蛙聲 中原中也
蛙 聲
天は地を蓋ひ、
そして、地には偶々池がある。
その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであらう?
その聲は、空より來り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙聲は水面に走る。
よし此の地方(くに)が濕潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、餘りに乾いたものと感(おも)はれ、
頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が來れば蛙は鳴き、
その聲は水面に走つて暗雲に迫る。
[やぶちゃん注:本詩篇が「在りし日の歌」の詩篇の掉尾である。「蛙聲」は「あせい」。本文中のそれも同じ。但し、単独の二箇所の「蛙」は「かへる(かえる)」でよい。諸本もそう読んでいる。発表は昭和一二(一九三七)年七月の『文學界』(角川文庫「中原中也詩集」年譜による)で、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、創られたのは同年五月十四日とある。また、この日には今一つの生前発表(没月)された今一つの詩「初夏の夜に」も創られているとある。されば、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」に所収する「初夏の夜に」を基礎底本としつつ(サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「生前発表詩篇」の電子データを加工用に使用させて戴いた。また、新潮社版になく、そちらにある最後のクレジットも使用させて戴いた)、恣意的に漢字を正字化して示すこととする。
*
初夏の夜に
オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か――
死んだ子供等は、彼(あ)の世の磧(かはら)から、此の世の僕等を看(み)守つてるんだ。
彼の世の磧は何時(いつ)でも初夏の夜、どうしても僕はさう想へるんだ。
行かうとしたつて、行かれはしないが、あんまり遠くでもなささうぢやないか。
窓の彼方(かなた)の、笹藪(ささやぶ)の此方(こちら)の、月のない初夏の宵の、空間……其處(そこ)に、
死兒等は茫然(ばうぜん)、佇(たたず)み僕等を見てるが、何にも咎(とが)めはしない。
罪のない奴(やつ)等が、咎めもせぬから、こつちは尚更(なほさら)、辛(つら)いこつた。
いつそほんとは、奴等に棒を與へ、なぐつて貰(もら)ひたいくらゐのもんだ。
それにしてもだ、奴等の中にも、十歳もゐれば、三歳もゐる。
奴等の間にも、競走心が、あるかどうか僕は全然知らぬが、
あるとしたらだ、何(いづ)れにしてもが、やさしい奴等のことではあつても、
三歳の奴等は、十歳の奴等より、たしかに可哀想と僕は思ふ。
なにさま暗い、あの世の磧(かはら)の、ことであるから小さい奴等は、
大きい奴等の、腕の下をば、すりぬけてどうにか、遊ぶとは想ふけれど、
それにしてもが、三歳の奴等は、十歳の奴等より、可哀想だ……
――オヤ、蚊が鳴いてる、またもう夏か……
(一九三七・五・一四)
*]
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