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2018/05/05

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 ホーマーもプラトーも如何ともする能わず

 

     ホーマーもプラトーも如何ともする能わず

 

 三十年後半から三十一年へかけて、居士の健康は此較的無事であった。「歌よみに与ふる書」を草し、「百中十首」の歌を作るあたりは、毎夜二時、三時頃まで起きており、時には徹夜もするというような勢で、遂に血痰を見るに至ったが、その後格別の事もなしに済んだのは、全く健康状態がよかったためであろう。三月十七日には好時に乗じて門を出で、人力車の郊外逍遥を試みた。足は相変らず立たぬから、単に乗るにも人の背を借らなければならず、車の上でも背骨が痛くて困ったが、一年ぶりの外出だけに居士は非常に愉快だったらしい。「太刀佩きていくさに行くと梅の花見てし年より病みし我かも」「車して戸田の川邊をたどりきと故郷人にことつげやらん」と詠んだのはこの時である。居士が梅の花を見たのも、二十八年従軍の春以来ということになるのであった。

[やぶちゃん注:「ホーマー」前八世紀後半頃のギリシャの盲目の吟遊詩人ホメロス(ラテン文字転写:Homēros)のこと。小アジア西岸地方に生まれとされ、ギリシャ各地を遍歴したと伝えられる。二大英雄叙事詩「イリアス」「オデュッセイア」の作者とされ、古来、最高の詩人と称されてきている。その二大詩は古代ギリシャの国民的叙事詩として、文学・教育・宗教・美術などに多大の影響を与えた。

「プラトー」古代ギリシャの哲学者でソクラテスの弟子であったプラトン(ラテン文字転写:Platōn 紀元前四二七年頃~紀元前三四七年)のこと。アテナイ郊外に学園(アカデメイア)を創設し、現象界とイデア界、感性と理性、霊魂と肉体とを区別する二元論的認識論に於いて、超越的なイデアを「真実在」とし、ヨーロッパ哲学に大きな影響を残した。彼の主張する「イデア」は、人間の理想であるところの、それぞれが学問・道徳・芸術が唯一の追求目標とすべき三つの価値、「真善美」の根拠を成すものであった。

「戸田の川邊」戸田川は荒川或いは荒川流域の古名。本河川本流は現在、埼玉県南部の戸田市の南(一部は貫流)を南東へと流れ、それを境として南が東京都になり、戸田の辺りは古く「戸田の渡し」で知られた。但し、子規が人力車で行ったのは距離(戸田の渡しは子規庵から北西へ十二キロはある)見て、四キロほど北上した、荒川と隅田川が並流する千住附近であったかと思われる。]

 

 「歌よみに与ふる書」に関する非難、質問に対しては、三月六日に先ず「あきまろに答ふ」の一文を掲げ、次いで「人々に答ふ」の題下に一括して『日本』に連載した。「人々に答ふ」の冒頭に「歌の事に就きては諸君より種々御注意御忠告を辱(かたじけの)うし御厚意奉謝(しやしたてまつり)候。猶又或る諸君よりは御嘲笑御罵詈を辱うし誠に冥加至極に奉存候。早速御禮旁々(かたがた)御挨拶可申上之處(まうしあぐべきのところ)、病氣にかゝり頃日來(けいじつらい)机離れて橫臥致居候ひしため延引致候。幾百年の間常に腐敗したる和歌の上にも特に腐敗の甚だしき時代あるが如く、吾等の如き常病人(じやうびやうにん)も特に病氣に罹る事有之(これあり)、閉口の外無之(これなく)候」とある「病氣」は、血痰を見ることを指すものと思われる。

[やぶちゃん注:「あきまろに答ふ」国立国会図書館デジタルコレクションの大正一一(一九二二)年アルス刊の正岡子規歌論集の画像のこちらで視認出来る。新字であるが、電子化したものなら、「青空文庫」のこちらで読める。

「人々に答ふ」国立国会図書館デジタルコレクションの上と同じ画像のこちらで視認出来る。新字であるが、電子化したものなら、「青空文庫」のこちらで読める。

「頃日」近頃。この頃。]

 

 「人々に答ふ」は飛び飛びではあったが、三月から五月にわたり、回を重ぬること十三に及んだ。居士の答は快刀乱麻を断つが如く、一として遅疑(ちぎ)するところがない。十回の「歌よみに与ふる書」の説いて尽さざるところを補って余(あまり)あるのみならず、その他の問題についても、問わるるに従って直(ただち)に解決を与えている。質疑というよりは論難に近いものが多いだけに、「俳句問答」などに比べると、居士の答も鋭くかつ強い。

[やぶちゃん注:「遅疑」疑い迷い、直ぐには決断しないこと。ぐずぐずと躊躇(ためら)っているさま。]

 

 或(ある)人は「古來、歌といひ來たるは子の作る所の如き者に非ず。されば子の作る所は一種特別の者なれば、歌といはずに何とか外の名を用ゐては如何」といった。居士はこれに答えて「面白き事を承る者かな。吾等は歌といふ語を拝借しても宜しからんとの考にて歌と言ひ來りたるも、それが惡しとならば如何にも名づけ給はるべし。俳詩歌となりと狂歌となりと味噌となりと糞となりと思ふやうに名づけられて苦しからず。吾等は名稱などに拘らざるなり。されど言葉の遊びを主とする『古今集』の俳諧歌と、趣味を重んずる吾等の作とは根柢に於て同じからざるを忘れたまふな。地ぐちシヤレを喜ぶ所謂狂歌と、地ぐちシヤレを擯斥(ひんせき)する吾等の作と立脚地を異にする事を忘れたまふな。それを承知の上でなら何とでも名づけ給はるべし」と一矢酬いている。

[やぶちゃん注:以上の引用は「人々に答ふ」の「其九」の冒頭部。先に指示した国立国会図書館デジタルコレクションで校合・校訂した。

「俳諧歌」和歌の一体で、滑稽味を帯びた和歌を指す。「古今和歌集」巻十九に「誹諧歌」として多数収録されて以来、以後の勅撰集にしばしば取り上げられた。

「地ぐち」(歴史的仮名遣は「ぢぐち」)は「地口」で、世間でよく使われる諺や成句などに、発音の似通った語句を当てて、作りかえる言語遊戯のこと。上方では「口合い」と称する。

「擯斥」排斥に同じい。]

 

 或人は「詩聖ホーマーの如きも單に美を愛せりとするか、美にして善なるものを愛せしにあらざるか」と搦手(からめて)から肉薄した。これは居士が前に普通の場合教訓的の者は文学の範囲外とし、「一般にいへば歌は倫理的善惡の外に立つ處に妙味はあるなり。俗世間の渦卷く塵を雲の上で見て居る處に妙味はあるなり」云々と述べたことに対する反駁であろう。古来の伝統を金科玉条とする一面、泰西の文豪の説を根拠とする説が出て来るのは、当時の世の中をよく現しているように思う。居士はこれに対してこう答えた。

[やぶちゃん注:これも「人々に答ふ」の「其十」の一節。但し、「一般にいへば歌は倫理的善惡の外に立つ處に妙味はあるなり。俗世間の渦卷く塵を雲の上で見て居る處に妙味はあるなり」は「人々に答ふ」に先行する「其六」の最終段落に出る言葉。これらは『日本』への連載であるから、即応して疑義が子規に伝わるのである。なお、校合した国立国会図書館デジタルコレクションで見ると、この「詩聖ホーマーの如きも單に美を愛せりとするか、美にして善なるものを愛せしにあらざるか」という問いを示した人物を丸括弧割注であるが、『稻城子』と示してある。これは恐らく、元教員でジャーナリストの千葉稲城(ちばいなしろ 明治六(一八七三)年~昭和九(一九三四)年)ではないかと思われる。「青森県近代文学館」公式サイト内のこちらによれば、南津軽郡花巻村(現在の黒石市)に生まれ、明治一三(一八八〇)年、『花巻小学校に入学。翌年、青森県庁から一等賞下賜があり、成績抜群で神童の名が高かった』。明治二十三年、『黒石小学校を卒業後、青森県立中学校二年に編入学したが』、中途退学し、明治二十四年に上京、『国学院国文科入学』したが、『一年で病気退学』して『帰郷』後、明治二十六年には『小学校準訓導として採用される。以後、三つの小学校の訓導を経』、明治三〇(一八九七)年、『再上京し、東京帝国大学文科大学教授で文学博士物集高見方に寄寓、書生として直接薫陶を受けながら、早稲田専門学校文科一年に入学』したが、翌年(これが本章の時制と重なる時期である)には再度、『帰郷し、二つの小学校を経て』、明治三十六年、『大湊小学校に校長として赴任』し、二年間、在職した。その後、『教職と本州を離れて渡道し、函館毎日新聞社に入社後、新聞記者として活躍し』始め(明治四十年十一月)、『主任記者として「北海史談」を連載、好評を博し』、明治四十三年には「北海史談」第一集を『刊行、主著とな』った。翌年の『「東宮殿下行啓記念、函館奉迎記」』や、後の「最近富之北海道」北海道名旧蹟」等の著作もある。『主著「北海史談」の序文に、遠藤隆吉文学博士が「昨年夏偶函館に赴き留まる事旬日、函館毎日新聞紙連載する所の、北海史談なる者を見るに、北海の史蹟を詳述し、蝦夷の風俗神話に及び、文章流暢にして記事亦豊富」「人の知らざる所に向ひ綿密なる注意と、博厚なる知識とを以て此書を編せらる」と述べている』。『また、稲城は「散逸せる史料を以て完璧を望むは実に一朝一夕の業にあらず唯予の期する所は荊棘蓬々たる本道歴史の研究に一條の径路を拓き後の学者として其奥を窺ひ」「倶に研究の歩を進めて史実を闡明せらんことを敢へて江湖に愬ふ」と「編者の告白」で結んでいる』とある。『社内にては主筆、相談役として重きをなし、対外的にも広範囲に活動し、その後、北海水産新聞社嘱託を昭和』六(一九三一)『年に退職し』、逝去した。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

美にして善なるも善し。美にして善惡の外に立ちたるも善し。吾等はホーマーの詩を知らず、果してホーマーの詩は終始「善」を離れざるか。ホーマーの詩「善」を離れずとするも、吾等はホーマーに倣はんと思はず、吾等は善惡の外に美を認むればなり。吾等はプラトーが眞善美とやらを説いたからとて、それに從はざるべからずとは思はず。吾等の美と信ずる所は、ホーマーもプラトーも如何とする能はざるなり。

 

 この答は実に胸のすくような思(おもい)がある。居士は『古今集』以下の悪歌の盲拝を嘲ると同じ意味で、泰西の学説に盲従するのを陋(ろう)[やぶちゃん注:心や見識が狭いこと。精神的に賤しいこと。]とした。それも国粋論者のような偏見に立つわけではない。自己の信ずる標準に照して、可なるものを可とし、非なるものを非とするのみである。「吾等の美と借ずる所はホーマーもプラトーも如何ともする能はざるなり」というのは、居士のあらゆる場合に通ずる態度であった。確立した自己を有する者でなければ、所詮この言を吐くことは不可能である。

 「人々に答ふ」の内容は『日本』を通じて未知の人に答えるばかりでなく、直接居士に書を寄せた知己先輩に対する答も自(おのずか)ら包含されている。「ものゝふの八十氏川」の歌に関する答の中には、愚庵和尚に対するものも交っているらしいが、鳴雪翁の「和歌が古来より人を感動せしめたる例少しとの説は誤れり」という反駁に対してもまた『日本』紙上で答えた。感動せしめたという例はいくらもあるけれども、その歌があまりつまらぬものだから考慮に入れなかったのである、こういう感激は感動する相手とその場合に因ることが多い、猛きもののふの心を和げなどというが、猛きもののふなどは大抵趣味の卑しい者だから、彼らを感動せしめた歌も趣味卑く取るに足らぬものである、贈答送別などの場合に感ずるということもあるが、これもその場合に適切なるがために感ずるので、必ずしも価値の標準にならぬ、というのが居士の論旨である。

[やぶちゃん注:『「ものゝふの八十氏川」の歌に関する答』は「人々に答ふ」の「其七」「其八」。これは「万葉集」巻三の「歌聖」柿本人麿の一首(二六四番歌)、

 

  近江國より上り來し時に

  宇治河の邊(ほとり)に至りて

  作れる歌一首

もののふの八十氏川(やそうぢがは)の網代木(あじろぎ)にいざよふ波のゆくへ知らずも

 

である。正岡子規は「四たび歌よみに與ふる書」で、この歌を挙げ、

   *

といふが屢〻引きあひに出されるやうに存候。此歌萬葉時代に流行せる一氣呵成の調にて少しも野卑なる處は無く字句もしまり居り候へども全體の上より見れば上三句は贅物に屬し候。「足引の山鳥の尾の」といふ歌も前置の詞多けれどあれは前置の詞長きために夜の長き樣を感ぜられ候。これは又上三句全く役に立ち不申候。此歌を名所の歌の手本に引くは大たわけに御座候。總じて名所の歌といふは其の地の特色なくては叶はず此歌の如く意味無き名所の歌は名所の歌になり不申候。併し此歌を後世の俗氣紛々たる歌に比ぶれば勝ること萬々に候。且つ此種の歌は眞似すべきにはあらねど多き中に一首二首あるは面白く候。

   *

と難じたことへの批判に対する反論である。この一首、「もののふの八十氏」が「氏」から「宇治河」を引き出すためだけの序詞であり、さらにそこから、宇治川の風物として知られた「網代木」(木や竹を組んだ川漁の設置型漁具)を連想させておいて、「そんな宇治川の網代木に儚く漂い続ける波」をやっと読者に示し、やおら、自身の「そんな波のような」漂泊の旅の「行く末の知れぬことだ」と歎くという、和歌嫌いの私に言わせれば、卓袱台引っ繰り返しの「だからだんだってんだ!」というトンデモ和歌以外の何物でないのである。だからここは大いに私も子規に共感するものである。

『鳴雪翁の「和歌が古来より人を感動せしめたる例少しとの説は誤れり」という反駁に対してもまた『日本』紙上で答えた』は「人々に答ふ」の「其十三」。]

 

 こういう特別な背景を離れて、何時でも誰でも感動する歌を見ても、多くはこれを浅薄と認めざるを得ない、という見地から居士は「しきしまのやまと心を人問はば朝日に匂ふ山櫻花」の歌を例に引き、その欠点を指摘した末、「余も曾てこの歌に感じたる時代あり。されど數年間文學專攻の結果は余の愚鈍をして半步一步の進步を爲さしめたりと信ず」といっている。居士の言は常に率直である。宣長の山桜の歌をつまらぬというだけの見識が立った者は、恐らくは自分もかつてこの歌に感じたという事実を告白せぬであろう。妄(みだり)に生知安行(せいちあんこう)の人を装わぬところに居士の面目は窺われる。

[やぶちゃん注:宣長のそれ(但し、一首の表記は『敷島の大和心を人問はゞ朝日に匂ふ山櫻花』である)を論じたのも「人々に答ふ」の「其十三」。私は昔も今も、未来永劫、この歌は、おぞましいまでに『淺薄拙劣』(「人々に答ふ」の「其十三」の正岡子規自身の評言)であると感ずるものである。

「生知安行」生まれながらにして人の踏み行うべき道をよく知り、考えあぐんで躊躇することなく、心のままにそれを行う、聖人の境地を指す語。「生知」は「学ぶことなく、生まれながらにして人の道を知っていること」(アプリオリな絶対の倫理を有すること)を、「安行」は「心のままに行うこと。強いた努力や苦労をすることなく直ちに人の道を行うこと」(完全にして絶対の自由自在な倫理行使が出来ること)を意味する。

 なお、以下も同じ「其十三」(これが「人々に答ふ」の最終回である)から。]

 

 居士は更に語を次いでいう。「少しく文字ある者は都々逸(どどいつ)を以て俚野(りや)唾(だ)すべしとなす。しかも賤妓冶郎(やらう)が手を拍つて一唱三歎する者は此都々逸なり。苟(いやしく)も詩を作る者は雲井龍雄、西郷隆盛らの詩を以て淺薄露骨以て詩と小するに足らずとなす。しかも書生が放吟し劒舞し快と呼び壯と呼び彼等をして怒髮天を衝かしむる者は西郷・雲井等の詩ならざるべからず。やや美文を解する者は、ヽ山(ちゆざん)居士の拔刀隊の歌を以て粗雜鹵莽(ろまう)取るに足らずとなす。しかも兵士が挺身肉薄敵城を乘り取らんとする時、彼らの勇氣を鼓舞する者は拔刀隊一曲の歌ならざるべからず。大喝采的の作は概ねかくの如し」佐多くの人が感心するという一事は、歌のために重きをなすに足るものではない。居士は「多數素人(しろうと)へのあてこみは少數玄人[やぶちゃん注:先に示した国立国会図書館デジタルコレクションのアルス版正岡子規歌論集では『黑人』であるが、ここは特異的に底本のままにした。]の最も厭忌(えんき)する方法を取らざるべからず」といい、「余は寧ろ大喝采的の作といふ一事を以て其卑俗を證せんとす」と断言した。大喝采的詩歌の要素を解析して遺憾なきものである。

[やぶちゃん注:「都々逸」俗曲の一つ。寛政(一七八九年~一八〇一年)の末期から文化(一八〇四年~一八一八年)初期の頃、「潮来節(いたこぶし)」や「よしこの節」を原型として成立した歌謡。天保(一八三〇年~一八四四年)末期に、江戸の都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)が寄席で歌ってから、特に流行することになった。七・七・七・五から成る二十六文字で、主に男女の情趣やその機微を表現したものが多い。

「俚野(りや)唾(だ)すべし」「俚野(りや)」はここでは世俗・世間・日常生活(空間)の意。「唾(だ)すべし」軽率に道に唾を吐き捨てるように、何の重い思いや考えもなくして、ただ面白半分に歌えばよい。

「冶郎」遊冶郎(いうやらう(ゆうやろう))の略。酒色に溺れて身持ちの悪い男。放蕩者。道楽者。

「雲井龍雄」(天保一五(一八四四)年~明治三(一八七一)年)は幕末から明治初期にかけての特殊な佐幕系志士。本名は小島守善(もりよし)。ウィキの「雲井龍雄」によれば、『壮志と悲調とロマンティシズムに溢れた詩人とも評されている。雲井龍雄という名は明治元年』(一八六八年)『頃から用いたもので、生まれが辰年辰月辰日から「龍雄」とし』、『「龍が天に昇る」との気概をもってつけたといわれる』とある(以下、「ブリタニカ国際大百科事典」の引用を挟む)。『米沢藩士中島惣右衛門の次男で』、後に『同藩士小島才助の養子となった』。慶応元(一八六五)年に『江戸に遊学して安井息軒に師事』し、『朱子学』・『陽明学を修め』、後、『藩の依頼で公武合体に奔走』した。慶応四(一八六八)年四月』には『新政府の貢士として議政官下局に名を連ね』、『徳川氏の立場を弁護』した。『官軍東征の動きを知ると』、『帰東して迎撃の態勢を整えるよう』、『奔走』、『「討薩の檄」を作成して薩長間の離間を策した。奥羽越列藩同盟の結成に尽力して策謀を練り』、『敗戦とともに米沢に謹慎した』が、明治二(一八六九)年七月には『東京に出て再挙をはかり』、『長州』・『土佐系高官と通謀して新政府の転覆を策した』。『雲井の思想は佐幕』・勤王・攘夷・封建で、つまりは、『公武合体のうえに立った攘夷論』という『きわめて特異なものであった』という(ここから以下、ウィキの「雲井龍雄」に戻る)。なお、『新政府は』彼の明治二年の上京の折りに『龍雄を衆議院議員に任じた』のであるが、『薩長出身の政府要人と繋がりがある議員が多くあるなか』、『幕末期での薩摩批判や、その一たび議論に及べば徹底的に議論を闘わせた振る舞いが災いし、周囲の忌避に遭い』、『わずかひと月足らずで議員を追われ』ているとある。『一方、戊辰戦争で没落したり』、『削封された主家から見離された敗残の人々が龍雄の許に集まるようになり、龍雄は』明治三(一八七〇)年二月、『東京・芝の上行、円真両寺門前に「帰順部曲点検所」なる看板を掲げ、特に「脱藩者や旧幕臣に帰順の道を与えよ」と』四『回にわたり嘆願書を政府に提出した。これは参議・佐々木高行、広沢真臣らの許可を得たものであったが、実は新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が集まっていた。これが政府転覆の陰謀とみなされ』、『翌年』四月、『謹慎を命ぜられ』、『米沢藩に幽閉ののち』、『東京に送られ、深く取り調べも行われず』、『罪名の根拠は政府部内の準則にすぎない「仮刑律」が適用され』、同年十二月二十六日(一八七一年二月十五日)に『判決が下り、龍雄は判決』の二『日後に小伝馬町牢獄で斬首刑に処され』、『小塚原刑場で梟首された』。享年未だ二十七であった。遺体の『胴は大学東校に送られ』、『解剖の授業に使用されたという。なお、龍雄を葬った政府は威信を保つため』、『その真蹟を』、後に『覆滅し、龍雄の郷里・米沢でも』、『その名を口にすることは絶えて久しくタブーとされていたという。また、同志の原直鉄、大忍坊ら』十三名も斬首され、江秋水ら二十二名も獄死している、とある。『雲井龍雄の漢詩は、明治初期には広く読まれ、自由民権運動の志士たちに好まれ』、『若き日の西田幾多郎も雲井龍雄の墓を訪れ』て、

『去る二十日、雲井龍雄に天王寺(谷中の墓地)に謁し、その天地を動かす独立の精神を見て、感慕の情に堪えず、(中略)予、龍雄の苦学を見て慚愧に堪えず。然れども遅牛、尚千里の遠きに達す。学、之を一時に求むべからず。要は、進んで止まざるあるのみ。』

『と記している。(明治二十四年、山本良吉宛書簡)』。また、かの『幸徳秋水も、死刑執行を目前に控えた獄中で綴った未完の「死刑の前に」という一文の中で』、

『木内宗五も吉田松陰も雲井竜雄も、江藤新平も赤井景韶も富松正安も、死刑となった。』

『と記し、自らの運命を受けいれるために思い浮かべる先人の一人として、雲井の名を挙げている』。『漢詩が徐々に一般的に読まれなくなった頃から、雲井の記憶は一般的には薄れていったようであるが、戦後においては藤沢周平が』「檻車墨河を渡る」(昭和五〇(一九七五)年文藝春秋刊。後に「雲奔(はし)る 小説・雲井龍雄」と改題)『という雲井龍雄を主人公とした中篇小説を描いている』とある。

「ヽ山(ちゆざん)居士」明治一五(一八八二)年八月に出版された「新体詩抄」(この詩も「抜刀隊の詩」として同書に所収されている)の作詩者の一人として知られる、社会学者で文学博士であった外山正一(まさかず 嘉永元(一八四八)年~明治三三(一九〇〇)年)の号(現代仮名遣では「ちゅざん」)ウィキの「抜刀隊軍歌によれば、西南戦争最大の激戦となった「田原坂の戦い」では、官軍側としては予想外の白兵戦が発生、西郷軍に対抗するために「別働第三旅団」の隊号を持つ、帝国陸軍隷下として投入されていた、士族出身者が多かった警視隊の中から、特に剣術に秀でた者を選抜して「抜刀隊」が臨時編成され、戦闘を行なったが、この軍歌「抜刀隊」は、その抜刀隊の活躍を歌ったもの。『外山正一の歌詞に、フランス人』で、お雇い外国人であったシャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルー(Charles Edouard Gabriel Leroux 一八五一年~一九二六年):音楽家でフランス陸軍大尉。明治一七(一八八四)年に第三次フランス軍事顧問団の一員として来日、草創期の日本帝国陸軍軍楽隊を指導し、明治二二(一八八九)年に帰国)『が曲をつけたもので、鹿鳴館(元の日比谷の華族会館)における大日本音楽会演奏会で』明治一八(一八八五)年に『発表された』。『最初期の軍歌であり本格的西洋音楽であったことから、後の様々な楽曲に影響を与えた。また完成度が高く庶民の間でも広く愛唱され、 西洋のメロディーによる日本で最初の流行歌となった』。『楽曲は転調を多用しており、当時の日本人の感覚からすると、やや歌いづらいもの』であったが、『西洋音楽が珍しかった時代、小学校初等科音楽として使用されている』。『後に兵部省の委嘱で行進曲に編曲され、兵部省が陸軍省と海軍省に改編されてからは』、『帝国陸軍の行進曲として制定された(陸軍省制定行進曲)。現在も陸上自衛隊、そして抜刀隊ゆかりの警視庁を含む各道府県警が使用している』とある歌詞は先の外山のウィキに載る。曲は結構知られたものであるが、

「鹵莽」(現代仮名遣では「ろもう」)元来は「塩分の多い土地と草茫々の野原・荒蕪地」の意であるが、転じて「お粗末なこと・粗略・軽率」の意となった。]

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