甲子夜話卷之四 31 西金居士極の事
4-31 西金居士極の事
畫家狩野氏、古畫の鑑札を出すに、西金居士と稱する者あり。西金と云人西土に有るを聞かず。無稽の言なりと洞齋語れり【佐竹侯の畫臣菅原氏。畫學に通ぜり】。後又、住吉内記が【廣尚】云しは、西とは漢土をさし、金とは金代のこと、居士は廣く其人と云如し。狩野家の所鑑を傍觀するに、畫趣と筆旨とを以て、西金と稱して必一人にあらずと云ふ。今試に狩野家鑑札の文を載す。曰、許魯齋像致二一覽一候所、西金居士正筆に而候畢。辰十一月四日、養川院惟信押と。是ますます可ㇾ笑は、許衡は元人なるに金人の畫あるべきや。餘り文盲なることなり。
■やぶちゃんの呟き
「西金居士極の事」「せいきんこじきはめのこと」。ここに書かれているように、「西金居士」というのは、中国には実在しなかった、日本人が捏造した架空の中国画家である。しかし、ここにあるように捏造は念が入っており、恰も過去に於いて、しかも本邦で生きていて、書画を描いたかのように「印章」まで作られ、印譜(但し、とんでもない偽書)にまで収録されているのである。「東京国立博物館」公式サイト内の東洋室研究員塚本麿充氏の『江戸時代が見た中国絵画(3)いくつもの「中国絵画史」へ―江戸の中国絵画研究―』という記事を読まれたい。いや、それどころか、近代以降、現在でも実在を信じている人が、日本のみならず、中国にもいるらしい。大村西崖編になる大正一〇(一九二一)年巧芸社刊「西金居士眞蹟十六羅漢」なるものが国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るし、中文の「百度百科」にも「西金居士」の項があり、南宋の画人で、寧波の出身であり、日本に絵が流れて残るとか、「浙江古代画家作品集」という図録に載る、というようなことが書かれてあるのである。これ、本当に架空の人物であるなら、国際的に、相当、罪作りなことである。「極」(きはめ)は見極め、鑑定のことらしい。
「狩野氏」室町幕府御用絵師狩野正信を始祖とする日本絵画史上最大の画派狩野(かのう)派。室町中期(十五世紀)から江戸末期まで約四百年に亙って、常に画壇の中心にあった専門画家集団。後の鑑定文に「養川院惟信」と出るから、これは狩野惟信(これのぶ 宝暦三(一七五三)年~文化五(一八〇八)年)で、木挽町(こびきちょう)家狩野派第七代目絵師である。因みに、筆者松浦静山清(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜である。
「鑑札」鑑定書。
「云人」「云ふ人」。
「西土」後にも出るが「漢土」、中国のこと。
「洞齋」「佐竹侯の畫臣菅原氏」菅原洞斎(すがわらどうさい 宝暦一二(一七六二)年~文政四(一八二一)年)は江戸後期の狩野派の絵師。思文閣の「美術人名辞典」では(生没年もそれ)、江戸生まれで、『仙台侯に仕え、鑑定家としても知られる』とあるが、別なネット記載では、秋田佐竹藩士で名絵師谷文晁の妹(紅藍)の婿となった人とあった。よく判らぬ。滝沢馬琴の書簡の来信に同名がある。
「住吉内記」「廣尚」住吉広尚 (天明元(一七八一)年~文政一一(一八二八)年)は江戸後期の住吉派を起した画家。土佐絵の絵師住吉広行の長男で、父の跡を継いで幕府御用絵師となった大和絵の鑑定に優れていた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
「金代」ここは一一一五年から一二三四年にかけて、中国の北半分を支配した女真族の征服王朝である金(きん)であろう。そうでないと最後の「可ㇾ笑は」(「わらふべきは」。失笑せざを得ないのは)が生きてこないからである。
「居士は廣く其人と云如し」これは「居士とは広く、ある人を指して「その人」と言うような汎称二人称のようなものに過ぎない」の意であるようだ。但し、本来は「居士」と言った場合は「処士(しょし)」と同義で、「学徳がありながら、官に仕えず在野にある人」への敬意を含んだ呼称である。
「所鑑」鑑定文書。
「必」「かならず」。
「一人にあらず」一人の絵師ではあり得ない。一応、そこは見抜いていたらしい。
「許魯齋像致二一覽一候所、西金居士正筆に而候畢。辰十一月四日、養川院惟信押」書き下すと、
許魯齋の像は一覽致し候ふ所、「西金居士」が正筆にて候-畢(さふら)ひぬ。辰十一月四日。養川院惟信押(あふ)
最後は養川院惟信の花押であろう。「許魯齋」は後に出る許衡(きょこう 一二〇九年~一二八一年)で、彼は元初の学者(「魯斎先生」とも称した)である。