、あらし。海底(かいてい)に入らんずるとおもふころ、しばらく、浪、しづまりて、又、前のごとく、半時が程は、海、あるゝ也。元朝、件(くだん)の和布を神前に備ふ。又、帝都へも奉るなり。是を「和布刈〔めかり〕の神事」といふ。○當社は龍神の屬(ぞく)にして、神功皇后(じんぐうこうぐう)三韓退治の時、干珠(かんじゆ)滿珠(まんじゆ)を持來りて、舩を守護し玉ふ也。その頃、皇后、孕(みごも)らせ給ふなれば、「軍の中に降誕(こうたん)あらば、いかゞならん」とわづらはせ給ふに、此神、和布を獻じすゝめ給ふに、三とせを經て、征伐し給ひ、歸朝の時、筑前の箱崎にて、御降誕ありける。應神天皇、是なり。此和布を食する者は万病を治(ぢ)す。疫瘧(やくぎやく)は立所に癒(いゆ)。可ㇾ貴〔たふとむべし〕。
[やぶちゃん注:「和布刈(めかり)」三字遍へのルビ。「和布」二字を「め」と読む。これは現在の福岡県北九州市門司区門司(関門トンネルの九州側の端に当たる。ここ(グーグル・マップ・データ))にある和布刈(めかり)神社で行われる奇祭「和布刈神事」(めかりしんじ)である。ウィキの「和布刈神社」に、『神社名となっている「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われる』。和銅三(七一〇)年には『神事で供えられたワカメが朝廷に献上されているとの記述が残って』おり、現在、この神事は『福岡県の無形文化財に指定されている』とある。因みに、この神事、私には中学生の頃に貪るように読んだ松本清張の一作、「時間の習俗」以来、耳馴染みの神事である。私は行ったことがないのだが、壇ノ浦に面した海岸に鳥居が建っており、そこから石段が社殿に向かって延びているのがネット上の写真で確認出来る。「和布刈神社」公式サイトによれば、『和布刈神事は、神社創建以来続いた神事で、神功皇后が安曇磯良』(あずみのいそら:伝承上の古代の精霊の名とされる。貝や藻や海産生物が付着した容貌をしているとする。実際には中世以降の説話に登場するが、「太平記」によれば、ここで語られる通り、神功皇后が三韓に出兵する際に竜宮へ使者として参り、潮の干満を操ることが出来る干珠(かんじゅ)・満珠(まんじゅ)の宝玉を持ち帰ったとする。海人(あま)を統率した安曇氏の祖とされ、阿度部(あとべの)磯良ともいう。ここは講談社「日本人名大辞典」に拠った)『を海中に遣わし、潮涸珠』(しおふるたま)『・潮満珠』(しおみつたま)『の法を授けた遺風とされている。毎年冬至の日に和布(わかめ)繁茂の祈念祭をもって始まり』、『旧暦十二月一日には松明を作り』、『奉仕の神職は一週間前から別火に入り』(日常の穢れたそれではない、異なった火、神聖な別な火、神聖な儀式に則り、神聖に道具で鑽(き)り出したところの「神聖なる火」の意。ここは、そうした特殊な火を以って調理したものだけを口にすることによって、潔斎するとともに、神人共食に近い状態に持ち込むことで、神に直接特別に奉仕するための準備をするの意。極めて古形の神式に基づくものである)、『潔斎を行う』。『旧暦一月一日午前三時頃』、『神職三人は衣冠を正し』、『鎌と桶を持ち』、『松明で社前の石段を照らして下り』、『退潮を追って』、『厳寒の海に入り』、『和布を刈る』。『これを特殊』な『神饌(福増・歯固・力の飯』(それぞれ「ふくそう」「はがため」「ちからのい)」と読む。孰れも「福を増す」「健康な堅固な歯を養う」「稲霊(いなだま)の力を持った霊飯」と、一年の豊穣祈願・延命長寿を願う予祝神饌である)『)等の熟饌と共に神前に供えて祭典を行い』、『明け方近くに』直会(なおらい:神事の最後に神饌として供えものを下ろし、参加者で戴く行事。古来からの神人共食の大切な儀式である)を以って『全ての行事を終る。昔は刈り取った和布を朝廷や領主に献上していた。また、和布は神の依り代ともされ』、「陽氣初發し、萬物萌え出づるの名なり。その草たるや、淡綠柔軟にして、陽氣發生の姿あり。培養を須ひずして自然に繁茂す……」『と、万物に先駆け』、『自然に繁茂する非常に縁起の良いものであると伝えられている』とある。
「海上、掛り舩」「海上」の「繫かり船」で、海上に停泊している船のこと。
「當社は龍神の屬(ぞく)」龍神を祀る、龍宮の眷属、支社の意であろう。
「神功皇后(じんぐうこうぐう)三韓退治」ウィキの「三韓征伐」より引いておく。『夫の仲哀天皇の急死』(二百年)『後、神功皇后が』その翌年から二六九年まで『政事を執り行なった』が、仲哀九(二〇〇)年三月一日、『神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神の神託で再び』、『新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま』、『海を渡って』、『朝鮮半島に出兵し』、『新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという』。『渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当てて』、『さらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた』という。『月延石は』三『つあったとされ、長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納』されたとし、『また、播磨国風土記逸文には、播磨で採れた顔料の原料である赤土(あかに)を天の逆矛(あまのさかほこ)や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊の管川(つつかわ)の藤代(ふじしろ)の峯に祭ったとある』。『皇后は帰国後、筑紫の宇美』(うみ)『で応神天皇』『を出産し、志免』(しめ)で襁褓(おしめ)『を代えた。また、新羅を鎮めた証として旗八流を対馬上県郡峰町に納めた(木坂八幡宮)』。『神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという』。以上が「古事記」「日本書紀」に『共通する伝承の骨子であり』、「日本書紀」には、『新羅に加えて高句麗・百済も服属を誓ったこと、新羅王は王子を人質にだしたことが記される』。神功皇后摂政五年(二〇五年又は三二五年)年三月七日、『新羅王の使者として、汗礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らが派遣され、人質として倭国に渡った微叱旱岐(みしこち)の妻子が奴婢とされたので返還を求める』、『としてきた。神功皇后はこの要求を受け入れ、見張りとして葛城襲津彦』(かつらきのそつひこ)『を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され』、『微叱旱岐に逃げられた。怒った襲津彦は、毛麻利叱智ら三人の使者を焼き殺し、蹈鞴津(たたらつ。釜山南の多大浦)から上陸し、草羅城(くさわらのさし。慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜を連れ帰った。このときの捕虜は、桑原、佐備、高宮、忍海の四つの村の漢人の祖先である』とする。
「筑前の箱崎」記者である菊岡沾凉は恐らく現在の福岡県福岡市東区箱崎附近を指していると思われる(ここ(グーグル・マップ・データ))が、応神天皇の出生地としては、前注に出した福岡県糟屋郡宇美町又は筑紫の蚊田(かだ:筑後国御井郡賀駄郷或いは筑前国怡土郡長野村蚊田)で生まれたとされ(ウィキの「応神天皇」に拠る)、また、ウィキの「三韓征伐」には、壱岐市芦辺町箱崎諸津触にある赤瀬鼻での出産説が挙げられており、『神功皇后がここで応神天皇を出産し』、『その血で岩が赤く染まったとされる』ともある。
「疫瘧(やくぎやく)」狭義には悪性の流行り病いのことであるが、諸病でよい。]
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