諸國里人談卷之一 龍王祭
○龍王祭(りうわうまつり)
淡路國由良の湊の南西の海中に、周(めぐ)り、三里ばかりの小島あり。此所に平生(ひらもへ[やぶちゃん注:ママ。])といふ大石、海へさし出〔いで〕たる、方〔ほう〕三間〔げん〕あまりの平〔たひら〕なる石あり。每年六月三日、由良の八幡の社僧、來り、此石の上に供物を備へ、祭儀を修(しゆ)す。これを龍王祭といふ也。此時節に至つて、かの石の邊(あたり)に、大小の龜、數萬(すまん)、群(むらが)り集りて、海上を塞ぐ。祭事、過ぬれば、殘らず、忽(たちまち)に去る。今に至〔いたり〕て、例年、たがはず。
[やぶちゃん注:以下は原典では全体が一字下げ。]
案ずるに、此島は牟島(むしま)なり。此島に秦武文(はたのたけふみ)が伴ひし御息所(みやすどころ)、漂泊し、此所に流れより、はじめて上り給ふ、といふ所に、岩あり。傍に小祠(ほこら)あり。今、弁財天に祭る。
[やぶちゃん注:本条の挿絵が後に別にここに載る。早稲田大学図書館古典総合データベースの①のそれで示した。
「淡路國由良の湊の南西の海中に、周(めぐ)り、三里ばかりの小島あり」「牟島(むしま)」これは「太平記」の巻第十八の「春宮(とうぐう)還御の事 付けたり 一宮御息所(いちのみやみすんどころ)」の中に出る秦武文の妻の話から、「武島(むしま)」が正しいと思われる。しかし、この「武島」、不詳とされており、例えば「新潮日本古典集成」(昭和五八(一九八三)年刊)の「太平記 三」(山下宏明校注)の頭注によれば、岩波古典大系本では淡路島の南にある沼島(ここ(グーグル・マップ・データ))に、『この御息所に関する話が伝わると』注するとあり、また、『淡路島北西部の津名郡北淡(ほくだん)町野島か』(この附近(グーグル・マップ・データ)。しかし、ここは島ではなく、淡路島島内の地名である)とも注されてある。この条に出る「由良の湊の南西の海中」というロケーションとしては後者の「野島」は当たらない(そもそもが島でないからアウト)。兵庫県洲本市由良は淡路島の東端で(ここ(グーグル・マップ・データ))で、沼島は由良を起点にして確かに南西ではあり(但し、由良から直線でも十七キロメートルも離れている)、また、沼島の周囲は九・五三キロメートルと、「周(めぐ)り、三里ばかり」(十二キロメートル弱)というのと極端には違わない。取り敢えずは「沼島」で採っておこうと思う。なお、由良には南北に細長い「成ヶ島(なるがしま)」(トンボロ(陸繋島))があるが、ここは逆立ちしても「由良の湊の南西の海中」とは言わないだろうから、私は当初から候補にしていない。
さて、ウィキの「沼島」を見てみると(下線やぶちゃん)、『淡路島は、『古事記』では淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)と書かれ、『日本書紀』では淡路洲と書かれていて、伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の産んだものとされ』、『伊弉諾尊・伊弉冊尊の二神が天上の「天浮橋(あめのうきはし)」に立って、「天沼矛(あめのぬぼこ)」をもって青海原をかき回し、その矛を引き上げたところ、矛の先から滴り落ちる潮が凝り固まって一つの島となった。これがオノゴロ島で、二神はその島に降りて夫婦の契りを結んで国産みを行った。初めに造られたのが淡路島で、その後次々に島を生んで日本国を造られたとされる。おのころ島の所在地については諸説ある。そもそも架空の島であると言う説、淡路島北端の淡路市にある絵島、南あわじ市榎列(えなみ)の自凝島神社のある丘、あるいは淡路島全体であるという説もある。しかし』、『沼島には古来おのころ島の伝えがあり、天沼矛に見立てた奇岩、おのころ山に鎮座して二神を祭る「おのころ神社」が存在するため、沼島とする説もある』とある、大変な島で、「平生」(ひらもえ)という大石は確認出来ないものの、奇岩の奇景の豊富なところで、「上立神岩」・「屏風岩」・「あみだバエ」など、『島の南側の海岸線は太平洋の黒潮をまともに受ける場所であり、奇岩・岩礁を形作っている。なかでも高さ約』三十メートルの『上立神岩(かみたてがみいわ)は「天の御柱」とも言われ、江戸時代に『和漢三才図会』には「龍宮の表門」と書き記されている』とあるのは、本話が「龍王祭」であり、祭祀の途中にウミガメが数万匹(これは幾らなんでもオオゲサ過ぎ!)も群泳するという驚くべき怪異現象と合わせ、龍宮説話との非常に強い親和性をこの島は感じさせると言えるのである。
「方三間〔げん〕」五メートル四十五センチ四方。
「由良の八幡」現在の兵庫県洲本市由良にある由良湊神社であろう。サイト「玄松子の記憶」の「由良湊神社」の記載に、元、この神社は王子権現社と称していたが、『中世に八幡神信仰により、由良城主池田忠長が八幡宮を』別なところに『創建、万治元』(一六五八)『年に蜂須賀光隆が、当社境内に八幡宮を遷し、明治三』(一八七〇)『年に、八幡宮は当社へ合祀された』とあるからである。
「秦武文(はたのたけふみ)が伴いし御息所(みやすどころ)」「秦武文」は「太平記」で元徳三(一三三一)年の元弘の乱の際、摂津国兵庫の海で、死を賭して主君尊良(たかなが)親王(延慶三(一三一〇)年?~延元二/建武四(一三三七)年):後醍醐天皇の皇子。斯波高経率いる北朝方との金ヶ崎の戦いで新田義貞の子義顕とともに戦ったが、力尽きて義顕とともに自害した)の妻(これがここで言っている「御息所」である。老婆心乍ら、武文の妻ではないので注意されたい)を守って入水したとされる南朝忠臣(右衛門府の下官)。「たけぶん」とも読む。実在性はない。因みに、所謂、恨みの人相を甲羅に刻むとされる、節足動物門甲殻亜門軟甲綱十脚目短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ属ヘイケガニ
Heikeopsis japonica(及びその近縁種)は、摂津の大物(だいもつ)の浦(現在の大阪湾に近い兵庫県尼崎市大物町(ちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在は大阪湾に流れ込む神崎川河口から少し入った内陸にあるが、かつては直近に浜があった)を発祥元とする怪異伝承に基づくと、別名を「武文蟹」と称し、彼の生まれ変わりとする。私の『毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)』に「太平記」の当該話を紹介してあるので、知らない方は、そちらを参照されたい
「傍に小祠(ほこら)あり。今、弁財天に祭る」ここで言っているものかどうかは不明だが、女優の下川友子さんのオフィシャル・ブログの「日本創成の島!?おのころ島と伝えられる沼島へ!弁財天 沼島八幡宮」によれば、沼島の港のすぐ直近の、この辺り(グーグル・マップ・データ)に弁天社が現存する(祭神は宗像三女神の一人である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)とあるが、彼女は本地垂迹説では弁才天と同一視されることが多く、古くから弁才天を祀っていた神社では廃仏毀釈以降に市杵島姫神や宗像三女神を祀っている神社も多い)。]